『古代に真実を求めて』第八集へ
第四章隣国史料にみる九州王朝 一磐井の「反乱と滅亡」(『失われた九州王朝』) へ
ロシア調査旅行報告と共に(一、神々の運命) 二,「磐井の乱」はなかった 三、トマス福音書について
古田武彦
この問題は、結論も簡単でして論証も簡単です。結果は重大ですが。まず、皆さん、わたしも含めて「磐井の乱」があったと思っていた。『失われた九州王朝』でも、あったとそのように書いてきました。大義名分が逆転している。あれは磐井の乱ではなく継体の反乱である。磐井が九州王朝で、継体は地方豪族である。その地方豪族の反乱である。そのような形で書きました。その時は思い切ったことを書いたつもりになっていましたが、今から見ると何も思いきったことを書いていない。なぜなら大義名分の重点を、こちらに移しただけだった。あのような戦乱があったこと自身は、間違いないと受けとめてきた。しかし、それはどうもおかしいのではないか。そのように考えが進展してきた。いきさつは省きますが。何よりも読者のお手紙のなかで、一番指摘されていた。おかしいのです。磐井の乱がほんとうにあったら、九州年号なんてナンセンスです。九州年号は磐井の乱に重なっている。磐井が殺されていて九州年号が平気で続けますというのはおかしい。いわんや九州王朝が弥生時代から白村江まで続いていれば「磐井の乱」はおかしい。今から言いますと、後知恵ですが、九州王朝・九州年号の概念と磐井の乱とは両立しない概念です。そこを読者の方から、するどく指摘されていた。読者の方から繰り返し、いろいろの形で質問された。わたしもそうだとは思っていたが、答えを出せずにいた。それがなぜ、答えが出せるようになったか。
まず『古事記』『日本書紀』に、ハッキリ書いてある。磐井を殺した。『古事記』に書いてあるから間違いない。『日本書紀』に書いてあるから間違いない。そういう立場を取る方は、それで他の論証はいらない。だって『古事記』に書いてある・・・・。だって『日本書紀』に書いてある・・・・。
しかし今『古事記』『日本書紀』に書いてあるから間違いない。そう言える人はいますか。津田左右吉の批判以来そういう人は、いないと思う。ですがわたしは『盗まれた神話』を書いた段階では、まだ『古事記』は信用できると思っていた。『日本書紀』と『古事記』を比べれば、『古事記』が本来の形である。しかしその後研究が進展するうちに、その考え方はダメだということがわかってきました。たとえば倭建(やまとたける)の話。あの話はすべてアウト。これは現地伝承をみな主語を倭建にすり替えて書いている。『古事記』も『日本書紀』も、そうなのです。これは『神の運命』(明石書店)の最後に論じていますから、ご覧になればおわかりになると思う。しかしそれは倭建の話のように、特殊な場合だけに限っていると見えなくもなかった。
それが次に、わたしにとって重要だったのは、大きなダメージというか進展を与えられたのは信州におられる浅野雄二さん。この方は日本銀行を退職して、ひたすら山小屋にこもってひたすら研究に明け暮れておられるという奇特な方です。その方は貨幣の研究がご専門でして、貨幣の問題については問題提起が鋭いのです。その方からわたしが問題提起を受けて、考えたことが次の問題です。
『古事記』雄略紀の最後に、雄略天皇が奥さんを求めに日下部王とともに妻恋に行った。その話に出てくる歌です。
『古事記』雄略紀
日下部の 此方の 山と畳薦 平群の山の 此方此方の 山の峡に 立ち栄ゆる 歯廣熊白 本にはいくみ竹生う 末方には たしみ竹生ひ いくみ竹 いくみは寝ず たしみ竹 たしには卒寝ず 後もくみ寝む その思ひ妻 あはれ
ところが、この歌はよく見るとおかしい。日下は大阪からすぐ奈良に抜けるところの河内にある。日下が河内にあるのはよいのですが、平群(へぐり)との関係がはっきりしない。また日下部との関係がはっきりしない。一番おかしいのは、竹が生えている。竹が生えている。良くは寝れない。そういう話が繰り返されている。どうもそれでは(恋)話にはあわない。ところがこれを九州にもっていきます。そうすると平群(へぐり)がある。博多湾岸の吉武高木遺跡があるところが平群です。築後山門にあるのが日下部です。それで最後は「思い(妻)」で終わります。ところが九州筑後には上妻(郡)・下妻(郡)がある。これらをぜんぶ九州へもって行くと、吉武高木のあるところが平群です。これに対して神籠石に籠もっている築後山門あたりの兵士達の歌となる。そして上妻(郡)・下妻(郡)にいる自分の妻のことを思って歌っている。これで話がキッチリとあう。今の大阪河内の日下ではどうにもならない。不明である。
(論証は多元四十七号Jan,二〇〇二「筑紫恋歌 ーー記紀の構造(一)」「多元的古代」研究会・関東の機関誌に記載。この方には、これと同類のご指摘を美夜受比賈(みやずひめ)「ひさかたの 天の香具山・・・月立ちにけり」の歌で受けています。この歌は九州別府の歌です。)
これではどう見ても九州の歌です。それをもってきて雄略の妻問いの歌として入れ込んでいる。ここまでやるか。倭建は例外ではなかった。みんなその手法ではめ込んでいる。他にもありますが。
そうしますと『古事記』も書いてあるからと言って、間違いないとは言えなくなった。
そうしますと元に帰り、「磐井の乱、磐井を斬った」という話も『古事記』に書いてあるから間違いないとは言えなくなってしまった。『日本書紀』に書いてあるから間違いないとは言えない。
