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英語版(THE JOMON LIGHT HOUSELighthouse Experiments and the Jomon language Furuta Takehiko) へ国際縄文学協会紀要第二号
古田武彦
一
日本の古代史上、最大の重点の一つ、それが今は忘れ去られている。すべての教科書にも扱われていない。縄文の遺跡だ。それは唐人駄場を先端とする、足摺岬周辺の巨石遺構群である。高知県の土佐清水市に属している。
なぜ、この遺跡が重要か。それはこの遺跡の地形上の位置にもとづく。日本列島に黒潮海流が激突する、その唯一の交点なのである。
日本列島は、もとアジア大陸の一部分だった。それが長期間かけて徐々にはなれ、やがて現在の位置に至ったとされる。それはまだ人類の生息せぬ時代だった。しかし、やがて人間がハバロフスク州など、黒竜江流域に住みはじめても、この列島との距離はわずかだった。今でも、冬には樺太(サハリン)との間を徒歩で渡れるという。当然、人間が大陸から渡来した。歩いて、あるいは舟によって。このルートは日本の歴史を考える上で決して見逃がすことはできない。
しかし反面、大陸からのルートと共に、大洋からのルートも存在した。これもまた、人類が生息する以前から、黒潮の大海流は無人の日本列島を目指し、その一角に激突していたことであろう。
けれども、大洋の島々に人間が住みはじめると、彼等は自己の冒険心だけを頼りにして、丸木舟や木材に乗って壮大な旅行を志したのではあるまいか。勿論、偶然の漂流もあったであろう。その到着点、それが足摺岬だ。少なくとも、その一つであったことは疑えないのである。
二
このような大局観からすれば、足摺岬周辺に彪大な拡がりを持つ巨石群の存在、これを看過することは不可能である。その各地を巡回しつつ観察すれば、これらの巨石群が「人間の造築物」であること、夢にもこれを疑いえないであろう。
たとえば、三列石。巨石群の各地に点々と存在する様式である。海岸部にも、奥地にも存在する。構造は単純でも、このような構造物が「自然の手」によって偶然できたとは考えられない。その中の佐田山第二峰(Bサイト)列石群では、ストーン・サークル状の列石に囲まれ、その中央に三列石が存在する。当然、人間による構築である。これを上空に軽気球を浮かべ、それからの撮影を計画した。その真下の配置状況が判明する、その形状を撮影することができた。(1)
またそれらの三列石が、この地帯の(断崖などの示す)自然列石の向き(自然の節理)と一致しないもの(二石)があることも、岩石研究の学者によつて確認された。(2)
その他、巨大な「女性の陰部」の形をした巨石があり、これは現在も「祭祀」の場(神杜)とされている。そこには巨大な男根の形状の長石も、配置されているのである。これらの陰陽石はいずれも、日本列島において旧石器・縄文時代にさかのぼる信仰形態であったことが知られている。
さらに注目すべきものとして、亀形石がある。その形状は素朴だ。だが、この海岸に長途到来して、この地を産卵の場とする大海亀の形姿である。この亀は黒潮に乗じて渡来し、また帰還する、大きな生物であるから、これを「神」として尊崇したこと、十分に考えられるのである。
いずれも、縄文にさかのぼる構築であることは、次の一点が証明している。すなわち、この地帯の地下からの考古学的出土物は、ほとんど縄文土器類に限られている。弥生土器及びそれ以降の出土物は激減するのである。
勿論、弥生時代以降においても、人間の居住者が絶無ではなかったけれど、その人口が激減したことは疑いえないのである。
