古田史学会報73号 2006年 4月12日
私考・彦島物語II 國譲り(後編)
大阪市 西井健一郎
四、高御産巣日、大国を支配する
0.前編のあらすじ
天孫降臨・国譲りの説話は、私見では時代の異なる三つの事件から成り立っている。第一はウケヒで勝利した天照大神I が負けたスサノヲから獲た神々を大国に総督として派遣進駐させた事件(前編既述)。第二は数世代後に発生した大国主の妃間の相続権争そい。第三が天孫ニニギによる関門海峡周辺域の征服である。記紀はそれぞれ主宰神名を統一し連続使用することで、これら三つの事件を一連の説話に仕立て上げている。
後編は国譲りといわれる第二の事件を取り上げる。記紀では、第一の事件つまり天照大神の御子を葦原中国の地に支配者として送り込むための現地慰撫に天の穂日命を送りこむが帰ってこなかったため、第二の使者天の若日子を選び送りこむ。だが、若日子は現地の主、多紀理媛の娘高姫を娶り、同地の王になることを図ったために殺された、とある。
第2の事件国譲りは、この若日子の暗殺をプレリュードとして幕があく。なお、前編で述べたように、以後の天照大神とは母多紀理媛で、高ミムスヒは娘高姫である。
1.大国主の妻と娘、多紀理媛と高比売
夫天若日子(記。紀、天稚彦)を殺された高姫は、夫が望んだ顕(うつし)国つまり大国の支配者の地位につこうと考えた。
高姫は、紀本文に“顯國玉之女子下照姫、亦名高姫、亦名稚國玉”と載る。顕国玉は大国主のことであり、その娘の一人である。記には、スサノヲの宮の大神が娘須勢理と駆け落ちする初期の大国主に“意禮、為大國主神、亦為宇都志國玉神”と叫ぶセリフが載る。昔から大国主と顯國玉は兼務職なのだ。
一方、記の此大国主からの神譜は、“故、此大國主神、娶坐胸形奥津宮神、多紀理毘賣命、生子阿遲?スキ高日子根神。次妹高比賣命、亦名下光比賣命。”と記す。母多紀理媛は当時の大国主の妃の一人である。彼女も他妃の子が支配している顕国を、自分の血統が継ぐことを望んだ。子達に高との地名がつくから、多紀理媛は大国の一部、高の地の支配者だったとみる。彼女も多氣理と書きなおすと、宇迦を宇氣と記す例もあり、原称はタカ(高)理媛だったかも。理は菊理媛や須勢理媛にもみられる女子用の語尾だ。
先稿「彦島物語I 」で述べたが、高の地はおそらく彦島内にある。記が多紀理媛を「胸形の」奥津宮の主と書いたのは、市杵嶋姫こと瀛津(おきつ)嶋姫と混同させるためだ。
また、胸形は必ずしも宗像の地ではない。“膂宍之空(むな)國”と同じ地だろう。
記もウケヒの場面では、この二女神を別神と扱う。“多紀理毘賣命、亦御名謂奥津嶋比賣命。次市寸嶋(いちきしま)比賣命、亦御名謂狭依毘賣”と載る。ついでに、紀ウケヒ第3一書には“瀛津嶋姫命、亦名市杵嶋姫命”とあり、国生み記は“次生津嶋、亦名謂天之狭手依比賣”と記す。市寸嶋姫は瀛津嶋姫であり、その亦名狭依毘賣は天之狭手依比賣の省略形とみると、津嶋の神と読める。ただし、津嶋が対馬とは限らないが。
多紀理の奥津宮の奥は、沖でも瀛でもなく、私見では檍の替字である。生存時は檍津(オクツ)、つまり彦島のアワキの港に御所(宮)があったのだ。
この奥津は大戸こと関門海峡に面していたと思われる。大年神の神譜に“生子、奥津日子神。次奥津比賣命、亦名大戸比賣神。此者諸人以拝竈神者也”とあるからだ。前出の“粟國謂大宜都比賣”はオホゲツヒメと訓むが、元は「沫岐のオキツ(大気津)orオクツ(檍津)媛」だった可能性がある。また、竈神は「カマの神」と訓る。高姫の兄、阿遅スキ高日子根には“今謂迦毛大御神者也”と原注がある。高姫が宇迦の大神と呼ばれた(後述)のに対し、この兄は当時この「カマ」の地の大神だったのかもしれない。