それでは残りに何かあるのか、そう言われればある。間違いなく確かにあるのが築後國『風土記』です。継体の軍勢が築後に来て、そして磐井を攻撃した。石人や石馬を壊したということを書いてある。事実、現在の岩戸山古墳に行くと模造品ですが、壊れた石人や石像が置いてある。だから『風土記』に書いてあるとおりだ。つまり『風土記』はほんとうだよ。学校の先生が生徒を連れて行けば、そのように説明されると思う。なるほどと、わたしも最初は思った。ですが行っているうちに、おかしいと気が付き始めました。なぜおかしいのかと言いますと葛子の問題。磐井には息子の葛子がいて、後を継いだと書いてある。葛子が壊れた石像を、そのまま大事に二十一世紀まで保存して伝えたのですかね。あんなものはやり直せばすぐです。あの石は材質は阿蘇山系ですから、たくさんある。もう一度キチンと親父さんのために作り直せばよい。それをしないで継体に壊されたものを、そのまま保存して後世に伝えた。完品はないですから。そういうことは言えば言えるけれども、そういう場景はわたしは想像できない。それだけ葛子は石が惜しかったのか。手間が惜しかったのか。そのように考えるとおかしい。そういうことに気が付いてからは、現地で何回か言いました。ところが、それはおかしいですね。そういう単なる印象批評にとどまっていた。
ところが石像は実際には壊されている。実物が壊されているから模造品として、壊された石像を作った。そうすると壊されたのは、本当はいつなのか。そういう問題が出てくる。これも結論から言いますが壊されたのは七世紀後半。白村江の後である。誰が壊したのか、唐の軍隊。唐の軍隊が筑紫に何回も来ているではありませんか。二千人、二千人、その他にも来た。彼らは観光名所に遊びにきたのか。そんなことはない。「日出処の天子」の宮殿や古墳、神籠石のような軍事施設を壊すために来た。その証拠に中国の南京、南朝の都。隋の軍隊に宮殿が壊されて跡形もない。わずかに周りの古墳の、墓の番人のような辟邪(へきじゃ)が残されているだけです。ほとんど壊されている。もちろん壊したのは北朝、隋の軍隊。その隋の後を継いだ唐の軍隊が、百済を侵略し攻め滅ぼした。王を生け捕りにして長安に連れ去った。だから百済のほうは何も残っていない。新羅のほうは墓や遺跡は残っているが、百済のほうは武寧王の墓が土にまみれて、まぐれで残ったようにわずかに残っているだけです。すべて唐が壊した。同じく、その唐の軍隊が日本に来た。唐が宮殿やお墓を壊した。偽りの天子、偽りの倭の五王の墓は認めない。壊せ、偽りの痕跡は許さない。そういう立場です。後の天皇家近畿の分王朝は、協力した可能性は十分ある。
だから壊されたのは七世紀後半、それから八世紀に近畿天皇家の世になる。だから石像を作り直す必要はない。このように考えると、話はひじょうに分かりやすい。継体の時にすると、どうにも分かりにくい。しかし白村江以後、あるいは八世紀という仮説に立てば、現在の事実関係がひじょうに簡明に説明できる。
これはもうダメだ。それを『風土記』は、実はそうではありません。外国の軍隊が来て壊したのではありませんよ。それは後の天皇家近畿の分王朝が協力したのではありませんよ。それは実は三百年前の磐井の時の話ですよ。そのようにすり替えた。
この手法は大化の改新の郡制と同じです。六百四十五年大化の改新、あそこから郡制が始まったと『日本書紀』は書いてある。あれを東大でも京大でも最近の学者は、ぜんぶ評制が始まったと言い直している。東大の歴史学の主任教授の鎌田さんが、孝徳天皇の時に評制が始まったと書いている。しかし評制が始まった大化の改新という説明は、『日本書紀』をはじめどこにも書いてはいない。学者が勝手に説明するために考案しただけです。郡制はみなさんご存知のように七百一年以後です。それは『日本書紀』を書いた人、読んだ人は誰でも知っていた。四十歳の人は、二十年間評制を使い、あとの二十年は郡制を使っていた。六十歳の人は、四十年間は評制の中にある。しかし『日本書紀』が出て来たときは、うそを書いているとだれでもわかった。しかしお上がこれが正しい歴史書だと『日本書紀』を出した。『日本書紀』は評制を消し去って、大化の改新の時から、孝徳天皇の時から郡制が始まったのだよ。これで通さなければならないのだよ。それが今、明治維新以後も東大、京大が行っている天皇制支配下の偽りの歴史学。イデオロギーの歴史学。
しかし、そういうイデオロギーをはずしてものを見れば、これはおかしいのです。大化の改新の郡制は、そこから始まったのではなくて、八世紀に始まった郡制を五十五年遡(さかのぼ)らせている。
同じように『風土記』も七世紀後半に壊されたのを、かさ上げして継体天皇の時に壊されたと書きなおした。その証拠には最近気が付いた。
『風土記』筑後國 磐井君
筑後の國の風土記に曰はく、上妻(かみつやめ)の縣。縣の南二里に筑紫君磐井の墓墳あり。高さ七丈、周り六十丈なり。墓田は、南と北と各六十丈、東と西と四十丈なり。石人と石盾と各六十枚、交陣なり行を成して四面に周匝れり。東北の角に當りて一つの別區あり。號けて衙頭と曰ふ。其の中に一の石人あり、縦容に地に立てり。號けて解部と曰ふ。前に一人あり、裸形にして地に伏せり。號けて偸人と曰ふ。側に石猪四頭あり。臟物と號づく。臟物とは盗物なり。彼の處に亦石馬三疋・石殿三間・石蔵二間あり。古老の傳へて云へらく、雄大迹の天皇の世に當たりて、筑紫君磐井、豪強く暴虐くして、皇風に偃はず。生平けりし時、預め此の墓を造りき。俄にして官軍動發りて襲たむとする間に、勢の勝つましじきを知りて、獨自、豊前の國上膳の縣に遁れて、南山の峻しき嶺の曲に終せき。ここに、官軍、追ひ尋ぎて、蹤を失ひき。士、怒泄まず。石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。古老(ふるおきな)の傳へて云へらく、上妻(かみつやめ)の縣に多く篤き疾あるは、蓋しくは[玄玄](これ)に由るか
