『松前史談まさきしだん』第31号(平成27年3月 愛媛県伊予郡松前町松前史談会編)から転載
合田洋一
「伊予」と「愛媛」の語源については、今までに様々な見解があった。しかしながら、私の納得するものではなかったことから、これを新しい学説の「言素論」と考古学上の遺物に基づいて、論証を試みた。諸兄のご批判を仰ぎたい。
先ず、「伊予」の語源について述べることにしたい。従来説としては「温泉説」「湧水説」「弥いや説」などがあった。中でも定説となっていたのは「温泉説」であるが、それは次のようである。
往古、伊予国内には各地に温泉があったことから、「出湯いでゆの国」と言われていたものが、それが「いゆの国」となり、転化して「いよの国」となった (1) というのである。
しかしながら、これは変である。その訳は、古代より日本国中に温泉が至る所にあったので、そうなると温泉があるところは、全てとは言わないまでも、そこが「イヨ」という地名になっていても不思議はないからである。
ところが、そうはなっていないのである。「イヨ」の現存地名は、愛媛県以外では福岡県遠賀川流域・鞍手郡鞍手町の「小牧イヨ谷遺跡」ただ一ヵ所あるだけである。
拙書『新説 伊予の古代』で詳述しているが、これは平安時代の火葬墓遺跡であり、建久年間(1190〜1198年)に伊豫という武士が牧場を開いたことから起こった地名である、という。 (2)
つまり、鞍手町の「イヨ谷・伊豫」は、検証を古代に遡ることも、また温泉との関わりもなく、後世の人物に由来した地名であることが解った。
従って、他に類例を見ない「伊予」地名の「温泉根源説」、つまり「出湯いでゆ」 ーー 「いゆ」 ーー 「伊予」に至る変遷は、どう考えても“こじつけ”であり、無理と言わざるを得ないのである。
それでは、「伊予の語源」は一体何か。
その答えは、古田武彦氏提唱の学説である「言素論」から導き出される。
人類がこの世に出現して言葉を発して行く過程は、初めは「ア」とか「イ」とか「オ」などの単語(単音)であったことは言をまたないであろう。そしてそれは、人種・民族固有に発生してそれぞれの言語に発展したと考えられる。
そこで、これらに鑑み古田氏は、言語学として「言葉の素もと」、つまり「言語元素」という概念に立ち、日本語の「言素論」を体系づけたのであ。(3) それによると、
「伊=イ」は、壱岐・出雲・伊豆・或いは泉・井戸などの「イ」で、「神聖な」の意(石鎚・射狭庭などの「イ」も ーー 筆者)。
「予=ヨ」は「世の中」の意。
という。つまり、「伊予」の語源は「神聖な世の中」ということである。
そうであるならば、何が「神聖」なのであろうか。伊予国内に何か“格別な”神聖なものでもあるのであろうか。
例えば、「聖なる山・石鎚山」などは如何であろう。しかしながら、「聖なる山」は全国至る所にあるので、これなどは格別なものとは言えない。
ところが、これに適うものがあったのである。
それが「エヒメ」である。そして、この「エヒメ」が「イヨ」の語源と“一体”となるのである。そこで、次に示す「エヒメ」の語源を考察することにより、拙論が成り立つと考えた。
「愛媛」という県名は、明治六年(1873)2月20日に、石鐵県(旧・松山県)と神山県(旧・宇和島県)が合併して誕生した。(4)
そして、「エヒメ」の初見は『古事記』である。同書の「国生み神話」の「大八島国の生成」に、
「次に伊豫いよの二名ふたな島をうみき。この島は、身一つにして面おも四つあり。面毎おもごとに名あり。故かれ、伊豫いよ國は愛比賣えひめと謂ひ、讃岐さぬき國は飯依比古いいよりひこと謂い、粟あわ國は大宜都比賣おおげつひめと謂い、土佐とさ國は建依別たけよりわけと謂う。」(5)
とある。「国生み神話」に登場する国々は佐度島を除き全ての島(『日本書紀』は島ではなく洲くに)に「亦の名」があるが、古田氏によると、この亦の名は古い呼び名であるという。
「伊予」より「愛媛」の方が古い地名であったのである。
それでは、「愛媛」の語源を「言素論」で繙くと、『古事記』の「愛比賣」の意は、
「愛=エ」は、笑(愛)顔・愛らしいの意。
「比=ヒ」は、お日さま・太陽の意。
「賣=メ」は、女性を表す言葉「ヒルメ」や「ウネメ」の意。
であるという。