その点、次の考察が重要である。すなわち、これほどの広領域にわたる、広大な巨石群を構築し、これを支えた人々の数が決して少人数でなかったこと、明瞭である。しかも、これらの巨石構築がすべて(機械力でなく)人力で行われたことからすれば、その必要とした人間の数は当然彪大な人員が予想されねばならない。その人々を支える(巨石労働者以外の)人口はさらに多数と考えざるをえないであろう。
以上の考察からすれば、現地(たとえば唐人駄場等)に多数出土する縄文土器、その時代を以てこの巨石群の「生きていた」時代、すなわちその構築や祭祀の行われていた時期をこれに当てる他、合理的な判断はありえないのである。
三
かつて論ぜられたことのほとんどない国名がある。その名は「侏儒国」だ。「小人の国」の意であるから、時に民俗学上にとりあげられることはあった。しかし、所詮「好奇の目」をともなう考察を出でない。確たる地理上、歴史上の論証をともなった論文を見たことがないのである。
この国名は三国志の魏志倭人伝の一節に出現する。
「女王國の東、海を渡る千余里、復た國有り、皆倭種なり。又侏儒國有り、其の南に在あり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里」
先ず、この文面に対する、私の率直な理解を列記する。
(1) 女王國(邪馬壱国。通説では「邪馬台国」)は福岡県の博多湾岸を中心としている。(3)
(2) ここに記された「里」は周代及び魏・西普代に用いられていた「短里」であり、一里が約77メートル弱である。(4)
(3) 従って「女王國の東、海を渡る千余里」とは、九州と本土の接点をなす関門海峡近辺(下関市)である。
(4) その地域の南に当り、女王國から「四千余里」離れているところ、それは高知県の足摺岬近辺である。これが「侏儒国」だ。
(5) この地は、先述のように、日本列島と黒潮との唯一の接点となっている。
以上の解説の持つ合理性は、(3)と(5)が共に、日本列島上の一定の「実地形」状況と、よく対応し、一致している点にある。特に、後述のように、この「侏儒国」が東南方向「船行一年」の遠洋航海の出発地をなしている点は、およそ他の地点には求めえぬ「長所」ではないだろうか。
けれども、日本の学界は、三十余年来の、私のこの提起に対し、賛否とも一切答えず、学界の論争のテーマとしたことが、一回もない。遺憾ながら真摯なる論争をひたすら避けてきたのである。
四
核心をなす問題は、その直後に現われる。
「又裸國・黒歯國有り、復た其の東南に在り。船行一年にして至る可し」
上記に対する、私の分析を記する。
(1) 倭人伝は、半年を一年と計算する暦、いわゆる「二倍年暦」に従っている。倭人の寿命を「或は百年、或は八、九十年」としたのは、その現われである。
(2) この「二倍年暦」は現在でも太平洋上の島々(パラオ島など)で使用されている。
(3) 古事記・日本書紀で天皇の寿命が〈平均〉90歳の長寿と記されているのも、その現われと見られる。(現代における春秋二回の祭りなど)
(4) 従ってこの「船行一年」は現在の暦では「船行半年」を指している。
(5) 黒潮海流に乗って舟が足摺岬近辺を出発すると、南米のエクアドル・ペルー近辺に到着する(北上するフンボルト大寒流と衝突)。
(6) 幾多の日本の青年が日本列島とサンフランシスコとの間を往復した記録によれば、約3ヶ月間の行程である。
(7) サンフランシスコからエクアドル・ペルー間まで、上記とほぼ同程度の距離である。
(8) 従ってここに言う「船行一年(半年)」の記述は、正しい。
(9) 「裸國・黒歯國」はこのエクアドル・ペルー近辺である。
以上の論証は、この三十余年の問において次々と意外な裏付けを得ることとなった。
(1).南米に幾多現存する、古代のミイラに内在する寄生虫が日本原産のものであることの報告(ブラジルのアラウージョ等訂正1)。(5)
