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市民の古代 第10集 1988年 市民の古代研究会編
特集1■金石文を問う

日本古代碑の再検討

宇治橋断碑について

藤田友治

 一、記念碑について

 金石文のうちで、石柱に文字を記したものを記念碑という。記念碑とは、社会的及び個人的出来事(das Geschehene)や、それに関係した人物等を後世に永く伝える目的で石柱に刻まれた文章と素材をいう。出来事の集積は歴史(Geschichte)であるから、記念碑は歴史学の重要な研究対象である。
 記念碑は元来、屋外に立てられることが多いから、時の経過とともに風雪にさらされて風化等をこうむり、文字を解読する際、しばしば判読さえ困難な事例が多い(好太王碑文等を想起されたい)。又、人為的な手が後世に加えられたり(好太王碑の場合、拓工による石灰塗付、多賀城碑の場合、「此城神亀元年」の部分、更に六地蔵石幢の「州」を「州」に改める等)、更に記念碑はそもそも記念すべき事柄を建碑者の方で過大に記す傾向をもちやすいことにも留意が必要である。
 既に白楽天は秦中吟の「立碑」について次のように言う。

「路傍の碑をみるに、勲を銘すること太公のごとく、徳を叙すること仲尼のごときものがある。文を作った彼(かれ)何人(なんびと)ぞ、但(た)だ愚者の悦びを欲して賢者の嗤(わら)いを思わざる者である。」(『白氏文集』巻二)

 これらの理由によって、記念碑の研究は歴史学研究の重要な一分野でありながら、しばしば論争を孕(はら)んできたのである。
 金石文や記念碑を研究すると確かに問題点をいたるところに見い出すことができる。しかし、深い疑いがあるからといって、これらの貴重な遺産を無視すべきではない。藪田嘉一郎氏は金石文研究に貴重な成果を後世に残してくれており、その研究方法は「まずいかなる金石文に対しても疑ってかからねばならない」(『石刻〜金石文入門』)という「学貴多疑」(中国古諺)であり、「問題のあるわが上代金石文」では我が国の多くの金石文を疑っている。深く疑い、問うことはあらゆる学問にとって貴重であるが、「疑う」根拠それ自身が、推定であったり、独断であったりしてはならないことは言うまでもない。
 好太王碑“改ざん”論争のように、陸軍参謀本部・酒匂大尉による「石灰全面塗付作戦」などという断定を李進煕氏は主張したが、これはイデオロギーに基づく“改ざん”ではなく、拓工が拓本をとりやすいように石灰を塗ったことが「実事求是」である。この点、古田武彦氏の『失われた九州王朝』、王健群氏の『好太王碑の研究』、拙著『好太王碑論争の解明』で主張した通りである。要は、金石文一つ一つを実地に精査し、史料批判を徹底することにより、実事求是の立場で吟味、研究しなければならない。
 古代から風雪に耐え、残されてきた重要な文化財を、私たちが厳密な史料批判を通して正しく解読するならば、古代からの貴重なる文化遺産を引き継ぐことになろう。
 記念碑は中国や朝鮮で発達をとげ、我が国に影響を与えてきた。次に、日本古代の碑をとりあげ問題を探ろう。

表1 日本古代碑付鐘銘等(作表・藤田友治、『書道研究ーー特集 日本金石文の研究』(1)・(2)等によって作成)

  名称 目的 α年紀
( )は西歴
β建立年
( )は推定
α−β 界線 建立者 形態 所在地

宇治橋断碑

架橋
記念碑
大化二年
(六四六)
記載なし
(七二一年以降)
七五年以上 外枠・
縦界線
割付あり
記載なし 自然石
碑面削平
京都府宇治市東内
放生院橋寺
山ノ上碑 墓碑 辛巳年
(六八一)
辛巳年
(六八一)
無界・
割付なし
放光寺僧 自然石 群馬県高崎市山名町
那須国造碑 墓碑
と誓文
庚子年他
(七〇〇)
庚子年
(七〇〇)
無界・
割付なし
意斯麻呂 笠石型・一面のみ削平 栃木県那須郡湯津上村
笠石神社
多胡碑 建都
記念碑
和銅四年
(七一一)
記載なし
(七一一以降)
0か
それ以上
無界・
割付なし
記載なし
(羊の説)
笠石型 群馬県多野郡
吉井町大字池
超明寺断碑 石桂碑 養老元年
(七一七)
養老元年
(七一七)
外枠の
一部あり
超明僧 自然石
碑面削平
滋賀県大津市月の輪
 超明寺
元明天皇陵碑 墓碑 養老元年
(七一七)
記載なし
(七一七以降)
0か
それ以上
  記載なし 直方体
切石
奈良市奈良阪町
元明天皇陵
阿波国造碑
墓碑
墓碑 養老七年
(七二三)
養老七年
(七二三)
無界・
割付なし
記載なし 笠石型か 徳島県名西郡石井町
中王子神社
金井沢碑 供養碑 神亀三年
(七二六)
神亀三年
(七二六)
無界・
割付なし
複数記載 自然石 群馬県高崎市根小屋町
多賀城碑 築城碑 天平宝字
六年
(七六二)
天平宝字六年
(七六二)
外枠・
割付なし
藤原
恵美臣朝葛*
自然石
碑面削平
宮城県多賀城市市川
薬師寺仏足石碑 追善
供養碑
記載なし 記載なし
(七五三)
0か
それ以上
外枠・
割付なし
智努王
(天武天皇の孫)
自然石 奈良市西の京町
薬師寺
十一 宇智川摩崖経碑 摩崖碑 宝亀九年
(七七八)
宝亀九年
(七七八)
無界・
割付なし
記載なし
(仏教僧か)
自然石 五条市小島町宇智川左岸
十二 浄水寺南大門碑
記念碑

