『古代に真実を求めて』 第四集 へ

倭国の律令 筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度 増田修(『市民の古代』第14集)

条里制の開始時期 水野孝夫(『なかった』創刊号) へ

古田史学論集『古代に真実を求めて』 第四集
二〇〇〇一年十月 明石書店

多元的古代の土地制度

大越邦生

    一 田積法(度地法)の画期線

 「改新之詔」の研究は、今日まで藤原宮や伊場出土の木簡によって大きく進展した。その成果として、行政制度の七〇一年を境にした「評制」から「郡制」への変化、同年を境にした「部」制の廃止、また、七〇一年を境に創設された「京師・畿内」などが判明している。(1)
 一方、『旧唐書』によると、我が国の中心国は、七世紀末までは「倭国」、八世紀からは「日本国」として扱われている。
 こうした研究が示唆するところは「改新之詔」の郡や部、京師や畿内は、七〇一年の大宝令を五十五年近く繰りあげ、年次の偽造を行っていた。つまり真の歴史の転換点は七〇一年にあったということにある。
 私は、これまでの古田氏をはじめとする研究につけ加えて、「改新之詔」第三条の田積法・田租法においても同様の結論を見い出したのでここに報告する。
 私の方法は、年次の特定できる木簡と碑文、そして、「慶雲三年九月十日の格(七〇六)」(『令集解』所収の田令田長条の古記に引用)の史料を基に、「改新之詔」の田積法・田租法を史料批判するというものである。
 まず、碑文及び藤原宮跡出土の木簡を示そう。
(1) 「辛酉年三月十日」「百代主艾 百代[   ]」(斉明七年 六六一)
(2) 「百代得次五百代中二百代得[   ]百代」「鴨□□傳 申四百代得次三百代中」(年次不明。ただし同じ場所より出土の木簡に「大宝三年」と記すものあり)
(3) 己丑(持統三年)年十二月廿五日采女氏塋域碑
「飛鳥浄原大朝廷大弁官直大弐釆女竹良卿所請造墓所形浦山地四千代他人莫上毀木犯穢傍地也」

 以上のように、田の面積を表す単位は、すべて「代」である。(2) 一方、大化二年正月の「改新之詔」第三条では、「町・段・歩」の単位が規定されている。それは次のようである。
(4) 「其三日、初造戸籍・計帳・班田収授之法。(省略)凡田長三十歩、廣十二歩為段。十段為町。段租稲二束二把。町租稲廿二束」

 (1)の木簡が六六一年を示し、その田積単位が「代」であることからして、「改新之詔」第三条が六四六年当時施行されていたものではないことが判明する。それにしても、書紀において田積単位としての「代」がまったく姿を表さないのは不審である。
 さて、(1)~(3)の史料だけでは、田積単位が「代」から「段」に変わった時期を特定することはできない。それを明確に示すのは、次の「慶雲三年九月十日の格」である(以下「慶雲三年の格」と記す)。
(5) 「慶雲三年九月十日格云、准令、田租、一段租稲二束二把。〈以方五尺為歩、歩之内得米一升〉。一町租稲廿二束。令前租法、熟田百代租稲三束。〈以方六尺為歩、歩之内得米一升〉一町租稲一十五束。右件二種租法、束数雖多少、輸実不異。(省略)」

「慶雲三年の格」の田積法・田租法を表で示そう。

  田積単位 一歩の規定 租稲
令内 百代・歩・一町 方六尺で一歩 米一升を得る 百代(三束) 一町(十五束)
令前 一段・歩・一町 方五尺で一歩 米一升を得る 一段(二束二把) 一町(二二束)

 この格には「令前」と「令内」の二種の租法があったことが記されている。その中に、「令前」は「代」、「令内」は「段」の単位が使われていたことが期せずして述べられている。ここでいう「令」はいつの令を指すのであろうか。慶雲三年時点で「令」といえば、それは大宝令しかない。にもかかわらず「令前」の令を浄御原令とする説がある(虎尾俊哉)。浄御原令を租法の画期線とみなす考えである。しかし、仮にそうであったとしたなら、格は「浄御原令」と明記されていたに違いない。そうでなければ格の受け手に内容が正確に伝わらないではないか。
 「慶雲三年の格」が伝えたい眼目は「令」を境に二種類の租法があり、両者は租稲が異なっているが、実際の「輸実」は同じである、という点にある。それを言うのに、大宝令と浄御原令のどちらをも「令」と呼んで混乱を招くような表記をとるとは極めて考えにくい。例えば「戦前、農村は○○であった。戦後、農村は○○となった」というような文章があったとき、戦前の「戦」が第一次大戦、戦後の「戦」が第二次大戦を指すというような表記をとることがあろうか。

 結論、「令」は大宝令を指し、租法は、七〇一年で令前・令内の一線を画されていると理解されるのである。
 「慶雲三年の格」は、大宝令(七〇一)を境にしてそれ以前の田積単位は「代」、それ以降は「段」であったことを示していた。このことは、先の木簡や碑文とも矛盾なく一致している。その立脚点に立つと、「改新之詔」第三条の「班田収授法」は、七〇一年の大宝令においてはじめて制定されたものと結論される。また、書紀の編纂者はそれを五十五年近く繰りあげていたことになる。(3) その視点から改めて検討されるべきは『日本書紀』及び『続日本紀』である。
 第一に、大化二年の「改新之詔」とまったく同じ根拠(「町・段・歩」の単位をとっている)から否定されるべきは、白雉三年正月の班田記事である。そこには、次のように記載されている。
(6) 「自正月至是月、班田既訖。凡田、長州歩為段。十段為町。段租稲一束半、町租稲十五束」

白雉三年正月記事の田積法・田租法を、大化二年の「改新之詔」と比較すると左表のようになる。

  田積法 田租法
大化二年 長さ三十歩広さ十二歩を段、十段を町 段の租稲二束二把、町は二十二束
白雉三年 長さ三十歩を       段、十段を町 段の租稲一束半、町は一十五束

 この記事の矛盾点を列挙してみよう。
 1). 正月の条なのに「正月よりこの月に至り」とある (4)(別の解釈も成り立つので、注(4)を参照されたし)。
 2). 同年四月条に「是月、造戸籍」とあり、造籍が班田より後になっている。
 3). 慶雲三年以降に施行された、いわゆる「折衷租法」(田積法は「令内」、田租法は「令前」を折衷した方式)になっている。(5)

 先に示した私の見解からこの記事を見ると、白雉三年正月は、大化二年から数えて六年目であり、六年ごとに班田が行われるという建前からこの時点に設定されたもの、つまり「改新之詔」偽造の補完と解釈される。大化二年記事が大宝令からの挿入であるとする先の帰結からすると、白雉三年の班田記事は、本来は大宝元年から数えて六年目、慶雲四年にあった記事ではないだろうか。慶雲四年ならすでに「折衷租法」が施行されており、白雉三年の班田記事が「折衷租法」になっていることと矛盾がない。
 さて、関連して『続日本紀』慶雲四年の正月条には、年月記載だけあって記事が欠落するという不思議な史料状況がある。
(7) 「四年春正月。二月乙亥」(『続日本紀』慶雲四年正月)
 このことを岩波新日本古典文学大系『続日本紀』では、註で『正月は庚子朔だから、乙亥はない。二月は庚子朔で、乙亥は六日。したがって「正月」の下には脱文があるものと思われる』と解説している。これは思うに、本来ここに位置していた班田記事を白雉三年正月に移動したために生じた空白ではないだろうか。

