『古代に真実を求めて』 第二十四集
改めて確認された「博多湾岸邪馬壹国」 正木裕 (『古代に真実を求めて』 第二十四集)

YouTube講演による解説「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」古田史学の会 正木裕
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参照、08改めて確認された博多湾岸の俾弥呼の宮都


【各論】

周王朝から邪馬壹国そして現代へ

正木 裕

一、はじめに

 本稿では、紀元前十世紀ごろ、九州の倭人が中国の周王朝と盛んに交流し、その証拠が三世紀の『魏志倭人伝』にも記されていること、そして、当時周王朝から倭人が習った様々な儀礼や制度が三千年の時を隔て、現在に至る じまこ まで、私たちの生活の中に根付いていること、具体的には「『魏志倭人伝』伊都国・奴国の官名、泄謨觚せまこ・柄渠觚へきょこ・兕馬觚じまこ、それは周代の青銅の祭器と儀礼に起因するものだった。そして、その儀礼は現代にも生きている」 とを述べる。(注1)

 

二、周王朝と交流していた九州の倭人

1、『論衡ろんこう』に見える「鬯草ちょうそうを献じた倭人」

 周王朝は、紀元前十一世紀ごろ、初代の武王によって創建され、以降春秋・戦国時代を経て徐々に衰退し、最後は名目だけの王朝になるが、それでも紀元前二五六年に秦に滅ぼされるまで約八百年間も続いたとされる、中国で最も長い歴史を持った王朝だ。
 その周王朝の草創期の紀元前十一世紀ごろ、倭人が朝貢し鬯草ちょうそうを献上した話が、王充おうじゅうの記した『論衡ろんこう』に載っ ている。
◆『論衡』周の時、天下太平にして、倭人来たりて鬯草を献ず。(略)成王の時、越裳えっしょう雉を献じ、倭人鬯ちょうを貢ず。 (略)白雉はくちを食し鬯草を服するも、凶を除くあたわず。

 成王は、武王の子供で、二代目の王。越裳というのは中国の南部、ベトナムに近い地域の民のことだ。古代中国では周囲の異民族を「東夷・北狄・西戎・南蛮」と呼んでいたが、その南蛮とされていた国だ。また、鬯・鬯草とは、薬用酒に入れる薬草とされる。
 王充は、南蛮の越裳が白雉を献じ、東夷の倭人が鬯を献じた、但し、霊験ある白雉を食べ、鬯草を飲んでも、禍を避けることができなかった、結局周王朝は滅んでしまったと書いている。

 

2、後漢の光武帝から金印を下賜された倭人

王充は、紀元二七年に生まれ九七年以降に亡くなるが、その間の、建武中元二年、紀元五七年に倭人・倭奴ゐぬ国王 が漢の光武帝から金印を授かったことが、『後漢書』に記されている。
◆『後漢書』(倭伝)建武中元二年(五七)倭奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の南界を極むる也、 光武、賜うに印綬を以てす。

 この「印綬」が有名な志賀島の金印、「漢委奴国王」と書かれている金印だ。「委奴国王」は「わのなの国王」と読まれることが多いが、「委」は「わ」とは読めず、「奴」も「な」とは読めず「の・ぬ・ど」の何れかだ。また漢が倭王を「とび超し」て、その下の「奴国王」に金印を授けることはない。従って、「委奴国王」は「(ゐの・ゐぬ・ ゐど)国王」と読み、「倭国の代表者を指す」とするのが正しい。
 そして、光武帝から授かった金印が志賀島から出土したことは、紀元五七年に漢に朝貢した倭人が、九州の倭人だったこと、倭奴国は博多湾岸の国だったことを示している。
 ちなみに、この文章を「(倭奴国は)倭国の極南界(南のはて)なり」とする見解があるが、北九州が倭国の最南端にあたるのは不自然で、また、単なる位置情報だとすれば、金印が与えられた理由が分からないことになる。
 一方、『後漢書』倭伝には、「朱儒しゅじゅより東南船行一年、裸国らこく・黒歯国こくしこくに至る。使駅の伝うる所ここに『極』まる」と倭国が「東南を極めた」と記されている。漢に朝貢した倭人が「東南を極める」ことは、即ち「漢の認識する世界の東南界を広め極めた」という「功績」に値するもので、これに対し金印が与えられた、そう考えれば、「極める」 という文言も、金印授与の理由も明確になろう。古田武彦氏はこうした論拠で、「倭国の南界を極むる也」と読むのが正しいとされた。(注2)

 

3、『漢書』に見える「歳事を以て献見した倭人」

 そして、『論衡』だけでなく、班固はんこが著した『漢書』にも倭人の朝貢が記されている。『漢書』には「夫れ楽浪海中倭人有り。分れて百余国を為す。歳事を以て来り献見すと云う」とあり、これは、定期的に倭人が中国の王朝に 朝貢していた、という意味だ。
 班固も、生まれが紀元三二年で九二年に亡くなっているから、王充と同じく五七年の北九州の倭人の朝貢を自ら確認している。班固は、『漢書』地理志の序文に、「以て禹貢うこう、周官、春秋を綴ね(注3)、下は戦国、秦、漢に及ぶ」、つまり「私は夏王朝、殷いん王朝、周王朝、春秋・戦国時代から秦、漢に及ぶ様々な書物を徹底的に調べて『漢書』を書いた」と言っている。このように、班固は倭人が周王朝以来歴代ずっと朝貢してきたことを、自信を持って記している。
 つまり、倭人への金印授与という事件は、『論衡』の著者の王充、『漢書』の著者の班固の時代に当たり、王充と 班固は共に倭人の朝貢を現認している。自分の目で見たか、傍にいたかどうかは別にして、自分自身が倭人の朝貢を確認している。従って、王充、班固が「倭人朝貢・倭人献見」と書く「倭人」は、間違いなく「金印を授かった 九州の倭人」を言っていることになる。

 

