秋田孝季の中近東歴訪と和田家文書の謎 斎田幸雄(会報64号)
古田史学の会・仙台」の遺跡巡り 津軽平野と東日流外三郡誌の旅 勝本信雄(会報66号)
多賀城碑の西 菅野拓 「粛慎の矢」 太田齊二郎(会報75号)
東日流外三郡誌の科学史的記述についての考察 吉原賢二(古田史学会報97号)
古田史学の会・仙台
春期遺跡めぐり(宮城県北)報告
宮城県からも出ていた遮光器土偶
古田史学の会・仙台 勝本信雄
(1) 亀ヶ岡の遮光器土偶
遮光器土偶といえばすぐ亀ヶ岡遺跡が頭に浮かびます。その亀ヶ岡はご存知のように、青森県西津軽郡木造町にあって、平成十七年二月から一町四ヶ村が合併して、つがる市になりました。
JR五能線で秋田県東能代駅から青森県弘前市の手前の川部駅まで、右手に世界遺産の白神山地、津軽富士と言われる岩木山を望みながら日本海側を北上して、そこから内陸部に向かう途中の駅が木造駅で、そのひとつ手前が五所川原市です。五能線木造駅は、亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶をかたどった高さ十七・三メートルの巨大な土偶がモチーフとして駅舎正面に飾られていることで有名です。駅舎のモチーフだけでなく、遮光器土偶は町(木造)のシンボルとしていたるところで見ることが出来ます。
もともと亀ヶ岡遺跡は縄文晩期の土器類の出土品の多いことで知られ、江戸時代から数多くの土器が発見されていたと言われますが、土器、土偶の数ばかりでなくバラエティに富んだ器の形、薄型(三㎜)の土器製作技術(遮光器も中空になっています)華麗な文様等で昔から有名で、それらが東北全般から北海道南部への分布をはじめ、関東・北陸・中部地方にまで影響を及ぼしたので、亀ヶ岡式文化の発祥地とされているのですが、明治二十年に有名な遮光器土偶が出土し、明治二十二年から本格的な発掘調査が行われたといいますから、かなり古くから知られた遺跡だったようです。
さて、遮光器土偶ですが、その異様な形の土偶は高さが三十四・五センチメートル、首が短く頭部には王冠様の飾りがついていて、肩を張り手足等も太く抽象的な表現で全体がずんぐりむっくりしていますが、何よりの特徴は顔面がことさら大きく、両眼がメガネをかけたように極端に強調されていることと、全体が複雑精巧に作られていることです。北の民族エスキモーなどが使う雪メガネに似たような目、というところから遮光器土偶と名付けられました。
精巧な作り方としては体全体を飾る文様(亀ヶ岡式土器文様と共通)と、ぴったり身に着けた衣服の精緻さ、織物か編み物と思われる左右対称の文様とデザインの斬新性、縄文時代とは思えない製作技術の高さ、これらの抽象性と芸術性等が亀ヶ岡文化の水準の高さを全国的に有名にしたことはご存知の通りです。
亀ヶ岡出土の遮光器土偶は左足が欠けており、他地区のいろいろな土偶の出土品も体の一部をわざと欠いた姿で出土するところから、土偶そのものは呪術的意味があるとか病気の身代わり説、安産祈願、護符・玩具説などいろいろな説があり、特に遮光器土偶は女神像説なども唱えられていますが、遮光器土偶も含めて土偶全体が何のために作られたのかは学会においてもいまだ定説が無く、謎の部分が多いと言われております。
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その遮光器土偶は亀ヶ岡だけでなく、青森県三戸町、大畑町二枚橋遺跡、碇ヶ関村古懸遺跡、秋田県星宮遺跡、藤株遺跡、岩手県では豊岡遺跡、高梨遺跡等から出土しており、宮城県では石巻市の沼津貝塚出土のものが有名だと言われております。これらは基本的には同じ作りで、例えば衣服の形状、文様などに若干の違いはあるものの、雪メガネのような大きな目、頭部の飾り、女性を表す乳房、中空の作り方、抽象化された手足等々、殆ど共通しております。
何れも体の一部が壊れた状態で出土するのが通例で、青森県出土と伝えられる宮城県加美町の縄文芸術館展示の遮光器土偶は、大きく割れて上半身だけが残されております。これらはすべて縄文晩期に亀ヶ岡で焼成されたものと見られていますが、東北各地の(遠くは神戸からも)離れた場所で発見されていることは、縄文晩期、それらの地域に人の移動や交流のあったことを示すものとして注目されているわけです。もっとも、縄文中期の三内丸山をはじめ東北・北海道南にもヒスイやコハクが移動していることを考えれば、晩期の亀ヶ岡文化と言われる土器土偶等が各地に持ち運ばれたのも、別に驚くべきことではないのかもしれません。
