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アウグスト・ベエクのフィロロギイの方法論について〈序論〉 古田武彦

三 『論語』の史料批判 古田武彦講演記録(歴史のまがり角と出雲弁3)


古田武彦教授退職記念最終講義録

「学問の方法について」

〈歴史学と自然科学との間〉

古田武彦

 古田でございます。どうも本日は非常に年度末のお忙しい時に、私の話をお聞きくださるということで非常に感謝しております。
 私としましては本当に本校における最後の講義ということで、普段この学校でいつもお話ししていながら、なかなか学問上の話というのはわりと少ないわけですけれども、今日お聞きいただけるということで、非常に楽しみにして参りました。同時にまた、日本列島の各地から、北海道からも沖縄からもおいでいただいたようで、また、目のご不自由な方もおいでいただけたようで、非常に光栄に存じております。
 さて、今日はその『学問の方法について』という題目ですが、勿論、抽象論ではございませんで、私の学問に対する方法から言えば、この具体的問題はこうなるという実例を次々と申し上げることによって、一貫した私の方法についてご理解頂くという仕組みでございます。非常に壮大な問題がたくさん出てくるのですが、幸いにお手元の小冊子に四十八項目にわたって書いてございますので、また後程その該当するところをご覧いただければ、「あ、今日言っていたのはこのことか」という形でご理解いただけるかと存じます。

