古田武彦講演 二〇〇〇年十一月十四日(日) 古田武彦と行く佐賀県吉野の旅
『万葉集』第二巻(岩波日本古典文学大系に準拠)
あみのうらに,ふなのりすらむ,をとめらが,たまものすそに,しほみつらむか
くしろつく,たふしのさきに,けふもかも,おほみやひとの,たまもかるらむ
しほさゐに,いらごのしまへ,こぐふねに,いものるらむか,あらきしまみを
伊勢國に幸(いでまし)し時、京に留まれる柿本朝臣人麻呂の作る歌
(四〇番)嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか
(四一番)釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ
(四二番)潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島廻を
(原文)
(四〇番)嗚呼見乃浦尓 船乗為良武 [女感]嬬等之
珠裳乃須十二 四寳三都良武香
(四一番)釼著 手節乃埼二 今<日>毛可母 大宮人之 玉藻苅良<武>
(四二番)潮左為二 五十等兒乃嶋邊 榜船荷 妹乗良六鹿 荒嶋廻乎
校異
(四一番) 日 [類][冷][紀->ナシ
(四一番)武 [類][冷][紀] -> 哉
これにつきましても従来の万葉学は、伊勢はもちろん三重県の伊勢である。「天皇が幸す」の天皇は、近畿の天皇である。持統天皇ぐらいですかね。都はもちろん奈良県浄御原(きよみがはら)あたりの明日香の都と理解している。人麻呂が都にとどまって、伊勢に行った天皇たちをしのんで歌った歌。そういう解釈を犬養さんであれ誰であれ、全てそういう解釈を行っている。ところが人麻呂はご存じのように、ほとんど近畿では歌を作っていない。人麻呂の歌の中で、天武や持統の皇子や皇女のために作った歌は、どの歌も天武や持統の皇子にかこつけた歌である。どの歌も天武や持統の皇子や皇女に首をすげ替えて取り替えた歌であって、実際は九州で作られた歌である。ここで「ほとんど」と言って全部と言わなかったのは、明らかに近畿で作った歌が一つはある。人麻呂の奥さんが亡くなった歌。それを嘆いている長歌が一つございます。これは明日香関係と考えられる地名がでてきますので、これは人麻呂がまちがいなく明日香で作った歌だろう。そのように理解している。
従来は人麻呂はつねに近畿にいて、各地に行ったと考えられ、奥さんも明日香で亡くなったと理解していた。しかし全体として人麻呂が作った歌は、大和で作った歌ではない。九州で作った歌である。そういう思いがけない到達点にたったのです。その点は論理的にそうなったのですが、これから述べる歌でも裏付けされると思います。
ただ明日香に行ったことは当然あるわけで、奥さんと一緒に行った。奥さんは明日香で亡くなった。だから人麻呂にとってはあまりよい記憶の場所ではなかったと考えられる。そう理解しますと、『日本書紀』天武・持統紀に、全く人麻呂がでてこないということと合致します。
そのように考えてみますと、論理的にこの「京(みやこ)」が、奈良の明日香京であるはずがない。伊勢の国に幸した天皇も、近畿天皇家の天武や持統であるはずがない。すると、この京はどこか。九州太宰府・紫宸殿、あるいは曲水の宴や正倉院のある今の筑後川流域。筑前から筑後にかけての領域を「京(みやこ)」と言っている。そういうことに論理的になってくる。
そうなりますと、この歌は九州王朝の天子が、太宰府から伊勢に出かけた歌になり、人麻呂がそこの留守役をしている時に読んだ歌になります。
そうしますと例の中皇命(なかつすめらみこと)。三番目の有名な狩の歌の中皇命、また彼と奥さんとの歌が七・八・九番目の歌に出てくる人物です。後の歌は太宰府から伊勢に行っている。途中に御夫妻が紀ノ湯(白浜温泉)に逗留して、それから伊勢に真珠を拾うのを楽しみにして伊勢に行った。これからのべる歌も、その中皇命が伊勢に行ったときの歌と考えるのが一つの筋道でございます。しかし中皇命が、いつの時代の人か分かりません。つまり人麻呂が若いときに生きていたかどうか分かりませんので、もしかしたら中皇命以外の九州王朝の天子、筑紫の君薩夜麻などが伊勢の国に行ったというケースも可能性もなくはない。そのあたりは考える材料が少なくて決定はできませんが、論理的に理解すると九州の太宰府の京(みやこ)と考えざるをえない。そうしますとこの歌で伊勢の国に行ったのは九州王朝の天子と考えざるをえない。
