『古代に真実を求めて』 第二十集へ
九州王朝を継承した近江朝廷 -- 正木新説の展開と考察 古賀達也
正木裕
九州王朝の実在は、古田武彦氏による「九州年号」の再発見によって確認され、また、その歴史の解明にも「九州年号」の研究が大きな役割を果たしたことは周知の所だ。また、古田氏は、九州王朝は諸外国から「倭国」として知られていたことも明らかにした。そういう意味で九州年号は「倭国年号」と言えよう。ところでその九州王朝(倭国)の歴史上で十分な「位置づけ」が出来ていない課題が残っている。それは「近江朝」の性格だ。
『書紀』では中大兄(*「中大兄」を天智、大海人を「天武」と略す)が天智六年(六六七)に「都を近江に遷す」とあり、従来、飛鳥から近江に遷都し「近江朝」を建てたのは近畿天皇家の天智であり、天智の没後、大友皇子を討ち近江朝を滅亡させた「壬申の乱」は、天武による近畿天皇家内部の権力闘争、あるいはクーデターだとされてきた。
しかし古田氏は、乱に際し天武が近江から逃れたとする「吉野」は、奈良吉野ではなく「佐賀なる吉野」であり、「壬申の乱」の性格は、唐より帰国した九州王朝(倭国)の薩夜麻さちやまと、九州に駐留する唐の支援を受けた天武とによる近江朝の打倒であって、筑紫から東国まで全土を巻き込む大乱であるとされた。(註1)
また、古賀達也氏は、『海東諸国紀』(申叔舟著。一四七一年)に「(斉明)七年(六六一)辛酉、白鳳と改元し、都を近江州に遷す」とあることなどから、「近江遷都」は九州王朝(倭国)によるもので、「壬申の乱」は「九州王朝内で、“反唐的立場”をとる近江朝一派」を殲滅する戦だったのではないかとしている。(註2)
ただ、「近江朝」が「一派」であるにせよ、「九州王朝の系列」なら天智も九州王朝を継ぐ者であるはずだが、実際には天智は近畿天皇家の人間で、後の持統・元明など大和朝廷の直接の祖となっている。この「矛盾」をどう解決するのか、など未解明な部分は大きい。
この点、「九州年号(倭国年号)」が九州王朝(倭国)の歴史解明の鍵となったように、若し「近江朝年号」とでもいうべきものが発見されたなら、近江朝や天智の性格の解明に資するのではないか。本稿ではこうした観点から「近江朝年号」の可能性がある「古代年号」を検討していく。
『二中歴』等によれば、「白鳳」年号は斉明七年(六六一)を元年とし、六八四年「朱雀」に改元されるまで二十四年間続く。ただ、古代年号資料には「白鳳」と重複する時代に二つの年号が見受けられる。それは「中元・果安かあん」だ。この二年号は九州年号(倭国年号)の最も信頼できる資料と考えられる『二中歴』から漏れていることもあり、その研究は端緒にあると言ってよい(註3)。そこで、まず「中元・果安」の資料状況の確認から始めよう。
「今本文に引く所は、九州年号と題したる古寫本によるものなり」とあることで知られる『襲国僞僭考そのくにぎせんこう』には、「一説」として「白雉・朱雀にかえて中元・果安年号が記される資料がある」と紹介している。
◆『襲国偽僭考』(鶴峯戊申著。一八二〇年頃)(朱雀条)一説には白雉朱雀の二年号をしるさずして、ことに中元果安の二年号をしるしていはく、天智帝の時、中元、四年で終る、又曰はく、按ずるに戊辰を元年と為すといふ。天武帝の時果安、又曰ふ、按ずるに年数不審といふ。
これと同趣旨の記事が『和漢年契わかんねんけい』に見られる。
◆『和漢年契』(高安蘆屋ろおく著、高昶とも。一七八九年)〈天智帝之時〉中元〈四年終、按ずるに戊辰を元年とす、〉〈天武帝之時〉果安〈按ずるに、年数不審〉
著述年代と文言を見れば『襲国偽僭考』は『和漢年契』から採ったか、『年契』と同じ資料から引用したものと考えられる。これによれば「中元」元年は天智七年戊辰(六六八)で、天智十年(六七一)の天智崩御まで四年間続く。天智七年は天智即位年だ。