古田武彦教授退職記念最終講義録 「学問の方法について」 歴史学と自然科学との間〉 古田武彦 古田史学論集『古代に真実を求めて』第二集

     二倍年暦の実証

 さて私は、実は一昨日パラオから帰ってまいりました。今月の十三日に出かけて十九日に帰って来たわけです。それは何のためかと申しますと、フィリピンの東にあるこのパラオにおいて、二倍年暦、いわゆる六カ月を一年間とする暦、これを私は二倍年暦と呼んでおりますが、この二倍年暦が最近まで行われていたということを確認しようとして参ったわけです。実は、この二倍年暦の問題はもう二十数年前になりますが、『「邪馬台国」はなかった』という私の古代史に関する最初の本においてこの概念に触れたわけでございます。と言いますのは、三国志の魏志倭人伝、三世紀に中国でできた本ですが、この中に不思議な記述があるわけです。「倭人というのは長生きである。八、九十年~百年の寿命がある」ということが書かれている。これは大変な長寿ですわね。ところが残念なことには、実態はそれに合っていない。これは本学の先生方もご承知のように、骨の検査によってだいたい死者がいつまで生きていたかが判明するわけです。そういう研究によりますと、だいたい弥生時代、三世紀頃といいますのは、三十代ないし四十代くらいで死んだ人が大変多いわけでございまして、そんな九十代なんてとんでもないわけです。
 ではどうしたかと言いますと、これを解くヒントが、三国志と同じ時期に中国で出た『魏略』という本に書かれております。それによりますと、「倭人というのは中国人のような暦は知らない。代わって彼らは春耕し秋収穫する時に、天文的に測定することを知っていて、それを計ることによって年紀(年の変わり目)を春と秋と両方に定めている」と、書かれているわけです。これをナチュラルに理解しますと、春と秋と二回正月がある、つまり半年が一年である。こういう特殊な暦を彼等は使っている、と読めるわけです。もしその理解が正しければ、倭人伝に書かれている九十歳前後というのは、実は四十五歳前後ということになって、だいたい話は合ってくる。それだけではございません。『古事記』・『日本書紀』にですね、天皇の寿命が百何十歳というのがやたら出てきまして、平均してみますとだいたい九十歳くらいの年齢であることがわかるのです。でもそんなことはあり得ないと思っていたんですが、いま言いました二倍年暦というもので計算されているとなりますと四十五歳くらいですから、十分にあり得る話になってくるというわけでございます。
 またこういう古典の話から離れましても、わが国でこの二倍年暦が行われた痕跡は十分にあるわけです。一番はっきりしているのは、祝詞。神様に祝う言葉、祝う詞と書いた祝詞に「大祓の祝詞」というのがございます。これは大掃除の時の祝詞です。これが実は六月と十二月と二つあるわけです。大祓の次はお正月です。大祓が二回あるということは、お正月も二回あるということになります。そういう祝詞がちゃんと残っておりますね、文献で。これはやはり二倍年暦という立場に立てばよく理解できる。さらに神社で春祭りと秋祭りがあるのは当たり前でございまして、靖国神社みたいに新しいのは特別ですが、古くからの神社はたいてい年に二回お祭りがあるのが珍しくない。これも二倍年暦。さらには、暑中見舞いと年賀状。日本人は何故か二回も出す。出さない方もいらっしゃるでしょうが出す人は出す。さらにボーナス。これは皆さん貰えると思いますが、年二回。世界中どこでもそうだとなんとなく思っている方もいると思いますが、さに非ず。周りには全然ないんです。そればかりではなくて、私は残念ながらそういう経験はないんですが、バーの付け、あれも女将が年二回取りに来るそうです。女将さんに何故二回来るの、四回にしないの、一回にしないのと言ったって、「さあ、わかりません。昔からそういうことになってますから」と言うに決まってます。さらには五木の子守歌で「盆が早よ来りゃ早よ戻る」と、年に二回長期休みが有ることを彼女は歌っております。
 ということでいろいろ見まして、二倍年暦というものが行われていたという仮説に立てば、全部説明がスラッと行くわけです。(仮説に)立たないとなかなか難しい。それはもうはっきりしたことなんですけれども、ここで私は難問にぶつかったんです。何故、日本列島で二倍年暦なんてものを使っていたんだろう。これが四倍年暦ならわかるんですね。春夏秋冬がはっきりしている日本ですから、四つに分けるのは楽なんです。逆に二つにわけるのなら、どこでどう分けるかというのはなかなか難しい。それで一生懸命悩んで参りました。ただ、はっきりしていることはですね、暦というものは天然自然の風土に根ざしていなければならない。変わった人間が変わった頭で、変わった物を捻り出して暦に使うということは余りないわけです。これも理屈より「論より証拠」で例を掲げます。
 バイブル・キリスト教のバイブルですね。これの先頭を開きますとびつくりします。創世記ですね。アダムとイブのところです。といいますのは、アブラハム・イサク、あの辺のところはだいたい九百八十歳とか八百六十歳とか、八百歳代、九百歳代がやたらに並んでいるわけです。そんな馬鹿なと思いますよね。でも全然馬鹿じゃないんです。何故かと言うと、私の理解ではこれは二十四倍年暦なんです。それは一体何かと言いますと、簡単なことでございまして、お月さまがだんだん太っていって太りきるまで半ヵ月、これで一歳。それでまた痩せていって痩せきるまでに半ヵ月で一歳。だから一月で二歳になってしまう。で、十二ヵ月で二十四歳になる。だからこの千歳を二十四で割ったら四十歳ちょっとになる。つまり日本の弥生時代で四十五歳くらいとしますと、今のバイブルというのは、BC三〇〇〇年頃というのですから、日本で言えば縄文の中期か後期くらいのところでしょう。そうするとその頃四十歳ちょっとの寿命というのは大変わかりやすいですね。だから何にも不思議じゃない。しかもこの場合何でお月さんかというと、砂漠で誰でも見えるのがお月さんです。日本ではむしろ、あの山から太陽が出だしたら春であるとか、信州なんかあの山にこういう形の雪が残ったら春であるとか、そういう目印がいろいろ各地域によってあるようですが、砂漠はないですよ、そんなものは。しかし月は絶対に見える。どの部族がどこから見たって月は見えるわけです。だからそれを基準にすれば間違いない。そういう意味で自然条件にあっているわけです。だから二十四倍暦で何にも不思議はないのです。
 今度はバイブルでもう十ぺージくらいいきますと、セムの家系というのが出てきますが、ここは今度は五百歳が一人いて後は四百七十歳とか四百五十歳というのがズラッと並んでいる。いうまでもなくこれは十二倍年暦です。一月に一歳、太って痩せて一歳、一年で十二歳になる。絶対年齢は変わらないわけですよね。四十歳ちょっとくらいの寿命ということは。ですからバイブルというのは私のようなクリスチャンでない人間の目から見ると、大変貴重な人類にとっての史料といいますかね。クリスチャンの方に聞かれると怒られるかもしれませんが、私の方から見ると、人類のそれぞれの地域のそれぞれの段階の文明状況を反映した貴重な史料が、寄せ集められて編集されているというように見えるわけでございます。
 こういう例を見てもわかりますとおり、暦というものは自然の風土・条件に根ざし、一致するというのが基本だと思います。しかも大事なことは、一つの文明というのは一つの暦に根ざしている。その証拠にAという人とBという人が何年何月何日に逢おうと約束しましても、お互いの暦が違っていては絶対に会えませんね。同じ暦を使ってこそ、会ったり商業活動ができるはずです。だから一つの文明には一つの暦が基準になければならないというのは当たり前のことでございます。