延暦九年
(七九〇)

延暦九年
(七九〇)
外枠・
縦界線
割付あり
記載なし
(仏教僧か)
自然石 熊本県下益郡豊野村
宇寺村 浄水寺趾
妙心寺鐘銘 鋳鐘銘 戊戌年
(六九八)
戊戌年
(六九八)
無界・
割付なし
槽屋評 京都府妙心寺
紀吉継墓誌 墓誌 延暦三年
甲子
(七八四)
延暦三年甲子
(七八四)
縦界線・
割付あり
紀吉継 [石専] 大阪府南河内郡
太子町 春日の伝
興福寺南円堂
銅燈台銘
追遵銘 弘仁七年
景申
(八一六)
弘仁七年
(八一六)
縦界線・
割付あり
藤原朝臣公等 銅燈台 奈良県法相宗
本山興福寺
神護寺鐘銘 鋳鐘銘 貞観十七年
(八七五)
貞観十七年
(八七五)
縦界線・
割付あり
真紹上人 京都市右京区
神護寺
道澄寺鐘銘 鋳鐘銘 延喜十七年
(九一七)
延喜十七年
(九一七)
縦界線・
割付あり
道明と澄清 奈良県五条市
  栄山寺

葛*は、けもの編に葛。JIS第三水準ユニコード5366
日本古代碑付鐘銘等(作表・藤田友治、『書道研究ーー特集 日本金石文の研究』(1)・(2)等によって作成)

 二、日本古代碑の問題点 ー特に宇治橋断碑ー

 長年の風雪に耐え、今日まで残存している主な石碑を整理して示すと、表1の通りである。名称で宇治橋碑等、「断碑」と呼ぶのは碑全体が残っておらず、碑身の一部のみが残存していることを示す。この日本古代碑一覧表を作成することを通じて、金石文の史料批判を行うと、次の問題点が鮮明にうかびあがることとなった。よって、簡明に報告する。
(一)、断碑間題
 あらゆるものの名称は重要である。名は体を表わす。断碑とは碑身の一部しか残存していないことを示す。残存している部分のみが、厳密には金石文の対象である。宇治橋断碑(一)の場合は、江戸時代に尾張の学者・小林亮適らが、『帝王編年記』を基に補って残存部分と接合したのである。この碑の残存部分は二十七字分のみであり、全碑文と推定される九十六字分の約三分の一弱であることに留意されなければならない。残存部分は次の通りである。

俛*俛*横流 其疾如箭 修・・・
世有釈子 名曰道登 出・・・
即因微善 爰発大願 結・・・

俛*は、三水編に免。ユニコード6D7C

 この残存部分から意味のある文章を読みとるのは困難である。そこで、『帝王編年記』の記載によって、補って解読してきたのであるが、文献によって補った碑身の約三分の二は、果たして金石文という概念に入るのか、更に失われた部分が文献通りであったかという問題が厳密に言えば残っているのである。少なくとも、今日の姿をそのまま「大化二年」(六四六)の宇治橋碑とみなすことは到底出来ないのである。

(二)年紀 ー 建立年の“差”問題
 従来、宇治橋断碑は『帝王編年記』によって補った文章によって、「大化二年丙午」と年紀があるところから、碑の建立も六四六年とされて一覧表等にも使用されてきた。
 例えば、尾崎喜左雄氏『多胡碑 ー上野国三碑付那須国造碑ー』(中央公論社)、今泉隆雄氏「銘文と碑文」(岸俊男編『日本の古代14』『ことばと文字』所収)の表でも、宇治橋断碑は「日本最古の碑」という扱いをしている(尼崎氏は「宇治橋碑」として、断碑であることを明示していない)。
 日本の古代碑では、そもそも建立年を明確に記していないケースがある(宇治橋断碑(一)の他、多胡碑(四)、元明天皇陵碑(六) )。建立年を記してあっても、厳密には確定できないのであるが、ほぼ建立年のものとみなしても大過はないであろう。ところが、建立年を記していない場合、碑文にある文面の年紀を建立年とみなして処理することは危険であり、誤差を含んだものとなる。碑文の年紀が直ちに建立年を意味するものでないことを、好太王碑を例にとって示そう。次に好太王碑文にある年紀を全て掲げよう。()内は西暦である。

甲寅年(四一四)、永楽五年乙未(三九五)、辛卯年(三九一)、六年丙申(三九六)、八年戊戌(三九八)、九年己亥(三九九)、十年庚子(四〇〇)、十四年甲辰(四〇四)、十七年丁未(四〇七)、廿年庚戌(四一〇)。

 これらの年紀のおびただしい記載から、好太王碑の建立年をどうして確定するか。文面に年紀があるからといって、それを建立年とするわけにはいかないという自明の論理の存すること明かであろう。
 幸いにも好太王碑は風雪に耐え、残存部分(1) に建立年を記載している文章がハッキリ残っていた。

