講演記録 壬申の乱の大道 古田武彦へ
続・「九州年号」真偽論の系譜 -- 貝原益軒の理解をめぐって 古賀達也(会報60号)
九州王朝の近江遷都
『海東諸国紀』の史料批判
京都市 古賀達也
『海東諸国紀』の九州年号
『海東諸国紀』は一四七一年に李氏朝鮮で作成された、日本と琉球の歴史・地理・風俗・言語・通行を克明に記した史料である。著者は朝鮮の最高の知識人でハングル制定にも寄与した申叔舟(一四一七〜一四七五)である(注 1. )。申叔舟は朝鮮通信使として来日(一四四三)した経験もあり、李氏朝鮮最高の官職である議政府領議政(首相に当たる)にも任ぜられた人物である。病により死に臨んで、「願わくは国家、日本と和を失うことなかれ」と朝鮮国王成宗に遺言したのは有名である。
古田武彦氏は同書に見える九州年号に注目し、『失われた九州王朝』において紹介された。当時、古田氏が同書の九州年号群をその原型と見なし重視された理由は、『海東諸国紀』が近畿天皇家や日本国権力者の影響の外で編纂されたこ と、しかも李氏朝鮮の国家的事業としてそれがなされたことから、国内史料よりも客観性が期待でき信用できるという点にあった。この学問の方法は近畿天皇家のイデオロギー(利害・大義名分)の下に成立した記紀よりも、歴代中国史書の倭国記事の方が客観的であり信用できることと同様のものである。
九州年号原型論に関しては、後に『二中歴』所収「年代歴」の九州年号が成立時期の古さなどから、より原型に近いと見解を改められたが(注 2. )、『海東諸国紀』の有す客観性という史料性格については、基本的に優れていることに変わりはない。更に言えば、同書が李氏朝鮮の国家的事業として編纂されたことから、国家的情報収集力が動員されたことを疑えない。従って、当時存在した日本国史料と自国内史料を可能な限り収集した上で成立したであろうこと当然ではあるまいか。こうした点から、同書編纂に当たっては現在では失われた九州王朝系史料も採用されたことが充分に想定できるのである。その具体例が、同書に収録された九州年号である。
『海東諸国紀』に収録された九州年号は次の通りである。比較のため、対応する『二中歴』の九州年号を( )内に記した。なお、『二中歴』には「善記」の前に「継体」があり、これを最初の年号としているが、『海東諸国紀』など他の九州年号史料に「継体」は見えない。
「善化(善紀)」「発倒(教到)」「僧聴」「同要(明要)」「貴楽」「結清(法清)」「兄弟」「蔵和」「師安」「和僧」「金光」「賢接(賢稱)」「鏡當」「勝照」「端政」「従貴(告貴)」「煩転(願転)」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳(なし)」「僧要」「命長」「常色」「白雉」「白鳳」「朱雀」「朱鳥」「大和(大化)」「大長(なし)」
なお付言すれば、申叔舟はこれら九州年号を九州王朝の年号と理解していたのか、大和朝廷の年号と理解していたのかという微妙な問題があるが、この点については別に詳述したいと考えている。
わたしの方法論
このように『海東諸国紀』に九州年号が収録されているという史料事実は、同書編纂に当たり九州王朝系史料が使用されたことを示すのだが、このことは年号以外にも九州王朝系記事が掲載されている可能性を示唆するのである。そこで、今回わたしは『海東諸国紀』(天皇代序)の九州年号時代(六世紀〜七世紀)を中心として、そこに記された記事のうち、記紀など日本国側史料に見えない記事を精査し、その中から九州王朝系記事の抽出を試みた。そしてこの方法の有効性を確認するため、『二中歴』所収「年代歴」に記された九州王朝系記事と比較した。
結論から述べると、この方法は史料批判の方法としての有効性を持つことが確認できた。中でも「九州王朝の近江遷都」など従来にない視点(作業仮説)などが新たに明らかとなった。以下、簡明に報告する。
『二中歴』との比較
『二中歴』所収の「年代歴」に九州年号が列挙され、その細注に九州王朝系と思われる記事が記されているが、『海東諸国紀』の九州年号制定期間に同様の記事が散見される。中には『二中歴』よりも詳しい内容を有すケースがある。例えば、『二中歴』の「朱鳥」年号の細注には次のように記されている。
「仟陌町収始又方始」(注 3. )