 『日本書紀』及び『続日本紀』の検討の第二。大化二年と白雉三年の記事を除くと、ようにはっきりと二分されている。
(a) 崇峻即位前紀から持統三年まで
 「頃」六    「畝」一
(b) 持統四年以降
 「町」十一   「歩」一(『続日本紀』では、(b)に引き続き「町」の単位が連続している)

 (a)では、「代・歩」の代わりに中国の単位である「頃・畝」が使われている。(6) ここに書紀の田積法中、大きな謎がある。これを私は大化元年八月条の記事により解明したい。
(8) 「謂檢覈墾田頃畝及民戸口年紀」(『日本書紀』大化元年八月条)

 この記事は『後漢書』光武帝紀と同文であり、かつ盗用である。
(9) 「詔下州郡、檢覈墾田頃畝及民戸口年紀」(『後漢書』光武帝紀〕

 その内容は、国司に対して戸籍を造り田地の調査を命じ、耕作された田の面積を「頃・畝」の単位で表記するよう指示する詔である。これまでに判明した書紀の手法によれば、「評」の「郡」への書きかえのように、もし書紀の編纂者が「代」の単位を忌避するなら、すべて「町・段」に書きかえていてしかるべきであろう。だが、そうなっていない理由がこの記事にある。
 このことについて、書紀はたいへんな不体裁を成している。大化元年において「頃・畝」による田積の詔を出し、一方で、大化二年において「町・段・歩」による田積の詔を出しているのである。これら二つの記事はどちらも他からの挿入であるが、結果として、書紀の編纂者は「代」の単位を書きかえるにあたって、両記事の影響を受けざるを得なかった。ひとつは『後漢書』光武帝紀の記事であり、もうひとつは、「改新之詔」の田積単位の開始宣言である。そのため、書紀の七〇一年以前の「代」の書きかえは、前半を「頃・畝」で、後半を「町」の単位でと書き分けることになったのではないだろうか(持統四年以降の「町」使用については九州王朝関連記事の可能性があるので後述する)。
 章の終りにあたって、ここまで「田積法の画期線」について検討を行ってきたが、まったく同様の観点(慶雲三年の格)から、田租法においても七〇一年の「画期線」が見い出されることをつけ加えておきたい。

 

     二 倭国王朝の土地制度

 大宝二年の戸籍残簡が正倉院文書の中に現存している。陸奥、御野、筑前、豊前、豊後の五ヶ国である。
 次は、御野国の国造の例である。

《上政戸国造族加良安戸口五十一》
 正丁七 兵士一 少丁一 小子八 縁児一       併十八
 正女八 次女一 少女一 小女五 縁女四 老女一 併廿
 正奴一 少奴二 小奴三 縁奴一            併七
 正婢四 少婢一 小婢一                  併六

 この戸籍では、各戸の戸口数の内訳(六歳以上の男十八、女二十、奴七、婢六、小計五十一人)はわかるが、受田額などについてはわからない。
 一方、「西海道戸籍残簡」(以下「西海道戸籍」と記す)には、名前・歳・係累・受田額が記載されている。
 西海道戸籍は、次の戸籍の総称である。記載様式はもちろん、用紙・寸法その他細部の点にいたるまで共通点が多く、同時に作製された可能性が高い。
 筑前国嶋郡川辺里戸籍
 豊前国上三毛郡塔里戸籍
 豊前国上三毛郡加目久也里戸籍
 豊前国仲津郡丁里戸籍
 豊後国戸籍

 西海道戸籍の筑前国嶋郡川辺里「卜部乃母曾」戸の例を示そう。

 戸主卜部乃母曾、 年肆拾玖歳 正丁課戸
 母葛野部伊志売、 年漆拾肆歳 耆女
 妻卜部甫西豆売、 年肆拾漆歳 丁妻
 男卜部久漏麻呂、 年 拾玖歳 少丁 嫡子
 男卜部和哥志、 年  陸歳 小子 嫡弟
 女卜部哥吾良売、 年 拾陸歳 小女
 女卜部乎哥吾良売、 年拾参歳 小女 上件二口嫡女
 従父弟卜部万名、 年肆拾陸歳 正丁
 妻中臣部比多米売、 年参拾漆歳 丁妻
 男卜部黒、 年 拾漆歳 小丁 嫡子
 年男卜部赤猪、 年 拾陸歳 小子
 年男卜部乎許自、 年  弐歳 緑児 上件二口嫡弟
 年女卜部比佐豆売、 年 拾捌歳 次女
 年女卜部赤売、 年 拾参歳 小女
 年女卜部羊売、 年  玖歳 小女
 年女卜部麻呂売、 年  壱歳 緑女 上件四口嫡女

                        受田弐町弐段陸拾歩

 戸主に始まって、十六人の係累や氏名・年齢が書かれている。また、受田額の合計が二町二段六十歩であることがわかる。こうしてみると、西海道戸籍は、御野国戸籍よりはるかに当時の戸籍の実情を知るに適しているといえる。
 そのため、西海道戸籍は過去多くの研究者による探究がなされてきた。しかし、研究者がそろって首をひねる問題があった。それは、大宝二年の大宝田令に基づいて施行された造籍が、その基準で計算すると、末尾の口分田合計額にならないという事実であった。「卜部乃母曽」戸でいうなら、構成員は、六歳以上の男子六名、女子八名であるから、大宝田令の基準で計算すると、次のようになるはずである。

 男子の口分田・・・一町二段
 女子の口分田・・・一町  二百四十歩
 _________________
     計    ・・・二町二段二百四十歩

 しかし、西海道戸籍における受田合計額には、二町二段六十歩と記載されている。
 この謎は、古代土地制度の長い研究史の中でも極めて劇的な解決をみた。各戸の口分田受田額と戸口数との数理的整合性を図るという方法により真相が明らかにされたのである(虎尾俊哉)。 (7) しかし、問題はそれからであった。解明された基準は、大宝田令とは大きくかけ離れたものであった。すなわち、西海道戸籍は、大宝田令とは異なる規定、もしくは「令」によって造籍されていたことがわかったのである。

 その第一。(a)筑前、豊前、豊後国には、それぞれ独自の受田額の基準があった。
 表で示そう。

《筑前国》

  奴婢
六〇〇 一八〇
四二〇 一二〇

《豊前国》

  奴婢
五九六 一九八
三九六 一三二

《豊後国》

  奴婢
四七八 不明
三一八 不明

《大宝田令》

  奴婢
七二〇 二四〇
四八〇 一六〇

        単位(歩)