以甲寅年九月廿九日乙酉、遷就山陵。於是立碑、銘記勲績、以示後世焉。

 つまり、「甲寅年(四一四)の九月二十九日の日に好太王を山陵(帝王の墓ー太王陵)に移し埋葬した。この墓の前に碑を立て、好太王の功績を刻み、後世に示す。」とある。従って、四一四年に建立されたことが明確となっているのである(厳密に言えば、碑を立てた月日はわからない。九月二十九日に近いことが推定しうるだけである)。
 一般に、金石文における作成年代の確定は、金石文に記載がある「年紀」をαとし、十分なる科学的方法で推定できる「作成年」(碑等の場合は建立年)をβとし、αーβの“差”を求めなければならない(古田武彦氏の教示を得た)。この“差”が「0」ないし「0」に近い程、その金石文は、年紀が記載してある同時代史料としての史料価値をもつのである。従って、従来のように、年紀があればそのまま建立年を意味すると把握してきた史料処理は拙速の感を免がれないであろう、この方法によって、αーβの“差”を示したのが、「日本古代碑」の表である。

1). “差”「0」を示すもの
山ノ上碑(二)、那須国造碑(三)、超明寺断碑(五)、阿波国造碑(七)、金井沢碑(八)、多賀城碑(九)、宇智川摩崖経碑(十一)、浄水寺南大門碑(十二)。

2). “差”「0」か「それ以上」を示すもの
多胡碑(四)、元明天皇陵碑(六)、薬師寺仏足石碑(十)。

3). “差”が大きく、年紀と著しく乖離(かいり)しているもの
字治橋断碑(一)。

(三)界線の問題
 技術は時代とともに漸次的に、或いは革命的に発展し、進歩してきた。歴史的にある時期に達成されていた技術が、次の時期にはすたれてしまうことはあるが、その際は他の技術的手段により古い技術が克服され、発展的に解消するのである。打製石器が磨製石器に、木製武器が鉄製武器に変化したように。
 石碑に文字を刻む技術も、技術史一般の発展法則に適含しなければならない。界線とは碑身の上に文字を整然と刻むのに引かれる境界線のことである。界線の技術は次のように発達したと考察できる。

1). 無界・割付なし
碑身に界線を引かず、文字を刻んでいる。
山ノ上碑(二)、那須国造碑(三)、多胡碑(四)、阿波国造碑(七)、金井沢碑(八)、宇智川摩崖経碑(十一)。

2). 外枠を作るが、割付なし
外枠を碑身に作るが、界線の割付はない。
超明寺断碑(五)、多賀城碑(九)、薬師寺仏足石碑(十)。

3). 外枠・縦界線・割付あり
 碑身に文字を刻む技術として発達した形式であり、外枠を作り、縦界線を入れ、更に割付をして整然と美的に仕上げる。
宇治橋断碑(一)、浄水寺南大門碑(十二)。

「外枠・縦界線・割付有」の例 

 これらの碑の年紀αと建立年βの“差”(α−β)を考慮に入れて、界線の発達史を探ると、基本的には1). →2). →3).となる。もとより、1).と2).は一時期共存し合うが(丁度、新石器時代の特徴である磨製石器と、旧石器時代の打製石器の共存、使用があったように)、2). → 1).と逆になることはない(磨製石器から打製石器へとなるのではないのと同様)。
 宇治橋断碑(一)は建立年の記載がないので、建立年を記載した石碑で同じ特徴をもつのを探そう。外枠・縦界線・割付ありという特徴があるところから、浄水寺南大門碑(十一)と同じであり、その碑の建立年が延暦九年(七九〇)であることを考慮すると、延暦年間(七八二〜八〇六)であることが推定できるであろう。更に、鋳鐘銘や墓誌からも言えよう。
 ただし、元明天皇陵碑(六)に問題がある。元明天皇陵の域内にあるため、実見できないという問題と文献による考証によっても伝えるところが異なるという問題がある。『古京遺文』(大正元年版)の一覧表でもこの碑を「亡」としており、『寧楽遺文』の金石文の部でも「今亡迭」としており、学者間でも知られていなかった。福山敏男氏の「元明天皇陵碑」(『中国建築と金石文の研究』)が詳細な研究をしているが、文献により文字が記してあるとするものと磨滅して判読できないとするものと両方あると指摘している。
 『集古十種』の碑銘二に「大和国奈良佐保山御陵碑」として銘文を拓本のかたちで掲載してあるが、そこでは縦横界線と割付があるように見える。しかし、文政元年(一八一八)に成った先の狩谷[木夜]斎の『古京遺文』では、既に「このほか元明天皇御陵碑あり、剥落して一字無し」としてこの碑は採録していないのである。更に、寛政五年(一七九三)に成った『金石記』(屋代弘賢)に「この碑は磨滅して読むことができない」としている。この点からすると、『集古十種』は、文字も界線も鮮明でありすぎることから資料としては信頼できない(先行説に福山敏男説あり。福山氏は「作りもの」とされている)。

狩谷[木夜]斎の[木夜]は、木編に夜。JIS第3水準ユニコード68DE

 念のため元明天皇陵碑が「縦横線・割付あり」と仮定して、建立年を年紀にある養老元年(七二一)以降とすると、宇治橋断碑は界線の技術発達史上、少なくとも七二一年以後である。そこで、宇治橋断碑の建立年は「記載がない」ところであるが「七二一年以降」としたのである。実際は、八世紀末の段階である蓋然性が高い。
 界線は文字を整然と記入するための技術であるが、宇治橋断碑のように建立年の錯誤を正し、本来あるべき位置に整然と記入するのにも役立ったと言えよう。

宇治橋断碑

 

(四)建立者の間題
 碑に建立者を記しているのは、考察した十二の碑の内半数の六である。従って、記載していないのが半数あるわけである。もっとも、碑の目的に応じて、建立者は誰かは推定できるが、あくまで推定である。一応、記載があってハッキリしたものと推定を含めて(碑に記載がないため)建立者の階層を区分すると次のようだ。