「仟」とは南北に通じる道のことであり、「陌」は耕作地の中の東西に通じる道のことであるが(注 4. )、今一つ意味が掴みにくい記事である。ところが『海東諸国紀』では次のように記されている。
「定町段中人平歩両足相距為一歩方六十五歩為一段十段為一町」(注 5. )
〔訳〕町・段を定む。中人平歩して両足相距つるを一歩と為し、方六十五歩を一段と為し、十段を一町と為す。
これであれば意味は明確だ。すなわち距離と面積単位の制定記事だったのである。従って『二中歴』で「町収」とあったのは「町段」の誤りだったようである(誤写か)。恐らくは耕地面積の定めに関する九州王朝による行政的布告だったのではあるまいか。この記事を『海東諸国紀』では持統七年癸巳で朱鳥八年(六九三)のこととしているが、『二中歴』では年数表記はなく朱鳥年間とのみ判断せざるを得ない。この点に於いても『海東諸国紀』の方がより詳細な記述となっている。なお、従来わたしは『二中歴』において年数表記のない記事は全て各九州年号の元年記事と理解していたが(注 6. )、今回の『海東諸国紀』との比較から、この考えは不正確であったと言わざるを得ない。この点、見解を改めたい。
これとは逆に、『二中歴』の方が詳しく記載されているケースもある。次の記事だ。
「鏡當四年 己酉 新羅人来従筑紫至播磨焼之」
(鏡當は四年間続き、元年の干支は己酉。新羅人が来たりて筑紫より播磨に至り、之を焼く。)
この記事が『海東諸国紀』では次のように記されている。
「鏡當三年癸卯新羅来伐西鄙」(注 7. )
(鏡當三年〔五八三〕新羅来りて西鄙を伐つ。)
新羅による倭国への侵攻記事である。『二中歴』ではその侵攻範囲を筑紫より播磨と具体的に記されているが、『海東諸国紀』では西鄙とあり、近畿天皇家を中心とした地理的(西)政治的(鄙)表現へと書き換えられている。しかし、その年次表記については鏡當三年(五八三)と『二中歴』より具体的である。先の朱鳥記事と合わせて考えてみると、『海東諸国紀』が依拠した九州王朝系史料は具体的年次(九州年号)付きの編年体史料であったのではあるまいか。同時に、鏡當記事のように近畿天皇家中心主義での書き換えがなされていることから、その史料は最終的には七〇一以後に成立したものと推察される。
いずれにしても、これらの史料状況から、『海東諸国紀』編纂には記紀には記されていない九州王朝系史料が用いられ、その断片が収録されていることは疑いないと言えよう。
九州王朝の太子殺害事件
以上のような視点に立ったとき、『海東諸国紀』には九州王朝内の驚くべき記事が記されていることがわかる。その一つが賢稱三年(五七八)に見える次の記事だ。
「(賢接)三年戊戌、六斎日を以て経論を被覧し、其の太子を殺す。」
賢稱三年は敏達七年に当たり、大和朝廷では太子が殺されたなどという物騒な事件は起こっていない。従って、九州年号の賢稱とセットで記されたこの記事も九州王朝内部の事件と見なさざるを得ない。ただ、前半部の「六斎日を以て経論を被覧」に対応する類似記事は『扶桑略記』(注 8. )に見える。
「(敏達)七年戊戌春二月、耳聡王子。年纔七歳。焼香被見数百経論。奏曰。黒月。白月。各八十四五日。是為六齋。(以下略)」 (国史大系『扶桑略記』)
六斎日とは、一ヶ月中に六度ある斎戒をする日のことで、その日に経論を被覧するのはわかるとしても、その太子を殺すとは尋常ではない。従って、『扶桑略記』編者はその後半部分を不審として採用しなかったのではあるまいか。しかし、『海東諸国紀』はそのまま採用した、そう考えざるを得ない。このような伝承が誤伝や偽作されたとは考えにくいからである。
この記事が事実だとすると、この賢稱三年(五七八)は九州王朝の輝ける天子多利思北孤即位のほぼ前代に当たり(即位は端政元年〔五八九〕)、すなわち多利思北孤は正統たる皇位継承者の太子が殺害された結果、即位できた天子となるのだ(注 9. )。九州王朝内部で一体どのような事件があったのだろうか。今のところ史料的限界のため、これ以上はうかがうべくもない。
九州王朝の近江遷都
もう一つ注目すべき記事がある。白鳳元年(六六一)の記事だ。
「(斉明)七年辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す。」