ここに、「古老(ふるおきな)の傳へて云へらく、上妻(かみつやめ)の縣に多く篤き疾あるは、蓋しくは[玄玄](これ)に由るか」とあります。「[玄玄](これ)」をどう解釈しているか。岩波の注釈「十四 磐井の君の祟りという意」を、そこに付けています。
「[玄玄](これ)」で、現在というのは八世紀前半以後『風土記』が作られて以後です。八女のあたりに「篤(あつ)き疾(やまい)」があって、手や足の折れた人・夫婦がたくさん居るというわけです。それは「[玄玄](これ)」に依るだろうと言っています。「[玄玄](これ)に由るか」の岩波の注釈では、いわゆる、これの祟りで、このようなことが起こったと注釈がついています。しかし考えてみてください。二~三百年前に手や足を折られた人が居た。負けたら折られるでしょう。しかし、その祟りで手や足を折られた人間がつぎつぎ生まれてくる。そんな祟りは聞いたことがない。祟り万能で、なんでも祟りのせいにして人間の理性的な判断を狂わせられると思っているから、そう書いてあるだけです。そんなことはありえないことです。わたしはそのように断言いたしますが、皆さんはどうですか。それでは、この文章はどう理解したら良いのか。とうぜん七世紀の終わりに白村江以後唐の軍隊が入って来れば、とうぜん人々は抵抗します。これで手や足は折られた。それが『風土記』が作られた八世紀前半になっても、まだ手や足は折られた人はたくさん残っている。これなら分かる。そういうたいへん分かりやすいことを、これは語っている。それを前のところを書き換えなければ、つごうが悪い。そんな唐の軍隊が壊したとか、(近畿)天皇家が見て見ぬふりをしたとか、それが分かるようではぐあいが悪い。書きなおせ。あの大化の改新の評制とおなじように、継体天皇の時に壊されたというように書きなおさせた。しかし部分的に書きなおしたから、ここの部分が残ってしまった。
だから明治以後の学者が天皇協力主義で、祟りという変な注釈を付けた。だからこれを二~三百年前というのはウソです。手や足を折られたのは、これはその時のつい最近のことを話として古老は語っています。これなら分かるでしょう。二~三百年前に、手や足を折られた人の産んだ子が、祟りで手や足を折られたままで生まれた。そんなバカな話は世界中のどこを捜してもありえない。占領の事例もありえない。祟りという言葉にだまされている。だからわたしは、「祟り売り」という言葉を使いたい。明治以後の天皇家の学者達は「祟り売り」によって、変えて読んでいる。だから史料をそのままに読まず、明らかに内容が書きなおされている。
ですから、これだけは間違いないと思われていた話はアウト。
ですから筑後國『風土記』が「継体の反乱(磐井の乱)」があったという証拠にはならない。『古事記』『日本書紀』に合わせているだけです。
以上、わたしは「継体の反乱(磐井の乱)」がなかったという結論に達したことを報告します。
このわたしの説に反対するのは簡単です。反論することは楽だと思う。なぜならば土器です。この磐井の乱を境に、土器の様式が一変しているかどうか。つまり一変して近畿風の土器に変わっているかどうか。変わらなければおかしいですよ。これは完全に関ヶ原のような大戦乱で、権力が大変動を起こしたことは間違いがない。そうしますと近畿の勢力が入り込んで、土器たとえば壺の形・デザインが今までの伝統が、ぜんぶ消えて近畿風の形・デサインに変わった。それをわたしに示してくれればよい。古田は変な理屈を言うけれどもここで土器が完全に変わっているよ。そうでしたか、わたしの考えは間違っている。そう言います。これがないです。わたしの考えている土器を出してみたが、それはない。またそれに昔から詳しい朝日新聞の内倉さんに尋ねてみても、そのようなことはないとのご返事です。それから赤塚さん、現地の岩戸山歴史資料館で考古学の専門の方なのです。電話して尋ねましたが、聞いてみて土器が一変しているということはありますかと尋ねましたが、ありませんとご返事をいただいた。ですから、わたしの知っている範囲では大変動はないし、外から観察されている内倉さんに聞いてみてもないし、内側で観察されている現地の岩戸山古墳の主のように精通されている考古学者である赤塚さんに聞いてみてもない。ですからやはり、もう一度お手持ちの資料で再検討されてもないと思う。土器がぜんぜん変化なく続いていたら、やはり「磐井の乱」はウソなのです。これだけではない。神籠石山城群はすでに作られている。とうぜん神籠石をめぐる戦乱が起きなければならない。そうしますと神籠石を攻めのぼる外や中で、戦乱の後の遺跡が出てこなければおかしい。しかしそのようなものは見たことはない。神籠石はたくさん見ましたが、そういう戦乱の後は見たことがない。それのみか白村江の戦いの前まで作られている。福岡県の唐原(とうばる)遺跡。福岡県と大分県との境。一番新しく見つかった遺跡。何回か行きましたが、これは途中まで作りかけて止められている。白村江の戦いの後止めている。そういう現地の方のお話です。そうだろと思います。主だった石は置いてある。途中の石がない。途中の石を埋めないままで放置してある。白村江まで造り続けた。要するに神籠石は停止していない。