さらに『衝口発しょうこうはつ』にも同様の記事があるが、一説として「六年間で大友天皇(弘文)の(即位)壬申年に係る」としている。
◆『衝口発』(藤貞幹撰著。一八七一年)天智帝中元〈四年。戊辰を元年とす。一に六年とす。然れば則はち六年壬申は大友天皇に係る可し〉。天武帝白鳳、果安、朱雀。
また、『茅窻漫録ぼうそうまんろく』にも「天智即位年」を元年とする「中元」が見受けられるが、干支は「天智称制即位元年(壬戌六六二年)」をとっている。ただそうであれば「四年間」で途切れる理由が不明なので、これは「天智即位元年」を「称制即位元年」と誤伝したものと考えられよう。また「果安」は天武十五年(六八六)に改元とあるが、これは「朱鳥(元年は六八六年)」との混同となろう。
◆『茅窻漫録』(茅原虚斎著。一八三三年)中元〈天智帝即位元年壬戌を紀元とし、四年後見えず、古代年号所載〉果安〈天武帝十五年丙戌改元、四年終、古代年号に見ゆ〉。(註4)
これらの資料は近世の成立で、かつ数も僅かだから「中元・果安」年号の存在を否定することはたやすい。しかし、これらの記事を安易に無視しない立場をとればどうなるだろうか。
まず、「中元」は天智七年戊辰(六六八)の天智「即位」年を元年とし、「崩御」する天智十年(六七一)まで四年間続くもので「天智の年号」としての十分な合理性を有する。
近畿天皇家の場合、『書紀』にはこれ以前に「大化(六四五年乙巳)・白雉(六五〇年庚戌)」が見えるが、その前後が「年号不存在」であるうえ『続日本紀』では「大宝建元」即ち「大宝」が初の年号だとある。
一方、「元壬子年木簡」や朱鳥との連続により、九州年号(倭国年号)「白雉(六五二年壬子が元年)」、「大化(六九五年乙未が元年)」が正しく、『書紀』年号の白雉・大化はそこからの盗用と考えられる。しかも近江朝を滅ぼした天武は年号を建てず九州年号(倭国年号)白鳳が継続しているから、この時点で「九州王朝(倭国)は年号を持ち、近畿天皇家は独自年号を持ちえなかった」ことになる。
そして、近江朝が『海東諸国紀』に記すように、九州王朝(倭国)の遷都により成立した朝廷、即ち“九州王朝(倭国)の系列”であれば、九州年号(倭国年号)は新天子が即位すれば「改元」されるから「中元」年号が定められるのは当然のこととなる。
こうした「中元」の資料状況は、「近江朝・天智」は「九州王朝(倭国)の流れを汲む政権」であることを示していると言えよう。
次に「果安」だが、天智の没後、大友天皇(弘文帝)の即位を認めるなら、大友の即位年六七二年壬申に元号が「中元」から改元された可能性が高くなる。
『書紀』の天智十年(六七一)春正月甲辰(六日)記事では、「或本に云はく大友皇子宣命す。冠位・法度之事を施行す。天下に大赦す。法度・冠位の名は、具に新律令に載せたり。」とあるから天智の後継者は大友皇子となる。
また天智は同年末に崩御するが、天武即位は天武二年(六七三)二月癸未(二七日)とある。従って六七二年は「放っておけば天皇不在」となるから、この年の大友即位は当然で、即位すれば改元されることになるからだ。
これが「果安」だとしたらどうか。『書紀』は大友即位を認めないから、天武が未だ即位せず、本来なら「大友元年」のはずの壬申年(六七二)を天武元年としている。従って『書紀』の立場では、「果安」は「大友天皇」でなく「天武帝之時果安」と書かれることになる。「按、不審年数」と不審が投げかけられる理由もそこにあろう。
ところで「果安」について興味深いことがある。それは『書紀』全体の中で「大友天皇の在位期間(天智十年・六七一年から天武元年・六七二年まで)」に限定し「果安」の名を持つ人物が現れ、以後姿を消すことだ。それは、「蘇我果安はたやす」と「大野果安はたやす」だ。