 こういうふうに見てまいりますと、やはり二倍年暦というものが存在したとしましたら、それはやはりその風土条件に合致しているものでなければならない。こう思って見ておりましたら一昨年でしたか、三一書房から『江戸時代パラオ漂流記』という本が高山純さんという方によって出されました。読者の会の斉藤里喜代さんからこれを教えていただきまして、それを見て私は飛び上がりました。何故ならば、パラオでは乾季と雨季、東の風と西の風、一年がピタッと二つに分かれていて、六カ月が一RAK(ラク)である。という風に書かれてある。江戸時代に漂流した漁師たちの体験談を基にして、日本やヨーロッパの学者が研究を加えたものです。これなら誰が見ても、そこに住んでいれば二倍年暦に成らざるを得ないわけです。さっき言いました、暦は自然の風土条件に根ざさなければいけないという私の考え方にピタッと合っているわけです。
 さらに、その斉藤里喜代さんからお知らせいただいたのは、辻維周さんという民俗学の研究者の方がいらっしやって、現在四十歳くらいのようですが、その方がパラオに行って書いておられる文章を教えていただいた。こういう情報をお知らせいただくということは、私にとって非常にありがたいことなんです。それを見ますと辻さんが言われるのは、「パラオの墓地へ行くとキリスト教の墓があって、英語で書いてあるんですが、それを見ると何と百三十とか百四十とか、そうゆう年齢がやたらと出てくる。南の人は大らかなのであろうか」そういう風に書いてある。「南の人は大らかなのであろうか」というのは、私から言うと生意気なんですが、私の二倍年暦というもう二十数年前に出した考えですが、それをご覧になっていらっしゃらなかったんだと思うんです。だからそういうソフトな感想を添えて書いておられた。しかし私の目から見ると、もうこれは、理屈だけでなく、ちゃんとした現の証拠がどうも有るようだ。「それ行こう」ということでですね、パラオヘ飛んで行ったわけでございます。
 そうしますと、やっぱり有りました。お手元の一枚だけのプリントに、出来立てのほやほやをすぐコピーして来たわけですが、そのA、パラオのアラカベサン。日本語みたいな名前ですが、このアラカベサンというところに墓地が有りまして、古くからの墓地にキリスト教の墓地が上乗せされているみたいな感じですが、そこに石碑が建っている。(プリントの写真)上と下は同じもので、下の方はちょっと拡大しているものですが、つまりこの方は、一八二五年に生まれて一九七七年に亡くなったということが書かれているわけです。ですから単純に引き算してみますと百五十二歳ということになってまいります。当然こんな寿命がある筈がありませんで、これはやはり二倍年暦であろうということになってまいります。これはコンクリートで作ってあるわけですからね。私はコンクリートの金石文というものには初めてお目にかかったわけですが、金石文でございますね。しかも幸いなことにこれを裏付ける話が続々と入ってまいりました。最初グアムで空港待ちしている時に、パラオご出身だという中年過ぎの方がいらつしやって話を聞いていると、「この間までそういう六ヵ月を一年でずっと私たちはやってました」ということをおっしゃいまして、さらに最後の日、十九日も、博物館に行きまして、若い大学出のインテリの館長さんにもお会いしましたが、この時、また別室でパソコンと取り組んでおられたのが七十三、四歳の女性の方でして、もう十年前からこれに取り組んでやっていると。何かというと古代パラオ語の辞書を作っているんだと。すごいですね。この方は日本語が出来るわけです。六十歳以上くらいの方はパラオでは皆日本語ができるわけですね。日本のいわゆる統治下というか、軍隊がいた時期に少年少女時代を過ごしておりますから。だから今だったらパラオに行っても不自由しないというか、六十歳以上の方に会えば日本語でしゃべれるわけです。それで日本語でお話を聞いたのですが、「六カ月が一年で皆やってました。この頃はもうほとんどそれはなくなりました」という実情もお聞きしました。だからそういう実情を幾らでもお聞きできるということ、そしてこのコンクリートの金石文の、これ一つじゃないんですが、ちゃんと証拠を持っているという、もうこれは動かしようがなく、パラオではつい最近まで二倍年暦が使われていたということが証拠立てられたわけでございます。
 いったいこれが何を意味するかと申しますと、結局パラオのみならず、いわゆる太平洋上に同じ風土の地域が横たわっていると思います。インドネシアにも、今日もお見えになっておられると思いますが、下山さんという方が貿易商社で赴任された時に、前任者に真っ先に「ここは半年が一年です。それをしっかり覚えておいていただかないと商売は決してうまく行きませんよ」と言われてびっくりされたという話をお聞きしました。それで私は気象庁に行きたいと思っているわけです。つまり気象庁に行けば、今言った同じ条件が太平洋上でどういう分布になっているか、そういうデータがあるだろうと思いますからね。その領域を知ることができると思っています。その領域が太平洋上の二倍年暦領域ですね。それは太平洋で当然の風土から生まれた。それがさっき言いましたように日本列島で使われているということは、つまり黒潮に乗って二倍年暦はやって来たということです。やって来たと言いましても、二倍年暦を書いた紙がプカプカ浮いて到着したというのではないですよね。当然それを使ってた人間達がやって来て日本列島に住み着いたから使われるようになったと、こう考えるのが当然の推理だろうと思うわけです。だから日本人の伝来論において、大陸からの伝来もこれは重大なテーマなんですが、それに負けず劣らず重要なテーマとして、海からの伝来が非常に重要な意味を持っている。しかも倭人伝を支配しているのは海からの伝来の暦である。そういう重大なテーマが浮かんできたわけでございます。
 ところがこの問題は、これだけでは済まない意味を持っているわけです。何かというとですね、実は中国の司馬遷という人が書いた『史記』という有名な本が有ります。亡くなられた司馬遼太郎さんが司馬遷を慕って名前を付けられた事は最近知りましたけれども、あの司馬遷が書いた史記という本がございます。これを見ますと、一枚だけの今日お渡ししたプリントの一番下をご覧いただきますと、枠で囲んで「黄帝」、伝説上の天子と言われておりますが、この人が百十一歳生きたと書いてある。いまはもう細かく立ち入っては申しません。次に三人の聖天子、堯・舜・禹と言う三人の聖天子がいたことも有名でございます。ところが堯が百十七歳、舜が百歳、禹がまた百十七歳と寿命が書いてある。これはどう見たってナチュラルな寿命とは言えないですね。ところが二倍年暦なら別に不思議ないですよね。勝手に書いたんであれば、ついでに二百何十歳とか五百何十歳とか書けばいいのですが、それはない。みんな百をちょっと過ぎたくらいで抑えられています。ということはやはり上限があるわけでございます。二倍年暦によってこの年齢は書かれていると考える方が筋が通るわけです。この後、夏・殷・周というのがこの四人の次に続きますが、周は千年で日本列島で言えば縄文晩期にあたります。夏・殷が五百年ずつで日本列島で言えば縄文の後期にあたります。後期千年の前半が夏、後半が殷という大体そういう感じになっております。だからこの四人の人は縄文中期の終わり頃という感じでございます。そうしますと、日本列島の場合、当然ながら三世紀の倭人伝の時から二倍年暦が始まったなんてことは考えられないので、縄文時代から当然この制度があったと考えざるを得ない。これについても論証したいのですが、時間の関係で省略します。結論だけ申し上げますとそういうことになりますね。そうすると、縄文中期という時代、縄文の中で一番栄えた時代ですが、この時代、東シナ海という海を隔てて、両側、日本列島側の二倍年暦、そして黄河領域の二倍年暦ということになってくる。いうなれば、二倍年暦領域は東シナ海をはさんで両岸にまたがっていたということになるわけです。