さらに言いますと、岩戸山歴史資料館の赤塚さんにお聞きしますと、赤塚さんはおもしろい別の考えをもっていました。継体の軍が来て、すぐ引き返したと思います。その後、肥の軍隊・勢力が入ってきて装飾古墳を造ったのであろうと考えています。そういう論文を書きました。『東アジアと江田船山古墳』(雄山閣)という本の中に、そういう論文を書いております。そう言われました。これは何を言いたいのかと言いますと、確かにいまの装飾古墳の元をなすのが、一番古いものが熊本県の有明海沿い・西南端にあることは有名です。それを原点と考えて近畿天皇家が引き上げた後、その勢力が築後を征服して装飾古墳を造ったのだという考えのようです。それはそれで、考古学状況にたった興味深い一つの説なのですが、これに問題があるのは近畿から勢力が入った痕跡がないわけです。ですから継体の軍が来て、すぐ引き上げたのだと思います。そういう仮説ですね。しかし『日本書紀』にすぐ引き揚げたと書いていない。勝ったら物部にぜんぶやると、反対に書いてある。しかし考古学的状況がないから、継体の軍が来て、すぐ引き上げたという文献の解釈を、考古学的状況を尊重しながら葬り去っている。せっかく勝ちながら、あわてて引き返す占領軍というのを、わたしはみたことがない。この点が難点です。マッカーサーも日本を占領して、アメリカの文化や影響をまったく残しませんでしたか。そんなことはありません。アメリカの影響は大変残っている。この点もおかしい。
もう一つは装飾古墳の始まりを磐井のころであると赤塚さんは言っておられる。けれども例の放射能年代測定の前の考え方です。放射能年代測定を考慮に入れるとわかってきたように、一〇〇年なり八〇年なり年代が遡(さかのぼ)る。装飾古墳はとうぜん磐井の前から始まっていることになります。また磐井の後まで続いていることになるわけです。そうすると九州が、磐井が破れたから装飾古墳が始まりました。あのような華やかな文明が始まりましたではおかしい。もっと廃虚らしくなって欲しい。もっと近畿らしくなって欲しい。近畿に装飾古墳はない。そういうことからも赤塚さんの論自身には、おもしろいけれどもやはり無理がある。
それと資料を整理していまして、岩戸山古墳・磐井の乱をめぐって小田富士男さんを始め、九州の名だたる学者が集まって一冊の本を作っています(岩戸山歴史資料館図録『石人・石馬』)。ここに持ってきましたが。それを見て驚いたのは小田富士男さんが書いておられるのに、近畿の埴輪が九州に伝播して、石に化けたのが石人石馬であろうと思いますと書いておられる。小林行雄さんが言われた通りですと書かれてある。わたしの頭では、ぜんぜんついていけない。なぜ埴輪が石像物に変える必要があるのか。近畿の埴輪と石像物はぜんぜん似ていない。
これはわたしが、みなさんと中国南朝の遺跡を巡ったとき、南朝の都であった南京にありました辟邪(へきじゃ)。天子だから空想的な竜馬のようなものに乗って死んだら霊魂の天子が世界中を駆け巡ってください。そういう願いをこめて造っているのだと思います。ですから天子にふさわしいのが辟邪です。馬に羽が生えているものです。
それに対して南朝の将軍にふさわしいのが馬です。中国でも将軍の有名な「霍去病」の石馬がある。倭の五王は将軍です。海東大将軍などの肩書きがある。だから辟邪を造ってはいけない。辟邪を造ればおまえは天子かと詰問される。だから石馬を造っている。石馬は近畿を原点に考えるのではなくて、南朝南京を原点に考えるべきです。倭の五王が太宰府から筑後川流域を中心にする勢力であることの証拠です。
また装飾古墳もそうです。装飾古墳は近畿にはない。装飾古墳のおひざ元は平壌です。あそこに有名な壮大なる壁画の古墳がある。あれは中国風の生活を書いています。あれを真似してカラフルな壁画を描いたのが装飾古墳。このように見ればわかりやすい。近畿のモノクロのものを田舎者だから真似をしてカラーにしました。そう言ってみても口先の説明だけで、まったく人を納得させることは出来ない。そういう面から見ても、わたしは磐井の乱はなかった。それに対して磐井の乱があったという人は、証明の方法を簡単に申しましたので、反証していただければ幸いです。
残された時間はトマス福音書についてお話したい。去年から今年にかけて夢中で取り組んでいます。いくら時間とエネルギーがあっても足らないような生活を送っていますが、その問題の一端を紹介させていただきます。
なぜ、このような問題に取り組んでいるのか、その件だけ申させていただきます。
わたしがこの問題に取り組みましたの、一一四番(注:荒井献訳のトマス福音書の段落番号)の問題です。これは荒井献(あらい ささぐ)さんの翻訳、この方は東大名誉教授、わたしより四つ年下のかたです。キリスト教のプロテスタントのかたで、イエス伝の研究に精力をそそいでいる方です。とくにこの方の研究のメインをなしているのは『トマス福音書』です。お聞きになったことがないかも知りませんが、われわれが知っているバイブルとは別なのです。われわれが知っているバイブルにはないイエスの言葉です。
一九四五年にエジプトナイル川の下流域の上域。そこのナグ・ハマディ村の墓地から見つかった。大きな壺に入った写本がパピルスを綴じ合わせた冊子がたくさん入っていた。四一の文書からなっていた。その一つがトマスによる福音書です。これはひじょうに古いものなのです。われわれが今知っているバイブルとはぜんぜん系列が別です。それでわたしが最初に知ったのは、荒井献さんが書かれた『新約聖書の女性観』(岩波新書)からです。偶然バイブルか何か新約聖書の本をもってロシアに行きたいと考えました。旅行ですから手ごろな本を探していると、偶然にわたしの関心のあるテーマがありましたので買いました。そのまま、置いておきまして昨年の一〇月ころから読みはじめまして、それでたちまち夢中になった。
そこにわたしが、注目したのは下の百十四番です。『新約聖書の女性観』(岩波新書)に引用してあったのは、「イエスが言った、」以降でしたが。