つまり、「笑顔の素晴らしい太陽のような女性」の意となる。
ところで、男性から見れば女性は皆「愛らしい太陽のような存在」であるので、飛躍した言い方になるかも知れないが、全国“全て”の地が「愛媛」と言われても不思議はない。
しかし、「言素論」ではそうなるはずなのに、現実は違う。何故ならば、「エヒメ」地名は他にないからである。
そうであるならば、先述した「神聖な世の中」を表す「イヨ」と、それを裏づける「エヒメ」、これが“一体”となるとは、どのようなことなのか。解りやすく言えば、何が「エヒメ」なのか。その答えは次のようである。
それは、北条(現・松山市)の「新城山しんじょやま」(標高161メートル)にあった。更に言うと、この山の頂上部分にある巨石群の中の一つ「鏡かがみ・女神岩めがみいわ」(6) にあったのである。
古田氏はこの岩を名づけて「愛媛岩えひめいわ」とした。(7) そして、この岩の形は全国でここだけであるという大変貴重な岩なのである。
ところで、わが国では旧石器・縄文・弥生時代は、巨石は信仰の対象であった。
その中の「鏡岩」とは如何なるものであったのか。この形態の岩は、全国各地にあり港の入り口付近にある場合は、沖合を航行する舟にとって、港に至る道標となるのである。何故ならば、この岩は自然の花崗岩で出来ているが、磨くと光るからである。“月明かり”や“太陽の明かり”で光ることから古田氏は「縄文灯台」と名づけた。(8)
一方の「女神岩」は、V字形をしており、女性の陰部を表している。この岩の形態も全国至る所にある。
しかしながら、前述したように、この「鏡岩」と「女神岩」が合体している形態が全国唯一ここだけにあるという。海岸に面した「鏡岩」に、その背後に斜めに一枚の岩がセットされ、それでV字形になっていることから、「鏡・女神岩」となるのである。但し、人手が加っているかどうかは解らない。
これが、古代人にとっては、正しく「愛比賣」であり、「伊予の亦の名」に最も相応しい、神聖な岩と見なされたに違いない。
従って、この地は往古「エヒメ」と言われていた、となる。
この岩の発見者は竹田覚氏(9) である。氏は古田氏の足摺岬での実験と同様、この岩でもアルミ箔を張って実験したところ間違いなく海岸・沖合からも光り輝く様子が確認できた。(10)
私は、「国生み神話」の「伊予之二名州いよのふたなのくに」の比定地は、風早(旧・北条市)にあった往古の難波・那賀であると論述している(『新説 伊予の古代』)。即ち「二つの“ナ”(水辺の意)」で「二名」である。
そして、この難波の地にある「新城山」は、巨石文化を象徴する霊山なのである。それは、この山の中腹には、巨石群を囲むように古墳が四十三基築かれていたことからも「霊山」としての位置づけが確認できる。(11)
ところで、拙書で論述しているが、私は風早こそ伊予では最も古くから開かれていた地と考えている。
その訳は、伊予国内でも屈指の旧石器・縄文・弥生時代の遺跡の多さにある。それに至るには、壱岐島の風早(現・勝本、近くに新城の地名もある)から先進文明をたずさえた風早氏、その後九州遠賀川流域の物部氏がやって来て、この地に根づいたと考えられること、そしてその一因は、関門海峡を抜けると真っ直ぐ行き着く先が風早の地であること、などによる。
そのようなことからもこの風早の地が、往古伊予の中心地であり、神聖な地であったが故に、『古事記』の「国生み神話」に、「伊予の国、亦の名を愛比賣と謂う」として、登場したものと推察する。
なお、当時の洲(くに国)の範囲は、「愛比賣」であっても「伊予」であっても小さな領域であったことは、古田説により明らかである。(12)
因みに、この風早の地は縄文時代末から弥生時代中期までは、伊予の文化の中心地であり(『国造本紀』に「風早国造」が出ていることから「風早国」があったと考えている)、その後は越智氏の勃興により「越智国(旧朝倉村中心・現西条市・新居浜市・今治市一帯)」にその座を明け渡した。そして、平安時代中期末より風早に河野氏が興り、室町時代からは伊予国主・河野氏の拠点が道後に移ったことに伴い、道後温泉のある松山平野が伊予の中心になったことを付言しておきたい。
以上、仮説ではあるが、「伊予」と「愛媛」の語源について述べた。