2.直接交渉は近隣の神々が
国譲り交渉の話が天孫降臨と異質であることを示すのは、ここから大国主への直接交渉が始まるからである。大国主との交渉に選ばれた神も、それまでのウケヒや天照サロンで名の挙がった神々とまるで違う。イザナキ説話の神々なのだ。
この場面に登場するのは、彦島に近いご当地の地名を附した神々である。記では、伊都の尾羽張(おはばり)神の子建御雷(たけみかづち)之男と天鳥船とある。このイツ(伊都)は、記紀内では出雲と転訳される例が多いが、響灘沿岸の地名である。建御雷は、紀に武甕槌とあるように、「建・甕・ツ(の)・ち(神)」で建日国ミカの地の部族長だ。天鳥船は、神生み記に鳥之石楠船神の亦名とある。鳥は地名、記にスサノヲが降りたとある“出雲國之肥河上、名鳥髪地”の鳥である。私見では、イツの火の川上にあるトリのカミ(上)地区の意ととる。
紀は、武甕槌(たけみかづち)神と経津主(ふつぬし)神を派遣する。武甕槌は稜威雄走(イツのオハシリ)神の孫である[火英]速日の子とある。祖父は甕速日とあるから、甕出身の首長だ。経津主は、磐裂(いわさく)神の子の磐筒男の子と記す。私見では、磐裂神は彦島・海士郷町の対岸伊崎町の太古の首長である。筒は両側の口が開いている瀬戸の意で、磐筒とは小瀬戸を指す。その子のフツはこの小戸の潮流に湧くアワの音かも。
[火英]は、火偏に英。JIS第4水準ユニコード7150
ただ、フツには市場の市(五画)とは別の、四画でひざ掛けの意の「市」がある。特に、草冠のつく市は「小さい若芽が出るさま」との意もあり、彦島を暗示する葦牙や穂先に通じる。だから、前出の市杵嶋姫の市は元はフツだったかもしれない。市杵はフツキネ。国譲りする大国主の父で、スサノヲが八岐大蛇から得た剣を天国に献じた天之葺根(ふきね)神(紀第4一書)と発声が似る。
前稿の「高天原は彦島・海士郷である」の仮説に立てば、天照?の居住地の近隣の首長が出かけてくれていた。
3.大国主と大己貴
他方、それら二神に直談判された側にも、不審な点がある。それは受け手が記は大国主、紀は大己貴(オホアナムチ)と異なるから。どちらか、または両方が造作されている。
紀は“一書曰、大國主神、亦名大物主神、亦號國作大己貴命。亦曰葦原醜男。亦曰八千戈神。亦曰大國主神。亦曰顯國玉神。”と書く。記にも同様の記述がある。だが、これらの神名は同一人物のものとはかぎらない。私見では特に、大国主と大己貴とは別職位であり、性別も異なる。この二つの地位と称号は継承され、代々の大国主と大己貴とがいる。
それを証するのが、記紀の三つの記述である。
記はスサノヲ・八嶋士奴美の神譜に、「スサノヲが櫛名田比売を娶って、八嶋士奴美神を生む」と書き、同神から五代目に大国主神の名が載る。
紀にも第1一書に、“生兒、號?之湯山主三名狭漏彦八嶋篠。一云、?之繋名坂輕彦八嶋手命。又云、?之湯山主三名狭漏八嶋野。此神五世孫、即大國主神”とある。
この記述に文庫本(紀)の補注は、「ここでは、大国主神は稲田姫の子の清の湯山主三名狭漏彦八嶋篠の五世孫とされている。第2一書では、大己貴命は素戔嗚尊と稲田姫との児の六世孫とある。おそらく、稲田姫の六世孫ということで、第1一書と合うと判断したものであろうか。しかし、紀本文には素戔嗚と稲田姫との間に大己貴は生まれたとある」と大あわてなのだ。
