三百三番の歌 「名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は」へ
古田武彦講演会 二〇〇一年一月二〇日(日)(午後一時から五時)
於:大阪 北市民教養ルーム 講演 続・天皇陵の軍事的基礎・その他
後一〇分で、大きな問題を簡単に申し上げます。
柿本人麻呂が瀬戸内海で作った八首の歌の七番目の歌です。これが問題なのです。
『万葉集』巻三
柿本朝臣人麻呂の覊旅の歌八首
(二百四十九番)御津の崎波を畏み隠江の舟公宣奴嶋尓
(二百五十番) 玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ
一本云
処女を過ぎて夏草の野島が崎に廬りす我れは
(二百五十一番)淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す
(二百五十二番)荒栲の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行く我れを
一本云
白栲の藤江の浦に漁りする
(二百五十三番)稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ
[一云]
[水門見ゆ]
(二百五十四番)燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず
(二百五十五番)天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
[一本云]
[家のあたり見ゆ]
(二百五十六番)笥飯の海の庭よくあらし刈薦の乱れて出づ見ゆ海人の釣船
[一本云]
武庫の海船庭ならし漁りする海人の釣船波の上ゆ見ゆ
それで二百五十五番を見て下さい。
あまざかる,ひなのながちゆ,こひくれば,あかしのとより,やまとしまみゆ,
(読み下し分)天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
(原文) 天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見
この七番目の歌、従来の解釈、契沖・真淵から、現代の澤瀉さん・犬養さんまでに至るまで、一〇〇%どう解釈されてきたか。「天離る鄙の長道」、これは広島県や岡山県のあたりの海岸部を言うのだろう。「明石の門」とはもちろん明石海峡のことで、「大和島 倭嶋」は奈良県の大和(ヤマト)を指す。なぜ「(大和)嶋」かと言いますと、今の大阪府と奈良県の境の金剛・生駒・葛城山地、金剛山が一一〇〇メートルぐらいの高さ、その他二上山や生駒山など五百メートル前後の山がありますが、それが島のように見えたから「島」であり、その向こうに「大和」が存在するから「大和島」と歌ったのであろうと書いてある。どの万葉の本を見ても、一〇〇%そのように書いてある。
私は、私の単純な頭脳ではどうしても頷けなかった。たとえばなぜか。
私は広島県三次盆地で少年時代育ちましたが、あの頃、中国山脈が見えました。中国山脈の向こうには出雲があります。そうしますと広島県の人は、中国山脈を「出雲島」と言いましたか。聞いたことはない。逆に出雲の人は、中国山脈が見えますが、その向こうには広島県・安芸や岡山県・吉備があります。出雲の人は中国山脈を「安芸島」や「吉備島」と呼ぶのですか。これも聞いたことがない。出雲の場合は特に、『万葉集』や『古事記』に出てきますが、そういう言い方が出てきましたか。これも聞いたことがない。それに日本アルプスとしますと、東海や北陸の人は、日本アルプスを「信濃島」と呼び、「東(あずま)歌」が出てきますが、それを「信濃歌」と呼んでいた。そんな例がありますか。私は見たことがない。このような理屈は第一日本語としても成り立たない。現代日本語でも、そのようなことを呼び方はしない。そんな例はないけれども人麻呂だけは、特権があるのだ。人麻呂だけはそう読んで良い。そんな解釈は日本の中だけ。皇国史観に汚染された日本人だけが『万葉集』を読んでいるので良いようなものだが、日本の中だけ通
用する理屈であり世界では通用しない解釈ではないか。生意気なようですが私の理性では、そのように理解する。