言うまでのないことではあるが、地名にはその地の歴史の真実が反映されている。それが、通説とは違って大きな意味を持つ場合もあり、はたまた歴史を覆すほどの恐るべき場合もあるのである。
例えば、私が目下研究を進めている越智国明理川にある「紫宸殿」及び「天皇」地名(13)は、その最たるものであろう。何しろ、「紫宸殿」は天子・天皇の御殿であり、わが国でその存在が確認されている所は、太宰府と平安御所だけである。そして、天子・天皇の居ない所にこの名称が付くはずがないので、ことの重大さに驚愕しているが、反面、大いなるロマンも掻き立てられるのである。
そのことは、「多元史観・九州王朝説」で考察すると、「白村江の戦い」(662年 ーー 古田説)での敗戦から「大宝元年(701年3月21日)(14)」までの一時期、越智国明理川の地が、
「日本の首都だった?」
という恐るべき命題が出来しゅったいしたのである。これは、日本の歴史を根本から覆すこととなろう。このように地名には、後世の人達には知りえない歴史の真実が隠されていることがある。
終わりにあたって、「愛らしい太陽のような女性」を表現する「愛媛岩」の存在が、「神聖な世の中」を意味する「伊予」になった、と私は考えている。
「愛媛県」とは、何ともはやロマンチックに人々を悠遠の古代に誘う、素適な県名の由来ではなかろうか。これこそが、温暖・風光明媚・人情味溢れる土地柄に最も相応しいのではあるまいか。「伊予」と「愛媛」の語源が “合体”した不思議な意味合いに注目して戴ければ幸いである。
(注)
(1) 『朝倉村誌』など。伊予国内の温泉は、天武天皇7年<678>と同13年<684>の西日本大震災により湧出が止まり潰滅、後に奈良時代になって道後温泉のみ復活。
(2) 「イヨ谷」の地名は『明治前期全国村名小字調査書』に小字こあざとして「イヨ谷」があり、昭和3年の『剣つるぎ村誌』地名考に小字として「伊豫谷」がある。鞍手町歴史民族資料館の高倉富恵氏にご教示頂いた。
(3) 『多元』連載 ーー 多元的古代研究会編。
(4) 景浦勉著『伊予の歴史(下)』愛媛文化双書20、平成7年9月。
(5) 岩波文庫本
(6) 「鏡・女神岩」他、「男神岩」「祭壇」など多数あり。
(7) 『デイリータイムズ』2004年11月号。
(8) 古田武彦実験・監修、土佐清水市文化財調査報告書『足摺岬周辺の巨石遺構』1995年、土佐清水市教育委員会編 ーー 膨大な報告書の中で注目すべきは、岩にアルミ箔のレフを張り昼夜実験して、それが灯台の役割をしたことを検証した。
(9) 元・北条ふるさと館の初代館長、現・古田史学の会・四国の名誉会長。
(10) 2002年6月7日実験、これらについては拙書『国生み神話の伊予之二名洲考』2002年7月31日・風早歴史文化研究会編、その後『聖徳太子の虚像』2004年7月10日・創風社出版、『新説 伊予の古代』2008年11月1日・創風社出版で論述。
(11) 因みに隣接の「腰折山」に二基「恵良山」に三基の古墳がある。
(12) 古田武彦著『盗まれた神話 -- 記・紀の秘密』1975年・朝日新聞社、2010年3月ミネルヴァ書房より復刊。
(13) 旧・東予市壬生川町大字明理川字紫宸殿及び天皇(現・西条市)。最初の提起者は今井久氏(古田史学の会・四国幹事)。初見は明治九年『合段別畝順牒』所収、愛媛県立図書館所蔵、大政就平氏(古田史学の会・四国幹事)にご教示を得た。拙論「続・越智国にあった『紫宸殿』地名の考察」は『古代に真実を求めて』第十六集(古田史学の会編、明石書店)所収。他『松前史談』第二十九号にもあり。
(14)弥生時代の紀元前250〜200年頃(「天孫降臨」後)から701年3月20日まで、日本列島(但し、沖縄・東北・北海道を除く)の主権は、九州王朝倭国(倭奴国・イ妥国)にあり、近畿王国は伊予国内の小市(越智)国・怒麻(野間)国・風早国・久味(久米)国・伊余国などと、規模の違いはあるが同格で、“個別独立に存在”していて、いずれも九州王朝の傘下であった。そして、新生「日本国」の成立は、近畿王朝の手により、元号を「大宝」と定め、701年3月21日文武天皇に始まった。
(当論稿は『伊豫史談』三七三号 ーー 平成26年4月号より転載・加筆した)
ホームページ へ