1). 権力者による建碑
那須国造碑(三)ーー意斯麻呂、多胡碑(四)ーー羊太夫か、元明天皇陵碑(六)ーー皇族、阿波国造碑(七)ーー国造、金井沢碑(八)ーー複数、多賀城碑(九)ーー藤原恵美臣朝葛*、薬師寺仏足石碑(十)ーー智努王の七碑である。

葛*は、けもの編に葛。JIS第三水準ユニコード5366

2). 仏教僧による建碑
山ノ上碑(二)ーー放光寺僧、超明寺断碑(五)ーー超明僧、宇智川摩崖経碑(十一)ーー仏教僧か、浄水寺南大門碑(十二)ーー仏教僧か、の四碑である。

 当時、碑を建立できる階層は権力をもつ者か、仏教僧のように社会的地位の高い者であって、庶民ではなかった。(2) では、宇治橋断碑は、いずれであろうか。碑文の文字は、深く仏教用語(3)に満ちている。それ故、仏教僧か仏教に帰依する人物によって建てられたであろうことに疑いを入れない。仏教僧によって建立された碑は、六八一年(二)〜七一七年(五)のものには仏教僧であることを明記している。一方、七七八年(十一)〜七九〇年(十二)のものでは、建立者を記さない。この点からも、宇治橋断碑は通説の六四六年の建立ではないことが明確であろう。

(五)所在・分布の間題
 近畿天皇家という政権の中心部に石碑は少ない(元明天皇陵碑(六)、薬師寺仏足石碑(十) )。かえって、その周辺部(宇治橋断碑(一)、超明寺断碑(五)、宇智川摩崖経碑(十一) )や遠くの地域に石碑がある。とりわけ、江戸時代から「上野三碑」と称せられ研究されてきた、山ノ上碑口(二)、多胡碑(四)、金井沢碑(八)や那須国造碑(二)等関東においては石碑文化圏とも呼べる位発達しているといえる。この点で幾内を「文化の先進地」ととらえ、地方を文化的に「遅れた」ととらえ、出来ばえの格差を説く論((2) 今泉隆雄氏)は歴史的事実を具体的に分析したものでなく、近畿天皇家一元主義に毒されてはいまいか。碑の分布は、多元的である。

(六)年号問題
 碑文に銘記された年号は、次の三つのタイプに分れる。(4)

1). 干支のみで銘記された碑
「辛巳」(六八一)の山ノ上碑(二)、「庚子」(七〇〇)の那須国造碑(三)。

2). 年号と干支の両方で銘記された碑「和銅四年・・・甲寅」(七一一)の多胡碑(四)、「養老五年歳次辛酉」(七二一)の元明天皇陵碑(六)、「養老七年歳次癸亥」(七二三)の阿波国造碑(七)、「神亀三年丙寅」(七二六)の金井沢碑(八)、「天平宝字六年歳次壬寅」(七六二)の多賀城碑(九)。

3).年号のみで銘記された碑
「宝亀九年」(七七八)の宇智川摩崖経碑(十一)、「延暦九年」(七九〇)の浄水寺南大門碑(十二)。

 この考察から、碑文に年紀を記すケースは歴史的変遷を示しており、基本的には一つのルールが存在していたことが判明する。即ち、次のようだ。
1).干支でのみ銘記 → 2).干支と年号の両方で銘記 → 3).年号のみで銘記

 このルールは、年号が建元せられていない時代に、どのように時を示すかを考えた古代人が、まず干支で示すことを始め(1).)、次いで「大宝より建元された後」は、年号と従来の習慣である干支の両方で行ない(2).)、最後には、時は年号のみで表現できるのであるから、干支を除外させたのであろう(3).)。
 ところが、宇治橋断碑は、ここでも一般のルールから遠く離れており、特異な姿を示している。「大化二年丙午之歳」(六四六)は、真に六四六年の建立であれば、「丙午之歳」だけでよく、1).のタイプであろう。この問題の考察は、宇治橋断碑の建立年を推定する重要な手掛りを与えてくれる。界線の問題から、本来の宇治橋碑の建立年は「七二一年以降」とすることができたが、「・・・年頃まで」という下限を示すことはできなかった。
 年号の問題の分析から、建立者の意識に年号と干支の両方で記すべきだとあるのを見ることができるところから、2).のタイプの時代であるという蓋然性が高いと言えよう。

表2 古代の造像銘 (8世紀初め以前)

番号 名称 所蔵 年紀 刻銘位置 刻銘
の時
干支年 比定年
1 光背 東京国立博物館
(法隆寺旧蔵)
甲寅 推古2=594 光背裏
2 菩薩半跡像 東京国立博物館
(法隆寺旧蔵)
丙寅 推古14=606 台座下枢
3 薬師如来坐像 法隆寺
(金堂)
丁卯 推古15=607 光背裏
4 釈迦三尊像 法隆寺
(金堂)
癸未 推古31=623 光背裏
5 釈迦如来及脇侍像 法隆寺 戊子 推古36=628 光背裏  
6