『トマスによる福音書』講談社学術文庫より
一一四 シモン・ペテロが彼らに言った、「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。イエスが言った、「見よ、私は彼女を(天国に)導くであろう。私が、彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」
マリハムは女性です。『新約聖書の女性観』(岩波新書)には「見よ、私は彼女を(天国に)導く・・・ ・・・天国に入るであろうから」が引用してありました。一回読んでも何のことか、わからないでしょう。「イエスが言った、」からもう一度読みます。(再読)変な言葉です。二回読んでもよくわからない。ところがわたしは、これを読んでピンときた。わたしは親鸞を研究していまして、親鸞の和讃に有名な個所がある。
『親鸞聖人全集』浄土和讃 大經意
諸佛の大悲ふかければ
佛智(ぶっち)の不思議をあらわして
變成男子(へんじょうだんし)の願をたて
女人成佛ちかひたり
「変成男子」、つまり女を男に変えて、そして後、救済する。これの背景はあとで申しますが、親鸞を研究している人はだれでも知っている言葉なのです。
もう先ほどの言葉を一度言います。
「見よ、私は彼女を(天国に)導くであろう。」
これは、わかりますね。次です。
「私が、彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。」、こう言います。わたしは、まず彼女を男にするのだ。それから後、天国に導くのだ。こう言っています。
「なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」
女はストレートに天国に行けない。そのため必ず行わなければならない通過点があって、男に化けるということです。このイエスは、女たちを男に化けさせる力を持っている。男に化けさせて、しかるのち天国に連れていく。このような話は聞いたことがない。普通のバイブルにはない。この思想は親鸞も言っていたことと同じですよ。女を男にして救済する。それが「変成男子」の願。
もう一度、親鸞の和讃を見てください。親鸞がこれを言っている背景は、親鸞は大無量寿経を依りどころにした。法然・親鸞いずれも大無量寿経を依りどころにした。
大無量寿経は四十八の願があって、その中の三十五番目の願です。
大無量寿経(読みは一例)
(三五)
設我得佛十方無量不可思議諸佛世界其有女人聞我名字歓喜信楽發菩提心厭女身壽終之後復為女像不取正覺
設ヒ我佛ヲ得ンニ 十方無量不可思議ノ諸佛世界ニ 其レ女人有リテ我名宇ヲ聞キテ歓喜信楽シ菩提心ヲ發シ女身ヲ厭ヒ悪マン 壽終ヘテ後、復女ノ像ト為ラバ正覺ヲ取ジ
タトヒ ワレ ブツヲ エンニ ジュッポウ ムリョウ フカシギノ ショブツ セカイニ ソレ ニョニン アリテ ワガ ミョウジヲ キキテ カンキ シンギョウシ ボダイシンヲ ハッシ ニョシンヲ イトイ ニクマン イノチ オヘタノチ マタ オンナノ カタチト ナラバ ショウカクヲ トラジ
「名字」というのは、「南無阿弥陀仏」です。「正覺ヲ取ジ」というのは、四十八願繰り返しています。こういう情けない、いやな状態が解消されなければ、私ひとりが悟りをひらいて、わたしが極楽に行くことはしたくない。これが菩薩の請願であり大無量寿経の請願のスタイルです。この三十五番目の請願が、女の人が「南無阿弥陀仏」を唱えることにより、死んでから男に変わる。そして極楽に来て救われる。それでもまだ女に生まれるようだったら、私ひとりが悟りを開いて極楽に行くつもりはない。このように言っています。これを、親鸞が「變成男子(へんじょうだんし)の願をたて」と唄った。同じ考え方です、これは「女が救われる。」という考え方、これだったら誰でもというとおかしいですが、女性差別の世界ではそうは言われていないですが、それにしても女が救われるという形に発展するというのは、あたり前と言えばあたり前であり自然な発展です。しかし、これが不自然な発展なのは、女を男に化けさせておいて天国に連れていく。このトマス福音書も、大無量寿経も女を男に化けさせておいて極楽に連れていく。これはひじょうに共通です。歪(ゆが)んでいるといえば、歪んでいて共通しています。こんな歪(ゆが)みが自然発生で、ユダヤとガンダーラに同時発生したと思いますか。どうもわたしは、それはないのではないか。両者にどこか繋がりがあるのではないか。このようにピンときた。これも詳しく言えば毎日のように新発見があり、経過を話せばおもしろいが、簡単に結論にいきます。
荘厳経・三十六願経、大無量寿経には、四十八願経がありますが、これは発展につれて数が増えてきたので、その前は三十六願だった。その二十七願に女人成仏がある。これに対し議論はいろいろありますが、かんたんに結論にいきます。
荘厳経 三十六願(読みは一例。)
二七願・・・若シ女身ヲ厭離スル有リテ、我ガ名號ヲ聞キテ清浄心ヲ發シ帰依シ頂禮セン。彼ノ人命終テ即チ我ガ刹ニ生ジ男子ノ身ト成リテ悉ク皆阿耨多羅三藐三菩提ヲ得シメン
これは完全に女が男に化けてというわけです。その前の二十四願経・大阿弥陀経、ここの二番目。だんだん古いほうに遡(さかのぼ)っている。ここでも「女人アリテ」とあり、女が登場している。
ここでも女が男に化けて救われる。それでなければ、わたしひとりだけが、仏になることはしない。こういう請願です。
大阿弥陀経 二十四願経 (部分 読みは一例)
第二願 ・・・女人アリテ我國中ニ生セント欲スル者ハ、即チ男子ト作サン・・・