確かに、紀の第2一書は“素戔嗚尊、以(稲田姫)為妃而所生兒之六世孫、是曰大己貴命。大己貴、此云於褒婀娜武智”。紀本文には、“(スサノヲが奇稲田姫と)乃相與遘合、而生兒大己貴神。因勅之曰・・・”とある。
4.「貴(むち)」は女性称号である
だが私見では、おかしくない。なぜなら、大己貴は女性の職位だからだ。
スサノヲと稲田姫との息子は湯山主、おそらく熊野(ゆや)主に就任し、姉妹の誰かが当時の大己貴の職に就いた。後に彼の五世孫が大国主に、その娘が大己貴になっている。
貴(むち)称号は、天照大神の別称大日靈〔靈の巫部分が女〕貴や葦原中国に降ろした三女神が“今在海北道中。號曰道主貴”とあるように、女性につけられている。先出の保食神は、本庫本(紀)には“此云宇氣母知能加微”とあるが、母は毋(四画、{漢}ブ、{呉}ム)の誤記である。原称号は「ウカのムチ」、大気津媛と同じく女神名である。
また、大己貴は、大穴牟遅とは異なる職名である。牟遅(ムヂ)は八島牟遅にみられるように男性職位、出雲風土記の大穴持、播磨風土記の大汝命と同じ称号である。紀はこの出雲神の称号にひかれて大己貴にオホアナムチと訓する。だが、当時の現地では「オホツチのムチ」と呼ばれたのではないか。又は、大気津比売と相似の「オホ・キのムチ」か。
大己貴は倭人伝の卑弥呼のような存在だろう。この女巫王が占いや宣託を行う。唯一その室へ出入りでき託宣を受け取る男性、私は覡(ゲキ。男の巫)と呼ぶ、それが大国主の職務である。彼は占いを請い、出た託宣を施政者に伝える任務を果たす。占いを求め、その託宣を実行するのが施政者、国玉であり、首長・部族長だろう。三世紀に録された制度は神代から存在していたとみる。
だから、相手が大己貴と大国主とでは要求の仕方が異なったはずだ。結果として大己貴が入れ替わったのだから、彼女に要求したとみえる。
しかし、どちらも支配権については返事ができなかった。それは彼等が施政者ではなく、ウシハける宗教的存在だったから。大国を実効支配していたのは、三人の首長だった。
5.事代主と多紀理媛の地
当時の大国は、其大国主の三人の子が分割統治していた。北部の事代(ことしろ)主、南部の多紀理・高比売、東部の建御名方(たけみなかた)命である。
これには前例がある。記にわざわざ載る三つの神譜(八嶋士奴美から・須勢理と駆け落ちした大国主から・大年神から)は、スサノヲの血統を誇るこの御三家がかっては大国を分割支配していたことを伝えている。
事代主が響灘沿岸の主とみたのは、当時は「イト主」と呼ばれていた筈だから。事は異、代は與の替え字+読み替えである。前述のように、蓋井島と藍島とは「伊予(異與)の」と形容されているから、その対岸の山口県下関市西北部と豊浦町一帯も神代は「イト・イツ(伊都)」の地であったとみる。ついでに、その北方が熊野(ユヤ)だ。
多紀理媛が支配した地域は高を中心とする彦島と下関市街、いわば土筆の穂の部分。かって大年神(原名は大戸主だろう)家の治めていた一部分とみる。
6.南方の主、建御名方神
その東方、元大年神家の残りの部分、下関市の瀬戸内沿岸部を建御名方が治めていた。それは彼の名號が「建日の南方(ミナミカタ)」とあるからだ。彼の名は大国主の神譜にないから、実子ではない。
彼は武甕槌に追われて科野国州羽(すわ)海へ逃げ、「この地から出ません」と誓ったとある。記紀の読者、当時の近畿王朝の人達はこれを信濃の諏訪湖と思ったに違いない。なぜなら、旧唐書日本国の条に“又云其國界東西南北各數千里、・・・、東界北界有大山為限山、外即毛人之國”とある。この常識から国境地帯の信濃まで逃げたと受けとめた。