(この問題の証明は、『古代史の十字路』(東洋書林) ー万葉批判ーをご覧下さい。)
(四〇番)嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか
(四十一番)釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ
(四十二番)潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島廻を
それでこの歌をみますと、歌としては非常に若々しい歌です。歌としては色彩感のある、はなやかな宮女たち・乙女たちの姿を想いみて歌っている歌です。
私が前回述べました二百三十五番「皇は神にしませば天雲の雷の上に廬らせるかも」の歌のように荘厳でない。私の理解によればゲーテも及ばぬくらいの超一流の歌人としての歌の深さをもっている歌と、歌の深さが大分違うような気がする。極端な言い方をすれば、華やかさを歌って満足しているような気がしないでもない。
その時に注目されるのは、天子と同伴した宮女たちの中に、人麻呂の恋人がいるようですね。
三番目の歌「潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島廻を」を見ますと、ここに「妹(いも)」という言葉が出てきていますように、どうも一般の女性を指すにではない。どうも、この「妹(いも)」は人麻呂の恋人か奥さん。それを指す言葉です。そうすると人麻呂の奥さんが九州王朝の后の女官になっているという問題が出てきます。
実はこれを裏付ける歌があります。この裏付ける歌については、東京で急ぎ足でお話ししたことがございますが、もう一回説明させていただきます。
『万葉集』第四巻
をとめらが,そでふるやまの,みづかきの,ひさしきときゆ,おもひきわれは
なつのゆく,をしかのつのの,つかのまも,いもがこころを,わすれておもへや
たまきぬの,さゐさゐしづみ,いへのいもに,ものいはずきにて,おもひかねつも
きみがいへに,わがすみさかの,いへぢをも,われはわすれじ,いのちしなずは
柿本朝臣人麻呂の歌三首
五〇一番 娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我れは
五〇二番 夏野行く牡鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや
五〇三番 玉衣のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来にて思ひかねつも
柿本朝臣人麻呂の妻の歌一首
五〇四番 君が家に我が住坂の家道をも我れは忘れじ命死なずは
原文
(五〇一番)未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者
(五〇二番)夏野去 小<壮>鹿之角乃 束間毛 妹之心乎 忘而念哉
(五〇三番)珠衣乃 狭藍左謂沈 家妹尓 物不語来而 思金津裳
(五〇四番)君家尓 吾住坂乃 家道乎毛 吾者不忘 命不死者
校異
五〇一番 [西] 謌 [西(訂正)] 歌
五〇二番 牡 -> 壮 [金][紀]
五〇四番 [西] 謌
(五百四番)
柿本朝臣人麻呂の妻の歌一首
(后の館から)私の住んでいる家に帰る坂道で、あなたと逢ったときのことは、片時も忘れることはありません。私が生きているかぎり。
この五百四番の歌は少年時代というか青年時代の初め頃から大変好きな歌です。普通の解釈では「きみ」は人麻呂のことである。女が「きみ」と言っているのでしょうから。注にもそう書いてありましたから。
人麻呂が住んでいる家にわたしが、その人麻呂が住んでいる場所を住坂と言うのでしょうが、あるいは地形が坂になっているか地名を住坂(墨坂)と言うのでしょうが。その住坂の家路をも、私は忘れはしない。命が絶えることがない限り。生きている限り。
短いけれど、その女性は歯切れが良いというか、大変情熱が激しいというか、女の人とはこのようなものか。女の人を良く知らないままに、この歌を読んでいて情熱を燃やしていた記憶があります。
ところがこの歌は万葉学では大変困った歌である。何が困っているかと言えば、この歌の理解では、人麻呂の家に奥さんが住んでいるように見える。