蘇我果安は天智十年「大友皇子宣明」時に御史大夫(大納言)に任ぜられ、同年天武の離脱後大友の前で「血泣の誓盟」を行った五人の一人。壬申の乱では、大友に背き天武に内応した山部王(*『書紀』には大友から不破の関を襲う将軍に任ぜられる一方で、天武に帰順する記事がある)を誅殺し、自死している。また、大野果安は、近江朝の将軍として天武側の「大伴吹負ふけひ」を乃楽山の戦で大いに破っている。
つまり「果安」が大友の年号なら、二人とも「果安」時代に大友の側近で近江朝の将軍として活躍していることになる。
先述の資料では「果安」は年号として理解されているが、臣下の名が年号と誤解される可能性は高いとは思えない。しかも同じ「果安」の名が二名、この期間“のみ”に見えるということは、「一臣下の名を年号と間違った」とするより、「年号にちなんで」名付けられた、あるいは自ら名乗ったという方が自然なのではないか。
もう一つ、『続日本紀』には文武元年(六九七)から延暦十年(七九一)まで九五年間の記事があるが、その中にも「果安」の名を持つ人物が四人記される。
しかも七一二~七二四年の期間“のみ”に見え、かつ三人は七一二~七一六年に集中しているのだ。
①和銅五年(七一二)正六位上佐伯宿禰果安。*従五位下に叙位
②和銅七年(七一四)大倭国添下郡人大倭忌寸果安。*終身租税免除
③霊亀二年(七一六)出雲国々造外正七位上出雲臣果安。*神賀かむほぎの事を奏す
④神亀元年(七二四)正六位上 大春日朝臣果安。*正六位上に叙位
これらは叙位・恩賞・栄典の類の記事であり、以後に登場しないことからこれが最終官位・栄典と考えられ、当時の寿命から四〇~五〇代の記事である可能性が高い。
そして、生まれ年の干支にちなんでよく名前が付けられることは古代の戸籍からも知られるが、若し彼らが「果安」年生まれだとすれば①四一歳②四三歳③四五歳④五三歳となり、何れも叙位等の年齢に相応する。(註5)
つまり、「果安」の名を持つ人物が、『書紀』では「果安年」のみに見え、『続日本紀』では「果安」生まれと推測される年代のみに見えることになろう。
こうした資料状況は、先述の通り「果安」は天智天皇の次代の「大友天皇」の年号で、壬申年(六七二)一年間だけの年号だということを強く示唆している。(註6)
結局「中元・果安」とも九州王朝の流れを汲む「近江朝年号」とでも称すべき年号だった可能性が高いといえよう。
それではなぜこの年号が九州年号(倭国年号)「白鳳」と重複し、『二中歴』から漏れているのか。また、近畿天皇家の年号としても認められていないのか。
年号を建てうる権力は、その国の主権者に限定されることは言うまでもない。従って「白鳳」と「中元・果安」の併存は、倭国における「九州王朝と近江朝」という「二重権力状況」の存在を窺わせるのだ。
一方、先述のとおり、『海東諸国紀』では九州年号(倭国年号)「白鳳」改元と「近江遷都」は同時だから、これを信じれば近江朝も九州王朝が遷都したもので、主権者は継続したことになる。
この資料状況を矛盾なく説明できる鍵が「薩夜麻の唐よりの帰国」にある。
倭国は天智二年(六六三)白村江における対唐・新羅戦に大敗した。そして『旧唐書』によれば、唐の高宗は麟徳三年(六六六)正月に「封禅の儀」を泰山で挙行することとし、これに先立ち、諸侯を麟徳二年(六六五)十二月泰山に参集させた。凱旋将軍劉仁軌は、「倭国酋長」を引き連れ唐の高宗に拝謁した。
◆『旧唐書』(列傳第三四 劉仁軌)麟徳二年(六六五)、泰山を封ず。仁軌、新羅及び百濟・耽羅たんら・倭四国の酋長を領ひきい會えに赴おもむく。高宗甚だ悦び、大司憲を擢拜(てきはい*特別に授かる)す。
