講演記録 君が代前 『古代に真実を求めて』 第九集(明石書店)

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弥生の土笛と出雲王朝 2003年3月16日(日)大阪府八尾市高安いずみ苑

出雲暦は王朝のしるし 大国主とわたし

弥生の土笛と出雲王朝

古 田 武 彦

 わたくしの講演の前に、まず笛を聴かせていただきたいということなので、最初に弥生の土笛を吹かせていただきます。
(演奏)ドレミファソラシド
 ありがとうございました。

一、出雲暦は王朝のしるし

 まず今日のお話の始まりに、一月から十二月まで、大和言葉として表現できますが、ご存じでしょうか。
一月睦月(むつき)
二月如月(きさらぎ)
三月弥生(やよい)
四月卯月(うづき)
五月皐月(さつき)
六月水無月(みなづき)
七月文月(ふづき)
八月葉月(はづき)
九月長月(ながつき)
十月神無月(かんなづき)
十一月霜月(しもつき)
十二月師走(しわす)

 これは、おそらく古代から伝えられていた月の名であろうと思うのですが、これを正確に分析すれば日本の古代史の深い全貌が、わたしがいま分っているところより、もっと深いところが分かるのではないか。そのような直感を持っているのですが、皆さんがまた追求していただければ幸いです。
それはそうと致しまして、なぜ、本日このような話を持ち出しましたかというと、この中で十月が神無月です。太陽暦に換算すれば、現在の十一月にあたるようです。
 なぜ神無月かと言いますと、出雲に神様が集まるからと言われている。出雲に神様が集まる月である。各地に神様がいなくなるから「神無月」である。そのように言われている。
 これも一言、余計なことを言いますが、この「神無月」の解釈は本当であろうか。つまり漢字を見れば、「ナ」に「無」をあてていますから、そのように言われていますが、本当に「ナ」は「なし」という意味であろうか。余計な理屈を言えば、それでは十一月には「出雲は神様だらけ」ではないか。
そのように、この解釈はほんらいの解釈ではなく、後から付加した解釈。そのような気がします。もっとほんらいの「神無(カンナ)月」の意味は、違うのではなかろうか。そういう疑問を持ってはいます。その疑問は疑問として、結論は神々が出雲に集まる月である。そういうことには疑いがない。

 それで出雲の神様に関心がある方がお調べ願えればよいのですが、出雲に神様が集まると言われている地域は、日本列島のどこなのか。わたしの印象では全国ではない。西日本が中心だ。そのような印象を持っています。九州の神社ですが、うちの神様は神無月に出雲に行かれない神様。そのような伝承を持っている神社もある。なぜ行かないか。そこまで説明がないのですが、その土地では格式が非常に高い有力な神社です。おそらく出雲に対して威張っている神様。そのような神様もある。ですから、みなさん頑張って調べて貰えばよい。神社名鑑に、電話番号が載っているようですから、「あなたの神社では、出雲に神様が行かれますか。」と聞いていただければよい。
 とにかく日本列島の西日本を中心とした広い領域。日本列島の三分の二ぐらいの偏りをもった広い領域。関東の皆さんも、知識としてみなさん聞いていると言われます。

 さて問題は、これは変な話です。なぜ変な話かと言いますと、簡単に言えば神様の参勤交代。神様は自分の居るところで、ずっと威張っているわけにはいかない。一年に一回は出雲の神様に、お伺いを立てに行かなければならない。これをサボると神様の面子を失墜するのではないか。そのような仕組みになっています。
 これもわたしは、この話をしようと思って、おそまきながら気がついたのですが、江戸幕府は参勤交代を始めました。これは何をヒントに考えついたのか。鎌倉時代に源頼朝が、参勤交代を始めたという話は聞かない。平家の平清盛が、参勤交代を始めたという話は聞かない。なぜか江戸時代に新しく参勤交代を始めた。これは何をヒントに参勤交代を始めたのか。わたしは、江戸時代初期の研究を行ったことはないので知らないが、もしかしたらこの出雲の神無月の話をヒントにしたのではないか。そう思っているところです。まさか逆ではないですよ。出雲のほうがヒントを得て、江戸時代に話を作った。そのような話は、まず無理です。出雲のほうが古いですから。無関係か、関係があるとすれば矢印は出雲から江戸時代です。逆ではないであろう。

 それはともかく、この神無月の話は、出雲を中心とした神々の中央封建体制というか、神々の中の支配・被支配の関係、少なくとも中央と地方の関係が表現されていることは、まず疑いがない。
先ほど大和言葉・大和暦と申しましたが、より正確には出雲言葉。つまりこの暦は出雲暦。一月、二月と申しましたが、これは漢数字であり、中国でも日本でも使う言葉ですが、それでない日本ほんらいの言葉で表現しようと思えば、出雲暦になってしまう。これは非常に意味がある言葉です。そこには出雲を中心とし、参勤交代めいた神様の尊卑、神々の上下関係が表現されていることは、まず間違いがない。