しかし、記が科野国之州羽海と書く地は、山口県の周防(すおう)側の海である。大国の支配権を巡る闘争なのだから、そんなに遠くまで逃げる必然性がない。
科(しな)は風神志那都比古(記)、同級長津彦(紀)のシナの地である。つまり、科は級長(シナ)の替え字であり、級長(キュナ)は関門海峡の古代名クナト(来名戸・吸名戸)の当て字である。新撰姓氏録には、安曇連の祖神于都斯奈賀命の名が載るという。原姿はウツシ(顕国)のシナガ(級長)の首長だ。級長は大国の範囲内だったらしい。
州羽は、景行紀十二年九月条に周芳(スワ)の娑麼(サバ)と載る地だろう。文庫本(紀)の注は和名抄から「防府市佐波か」と書くが、それも遠い。下関市長府から小月あたりだろう。そこは風神の出自の地、つまり関門海峡を通過する際の風待ち港だったはずだ。
だから、建御名方は本来スサノヲ系と別種族、周防西部の首長である。武甕槌に力較べで挑んだのは、自らも力で大国南部を侵食していたからだ。
五、高比売、神産巣日になる
1.高姫、神産巣日の巣に登る
事代主と建御名方を追放し、多紀理・高姫親娘は大国全体の支配者となった。
この結果、高姫は何代目かの神産巣日(カミ・ムスヒ。記)の地位につき、高御(タカミ)産巣日と呼ばれる。それを教えるのが、これまで不審だった歌詞だ。国譲りの成功を祝って水戸神の孫、櫛八玉が焼き魚を献ずる歌の「神ムスヒが登ダル新巣につく煤が床につくほどに焼き上げる・・・」(記)の部分である。記の国譲りを要求した神は天照大神と高御産巣日なのに、神産巣日に献ずるとある。察するに、高姫が新しく神産巣日の座につくから、「神ムスヒのトダル新巣」なのだ。
高姫は歴代の神産巣日と区別するため、その名をとって高御産巣日とも呼ばれた。高ミは「高(地名)+ミ(神)」、穂高見(ホのタカのミ)とも呼ばれていた形跡が残る。神産巣日は一般称号だからミがつかない。
2.神産巣日は歴代の地位称号
神産巣日が継承されていく称号と地位であることを示すのが、前述の新「巣」である。そのような権力者の座を巣といった様子は、降伏した大国主が自分の籠もる宮を建てろと要求する“僕住所者、如天神御子之天津日繼所知之登陀流天之御巣而、”(記)にもある。
ただ、これは立派な御殿を要求したのではなく、粗末なものでいいとの意味かも。若日子の葬儀の場面で、弔問に来た義兄味スキ高日子根が“時此神容貌、正類天稚彦平生之儀”(紀)であったため、ワカヒコが生き返ったと騒いだとある。つまり高日子根の大国風装束が天津日(対馬)のものより立派で、生前の若日子を彷彿とさせたから騒いだのだ(西村秀己氏教示)。だから、対馬並の貧しい建物でよいとの意味だった可能性がある。
ムスヒは、記の「産巣日」が示すように、国または国主を意味する「日」の座(巣)につく人を産む(決する)職の意だろう。紀の「皇産霊」も同様の「王を生む巫女」の意だ。
一方、代々の神産巣日を区別するのに地名などをつけた様子は、スサノヲと神大市比売の子、大年神の神譜に載る同神の妃伊怒比売の親「神活須毘」にみられる。彼女はおそらく「神・壱岐・産巣日」で、神産巣日位についた壱岐の姫ではなかったか。
また、高姫がついたその地位は、別の種族からは大己貴と呼ばれた。それを伝えるのが、前出八嶋士奴美の神譜にあった五代孫の大国主とその娘の大己貴の記載である。
3.豊の宇迦の大神とも称された高比売
もう一つ、高比売が神産巣日となって大国を握った証拠がある。伊勢神宮は外宮に祀られる豊受大神の存在である。