 いずれも、大宝田令の受田基準に適合していない。
 第二。次のような基準も内在していた。
(b) 国ごとの基準は、郡または里レベルで変化しない。
(c) 大宝田令では「五年以下不給」(六歳受田)とされていたにもかかわらず、一歳以上で、戸籍に登載された者はすべて受田資格があるとみなされた。つまり「一歳受田」制であった。
 以上の事実は、文献上から知られたことではない。不自然な受田額の実態から「発見」されたのである。造籍にあたった者はそうした制度を知悉しており、成文化された先の数値を傍らに置いて作業していたことは疑いない。にもかかわらず、造籍の主体者は、そうした旧制度の存在について口を閉ざしているのである。
 このことが意味することは重要である。すなわち、全国一律の受田基準・六歳受田制などは、大宝田令ではじめて制度化されたものであり、それ以前は、国別受田基準・一歳受田制などが存在していた。つまり、ここでも八世紀初頭における不連続線、先にも問題にされた「画期線」の存在が明らかになるのである。
 さて、これらの規則が発見されて以降、西海道戸籍研究は、その解釈へと推移していった観がある。大宝二年以前の制度を浄御原令に求めようとする説(虎尾俊哉)。その一方で、虎尾説に対する疑問も表明されてきた(岸俊男)。(8) しかし、先の(a)~(c)が浄御原令の土地制度であるなら、なぜその残簡すら残っていないのだろうか。そして、浄御原令が(a)~(c)の制を内包するという根拠はいったいどこにあるのだろう。そのことに深く首をひねらざるを得ない。
 さらに疑問がある。
 問A 豊前・豊後国の受田額の基本単位が、なぜこれほど煩雑な計算を必要とする「はしたの数」になっているのか。
 問B 筑前国の民の男女比、男女の「民・奴婢」比は、次のように大宝田令の規定と異なる。
民〔男:女〕=十:七 男子〔民:奴婢〕=十:三 女子〔民:奴婢〕=七:二

 にもかかわらず、奴婢の男女比だけは三対二で合っている。また、受田額の男女、家人・奴婢の比率が、豊前国で一致するが、筑前国で一致しないのはなぜか。
 問いへの答えの前に、研究論文、歌川学の「中世における耕地の丈量単位」(北大史学二)を紹介しよう。
 歌川氏によると、中世の丈量単位は一段を三分または六分するA型と、一段を五分または十分するB型に分類することができるという。普通にはB型に属する「杖」単位(一段の五分の一)が使われたが、筑前国では六杖一段制、すなわちA型の単位が用いられた例証が存在する。また、一般に筑前国は、A型地割分布の優勢な国であり、伊勢・常陸・豊後も同様であるという。
 歌川氏の研究は中世を対象としたものであるが、仮に「杖」地割が古代からの延長上にあったとしたなら、西海道戸籍の受田額は理解しやすい。一段をほぼ六分する単位を国ごとに想定してみると、筑前・豊前・豊後国の受田単位は、次のように極めてシンプルな数値にできるからである。

《筑前国》

  奴婢

 

《豊前国》

  奴婢


《豊後国》

  奴婢
不明
不明

筑前国 六十 歩を「一杖」
豊前国 六十六歩を「一杖」
豊後国 五十三歩を「一杖」

 仮に、この単位を古代における「杖」と呼んでおく。文献上には登場しないし、「代」ともまったく異なる地割単位である。「中世の土地制度を古代に当てはめると、このように理解できる」という仮説中の仮説である。しかし、このような地割単位が大宝二年以前、北部古代九州に存在したと想定する他に、私には解釈が不可能なのである。これが問Aに対する答えである。
 大宝二年以前に、筑前・豊前・豊後(他地域の可能性もある)に、大宝田令にはない独自の地割単位や受田の制度があったとしたなら、それは何を意味しているのだろうか。そして、『日本書紀』やその他の史料が、それを黙して語らないのはなぜだろうか。
 私には、『旧唐書』の七世紀末から八世紀初頭にかけての「倭国」から「日本国」への中心国交替という記述を直視する以外に、答えは得られないように思える(それは七〇一年を画期線とする様々な行政制度の変革についても同様である)。
 いわゆる「杖」の地割単位、一歳受田制や国別受田額制などの制度は、いずれも中心国交替以前の旧倭国王朝の制度だったのではないだろうか。七〇一年に発足した新政権(日本国王朝)は、従来の制度を基盤としながら、その上にさらに中央集権的な新たな土地制度を構築したのではないだろうか。受田額の比率も、西海道戸籍の豊前国をモデルに大宝田令の租率が制定されたと考えると理解しやすい。その場合、「西海道戸籍→大宝田令」の順での制定であり、決してその逆でないことは確認しておかなければならない。これが問Bに対する答えである。
 しかし、次のような疑問があるかもしれない。「造籍された大宝二年は、すでに新政権が発足し大宝令がスタートしていた時期ではないか」と。だが、私には、新政権が何の障害もなく土地制度の中央集権化を果たしたようには思えない。天平二(七三〇)年に、次の記事がある。
(10) 「辛卯、太宰府言、大隅・薩摩両国百姓、建国以来、未曾班田。其所有田、悉是墾田。相承為佃、不願改動。若従班授、恐多喧訴。於是、随旧不動。各令自佃焉」(『続日本紀』天平二年)

 大隅国と薩摩国は建国以来、班田を受けたことがないので、農民の耕地移動は難しい。農民の田地を移動させずに耕作させたい、とする太宰府の言上である。『続日本紀』によると、薩摩国の建国は大宝二年から和銅二年までの間、大隅国の建国は和銅六年となっている。言うまでもなく、これは日本国王朝における「建国」を物語っている。これらの国は、七〇一年から「建国」までの間は、旧倭国王朝の残存勢力であったものと思われる。
 ここで、七三〇年時点においてさえ、班田収授制が九州南部で行われていなかったという事実は注目に値する。この事実から、大宝二年時点の九州北部において、新政権の班田収授制が実施されなかった可能性は極めて高いのである。
 結論を述べる。
I  西海道戸籍は、七〇一年以前の倭国王朝の「令」の制度で造籍されている。
 (a) 倭国には国ごとの受田基準があった。
 (b) 「一歳受田制」は倭国の制度であった。
 (c) 倭国豊前国の男女・良賤の受田額比率は、大宝田令のモデルとなった。
 (d) 倭国には国ごとの地割単位があった。

II  班田収授制の「五年以下不給」制は、大宝令においてはじめて定められた。
III 御野国戸籍は、七〇一年以後の日本国王朝の大宝田令に基づいて造籍されている。

 関連して、倭国王族の末裔「肥君猪手」についてふれておきたい。
 この者は、西海道戸籍の筑前国中に見い出される。構成員の男女・奴婢の合計が一二六人(直系親族三一人、傍系親族二九人、寄口一四人、奴婢三九人、不明一三人)という全戸籍中群を抜いた存在であると共に、受田額においても十三町六段一二〇歩という大土地を領有していた人物である。所有地の大きさは、先の「卜部乃母曽」戸と比較してみるとわかるだろう。猪手なる人物は、郡大領といわれるが、「肥君」の尊称が示唆しているように、倭国王朝の旧王族の一人、ないしは旧天子であった可能性が高い。筑前国・豊前国・豊後国戸籍に、他に肩を並べる大土地所有者が見当らないことからも、その蓋然性は極めて高いといえるだろう。

 

    三 慶雲三年の格と西海道戸籍の断絶

 今まで見てきた「慶雲三年の格」の史料的信憑性は高い。それは次の理由からである。
(a) 『日本書紀』に登場しない「代」制について述べ、大宝田令とは異なる田租法の存在を記している。すなわち書紀などによって改変された形跡がない。
(b) 藤原宮跡(六九四~七一〇年)から出土する木簡の事実と一致している。
(c) 七〇一年を租法「令前・令内」の画期線としている。

 一方、西海道戸籍も、その史料的信憑性は高い。それは次の理由からである。
(d) 「一歳受田制」など、七〇一年以前の制度を残している。つまり、書紀の「改新之詔」や大宝田令によって改変された形跡がない。
(e) 西海道戸籍造籍の基準は、全戸籍の数理的処理から「発見」されたものであり、一見すると戸籍は、大宝田令の規定により造られたものと区別がつかない。ために七〇一年以前の制で造籍されたが、破棄されなかった史料の可能性がある。
(f) 七〇一年を土地制度の画期線としている。