それが決定的になりましたのは京大の図書館に行きまして、読んだりコピーしているうちに、明治以後の万葉学者がこまっている問題があることを知りました。契沖・真淵などは大づかみに解釈し、分かったことだけを注釈を加えるのでそれほど困りませんが、明治以後の万葉学者・武田祐吉さんや澤瀉久孝さんなどが困っている問題にぶつかった。特に澤瀉さんなどは一語一句を厳密に解釈しますので、その問題が浮上してきた。
何が問題か。今の一番目から八番目の歌は七番目の歌を除いて、すべて東から西に進んで行く。大阪湾の沖合いから兵庫県の姫路の沖合いの方向に進んでいく。進行方向はそうなっている。おおまかに言いますと、そうなっている。ところが七番目の歌だけ方向が逆です。つまり広島・岡山あたりから進んできて「大和島見ゆ」ですから、奈良県が見えるとなっている。ここだけ方向が逆になっている。
それで澤瀉さんなどは困りまして、どういう解決方法を探したかと言いますと、
「これは『万葉集』を編集する以前の歌集が存在して、その編者が間違えた。それを『万葉集』の編者がうっかりそのまま載せてしまった。」
そのように解釈してある。私はこれは駄目だ。そう思いました。
同じ手口がありました。『日本書紀』天智紀に「筑紫都督府」という言葉がある。この「筑紫都督府」という言葉を井上光貞さんや青木和夫さんなどは困ったようです。
なぜ困るかと言えば、「都督」という言葉、これは倭王が中国からもらった称号である。倭王がいる中心の官庁が「都督府」である。これは中国の歴史書の用例からみても例外はない。その倭王の中心の根拠地が筑紫にある。太宰府あたりにある。現在でもそこを「都府楼跡」と言っていますから。都督府跡を「都府楼跡」と言います。
それが『日本書紀』にあると困る。それで消しにかかった。どうやって消したかと言いますと、
「『日本書紀』の原本があって、その本が間違えた。それを『日本書紀』が、そのまま取り入れた。」
日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店)下
巻二十七 天智天皇 六年二月ー七年二月 三六六ページ
・・・
十一月の丁巳の朔に、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府*21
に送る。
三六七ページ
注二一 「筑紫太宰府をさす。原史料にあった修飾がそのまま残ったもの。」
『日本書紀』の下巻の注釈にそう書かれてある。初め何を言っているか分からなかったが、結局「これは駄
目だよ。」と書いてある。誰かうっかりした悪い人がいて、ありもしない言葉をうっかり書いた。それを『日本書紀』がうっかり再写
してしまった。こんなやり方が通ったら、これは学問ではない。井上さんや青木さんに悪いですが、私はそう思う。こういうかたちで書いてあるものを消すということは、基本的にしてはいけない。私はそう考えますが、おそらく皆さんも基本的に賛成していただけると思う。これを認めたら自分の説が、がらがらと崩れていく。やはり頭の良い人たちですから。そういうことは分かっている。
私の方はぜんぜん困らない。九州王朝という前提で考えればやはりそうでしょう。何の不都合もない。それに中国の歴史書にも「都督」とありますからきちんと合うでしょう。
同じやり方を京大名誉教授の澤瀉さんが採用した。ここは誰かが間違った。それを『万葉集』の編者がうっかりミスで採用した。これは駄
目です。
それで結局すべての従来の全万葉学者が一致して採用した解釈、これにはノーと言わざるを得ない。生意気ですが、そう言わざるを得なくなった。
それでは何か。答ははっきりしています。いままで何回も言ってきましたが、これはほんらい「倭(ワ wi)」を、「筑紫(チクシ)」と読まなければならない。周りの人は「筑紫」を「ツクシ」、現地の人は「チクシ」と読んでいます。それが後に「倭(ワ
wi)」を、「ヤマト」と読むように変っていった。これがはっきりしているのは天武です。天武のアイディアで「倭(ワ
wi)」を「ヤマト」と読むように『古事記』を作った。それをさらに『日本書紀』は拡大した。