 

     伝播の矢印

 さて問題は、じゃあ、どっちからどっちへ伝播したのか。矢印はどっちだ。私がよく使う表現ですが、そういう問題が出てまいります。普通、戦後の歴史学の常識では、中国と日本に共通のものが出てきたら、論証抜きで、論証不要で、中国から日本に決まっている。逆立ちしても日本から中国はあり得ない。こういうのが通念であったわけです。しかし、本当にそうだろうか。正直言いましてですね、私はこれは逆ではないか、つまり、日本から中国ではなかろうかという感触を長らく持ってまいりました。何故かと申しますと、ご存じのように日本列島の縄文文明というのは非常に古い。世界の土器文明の中でずば抜けて古いわけです。土器文明というのは人類の工業文明の発端でございます。人間が自然物をそのままで使うのではなく、それに何らかの手を加えて変質せしめ、その変質せしめた物を題材として人間に必要な器物を作る。このようにして人間が大発展してきたということは、私なんか言わなくてもここにいらっしゃる皆さんご存じでいらっしゃいますが、そのやり方が人類で一番初めに始まったのが土器なのです。その土器は日本列島が圧倒的に古いわけです。どのくらいかと言いますと、一万二千年前、BC一万年ですか。現在から言うと一万二千年前。長崎県の福井洞穴から始まりまして、北海道までざーっと軒並み出てくる。沿海州も最近出てきました。さらにこの真南のすぐお隣の神奈川県の大和市からも世界最古・一万四千年前の土器が出ています。もちろん上下の誤差はありますけど、一万四千年前の無文土器、模様の無い世界最古の土器が出てきた。だから実はこの学校を作る時にもやはり土器が出てきていますね。私が来た前の年にも出ておりますから。これも機会があったら立ち入りたい問題ですが、世界最古の土器のお隣の町の土器ですからね、これは大変なんですよ。そういう抜群の古い土器がある。さらに今度は、信州で上田の近くの下茂内遺跡からは土器片と思しきものが二切れ出てきた。私も目をすり付けて見ましたが、闘違いなく人間が焼いた物です。しかしこれは、土器であるかどうかはわからないですね。というのは、二切れしか出ていないから全体の形がわからない。だから土器片とは断定できない。ただ、人間が焼いた物で一番古い事は聞違いないです。一万六千年前ですから。私はこれを土器形成期、土器ができてくる過程の一コマではないかと考えているのですがね、土器成立までの。まあ、とにかくそういう形で出てきている。
 そうすると他所はどうなんだということになると、我々の少年時代には、中近東のチグリス・ユーフラテスから、古い時代の土器文明はそこから皆東西に伝わったと覚えさせられたものですが、今はそれは全然ナンセンスなわけですね。日本よりも数千年遅い。お隣の中国はどうかと言いますと、その一枚のプリントにも出ておりますが、 Dの会稽山のところの河姆渡遺跡が六千六百年前です。その隣の仙人洞が八千年前。最近出てきた北京の近くの南荘洞が一万年位前。中国としては大変古いのが出てきました。しかし一万年位前といいますと、お隣の大和市の一万四干年前に比べると四干年遅いわけです。信州の下茂内遺跡に比べると六千年遅い。随分遅いでしょう。ということで、中国はずっと後進文明の状態にあるんですね。韓国もそうですし、沿海州も今やっと一万二千年前が去年でしたか一昨年でしたか出てきましたが、それでも日本よりはずっと遅いわけです。
 私はこれは別に何ら不思議はないと考えているのです。何故かと言いますと、土器を人間が作ったということのお師匠さんがいる。誰か。火山である。火山が火を吹いて溶岩が流れ落ちて行く。そうすると粘土質の土を焼くと、土器に起きているのと同じ様な変化を生ずるわけなんです。それを旧石器人が見るわけですね。土ではあるが、全然土とは違うものになっている。これは何物だ。何故だ。あれは火のせいだ。じゃ私も火でやって見よう。つまり人間がお弟子さんで、火山がお師匠さん、日本列島お師匠さんだらけだ。
 もう一つ理由がある、それは海流である。日本列島は、黒潮という世界最大クラスの暖流と、その分流である対馬海流に、両岸がだーっと削ぐように洗われている島なんです。そういうことは何を意味するかと言うと、ちょっと近海に漁に出ようと思っても、その風向き如何では海流に流されて行ってしまう可能性が有るわけです。魚を採りに出掛ける人にとっては、日常的に、毎日有るわけです。しかも行き出すと止まらない。ちょっと待ってくれと言っても止められません。そうするとどういうことが起こるかというと、二つの物が有るか無いかが命を分ける。一つは釣り針。餌はどうするかというと、元気の良い魚は時々パッと飛び込んでくる。それを捕まえて潰して餌にする。また釣り針を降ろすと面白いくらいすぐ食いついてくるそうです。これは私の経験ではなくて、青木洋さんという方が二十一、二歳の頃、手作りヨットで世界一周をされたわけです。現在はいいおっちゃんに成っておられますけどね。その方に、私はへばり付いて根掘り葉掘り体験をお聞きした。その話なんです。ところがですね、食べ物は魚だけじゃ嫌だと賛沢を言えば別ですが、まず飢え死にはしない。で、もう一つ大事な物は壼だと。つまり水がなければ、魚さえ食べていれば人間生きておれるというわけにはいかない。ところが良くしたもので、太平洋の上ではスコールがやってくる。一週間に一回くらいは流然たる豪雨がやってくるわけです。その時に口を開けて飲んでも知れているでしょう。問題はドラム缶でも何でも宜しいから、水を溜められる物が有るか無いかが命を分ける。それをちびちび飲みながら一週間かそこらしたら又ぱーっと来るわけです。そういう体験をお聞きしました。
 これから先は私の考えですが、太平洋上の島々では天然の壷がある。つまり大きな貝。これは水を溜められますね。ヤシの実。ココナッツでも溜められます、ちょっと小さいですがね。こういう物は天然の器である。それを持って船に乗ってりゃ大丈夫だと。ところが日本列島という島は、沖縄辺りは別ですが、ほとんどの部分には大きな貝が無い。椰子の実も無いわけです。しかし海流は両岸を削ぐように走っているわけです。どうしても壼が要るわけです。だから木に穴を到り貫いたり、獣の皮を剥がしたりで出来ないこともないですが、あまり良い物はできませんからね。そこで、火山をお師匠さんにして、水を一杯溜める器を造ったと。人間というのはしたたかな動物で、マイナス・マイナスの条件を、火山だって、海流だってマイナスの条件じゃないですか。それをプラスの条件に転化する。人類最初の発明を行う。こういう秘密が歴史によってわかるわけですね。というようなことで日本列島で土器がいち早く誕生したんだと私は思います。日本列島の人間が特に頭がよかったから、といった話はないだろうと思います。悪いとは別に言いませんが、そういうところに理由を求める気持ちは私は無い。これが私の学問の方法と言うまでもない、当たり前過ぎる話でございます。ところがそういう目で見ますと、中国には火山は無い。朝鮮半島には若干はあるが日本ほどは無い。沿海州も無いわけです。そうすると、日本列島で発見発明された土器のノウハウが、周辺に伝播して行くということになってくるわけです。
 伝播した場合に、ああ、これはなかなか便利なものだ。じゃあ、この土器だけは真似しましょう。しかし、あなたの喋っている言葉は真似しませんよ。日本語というのは昔から嫌です。あなたの伝承も相手にしません。あなたの神々も相手にしません。土器だけ頂きというようなね。まあ、そういうことはないと思うんです。世界中全て調べたわけじゃないけど、まあノーマルじゃないですね。その現の証拠に弥生時代になって中国・朝鮮半島から金属器が入って来た。元はトルコですがね。ずーっと東に進んで中国、それから朝鮮半島・韓国、で日本に入って来たわけですけれども、日本人はこれに対して非常に一生懸命銅器・鉄器を学んだわけです。学びついでにと言ってはおかしいですが、それじゃ、そういう時に銅器や鉄器は学ぶけれど、中国語いや。中国の陰陽思想もいや。あと全部いや。金属器のノウハウだけ頂きます。なんて態度を取ったか、取りませんよね。その証拠に中国の文字なんか今まで散々使っているわけじゃないですか。これもやはり金属器が入って来た余波であると言ってもそう間違ってはいないと思うんです。金属器が入って来て、たかだか二千年ちょっとです。弥生時代ですから。というように非常にノーマルな姿でありまして、逆もまた真なりで、土器が入って行った場合にもそうなんです。
 ついでに一言余計な事を言いますと、土器は人間の独創的製品です。さっきは大自然に対する模倣だと言いましたが、大自然に対しては模倣だけれども人類にとっては最初の工業文明なんです。独創なんです。ところが金属器というのは、初めから模倣製品なんですね。つまり土器で造っている器をより良い材料、より優れた材料の銅で造ったらどうなりましょう。鉄で造ったらどうなりましょうという、つまりリファインした姿が金属器なのです。考えてみたら当たり前でしょう。だからそのリファインした物ですら感激して全部中国・韓国の真似しようというんですから、この独創の物に触れた時の人々の感激というのは、我々の想像を絶するものがあろう。ということはつまり、日本列島のいわゆる言語や、神々や、習慣が周辺に伝播していったと考えざるを得ない。そういう風にはもちろん小学校時代に習って来なかったと思います。しかし論理的にお考えになったら、私の論理はちっとも間違っていないように思うんです。しかしそれは一般論である。理屈だけで言われても困ると言われると思うんですね。その通りです。だから、確かな証拠、二倍年暦。この二倍年暦が生まれたのは太平洋上の島々である。太平洋上の島々というのは、いま我々は未開の野蛮の地と思っているけど逆ですよ。さっきの話でおわかりのように天然の椰子の実が有り、ココナツの実が有り、大きな貝があるんですから。他の地域にはそういう器が無い時代に、それを供給出来てた文明先端地区ですから。そこから日本列島に二倍年暦が伝播したと。それが中国黄河流域に伝播した。これは、はっきりした具体例なんですね。そういうことを確認する上で、今回のパラオ行きは、私にとって非常に大きな意味を持っていたということが出来るわけです。