ところが当時の風習として、それは当時有り得ない。当時の風習としては、女が住んでいるところへ男が行く。昼訪問するか、夜訪問するか分かりませんが。行きまして、そしてそこで女性が了解すれば男女の間柄を結んで、セックスもするかも知れませんが。とにかくちぎりを結ぶ。そして男が帰っていく。それが七・八世紀の習わしである。 他の万葉集の歌も、全部その形で歌われている。それを、ここだけ女の人が、男の家に押しかけて行って男の家に住み込んでいる。これはない。それが、万葉学の常識である。それで困っている。岩波古典大系だけを見ましても、上の注釈でも困っているし、関連する注釈でも困っている。<補>の注釈でも困っている。
岩波古典文学大系の注の一つを、挙げておきます。
504 君が家にわが住坂ー「君が家に」は住坂を導く序。住坂は奈良県榛原町。藤原京の東方。ただし君が家にわが(女)住むというのは当時の習俗に反する。君は吾の誤り。吾は君の誤りではあるまいか。→補注。○死なずはーズの下のハは常に清音。 [大意] 住坂の家道も(あなたのことも)私は忘れまい。生きている限りは。
そのように書いてある。この万葉集の注釈を見てみますと、「次の補注を見よ。」と書いてある。その補注を見ると、又「次の補注を見よ。」と書いてある。次々書いてあるが、結局この注釈にたどり着く。
それで例によって古写本が間違っている。元暦校本・西本願寺本、全写本まちがい。ここは徹底した間違いで、「キミ」は「ワレ」と間違っていて、「ワレ」は「キミ」と間違っている。これなら良い。たとえば「我が家に君住坂の家道をも我れは忘れじ命死なずは」。しかしそこまで直すと、古写本の面目はまるつぶれだ。どの古写本にもない。どの古写本にもないものを、現代の学者が自分の理論に従って、自分の理論に合うようになおす。無茶をやっている。契沖・真淵いらい、みんな困っている。私が少年時代から好きだった歌が、そんなに複雑だったとは思いもしなかった。
しかし私の現在の立場からみると簡単な歌である。
『隋書』イ妥*国伝
・・・王妻號鷄*彌後宮有女六七百人・・・
王の妻を鷄彌(キミ)と称し、後宮の女六七百人有り。
イ妥*:人偏に「妥」で「倭」とは別字
鷄*:「鷄」の正字で「鳥」のかわりに「隹」
例の隋書イ妥*国伝を見ていただくとお分かりと思います。九州王朝では、「キミ」は奥さん・后を指す。男性の方ではない。「ワガキミ」の方は男性の天子の方を指す。その奥さん「キミ」の周りを女六・七〇〇人が取り巻いている。(後宮というのは中国人の解釈です。)
ですから、その言葉を元にして考えれば、「君が家に」の「君(キミ)」は女六・七〇〇人にかこまれた「奥さん・后(きさき)」を指す。そうするとこの場合「家(ヤ)」というのは、その后が住んでいる「家」ではない。なぜなら女六・七〇〇人が一緒にいますから。后が住んでいるのは「館」と言うべきものです。当然のことながら「キミ」という后も含めて女六・七〇〇人が一緒に住んでいるわけではない。第一そんな大きな館はありませんから。その館を取り巻いて、とうぜん小さな家がたくさんある。そこに住んでいる。その家を、館ではなく「君が家」と言っている。そう考えました。
その「君が家」は「我が住坂」にある。これは何を意味するか。つまり人麻呂の奥さんは、九州王朝の后を取り巻く女官の一人ではないか。人麻呂の妹(いも)は、后を取り巻く女六・七百人の一人。そういうことになる。
ですから自分が「君が家」に住んでいたとき、その家路を帰っていく坂道で、わたしはあなたと会った。わたしはあなたと、あそこでお会いしましたね。そのお会いした家路のことを私は忘れることはありません。私が生きているかぎり。
従来の万葉学ではどうしても解けなかった問題が、このように理解すると簡単に解ける。従来の万葉学では大幅に入れ替えをするという無茶苦茶なことをしなければ解けなかったものを、九州王朝の立場にたつと簡単に解けてくる。これは私は無視できない問題だと考える。
以上でそうしますと人麻呂の奥さんは九州王朝の后の女官であったという問題が出てきます。その考えで五百一番以下の前の番の歌も、すらすると解ける。
をとめらが,そでふるやまの,みづかきの,ひさしきときゆ,おもひきわれは
(五百一番)娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我れは
唐津であの見送られたあの時、あの時から久しく、あなたのことを忘れずにいましたよ。
