『古代に真実を求めて』 第二十集
九州年号の史料批判 -- 『二中歴』九州年号原型論と学問の方法 古賀達也


『二中歴』細注が明らかにする九州王朝(倭国)の歴史

正木裕

一、『二中歴』年代記の細注

『二中歴』年代記には「継体」に始まり「大化」に終わる九州年号(倭国年号)が記されており、そのうち十六の年号に「細注」が付されています。
①善記(五二二~五二五) 同三年発誰成始文善記以前武烈即位
②教倒(五三一~五三五) 舞遊始
③明要(五四一~五五一) 文書始出来結縄刻木止了
④法清(五五四~五五七) 法文〃唐渡僧善知傳 
⑤蔵和(五五九~五六三) 此年老人死 
⑥和僧(五六五~五六九) 此年法師始成
⑦鏡當(五八一~五八四) 新羅人来従筑紫至播磨焼之
⑧端政(五八九~五九三) 自唐法華経始渡
⑨定居(六一一~六一七) 注文五十具従唐渡
⑩倭京(六一八~六二二) 二年難波天王寺聖徳造 
⑪仁王(六二三~六三四) 自唐仁王経渡仁王会始
⑫僧要(六三五~六三九) 自唐一切経三千余巻渡
⑬白雉(六五二~六六〇) 国々最勝会始行之
⑭白鳳(六六一~六八三) 対馬採銀観世音寺東院造
⑮朱雀(六八四~六八五) 兵乱海賊始起又安居始行
⑯朱鳥(六八六~六九四) 仟陌町収始又方始

 この「細注」は九州王朝(倭国)の事績に関係すると思われますが、多くは短文で、意味の理解が困難なものとなっています。しかし、その中でも幾つかの年号については、様々な資料から、朧気にその内容を推測することができます。

 

二、「舞遊始」

 たとえば、九州年号(倭国年号)「教倒」(五三一~五三五)年間には「舞遊始」との細注があります。これは「舞楽の遊びが始まった」ということですが、本居宣長の『玉勝間』が引用する『體源抄』(室町~戦国時代の雅楽家豊原統秋著の音楽書)に次のような記事があります。

◆丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)(宣化元年。五三六)駿河ノ国宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊あずまあそびとて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり。(岩波文庫『玉勝間』下、十一の巻六一頁)

 これは教到六年(五三六)に「駿河ノ国宇戸ノ濱」で、今の舞楽にある「東遊」が始まったというものです。(なお、『二中歴』では丙辰は僧聴元年ですが、年中の改元なら「教到六年丙辰」が存在する可能性があります。)
そして『書紀』安閑二年(五三五)五月条の十三国二十七箇所に屯倉を設置した記事中に、「駿河国稚贄わかにへ屯倉」が記されています。屯倉設置の理由は宣化二年(五三七)に遂行された、任那救済のための「新羅討伐戦」に向けての食糧備蓄です。これは宣化元年(五三六)五月には全国の屯倉から「筑紫」に食料を送れとの詔が出されていることからわかります。

◆夫れ、筑紫国は、遐とおく邇ちかく朝で届る所、去来の関門所なり。是を以て、海表の国は、海水を候ひて来賓き、雨雲を望りて貢みつき奉る。胎中之帝(応神)より、朕が身に泪いたるまでに、穀稼もみいねを収蔵おさめて。儲糧を蓄へ積みたり。(以下各地の屯倉の穀物を「那の津」に運べとの詔があります)。