     言語の間題

 次いで、今度は言語の問題に入らせていただきます。
 「竹」という言葉がございます。これは中国では、“Tiku”と言います。普通我々の知識では“Take”は、訓であり、“Tiku”は音であるから全然違う話だと教わりましたし、私も国語の教師として教えて来ましたけど、今そういう分類は横に置いときまして、物そのものを観察しますと、第一音がTで、第三音がKです。違うのは間の母音だけです。母音というのはちょっと口の開けようでどっちにも聞こえます。これが別の言語と見えますか。物は同じ物を指している。当然これは同一言語の地方訛りと、どっちが地方か知りませんけど、地方訛りと見る方が客観的な理解ではないでしょうか。もしかしたら竹というのは、南方系の植物ですから、“Take”の方から“Tiku”への可能性がある。といいますのは“Tiku”から“Take”となってきたと考えるのには具合の悪いことがあるわけです。何故かと言うと、日本語に結構“Tiku”は入ってきているんです。竹林だとか、孟宗竹とか何とか結構“Tiku”を使っているでしょう。“Tiku”そのもので入ってきているのに、今度は片一方では“Tiku”が訛って“Take”に成りましたと言うのでは二枚舌みたいな感じで収まりが悪い。ところがさっき言ったように“Take”が“Tiku”に訛った、金属器が入って中国を日本側が尊敬するようになってから、“Tiku”を迎え入れるようになったと、こうなると話が非常にスムーズに出来る。
 次は「帆」と言うのがありますね。帆というのは“Ho”ですね。ところが音では“Han”と言う。Nというのは、中国人の好きな脚韻の語尾で、漢詩なんかも で脚韻を揃えるのが多いのですが、それを取って見ますと中心部分は“Ho”と“Ha”です。同じ物を指している。これは同一言語と見た方が良いのではないでしょうか。しかも、この場合日本語の場合は帆を張ると書く。帆を孕むと書く。動詞の方までご丁寧にも“Ha”が付いている。中国語だとそうは行きません。やはり何か別の、張(CHou)とか走(Sou)とか、動詞を加えないと張ったり孕ましたり出来ないわけです。ところが日本語では、同じ言語で名詞と動詞と一連のものを持っている。だいたい日本は海洋国家で向こうは大陸国家ですから、大陸国家から海洋国家がこういう言葉まで学ぶというのは変なものですからね。これなんかは、どうも先の竹以上に、日本側から中国側へ行ったものが現れたという感じが強いわけです。

     黄河・揚子江は日本語

 さらに私が決定的な問題にぶつかったのは今年の二月十九日。何を隠そうそこの裏門の側から私は入って来るわけですが、あの階段を降りきった所で気が付いて、本当に寒気がして来たんですね。何かと言いますと、中国で「河」と書いたらこれは、黄河のことなんですね。これは“Ka”です。「江」は“Ko”です。見たら全然違うんですけど、しかし、ローマ字で書いてみるとどうですか“Ka”と“Ko”ですから、これは、同じ言語の地方訛りという感じが強いわけです。それで中国の場合は、他のものは全部違う発音で言うわけです。つまり、何々川“Sen”とか、水“Sui”とかですね。四川省とか“Sen”のですね。何々水“Sui”も多いわけです。ところが、“Sen”と“Sui”はですね。語尾のNを取りますと。“Se”とか“Sui”とかいう同じ言語の地方訛りという形になっている。つまり中国ではずーっと有るのは全部“Sui”か“Sui”が夥しく何千何万と有るわけです。その中に例外的に“Ka”と“Ko”があるわけです。黄河と揚子江だけ違う表現で呼んでいる。これが中国側の実情ですね。ところが日本側ではどうかと言いますと「川」(カワ)、旧漢字で(カハ)ですね。(サハ)と言うのもこれも同じで「沢」(サワ)ですね。そこで今度は「際」(キハ)ですね。水際の(キワ)ですね。でこれは、ハ(ワ)というのは語尾であることはもう明らかですね。そうしますと、“Kawa”の語幹は“Ka”である。日本中川だらけです。日本列島全部川です。日本列島では“Ka”と言うのが一般的である。中国では。“Ka”若しくは“Ko”が例外である。海を隔てて両側で水の流れのことを言っているのですから、別の言語とは言えないわけです。だから同一言語が海の両岸に跨がっているという認識が得られますね。矢印はどっちか。これはやはり普遍から例外へ。例外から普遍へというのはおかしいです。つまり中国側に立って言えば、普通中国人は、“Sen”とか、水“Sui”とか皆呼んでいる。しかし、黄河と揚子江はちょっと特別だな。ちょっと外国風の名前だがそれはそれでやりましょうという形になっている。ですから中国人がそんなことを聞いたら怒り出すかもしれませんが、中国人の誇りとする黄河・揚子江の“Ka”・“Ko”は日本語、縄文語ではないか、というこの問題に気が付いて研究室に辿り着くまでがたがた震えておりました。
 ここでもう一度申しておきますと皆さんお聞きになって、いやしかし、現代の中国人の発音が問題じゃないの。皆その話は我々が知ってる中国語音でやってるけど、そんなんで良いのと。すぐ皆さんそういう疑問を抱いてくださると思います。その通りなんですが、そうではないんですね。何故かと申しますと、結論から申しますと我々が漢音とか呉音とか言って読んでいる分がですね、古代中国語をそのまま冷凍庫保存で現在二十世紀まで我々が使い続けているわけで、ある時代に入って来たのを、そのままでずっと保存して使っている。ところが中国の場合にはそうは行かないんです。いわゆる夷蛮の王朝、彼らの言う変な言葉ですが、満州族が来たり、蒙古族が来たりして支配者に成るじゃないですか。そうすると、それまでの中国人から見ると変な発音と思っていたのが、今度は支配者の公用語になるわけです。それで今までの自分たちの言葉は下層階級というか、被支配者の言葉に成るわけです。というので発音が乱れると言うんですか、変わっていくわけですよ。そういうのを彼らは何回も経験しているわけですね。だから現在の中国語というのは、変わりに変わった揚げ句の発音であるんです。日本の場合は、幸か不幸か、幸せにも、そういう状態はあまり無かったようです。冷凍庫保存で、ずっと最初に金属器に触れて感激した頃の発音を、そのまま現在に伝えている。だからよく言うんですが、倭人伝なんかも呉音で読んだら大体うまく行くんだというのは、その辺の話が理由なんです。これも言い出すと長いんですが簡単に言いますと、漢・魏・西晋と言いまして倭人伝の時代ですね。ところがその時、一夜にしてと言いますか、匈奴・鮮卑が南下してきて洛陽・西安を支配するわけです。それで北朝を作ります。だから北朝の方は支配者が昨日までの夷蛮で、被支配者はそれまでの漢民族だから発音が全然変わってしまいます。それに対して西晋の一部が南京に逃れて南朝を作る。この南朝では昔からの発音が支配者の言語である。それで呉の昔からの言葉が被支配者の言葉。こう成るわけですね。こちらの系列の呉音の方が、比較的漢・魏・西晋の発音を伝えているわけです。だから呉音の系列で倭人伝を読めば大体うまく行くよ、という話はそこから来ているわけです。要するに我々が古代中国語の発音を考える場合は、現代の中国人に読んでもらおうという発音ではなくて、我々が小学校から習っているあの発音で考えた方が、話がリアルなんだということも一言申させていただきます。