これも私の見た範囲の解釈では、フルという字をかけて有名な石上(いそのかみ)神宮、そこで作った歌だと解釈している。注釈にもそう書いてあるから、私も今までそう思って読んでいた。有名な石上神宮は奈良県天理市布留(フル)にあります。ところがよく読んでみるとおかしい。なぜおかしいか。地名は「フル」というところかも知れませんが、袖を振っている山の上の水垣。しかし石上神宮は山の上ではありません。平地ですよ。それもおかしいし、それから水垣。垣根は何処にでもあるでしょうが、そこで乙女らが袖を振っている。これは「未通女 娘子ら おとめら」、複数ですよ。独身の乙女たちが複数・多数、いっせいに袖を振っている。そこで人麻呂は自分の妹(いも)に会った。自分の妹(いも)は多数の乙女、その中の一人だった。そこで会っていらい、私はあなたのことを想い続けてきました。デートの場所として有名なところのように見える。そう言っていますが、しかし石上神宮は名だたる神聖な領域でして、そこでデートするとはとんでもない。皆さんは石上神宮へ行かれたかどうか分かりませんが、私は例の七支刀の件で何回も行きましたが、そんなところには見えない。第一そこで袖振りを行うところには見えない。それに石上神宮でしたら巫女さんたちでしょうが。独身の乙女というと巫女さんたちでしょうが、彼女らが人麻呂に一斉に袖を振ってくれたのでしょうか。いくら人麻呂が美男子であっても、そんな光景は想像できない。袖を振るという、そういう伝承もないし、行事もない。しかし従来はそういう解釈を行っていた。
それでは、おまえはそんな生意気なことを言っているが、別の解釈はあるのか。そう言われるかも知れませんが、おおありです。それは袖を振る場所として有名な名所が九州にある。ご存じ唐津。唐津は袖を振って別れていく名所として有名です。万葉集にも袖を振っているお姫さまが登場し、『万葉集』・『風土記』にもある。もし唐津とすると都合がよいのは、唐津は日本を離れる場所です。壱岐・対馬もありますが、そこは小さな島です。理屈を言えば九州も島ですが、本土を離れると意識しています。そこを去って行くところが九州唐津です。そこを去っていくとき別れを惜しむ。この場合、それもただ本土を去るのではない。もうお分かりでしょうか。つまり戦争に出ていく。つまり白村江での唐との戦いです。それについては申し上げましたが、船は有明海、佐世保湾、伊万里湾から出ていったと言いました。あの戦いそのものは海の戦いです。今の八月の終わりから九月の初めにかけてです。ところが一方の陸の戦いは前年の十二月から一・二月、真冬と早春に朝鮮半島で行われている。そこへ行くのには有明海・伊万里湾などから行った人はいたでしょうが、とうぜん主力は唐津湾から壱岐・対馬、そして釜山へと渡ったはずなのです。陸軍の主力は。そこへ出ていくとき唐津湾で見送った。神社があるので、そこの巫女たちも袖を振ったと思います。戦争に出ていく若い男たちを、見送ってあげる。そういう光景はたいへん自然な流れとして考えられる。単なるデートではない。袖を振られている方も人麻呂一人ではなく大勢の兵士の一人。
そのときに人麻呂はすでに、巫女の一人を見初めたわけです。そういう告白をおこなっている。そういう条件設定であると、この歌は非常にピッタリになる。それが奈良県の石上神宮だと、神域で複数でデートしているという非常にへんてこな解釈になる。
以上、奈良県の石上神宮だと状況がどうしても落ちつかない。と言うより全く合わない。生意気ですが従来の万葉学者が、よくも石上神宮に比定したと思います。ところが九州唐津湾に比定すると、一〇〇%合う。この場合おもしろい問題は、人麻呂が朝鮮半島にむけて兵士として出ていった。もちろん厳密に言うと、人麻呂が行ったのは対馬や壱岐に兵士として行ったのであって、人麻呂が朝鮮半島に行かなくとも良い。
なつのゆく,をしかのつのの,つかのまも,いもがこころを,わすれておもへや
(五〇二番) 夏野行く牡鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや
志賀島の志賀海神社、そこで打ち明けてくれたことを私が忘れることがあるでしょうか。決してありません。
この歌は、じつは今私たちが行こうとしている、そのままです。このコース(福岡市城南区堤にある難波池〜博多湾〜海の中道〜志賀島)にピッタリの歌です。