 そして、『書紀』安閑元年(五三四)には、「楽うたまひを作おこした」と書かれています。

◆安閑元年(五三四)閏十二月壬午(四日)禮を制めて功成ることを告し、楽を作して、治まつりごとの定まることを顕す。

 ちなみに「駿河国稚贄屯倉」は静岡県吉原市(現富士市)の吉原川付近にあったとされます。吉原川は羽衣伝承の田子の浦に注ぐ川です。そして『玉勝間』に云う「駿河ノ国宇戸ノ濱」も吉原にあります(吉原宇東川東、宇東川西)。つまり天人が舞い降りた駿河ノ国宇戸ノ濱と駿河国稚贄屯倉が設置された場所はほぼ同一で、その時期も天人の天降りは五三六年、屯倉設置は五三五年と近接しています。従って「稚贄屯倉設置記念に駿河で『東遊』が作(おこ)された」と考えて支障は無いでしょう。
 そして『二中歴』教到年号(五三一~五三五)細注は九州王朝(倭国)の事跡を示すものですから、この時期九州王朝(倭国)が全国に屯倉を設置し、その記念に「楽を作し」たと考えられます。稚贄屯倉が教到五年(五三五)に設けられ、その翌年教到六年(五三六)に、筑紫から九州王朝の貴人が楽人を引き連れ訪問し、その地で舞曲を奏しました。それが『玉勝間』に云う『體源抄』中の『丙辰記』に、「東遊」の始めとして記録されたのだと考えられます。
 通説では舞楽の『東遊』は「東国の舞踊が朝廷に取り入れられた」としますが、本当は九州王朝(倭国)の舞踊が「東国で披露された」もので、「天人」とは白布を纏って踊った宮廷の神楽乙女たちであり、当時九州王朝(倭国)の都である、九州の筑後高良大社や志賀海神社に今も伝わっている「八乙女の舞」は、その古代の伝統を受け継ぐものではないでしょうか。

(参考)古賀達也「本居宣長『玉勝間』の九州年号ー「年代歴」細注の比較史料」(「古田史学会報」六四号。二〇〇四年十月)。『玉勝間』の「教到」年号については冨川ケイ子氏(当会会員)の調査による。

 

三、「対馬採銀観世音寺東院造」

 また、「白鳳」年間には「対馬採銀観世音寺東院造」という細注があります。これは白鳳年間(六六一~六八三)に観世音寺が東院(皇太子)によって造られたという内容です。そして、『勝山記』『日本帝皇年代記』には筑紫観世音寺が「白鳳十年」に建立されたと記しています。(註)

◆ 『勝山記』白鳳十年(六七〇)「鎮西観音寺造」

◆『日本帝皇年代記』天智天皇 唐高宗咸亨元庚午白鳳十(年)「鎮西建立観音寺、建立禅林寺、俗曰當麻寺」

 そして、『筑前国続風土記』(貝原益軒。一七九八)には観世音寺に現存する「碾磑てんがい」という石の碾き臼の起源が「是は古昔此寺営作の時、朱を抹したる臼なりと云。」と記されています。これは観世音寺建立の際、塗装に使われた「ベンガラ(鉄朱)」の原鉱「赤鉄鉱・褐鉄鉱」の湿式微粉砕(水を流しながら粉砕する)に用いた臼という意味です。
 そして、『書紀』にもただ一か所「水碓(臼)」の記事があります。それは、天智九年、九州年号(倭国年号)の「白鳳十年」条で、「是歳、水碓を造りて冶鉄(かねわか)す」というものです。ここからも観世音寺建立は白鳳十年であると確かめられます。
 このように『二中歴』白鳳年の細注と他の資料を参照することで、「九州王朝(倭国)は白鳳十年に観世音寺を建立した」ことがわかるのです。

(*なお、観世音寺の石臼は上下が不具合であることから、建立時に異なる二つの石臼を組み立てて再利用したと考えられています。)
(参考)正木裕「観世音寺の「碾磑」について」(「古田史学会報」一一五号。二〇一三年四月)

(註)『勝山記』は、甲斐国(山梨県)の河口湖地方を中心とした年代記。九州年号「師安」(五六四)から永禄六年(一五六三)まで書き継がれている。『日本帝皇年代記』は二十世紀初頭に発見紹介された薩摩入来院家に伝承されている文書の二九番で、歴代天皇の年代記。

 