4、「昧まい(舞)」を奉納し周の官制を用いた倭人

 実は、倭人は「鬯草を献じた」だけでなく、『礼記らいき』『周礼しゅらい』には、倭人が周公旦の墓前に「昧(舞)まい」を奉納し「聲歌」を奉じた、と書かれている。 『礼記』は周代から漢代の儀礼を記した書、『周礼』とは周代の行政組織制度を記した書だ。そこに、周の二代目の成王は、「周公旦」(成王が幼い時に成王に代わり摂政として大臣となり、周王朝を実質的に切り盛りしていた人物)の弔いのために、東夷の楽、「昧」を大廟に奉納したとある。
◆『礼記』「昧(舞)、東夷の楽なり。任、南蛮の楽なり。夷蛮の楽を大廟に納む」
◆『周礼』疏「鞮鞻ていろう氏、四夷の楽と其の聲歌を掌る。(略)東夷の楽を韎(昧)まいと曰ひ、南方、任にんと曰ひ、西方、と 侏離しゅ りと曰ひ、北方、禁と曰ふ」

 面白いことに、今、われわれ日本人は、舞踊のことを「まい(舞)」と言うが、『周礼』『礼記』等には、三千年前のこととして「韎・昧(まい)」の奉納が書かれている。ここから、我々が今、舞踊で言う「舞(まい)」は三千年前から「マイ」と言ったことが分かる。そして、四夷の楽に、それぞれ「まい・にん・しゅり・きん」という「独特の呼称」がつけられているのは、「まい」が倭人の発音をうつしたものであることを示す。これは同時に、「舞を 奉納した倭人」が、今の日本人に繋がる倭人だったことをも示している。

 もう一つ、『論衡』と『礼記』を対照すれば面白いことが分かる。
 越裳というのはベトナムに近い南の南蛮の国だ。そうすると、
◆南蛮の越裳が「白雉」を献じて「任」つまり、南蛮の楽を奉納し、東夷の倭人が「鬯草」を献上し、東夷の「舞」を奉納した。

ということになる。そして、『論衡』と『礼記』、『漢書』を併せて読めば、「周に朝貢した東夷の倭人」とは、「志 賀島の金印を授かった九州の倭人の祖」であることが分かるのだ。

 

5、箕子により教化された倭人

 では、なぜ紀元前十一世紀頃に突然中国・周との交流が始まったのか。周は殷を滅ぼし新たに建国された国で、 殷の最後の王は紂王ちゅうおうといい、暴政を極めた人間とされている。その紂王の庶兄で、殷の宰相を務めていたのが箕子きしだ。箕子は何度も紂王の暴政を諌めたが、紂王は言うことを聞かなかった。あまつさえ、箕子の友人で紂王を諌めた比干ひかんの腹を割いて、「こんな偉そうなことを言う聖人の肝はどうなっているのかを見たいものだ」と言って殺したという。それを見た箕子は、殷を見限って逃れる。一説には気が狂ったふりをして逃れたとある。
 周の武王は、紀元前十一世紀の「牧野ぼくやの戦い」で殷を滅ぼしてから、この箕子を大変重んじ、自分の臣下にせずに朝鮮王に封じたとされる。『論衡』では、武帝のときに玄菟げんと郡、楽浪郡が置かれたと述べた後、箕子の事績について、
◆朝鮮・穢貉わいばく・句麗の蛮夷。殷の道衰え、箕子去りて朝鮮に之く。其の民に教うるに礼義を以てし、田蚕織作でんさんしょくさくせしむ。

 と書かれている。「田蚕織作」の「田」は水稲栽培で、水田を耕し稲を栽培する技術を教えた。また「蚕織作」 というのは、桑を育てて蚕かいこを飼い、織物を作ることで、これも教えたという。  箕子が紀元前十一世紀ごろ朝鮮に行き東夷の諸国を教化し、そこから、倭人は「箕子の朝鮮」を通じ、中国の天子に朝貢し服属するようになった、こうした経緯が『論衡』の箕子の事績から分かる。
 こうした周代当初の箕子や倭人の朝貢の話は、過去には「架空の物語」とされてきた。しかし、殷・周時代につ いては、「甲骨文」や、青銅器に彫られた「金文きんぶん」等の発掘・解析が進み、『史記』等に記す伝承は概ね正しかった ことが分かってきた。箕子に関しても、彼が殷の廃墟を通り慟哭した記事が『史記』にあり(注4) 、殷の廃墟も出土し、また、「其・箕侯」の銘がある周代初期、箕子の時代の青銅器が多数発掘されていることから、その実在は確かなものとなってきている。
 また、日本で水稲栽培が始まったのは、最近まで、紀元前二世紀とか三世紀とか言われていたが、考古学の進展により、板付・菜畑遺跡辺りの北九州には、早ければ紀元前十世紀ごろに水田耕作が始まっていた可能性があるとされる。そうであれば周王朝成立当初に箕子が水稲技術を伝えたという記事と整合する。従って、『論衡』の「周代初頭の倭人朝貢記事」は、信頼性が高いことになる。

 

6、周王朝の制度を取り入れた倭人

 そして、倭人は、単に中国周王朝に朝貢して、舞を奉納し、薬草を献上しただけでなく、周の制度を学び取り入れていた。何故それが分かるかというと、倭国は周の「大夫」という官制を用いていたからだ。『後漢書』に「(倭奴国の)使人自ら大夫たいふと称す」とあり、『魏志倭人伝』にも「大夫難升米」とある。「大夫」とは、 周王朝で用いられた諸侯における「卿けい・大夫・士」という家臣の身分の三分法のひとつで、その二番目にあたるが、 この位階は周王朝をもって断絶する。 (注5)
 従って、「大夫」の位が『後漢書』や『倭人伝』に記されているのは、倭人は周王朝で使われていた身分の三分法を学び、漢代も三世紀の俾弥呼の時代も使っていたことを示している。 (注6)
 そこから、倭人は一方的に朝貢するだけでなく、周王朝からの制度、官制を学び用いてきたことが分かるのだ。

 

 