観音菩薩立像

東京国立博物館
(法隆寺旧蔵)
辛亥 白雉2=651 台座柩
7 光背 根津美術館
(観心寺旧蔵)
戊午 斉明4=658 光背裏  
8 弥勒菩薩半跡像 野中寺 丙寅 天智5=666 台座下枢
9 観音菩薩立像 島根・鰐淵寺 壬辰 持統6=692 台座上枢  
10 銅板造像記 法隆寺 甲午 持統8=694 光背か
11 法華説相図 奈良・長谷寺 降婁 文武2=698 図の下  
12 観音菩薩立像 大分・長谷寺 壬寅 大宝2=702 台座枢 後ら
13 阿弥陀三尊像 東京国立博物館
(法隆寺旧像)
台座背面
14 広目天立像 法隆寺(金堂) 光背裏   
15 多聞天立像 法隆寺(金堂) 光背裏  

(1) 奈良国立文化財研究所『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』『同 銘文篇』による。
(2) 年紀は必ずしも銘文の年代を示さない。
(3) 刻銘の時は「前」は鍍金前に、「後」は鍍金後に刻銘したことを示す。今泉隆雄『銘文と碑文』(『日本の古代14』『ことばと文字』所収)より

表3古代の墓誌一覧表(別表示)へ

 石碑の分析からは、以上の通りであるが、念のため石碑以外の金石文から一層厳密に考察をすすめよう。まず、造像銘の年紀(表2)は、全て干支年を示している。つまり、観音菩薩立像(12)の「壬寅」(七〇二)までは、年号を記さず干支のみを銘記する1).のタイプである。
 続いて、墓誌や骨蔵器の年紀を調べてみよう。まず、界線のところで明確にしたように、太安萬侶墓誌(七二三)までは、無界、即ち縦界線は見られない。従って、宇治橋断碑の界線の特徴から、少なくとも七二一年以降としたことは、ここでも正しいと言える。
 さて、年紀は、古代の墓誌一覧表(表3)にある通り、1).タイプの干支のみは、小野毛人墓誌の六七七年までであり、年号と干支の両方のタイプは、紀吉継墓誌(七八四年)まで続いている。つまり、ここでも、1). → 2).のルールが存在していたことが判明する。なお、年号のみの3).のタイプは墓誌にはない。これは何故かということは、墓誌そのものが平安時代以降に衰退するからである。その理由は、早くから行われていた墓碑や、仏教と結びついて造立されるようになった墓塔が、より直接的な標識として次第に墓誌の役割にとってかわったと考えられる。(5)
 ここでの考察をまとめると、次のようなルールが存在していたことが明確となる。(表4)
1). 大宝二年(七〇二)までの金石文の年号表記は、干支のみである。
2). 延暦元年(七八二)前後まで、干支と年号の両方で表記が行われた。
3). 延暦元年前後から、年号のみで表記する。

表4金石文における年号表記のルール

年号     /素材 石碑 造像銘 墓誌
(1) 干支のみ
〜七〇〇年 〜七〇二年 〜六七七年
(2) 干支と年号の両方
七一一〜七六二年 なし 七〇七年〜七八四年
(3) 年号のみ
七七八〜七九〇年 なし なし

 このルールからすれば、宇治橋断碑の問題は明確となろう。つまり、従来のとらえ方のように六四六年の建立とするならば、碑には干支のみで表記されていたはずである。これとは別の点で、「大化」年号が碑にあることから、宇治橋断碑を疑ったのが藪田嘉一郎氏である。ただ、問題は「大化」年号の流通を疑っただけで、根本的に「大化」そのものを深く疑って問題としておられないのが残念である。

「しかし銘文の『大化』の年号の流通問題の如きについて考えるとき、より決定的となる。大化という年号の存否はともかくとして、その一般に流通したか否かについては疑わしく、古来之を疑うた人もあるのである。(6)

 私たちは疑いをこのレベルでとめてはならない。一層深く疑い、問いを立てよう。
 そもそも、「大化」年号とは何か。現『日本書紀』は、大宝年号以前に、孝徳朝に大化・白雉、天武朝に朱鳥の三つの年号があったかの如く記している。しかし、その後、大宝元年まで長い空白が存していて、従来の研究者も疑うところであった。(7) 今、年号論についての本格的な論述は別稿とし、ここでは必要最少限にとどめ簡略に記しておきたい。
 友田吉之助氏は『日本書紀成立の研究』において、旧新両『日本紀』の存在を明らかにし、紀年において旧『日本紀』は甲寅年を神武元年とし、ここから一三六八年後の壬寅年(大宝二年・七〇二年)まで記述しており、一方新『日本紀』は辛酉年を神武元年とし、持統十一年丁酉(六九七年)に終るとした。

