水野孝夫(古田史学の会代表)
古代からの土地の区画方式に【条里制】と呼ばれる制度がある。現在も北海道と沖縄を除く日本各地に条里制の遺構が残っており、例えば、二〇〇四年末に古田先生と共に訪れた法隆寺東門前から塀に沿って北に向かう小道は灌概水路を伴い、条里制の遺構であろうと解説されていた。
知られている地割の基本単位は約一〇九メートル四方の正方形である(菱形や長方形の場合もある)。古代日本では約一〇九メートルは一町(=六〇歩)に当たり、約一〇九メートル四方の面積も同様に一町と、または坪、坊とも呼ばれていた。細かく見ると一町(面積)は一〇段に当たっており、一段ごとに地割りされていた(地割方法は長地型と半折型に大別される)。
整然と区画された坪は、六×六の三六坪をもって、より大きな区画単位を構成していた。より大きな区画単位は「里(り)」と呼称され、里の横列を「条(じょう)」、里の縦列を「里(り)」とし、任意に設定された基点から、縦方向には一条、二条、三条、横方向には一里、二里、三里というように、明快な位置表示が可能となっていた。
従来、条里制は班田収授制に伴い施行されたものと見られてきた。律令制では民衆に支給する(班田収授する)農地の面積を一律に定めていたことから、整然とした条里区画は班田収授との強い関連が想定されていたのである。『日本書紀」では「大化の改新詔」に「班田収授法」の記載があり、従って孝徳天皇・大化年間(六四五年ころ)から始まったとする説は現在も残っている。
しかし、考古学の研究成果によれば、条里制が全国的に広く展開し始めたのは古くても奈良時代中期であり、飛鳥時代又は奈良時代初期に開始したと見られる班田収授との関連が重視されなくなっている。
奈良時代中期に顕著に見られた現象は、墾田永年私財法の施行で盛んとなった富豪や有力寺社による農地開発(墾田)であった。このことから、条里制は富豪や有力寺社を中心とした民間部門による農地開発に伴って成立した、とする説が非常に有力である。
(以上の記述の大部分は、辞書『大辞林』及びインターネット上の百科事典・Wikipediaによる)
つまり、史書によれば、大化年間に始まったはずの条里制が、その展開は考古学の成果によれば一〇〇年ほど遅れるのである。そして「奈良時代前期に、班田収授に伴って条里制が布かれたのは、おそらく奈良盆地や大阪平野など一部の地域に限られたのだろうと考えられている。条里制の施行を示す文献は残存しておらず、地面に残るものだけが唯一の史料であることから、条里制の成立を解明するには、まだ多くの障壁が存している。」(Wikipedia)という。
古田先生は、福岡県・田主丸(たぬしまる)町の「正倉院」が、従来は、八世紀初頭の道臣(国府の長官)の築造とされてきた(条里制と共に)ことに関して、“「年輪年代測定法」によって、従来の考古学編年は約一〇〇年さかのぼらせられることとなった。七世紀前半である。九州王朝の時代(七〇一、以前)だ。すなわち「崇道天皇の治世」である”との仮説を述べられた。
しかし果たして「条里制の施行を示す文献は残存しておらず」であろうか?
『二中暦』・年代暦の末尾近くに次の記述がある。「朱鳥九年丙戌 阡陌町収始又方始、大化六年乙未(下略)」。これは「九州年号」であって、その意味は「朱鳥という年号は九年間統き、元年の干支は丙戌であり、その年間のできごととして、「阡陌町収始又方始」があったのである。「・・・・」の部分の訳注を見たことがないが、古田先生は『壬申大乱』のなかに読み下しを付けられている。「阡陌町収始まる。又方、始まる」これは何を意味するのであろうか。
「阡陌」は辞書では「音=センバク」。田のあぜ道。東西を陌、南北を阡という。一説に、東西を阡、南北を陌という。転じて、耕作地」となっている。「阡陌町収始まる」とは、田に道を通して一町をその中に収めることを始め、「又方、始まる」は田の面積調査を始めたものと解したい。古代の算術書の最初の章はたいてい「方田」で始まり、面積の計算方法を述べてある。
わたしはこれが「条里制の施行を示す文献」であると考える。従って九州王朝は六九〇年頃に「条里制」を開始したと考える。
もっとも『日本書紀』・成務紀には「五年秋九月、令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置。並賜盾矛以爲表。則隔山河而分國縣、隋阡陌以定邑里。因以東西爲日縦、南北爲日横。山陽日影面。山陰日背面。是以、百姓安居。天下無事焉。」とある。これが「条里制」の開始であるのかも知れない。
(二〇〇五年一〇月二〇日記)
(みずの・たかお)
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