三、周王朝の儀礼・祭祀と青銅の祭器

1、殷・周代の青銅器

 倭人が朝貢した周王朝や、その前の殷王朝の時代は、青銅の祭器の全盛期。つまり、様々な青銅器を祭事に用いて政治をおこなっていた時代だと言える。ここでその代表的なものを幾つか挙げてみよう。

 

写真1 劉鼎 (殷後期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons写真1 劉鼎 (殷後期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons

⑴鼎かなえ(写真1)

 「鼎」は周王朝が尊重していた一番重要な青銅器の祭器だ。
 周王朝を遡る二代前の夏王朝の始祖の「禹王」が、九州くしゅう、すなわち中国のなかの九つの地域(注 )から青銅を集めて「九鼎きゅうてい」という鼎を作った。九鼎は殷王朝から周王朝に引き継がれ、周王朝が最も尊重する宝器となった。秦は、周王朝を滅ぼす際に、これを奪おうとしたが、失われてしまい、しかたなく 「玉璽ぎょく」という皇帝の印を作り、王権の象徴にしたと言われている。
 王権を奪おうとすることを「鼎かなえの軽重を問う」と言うのは、「鼎」に関す る故事からきたものだ。
 『史記』によれば、周の成王が即位した時に、九鼎を洛陽に祭り、新たな都にしたという。新たに都を定めることを「鼎を定める」と言うのも、この故事に由来するものだ。
◆『史記』(周本記第四)成王、豊(ほう*首都の豊鎬)に在り、公(*周公旦)を召し、武王の意の如く洛邑(*洛陽) を復営せしむ。周公、復た卜申うらないて、営築(*宮を造る)を卒げ、九鼎を居すえる。

 

真2 饕餮文爵 (殷前期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons写真2 饕餮文爵 (殷前期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons

⑵爵しゃく(写真2)

 次の「爵」は、酒を入れて温め、注ぐための青銅の酒器だ。中国では、夏・殷・周王朝で臣下に位を与える儀礼の際に、爵を用いて酒を注いだ。「注ぐ」のにも序列・順位があるから、「爵」という語を身分の差を示す制度として用いた、これが「爵制」だ。周では臣下の諸侯に「公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵」と いう「五等爵ごとうしゃく制」が採用されたという。
 唐の王維の詩『従弟蕃の淮南 わいなんに游ぶを送る』に、「むしろの帆をもちて、いささか罪を問い、卉くずの服きたるは盡く擒とりことなる。帰り来たりて天子にまみえ、爵を拝して黄金を賜う」とある。これは白村江に勝利し、百済王や倭人を捕虜として連れ帰り、高宗から褒賞と大司憲という位を授かった劉仁軌に関する歌だが、ここに「爵を拝す」とある。「拝爵」とは、天子から労ねぎらいの杯を受けることを言い、天子が青銅器の「爵」 を用いて臣下に労いの酒を賜い、位階を授ける儀礼で、これも、周代の青銅器「爵」に由来する。

 

写真3 饕餮文尊 (殷後期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons写真3 饕餮文尊 (殷後期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons

⑶尊そん(写真3)

 「尊そん」は酒や水を入れる青銅の容器、我々と関係が深い、いわゆる樽たる、青銅の樽だ。漢字の謂れを見ると、「尊」の字の上部は酋しゆうの略字で、酒だるを表す。「寸」は手で捧げる形。全体で酒壺を両手で捧げる意味を示す。つまり「尊」という入れ物に酒を入れて両手で神に捧げる、神を敬う象形であり、ここから 「尊敬」という語が生まれた。
 因みに、「尊」には、壺・樽の形状の「壺尊こそん」や、ヤギのような「犧尊ぎそん」とか、ゾウの形を真似た「象尊」とか、様々な種類が存在している。

 

写真4 饕餮文鬲 (殷前期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons写真4 饕餮文鬲 (殷前期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons

⑷鬲れき(写真4)

 それからもう一つ「鬲れき」を挙げておく。
 「鬲」とは、鼎を小型にしたような殷・周時代の三本脚の器で、もっと古く土器だった時代は、脚の付け根が膨らんでおり、これが青銅器になって更に立派になったものだ。
 「鬲」も祭器で、『十三経』(周礼注疏)に「鬲を祖廟に懸く」、鬲を祖先の霊廟に備えて祀ったと書かれている。
 周王朝は、神に祈りを奉げる際に「祭祀型青銅器」を重用し、「祭礼・儀礼」をもとに統治していた。今は緑青を吹いているが、当時は金色に輝き、大いに政治的・宗教的な権威を発揮したと思われる。

 わが国で「鬲」を記した資料に「室見川の銘版」と呼ばれる自然銅(真鍮)製の板がある。これは、福岡市西部を流れる室見川の河口から、昭和二十三年に発見されたもので、「高暘左王作永宮斎鬲 延光四年」との文字が刻まれていた。
 延光四年は西暦一二五年だが、古田氏は、「高暘左」とは高き日の出る東の地、つまり倭国を指し、王は永遠に続く宮を作り、「斎鬲」、鬲を斎まつた、という内容と解釈し、これを倭国の王の事績を記した銘版だとされた。(注8)
 この室見川の上流、高祖山地の東の吉武高木遺跡から、王の宮殿と思われる遺跡が発見され、古田氏の説の正しさが証明された。
 そして「鬲を祖廟に懸く」という周代の儀礼にかなうよう、倭王は一二五年に室見川流域の地に大きな宮を作り、鬲を祭った。このことを証するのが室見川の銘版だ。これは周代の儀礼が二世紀初頭の博多湾沿岸に残っていたこ とを示している。

 