この「酋長」とは当然「国王」を指すが、通説では「倭国酋長」は「倭国の使者」で「王」でないとする。しかし新羅文武王、百済王子扶余隆(義慈王は長安で亡くなっていた)及び六六二年に新羅に服属していた耽羅王(「耽羅星主たんらそんじゃ」という)の封禅の儀への参加は確実だし、倭国王のみ「使者」とするのは不自然だろう。ちなみに『冊府元亀さっぷげんき』(北宋。一〇〇五~一〇一五)にも、麟徳二年十月丁卯に、封禅の儀に「倭国の酋長」が洛陽から泰山へと高宗に扈從(こじゅう*つきしたがう)したとある。
そして、当時「確実に唐にいた倭国の人物」で、「倭国の酋長」即ち「倭王」に相応しい「名」を持つ者といえば、『書紀』持統四年(六九〇)十月記事により「天智三年(六六四)に唐にいた」ことが確認される「筑紫君薩夜麻」以外には無い。
◆『書紀』(持統四年十月)天命開別あめみことひらかすわけ天皇(天智)三年に洎およびて、土師連富杼ほど・氷連老おゆ・筑紫君薩夜麻・弓削連元宝の児、四人、唐人の計る所を奏聞きこえまうさむと思欲へども、衣粮無きに縁りて、達ぐこと能ざることを憂ふ。
即ち『旧唐書』『冊府元亀』では薩夜麻は「倭国酋長=倭王」として扱われ、高宗に臣従し封禅の儀に扈從していたことになる。
ところで、唐は捕虜とした国王を「臣従」させた後、何れも「都督」として帰国させている。百済平定(六六〇)では、五年後(六六四)に王子扶余隆を「熊津ゆうしん都督」に任命し熊津に返す。高句麗平定(六六八)では宝蔵王を九年後(六七七)に開府儀同三司・「遼東州都督」任命し朝鮮王に封じた。戦勝国新羅でも文武王が「鶏林大都督」(六六三年に鶏林大都督府が設置される)に任命されている。これらの例から見て、筑紫君薩夜麻も、彼等と同様に、「都督」として帰国したことが十分推測される。
そして、都督の役所(府)は都督府だが、『書紀』では天智六年(六六七)にこれが見える。
◆『書紀』天智六年(六六七)十一月乙丑(九日)、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。己巳(一三日)、司馬法聰等罷り帰る。小山下伊吉連博徳・大乙下笠臣諸石を以て、送る使とす。
都督府があれば都督が存在するのは言うまでもないが、『書紀』では誰も「都督」に任命された形跡がない。薩夜麻が他国同様「都督」に任命されたとすれば、この時点で「筑紫都督」として送り返されてきたと考えるのが合理的だ。
天智四年(六六五)に守君大石と共に唐に渡った境部連石積は天智六年(六六七)十一月に帰国している。この入唐は六六六年正月の封禅の儀に参画するためと考えられ、封禅の儀に参加した薩夜麻と共に帰国するのは極めて自然なことになる。
『書紀』では薩夜麻の帰還は天智十年(六七一)十一月とされている。
◆『書紀』天智十年十一月甲午朔癸卯(十日)、対馬国司、使を筑紫大宰府に遣して言さく、「月生二日、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆からしまのすぐりさば・布師首磐ぬのしのおびといわ、四人、唐より来りて曰さく、唐国の使人郭務悰かくむそう等六百人、送使沙宅孫登さたくそんとう等一千四百人、総合二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比知島に泊りて、相謂かたりて曰く、『今吾輩が人船数衆し。忽然に彼に到れば、恐るらくは彼の防人、驚き駭とよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預め稍くに来朝の意を披ひらき陳まうさしむ』とまうす」とまうす。
しかし、『書紀』では天智十年(六七一)年正月に、劉仁願による李守真等派遣記事があるところ、劉仁願は三年前の天智七年(六六八)八月に雲南へ配流されていることから、天智十年記事に「三年以上の繰り下げ」があることが知られている。