四、「兵乱海賊始起又安居始行」

 さらに、「朱雀」(六八四~六八五)年間には「兵乱海賊始起又安居始行」との細注があります。

 このうち、「安居あんご」とは、僧侶たちを一か所に留め、四月十五日から七月十五日まで修行させる、インド発祥の仏教行事で、『書紀』では天武十二年七月の「この夏」条と、天武十四年四月十五日条に「安居」が行われた記事があります。

◆天武十二年(六八三)秋七月。是夏、始めて僧尼を請せて宮中に安居せしむ。因りて、淨行者おこなひびと卅人を簡えらびて出家せしむ。

◆天武十四年(六八五)四月庚寅(十五日)、始めて僧尼を請せて宮中に安居せしむ。

 「朱雀」は六八四~六八五の二年間なので、六八三年記事は一見当てはまらないように思いますが、「始めて」が「初回」の意味ならどちらの記事にもあるのは不審で、かつ天武十二年は「安居が終わる」七月の記事ですから「安居行を始めた」ことにもなりません。また、七月は「秋」なのに「是夏」とあるのも不自然です。ところで、安居が終わった七月十五日には「臘ろう」という修行年数による僧侶の格が与えられました。つまり「卅人を出家」させたというのも安居の「終わり」に相応しい行事で、決して「始めて」と書かれるべきものではないのです。

 このことから二つの「始めて」のうち天武十二年記事は、本来天武十四年(朱雀二年)四月に「始まった」安居の「終わり」の記事が移されたもので、やはり「朱雀二年」の出来事だったと考えられるのです。
これを証するように、天武十四年三月には仏舎造営と礼拝供養を行えとの詔が出されています。

◆天武十四年三月壬申(二十七日)、詔したまはく、「諸国の家毎に佛舍を作りて、乃ち仏像及び經を置きて、以て礼拝供養せよ」とのたまふ。

 この「礼拝供養」と「安居」を行った理由は、天武十三年「朱雀元年」(六八四)十月十四日の「白鳳大地震」にあると考えられます。この地震は東海・東南海・南海地震が連動して起きたもので津波を伴い、『書紀』に被害は伊豆諸島から伊予まで及び「多に死傷そこなはる」とあるように、犠牲者も膨大に上ったとされています。

◆大きに地震る。国挙こぞりて男女叫び唱ひて、不知東西まどひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸国の郡の官舎、及び百姓の倉屋、寺塔神社、破壊れし類、勝あげて数ふべからず。是に由りて、人民及び六畜、多に死傷そこなはる。時に伊予の湯泉、没うずもれて出でず。土左國の田畑五十余萬頃、没れて海と為る。

 つまり、仏舎造営と礼拝供養を命じ、「安居」を始めたのは、白鳳大地震で死亡した多くの人々を「供養」するためだったのでした。
白鳳大地震の年に九州年号(倭国年号)は「朱雀」に改元されており、『書紀』で十二月に「大赦」記事があるのも改元記念の恩赦ではないかと考えられます。白鳳大地震による九州年号(倭国年号)の朱雀改元であれば、これを受けた仏舎造営と礼拝供養、安居は九州王朝(倭国)の事績となるでしょう。
 ただし、この災害に伴う治安の乱れは避けられず、強盗・海賊はもちろん被災地同士や被災を免れた地域の領主・領民との「兵乱」(武器による抗争)が横行したことは十分に推察されます。やはり『二中歴』「兵乱海賊始起又安居始行」は九州王朝の事績と、それに関連する事象だったのです。

 

五、「仟陌せんぱく町収始又方始」

 そして、「朱鳥」(六八六~六九四)年間には「仟陌町収始又方始」との細注があります。「仟」は田地の縦(南北)の道、「陌」は横(東西)の道のことです。「町収」については、古賀達也氏が見出された『海東諸国紀』の次の記事から「町段」だったことが分かります。

◆「持統七年癸巳定町段中人平歩両足相距為一歩方六十五歩為一段十段為一町」〔古賀氏訳〕町・段を定む。中人平歩して両足相距つるを一歩と為し、方六十五歩を一段と為し、十段を一町と為す