四、爵しゃくと觚の儀礼

1、現代に受け継がれる爵の形状

 殷・周代の青銅器としては、このほか次に述べる「觚」・「勺じゃく」・「卣ゆう」・「兕觥じこう」・「觶」等の青銅の酒器があり、食器では「俎」・「豆とう」・「散さん」などがあり、その多くは殷・周王朝時代に祭器としても用いられていた。
 「觚」は杯・コップで、「爵しゃく」で注ぐと「觚」で受ける。「觚こう」を小さくしたのが「觶」。「散」はお盆のようなもの。「豆」は高坏で、この上に供物を置いた。「卣ゆう」は酒を入れる取手付きの鍋か薬缶のようなもの。そこから汲み出すのが柄杓型の「勺」だ(写真5)。「俎」というのは青銅のまな板。但し、単なる調理用ではなく、この上に生贄を 置いて調理し神に祭ったもの。「兕觥」は空想の動物「兕」を象った酒器で、殷・周時代にはこういう様々な祭器が使われていた。

写真5 「勺」と「卣」 (西周前期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons写真5 「勺」と「卣」 (西周前期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons


 この中で特に注目されるのは「爵と觚」というセットだ。注ぐのは爵で、受けるのは觚。これは必ず組になっている。このワンセットは「爵制(拝爵)」の祭事に不可欠な青銅器だった(写真6「觚」)。

写真6 饕餮文觚 (西周前期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons写真6 饕餮文觚 (西周前期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons

 青銅器の「爵しゃく」は、左右両側に長い注ぎ口を持ち、一方が注ぎ込む口(尾)、一方が注ぎ出す口(流)で、両方とも非常に尖っているという不思議な形をしている。
 実は、この形状の祭器が現代にも生きている。神社での祭礼では「長柄ながえ」(銚子とも)を用いてお神酒を注ぐが、長柄は、なぜか上部の注ぎ口が左右に尖っている。両側に注ぐのではないから、両側が尖る必要はなく、かえって零こぼれそうで不便だ。そして、この長柄は祭礼・神事の時しか使われない。用途も形状も爵と同じだ(写真7「長柄」)。
 そこから、長柄の両側が不必要に尖っているのは、殷・周代で神事に使われた青銅器の爵の形状が引き継がれたと考えるほかはない。つまり、周代の「爵の儀礼」は現代まで生きていて、今も寺社仏閣等の祭礼で用いられていることになろう。

写真7「長柄」写真7「長柄」

 

2、爵は鬯草を入れる器を表わす

 倭人が献上した薬用酒に入れる「鬯草」と、周代の「青銅器の爵」に基づく儀礼とは、実は不可分であった、一体のものであったことが漢字の成り立ちや『周礼』の記事から分かる。
 爵という字の古形に「爵という字の古形」がある。爵という字の古形の字を分解すると、上部は「大」の下に口が三つついたものだが(大+罒)、分解して口を四つにして、二つずつ上下に分けると「器」となる。下部の左は、鬯草の鬯ちょうで、右は「又そう」。合わせると「鬯草ちょうそう」を表している。つまり爵の字義は、元は鬯草を入れる器、鬯草を入れた薬用酒を入れる器というものだった。
 このように、中国古代の祭祀で、神事に用いられた鬯・鬯草を入れた薬用酒を入れる器を表すのが爵だった。倭人は「思いつき」で薬草を持って行ったのではなく、周代の爵を用いた神事・儀礼と「爵制」をよく知っていて、 それに用いる鬯草を献上したことになる。

 

3、爵と觚による「三献の儀礼」

 そうした「爵」と対をなす青銅の祭器が「觚」だ。儀礼では「爵」で注いで「觚」で受けることになるが、祭事に使うには「ルール」がある。このルールが『周礼』に書かれている。
◆『周礼』(冬官考工記梓人しじん)爵一升しょう、觚三升、献ずるに爵を以てし、酬こたうるに觚を以てす。一献いっこんに三酬さんしゅう、則ち 一豆とうなり。

 とある。一升というのは一・八リットルという意味でなく、一杯という意味。つまり「爵一杯分が、觚三杯分」に当たる。
 そして、「献ずるに爵を以てし」、爵で注ぐ。「酬うるに觚を以てす」、觚で受ける。「一献に三酬」、一献注がれたら、三回に分けて飲む、これが「三酬」だ。
 爵一杯分で觚に三杯分注げる。一献(一回)觚に注がれた酒を、三回にわけて飲む(三酬)。これを三献(三回) 繰り返す。三献×三酬は九酬で、これは「三三九度」だ。正式には「三献こんの儀」と言う日本固有の儀式だが、その起源が『周礼』に書かれている。

写真8 「象嵌狩猟文豆」 (春秋後期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons
写真8 「象嵌狩猟文豆」 (春秋後期。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons

 また、「一献に三酬、則ち一豆なり」とあるが、神への供物を載せた高坏が「豆」で、「一献で一豆」とは、一献毎に「豆」の上に置いてある供物を一回食べる意味。三献つまり三回注ぐから、三回食べることになる。この「豆」の儀礼が、今も干しアワビ・栗・昆布という、三つの食物を載せる「三宝」を用いた儀礼として残っている。「三種の食物」を盛るのは、『周礼』に記す「一献に三酬、則ち一豆なり」という儀礼で用いる「豆」が「三宝」となり、今日まで残っているからということになる(写真8「豆」)。
 婚礼の際の三三九度だけでなく、鎌倉、室町時代の儀式の次第を記した『鎌倉年中行事』には、武家の作法としての「三献の儀」が詳しく記されている。(注9)
 鎌倉時代、出陣式では、アワビ・栗・昆布を乗せた三宝を前に置き、まずアワビを口に入れ、長柄ながえを持つ「長柄方」が酒を注ぎ、一献目を三度に分けて飲む。次に栗を口に入れて二献目を三度に分けて飲む。三回目に昆布を口に入れて三献目を三度に分けるとあるから、まさに『周礼』に書かれている儀礼が鎌倉、室町時代にも行われていたことになる。ちなみに、出陣式の場合は、最後に飲み干したあと、杯をたたき割り出陣していくと書かれている。
 このように、我々日本人は、遥か昔、三千年の歴史を隔てても、なお周代の「爵と觚の儀礼」を守って行っているのだ。
 孔子は『論語』(雍也編)で、「觚、觚ならず、觚ならんや、觚ならんや」と言う。これは、「觚は本来『礼』を象徴する祭器だが、今(孔子の時代)、中国では、単に酒器として用いられるのみ。これは『礼』が忘れ果てられていることを示す。誠に嘆かわしい」という意味。孔子の時代の中国ですら忘れられていた周代の儀礼が、三千年後の 日本に生きている、これは日本人が誇ってよい素晴らしいことだろう。