 しかし、両者には矛盾がある。今一度、史料(5)「慶雲三年の格」を見てもらいたい。
 「令前」と「令内」の田積単位の一町はどちらも共通し、代も段も「百代=二段」で面積の単位換算が可能である。だが、一歩の大きさが異なる。これのもたらす結果について、論理の筋道をたどってみよう。

 1). 大宝令を境に、田積単位は「代」から「段」に変化した。
 2). 大宝令を境に、一歩の面積は高麗尺の「方六尺」から「方五尺」に変化した。
 3). 西海道戸籍は、大宝令以前の規定(おそらく令)により造籍された。
 4). 西海道戸籍の口分田合計額は、町・段・歩の田積単位で記述された。

 1). 3). 4).の命題を総合的に判断すれば、西海道戸籍の田積法は、本来「代」であったものを「町段歩」に書き替えたものと考えられる。その論理をさらに一歩進めてみよう。「代→町段歩」が行われたなら「町段歩→代」が成り立つはずである。西海道戸籍の「町段歩」で記述された口分田合計額は、「代」の単位に復元できなければならないのだ。ところが、全西海道戸籍をあたってみても、その可逆性が成り立たないのである。
 具体例で示すと、筑前国嶋郡川辺里「卜部乃母曽」戸の口分田合計額は、二町二段六〇歩であった。これを 2).の命題により、「令前租法」の「代」に換算すると、小数点以下の割切れない数値(一一〇八・三三三・・・・代)になってしまう。しかし、考えてみれば、それは当然である。「歩」の一辺の長さが違うからである。西海道戸籍口分田合計額の「歩」の数値が三六の倍数(またはゼロ)でなければ、「令内歩」から「令前歩」への換算はできないのである。にもかかわらず、条件を満たす西海道戸籍の口分田合計額は(ゼロの場合を除き)一例も存在しない。これは、前提とする命題のどこかが間違っていたとしか考えられない。
 結果を直視するなら、西海道戸籍はその成立時点で「町段歩」の田積単位で造籍されていたと考えるしかない。しかし、そうすると 1).の命題と矛盾してしまう。
 ここで私は、七〇一年以前の日本列島が、九州王朝・近畿王朝・関東王朝・東北王朝などの多元的国家の支配する情勢下にあったとする古田氏の学説に注目したい(時間帯に差はある)。特に古田氏の『旧唐書』日本伝に対する、次のような理解が重要である。
(11) 「日本國者倭國之別種也。(中略)或云日本旧小國併倭國之地」(『旧唐』日本伝)
__________________________
《七世紀》              《八世紀》
倭國=九州王朝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                         ・
倭國之別種=旧小國=近畿王朝 ーーーー 日本國
__________________________

 今まで、西海道戸籍が古代北九州の戸籍であるということには特段注意を払ってこなかった。しかし、西海道戸籍の筑前・豊前・豊後国こそは、古田氏の言う「九州王朝」の中枢領域そのものである。古田説を前提とすると、「慶雲三年の格」の令前租法は近畿王朝の土地制度、西海道戸籍造籍の基準は九州王朝の土地制度、令内租法は八世紀以降の日本国の土地制度、と私には整理することができるのである。
______________________________
《七世紀》                  《八世紀》
九州王朝 「町段歩」制(西海道戸籍)・・・・・・・
                            ・
近畿王朝 「町代歩」制 (令前) ---------------- 日本国王朝「町段歩」
______________________________

 この視野に立って「慶雲三年の格」、西海道戸籍、大宝田令の土地制度を改めて見なおしてみると、今まで気づかなかった疑問に思い至る。例えば、なぜ田積単位を「代」から「段」に変えたのか。なぜ一歩の面積を変えなければならなかったのか。なぜ田租法の取り扱いをあえて複雑な手続きを経てまで変えなければならなかったのか。なぜ七〇一年以前の受田制度等を隠したのか、などである。しかし、今は、その答えは明白である。理由は、七世紀末まで九州王朝と近畿王朝の異なった土地制度が併存していたからである。八世紀初頭に統一を果たした日本国王朝(旧近畿天皇家)は、九州王朝の制度を骨格に、それらを整備・拡充・充実させることによって、全国的土地制度として一本化したのである。
 経緯はこのようだった。田積単位では、九州王朝の「段」・近畿王朝の「代」の制があった。一歩の面積や田租法においても、両王朝の制度は異なっていた。それらを七〇一年に国家統一をなしとげた日本国王朝は、統一した土地制度にし、さらにその徹底のため、大宝田令発布後も、両国の租税徴収の必要性から「慶雲三年の格」を発し、田積・田租法の一貫性を図ったのである。また、九州王朝の「一歳受田」などの制度は、大宝田令では「六歳受田」に変更され、「国ごと杖地割単位」や「国別身分・男女対応の受田基準」などは破棄または変更され、その後、九州王朝の制としてかたく封印されたのである。
 さてここで、前章で述べたA・B型「杖」地割を思い出してもらいたい。一段を六分割するA型「杖」と、段を五分割するB型「杖」があったことはすでに述べた。このとき、筑前国等ではA型が使われ、近畿地域等ではB型が使われていた。その理由が、これまでの経緯から明らかになるのではないだろうか。古代において、九州王朝の一歩が方五尺で「一段=三六〇歩」、近畿王朝の一歩が方六尺で「一段=五〇代」であるなら、両者を「段」で統一したとき、前者は六分割のA型、後者は五分割のB型にしかなりようがないからである。A・B型「杖」地割の謎もまた、多元的土地制度という観点から解明されるのである。

 本章のしめくくりにあたって、九州王朝の「町」単位使用について述べよう。『日本書紀』持統四年以降の田積記事を概観すると、八回のうち四回までが九州に関係するものである(9)(注(9)参照。持統紀四、六、七、十年)。検討しよう。

1). 持統四年十月 〔水田四町〕 ーー 白村江の戦いで捕虜にされた筑紫君薩夜麻など四名を帰国させるために、自らを奴隷に売った築後国の大伴部博麻に対する褒賞。
2). 持統五年十月 〔一千歩〕 ーー 畿内及び諸国に置いた禁猟区の広さ。七〇一年以前、京師や畿内は近畿地方には存在しなかった(『日本書紀を批判する』古田武彦)。七〇一年以前は九州王朝中枢域を指す用語であったと考えられる。
3). 持統五年十二月 〔宅地四町、二町、一町、一町、半町、四分之一(町)〕 ーー 「右大臣への宅地は四町。直廣貮以上は二町。大参以下は一町。勤以下無位までは其戸口により、上戸は一町、中戸は半町、下戸は四分之一。王等もこれに准じる」とする詔。新益京の宅地面積割当てということになっている。しかし、新益京が「藤原京」を指す、ということについては疑問がもたれる。太宰府の倭京であった可能性がある。
4). 持統六年十二月 〔水田四町〕 ーー 音博士續守言、薩弘恪に各々賜った水田。唐人續績守言については次の記事がある。「日本世記伝、十一月、福信所獲唐人續守言等、至于筑紫」(齊明紀七年)引用の「日本世記」は、いかなる天皇のもとで、いつ作られたか明らかにされていない史書である。記紀成立前に消された九州王朝の史書群の一書であった可能性が高い。
5). 持統七年正月 〔水田三町〕 ーー 船瀬の沙門法鏡に賜った水田。船瀬は停泊地で、筑前の金埼船瀬が僧寿応の勧誘で造られたとする記事がある(『続日本紀』神護景雲元年)。ただし、筑前の他に播磨、摂津、近江などの船瀬も知られる。
6). 持統八年三月 〔水田四町〕 ーー 「己亥、詔曰、粤以七年歳次癸巳、醴泉湧於近江國益須郡都賀山。諸疾病人停宿益須寺、療差者衆。故入水田四町・布六十端。原除益須郡今年調役雑徭」とある。醴泉も益須寺も今未詳。醴泉を最初に試した葛野羽衝・百済土羅羅女は褒賞を得たが、いずれも未詳である。
7). 持統十年三月 〔水田四町〕 ーー 伊予国風速郡の物部薬と肥後国皮石郡の壬生諸石の各々に褒賞として授けた水田。物部薬も壬生諸石も他に見えず。書紀に「以慰久苦唐地」と続くことから両名は白村江の戦いで唐の捕虜となった者であろう。
8). 持統十年五月 〔水田四十町〕 ーー 壬申の乱の功臣、尾張宿禰大隅に授けた水田。