だから、その前の二十四願経・大阿弥陀経で、すでにこの考え方は出てきている。ところが、その前の同じ二十四願経でも平等覺経には、それがない。代表的なものを、そこにあげておきました。
平等覺経 二十四願経(部分 読みは一例)
六、我作佛セン時、人民我ガ國ニ来生スルモノ有ランニ悉ク徹視セザレバ、我作佛セジ
七、我作佛セン時、人民我ガ國ニ来生スルモノ有ランニ悉ク他人ノ心中ノ所念ヲ知ラズンバ、我不作佛セジ
八、我作佛セン時、我ガ國中ノ人民悉ク飛セズンバ、我不作佛セジ
九、我作佛セン時、我ガ國中ノ人民悉ク徹聴セズンバ、我不作佛セジ
十、我作佛セン時、我ガ國中ノ人民悉ク愛欲有ラバ、我不作佛セジ
六願、何でもものを見通す力がある。これが人民になければ、私だけ仏になりたくない。
七願、他人の心中のことが皆わかるようにならなければ、私だけ仏になりたくない。これは怖いですね。
八願、国中の人民が、皆空を飛ぶようにならなければ、・・・。これは無邪気ですね。オーム真理教であったでしょう。飛行の術。古代インドのヒンズー教の秘法の一つなのです。それがバックになっています。
九願、ことごとく徹聴する。千里眼とか、遠くのものを聴き遂げるようにならなければ、私だけ仏になることはしない。
十願、みな愛欲があるならば、私だけ仏になりたくない。愛欲がなくなればどうなるでしょうね。
とにかく無邪気といえば無邪気。素朴といえば素朴なものばかりが並んでいる。女を男に変えるという話はない。少なくとも二十四願の中には出てこない。ということは、最初はなかった。大阿弥陀経段階で、どこからか取り込んできた。これも大事なことは、さきほどの大無量寿経・四十八願経には、三十五願(女を男に返る)と同類の考え方はない。突拍子もなく、いきなり出てくる。大阿弥陀経・二十四願経でも、他につながりはない。そして平等覺経・二十四願経にもない。こうなると、どこか他から入ってきて大阿弥陀経段階で表れた。このように考えた。今はかんたんに言いましたが、ほんとうはどちらが先か複雑な議論があります。それは省略しまして問題の焦点から言えば、このようになる。
それに対してトマス福音書には背景がある。つまりバイブルの創世記。アダムはイブの脇腹から作られた。変な造られ方をした。しかもその作られた方のため根性が悪くて蛇にだまされて、そしてエデンの園のリンゴを盗んで食べて楽園を追放された。
これも横道にそれますが、蛇は本来バイブル成立以前の中心的な神様です。トルコへ行きますと、今でも薬局は蛇の看板がかかっている。蛇はすべての病をなおす霊能力がある偉大な神様です。多神教の時代には。それを悪者にしたのがバイブルです。バイブルはあたらしい。それまでの永らく神聖な蛇を悪者にすることによってバイブルは始まっている。『古事記』『日本書紀』で、蛭子(ひるこ)を悪者にしているのと同じです。
とにかくユダヤの教養では、女は楽園を追放されたということに成っています。だからイエスが、福音を信じるものはすべて救われる。そうと言えば、おかしいよイエス。女は楽園を追放されたのに、おまえの権威ぐらいでは救われるはずはないかという反論が出てくる。万人が万人出るわけです。それに対して、この解答は、(わたしは)男を女に変える力があるのだ。そういう変わった解答です。この変わった解答には理由がある。これも毎日考えた、ハッと出たことをつなげて言っています。
この間アレキサンダー展が神戸と東京で年末までありました。そこでご覧になった方は、おそらく記憶にあると思うのですがアテネの女神。美しい姿で横たわっています。まことに皮膚から顔から腰から美しい女神です。ところが後ろに回るとなんとお尻からオチンチンが出ている。男性の生殖器が出ている。両性具有像という説明がついていました。その時は、アッと思って帰りましたが、後から考えると正しい説明ではないですね。両性具有というなら前から見たらアテネやヴィーナスの女神ですが、裏へ回ったら筋骨隆々たる男性であれば両性具有という説明になる。あの像はそうではなくて九五パーセントは女で、そこへ男性の性器オチンチンが生まれたというものです。これはギリシャ神話にバックがある。
さらに、これには水野さんからおもしろい資料を送ってもらった。ギリシャ神話、あれは最終に終結した神話の姿です。その中にギリシャ以前の神話が包まれているというか皆取り込まれている。考えてみれば得な神様、損な神様、いろいろな神様がいる。初めから地球を持って支えている損な役割の神様が、初めからいるはずがない。あれは輝ける主神だったのが支える部族が戦争に負けたから、その神もまた損な役割を負わされた。かんたんに言えば、その一例になる。
もう一つわたしが見つけた例を言いますと、太陽の神アポロは、車に乗ってオリンポスへ向かうではありませんか。ところがアテネから太陽の神アポロは北へ向かって行くことになる。アテネからオリンポスは北ですから。ところがギリシャでは太陽は北へ向かうのか。そんなことはありません。アテネに行ったことはないけれど間違いなく、太陽は東から西に向かいます。これではアポロは、オリンポスへ行けません。ところが、どこからオリンポスに行けるか。トロヤです。地図を見て驚いた。実在のオリンポスの山はトロヤの真西です。だからトロヤの上の太陽は間違いなくオリンポスに向かう。トロヤの真東の山のほうはクルド人のいる山岳地帯。クルドから太陽が出る。だから間違いなくクルド人の神話とかかわりがある。だからトロヤの神話とクルド人はかかわりを持っている。それをギリシャが盗んだ。今のところ、そのように考えています。だからギリシャでありえない話が、トロヤでならありうる話となり、ギリシャ神話に取り込まれている。