 

五、『魏志倭人伝』に見える「觚」の付く官名

1、伊都国・奴国の官名「泄謨觚せまこ・柄渠觚へきょこ・兕馬觚じまこ

 ここから本題の『魏志倭人伝』の官名について述べよう。『倭人伝』では、こうした「觚」の文字が伊都国・奴国の官名に使われている。それが泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚だ。

◆『倭人伝』(伊都国)東南陸行五百里、伊都国に至る。官を爾支と曰い、副を泄謨觚・柄渠觚と曰う。千余戸有り。世、王有るも皆女王国に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。 東南奴国に至ること百里。官を兕馬觚と曰い、副を卑奴母離と曰う。二萬余戸有り。 このように「觚」の字を用いた「三つの官名」が記されている。

 

2、「一字一音」に当てはまらない官名

 『倭人伝』の一大国、対海国の官名は長官が「卑狗ひこ」、副官が「卑奴母離みみなり」だ。不彌国は長官が「多模たも」、副官が「卑奴母離」。投馬国は長官が「彌彌みみ」、副官が「彌彌那利みみなり」となっている。これは、「卑狗 ー ひこ」、「卑奴母離 ー ひぬもり」など、倭人の「発音に漢字一字を充てた」もの、いわば「倭風官名」だ。
 ところが、泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚という官名では、「泄」は「せち(呉音)・せつ(漢音)」で、「柄」は「ひょう(呉音)・へい(漢音)」、「渠」は「ご(呉音)・きょ(漢音)」で「一字一音」に当てるのは困難で、かつ非常に特殊な文字だ。しかも、個々の漢字の意味も、官名との関連も、何故この字が使われているのかも不明だ。

 

3、「こ」は『倭人伝』では通常「狗」が使われる

 また、『倭人伝』では、卑狗ひこ、狗古智卑狗ここちひこのように「こ」には「けもの偏」の狗を使っている。それなのに、なぜか官名にだけ「觚」という青銅器に用いる珍しい字が当てられている。(*「觚」も「狗」も呉音「く」、漢音「こ」で同じ)

 

4、官名の中の「觚」は青銅器の「觚」を表わす

 そこから、この「泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚」という官名に見える「觚」は、「音当て」ではなく、周王朝時代の青銅器「觚」に由来し、「当時使われていた『器の漢字名称』をそのまま官名に用い、魏使はその官名を報告書に 記した」という可能性が考えられる。これは「周風官名」ともいえよう。
 倭奴国・邪馬壹国の使者は、周の位階である大夫を名乗っていた。大夫は諸侯の臣下の位だから、倭王は、周の天子に朝貢・臣従し「諸侯」として位置付けられ、大夫の位を部下に名乗らせたことになる。
 また、倭王も諸侯に適用される「五等爵制」に基づく「爵位」を授かった可能性が高い。
 周の天子が、青銅の祭器「爵」に基づく「爵制」を設け、倭王に「爵位」を授けたなら、倭王はその臣下には、「爵」の下位に位置する「觚」に基づく「觚位」を授ける可能性が十分出てくる。それが「觚」の付く官名に表れているのではないか。 (注10)
 そして「觚」という文字は、『周礼・礼記』等や『漢書』では、地名以外全て青銅器の觚の意味で使われている。 このように本来杯を表わす「觚」の字が、「身分の差、位階」を表わす官名に使われ、かつ「泄謨せま・柄渠へきょ・兕馬じま」という修飾があることから、これら「觚」のつく官名は、様々な「種類・形状の觚」の名称を示している可能性が考えられる。

 

六、「字義」から推測される官名の由来

 以下、「觚」に付された「泄謨・柄渠・兕馬」の字義と、杯の機能を持つ様々な青銅器を比較検討することにより、杯を表わす「觚」は、倭国で、その形状、用途の別により「『泄謨』觚」・「『柄渠』觚」・「『兕馬』觚」と名づけられ、位階を表す「官名」に使われたことを明らかにしていく。

 

1、「泄謨觚せまこ」の由来

⑴「泄せつ」の字義

 「泄謨觚」という字は、どんな觚を表現しているのだろうか。殷・周代の「觚」は、細長いコップ状で広いラッパ口を持つ青銅器だ。高さは大きいもので三十センチメートル程度あるが、下半分以上は上げ底で、酒が入るのは、 主に上部だ。写真6の「觚」は、上が大体十五センチメートル位の大きさで、ラッパ状に広がっている。こんなも ので酒を飲むと、必ず溢れてこぼれることになる。そして、泄謨觚の「泄せつ」は、排泄の「泄」で水が緩やかに外に洩れて流れ出るという意味。そうであれば、「觚」の形状と「泄」の字義が一致することになる。

 

⑵「謨」の字義

  「謨」は、通常「はかる・計画する」という意味だが、古代では器の名称でもあった。『周礼』に「謨は蜃(しん *大はまぐり)にあたる」「脩しゅう・謨まく・概がい・散さん、皆器の名なり」とする。これは「蜃に似た大きな口を開いた器」の意味で、 「謨」はラッパ状に開いた飲み口を持つ「觚」を表わすに相応しい字だ。

◆『周礼』(春官、鬯人)杜子春云、謨當為蜃(略)鄭司農云、脩・謨・概・散、皆器名。

 字義をみると、「謨」の旁(つくり)の「莫まく」は、莫大の莫、広く大きいという意味。偏の「言」は、口を開け言葉を発するさまを表した文字。従って、この二つを足すと、「謨」という漢字は、広く大きく口を開けるという意味になる。「謨は蜃ー大ハマグリにあたる」というのはその字義からも確かめられる。