 結論、これら「町」の記事はすべて、九州王朝の歴史書からの直接的挿入ではないだろうか。そして、九州王朝においては、主として「町」の田積単位が使われていたのではないだろうか。

 

    四 屯田・屯倉・官家

 従来の研究によれば、ミヤケは三タイプに分けられるという(門脇禎二、井上辰雄)。
i 屯田(天皇直属のミヤケ)
ii 屯倉(大和連合政権の国家的支配としてのミヤケ)
iii 官家(任那・那津などの軍事外交上のミヤケ)

 まず、屯田について検討しよう。「屯田」は書紀中に三回出現する。仁徳即位前紀、大化二年、天武元年である。次に原文と概略を記す。

(12) 「是時、額田大中彦皇子、將掌倭屯田及屯倉、而謂其屯田司出雲臣之祖淤宇宿禰曰、是屯田者、自本山守地。是以、今吾將治矣。爾之不可掌。時淤宇宿禰啓干太子。々々謂之曰、汝便啓大鷦鷯尊。於是、淤宇宿禰啓大鷦鷯尊曰、臣所任屯田者、大中彦皇子距不令治。大鷦鷯尊、問倭直祖麻呂曰、倭屯田者、元謂山守地、是如何。對言、臣之不知。唯臣弟吾子籠知也。適是時、吾子籠遣於韓國而未還。爰大鷦鷯尊、謂淤宇曰、爾躬往於韓國、以喚吾子籠。其兼日夜而急往。乃差淡路之海人八十為水手。爰淤宇往干韓國、即率吾子籠而來之。因問倭屯田。對言、傳聞之、於纏向玉城宮御宇天皇之世、科太子大足彦尊、定倭屯田也。是時、勅旨、凡倭屯田者、毎御宇帝皇之屯田也。其雖帝皇之子、非御宇者、不得掌矣。是謂山守地非之也。時大鷦鷯尊、遣吾子籠於額田大中彦皇子、而令知状。大中彦皇子、更無如何焉。乃知其悪、而赦之勿罪。然後、大山守皇子、毎恨先帝廃之非立、而重有怨」(『日本書紀』仁徳即位前紀)

 (a) 額田大中彦皇子が、屯田司の出雲臣の祖、淤宇宿禰に「この屯田はもともと山守の地である。私が治めるから、淤宇宿禰は掌る必要がない」と、倭屯田と屯倉の支配権を主張した。
 (b) 淤宇宿禰は、仁徳に相談し、仁徳は倭直の祖、麻呂に尋ねるが、弟の吾子籠だけしか知る者がいない。しかし、吾子籠は韓國に派遣されている。そこで、仁徳は吾子籠を連れ帰るよう淤宇宿禰に命じる。
 (c) 帰国した吾子籠が言うに、「垂仁の時代に、当時太子だった景行に命じて倭屯田を定めた」との答えであった。また、その時に「倭屯田は帝皇の屯田である。たとえ太子といえども勝手に掌ることはできない」との勅旨があった。この吾子籠の証言によって、「倭屯田がかつて山守の地であった」という額田大中彦皇子の主張が誤りであることがわかった。
 (d) 大山守皇子は、自分が皇太子に立てなかったのを恨んでいたが、この屯田のことでさらに反感を強くした。

(13) 「宣罷官司處々屯田、及吉備嶋皇祖母處々貸稲。以其屯田、班賜群臣及伴造等。又於脱籍寺、入田與神山」(『日本書紀』大化二年)
 (a) 東国国司への詔である。
 (b) 官司の各地屯田と、吉備嶋皇祖母の各地の貸稲を廃止する。
 (c) 屯田は群臣及び伴造らに分かち賜う。
 (d) 官の帳簿にもれている寺に、田と山を寄進する。

(14) 「於此時、屯田司舎人土師連馬手、供従駑者食」(『日本書紀』天武元年)
 ○屯田司の舎人、土師連馬手が天皇の従者たちの食事をたてまつる。

 (12)の記事について疑問を調べよう。
 (a) 垂仁紀に倭屯田を定めた記事が見えない。
 (b) 垂仁・景行の時代に制定された屯田の記憶が、わずか五代後の仁徳の時代に至るまでに失われている。
 (c) 倭屯田の「倭」は、「ヤマト」か「チクシ」か。
 (d) この話の後には大山守皇子の反逆が続き、それが応神記にも見えるが、その発端となった「額田大中彦皇子が倭屯田を領しようとした」という話が記には見えない。
 (e) 屯田を失ったのは額田大中彦皇子である。しかし、立太子に破れ、屯田の件を怨んで反逆を起こしたのは大山守皇子である。そのことに矛盾がある(従来、額田大中彦皇子は大山守皇子の誤りとされている)。

 まず(a)(b)(c)の疑問について述べよう。
 わずかその時点から五代前の土地経営、しかも屯田司という官職まで置いて管理にあたっていたにもかかわらず、その由来がわからなくなっている。そして倭屯田制定の記録が記紀にいっさい見られない。そのようなことがあろうか。特に「屯田」、このことばが問題である。これをミタと読む根拠はどこにもない。(茨田屯田)(仁徳紀)、「茨田三宅」(仁徳記)からの類推によりそう音をあてているにすぎない。これを私はどのように訓むのか。私はトンデンであると思う。
 屯田は、これまで例えば次のように解釈されてきた。
 1). 「四、五世紀の部族長連合の盟主としての天皇の地位に付属する、いわば天皇氏の財産であり、その設定には倭国造が深く関与していた」(「大化前代の社会構造」平野邦雄)
 2). 天皇の供御米をつくる田であり、大宝令で屯田、養老令で官田とよばれ、宮内省が管轄し伴部・使部が経営にあたってきた土地のことを指し、中国文献に頻出する屯田とはまったく異なるものである。