「わたくしは一年引き下げられた干支紀年法をもって、現存日本書紀成立以前に使用された紀年法と考える。」

 そして、一年引き下げられた干支紀年法は中国のせんぎょく暦暦に基づいていることが示されている。

せんぎょく暦の[端頁](せん)は、立つ無。JIS第3水準、ユニコード9853、[王頁](ぎょく)は、JIS第3水準、ユニコード980A

 つまり、せんぎょく暦暦とは紀元前三六六年を暦元とし、甲寅年とし、秦始皇帝の二六年(B.C.二二一)より漢武帝の太初元年(B.C.一〇四)まで、百十七年間行われた古い暦で、現行の干支紀年法に比べ、干支が一年下げられているものである。(8) 『史記』、『漢書」はせんぎょく暦暦が用いられており、日本には百済の僧侶及び暦博士が伝え、推古朝以来、孝徳・天智朝ごろに使用されていたと考えられる。
 友田氏の論理によって、宇治橋断碑の大化二年丙午を疑ったのが、重松明久氏である。「大化二年丙午」の年号と干支は、新『日本紀』系年号建てに依拠しているのは、宇治橋断碑が孝徳朝に建立されたものでなく、新『日本紀』の成立以後、養老年間(七一七〜七二四年)以後の奈良時代であるとされた。(9) つまり、六四六年建立であれば、干支は「乙巳」でなければならないからであろう。この論点は、至極、明解である。ただ、重松氏は金石文それ自身の分析、研究からでなく、年号論からのみ立論しているという弱点が存していよう。
 「大化」年号を最も深く疑い、鋭く問い研究したのは、丸山晋司氏である。丸山氏の「『大化』年号への疑問」(『市民の古代」第五集)及び「『朱鳥〜九州年号」論批判」(『市民の古代』第九集)によれば次の通りである。
 わたしは本誌第五集「大化年号への疑問」(以下、前稿と呼ぶ)において、『海東諸国記』等に見られる乙未年の「大和」年号は「大化」の誤伝ではないかとした。また、この六九〇年付近の「大化」が九州年号に実在したなら、近畿天皇家の年号とされる『日本書紀』中の「乙巳(六四五)大化」こそ、その実在性がうたがわれるのでは、と説いた。このことは、『宇治橋断碑』の問題がのこされているものの、論理的には支持されうるものと信ずる次第である。(10)
 そして、丸山氏は九州年号「大化」元年を文献を渉猟し、分析を加え、ついに九州年号「大化」元年を丙戌つまり六八六年とされたのである。
 この結論は、論理的に支持されうるものだけではなくて、丸山氏が自ら保留された宇治橋断碑の問題の解明からも支持されうるものである。つまり、六四六年に建立されていたとすれば、干支のみで表記されていなければならない。又、たとえ、年号と干支があったと仮定しても、前述の分析から、「大化二年丙午」ではなく、「大化二年=乙」となるのではないか。つまり、いずれをとっても、宇治橋断碑の建立は六四六年ではないという証明となるのである。そして、この問題は、九州年号にとっての“アキレス腱”ではなくて、反転して、近畿天皇家の年号にとってのそれとなるのである(後述)。
 以上、六つの問題が宇治橋断碑に集中して存在していることを明らかにした。次にこれらの問題点を一層解明するために、現地に二度、市民の古代研究会会員諸氏と訪ねた。(11) 更に、研究文献を渉猟し、解明しよう。

 三、宇治橋断碑

 京都の宇治市橋寺放生院に、宇治橋断碑を、今日でも実見できる。この断碑は、江戸時代の寛政三年(一七九一)に寺の境内から、写真で指示した上部(碑身全体の約四分の一)の断石が発見された。
 碑陰(碑の裏面に陰刻された文字)によれば、この碑は「埋没」して「不ラ 二其幾百載ナル ヲ 一」であった。「寛政辛亥」(一七九一年)の年に放生院(橋寺)が偶然この断碑「二尺計」を獲た。尾張の学者で小林亮適ら五人が「欲ス レセント レ」として、「古法帳より旧字を集めて「寛政癸丑」(一七九三年)の九月に碑は完成したのである。
 碑文の文字は二十七字分が断碑として残存し、他六十九字分は『帝王編年記』によって補ない、今日の九十六字としてある。文章は四言句法になっており、四句を一節とし、二十四句(六節)をもって切り、全体は三区分になっている。

 趣旨をまとめると次のようだ。(12)
 1). 河の水量が多く、流れも速いので、旅人は長く続き、馬を停(と)めて渋滞する。河の深いところを渡ろうとすると、人馬ともに危険で、昔から今にいたるまで渡し船もない。
 2). 道登という僧があり、山背の恵満家の出身である。大化二年丙午の歳にこの橋を構え立て、人馬を渡した。
 3) .この微善によって、ここに大願をおこし、この橋を因として果を彼岸に結ぼう。法界の衆生はみなこの願に賛同し、その昔の(苦しい(13) )縁を空に帰せしめよう。
 この碑は銘のみで、序や撰文者、建碑者、建碑年等のことは何も記していない。それ故に、古くから解釈が分かれてきた。碑にある「道登」についても、文献により解釈が分かれ、次の三つのグループに大別される(Aを道登説、Bを道昭説、Cを道登・道昭の両者とする説の三区分)。

A道登説『日本霊異(りようい)記』(日本最古の仏教説話集で景戒の著。八二二年ごろの成立)は次のように記す。

高麗学生道登者□□□□恵満之家 而往二年
丙午宇治□□□干奈良山渓為人畜

 碑文にある文字と共通する語は、十四文字(文中の傍点、インターネットでは赤色表示)である。道登を「高麗」(高句麗)の「学生」(仏教を学ぶ者)といい、「恵満」の家の出身で、大□(化)二年に宇治橋を営(いとなむ)という。この文章によって、碑文の存在が窺(うかが)える。
 次いで、『扶桑略記』(皇円の著。30巻の史書。平安末期の成立。)は碑の存在を明確に伝えている。

大化二年。丙午。始造宇治橋。件橋北岸石銘曰。世有釋子名曰道登山尻(ヤマシロ)恵満之家大化二年丙午之歳立此橋度人畜

 宇治橋の北岸に碑石があり、そこにある文章を記していると伝える。事実、三十二文字は碑文にある文字である。
 道登説に立つ文献は、他に『今昔物語集』(成立は一一〇六年以降、十二世紀前半。巻十九に道登のことがある)、『仁壽鏡』、『濫觴抄(らんしようしよう)』、『日本皇帝系図裏書』等がある。