⑶、「泄謨觚」は周代の青銅器の盃「觚」を指す

 つまり、「泄謨觚」とは、「水や酒が泄れ出る、広く大きい謨(蜃)のような飲み口を持つ觚(杯)」のこととなる。 飲むのに不便だから、普段は「觶」という普通のコップを使い、神に酒を奉げる神事には、溢れてもいい、あるいは溢れさせるために「觚」を使っていたと考えられよう。
 『三国志』(魏書。后妃傳第五明悼毛皇后伝)には「泄」についての逸話があるので紹介する。
 卑弥呼が朝貢した魏の明帝には元后という愛人、後の郭皇后がいた。ある日、元后を呼んで宴会を開く。元后は 皇后を気にして、「宜しく皇后を延まねくべし」。つまり皇后も呼んであげてくださいよと、こう言った。しかし明帝は、「帝許さず」つまり「いやいや、呼ぶ必要ない」と言ったうえで、周りの人間にこれは皇后に内緒にしろ、「乃ち左右に禁じ、宣ること得しめず」、話すことを禁じた。ところが皇后は、何故かそれを知り、翌日、「昨日北園の游宴、 楽しからむや」、昨日の北の園の宴会は愛人を呼んでさぞお楽しみだったんでしょうね、などと言った。それで、魏の明帝は怒り、「左右の之を泄もらす所を以て、十余人を殺す」、誰が皇后にもらしたのだと言って、十何人殺し、皇后も後に殺されることになる。ここでの「泄」は単に水が漏れることだけでなく、言葉を含めて口からいろんなものが「もれる」という意味で使われている。

 

2、「柄渠觚へきょこ」の由来

「柄渠觚」は周代の青銅器の柄杓「勺しゃく

 次に、「柄渠觚」が何なのかは、明確だ。「柄へい」は柄、取手のことで、「渠きょ」には、溝みぞという意味のほかに、首・頭の意味があり、首領のことを現代語で渠魁きょかいという。現代にも「柄杓ひしゃく」があるが、周代には青銅器の柄杓があり、「勺じゃく」と呼ばれていた(写真9)。
 「勺」は、「柄」の部分と、酒を汲むための頭の円筒の「渠(溝)」の部分で成り立つ、青銅器の盃「觚」といえる。また、「勺」は柄の部分が弓形になっており、これは北斗七星の柄の三つ星の部分を象ったものと考えられてい る。中国では北斗の柄の部分を「杓じゃく」と呼び、器に当たる四つ星のところを「魁かい」と呼ぶ。渠魁きょかいの「魁」だ。
 つまり、「柄渠觚」とは青銅器の「勺」のことで、柄(杓)と渠(魁)からなる、北斗七星を象った觚(杯)を表 している。

写真9「勺」(写真5の「勺」の部分写真9「勺」(写真5の「勺」の部分

 

⑵現代に残る尊そんと勺のセット

 杓は「卣ゆう」や「尊」などの青銅器の酒壺から酒を汲む時に使われるが、現代でも尊に似たものが神社の「手水舎」にあり、そこから水が溢れ、これを柄杓で汲んでいる。このように、「尊と勺のセット」が今も寺社仏閣に残っている。これも「周代の尊と勺の儀礼」が伝わっ ていると考えられよう(写真10)。

 

写真10手洗舎写真10手洗舎

 

3、「兕馬觚」の由来

⑴「兕馬觚」は「兕馬」の形の周代の青銅器の杯「兕觥じこう

 青銅の酒器が官名に用いられたと、よく分かるのが「兕馬觚」だ。
 「兕」とは、中国最古の地理書『山海経せんがいきょう(注11)』に記す想像上の動物で、犀とか馬に似た一角獣を言う。従って、兕馬觚は「兕の形をした馬、一角獣の形をした馬の杯(觚)」となる。
 これにあてはまる形状の杯(觚)が「兕觥じこう」と呼ばれる青銅の酒器で、馬の形をし、角もある。『詩経』に、「かの高岡に陟のぼれば、わが馬玄黄」、馬が病気になった、「われ、しばらくかの兕觥を酌み、これ以て永く傷まざらん」、兕觥に酒をついで飲んで心を慰めよう、という歌があるが、兕馬觚は、読んで字のごとく「兕馬の形をした觚」、すなわち兕觥そのものだ(写真11 「兕觥」)。
 「兕馬觚」という官名は、「兕觥」と呼ばれる青銅器の觚に由来することを明確に示している。

写真11 「鳳鳥紋兕觥」 (周代早期。丹徒烟墩山出土。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons

写真11 「鳳鳥紋兕觥」 (周代早期。丹徒烟墩山出土。上 海 博 物 館)出典:Wikimedia Commons

 

4、「泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚」は青銅器「觚(杯)」の種類

 今まで述べたことをまとめると、
◆「泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚」は、周代の青銅器「觚」の種類の様々な名称であり、歴代の倭王は、古来より周王朝の青銅器の爵にちなむ「爵制」に習い、恩賞や身分、位階を示すのに「觚の名称」による「周風官名」を用いていたと考えられる。

 『倭人伝』で発音に漢字を当てた官名の中で、この官名群だけが訳の分からない、全く異質な漢字が当てられているのは、『倭人伝』の時代より遙かに古く、倭人が朝貢した周代に由来する名称を伝えたものだったからなのだ。
 『倭人伝』の「泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚」の三つの官名は、周代に九州の倭人が周王朝と交流したことを記していたのだ。

 