 しかし、私には疑問である。中国文献に精通した書紀編纂者たちが、あえて天皇直轄の官田に対して「屯田」の語をなぜあてたのであろう。それほど漢書・三国志・後漢書などには「屯田」の語は頻出しており、「屯」字は、軍事行動のなかで使用されるのが常となっているのである。書紀の「屯田」は、中国と同様に軍事的成立史を持つものではないだろうか、これが私の仮説である。
 中国における「屯田」は、漢の武帝の時代に辺境で兵を動かし、軍糧の消費が多かったために、兵を国境の要地に屯地させ、開墾に従事させたことに始まるという(趙充國の建議)。辺境守衛の兵士が駐屯することで、平時は耕作に従事し軍糧にあて、いったん事あれば武器をとってその地を守護する役割を担っていた。特に、後漢滅亡後、三国時代に入って、魏の曹操によって実施された屯田経営は有名である。魏の屯田は、一九六年に新都許に開かれた後、いわゆる中原地方一帯に広がっていったが、その管理・経営方法は次のようであった。
 1). 一般の郡県による支配から切り離し、いわゆる農林大臣に直属する典農部が管理する。
 2). 耕作にあたって官牛を借りた者、自分の牛を使用した者の別に、異なった割合で収穫物を分配する。

 書紀「屯田」が中国側の使用する意味と同一であるとする根拠は、第一に、史料(12)(14)に出現する「屯田司」のような用法が中国側にも存在するからである。応神の治世が四世紀後半頃(続日本紀や応神記から、百済の肖古王と神功~応神が同時代とみられる)ということから、成立年代の近い『三国志』を検討しよう。
(15) 「屯田都尉」(『三国志』魏書任蘇杜鄭倉伝)
 「司」も「都尉」もともに官職名であり、「屯田+官名」の用法が一致している。
 第二に、史料(12)にも見られるように、書紀には中国文献にはない「屯倉」「倭屯倉」の用語がある(記には「屯家」がある)。このような「屯」を使った熟語使用例が、中国側にも存在するからである。『三国志」から「屯」の用例を検索してみると、「屯」の使用法に次の三パターンがあることが確認される。
(16) 1). 兵を一所に集めて守護警戒するの意(動詞)。
   2). 兵士の宿営する営所の意(名詞)。
   3). 熟語での使用(以下例)。
    (a) 「屯+□」屯田、屯営、屯部、屯衛、屯戌、屯住、屯民、屯塁
    (b) 「□+屯」本屯、軍屯
    (c) 人名 ーー 屯留公
    (d) 地名 ーー 屯有県
 以上の調査の結果から、「屯倉」の語が、(16) 3). (a)により我が国で造語された可能性が考えられる。「屯倉」は中国文献の「屯」使用例から生まれたメイド・イン・ジャパン語ではないか。
 書紀「屯田」が中国史料と同義の語彙であるとするなら、屯田の淵源は天皇直轄の官田などではなく、支配領域拡大のための軍事拠点であったはずである。垂仁設置の倭屯田がわずか五代後の仁徳の時代に忘れられていたのは、忘却のためではなく、設置の主体者も管理者も垂仁ではなかったからではないだろうか。さらに、それに近畿天皇家ですらなかったのではないだろうか。では、倭屯田を設置した主体はどこかというなら、倭屯田の倭は、チクシであるという答えしかないだろう。神武以来、大和平野に侵入した近畿天皇家の始祖たちは、彼らからすれば辺境の地に軍事拠点としての屯田をつくり領域を拡大していった。それは「九州王朝の使命を受けて」という大義名分があったことだろう。そのため、倭屯田という名称がつけられたのである。
 倭屯田は、九州筑紫を中心として、九州、四国、中国、近畿へと広がっていったものと考えられる。仁徳即位前紀に出てくる「帝皇」は、とりもなおさずその九州筑紫の帝皇を指しているのではないか。さらに想像をたくましくしよう。韓国に派遣された吾子籠は、帰国にあたり韓国→九州→近畿というルートをとったことであろう。吾子籠の行動は、単なる帰国というよりも、九州王朝の屯田担当官と近畿の倭屯田について相談することが第一の命であったとは考えられないだろうか。

 次に(d)(e)の疑問に答えよう。
 結論からいうなら、額田大中彦皇子、淤宇宿禰、仁徳、吾子籠が登場するこの倭屯田をめぐるエピソードは、大山守皇子の「反乱」とは時間的・空間的に関連のない記事であろう。おそらく、近畿王朝の他の紛争記事から切り取ってきて接合されたものである。そのために、額田大中彦皇子と大山守皇子のくい違いが生じたり、日本書紀にあって古事記にないという事態が発生したのである。なぜ書紀編纂者はそのような操作を行ったのだろうか。それは、大山守皇子の「反乱」が、次代または次々代天皇による歴史の偽造だからである。大山守皇子は反乱など起こしたのではなく、大雀命(仁徳)によって殺されたのである。ために反乱の「原因」などあろうはずがない。よって、この事件とまったく因果関係のない額田大中彦皇子を主たる登場人物とする「倭屯田」の物語を、反乱の動機として挿入し、大雀命の行動の正当性を強調したのである。
 「応神記の説話は、次の仁徳の治世、またはその子の履中の治世に作られた。すなわち、大雀命(仁徳)の策略が成功し、兄(大山守命)を亡き者にしたあと、残った側の手によって作られたものなのである」(『古代は輝いていたII』古田武彦)。書紀もまた同様の史観に立っていた。そして、この「反乱」動機の薄弱な古事記説話を補完するために、このような史料偽造という挙に出たものと考えられる。

 屯倉と官家について考察しよう。
 史料(12)から、屯田と屯倉は同一ではないが、セットになって登場することがわかる。そのため「田」と「倉」という語意から両者の違いを説明しようとする見解もある。しかし、今そのことに深入りすることは避けよう。どちらにしても、屯倉が権力者が保有する農耕余剰生産物の集合であることには間違いのないことだからである。その程度のおさえで、屯倉と官家について次の記事を分析しよう。

(17) 「五月辛丑朔、詔曰、食者天下之本也。黄金萬貫、不可療飢。白玉千箱、何能救冷、夫筑紫國者、遐邇之所朝届、去來之所關門。是以、海表之國、候海水以來賓、望天雲而奉貢。自胎中之帝、泪干朕身、収藏穀稼、蓄積儲粮。遙設凶年、厚饗良客。安國之方、更無過此。故、朕遣阿蘇伽君、〈未詳也〉加運河内國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稲目宿禰、宜遣尾張連、運尾張國屯倉之穀、物部大連麁鹿火、宜遣新家連、運新家屯倉之穀、阿倍臣、宜遣伊賀臣、運伊賀國屯倉之穀。修造官家、那津之口。又其筑紫肥豊、三國屯倉、散在懸隔。運輸遙阻。儻如須要、難以備率。亦宜課諸郡分移、聚建那津之口、以備非常、永為民命。早下郡縣、令知朕心」(『日本書紀』宣化元年)

 宣化による那津の官家修造の詔である。これを、命令者・運搬者・運搬対象・集結地別に整理してみると次のようになる。

《命令者》      《運搬者》         《運搬対象》      《終結地》

朕(宣化)       -- 阿蘇仍君 -- 河内國茨田郡屯倉之穀  -- 那津官家

蘇我大臣稲目宿禰 -- 尾張連  -- 尾張國屯倉之        -- 那津官家

物部大連麁鹿火  -- 新家連  -- 新家屯倉之穀         -- 那津官家

阿倍臣         -- 伊賀臣  -- 伊賀國屯倉之穀      -- 那津官家
               諸郡   -- 筑紫肥豊、三國屯倉   -- 那津官家

