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『なかった ーー真実の歴史学』創刊号 序言 中言 末言  古田武彦            2006年 5月30日
(スタイルは、中国語版に倣っています。)

序言       古田武彦


 創刊を迎えた。望外の幸せという他はない。旧誌『新・古代学』第8集が終刊してより、晴れては竹林の道、雨降れば読書。その朝夕を念(おも)っていた。
 けれども天は大いなる試みへとさらにわたしを馳(か)り立てた。 ーー今回の新東方史学会の創立である。
 すでに数十冊の著述を世に送り、わたしの説を知る人は、決して少なしとしない。しかし杳(よう)として学界はこれに応ぜず、空谷(くうこく)に人なし、の景(けい)を呈(てい)している。後継(こうけい)は踵(きびす)を接しているけれども、その発表の場がない。あるいは乏(とぼ)しい。そのため、天下の後生にその学問の道あるを公示し、万世に人類の歩むべき真実をしめす、これが本誌創刊、唯一の意思である。


中言


 序言はすでにのべた。中言に移る。
 今、わたしの願うところ、それは「中国批判」だ。歴年敬愛する、中国への批言を率直にのべ、真実の歴史学への骨格をしめそうと思う。
 聞く、近年「反日」の言辞を。言辞だけではない。広大の各地に博物館を多設し、日に月に増設しつづけている (1)、と。わたしは早く、北京で一館に接した。
 中国の民衆が、日本兵によっていかに殺戮されつづけたか。その残虐のシーンがむきつけに展示され、赤裸々に解説されている。それらはすべて、おそらくは正しい。これらに対してわたしは「否!」と首を横に振ることができないのである。
 もちろん、日本側で反駁は多い。いわく、「写真が偽物だ。」いわく「犠牲者数がひどい誇張だ。」など。ーーこれらの反駁もまた、一々首をうなずかせる。正当だ。
 ーーだが。わたしは思う。「にもかかわらず、大局では、やはり中国側が正当だ。」と。「事実」なのである。なぜか。
 反転させて考えてみよう。もし中国軍が突如大挙して日本列島を征圧し、長期占領しつづけたとしよう。当然、トラブルは多発する。その占領側の「大義名分」がいかに力説されようとも、その征圧者が日本側の“恨み”を買うこと、必然だ。人間の本性、すなわち人情なのである。この一点の「常識 (2)」から見れば、やはり中国側の特筆大書、その展示の「事実」は正しいのである。

 では、現今の博物館の展示。日に月に増設する、その「やり方(かた)」は是(ぜ)か。ーー否、わたしはこれに対しては明確に、「否」と告げなければならない。なぜか。
 かって元冠(げんこう)があった。一二七四年と一二八一年。再度、対馬・壱岐等(とう)、九州の北部に侵入した。抵抗する多くの島民たちを捕え、その掌(てのひら)に穴をあけ、くさりを通して、じゅずつなぎにし、海岸をひきずった。そして殺した。女や子供たちは島上の岩かげから、これを見て泣いた。これを歎き訴える民謡が現在も、現地に伝承されている。これは「事実」だ。
 では、問おう。このような「図がら」の画や模型を、日本列島各地の多くの博物館に飾り、外敵の来襲の恐怖を徹底して「展示」する。正当か。否。
 それは「事実」であっても、人間としての「品格に欠ける」のである。現代の国家間の友好にも、もちろん有害だ。
 中国も、同じである。隋(ずい)の揚帝(ようだい)の時、六〇八年、流求(現、沖縄 (3))へ大軍を送ってこの島を征圧した。多くの島民を殺戮し、宮室に火を放った。生き残った数千の島民を捕虜として大陸へ連れ帰った(隋書流求国伝)。明白な侵略だ。
 では、間おう。その侵略図をパノラマ化し、日本列島各地の博物館に展示し、大国中国の行った理不尽の侵略の「事実」を周知させる。これは正当か。ーー否。
 このような“やり方(かた)”と共に同じで「日中友好」を説いたとしても、偽善だ。世界の「常識」はそれを信用しない。当然である。
「事実を展示して、何が悪い。」そのように主張する人々よ。自分の目の上の「つば」を見よ。世界は、「事実」をとして「品格」に欠ける人々を、人間として決して信用しないのである。
敬愛する中国よ、その光栄ある伝統に立つ人々よ、即刻、すべて止(や)めたまえ!「品格なき(国家の)宣伝」を。