七、何故倭国に周代の祭器「觚」を用いた官名が残ったのか

1、倭国に残る「俎豆そとうの象かたち

 それでは、何故この「泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚」という官名が倭国に残ったのか。
 『三国志』の東夷伝序文に「夷狄いてきの邦と雖ども、俎豆そとうの象かたち存り。中国、礼を失うとも、これを四夷に求むるに、猶信ずるものあり」「故にその国を撰び次ぎて、その同異を列べ、以て前史の未だ備へざる所を接ぐ」と書かれている。
 「俎豆」は夏・殷・周代の青銅の祭器で、「俎」は神に奉げるいけにえの肉を載せ調理する「まな板」、「豆」は神への供物を盛る高坏だ。従って、「俎豆の象」とは、天子が天地の神を祀る祭祀・儀礼を言うことになる。 『史記』に「犀牛を殺し、以て俎豆の祭具とす。五帝、独り俎豆を有す」、『楽記』に「簠簋ほき俎豆は礼の器なり」、 『儀礼ぎらい』に「俎豆之祭」等とある。五帝とは伝説の中国の聖王だから、俎豆の祭具を持つのは、天子に限ると書かれている。従って「俎豆の象」とは、「天子が司る周代の儀礼」を言う。なお、「簠簋」の簠とは四角の、簋とは丸い青銅器で、いずれも祭礼に用いる器だ。
 「夷狄の邦」とあるが、『東夷伝』のメインは『倭人伝』だから、陳寿が「その国を撰び次ぎて」と書く時、「俎豆の象」があった夷狄の国とは倭国で、東夷の倭国に周代の儀礼が残っていたことを言う。伊都国・奴国の官名「泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚」が周代の祭器「觚」によるものなら、俾弥呼の時代、東夷の邪馬壹国に、周代の青銅の祭 器由来の「礼(俎豆之象)」が存在したことを如実に示すものとなる。

  古田氏は、『邪馬壹国の道標』で、三世紀倭国の使節が「大夫」と称しているのは、周代に中国文明と九州の倭人が接触していた証拠であり、また遺産だと言っているが、この三つの官名も、大夫同様に周王朝との交流の証拠、 遺産であって、それが『倭人伝』にも残っていたと言える。

 

2、「倭風官名」と「周風官名」の二重構造

 それではなぜ伊都国と奴国に「周風官名」が残ったのか。 『倭人伝』の官名で、「ひこ・ひぬもり・たも・みみ・みみなり」等の「倭風官名」は一聞して倭人が命名したものと考えられる。これに対し「周風官名」の「泄謨觚・柄渠觚・兕馬觚」には、倭人は勿論、魏の使者でも当てることが困難な字が使われている。これは、邪馬壹国が新たに付けた「倭風官名」と、「周代の器に由来する官名」がそのまま残る「周風官名」との二重構造になっていることを示すものだ。
 つまり、古来よりの由緒ある「周風官名」があるところに、邪馬壹国が自ら新たな官名をつけたのだと考えられよう。
 伊都国は『倭人伝』に「世、王有るも皆女王国に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。」「女王国以北には 特に一大率いちだいそつを置き、検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す」とあるように、邪馬壹国の直轄地で、邪馬壹国から派遣された軍団、いわば進駐軍と、「一大率」がこの国を治めていた。古田氏は、

◆『倭人伝』で「一大率」と言っているのは「一大国(壱岐)の軍団の統率者」の意味で、「天孫降臨神話」の実体は、壱岐・対馬を中心拠点とした海人あま族が、稲作の最盛地帯の唐津湾(菜畑遺跡)から糸島半島、博多湾岸(板付)へ征服軍を派遣した「侵略行動」だった。彼等の軍団は高祖山連峰に集結し、山の西側の「伊都国」 に常駐した。これが「一大率」だ。

 としている。
 ただ、三世紀の伊都国は戸数が千戸しか無く、かつ東南百里(七~八キロメートル)に奴国、東百里に不弥国があるから、怡土平野でも加布里湾岸に限定された、「一大率の駐留する軍港国家」だと考えられる。(注12)

 

3、「爾支にき」は邇邇芸命ににぎのみことに由来する「一大率いちだいそつ」の長官名

 その軍港国家の長官が「爾支にき」にあたる。「爾支」は、『三国志』で「令支れいき」と、「支」の字を古代の発音で「き」読んでいるところから、「にき」と読むが、そう読んだ途端に、独特の意味を持つ。
 「爾支」は、天孫降臨で天下った邇邇芸命(瓊瓊杵尊)の尊称、「天邇岐志国あめにきしくに邇岐志にきし天津日高日子番能邇邇芸命ほのににぎのみこと」の、 「邇岐にき」と同じだ。「邇」も「爾」も「しんにょう」の有無の違いだけで、どちらも呉音は「に」、漢音は「じ」で同じ。「岐」は「き」、「支」も「き」と発音し、字形も「山偏」の有無の相違だけだ。
 従って、「爾支」は、邇邇芸ゆかりの官名(注13)で、邪馬壹国は、「爾支」を新たに直轄国の長官、「一大率」の官名と して採用し、伊都国に派遣した。そのため従来からの官である泄謨觚・柄渠觚は副官となった。

 

4、大国の奴国は由緒ある官名を用い、自ら長官を任命した

 これに対し「奴国」は戸数が二万戸で、かつ怡土平野には「三雲・井原・平原」といった王墓級の遺跡が、紀元前後三百年間続く歴史ある大国だ。従って奴国は、邪馬壹国が長官を任命するような位置には無く、独立性の高い有力な国となる。『倭人伝』で奴国は、伊都国からわずか百里、八キロメートル程度しか離れていないのに、「行」といった「動詞が無い傍線経路の国」、即ち「魏使が訪れなかった国」とされている。これも、奴国と邪馬壹国の微妙な上下関係を反映するものだろう。
 長い歴史があり、かつ独立性の高い奴国は、古い由緒ある「周風官名」の「兕馬觚」を引き続き長官の官名とし、自ら任命した。邪馬壹国は「倭風官名」の「卑奴母離」を与えた副官を奴国に派遣した、そう考えれば、官名の二重構造がよく理解できよう。
 博多湾岸から糸島、唐津湾岸一帯が、周代に栄えた地域であることは、菜畑や板付遺跡に見られる水田が、炭素同位体の測定などの考古学的な検証で、紀元前の十世紀ぐらいに始まり、紀元前六世紀頃には盛んに行われていたといわれることから確かめられる。
 また、紀元前七世紀ごろから朝鮮半島で多く作られ始めた「支石墓」が、志登・小田の支石墓群(糸島)、瀬戸口・葉山尻支石墓群(唐津)など北部九州の玄界灘沿いに多く残っており、周代にこの地域が、箕子朝鮮を通して、早 く水田耕作やカイコを飼って絹を織るということを学んでいたことも十分に推測できる。