元にもどり、男性の生殖器がついた女神という今の問題で言えばおもしろいことがある。アテネの神はトロヤの神とイコールである。同じである、合流したらしいという説明を水野さんがインターネットで探してくださった。これがトロヤなら何かといいますとアマツオーネ・女性戦士。どんどん時間がなくなっていきますが、アマツオーネの話はトロイ遺跡を発掘したシュリーマンのウィークポイントであると見ています。シュリーマンによるとイリヤッドを少年時代から信じて、トロイ遺跡を発掘した。それならイリヤッドをきちんと読めば、あのイリヤッドの大前提は、トロヤとアマツオーネとの戦いなのです。それでギリシャ軍が押し寄せたのを見て、「これだけの大軍に囲まれたのを見たのはアマツオーネと戦っていらいだ。初めてだ。」というトロヤの王が語る言葉が出てくる。だからあのトロヤ戦争が事実なら、アマツオーネとの戦いもリアルだ。わたしはそのように考えます。ところがなぜかシュリーマンは知らない顔をして、ふれていない。わたしは黒曜石を見て、南トルコの博物館で大変大きな黒曜石が展示してあるのを見てそう思いました。もちろんこれは実用ではなくて権力のシンボルですが。それはもちろんアマツオーネ・女戦士の勢力、黒曜石の文明が実在したのだ。それを滅ぼして金属器のトロヤ文明が取って代わった。そのように理解しています。それはともかく、今回はそのアマツオーネとアテネが合流したのだという説が書いてある。アマツオーネは女だけれど、男の性格を持っている。それをシンポライズしたのが、女神であるけれども男の生殖器が付いてあるという素朴な像になっている。今のところ資料によって考えただけですので確認は必要ですが。基本的には女に男の生殖器が付いてあるという淵源(えんげん)はあると思う。もちろんこれはイエスなどより、もっともっと古い。しかし今アレキサンダーの大遠征は、アレキサンダー展で示されたギリシャの石像がインドガンダーラの石の仏像に表れている。
キュウピットのような羽が生えた子供が弓矢を持っている。あれがギリシャではアテネの女神の頭の上に来ている。それで心臓を射ると恋をするという。それと、まったく同じ格好をした子供が、今度はガンダーラでは羽の生えた子供が仏さんのところに飛んでくる。その場合はまさかお釈迦さんに恋をしているわけではないでしょうが。ですが形は同じです。ギリシャでは足にまとわりついている神様もいて、それもやはりガンダーラの仏さまと同じです。同じようにお釈迦様にまとわりついている。それを展覧会で見せていただいたが、明らかに両者関係がある。とうぜんギリシャのほうが古い。紀元前三百年・四百年段階ですから。ガンダーラは紀元後、三世紀ですから。矢印は完全にギリシャからガンダーラです。理屈抜きでわかるように最後の部屋まで展示してあった。しかしこれは、形の上です。
今度は思想内容です。今のようにトマス福音書はリアルである。創世記をバックにして、しかもこのイエスはヘレニズムの影響を受けている。いまのキリスト教聖書学では、イエスは神様です。神様はヘレニズムの影響を受けるなどは考えられない。わたしにはキリスト教聖書学は関係しない。わたしはイエスはすばらしい人間です。わたしの大好きな青年です。イエスの時代はアレキサンダー以後です。とうぜんヘレニズムの影響を受けている。またヘレニズムの影響を受けていなければ、おかしい。
一方ユダヤ思想、一方ギリシャ思想と学校では習ったけれども、わたしも教えたけれども、実際はヘレニズムの影響を受けているイエス以外にはありえない。その影響を受け入れないイエスというものはありえない。ところが今のトマス福音書はヘレニズムの影響を受けていることが出ている。
結論から言えば、このトマス福音書がガンダーラに浮上した。しかも、それを裏付けるトマスという人の伝記がある。トマスはイエスの弟子ですが『トマス行伝』という伝記がある。この人はユダヤから奴隷に売られる。奴隷と言っても大工・技術奴隷です。大工と言っても、中近東の大工は石工です。北インドの金持ちに買い取られて行った。そこで宮殿を造るのに頑張って王様に気に入られた。そこでトマス福音書を元にしたキリスト教の布教をした。それから、そのあとは南インドの金持ちに買い取られて、南インドに行った。そこで死んだ。ところが現在、南インドに小さいけれど強固なキリスト教の教団がある。場所も荒井献さんが書いておられるから行けばわかる。その教団の開祖はトマス。もちろんほんとうの開祖はイエスである。ですがイエスを神として、開祖はトマス。トマス教団というのが、現在もある。凄(すご)いですね。
そうすると理屈の上で、トマス福音書がガンダーラに浮上し影響が表れたと言いましたが、この『トマス行伝』のトマスの動きと一致している。
この問題については、聖書学者はわたしのように簡単にはいかない。だって『聖書』がぜったい正しいというところに到着しないと困るからです。それから外れると大騒ぎです。わたしのほうは関係ないから、反キリスト教親キリスト教関係なく、あくまで論理の導くところに従っているわけです。まだ研究のさ中ですから六月にも、お話できると思います。どうもありがとうございました。
質問一 オロチとアイヌのオロチョンとは、何か関係がありますでしょうか。
<今回は略>
質問二 『日本書紀』では物部麁鹿火が勝ったら西日本はやるよという話でしたが、話では勝ったような話でしたが、結論では物部麁鹿火にどこそこの領土をやるという記録もない。普通に考えれば、後世読んだ人は疑問に思う。それがそのまま書いてあること自体が良くわからない。それを疑問に思うのですが。どのように理解されていますか。
回答