(2) 恵比須田遺跡の遮光器土偶
さて、宮城県遠田郡田尻町の恵比須田遺跡ですが、その田尻町も平成十八年三月には平成の大合併で一市六町が合併して大崎市になることが決まっております。JR仙台駅から在来線の東北本線に乗り換え、北に十二駅目、約一時間ほどで田尻駅に着きます。
平成十七年四月十七日、古田史学の会仙台では春の史跡巡りに、前回時間の都合で心ならずも見残していた宮城県北田尻町方面を廻りました。遮光器土偶の出土した恵比須田遺跡を見たかったからです。総勢十二名、三台の車に分乗して五、六ヶ所の史跡を巡りましたが、花の名所加護坊山の桜まつりが折悪しく桜前線の足踏みで花見に少し早すぎたのが残念でありました。
めざす恵比須田遺跡は昭和十八年に桑の木を掘り起こす作業中に遮光器土偶が発見されたと言います。しかも多くの土偶が故意に一部破壊された状態で発見される中で、この土偶は殆ど完全な形で出土したということで、非常に珍しいとされています。また大きさも、高さ三十六センチメートル、肩幅二十一センチメートルで、今のところ発見された遮光器土偶のなかでは日本で一番大きいのだそうです。
恵比須田遺跡のある田尻町は宮城県北の大崎耕土と呼ばれる内陸地帯ですが、近くには(七百m東)中沢田貝塚や数々の遺跡があり、多くの石器、土器、骨角器、貝輪などが出土する北上川下流域の内陸遊水地帯で、かなり古くから開かれていたと思われます。
佐々木会長は「昔、この辺は半島のような地形だったようだ」と説明していましたが、遺跡自体は百メートル×六十メートルが包含地帯で、広い地形ではありません。ただ、地元の教育委員会の説明によれば、縄文時代早期・前期・中期・後期・晩期にわたる遺跡で、約七千年前から人が住んでいた痕跡があるといい、このような長期遺跡は全国的にも珍しいそうです。また同じ町内の切伏沼遺跡は、前・中期、舞岳遺跡は前・晩期まで続いたとされていますので、古くから人の居住に適していた土地であることは間違いないようです。
恵比須田遺跡の地形はなだらかな小丘稜地帯の裾で、背後に西から南にかけて森が連なり、東北側一面に田圃が広がる農道三叉路の傍らの狭い土地で、桑畑があったとしても「こんなところに?」と意外に思われる場所でした。
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発掘された遮光器土偶は
1、遮光器土偶では日本で一番大きい
2、ほぼ完全な姿のまま出土した
ことは前述しましたが、現物は昭和五十六年六月、国の重要文化財に指定され、現在は東京上野の国立博物館所蔵となっております。田尻町には等身大のレプリカが、田尻町中央公民館に展示されておりますが、それを見ると、形状も衣服の文様も亀ヶ岡出土の遮光器土偶に良く似ていますが、首の部分がやや長く、肩の張りが少ないようです。また乳房、乳首がリアルに表現され、中空のつくり、貫通孔の位置などもそっくりで現物は部分的に朱が残存していたといいます。
いずれにしても、亀ヶ岡文化を代表する高度な浮き彫り手法で作られており、衣服等の文様も複雑精巧に、且つ左右対称に展開していて、背後部にもかなりの文様が施されています。これらは縄文晩期大洞C1式土器の文様と共通しており、時期からみても亀ヶ岡文化圏内にあったものと、教育委員会は見ているようです。
作られた目的・用途については学会に定説が無いそうですが、遮光器土偶を含めて、アイヌ民族に土偶・木偶がない(シンポジウム日本の考古学)ということを聞きますと、これらを作った東北の縄文人はどんな民族だったのか。遮光器土偶を何のために作り、どうやって各地に移動させたのか、そして稲作はあったのか、なかったのか、知れば知るほど謎はますます深まってくる思いの春の遺跡めぐりでありましたが、その謎の彼方に『東日流外三郡誌』の書く、九州筑紫の日向族に追われた耶馬台軍が、津軽の地で中国からの漂着難民と組んで津保化族を従え、遮光器土偶を荒吐の神体として、五王統治の王国を築いたとするイメージがおぼろげに見えてきたのは、私だけの勝手な幻想だったのでしょうか。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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