『日本書紀』によれば近畿天皇家による近江遷都(志賀大津宮)は天智六年(六六七)のことであり、『海東諸国紀』の白鳳元年とは六年も異なる。同書の成立過程を考慮すれば、単純なミスとは考えにくい。やはり、九州王朝が近江遷都し、それにともない白鳳と改元したのではあるまいか。この白鳳元年(六六一)は九州王朝滅亡の原因となった白村江戦(『日本書紀』では六六三年)の前々年のことである。国家の命運を賭けた唐との一大決戦を前に、緊急避難的に王朝の一部(大皇弟か)が近江に遷都したとすれば、その理由がよく理解できる。これが従来のように、大和にいた天智達による遷都とすれば、近江では余りにも近すぎて何のための遷都か理由がはっきりしなかった。ところが、唐の侵攻を恐れた九州王朝による遷都と見たとき、その行動はリーズナブルなのである。
そして、この九州王朝による近江遷都という仮説を導入したとき、あの壬申の乱の性格が、天武と唐による九州王朝近江遷都一派の殲滅戦としての位置付けが可能となるのである。例えば『釈日本紀』に記された壬申の乱の時の天武と唐人による次の会話からも、両者の協力関係がうかがわれるのである。
「既而天皇問唐人等曰。汝国数戦国也。必知戦術。今如何矣。一人進奏言。厥唐国先遣覩者以令視地形険平及消息。方出師。或夜襲、或昼撃。但不知深術。時天皇謂親王(以下略)」
天武が唐人に戦術を問うたところ、唐ではまず先遣隊を派遣し地形や敵の状況などを偵察した上で軍を出し、夜襲や昼に攻撃を行うということを助言したとある。こうした記事から、郭務?帰国後も唐人の一部は天武軍に同行したことがうかがえるのである。
考古学的にも、天智が造ったという近江京の崇福寺の伽藍配置は西に金堂、東に塔という太宰府観世音寺形式である。九州王朝中枢の寺院と同じ伽藍配置を持つ寺院が九州王朝の近江遷都に伴って建立されたと考えれば、これもよく理解できるのではあるまいか。更に、その崇福寺跡から出土した「無紋銀銭」も九州王朝貨幣と見れば、その突出した出土事実を説明しやすいのである。
この他にも、『日本書紀』に見える近江遷都に伴う様々な不自然な記述(注10. )がうまく説明できるように思われるが、この問題に関しては後日に譲りたい。
おわりに
本稿は昨年十二月二十日の古田史学の会関西例会(大阪市)、翌二一日の多元・関東主催講演会(東京都文京区)で発表した内容の一部である。今回用いた方法論、すなわち『海東諸国紀』にあって記紀にない記事の検討から九州王朝記事を抽出するという方法は、拙宅にて古田武彦氏と貝原益軒全集の検討を行っている中で発見したものである。古田氏のご教導に感謝申し上げたい。
なお、今回はその解析範囲を九州年号時代に絞ったが、それ以前にも同様の方法で九州王朝記事の存在を確認している。今後発表できれば幸いである。
(注)
1. 岩波文庫『海東諸国紀』(田中健夫訳注)の解説による。
2. 古田武彦『失われた九州王朝』朝日文庫版の補章「九州王朝の検証」に『二中歴』が紹介されている。
3. 前田家尊敬閣文庫『二中歴』影印本によにる。
4. 『大修館新漢和辞典』改訂版による。
5. 岩波文庫『海東諸国紀』(田中健夫訳注)による。
6. 古賀達也「九州王朝仏教史の研究─経典受容記事の史料批判─」『古代に真実を求めて』第三集所収。二〇〇〇年、明石書店。
7. 鏡當三年の「新羅来伐西鄙」と同じ記事が、七〇一年以後である養老四年にも見える。『続日本紀』によれば、この年、隼人の反乱が発生しているが、この事件に関して新羅は全く登場しない。『海東諸国紀』に記された「新羅来伐西鄙」とは、九州王朝残存勢力に対する近畿天皇家と新羅連合軍による鎮圧記事なのではあるまいか。
〇〇年、明石書店)などで論及したので参照されたい。
8. 『扶桑略記』三〇巻、皇円著。平安末期成立の史書。神武天皇から堀河天皇までの記事がある。
9. 多利思北孤即位については拙論「続・九州を論ずーー国内資料に見える『九州』の分国」(『九州王朝の論理』所収二〇〇〇年、明石書店)などで論究したので参照されたい。
10. この件については西村秀己氏(古田史学の会々員)による先行研究がある(未発表)。
(二〇〇四年一月三十日記)
これは会報の公開です。
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