     日本語は二重言語

 さて、実は私にとって、今年になっても非常に恵まれた日々がやって来まして、今の寒気立った日というのは今年の二月の十九日、ちょうど教授会が三時半からあって、それで学校に来てたんですね。なにか弾みがつくって言うんですか、二十日、次の日ですね。対馬に行くのに羽田空港へ向かった。その時にまた、長年の私の懸案が解けて来たわけです。というのは、まず、こういう言葉はご存じですね。「天」(アマ・アメ)と「空」(ソラ)、これはだいたい同じような所を指すでしょう。天と言ったって空と言ったって言葉が違うだけで似たような所を指すじゃないですか。だいたい天の方が上品と言うか「天がける」なんて言うと、この人なかなか学が有るよという感じですね。人間の人体もそうですよ。つまり、「顔」(カオ)と言うのと、「面」(ツラ)と言うのが有りますね。何処が違うのと言われれば違いは有りませんよ、顔も面も。二通りあるわけです。「腹」(ハラ)と「おなか」と何処が違うのか、同じ場所です。「お尻」と「けつ」、これも同じ場所ですね。同じ場所にだいたい二つずつ、ワンセットあるんですよ、日本語というのは。ところが名詞だけでは無いのです。「行く」と「出掛ける」、どう違うの。聞かれたら困りますね、これは。「帰る」と「戻る」とどう違って帰って来るの。同じですよね。言葉が違うだけ。こういう風に皆ダブルであるわけです。だから日本語というのは、そういう意味で基本的に二重言語である。
 しかもその場合見逃せないのは、その二重言語に上品と下品がある。つまり「お尻」って言えば良いけど、「けつ」って言うと、なんて汚いといわれる。学長さんなんかがここで式辞の時に、「私のけつ」なんて言ったら皆、学長さんなーんて品の無い人だろうと思いますよね。ま、うちの学長さんは大変上品な方でいらっしゃいますが。ところがですね、「けつ」と言う発音が汚いのかというとそんなことないですよ。だってですね。学長さんでも、総理大臣でもいいんですが、「私の決意は変わりません」。「私はこのように決心致しました」。何て汚い事を言う。決心とか決意とか「けつ」てなことを言う。こんなことは誰も言いはしません。だから即物的な発音から上品・下品が決まるのではないということは明確ですよ。じゃこれは何かというと、歴史的感覚です。そういうことに、成ってるんです。そう暗記させられているんです。
 では一体何か。これも時間を取らずに結論へと、こういう物(小冊子)があるお蔭で、行かせてもらいますが、要するに『古事記』・『日本書紀』に出てるような言葉は上品なんですよ。つまり、古事記・日本書紀には、「けっ」なんて出てこない。「つら」も出てこないんです。「顔」や「お尻」は出るんですけども。それに対してですね。「けつ」とか「つら」とか出てくるのは、我々の普通の理解では中近世の文学の中に出てくる。西鶴とかね、庶民文学の中に出てきます。だから、そういうのが常識、私も学校でそう教えていましたので、何も問題は無かったように思っていたのですが、よく考えないから問題ないわけで、考えたら問題があるわけです。何故かと言うとね、それでは聞きますが、古事記・日本書紀に出てくる「顔」っていうのが、近世になって母音変化で「面」になりますかね。「帰る帰る」と言っているうちに「戻る」という風に変わりますかね。私は変わるようには思えませんがね。「天」「天」と言っていたらいつの間にか「空」に言葉が誰っちゃった、なんてことは有りますかね。私は無いと思うんですよ。じゃーそれまでと人種が違うんだろう、つまり中近世になって外国から庶民と名のる者が大勢押し寄せて来て、「けつ」だの「面」だの言い出したんだろ。これもちょっとそんな事は有り得ないですよね。じゃー何かというと、答えは一つしか無いんですね。つまり、「けつ」も「つら」も、もう奈良時代・古墳時代・弥生時代から有ったと。しかし、古事記・日本書紀には登録して貰えなかったと。下品だとして。ずっとそれが有ったから使い続けて、いわゆる文学として、庶民の言葉が現れるようになった時期になって、文字記録で我々はお目にかかるようになっただけであって、存在したのは古事記・日本書紀と併存して存在した。それでは何故そんなことになったかというと、古事記・日本書紀というのは、征服者の言語である。汚いと言われたのは被征服者の言語であるということです。
 では征服者とは誰か。余りにも有名な人、神武天皇。戦前では神様にされてしまったから学問的対象では無かったわけですが、戦後は、津田左右吉の説に従って、 ーー津田左右吉の説は戦前に出ましたがーー 神武天皇は架空だから、今私が問題にしているようなことは言語学でも問題にしなかった。ところが私は神武天皇は実在である。それは、私の本をお読みの方はよくご存じで、『盗まれた神話』あたりから繰り返し述べているところです。その章がこの中(小冊子)にも出て来ますが、ここでは詳しく言いませんが一つだけ言えば、例えば大和。ここは銅鐸が弥生の中期には栄えていた。ところが何故か弥生後期になるとピタッと銅鐸が姿を消すわけです。周辺は有るんですけどね。それは何故かというと、反銅鐸勢力が侵入したという形になれば理解できる。これはつまり神武達だと。そういう論証を幾つも今まで私はやって来ました。神武は実在である。もう一言言いますともちろん天皇では無いわけです。私が言う九州王朝の分派・一派としての神武達は、インベーダーとして侵入したという考えですね。それを記録したのが古事記・日本書紀である。となりますと古事記・日本書紀に書かれている言葉というのは、神武達が使っていた言葉である。もちろん神武一人じゃなくて兵隊達がいるわけですね。彼等が九州で使っていた言葉である。だから私は、現在の大和言葉というと、非常に上品な典型のように言いますが、しかし大和言葉の基本は古代九州弁である。これは私の講演をお聞きになった方、授業をお聞きになった方は、何回もお聞きになったことがあると思います。論理的に神武は実在である。そして九州、私は初めは宮崎県日向と思っておったんですが、そうではなくて、福岡県の同じ日向と書いて“ひなた”と読むのですが、福岡県の博多とその糸島半島、この地帯から、神武が九州から近畿に侵入したと。銅鐸圏に侵入したと。それはリアルな話であると。