初めに「夏野」と書いてあるから、騙されてしまうのですが、発音が元で、字は当て字で書いてある。「夏」は「那ノ津」で、「ノ」を省いて「那津」です。野は野原ですから、今われわれが通っているところが「那津野(夏野)」です。
「牡鹿の角の束の間も」に関しては、志賀海神社に行きますと、入り口を入ったところの右手に倉がありまして鹿の角(つの)がいっぱいあります。今は束ねてかけてあります。もちろん鹿の角は雄だけです。もちろん志賀島(しかのしま)にも掛けているでしょうが、その「束の間」に対して、「那津野(夏野)行く牡鹿の角の」が序詞(まくらことば)になっている。つまり一瞬でも、あなたの心を忘れたことをありません。つまり二人が初めて文字どおりデートしたわけです。前の歌は乙女たちも多数ですし、独身の男が多いでしょうが男たちも多数です。多数と多数の中で、袖を振って兵士を見送った。その中の一人に人麻呂がいた。そして乙女たちの一人に、人麻呂が非常に心を惹かれた。
あの志賀海神社で妹(いも)、恋人が私に「あなたが好きです。」と自分の心を打ち明けてくれた。あの志賀海神社で打ち明けてくれたあなたの心を、私は忘れることがあるでしょうか。決してありません。そういう歌です。もちろん奈良県に持ってくれば、そういう理解は不可能です。
「夏野」を那ノ津・博多湾の野である。そういう考えにはずいぶん強引だと思われたでしょうが、「牡鹿の角」と言えば、しかし志賀島は「牡鹿の角」がある名所です。もちろん鹿の角(つの)は、それを使って占いをする神事の道具として志賀海神社はたくさん保存してあります。志賀海神社へ行ったかたは御承知ですが、「鹿の角(つの)」と言えば志賀海神社を忘れることはない。「牡鹿の角」と言えば、誰でも志賀海神社を思い浮かべる。私も「牡鹿の角(つの)」は志賀島とすぐに理解したのですが、「夏野行く」はどう理解したらよいかと困惑したが、ハッと気がついて那ノ津・博多湾を行くと理解した。
この場合細かく考えれば、「那津野(夏野)行く」というのは人麻呂と彼女。船で行ったかもしれませんが、博多湾をイメージして、行ったということを「那津野(夏野)行く」と言っている。そして次は、「牡鹿の角の束」。今鹿の角(つの)は重ねて倉庫にありますが、祭祀で使うときはそれぞれ束(たば)ねてあると思います。それを掛けたところの「束の間(つかのま)」です。
そこで打ち明けてくれたことを私が忘れることがあるでしょうか。決してありません。
人麻呂と彼女、二人が一対一の恋人として会って、二人の心を確認したのは志賀島の志賀海神社である。だから君が代神事を人麻呂は見ているはずです。
以上述べたように、従来の解釈とはまったく面目を異にして、しかし生々しい恋人たちの歌になる。
たまきぬの,さゐさゐしづみ,いへのいもに,ものいはずきにて,おもひかねつも
(五〇三番)玉衣のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来にて思ひかねつも
朝鮮半島の戦いの最中。沙井城のあたりで、もっと言っておけば良かった。もっと自分の心を打ち明けて話しておけば良かった。
「玉衣のさゐさゐしづみ」は「家の妹」にかかる枕詞(まくらことば)であるとよく言われています。但し意味不明と注釈で書かれています。ですから一旦後回しにしまして、「家の妹(いも)に物言はず来にて思ひかねつも」を先に論じます。
ここでは「家の妹(いも)」となっていますから、この場合は恋人でなく、奥さんです。家にいる妻、それと別れてくる。もちろん当然のことながら、当時の風俗として男が女の家に行って別れの言葉を言って去ってきた。「物言はず来にて思ひかねつも」は、物を言わなくて出て来たのを、今ここで大変残念だ、大変残念だと繰り返し思っている。「思ひかねつも」ここでは当然ながら、「行ってくるよ。」と云って出てきた。そういう簡単な別れではない。「物言う」というのは、いろいろ言う。あるいは自分の心の奥底を打ち明けるのが「物言う」である。だから「行ってくるよ。」と行って出てきたのだが、もっと自分の心を奥底の。いかにお前のことを思っている。どんなに離れていても、あなたのことを忘れないか。そういう自分の心の奥底を、そこをしっかりと言わずに出た。それを残念だ。残念だと繰り返し思っている。そういう内容です。ですからこれはただ一週間ぐらい旅行に出た。そういう話ではない。行ったら帰らないかも知れない旅行である。そう言えばお分かりのように、戦場に行く。もしかしたら船に乗って行ったかも知れない。とにかく戦場に向かって行った。その時離れて、あとで恋人に、もっとあれも言えば良かった。これも、もっと言えば良かった。しかしそれも、しっかりと言わずに出てきた。そういう後悔をしている時の歌である。この歌は人麻呂が戦場に向かっていくときの歌である。