(2).南米のインディオの持つウイルス及び遺伝子が日本人(太平洋岸の住民)のものと一致すること(名古屋の田島和雄氏)。(6)
上記により、私の論証が決して一笑に付すべきものに非ず、とされねばならぬこと、学問上必然であるが、やはりこの問題をめぐって学界(古代史・考古学)では、公的論争が行われていない。
五
さらに興味深いテーマが報告されている。
白人がアメリカ大陸に上陸し、西部に新天地を求めて進んだあと、西部海岸から北上してアラスカに至った。
そこにはサーモン・インディアンと呼ばれる、鮭を主食とする原住民がいたけれども、彼等は奴隷群を所有していた。それは海流を漂流してきて流れ着いた日本人の漁民たちであったというのである。(7)
私たちの歴史書や教科書にはかつて書かれたことのない報告であるけれども、黒潮という大海流の導きゆくところ、十分に可能な事態だ。非合理としてこれを斥けがたい報告なのではあるまいか。
縄文時代も、十数世紀も、現代も、黒潮という名の大海流の途絶える日は一日もなかったのである。
六
縄文人の太平洋渡航、この壮大なテーマを先導し、今も中核の学説として存在するもの、それはエストラダ・メガーズ・エヴァンズ三氏による「エクアドル沿岸部の早期形成時代 ーーヴァルディビアとマチャリラ期」である。(8)
その発表は1965年、いまだ誰人もこのようなテーマを想到しえなかった。エクアドル在住のエストラダ氏がその着想を得て、エクアドルのヴァルディビアの地帯から出土する土器類が当地の他の土器類とは異様であること、日本列島出土の縄文土器と類似していること、この認識をワシントンD・Cのスミソニアン博物館のメガーズ・エヴァンズ夫妻に報告した。夫妻は直ちに日本に来て、各地の縄文土器を調査し、エクアドルと日本列島と両地域の土器が不可分の「伝播」関係を持つことを立証した。
メガーズ氏による、緻密な「文様」の比較研究と共に、エヴアンズ氏の提唱された「日本における縄文土器伝統の(初期から中期に至る)連続」と「エクアドルにおける(中期以前の)伝統の欠如」との対比、その論証の持つ論理性は今も誰人もこれを否定することはできない。
しかし、日本の縄文学界も、そしてアメリカ合衆国の一般の考古学者も、この貴重な提案に対して共に冷淡であったと言わざるをえない。そして日本の学界は、一度もエヴァンズ夫妻を招き、公開の学的討論を行うことすらなかったのである。
七
数少ない、貴重なエッセイがあった。日本の考古学者からのメガーズ・エヴァンズ批判である。
その1は、江坂輝彌氏。メガーズ・エヴァンズ説において、ヴァルディビア土器と類似した縄文土器とされたのは、九州では有明海沿岸の各遺跡(曽畑(そばた)・阿高(あだか)・轟(とどろき)・出水(いずみ)等)出土の土器であった。(熊本県及び鹿児島県北西部に当る)
けれども九州南端の鹿児島県(右記以外)の縄文土器との類似があげられていない。縄文人の漂流として、これは不自然だ。だから、両者(ヴァルディビアと日本)の類似は、単なる「偶然の一致」にすぎない、と。(9)
その2は、佐原真氏。メガーズ・エヴァンズ説においては、ヴァルディビア土器と類似している縄文土器として、関東地方南半の一部があげられている。すなわち、両氏による「九州の縄文土器との類似」説と一致していない。それ故、両氏の伝播説は恣意的である。(10)
その3は、西藤清秀氏。メガーズ・エヴァンズ説の矛盾は「器型」問題にある。日本の縄文土器の器型は、深底か、底辺の尖ったものが通例である。しかるにヴァルディビア土器の場合はこれらとは異なっている。このような器型の形態の相違を無視しての「文様」比較は非学問的である、と。(11)
各専門家による優れた指摘であるが、やがていずれも予想外の反証が見出された。