B道昭説
 『続日本紀(しよくにほんぎ)』( (14) 菅野真道ら編。七九七年成立。四十巻)は『日本書紀』に次ぐ勅撰史書であり、根本史料の一つである。

文武天皇四年(七〇〇)、三月己未。道和尚物化。(中略)於テ レ遊天下ニ 一。路傍穿チ レ。諸津濟。儲ケ レル レ橋。乃山背国宇治。和尚之所ノ 二創造スル 一者也。和尚周遊スル 凡十有餘載。

 道昭伝を『続日本紀』は詳しく伝える。道昭は七〇〇年三月に死亡した僧侶で、全国を歩き、井戸を掘ったり、船を製造したり、橋を作ったりしたのである。山背国の宇治橋は、道昭の創造する所である。周遊は「十数年間」である。
 正史である『続日本紀』の記載では、宇治橋は道昭が「創造」したといい、宇治橋は道昭の「周遊」の間ととらえられている。道昭は七十二歳でなくなる。道昭が唐より帰朝した後、十数年間の「周遊」の間に宇治橋が創造されたこととなろう。
 道昭説は、『元亨釈書(げんこうしやくしよ)』(虎関師錬著。一三二二年成立。)や『本朝高僧伝』(美濃盛待寺僧卍元師蛮著。一七〇二年成立)等にもある。

 C 道登・道昭両者説
 宇治橋は鎌倉時代の弘安九年(一二八六)に叡尊の勧進で修造されたが、この叡尊に橋を修造させる太政官符(弘安七年〔一二八四〕二月)に、「最初元興寺道登道昭之を建立す」と最初の造橋を偲んでいる。更に、『帝王編年記』(撰者、成立年不詳。古代より後伏見天皇までの記事があるところから、一三〇一年以降と考えられる)に、「二年丙午。元興寺道登。道昭。奉勅始造宇治川橋。石上銘。」と記載している。今日知られている碑銘と同じであるのは、『帝王編年記』に基づいて江戸時代に作成されたからである。厳密に言えば、断碑のみが金石文で、『帝王編年記』によって補った約三分の二は文献史料である。(傍点が断碑にある文字、インターネットは赤色表示)

俛*俛*横流 疾如箭 修々征人停騎成市
欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿
世有釈子 曰道登 出自山尻 恵満之家
大化二年 丙午之歳 構立此橋 済度人蓄
即因微善 発大願 結因此橋 成果彼岸
法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁

[来力]の別字。ユニコード52D1
俛*は、三水編に免。ユニコード6D7C

 『帝王編年記』は宇治橋碑を実際に見て書かれていると思われる。しかし、石上銘に道登とあるにもかかわらず、道昭をも入れている。これは道昭説を無視できないと考えたからに他ならない。更に興味ある史料を見い出した。
 『水鏡』(中山忠親著か。国史大系・前田家本)は、混乱した姿を示している。

大化二年ニ道ト云物宇治橋ハ渡シ始メタリシ也。

 つまり「道」とし、道とも道(證=ショウ)とも読みうるのである。しかも、『水鏡』は写本によっても異なり、専修寺所蔵本では「道」に作り、尾張徳川黎明会所蔵本では「道」に作っている。『水鏡」は江戸時代の『道の幸』や西田直養の『筱舎漫筆』以来、ほとんどの論者はこれを道登説の書としてきたが、道登・道昭説としてもみることができよう。
 以上の基本的な史料を、その文献の成立年代を基に、宇治橋に関するデータがどのように変遷したかまとめてみよう(表5 宇治橋創建者に関する史料)。

表5 宇治橋創建者に関する史料

 従来、宇治橋の創建者をめぐって道登か道昭か、或いは両者かと論争のあるところであった。碑文をとれば、史料(『続日本紀』等)と異なり、史料をとれば、碑文にあるところと矛盾するという二律背反 (アンチチノミー)を示していた。
 既に狩谷[木夜]齋の『古京遺文』に、「蓋れ彼れ碑に拠りて道登と為さんと欲すれば則ち史と乖き、史に従ひて道昭と為さんと欲すれば則ち又碑と迂ふ。」と言わしめているところである。この難問を解きうる地平に、今や到達したのである。二律背反は、史料と碑を同等に扱うところから、「あれか、これか」或は「あれも、これも」と問うたのであった。
 真の問題は、宇治橋碑は金石文としての同時代史料たりうるか否かと問われるべきであった。前節で、私達はこの点を他の金石文と比較、吟味しながら考察した所以(ゆえん)である。そこで得ることが出来た結論をまとめると次のようだ。

 まとめ

(1).宇治橋碑は断碑であり、『帝王編年記』を基に、江戸時代の一七九三年九月に今日の石碑は作製されたものである。

(2).原石碑部分と思われる断碑を他の金石文と比較して考察すると、界線は外枠・縦界線・割付ありを示す浄水寺南大門碑(七九〇年)と同じ特徴を示すから、延暦年間(七八二〜八〇六)と推定される。

(3).碑文を補って記載された「大化二年丙午」等の『帝王編年記』の記事(現在の宇治橋断碑)は、文献上の史料批判を行わなければならない。

(4).史料批判上、成立年代の早い史料が後代史料に優先するのは、文献学、考証学が示すところである。従って、『続日本紀』の「道昭和尚の創造する所」という史料が根本史料である。