 そして我が国の古代では田地に「条里制」が敷かれており、六十歩(約一〇九m)四方の面積が一町(坪・坊とも)で、この中の十等分に地割された区画を「段」と読んでいました。
 つまり「仟陌町段始又方始」とは、「条里制」が始まったという内容でした。さらに言えば「方始」も意味が取れないので、正確には「坊始」であり「仟陌町段始又坊始」だった可能性が高いと思われます。なお、「方六十五歩為一段」は正確には「方六十歩為一町」ですが、『海東諸国紀』は李氏朝鮮の宰相申叔舟が一四七一年に書いたものですから誤記・誤認は仕方ないかもしれません。
 条里制は班田収授制に伴う制度とされてきましたが、現在では、「班田図」等で「条・里・段」という表記が始めて見えるのは天平十五年(七四三)ころであり(註1)、『書記』で七世紀に見える「班田」との直接の関係は薄いとされています。 しかし持統七年は六九三年ですから、班田制の実施を示す「町段始」という表記が七世紀に遡ることになります。そして、『書紀』の持統六年(六九二)九月にある「班田大夫等を四畿內に遣す。」とも一致し、班田収授制と条里制に密接な関係があることを示しています。
 この「仟陌町段始又方始」という条里制を示す細注が九州年号(倭国年号)に付されているということは、条里制を始めたのは九州王朝(倭国)となるのです。

 こうしたことから水野孝夫氏は「仟陌町収始又方始」について、
◆「条里制の施行を示す文献」であると考える。従って九州王朝は六九〇年頃に「条里制」を開始したと考える。 (註2)

としていますが、これは極めて卓見と言えるでしょう。
 さらに、持統六年(六九二)六月には、「天皇、藤原宮地を觀みそなはす。」とあるように、このころは藤原宮の造営時期にあたり、奈良文化財研究所の小澤毅氏が、「条里の設定は藤原京条坊とほぼ同時かそれに遅れるかたちでおこなわれたとみるのが妥当ではないだろうか。」とするのとも一致します(註3)。そして、藤原京で条里と条坊の整備が並行しておこなわれたとすれば、「仟陌町段始又坊始」の「仟陌町段始」は条里制の始め、「又坊始」は藤原京での条坊制のはじめを意味するのかもしれません。
 ただし、この時代は近畿天皇家が実力ナンバーワンだったとしても、七〇〇年以前の九州年号の時代で、さらに『二中歴』細注に記されているのですから、両制度の「制定主体」は九州王朝(倭国)だったといえるでしょう。これは藤原京の造営は九州王朝による構想であることを示しているのかもしれませんし、「藤原宮を観た天皇」とあるのも「九州王朝(倭国)の天子」の潤色とも考えられるのではないでしょうか。

(註1)天平十五年(七四三)『弘福寺田数帳』(山背国久世郡) 路里十七口利田二段七十二歩、上中北。 十九曰佐田一段二百十六歩、上中東

(註2)水野孝夫「条里制の開始時期」(『なかったー真実の歴史学』創刊号。ミネルヴァ書房二〇〇六年五月)

(註3)小澤毅「藤原京の成立と構造をめぐる諸問題」(『古代東アジア交流の総合的研究』国際日本文化研究センター二〇〇八年)。

(参考)。古賀達也「九州王朝の近江遷都 -- 『海東諸国紀』の史料批判」(「古田史学会報」六一号。二〇〇四年四月)。

 

六、今後の課題

 『二中歴』には、このほか「法清」の「唐渡僧善知傳」、「端政」の「自唐法華経渡」、「定居」の「法文五十具従唐渡」、「仁王」の「自唐仁王経渡仁王会始」、「僧要」の「自唐一切経三千余巻渡」など『書紀』に記されない仏教関係や、「此年老人死」などの意味不明の細注があり、これも九州王朝(倭国)に関するものと思われますが、その解明は今後の課題です。


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