先ず江坂批判。6300年から6400年前(縄文早期末)、鬼界カルデラの大爆発があった。九州南方海上の硫黄島を原点とする一大爆発である。今も、その時の火山灰が西日本各地に見出される。その際、次のような状況が見られた。鹿児島県の大部分(北西部を除く)は、ほぼ全滅した。熊本県と鹿児島県の北西部(有明海沿岸)は半ば潰滅し、半ば生き残った。火山灰の飛散方向は、東へ向っていたために、その方向へは逃げ出せず、有明海岸へと脱出する他はなかった。その海上を南下すれば、そこには黒潮海流があった。 ーーこの事件を問題の原点におく時、一見「矛盾」と見えたメガーズ・エヴァンズ説の弱点は一転して決定的な論証力を持つに至った。ここには「一大爆発からの避難民の(海流上の)移動」というテーマが内在していたのであった。両氏がひたすら「文様そのものの持つリアリティ」を重んじぬいたこと、その徹底性の意義と科学性が知られよう。この問題は1995年の秋、直接メガーズ氏の要請を受けて私が実際に調査した結果、判明したものである。
次に、佐原批判。5980BP(プラスマイナス210年前。放射線年代)に、箱根火山が爆発した。その結果、神奈川県の大部分は潰滅した。これに対し、神奈川県の三浦半島(三浦市)と東京都の中・南部域は半死半生(半ばは潰滅。半ば『生き残り』)の状態となった。すなわち、この領域こそ、両氏によって「ヴァルディビア土器との共通性」の指摘された縄文土器の分布地帯そのものだったのである。両氏の指摘の的確さに脱帽する他はない。私がこの事実を確認するまで、勿論両氏はこれを知ることがなかった。(12)
次に西藤批判。これも見逃がせぬ論点であったが、近年南九州で相次いで出土した早期縄文土器の形状は、従来の「器型」に関する通念を次々とくつがえした。煙突状の形をした円筒土器や角柱状の角筒土器、またその中間のレモン形土器などである。さらに上野原遺跡からは壼形土器や鉢形土器も出現した。祭祀などの場所ではないかといわれている。(13)
このように、西藤氏が「固定的」に考えておられた、縄文土器の「器型」に関する通念も、大きく変化させられた。ましてヴァルディビアの場合、「純粋な縄文土器」というより、「縄文文明の影響下に(異土で)成立した土器」いわば「亜(準ずる)縄文土器」なのであるから、単純な「器型比較」から「伝播」の有無を判定すること、むしろ学問上危険なのではあるまいか。
以上のような南九州の早期縄文土器の大量出土は、1965年のメガーズ・エヴァンズ説発表の際は、全く知られていなかったのである。
八
学問は論理と論証に属する。もしこれが正しいならば、40年前に提出されたメガーズ・エヴァンズ説は、今日に至る検証、新たな発見の数々によって、今や発表当時とは比べものにならぬ地位を得ていると言わねばならない。
しかし学界の現実はさに非ず。日米両国の考古学界とも、この学説の学問的意義を拒絶するのみならず、無関心や冷笑を以て迎えてきたと言っても、残念ながら過言ではない。
コペルニクスやガリレオ、またダーウィンやメンデルの例を見るまでもなく、学問上不滅の意義を持つ発見や学説が長期間冷遇を受けてきた事例は、必ずしも乏しくはない。しかし、その被害を受けるのは、誰よりも人類そのものだ。なぜならそれらの新学説に対して正当な評価を与えなかったことによって、その後の学問的発展が停滞または停止させられてきたからである。
メガーズ・エヴァンズ説も然り。もしこの報告が真正面から受け止められたとすれば、そこから生ずべき各分野の新研究はめざましいものがあろう。
たとえば、日本列島の縄文文明の波及、伝播の問題である。他の地域、たとえば中国・朝鮮半島等の、アジア大陸に対する伝播と波及の問題である。中国の江南の河姆渡(かぼと)遺跡の勃興は、あの硫黄島の一大爆発と前後している。