 明治維新の前夜、四国(4) の艦隊が日本列島の一角、下関に「来航」した。幕府に抗し、「撰夷」を主張した長州藩(山口県)を「征圧」するためであった。高杉晋作は、身分・階級を越えて青年たちを集め、これに抵抗した。奇兵隊である。少なからぬ犠牲者を出したあと、ようやくこれを撤退させた。その直後、晋作は犠牲者の慰霊地を造立した。桜山神社である。
 この明白な「事実」をもとに、西欧側の「征圧」を非(ひ)とし、彼らの「悪行」と「残虐」を、モザイク化した博物館を、日本列島各地に展示する。そのような愚行が行われたか。このあと成立した明治政権の中核は、この長州藩の後継者であった。しかし、それはない。
 「鬼畜米英」を呼号(こごう)した戦時中にも、それはなかった。

 先日、相撲(すもう)の秋場所は終った。九州場所である。朝青龍(あさしょうりゅう)が未曾有(みぞう)の優勝を遂(と)げ、琴欧州が大関に昇進した。輝くニュースだ。
 「これで(日本の)国技か。」という声も聞かれたけれど、別の視点から見れば、これはすばらしい光景だ。なぜか。
 朝青龍は、モンゴル出身だ。琴欧州はブルガリア。わたしたちは「モンゴル侵略」のモザイク展示に代って、生きたモンゴル人の横綱の「土俵入り」に喝采している。西欧の「四国艦隊」の侵略行為のモザイク展示に代って、生きたブルガリア人のあで姿に喝釆を送っている。これが日本流だ。「敵味方」を差別せぬ、日本古来の伝統、本来の姿なのである。
そしてまたこれが、世界の「常識」にかなっているのではあるまいか。
 もし日本人が、「モンゴルの侵略を忘れるな。」とか、「四国艦隊の下関侵略を忘れるな。」などを名として、彼等の「花やかな登場」を拒むとしたら。 ーー世界の「常識」から、失笑を買うだけであろう。

 中国の教科書には「日本の流求侵略」も、出ていない。「元冠の残虐(への協力行為)」も、出ていない。いずれも、重要な「歴史認識」である。「歴史」の中の、あれを採り、これを捨てる。そんな身勝手は、ただ「歴史」を、政治的に利用しているだけだ。長つづきするはずがない。
 かってソ連邦では、各地に「、キリスト」の博物館が林立していた。そこに描かれていた「不品行な女、マリア」などの「展示」が虚か、実か。わたしは知らない。ただ、それもまた、人間の品格に欠ける「国家目的の宣伝」であったこと、変りはない。
 親愛なる中国よ、ソ連邦への「模倣時代」は、もう卒業したまえ。その日が一刻も早ければ、早いほどいい。中国への尊敬は、世界で必ず、復活しよう。
 それなしに、いたずらに表面の花やかな、「北京オリンピック」だけをもよおしても、しょせん空(むな)しい。殷鑑(いんかん)遠からず。けんらんたる、ベルリンオリンピックの「民族の祭典」のみを残して亡び去ったヒトラーの愚を、決して真似(まね)してはならない。
 わたしの敬愛する中国よ、偉大なる伝統に立つ人々よ、貴方(あなた)がたのために、わたしはこれを今、率直(そっちょく)に切言する。


(1)水谷尚子『「反日」解剖ーー歪んだ中国の「愛国」』(文塾春秋社、二〇〇五年)
(2)人間のもつ、本来の理性を指す。アメリカ独立期の“聖書”として著名な、トーマス・ペインの『コモン・センス』(岩波文庫)と同じ用法。通俗の用法とは異なる。
(3)この「琉球」を持って、“沖縄”ではなく“台湾”を指す、との見解が、ヨーロッパの学者から出されていたが、非。現地調査の結果を改めて詳述する。(講演会等では既述。)
(4)英・仏・米・蘭の四国。一八六四年(元治元)の来襲。


末言


  末言に入ろう。
  わたしは朝の散歩道に出た。竹間の小道、わたしの名づけた「歴史の道」だ。先日、テレビ(注)で見た、すばらしい場面を思い浮べつつ、坂道へと向った。北京の中国障害者芸術団による「千手観音」の一シーンである。
 坂道のつづく林の中から、あのときの、見事な幻が浮んでは消えた。
 さあ、筆は終った。二〇〇六年の五月、本誌の発刊されるとき、どのような太陽がここに昇ってくるか。わたしは果してその日まで、生きながらえることができるだろうかーー。

(注)テレビ朝日。二〇〇五年十二月一日、報道ステーション。


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著作  古田武彦