 この中でおかしい点がある。阿蘇仍君と河内國の結びつきだけが他の関係と比べて不自然なのである。また、「朕遣阿蘇仍君、加運河内國茨田郡屯倉之穀」には文章上の不体裁がある。これを「〔加〕の前に元の由縁地がある」とする説、「阿蘇の君の運搬は九州内のことで、大和の蘇我・物部の運搬とは、時も所も次元もちがう」とする説がある(『日本書紀〔中〕』山田宗睦訳)。充分な説得力を持つ。
 私がここで問題にしたいのはそのこととは別のことである。「修造官家、那津之口」の官家についてである。これを岩波の書紀註では、「ここで官家を屯倉と同じくミヤケと訓ませているが、書き分けたところをみれば、或いは両者の間に機構・機能の違いがあったのではあるまいか」と書いている(書紀の「官家」の用例は、貢納国としての百済や任那諸国自体を指していることがほとんどである)。私は、機構・機能の違いなどでなく、その規模をこそ問題にすべきであると考える。全国の屯倉を結集して成立した那津官家とは、軍事外交などの目的はどうあれ、日本列島の富が集中している地であるとみるべきなのである。書紀では、これをミヤケと訓ませるけれども、屯倉と同レベルで考えることはできない。また、この官家のある地が、九州と朝鮮半島ということが決定的な意味を持つ。この時点で、近畿王朝が日本列島を統一していたなら、なぜ大和の地に官家がないのであろう。いや、それが「官家」という名称でなくともよい。屯倉の財産が、近畿に集結したとする記事がなぜ見られないのであろう。もちろん安閑紀に集中する計三十六個の「屯倉」設置記事がある。しかし、安閑紀のわずか二年間における異常集中現象には、すでに津田左右吉が「造作」としての疑いを表明している。また、これを「絶対年代が明らかでなかった屯倉史料を、編年体をとる書紀が、体裁上からもよりの年時に同類の資料として掲載した(類集)」とする見解もある(『日本国の創建』古田武彦)。どちらにしても、近畿王朝に屯倉の富が集中されたとする見方を支持しないのである。
 日本列島中に広く分布する「屯倉群」。そして、北九州・南朝鮮半島にしか見られない「幾多の屯倉の集合した官家」の存在。この図式を見て、矛盾を感じなければ不思議である。それでも、宣化の時代、日本列島の中心は近畿であったと断言できるのであろうか。結論を述べるなら、「官家」とは、北九州から南朝鮮半島一体を支配領域としていた九州王朝の富の集積地であったと考えるしか道はないのではないだろうか。

 章の終りに「改新之詔」第一条の屯倉について述べよう。
(18) 「二年春正月甲子朔、賀正禮甥畢、即宣改新之詔曰、其一曰、罷昔在天皇等所立子代之民・處々屯倉、及別臣連伴造国造村首所有部曲之民、處々田荘」(書紀、大化二年)

 屯倉廃止を含む詔である。以後、書紀には屯倉設置の記事は見られない。ところが、一方で、その後にも、孝徳や天智が次々と屯倉を設立していたことを記す史料がある。
(19) 「難波朝廷(孝徳)、天下に評を立て給いし時に、十郷を以て分ちて、度会の山田原に屯倉を立てて、新家連珂久多は督領、磯連牟良は助督として仕え奉りき。十郷を以て分ちて竹村に屯倉を立て、麻績連広背は督領、磯部真夜手は助督として仕え奉りき。(中略)近江大津朝廷天命開別天皇(天智)の御代に、甲子(天智称制三)年を以て、小乙中久米勝麻呂に多気郡の四箇郷を申し割きて、飯野の高宮村に屯倉を立てて、評の督領として仕え奉りき」(『皇太神宮儀式帳』、原漢文)

 この史料には、書紀では書き替えられた「評督」「助督」が出てくる。また、書紀「改新之詔」第一条との矛盾から、後代史料編纂者の手が加わった形跡が少ないと見られる(ただし、孝徳や天智の天皇名は、確実とは言い難い)。この史料から次のことがわかる。
 (1) 「改新之詔」による屯倉廃止宣言後にも、依然として屯倉が設置され続けている。しかも、形の上では「改新之詔」を発した孝徳・天智の命によってである。
 (2) 屯倉の運営には評督・助督の職が当たっている。

 考えてみよう。この史料からも、やはり屯倉が全面的な廃止を見たのが七〇一年であったことは疑えない。そして、六四六年に屯倉が廃止されたとする「改新之詔」。これは、今まで繰り返し検討してきたように、やはり六四六年時点の詔ではないことがわかる。
 また、屯倉設置の主体者の問題。まず、評督・助督。これらの官職は、近畿王朝のものではない。なぜなら、それらは都督府を頂点とする行政組織の中での官職名であるからだ。さらに、都督府は日本列島でただひとつ「筑紫都督府」しかない(現地では太宰府の「都督樓址」)。すなわち、屯倉経営を行っていた評督・助督とは、九州王朝都督府の直轄下の官職なのである。このことから、結論は明白である。屯倉設置を命じ、管理・運営に当たっていた真の主体者は、九州王朝の都督府であり、そのトップに立つ天子であった。孝徳や天智は、都督・評督・助督という行政組織の中のどこかに組み込まれた存在だったのである。「国内の屯倉のほぼすべてが九州王朝の監視下にあった」。その仮説がもし正しければ、九州王朝が消滅する七〇一年に屯倉が全面的に廃止されたという理解は、極めて筋の通った説明なのである。
 そして、さらに考察しよう。「改新之詔」は第一条においても、大宝令から繰り上げという年次造作を行っていた。すなわち、「改新之詔=大宝令」命題の正しさは、この屯倉の事実からも確認されるのではないだろうか。

     おわりに

 平成六年のことであった。古田氏を中心に「改新之詔」にかかわる共同研究会が、毎月のように春日の文京区民センターで開催されていた。私もまたメンバーの一人として参加し、古代土地制度についての報告をさせていただいていた。しかし、まとまった最終報告はできなかった。私の仕事の都合で海外赴任が決まり、共同研究会への出席が事実上できなくなってしまったからである。
 それからもう六年以上の歳月が流れた。東京に住んでおられた古田氏も、今は京都に住居を移されている。しかし、帰国した私にとっては、共同研究会に参加していたのがつい昨日のように思われる。海外にいたための浦島効果なのであろうか。とにかくここに、古代土地制度のレポートをなんとかまとめることができた。それも、古田氏をはじめとする共同研究会の皆さんのおかげと思っている。
 かつて「遅れてきた青年」という小説があった。この論文はまさに遅れてきた青年(?)からの共同研究会への報告である。海外生活による情報不足などから研究の水準が心配である。当時の共同研究会の方や、史学の会の方々からのご指摘をいただけるなら、それにまさる幸せはない。


(1)木簡・碑文とのかかわり以外では、画期線として次のような事実が判明している(古田武彦)。
  ○正史の年号 七〇一年を境に「非連続年号」から「連続年号」へ移行している。(『日本書紀』『続日本紀』)
  ○正倉院文書 七〇一年以降の文書のみである。
  ○万葉集   「郡制」表記の歌のみで、「評制」表記のものがない。

(2)他に次のような史料がある。
  ○「弘福寺領讃岐国山田郡田図」(天平七年 七三五)田積単位を町・代制で記載するものあり。
  ○高槻市上田部遺蹟出土の木簡(天平七年の班田に関係すると推定される)
   「五百廿三尻」
  ○万葉集巻八(一五九二番、天平九年作)
   「五百代小田」
 ※「百代」記載の木簡は他にも存在するが、年時の確定ができないものがほとんどである。