豊受大神は、神生み記に“豐宇氣毘賣”と載る。それは「豊日の宇迦」の地の姫神であることを伝える。私見では、豊は豊浦郡の豊、その郡内にある宇迦、現在の宇賀である。“保食神、此云宇氣母知能加微”(紀)の宇氣と同地なのだ。
その地はスサノヲの宮の大神が、“意禮、為大國主神、亦為宇都志國玉神而、・・・、於宇迦能山之山本、於底津石根宮柱布刀斯理、高天原氷椽多迦斯理而居。是奴也”(記)と、娘須勢理と駆け落ちする葦原色許男に叫び、大国主兼顕国玉の宮所として指定した地だ。この葦原色許男は初期の大国主として宇迦に宮をもったから、後世「宇迦の御魂(先祖)」神と呼ばれている。
宇迦は大国主の本宮の地なのだ。父の大国主から国譲りを受けて、そこに神産巣日・大己貴として着任したのが高比売であり、後に「豊・宇迦の大神」と崇められた。宇迦の宮に入った多くの大国主・大己貴のうちで、天照大神とセットに組めるのは記紀の記述内では高比売だけ。と考えると、内宮は母多紀理媛の天照大神?、外宮は娘高比売こと高御産巣日の豊受大神になる。つまり、かって大国を支配した「天(上)照(らす)母姫と(天)下照(らす)娘姫のセット(西村秀己氏)」が持ちこまれている。
他方、神生み記には“次和久産巣日神。此神之子、謂豐宇氣毘賣神。”とあるから、母多紀理の原称号はワク・ムスヒだったか。ワクは稚、イザナキの墓所、少(ワカ)宮の地を指すとの説もあるが、私見では「惑」の替え字である。原称は大戸惑子(オホト・マド・ヒコ)神にみられる地名「マド」である。おそらく、響灘側からの小瀬戸の入口は両側から山の迫る切り通しの形状で、神代の人達はその地を「窓」と表現したのではないか。そこが高の地であり、そこの女巫首長だったのだろう。
4.天津甕星の誅伐考
国譲りは完了した。
話を終える前に、紀の不思議な記述に憶測を述べたい。
それは、本文注記にある武甕槌・経津主に服従しなかったとされる唯星神香香背男であり、第2一書では“時二神曰、天有惡神。名曰天津甕星。亦名天香香背男”である。続けて、“請先誅此神、然後下撥葦原中國”とある。
なぜ、大国主を恫喝する前に、この神の抹殺を図ったか。
甕星とは甕主の誤記とみる。その神名から穂日と同じく天国からの甕の地へ派遣された総督だったのではないか。唯星神ともあるから、熊(ゆう)主だったかもしれない。甕の地の国神、武甕槌にとっても天神の甕主は頭上のたんこぶだったのでは。天国の意向を受けて国神間の国譲りに干渉してくることをおそれ、先手を打って抹殺したとも考えられる。
5.神代巻は彦島出身の三偉人伝
以上述べてきたように、国譲りとは、彦島の高の地の母媛、天照大神?が主導した大国主の妃間の相続権争そいである。それを、記紀はスサノヲに勝った天照大神?による大国進駐の故事に接木したのだ。
国譲り説話は見方をかえれば、イザナキ・イザナミが片田舎の彦島から出て近隣諸国を征服した逸話に続く、彦島の女ボスと娘が大国全土の支配者となった成功譚である。つまり、神産巣日になり豊受大神と崇められた高比売は、彦島が産んだ第二の偉人なのだ。
とみると、彦島の名を高める第三の偉人、それが彦島を出て関門海峡対岸部を征服させたとみられる高の地の日子、ニニギの尊なのだろう。時代を経て、高の地から始まるその降臨譚は彦島物語III として紹介したい。
記紀の神代巻は、彦島出身の偉人伝でもあるようだ。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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