これは言われたとおりです。『失われた九州王朝』でも扱いましたが、書き方そのものに、書き手や編者自身の気持ちが表現されているのではないか。これを見てもらえば、おかしいことがわかるでしょ。そういう謎(なぞ)かけですね。『万葉集』でも、そのようなことを『壬申大乱』(東洋書林)でも扱いましたが、同じような『日本書紀』の編者自身から見た読者への謎(なぞ)かけ、読んだ人に対しての謎(なぞ)かけがあったのではないか。あれが本当なら糟屋屯倉(かすやのみやけ)だけ、もらっても無意味です。糟屋屯倉は九州全体の百分の一部ぐらいですから。そこだけもらって満足する。あれだけ完勝して、それだけとはおかしい。あの話はそれだけを見ても、既におかしい。そのように書いた人から読者に告げようとしていた。それを明治以後の天皇家中心主義は、それをかまわず信じてきた。だからもしなんらかの実体があるとすれば、糟屋屯倉の問題が出るところを見れば九州の百分の一部ぐらいですから、朝鮮半島側へ行く通路ですから近畿天皇家に対して朝鮮半島へ行く基地として使用を認める。そういうことは、あったかも知れない。そういうことを種にして、あのような話を作ったかもしれない。これはあくまでも想像でありまして、実際にそうであったと言うのは、それなりの証拠がいる。実際、糟屋屯倉だと言われるところに行きましたが、どうも近畿天皇家の痕跡というものはあまり出ない。むしろ屯倉というなら九州王朝の屯倉です。それを一度にまとめて書いてある。
継体の反乱(磐井の乱)の全体がおかしいというのは、今まで全体がおかしいと思わずに今まで来た。
質問三 磐井の乱ですが、今まで継体の反乱と理解していました。それで質問なのですが継体が死んだ年と朝鮮の記録との時期のずれ、そのあたりはどのように理解したらよいのでしょうか。
回答
これも大事な質問です。
継体紀の最後に、「日本の天皇及び皇子、倶に崩薨りましぬといへり。此に由りて言へば、辛亥の歳は二十五年に當る。後に勘校へむ者、知らむ」という百済本紀の記事があります。
今考えてみますと、『失われた九州王朝』『古代は輝いていた 三』などを書いた人間として、間違いというか論理の飛躍があったと、今は考えています。結局百済側が伝える事件があったことは間違いがない。あそこに干支も書いてある。それも間違いがないと思う。ですがそれが磐井であるという証拠はない。磐井以外のケースで、そういう問題が起きえたケースがあったか。たとえば倭の五王。上表文のところで、悲痛なことを言っています。父が亡くなった。兄が亡くなった。自分が頑張らねば、そのように言っています。そのような背景に、この事件があっても不思議ではない。そういう目で、もう一度再検討したらよい。磐井にこだわらず、いったんこの事件を保留して、もう少し時間帯を自由に動かしてみたらどうか。六十年単位に動かしてみたらどうか。動かせば、何か引っかかるかところが見つかるかも知れません。大事な保留問題と考えています。
質問四 質問と解答(略)
質問五 (白村江の戦い以後)唐の軍隊が進駐した後など、その痕跡があるのではないか。雰囲気も含めてお気づきの点があれば教えてほしい。
回答
これをわたしが最初に感じたの土堤です。太宰府から有明海に向かって巨大な土堤が造られている。幅が五・六メートル、広いところはもっとある。高い土堤が造られている。それが何を意味するかは今のところわからない。結局潅漑のためとか、水害のそなえであるとか、いろいろの説があるがもう一つハッキリしない。それについて佐賀県教育委員会に電話すると幸いなことに徳富さんという方が出られた。この方は、この土手の問題について論文を書かれた専門の研究者だった。さっそく御自分の論文「肥前国三根郡の交通路と集落」(古代交通研究六号、一九九七年六月、徳富則久)と佐賀県教育委員会の資料を送って頂いた。堤土塁跡(県指定遺跡)となっている。この方はどうも軍事用のものではないかと書いておられる。それは納得できると、わたしは考えています。しかし、それは全体がつながっていない。太宰府近辺は、ちょんぎられているというか道路が途中で終わっている感じです。あれも唐の軍隊が来て、壊したと考えた一つの例です。
もっとハッキリしているのは太宰府。あれが太宰府の遺跡だと現在展示してありますが、名前は朱雀門とか、紫宸殿とか、大裏とかの名前が点々と残っている。あれは今の太宰府には、ありうる名前ではない。天子の都にしかありえない名前です。きちんと残っています。それらの名前は残っていますが、太宰府遺跡としか扱っていない。しかし実は、あれは朱雀門遺跡、紫宸殿遺跡、大裏遺跡として扱わなければならない。それが破壊されて太宰府だけであるという形に残されているのではないか。今のところ、そのように考えています。
そのように唐の軍隊が来て滅亡させた証拠というのは言い過ぎですが、痕跡とおぼしきところと考えています。神籠石もそうです。
その他にも、これは古賀さんが詳しいですが、築後川流域でもかなり堤防や堀のようなものを造って壊された痕跡がある。また何の目的で作られたかわからない巨大な溜め池が、あちこちにある。従来は九州王朝という概念がないので意味不明なのです。しかしそれらを九州王朝という立場から、もう一度調べ直してみれば説明がつく。今のところ、そう考えています。
日時・・・二〇〇四年一月十七日(土)
場所・・・大阪市北区・北市民教養ルーム
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第四章隣国史料にみる九州王朝 一磐井の「反乱と滅亡」(『失われた九州王朝』) へ
制作 古田史学の会
著作 古田武彦