こう理解しますと当然彼等はそこの九州弁で入って来るわけですから。まさか、大和言葉勉強してから入って来るとか有り得ないわけですからね。そうすると支配者が古代九州弁で喋るわけで、一方、銅鐸時代の大和言葉で喋るのが被支配者。その場合支配者は自分たちの言葉で神話伝承を伝える。その証拠に古事記・日本書紀どこを探しても銅鐸の「ど」の字も出てこない。実際はあれだけ五百近くあのでかい物が出てきている。実際に存在したのはその五倍十倍というわけですから、あのでかい物が二千五百、五千と、やがて五百を超えるのではないですかね、存在したのに銅鐸の「ど」の字も出てこない。しかし、侵入した方の銅鉾や銅剣の話はしょっちゅう出てくるわけですね。三種の神器に当る話も出てくる。銅鐸は出て来ない。気が付かなかったわけではなくて、被征服者側の宝物、宝器だから書かない。という風に見てみますとこれはやはり、古事記・日本書紀の全体が実は神武弁なわけだというふうな結論に達してきた。
 このテーマはもう少し早く気が付いておって良かったと思うんです。何故かと言いますと、実は神武の歌ですね。我々戦争中に「撃ちてし止まん」なんて盛んに覚えさせられたものですが、戦後はもう教科書に出ませんけれども、この歌を分析すると意外にもこれらの歌が大和の山の中では全然トンチンカンなんですよ。いわゆる糸島博多湾岸に持って行くと大変リアルになって来るんです。一つだけ例を申し上げますと、「宇陀の高城に鴫罠張る鴫待つや鴫は障らずくじら障る・・・・」こういう出だしの歌があります。宇陀っていうのは、奈良県(大和)に宇陀という所がある。そこで歌ったと。高城は高い城、要するに要害です。そこで鴫という鳥がおります。これは山にも海辺にもいるんです。それで、鴫を取る罠を張ったところが、目指した鴫はかからずに鯨がかかってしまった。それでその後は、奥さん、一夫多妻で年上の母ちゃんにはあんまり旨いとこを遣るなよ。太っちゃ困るってわけで。年下の若い母ちゃんには幾ら旨いとこやってもいいけどなっていう、そういう一寸笑わせる話があるんですね。これも従来の津田左右吉はじめ、学者が困っていて、鯨は山芋だろうとか何とか変な論証を出していた。ところが、実はこれを目を改めて見ますと、つまり博多の西の糸島には宇田がある。宇田川原といっていますが、弥生時代は海辺だった。勿論そこでも鴫の罠を張るわけですから。ここの大和に無い特徴は、鯨が捕れる。ゴンドウ鯨ですね。あれは時々集団発狂したように陸地に陸地にと上がってくるんですね。イルカとか鯨とかがやるわけです。つい何年か前にも有りましたがね。新聞に出てましたが。つまりそれが、朝になって鴫がかかっているかと行ってみたら鯨がかかっている。かかっていると言うとちょっとオーバーなユーモラスな表現でしょうが。鯨が来ている。偉いこっちゃー。頂き。っていうね。お腹空かせて血相を変えているから笑わせるわけですね。年上の母ちゃんにはあまり旨い所遣るなよ。太って恨まれるぞってね。年下の若い方の母ちゃんにはいくら良い肉やったって大丈夫だってね。皆で、どーつと笑うわけですね。リーダーのその歌に。実際は公平に分けるんでしょうが。つまり弥生時代以前、縄文時代の漁村における鯨がふいにとれた時の分配の歌だ。何の矛盾も無いわけです。要するに彼等が大和に侵入して、ここは何処だ。宇陀と土地の人に言われるわけ。あ、宇田か。おい皆、宇田の歌を歌おうぜ「宇田の高城に・・・・」こう皆歌い始めるわけですね。いうなれば糸島カラオケ。というふうに理解すると非常に良く解る。ということは、私はすでに書いたことがございます。『神武歌謡は生きかえった』ですか。これは古田武彦と古代史を研究する会の発行で、今日もいらしてますが、この会の方々でお作りいただいた。この中で私が今の問題を書いたわけですね。その時すでに今日のテーマに気が付いていてよかったんですが、血の巡りが遅いものだから今日まで二月二十日までかかったんですが。
 つまり神武歌謡というものがリアルだと。あの言葉のままで矛盾が無いということは、あの神武歌謡と古事記のその周りの地の文章とは本質的に同じである。当たり前のことですが。ですから、神武歌謡の歌の台詞は、つまり弥生時代の古代九州の台詞だっていうことでしょう。歌の内容と地の文章とは大差ないわけです。ということは、地の文章もまた古代九州弁だということに成らざるを得ないわけじゃないですか。だから、今私がグチャグチャ言わなくても、今の歌自身でピシャッと行けたはずなのです。
 なおついでに申しますと、現在の九州弁はどうかと言いますと、これはまたいろいろややこしいんです。何故かと言うと、例えば黒田侯というのが岡山から移封されて博多に来たわけですね。そのとき岡山の彼等が住んでいた所が福岡というとこで、その地名を持って博多の自分たちが住んでる所に福岡という名を付けたという有名な話があります。だけど福岡という地名だけ持って来たんじゃないんです。当然彼らは岡山弁も持って来たわけですよね。だから黒田藩では岡山弁が大威張りして公用語になったはず。それまでの九州弁は、一寸肩身狭くして被支配者語であったはず。だからその混合が当時の九州弁、博多弁であったわけですね。そういうことはもちろん黒田藩だけでなくて、代々大名が変わるごとに皆そうやられてるわけです。だから先程の中国と同じように、あれ程スケールは大きくないけど、しょっちゅう変えられ変えられした揚げ句の果てが現代の九州弁だと。だから、それを持ってきて理解しようとしたから、私は部分的にはそうじゃないかという話は出ておりましたが、うまく行かなかった。そうじゃなくて、中国語の場合のように変転の揚げ句の果ての現代九州弁ではなくて、我々の知っているあの古事記・日本書紀が、即ち古代九州弁であるという。言ってみれば当たり前のような話になるのですが、そういう立場に立つと、すっと割り切れてきたわけです。ということで、我々が上品・下品と発音自体から来るものでないのに、子供の時から覚えさせられて来たのが、神武の大和征服のお蔭と言うか、所為であると言うか、為であると言うか、言い方は、どう言ったって良いですが、これ無しには、何故、尻が上品でけつが汚いかということは解明出来ないという問題でございます。以上のように次々と新しい問題に目を開かされている毎日でございます。

 