 

八、周代の「礼」は現代の我が国に残っていた

 『三国志』の東夷伝序文の「夷狄の邦くにと雖いえども、俎豆の象かたち存り。中国、礼を失うとも、これを四夷に求むるに、猶信ずるものあり」という記事や、周代の青銅の祭器に焦点を当てて、中国史書、或いは『日本書紀』『古事記』、 九州の遺跡等を見ることにより、

①紀元前十世紀頃から九州の倭人は周王朝と交流していたこと、

②そこに紀元前二世紀ごろ、新たに青銅の武器を携えた海人族が侵入し、邪馬壹国が形成されてきたこと、

③『倭人伝』に記された伊都国・奴国の官名は、そうした新旧勢力の「二重構造」を反映していたこと、

④九州の倭人が伝えた周代の儀礼は、俾弥呼の邪馬壹国にも取り入れられ、三千年後の現代にまで伝わっていること、そうした事実を明らかにすることができると考える。

 陳寿は、「俎豆の象あり」「これを四夷に求むるに、猶信ずるものあり」と言い、中国の「礼」が東夷の国に残っていることを讃えたが、私たちは、「これを現代の日本に求むるに、猶信ずるものあり」と誇らしく言えるのではないか、いや、言えるようにならなければいけないのではないか。
 三千年の歴史は、決して今の日本の、我々の生活と無関係なものではなかったのだ。

 

【注】

(1)この稿は、古田武彦氏の著作全般、『「邪馬台国」はなかった』はもちろん、『邪馬壹国への道標』『盗まれた神話』『倭人伝を徹底して読む』ほか多数を参考にし、要約・引用した。また、仁平忠彦氏が、ブログ「自由のための不定期便」において、伊都国・奴国の官名は青銅器「觚」に由来するとの指摘に負うところが大きい。ここに併せて感謝する。
 なお、これらの官名について、古田武彦氏は、『邪馬一国への道標』では泄謨觚せまこ・柄渠觚へきょこ、『失われた九州王朝』では兕馬觚じまこと読んでいる。『魏志倭人伝』は「漢・魏時代の音の残る『日本呉音』で読むべき」との見解があるが、本稿では、これらの官名は「周代の青銅器の名称に由来する」としており、周代の発音(中国上古音)は復元しがたい。
 そこで、「泄せつ・謨まく・柄へい・渠きょ」は、各々の頭音から「せ・ま・へ・きょ」を採り、「兕」は青銅器「兕觥」が一般に「じこう」と呼ばれていること、「馬」は邪馬壹国を「やまゐこく」と呼んでいること、「觚」は青銅器「觚」が一般に「こ」と呼ばれ、かつ、 我が国で「こ」は古代から男性の呼称であり、官名に相応しいと考えること等から、本稿では「仮に」泄謨觚せまこ・柄渠觚へきょこ・兕馬觚じまこと読むこととする。

(2)古田武彦「学問の未来」(昭和薬科大学文化史研究室、一九九六年三月ほかによる)

(3)『禹貢』は古代中国の政治・地理書。『周官』は、周代の行政制度を記す書『周礼』のこと。『春秋』は孔子が編纂したとされる、春秋時代の年代記。

(4)『史記・宋微子世家第八』「其の後箕子、周に朝もうで、故の殷虚(墟)を過ぐるに、宮室みやは毀壞こぼされ、禾黍の生うるに感じ、箕子 傷みて、哭かんとするもならず。(略)」(麦秀歌)「麦、秀でて漸漸たり。禾黍かしょ、油油たり。彼の狡僮、我と好からざりき。」

(5)王から領地を与えられた家臣が諸侯、諸侯から領地を与えられた家臣が大夫、大夫の中で諸侯の大臣になった者を卿、大夫の 一族の男子などで構成する兵士集団を士という。

(6)古田武彦『邪馬壹国の道標』(講談社、一九七八年。後に角川文庫。ミネルヴァ書房より二〇一六年に復刊)による。 にぎ

(7)「禹貢九州」という。「冀州、兗えん州、青州、徐州、揚州、荊けい州、豫州、梁州、雍州」を指す。

(8)古田武彦『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社、一九七九年。ミネルヴァ書房より二〇一六年に復刊)ほか。

(9)『鎌倉年中行事』は海老名季高の著。享徳三年(一四五四)または享徳五年(一四五六)成立。

(10)周代の儀礼では、「爵」は酒を授ける祭器、「觚」は授かる祭器だから、「爵」は「觚」の上位に位置することになる。

(11)『山海経』は中国古代の戦国時代から秦朝・漢代(紀元前四世紀~前三世紀頃)に成立し、当時の中国人の伝説的地理認識を反映 している。

(12)『なかった -- 真実の歴史学 』第六号(ミネルヴァ書房、二〇〇九年)。

(13)邇邇芸命が降臨する前に、『古事記』では邇芸速日にぎはやひが、天磐船に乗り河内国の河上に天下ったとされる。しかし「天孫降臨」が海人族の博多湾岸への侵攻であれば、邇芸速日が天降った(侵攻した)のも筑紫の話と考えるべきだ。この点、福岡県糸島の「志摩半島」には、玄海灘に面し「幣にぎの浜」があり、邇芸速日の子で兄の香山命かやまのみことにちなむ「火山・可也山」がある。弟の宇麻志麻治命うましまぢのみことの「志麻治」は志摩半島そのものだ。そうであれば邇芸速日の降臨地は志摩半島、古代の斯馬国となり、邇邇芸や邇芸速日 に共通する「にき・にぎ」は、筑紫に降臨してきた新勢力を象徴する呼称だと言えよう。


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『古代に真実を求めて』 第二十四集

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