「大長」末の騒乱と九州王朝の消滅(会報92号)
『続日本紀』「始めて藤原宮の地を定む。」の意味 正木裕(会報92号)
日本書紀、白村江以降に見られる 「三十四年遡上り現象」について (会報77号)
講演記録 壬申の乱の大道 古田武彦
韓国・扶余出土木簡の衝撃
やはり『書紀』は三四年遡上していた
川西市 正木裕
I 韓国・扶余の「那尓波連公」木簡
去る七月八日、新聞各紙に韓国扶余(プヨ)の遺跡から、「那尓波連公なにわのむらじのきみ」と記された木簡が発見されたと報ぜられた。報道によれば出土状況は次の通りだ。
(1) 出土場所は扶余双北里遺跡(韓国忠清南道)で七世紀半ばの遺跡
(2) 木簡は、長さ一二・一センチ、幅一・七センチ、厚さ〇・八センチ。
(3) 記された文字は「那尓波連公」(毎日新聞による)
扶余はかつて泗[シ比](サビ)と呼ばれ、五三八年から唐・新羅の連合軍によって義慈王が降伏し、百済が滅亡する六六〇年まで古代百済の首都であった。双北里遺跡は泗[シ比]都城内(扶余邑官北里、双北里一帯)の住居生活遺跡(東羅城の内側)であり、木簡も七世紀半ば、六六〇年までのものと推測される。
泗[シ比](サビ)の[シ比]は、三水編に比。JIS第3水準ユニコード6C98
II 「難波連」賜姓は『書紀』では天武十年
問題は木簡に記された「那尓波連公」の称号だ。
『日本書紀』では天武十年(六八一)に「草香部吉士大形」に対して「難波連」の姓が賜姓されたとある。
■天武十年(六八一)正月丁丑(七日)に、天皇、向小殿に御して宴したまふ。是の日に、親王・諸王を内安殿に引入る。諸臣、皆外安殿に侍り。共に置酒して楽を賜ふ。則ち大山上草香部吉士大形に、小錦下位を授けたまふ。仍りて姓を賜ひ難波連と曰ふ。
「難波」氏は安康元年(四五四)二月に「難波吉師日香蚊夫子」が見えるなど、古くから有力な氏族で、『書紀』には十八回見えるが、「連」姓を与えられたのは六八一年記事が初だ。
「那尓波」は万葉仮名で「難波」を示すから「那尓波連公」は「難波連公」のはずで、『書紀』を信じればこの氏姓は六八一年以後のものでなければならず、七世紀半ばという木簡年代と合わないのだ。
六六〇年の泗[シ比]都城滅亡は動かしがたい事実であるから、疑うべきは木簡の記事ではなく、天武十年の「難波連」賜姓記事だ。七世紀半ばに「難波連」が存在したなら「賜姓」記事はその時点まで遡上しなければならず、「難波連」は七世紀半ばに賜姓されていたが、その事実は、書紀の天武紀に移されたという疑いが生じる。
III 賜姓記事も三四年遡上盗用か
「持統吉野行幸は白村江以前の九州王朝の史書からの盗用」という古田武彦氏の指摘から導かれた、『書紀』天武・持統紀の三四年遡上盗用については再三述べてきた。
また、「病したまふ天皇」(本号後出=編集部注)では、古賀氏の考察を基に、天武九年末の皇后・天皇の病記事は、三四年遡上した九州年号「命長」七年(六四六)の九州王朝の天子「利」の崩御記事の盗用と指摘した。
更に、天武十年(六八一)五月の「皇祖の御魂を祭る」記事や七月の「大解除」や「皇后の誓願・斉おがみ」記事も、同様に「常色」元年(六四七)の「利」の葬儀関連記事の盗用と述べた。
天武十年正月の「難波連」賜姓記事は、そうした一群の記事の只中にあり、この記事が持統吉野行幸同様、三四年遡上した九州王朝の史書からの盗用と考えれば「木簡の年代矛盾」は解消するのだ。
IV 百済にいた「難波連」
新聞では、国立歴史民俗博物館の平川南館長は「日本から送った那尓波(難波)という人物の荷物に付けた荷札の可能性が高い」と述べたとされる。そうなら『難波連』は七世紀半ば扶余に派遣されていた事となる。そうした人物は存在したのだろうか。
『書紀』では百済に関し「難波」氏の活躍が見える。
(1) 「難波吉士胡床」が白雉元年(六五〇)に、安芸国に派遣され、「百済舶二隻造らしむ」とある。
(2) 「難波吉士国勝」が皇極元年(六四二)に「国勝吉士水鶏」として百済に派遣され、斉明二年(六五六)「難波吉士国勝」として百済から帰還した。
(3) 「難波吉士男人」が斉明五年(六五九)に、遣唐使の関連で書を記した記事がある。
また、「草香部」氏については、(注)
(1) 「草壁吉士磐金」が皇極元年(六四二)二月百済の弔使に応対。「草壁吉士真跡」が新羅に派遣された。