 以上の通りである。では、この結論は、宇治橋断碑についてどのようなことを明確にし得たのか、さらに歴史学上どういう意味をもつのだろうか。
 従来は、宇治橋断碑をもって日本古代碑の“最古の石碑”として資料上扱ってきた。しかも、「碑面」の年紀に「大化二年丙午」とあることをもって建立年とみなし、『日本書紀』の「乙巳大化」(六四五年)の“実在”もしくは“流通”としてきたのである。
 ところが、碑の実地調査、史料批判を厳密にすることによって得られたことは、現在の宇治橋断碑は『帝王編年記』によって補った文章であり、年紀「大化二年丙午」を建立年のこととみなすことは出来ないという事である。さらに今回明白にし得たことは、界線の技術の発達史、年紀のルールの存在である。このいずれの面からの分析でも、宇治橋断碑は七二〇年以前にはさかのぼれないのである。つまり、『日本書紀』成立(七二〇年)以後に、宇治橋断碑の「大化二年丙午」は成立しているのである。
 この事実は重大な意味を提起している。『日本書紀』の「乙巳大化」(六四五年を元年とする)は、宇治橋断碑をもって証明とすることはできない。つまり、『日本書紀』の「乙巳大化」を根拠づける“金石文史料”は一つもない。この一点に帰結する。
 この結論は、九州年号論、「大化改新」論等にさまざまな展開をもたらしうるであろう。又、なお、宇治橋断碑の問題点や研究課題も少なくはないのであるが、今は紙幅の都合上、この重大事実を報告するにとどめ、他日を期したい。


(1) 好太王碑は他の碑と比較して残存率は高い。大東急記念文庫拓本でも、判読可能な文字は、一五六七字、半分読めるものが二字、合計一五六九字分ある。王健群氏の推定される原碑の文字数、一七七五字からすると、八八・四パーセントであり、王氏の釈文では、□の不明字が第一面十六、第二面二四、第三面八○、第四面○で合計一二〇となり、残存率は九三・二パーセントである。

(2) 建立者を区分するのに、「中央人・地方人」という区分をしているのが、今泉隆雄氏の「銘文と碑文」(『日本の古代14』『ことばと文字』所収)である。
 この区分は、今泉氏によれば「何といっても畿内は政治の中心地、文化の先進地であるのに対して、地方は政治の中心地から離れ、文化的にも遅れた面があるから、中央人と地方人の建立の碑の間には、大勢として、その出来ばえに格差がみられる」(同上書、五〇五頁)と言われる。だが、このような区分は正しく歴史的事実を把握しないばかりか、事実の具体的分析にも合わず、又偏見でしかない。「中央人」を近畿に限定しているところを見ると、近畿天皇家一元主義に毒されているとしか言えない。
 今泉氏も那須国造碑を実見されたら解るように、「碑として非常に優れたもの」(今泉氏の言葉)であり、氏の分析が誤っている証拠ではあるまいか。

(3) 宇治橋断碑を『帝王編年記』によって補った文章から仏教用語を抽出すると次のような言葉がある。「釈子」「済度人畜」「微善」「大願」「結因」「彼岸」「法界」「衆生」「縁」。

(4) 超明寺断碑は現存する碑からは、3).の年号のみのタイプのように見えるが、碑であり、全面的には解らないので、除外した方が厳密である。

(5) 東野治之「日本古代の墓誌」『日本古代の墓誌』奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編、同朋舎参照。

(6) 藪田嘉一郎『日本上代金石叢考』河原書店。

(7) 『日本書紀』中の乙巳大化の存在への疑義を明確にした研究論文は、年号論を研究してこられた丸山晋司氏によれば、次の通り。
佐藤宗諄「年号制成立に関する覚書」『日本史研究』第百号。原秀三郎『日本古代国家史研究』東京大学出版会。岡田芳郎「年号の始元」『日本の暦』木耳社。田中卓「年号の成立」『神道史研究』二五ノ五・六号。藪田嘉一郎『日本上代金石叢考』河原書店。重松明久「白鳳時代の年号の復元的研究」『日本歴史』第三一九号。

(8) 新城新蔵『こよみと天文』一三二頁参照。

(9) 重松明久氏前掲論文参照。

(10) 丸山晋司「『朱鳥=九州年号』論批判」『市民の古代』第九集。

(11) 一回目の調査は、一九八七年五月九日、広野干代子、小川澄子さんらのご協力を得た。二回目は、同年七月一九日「遺跡めぐり」として一行二十五名に同行して。

(12) 福山敏男著作集六『中国建築と金石文の研究』を参照としたが、一部執筆者の判断で変えてある。

(13) 「昔」か「苦」かは分れる。『帝王編年記』では「昔」に作る。拓本や碑文の観察では、「苦」に読みとりうる。

(14) 道昭については、『日本書紀』孝徳天皇白推四年五月壬戌条に遣唐使随従の学問僧十三人の一人として記載されたのが初見である。次に、『続日本紀』文武天皇四年三月己未にかなり詳細な記述がある。道昭は文武天皇四年(七〇〇)に「時年七十有二」で死亡したとあるところから、生まれた年は舒明天皇元年(六二九)と逆算しうる。道昭の本貫は河内国丹比郡で、俗姓は船連、少錦下恵釋の子である。道昭は二十五歳で入唐し玄奘三蔵について勉強した。やがて、日本に帰ったが、その年代は斉明天皇七年(六六一)か、天智天皇四年(六六五)か二説に分れている。帰国後、元興寺の東南隅に別に禪院を建てて住み、天下行業の徒和尚に従って禪を学ぶ。その後、天下を周遊し、路傍に井を穿ち、津済に橋を架す等の善事を行った。十餘年にして勅によって還り、また禪院に住み、七十二歳にしてなくなったのである。


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