「さゐさゐ しづみ」は従来の解釈では枕詞となっており、意味が分からないとされていますが私は分かりました。見つけて飛び上がった。
ー三国史記巻三十七 韓志(地理四)ー抜粋
安地 薩賀水 矛川 馬嶺
豆谷 骨句川 理勿林 車廻谷
閣中原 慕元 厳山 倭山
坐原 質山 故國谷 左勿村
・・・
・・・
閥彌城 石[山見]城 雙[山見]城 沙口城
沙井城 馬浦城 長嶺城 加弗城
獨山城 金[山見]城 角山城 松山城
それは『三国史記地理誌』に「沙井 サイ」があります。例の巻二百九十九番。高市皇子に対して壬申の乱の時、人麻呂が歌ったとされている歌です。その時見つけたものです。関ヶ原にも「倭山」がありますが、その岐阜県の「倭山」ではなくて、「高麗剣(コマツルギ)」と言っていますから、高麗(こま)の「倭山」。百済の王城を高麗城と呼びますから。百済の「倭山」。それを調べているうちに「沙井 サイ」が出てきた。私は朝鮮・韓国に、「倭山」があることは前から知っていた。朝鮮史の学者が困って誰も触れていない、敬遠している地名が「倭山」です。これを見ているうちにハッとした。同じ表に「沙井城」がある。もちろん日本にも「サイ」は一つや二つぐらいはある。しかし方角や状況がぜんぜん合わない。大分県にもありますが人麻呂の歌とぜんぜん結びつかなかった。ところが韓国・南朝鮮の中に、「沙井城」がある。場所は明確でないが、おそらく韓国の南の西の端とか、城がある一つの要衝であろう。ある場所に行くときは、必ず通
っていくような場所であると思う。ところが人麻呂はその地名を取って、自分の気持ちが落ち込んでいくことを「さゐさゐしづみ」と言っている。ですから韓国を舞台にすると「さゐさゐしづみ」が分かってくる。そうすると他の「さゐさゐ」がある歌も、それで話が通
じるように今見えています。
人麻呂が朝鮮半島に戦いに出て行く。沙井城のあたりで、あっ!、もっと言っておけば良かった。この場合には恋人でなく、奥さんになっている。ですから二回目の出陣でしょうか。もっと自分の心を打ち明けて話しておけば良かった。そういう後悔の歌である。
これも従来、人麻呂が朝鮮半島に出て行った。そのような理解がなかったので、そういう事実は計算には入ってなかったので、このような歌の解説はできなかった。しかし今述べた一連の理解から、この歌を理解するとすんなり理解できる。
それで一番先頭の歌四〇番に戻り、人麻呂を近畿から解き放ち、九州を舞台にして考えると次々と解けてくる。
こうなりますと九州王朝の天子が、伊勢に向かった。それを人麻呂が京で留守をしているというこの歌の理解も無理がなくなってきます。しかもこの場合、人麻呂は妹(いも)とは結婚していない。九州王朝の天子の妻の女官です。おそらく天子と妻が伊勢に行っているのでしょうが、それに女官として付いて行っている。それを追想して思いやっている。
そうしますとこの歌や『万葉集』第三歌の解釈も、無理がないことが分かる。初め『万葉集』第三歌の解釈で私は太宰府と言いだしたとき、この歌も初めは太宰府と伊勢と理解するのはしんどいなあ。そう考えていた時期がありました、今は困難な状況とは考えていない。逆に近畿明日香で留守役をしていると考えると困難な状況がでてくる。人麻呂が京で留守役で居る。そうすると持統や天武の時は、近畿天皇家では相当高位な人物である。しかしそうすると『日本書紀』には一切姿が表れないことの説明が付かない。「宮」を近畿明日香にすると、この説明を避けて通れなくなる。しかし人麻呂を基本的に近畿天皇家の人物ではない。生まれたのが九州かどうか分かりませんが、九州王朝の中で活躍した人物。しかも京(太宰府あるいは筑後)で留守役をしている。若かったでしょうが、それも人麻呂が京で留守役をしていれば、かなり高位
の人物となる。そういう形で理解していくと、『日本書紀』天武・持統紀に、一切人麻呂が出てこないということが、理解することができる。
一旦はここで終わります。
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