その証拠に金印にでてくる「委」、人扁はありませんが「倭」です。これも絶対に「ヤマト」とは読めない。博多湾岸を指す「チクシ」です。
『古事記』ですが、大国主命が、「出雲國より倭國に上りまさむとして、・・・大國主神、胸形(むなかた)の奧津宮に坐す神、多紀理毘賣命を娶して・・・」そういう表現が出てくる。これを「ヤマト」と読んだために本居宣長が非常に困っている。ところが「倭(チクシ)」と読むと問題はなくなる。(対馬)海流を上がって行きます。それに宗像(むなかた)の祭神である天照大神(あまてるおおかみ)の第三女である多紀理毘賣命と会うために行くわけですから、とうぜん彼女は筑紫(チクシ)にいる。この『古事記』の「倭」も「チクシ」とよぶべきである。
またお隣の韓国の歴史書『三国史記』に脱解王の卵の話。最初に出てくる「倭国」という字も、多婆那国が倭国の東北一千里にある。この「倭国」も博多湾岸の筑紫と見なければ解決がつかない。これは志賀島の金印と、同じ時期の新羅の王者の話です。以上述べた話は皆さま、よくご存じだと思いますが、これもプロの学者が知らない振りをして反対も賛成もせずにいた。 三百三番の歌 「名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は」へ 論文 (人麿の命運) に戻る ホームページに戻る 新古代学の扉インターネット事務局 E-mailは、ここから。 Created & Maintaince by "Yukio Yokota" Copy righted by " Takehiko Furuta "
それでこの二百五十五番七番目の歌の「倭」を、「ヤマト」と読んだら、どうしてもおかしいアンフェアな操作をしなければならない。うっかり紛れ込んだと言ってみても、山の頂上を向こうの国の名前を取って「大和島」と呼ぶというグロテスクな解釈は動きようがない。
これは何かというと、「倭(わ wi)」は「筑紫(ちくし)」である。
人麻呂は近江に行っている。有名な近江の長歌がある(二十九番)。これは近江であることは、内容から言って間違いありません。ですから近畿にいたことは明確である。それから九州・筑紫(ちくし)の方へ帰っていく。
ここで倭(わ wi)を「大和(やまと)」と読んだ場合でも、現在の奈良県だけでなく、大和(やまと)を中心にした広い範囲の近畿を「大和」と呼ぶ用法があります。さらに最後は日本全体を「大和(やまと)」と呼ぶ用法があります。
同じように筑紫(ちくし)を福岡県だけでなくて、太宰府のある筑紫(ちくし)を原点にして、同じように倭国の領域全体を「倭(チクシ)」と呼んでいる。瀬戸内海の島全部です。そうすると淡路島も倭の島、家島も倭の島。小豆島も四国も、もちろん九州も倭の島。倭の島々。それが見えてきた。
『万葉集』巻三 二百五十五番
あまざかる,ひなのながちゆ,こひくれば,あかしのとより,ちくししまみゆ,
(読み下し分)天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より倭(チクシ)島見ゆ
(原文)天離 夷之長道従 戀来者 自明門 倭嶋所見
滋賀県・近江の方からから帰ってきて、いよいよ明石海峡から、なつかしい倭国の島々が見えてきた。そのように理解すると何もおかしくはない。
淡路島、家島、小豆島、四国、そして九州も島ですから。それを島と読んでいる。単数・複数は日本語は同じであるから何の問題もない。しかも八首の歌全体の方角が同じですから。全体として東から西へ向かっている。ありもしない架空の犯人をでっち上げて、彼に責任を押しつけるという変なことをしなくとも済む。ですから「倭」は「チクシ」である。これは実に重大な問題です。
人麻呂自身についても、活動の中心が従来考えられていたような大和ではなく筑紫である。このような問題も出てきます。
それと今度は七世紀半ばになっても、人麻呂は「倭」を「チクシ」と呼んでいた。それでは「倭」を「ヤマト」と呼んだのは天武が初めか。それも問題になる。日本史を理解する上でも根本的な問題がここに出てきている。
もう一つ三百三番の歌でこの問題と対になる「大和島根 大跡嶋根」の問題がございますが、時間があれば懇親会の時に説明したい。時間が来たので終わります。