 今お話したこの二つの問題をとっても、出雲王朝という概念はまず必然ではないだろうか。この出雲王朝という概念、歴史学者はそっぽを向いて、知らない振りをしています。ですが知らないふりをするほうが無理であって、出雲王朝という概念・仮説をたてて理解するほうが、よほどナチュラルではないか。そのことは、いま聞いた話だけでも、かなり御理解いただけるのではないか。
 出雲王朝の話は、たくさんあります。今日持ってきました資料がありますので、配布して下さい。わたし自身が、びっくりするような結論に達しました。手短にまず答えだけ言っておきます。出雲王朝の淵源はウラジオストックにある。驚くようなお話しですが、矢印はウラジオストックから出雲に来た。論理的にそこに突き動かされてきました。もう一言申しますと、それは靺鞨人が、北から出雲に来た。有名な国引き神話は、それを表現している。そういう事実にぶつかりました。この問題は時間の関係で、配布されたものをお読みいただければお分かりになると思います。それで出雲王朝そのものに戻って話を始めさせていただきます。
(『古代に真実を求めて』第七集 明石書店 講演記録記載)

二、大国主とわたし

 つぎは初めて、わたしが古代史をやり始めて間もない頃です。三十年ほど前ですが、島根県へ行きました。島根県は、ご存じのように東三分の二ぐらいが出雲で、西の三分の一が石見の国です。その石見の国でも出雲よりのところに大国村がありました。(訪問当時は、仁摩町)わたしは、ここが目見当ですが、大国主となにか関わりがあるのではないか。大国主というのは、字面どおり「大国」という場所の主人と名乗っています。島根県を調べましても、他に「大国」というところはありません。周りを調べましても、ここにしか「大国」というところはありませんから、大国村が大国主の名前と関わりがあるのではないか。そのように想像しました。想像そのものはいくらでも出来ますが、やはり現地に行ってみなければならない。
 これは、わたしが尊敬する学者で秋田孝季という江戸時代寛政年間の人ですが、その人が言った言葉がある。「歴史は足にて知るべきものなり。」、これは注釈は要りません。名言です。彼自身、日本列島を歩き回り、海外まで調べ回った人です。
 元にもどり、やはり現地に行ってみなければならない。そのように考えて妻と一緒に大国村へ行きました。そこには旅館が一軒しかなかった。その村の旧家の方が、旅館というか、人を泊める生業を営んでおられた。すばらしい建物の家でした。そこで夕食の時、お聞きしました。
「この土地の古い謂れを、ご存じの方をご紹介いただけないでしょうか。」とお聞きしました。そうすると御主人の奥さんが「おばあさんが良く知っております。」と言われましたので、お願いいたしました。品の良いおばあさんが、階段から下りてこられました。
 わたしが、「大国主命について、お話が何か残っていないでしょうか。」と、お聞きしました。そうすると「その方はわたしの家でお泊めした方でございます。」と、おばあさんが答えられました。わたしは、本当にそうか、訝りました。
 その人がさらに言われたのは、「その方は賊に追われて逃げてこられ、私の家でお匿い申したことがございます。」と答えられ、いよいよ、これは大丈夫なのかな、勘が狂ったのではないかと思いました。
 それで、さらにこの村の郷土史に詳しい方をご紹介いただいて、お会いしました。しっかりした感じのおじいさんが居られました。わたしは、さらに大国主命についてご存じのことはありませんかと、同じことをお聞きしました。
 ですが、その方の言われることには、「あの方には、私どもはたいへん迷惑致しました。あの方は、たいへん女好きな方です。あちこちの女を、自分のものにしては、それを拠点にして勢力を広げる。そういうことを繰り返し、繰り返し行った、たいへんお上手な方です。われわれ村の者は、たいへん迷惑いたしました。」
と言われました。これで二人の方に同じようなことを、お聞きしました。
 また近くの洞穴に案内していただき、そこに大国主命が住んで居られたと言われました。わたしも行って入り口の写真を取りました。洞穴には、マムシが出るというので入りませんでしたが。
さらに私が「大国主は、この村の方ですか」と尋ねると、「いえ、いえ!この村の方では決してございません。よそから、お見えになった方でございます。」と答えられ、とんでもないことを言う、そのような応答だった。再度、「よそと言われるが、どこですか。」と尋ねると、「それは、どこから来られたか分かりませんが、村の方では決してございません。」と、そこだけ念を押す奇妙な問答をかわした。
 今お話ししたのは、聞き取った話の、エキスの部分です。それでわたしが感じとったのは、どうもこの村の人にとっては、大国主は非常にリアルな存在である。しかもお聞きのように、たいへん誇りにするというよりも、たいへん迷惑至極な存在としてとらえられている。そういうイメージである。どうもそのような人物だった。
 聞いていて、まるで戦国時代やり手だった若い頃の秀吉の話を思い浮かべながら、大国主の話を聞いていた。明治は遠くなりにけり。それはとんでもない話だ。弥生はいまだに生きている。その村の人にとっては、弥生はまだ近いのです。
 わたしはその時までは、大国主命は架空の人物であると思い込んでいた。本日昼の食事の雑談で小学生の時、おおきな袋をかついで因幡の白兎を学芸会で演じたという人がいましたが、わたしもやりました。ですが大国主命は、実在の人物である。童話のあの話は、架空の話である、架空の人物である、そう思っていたのは、おおきな間違いだった。そのような結論を得たのが、大国訪問の、おおきな成果でございます。

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