     日本の未来

 最後に申し上げたい問題は、先日ある方からこういうご質問をいただいたわけです。「縄文文明が中国に対する先進文明だと、こういう話なんだけど、しかし、中国の土器もなかなかですよ」。と言うのは、西安の所に半坡という博物館が出来ておりますが、六千年前位、日本で言いますと縄文前期初頭くらいでしょうか。この半坡博物館に入ると見事な土器が陳列されていて、圧倒されるわけです。何が見事かと言うと、土器の質が非常に硬度の高い、つまり焼成温度の高い土器である。我々の見慣れている縄文土器とは、大分出来が違うということですね。のみならずそういう土台が良いですから、そこに書く絵も非常に冴えた絵が描かれているわけですね。「日本の縄文土器よりずっとあの方が素晴らしい」こういう評価をされる方がいても不思議が無いわけです。そういうご意見、非常に鋭いご意見であったわけですね。考えてみますと、確かに半坡の土器は、日本では縄文中期真っ盛りという頃の時期ですけど、もう既に中国が追い抜いて来ていると。こういうことが言えると思うんです。その追い抜いて来た理由は非常にはっきりしている。何かと言うと先も一寸申しましたが、トルコから金属器のノウハウが東へ進んで来たと。 三千年から 四千年頃、イリヤッド・オデッセイの前夜ですが、もう既に黒海沿岸は金と銅の文明の真っ盛り。それを狙って、地中海から黒海へ抜ける海上の通商権を狙って、イリヤッドのホメロスのあの戦い、トロヤとギリシャの戦いが起こったと、こう理解しているんですが、女王を連れて行ったとかいう話はもちろん本当でしょうけど、それだけではない。大きな背景は、地中海文明と黒海文明との、ボスポラス海峡の所で、簡単に言えば通商を争った。それを手に入れようとしてギリシャがトロヤを叩いたと思うんですが、とにかく、黒海はそういう文明が栄えていた。同じくカスピ海の北側にも同じ時期金属文明が栄えていた。それからバルト海も同じ時期に同じ金と銅の金属文明が栄えていた。これは地球上ではすごい距離ですが、ここは冬は凍りましてソリ、犬や鹿が引くソリで、新幹線が走っているわけです。だから同一文明圏なんです。それが南下して来ると中国へ入って来るわけです。もう一方では玉の文明。青海省・甘粛省・新彊省、いわゆる、黄河文明よりずっと古い古代文明ですが、そこへ入って来る。そこから東へ進むと半坡の西安がある。だから西安は北から入って来るのと西から入って来るのとの交点であった。だから、交点に入って来たからと言って、すぐ土器を作れるものではないわけ。しかしその焼成温度の高いノウハウで、前に日本から学んできた土器を造ってみよう。これが半坡の、日本の縄文土器より優れた硬度や、従ってデザインを持つ土器の誕生になっているというわけです。
 そうしますと、いうならば日本の土器に追いついて追い越したリファインした姿。そのリファインの次には独創の爆発がやって来たんです。中国においてね。我々ご存じのいわゆる夏・殷・周の大文明の爆発は、その模倣として半坡の、日本土器を真似しながら日本の土器以上に優れた土器を造れたという、リファインの時期がその秘密なわけです。このことは実はヨーロッパも同じでして、あの三大発明というのが有りますが、あの言葉は非常におもしろい言葉で、まずいわゆるジオヤの「黒色火薬」。火薬は中国が古くて、回教圏がそれを受け継いで、十字軍でヨーロッパの馬がどうしても進めなかったという有名な話があるのですが、その安かろう悪かろうじやないですが、ジオヤが黒色火薬を造ったというのが、発明っていうことになっている。発明なんて言葉おこがましいですがね。今度は「羅針盤」。これも中国・回教圏で地中海を羅針盤を持った回教の海軍が制圧して行った。これと同じレベルの羅針盤をヨーロッパ側が造った。これが羅針盤の発明です。次は「印刷物」です。これも中国・回教圏からヨーロッパに印刷術が入った。ただしこれは木版です。これを銅版という、よりリファインした方法で造ったのがグーテンベルグなんです。そのリファインの後、ヨーロッパの一大独創文明の爆発へと間もなく成っていったわけです。
 だから、どの歴史を見ても模倣、それでリファイン、その次が独創の大爆発。もう例外ないと思うんです。リファイン抜きで、安かろう悪かろうからいきなり独創なんていうのは私は知りませんね。独創の時期が始まる予兆が、リファインである。こう言えば皆さんお解りと思うんですが、日本の製品も安かろう悪かろうという時代があったわけです。どうにかアメリカ・ヨーロッパに追いつけそうだねという時代もあった。ところがそれより優れたリファイン、自動車や半導体なんかを作り出した。今はリファインの時期である。ならばその次は文明史の示すところ独創の爆発しかないわけです。だから、私は現在の日本について悲観的なことを言う人もおりますが、司馬遼太郎さんも悲観的なことを言われていたらしいですが、それはそれとして理解出来るんですが、しかし、私のような立場、巨視的な立場、私の学問の方法から見るとそうではなくて、日本の時代はまだ始まっていない。これから始まる。その大爆発の前夜の苦しみであったり、嫌らしさであったり、不味いところであったりを露出しているわけです。やりながら着々と、私なんかには関係ないようなんですが、どこかで黒字がたまっているらしいし、それで皆さんのような薬学その他で一生懸命毎日勉強されている。やがて火が付いて、爆発が来る以外の選択はないんです。いや自分はリファインだけでやりましょう、安かろう悪かろうに戻りましょう。なんて郷愁があるかどうかはわかりませんが、それは無理ですから、やはり独創の爆発以外に選択の余地はないわけですね。そういう時期に来ていると、私は思っているわけです。ですから今日私が申しましたのは、そういう客観的な大爆発の予報機と言いますか、ちょうど、もうそろそろ夜が明けるよという、コケコッコーと鶏の鳴く、その鶏の役を今日しようと思って来たわけでございます。だから、古田の話、一体何喋ったの、と人に聞かれたら、どうもコケコッコーの話をしたと、こうおっしゃって頂けたら百二十パーセント正解でございます。私の非常に拙い話を長時間お聞きいただきまして、本当に有難うございます。何よりも私は本当に感謝しておりますのは、この十二年間全く私のような粗雑な人間に対して、学問でも教育でも、全くそれに対して掣肘を加えられるということが一切ございませんでした。学長さんが言われましたように外部にはいろんな変な人がいるわけですが、にも拘らず全く、私になんとかしろという話はゼロでございました。学問とすれば当たり前なんですが、その当たり前が日本では大変、真珠よりもダイヤモンドよりも貴重だという、これが私の卒直な現代認識でして、そういう面で口先の、こういう時はまあ、最後だからおべんちゃら言って終わりにするのが普通かもしれませんが、そういう意味では本当に全くなく、心の底から有難く、感謝申し上げているわけでございます。本当に、どうも有難うございました。

最終講義プリント 古田武彦教授退職記念最終講義録 「学問の方法について」 歴史学と自然科学との間〉 古田武彦


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