◆『書紀』天智十年(六七一)春正月(略)辛亥(一三日)百済の鎮将劉仁願、李守真等を遣して、表上ふみたてまつる。(*古田武彦氏も「古田武彦と百問百答」の「古田持論」の中でこの事を指摘されている。)
従って、本来境部連石積の帰還と同じ天智六年(六六七)だった薩夜麻の帰還も、天智十年に四年間繰り下げられた可能性がある。その証左に劉仁願による筑紫都督府への石積ら送致は天智六年「十一月」だが、薩夜麻帰国も「十一月」とあり、年次が繰り下げられたと考えれば帰国月も一致するのだ。
そもそも、郭務悰ら唐使の天智十年来朝は『書紀』では六回目。対馬も何回も経由しているにもかかわらず大部隊だからといって警告を発するのは不自然で、白村江戦後間もない頃とすれば合理的に理解できる。天智六年記事に「都督府」とあるのに、ここで「大宰府」とあるのも、この記事が「都督となった薩夜麻の帰還直前」に遡るものだと考えれば自然なこととなる。唐から見れば「都督府に送る」となるが、九州王朝側では未だ「大宰府」なのだから。
『書紀』では天智即位は「天智七年(六六八)一月戊子(三日)」であって、天智元年から六年の間は「称制期間」とされる。「天智称制」の間は、当然ながら「天子は不在」だ。そして遅くとも天智七年一月にこの状況が「解消」した事となる。
九州王朝(倭国)の天子たる薩夜麻が唐に抑留されている間は、当然「天子不在」であり、天智六年(六六七)十一月に帰国したなら「称制終了」も頷首できるのだ。
つまり、「天子の不在」とは近畿天皇家の天皇の不在ではなく、「九州王朝(倭国)の天子・薩夜麻の不在」であり、彼の帰国と「復位」により「天子不在」状況が「解消」したことになる。そして抑留中の薩夜麻にかわり近江朝を事実上運営していたのが天智であれば、その間は「天智称制」と言える状況になろう。
但しその薩夜麻は「唐に臣従する都督」として「唐の軍」とともに帰国した。これは近江に遷都し、国内の諸豪族に号令して数多の兵士を動員し唐・新羅と戦ってきた従前の九州王朝(倭国)の立場とは決定的に矛盾するものだ。その場合、近江に移った官僚群や参戦した諸豪族が復位を簡単には承認せず、天智を後継に推戴したなら、彼は近畿天皇家の人物でありながら九州王朝(倭国)の後継者ということになる。そこで年号を建てたと考えられよう。
但し、唐に臣従するとはいえ九州王朝(倭国)の「王統(血統)」は「筑紫の君」薩夜麻が継いでおり、かつ彼は唐により任じられた「筑紫都督」だから、その背後には唐の軍がついている。天智即位については近江朝内部は勿論、近畿天皇家内部においても、支持するか否か大いに意見が分かれたことだろう。
ここで注目されるのは、天智は称制即位の前に多数の嬪を娶っていた。特に遠智娘をちのいらつめは後に天武妃となる大田皇女おおたのひめみこ、持統天皇となる鸕野皇女うののひめみこを産んでおり、姪娘めひのいらつめは後に元明天皇となる阿陪皇女を産んでいる。それにもかかわらず、七年一月の即位翌月に「倭姫王やまとひめのおおきみ」を正式に「皇后」としていることだ。
そして天武は天智没後「倭姫王」に即位を勧めている(「請ふ、洪業ひつぎを奉あげて大后に付属さずけまつらむ」)。つまり天智即位と倭姫王を娶るのは「一体」の行為であり、かつ倭姫王は皇位を承継する十分な資格を有することになろう。古田氏は「倭」は筑紫を意味するとされ、これを受け西村秀己氏は、「倭姫王」は『書記』では古人大兄の娘とされるが、本来は九州王朝(倭国)の血族(皇女=倭姫)ではないかとする(註7)。そうであれば彼女を娶る(天智が婿入りする)ことにより天智の皇位継承上の「障害」である「血統」問題が解消し、かつ薩夜麻側とも融和がはかれるのだ。