(3)「改新之詔」の各条は制度の概要を述べた主文と、「凡そ」から始まる副文「凡条」から成っている。副文が大宝令によって修飾されているということは現在定説化している。そのため、現在の学説では、孝徳朝段階における原詔(副文を取り去った主文)の存在を認める「改新肯定論」と、それを全面否定する「改新否定論」に分かれている。しかし、第二条主文の「郡司設置」のように、木簡の出土から六四六年以降も「評制」が引き続き継続している事実が明らかになった以上、主文が大宝令を待って初めて成立したことには疑問の余地がない。したがって、「改新之詔」に原詔を想定して、主文・副文を切り離して論ずる議論には意義が見出しにくい。

(4)班田収授制は六年に一度実施(その年を班年とよぶ)され、それは、次のような手順で進められる。
 (a) 正月三十日以前 左右京職・諸国司は班田の旨を太政官に上申する。
 (b) 十月一日    田数と班給を受ける人員を計算して帳簿を作り始める。
 (c) 十一月一日   田地を受ける人々を集めて班給を始める。
 (d) 翌年二月三十日以前に班給を完了する。
 したがって、一見不可解ではあっても、班田が前年の正月に開始されて翌年の正月に終る可能性もあり得る。

(5)「慶雲三年の格」の後半部分は、「成斤の」から「不成斤の束」へ改革した大宝令の規定を修正し、再びもとの「成斤の束」を用いる租法にもどることを述べている。そのことが語るように、慶雲三年以降は、田積法は「令内租法」を、田租法は「令前租法」を折衷した「折衷租法」が施行されるようになった。
  『続日本紀』慶雲三年紀にも、使を七道に遣わして田租の法を定め「町ごとに十五束とした」とする記事がある。
  「丙辰、遣使七道、始定田租法。町十五束。及点役丁」(『続日本紀』慶雲三年九月十五日)

(6) (a) 『日本書紀』以外で「頃」が使われた例として『四天王寺御手印縁起』がある。
  「以大連私田万頃、賜迹見赤檮」(『四天王寺御手印縁起』)
  しかし、この記事は、書紀の崇峻即位前紀の記事と同文であることから、書紀との前後関係から内容がさらに吟味されなければならない。
  「以田一萬頃、賜迹見赤檮」(『日本書紀』崇峻即位前紀)
   (b) 中国の田積単位は次のようである。
   ○「頃」田畑の面積の単位。一頃=百畝=一万歩
     漢代には確実に使われており、それ以降中国で一貫して使用された田積の単位。南北朝の時代、南朝・北朝でも使われていた。唐代においては、日本の五町五段の面積を表していた。
   ○「畝」田畑の面積の単位。古は六尺四方を「歩」、百歩を「畝」としていた。秦以後は二四〇歩を「畝」とする。
   ○「町」田畝の広さの名。「十八丈四方を十五町とする」(正字通)
   ○「歩」面積の単位。「六尺四方」(周禮)

(7)『班田収授法の研究』(昭三六)収録の「浄御原令に於ける班田収授法の推定」虎尾俊哉

(8)『日本書紀研究第一冊』(昭三九)所収の「造籍と大化改新詔」岸俊男

(9)『日本書紀』及び『続日本紀』の田積記事表

崇峻即位前紀 田一萬頃 蘇我・物部戦争で物部連を討った迩見首赤檮に対する褒賞。
大化元年八月 墾田の頃畝 倭国の六県に派遣される使者は、その基準に基づき戸籍を造り校田をせよ。
大化元年十一月 数萬頃の田 臣、連、伴造、国造たちが、自分たちの財として兼併している田の面積。
大化二年正月 ---------- 凡そ田は長さ三十歩、広さ十二歩を段とせよ。十段を町とせよ。
段ごとに租の稲二束二把、町ごとに租の稲二十二束とせよ(改新之詔)。
白雉三年正月 ---------- 凡そ田は長さ三十歩を段とす。十段を町とす。
段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束(白雉三年記事)。
天武十三年十月 五十餘萬頃 陥没して海になった土佐国の田の面積。
持統三年八日 二萬頃 紀伊国阿提郡の那耆野、伊賀国伊賀郡の身野での各漁猟禁止範囲。
持統四年十月 水田四町 白村江の戦いで捕虜にされた筑紫君薩夜麻など四名を帰国させるために、自らを奴隷に売った筑後国の大伴部博麻に対する褒賞。
持統五年十月 一千歩 畿内及び諸国に置いた禁猟区の広さ。
持統五年十二月 宅地四町、
二町、一町、一町、半町、四分之一(町)
 「右大臣への宅地は四町。直廣貮以上は二町。大参以下は一町。勤以下無位までは其戸口により上戸は一町、中戸は半町、下戸は四分之一。王等もこれに准じる」とする詔。新益京の宅地面積割当てということになっている。
 岩波の『書紀』註には「慶雲三年の格には『一戸之内、八丁以上為大戸、六丁為上戸、四丁為中戸、二丁為下戸、一丁不在計例也』とある。この三等戸は八丁・四丁・二丁の比率か」とある。
持統六年十二月 水田四町 音博士續守言、薩弘恪に各々賜った水田。
唐人續守言については次の記事がある。
「日本世記云、十一月、福信所獲唐人續貮守言等、至于筑紫」(齊明紀七年)
持統七年正月 水田三町 船瀬の沙門法鏡に賜った水田。船瀬は停泊地で、筑前の金埼船瀬が僧寿応の勧誘で造られたとする記事がある(『続日本紀』神護景雲元年)。ただし、筑前の他に播磨、摂津、近江などの船瀬も知られる
持統八年三月 水田四町 「己亥、詔曰、粤以七年歳次癸巳、醴泉湧於近江國益須郡都賀山。諸疾病人停宿益須寺、療差者衆。故入水田四町・布六十端。原除益須郡今年調役雑徭」とある。醴泉も益須寺も今未詳。醴泉を最初に試した葛野羽衝・百済土羅羅女は褒賞を得たが、いずれも未詳である。
持統十年三月 水田四町 伊代国風速郡の物部薬と肥後国皮石郡の壬生諸石の各々に褒賞として授けた水田。物部薬も壬生諸石も他に見えず。書紀に「以慰久苦唐地」と続くことから両名は白村江の戦いで唐の捕虜となった者であろう。
持統十年五月 水田四十町 壬申の乱の功臣、尾張宿禰大隅に授けた水田。
大宝元年三月

田廿町

右大臣阿倍朝臣御主人に賜った備前・備中・但馬・安藝国の田。

大宝元年八月

田十町
田四十町

三田首五瀬(他に見えず)への対馬嶋で黄金の精錬をした功に対する褒賞。
右大臣大伴宿禰御行の子への五瀬に冶金をさせた功に対する褒賞。

慶雲三年九月   使を七道に遣して、始めて田租の法を定む。町ごとに十五束。及た、役丁を点さしむとある。

『古代に真実を求めて』 第四集 へ

倭国の律令 -- 筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度 増田修(『市民の古代』第14集)

条里制の開始時期 水野孝夫(『なかった』創刊号) へ

ホームページへ


新古代学の扉事務局へ E-mailはここから

制作 古田史学の会