難波・草壁両氏の活躍時期は、扶余(泗[シ比])に都があった時期や、難波連賜姓記事が三四年遡上する場合の大化三年(常色元年・六四七)とも概ね一致する。彼らの何れかが「難波連公」と呼ばれた可能性は高いのではないか。そうして天武紀で彼らは賜姓記事以外登場しない。この事は、正しきは木簡であり、『書紀』は遡上していた事を示すものだろう。
V 「氏姓制度改革」は本当に天武の業績なのか
この問題は、実は天武紀の「氏姓制度」の見直しは本当に天武の業績かという重大な疑問に発展する。
古賀氏の指摘によれば、九州王朝では天子崩御により大化三年(常色元年)に、新天子が即位する事となる。しかもこの年の『書記』記事には「七色十三階の冠」が制定され、礼法も定められたとある。また「評」制度も六四九年には全国的に施行されたことが風土記等から判明している。当然「評督」等の新官職が設けられた事も事実だろう。こうした「冠位・官職」の新設にあわせ、「氏姓制度」についても大胆な見直しがあったと考えて無理はないだろう。
一方、『書紀』では、天武十年から十二年にかけ「氏姓制度」の見直し・大量の賜姓記事があり、十三年には「八色の姓」が制定されている。しかし、これらも、常色元年の九州王朝の新天子即位、全国的な評制施行、冠位・氏姓見直し等による集権体制の強化の一環と見る事が出来ないだろうか。
天武十年には氏姓改革の開始を意味する詔勅が出されている。
A■天武十年(六八一) 九月甲辰(八日)に、詔して曰く、「凡そ諸氏の氏上未だ定まざること有らば、各氏上を定めて、理官に申し送れ」とのたまふ。
しかし、三四年前の大化三年(常色元年・六四七)四月の詔に、これを予見する内容が記されている。
B■大化三年(六四七)四月壬午(二六日)に、詔して曰はく、「(略)始治国皇祖の時より、天下大同じくして、都かつて彼といひ此といふこと無し。既にして頃者このごろ、神の名、天皇の名々より始めて、或いは別れて臣・連の氏と為れり。或いは別れて造等の色に為れり。是に由りて、率土の民の心、固く彼此を執へ、深く我汝を生して、各名々を守てり。又拙弱き臣・連・伴造・国造、彼の姓となれる、神の名・王の名を以て、自が心の帰る所に逐ひて、妄に前前処処に付けたり。〈前々とは、猶人々を謂ふぞ。〉爰に神の名、王の名を人の賂物まひなひとするを以ての故に、他の奴婢を入れて、清き名を穢汚す。遂に民の心整らずして、国の政治め難し。是の故に、今は、天に在す神の随に、治め平くべき運に属りて、斯等を悟らしめて、国を治めむこと民を治めむこと、是をや先にす是をや後にす、今日明日、次でて続ぎて詔らむ。(略)」とのたまふ。
「固く彼此を執へ」とは「自他の相違対立が甚だしくなった(岩波注)」ことを意味する。ここでは現状の「氏姓」制度に問題があり、国政に支障をきたす事、その改革を早急に行うことが述べられている。これこそ天武十年以降の氏姓制度改革に一致するのだ。
天武十年(六八一) 九月の詔Aは、三四年遡上した常色元年(六四七)九月のものであり、同年四月に発せられた氏姓制度改革の詔Bの具体化を示すものではないか。そもそも大化元年から大量の改新詔勅を発しながら、今更「是をや先にす是をや後にす、今日明日、次でて続ぎて詔らむ」とは不自然なのだ。
古賀氏等から大化元年から二年の詔が九州年号大化期(六九五~)から移されたとの指摘がなされているが、大化三年=常色元年のこの詔は本来九州王朝の詔であり、先に述べた一連の改革の開始を意味する「常色改新詔」だったのではないか。
更に、「難波連」は天武十年三月に「帝紀及び上古の諸事を記し定め」ることを命じられている。若し、「難波連」が白村江以前に遡るとすれば、書紀編纂を命じたとするこの記事も、九州王朝が自らの史書の編纂を行った事を示すものとなる。
今回の「那尓波連公」木簡の出土は、天武の業績の全面的な見直しへ発展する可能性を秘めた衝撃的出来事であり、今後大きな検討課題となろう。(注)
(注)「草壁吉士磐金」(推古五年・三一年に吉士磐金)は、推古六年四月条に「難波吉士磐金」とあり、草壁(草香部)と難波は共用されている可能性がある。草香部の「部」は部民の集団名であるから、本来は「草香部の難波の吉士」だったのではないか。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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