ちなみにこれほどの地位にありながら、その後の「倭姫王」の消息は記されず、生没年も不詳とされる。その一方、九州の伝承では『開聞古事縁起かいもんこじえんぎ』等で「大宮姫」という人物が乙丑年(六六五)に天智の妃となり、その後都(近江)を追われ天武天皇壬申年(六七二)薩摩開聞岳に帰ったとされる。(六五〇年生まれで七〇八年に五九歳で没)。『書紀』の「倭姫王」が「大宮姫」なら、夫天智の没後、壬申の乱時には「実家」たる九州王朝の薩夜麻の下に帰国した、あるいは「救出された」ことになろう。
「倭姫王」が天智の妃である内は、薩夜麻側はあえて近江朝に手出しをしなかったが、「倭姫王」とは別腹(母は伊賀采女宅子娘やかこのいらつめの大友が即位したことをうけ、近畿天皇家内部の権力闘争も利用して天武を支援し、遠慮なく近江朝を滅ぼしたのだ。
天武は、壬申の乱を始めるにあたり九州に逃れ、唐と薩夜麻側の支援をうけて近江朝を滅ぼした。かくして薩夜麻系列の九州王朝(倭国)は継続することになり九州年号(倭国年号)白鳳は改元されず、これと矛盾する天智の「中元」と大友の「果安」は「なかった」こととされたのだ。
壬申の勝利で天武は我が国の実質上の最高実力者となったが、名分上では依然として九州王朝の「臣下」であった。そのため「臣下の最高位」たる「真人(天渟中原瀛真人天皇)」を名乗ったのだ。
しかし、一旦近畿天皇家の人間である天智が皇位に就いた「近江朝」が成立したということは、その時から近畿天皇家による「朝廷」が成立したともいえる。「天命開別天皇あめのみことひらかすわけ」という天智の和風諱号はこれを如実に物語っていよう。
以上のように「中元」と「果安」という年号が資料通りに存在したとすれば、それは近江朝の天智と大友の年号であり、「天智称制」は薩夜麻の捕囚によるもので、その帰還により九州王朝(倭国)では、唐の後押しを受けた都督薩夜麻を引き続き推戴する九州王朝内の勢力と、これを良しとせず女婿の天智を推戴する近江朝勢力の「二重権力状態」が出現し、近江では天智が即位し年号を定めた。これにより白鳳と中元・果安が重複することとなったと考えられる。しかし壬申の乱により近江朝は崩壊し、九州年号(倭国年号)「白鳳」は残り近江朝年号「中元・果安」は消されたのだ。
(註1)古田武彦『壬申大乱』(東洋書林二〇〇一年、ミネルヴァ書房二〇一二年など)
(註2)古賀達也「九州王朝の近江遷都 -- 『海東諸国紀』の史料批判─」(古田史学会報六一号二〇〇四年四月)。
(註3)この年号の存在については竹村順弘氏が「天智の中元年号」(二〇一一年五月古田史学の会例会発表)で指摘している。これを受け古賀達也氏は「古賀達也の洛中洛外日記」第五八四話(二〇一三年八月)天智天皇の年号「中元」 において、「中元」年号研究の重要性を指摘している。
(註4)『古代年号』とは、『本朝古代年号読様』唐橋在家(一七二九~一七九一)のことと推測される。
(註6)「果安」の意味だが、仏教界では「善果・安康(安全)」の語が見受けられる。「善果」は善行による「良い報い」、「安」は安全・安康の意味だ。そこから、「試案」だが、「果安」は「善行によるよい報いとして安康を得る」意味ではないか。(「惟善果之可求。獲遂於安全」「早得善果、安康幸福」等)
(註7)西村秀己『日本書紀の「倭」について』(古代に真実を求めて第四集所載)による。また、中大兄は古人大兄とその子を斬り、妃妾を自ら經死させている。従って、倭姫は父母兄弟を皆殺しにした天智の皇后になったことになり、この不条理さにも倭姫を古人大兄の娘とする『書紀』の作為を感じられよう。
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