たとえば、地球上の他文明の場合の伝播、交流の問題である。日本の場合と同じく、従来は予想されがたかったような別大陸間の交流に関しても、再吟味の必要が生じよう。勿論その場合も、確たる論理と実証は不可欠である。
たとえば、何より日本の縄文文明自体の成立と発展についても、従来視野に入っていなかったような諸問題が新たに立ち現われる可能性がある。
それらの成果は未知である。一の現象がたとえ受け入れられたとしても、それを直ちに他の現象へと安易に及ぽすべきではない。それでは学問の名に値しない。
その点、今回のメガーズ・エヴァンズ説に加えられた、一種の冷遇は、今後の縄文研究の進展にとって、無二のよき試金石となったとも言い得るであろう。
九
本稿の主テーマヘ帰ろう。足摺岬をめぐる巨石遺構の探究である。
1993年〈平成5年〉11月 3日、その実験は行われた。この遺構が縄文時代に持っていた役割を実証し、この遺構が持つ意義を明らかにするためである。
この地の巨石遺構には、先述の他に注目すべき鏡岩群がある。大きな平面を持つ立石が数多く存在し、その多くの平面は太平洋に向っている。黒潮に対面しているのである。これは偶然だろうか。 ーー否。大自然の造形が、このように「一定方向に向って平面を持つ巨石群」を偶然成立させる、などという事象は考えられないからである。当然、人間の手による造営である。
ではなぜ、このような造営が行われたか。それは海上を舟で行く人々から見た時、その平面が太陽や月の光を受けて輝く。そのための造営なのではあるまいか。 ーーでは、なぜ。
その第一の理由は、古来の鏡岩信仰のためである。日本列島各地に鏡岩もしくは鏡石の名のある巨石が存在している。いずれも、太陽もしくは月の反射を受ける。その「光明」に対する尊崇と信仰である。ここ足摺岬近辺の場合も、その一に属すると見ることができよう。
その第二の理由は、海上民の航行の際の「灯台」としての役割だ。先述のように、黒潮潮流は北上してきて、この足摺岬の断崖(臼碆(うすばえ)に臨む)に激突する。不用意にその瞬間に臨めば、瞬時に舟や筏は大破し、人間も破壊されよう。すさまじい「交通事故」である。
その難を避けるには、ただ一つの方法しかありえない。上記の衝突の前に、黒潮からの脱出をはかることである。黒潮の速さから見れば、機を逃がさず、全力を傾注すれば、脱出可能である。しかし、問題はその「機」なのだ。足摺岬の断崖から一定の距離をおいた段階で、脱出行動に入らなければ、その脱出は成功しえない。それ故、「眼前の断崖」の存在を認識するや否や、その判断が生命と死を別けるのである。そのために、この鏡岩の存在が不可欠だ。偉大なる役割を演ずるのである。いうなれば「縄文灯台」だ。
だが、本当にそのような役割を、鏡岩は果たしているのか。果たしうるのか。その実験だった。
十
実験は成功した。当日の午前5時半、私たちの実験船は土地の方々の漁船群に守られて出発した。この船上組とは別に、唐人駄場や臼碆展望台にも、それぞれ技術者達が測定器具を備えて待機していた。
当地に対する予備観察は、2月以来、繰り返し行われてきた。
(i)2月28日,(ii)4月4・5・6日,(iii)8月3・4・5・6日,(iv)9月2日(中村市),(v)10月25日
海上予備実験は、最後の25日、当海域で行われていた。
「足摺岬の断崖を去る、臼碆の海域南地点から、唐人石は太陽(や月)を反射して輝くか。そしてそれは海上から察知しうるか」と。先述のように、もしこれらの鏡岩群が「縄文灯台」の役割を果たしていたとしたら、現在においても、条件が整えられれば、そのような「光度」が観測しうるはずだからである。
それは鏡岩群全体について言いうることであろうけれど、今はそれら鏡岩群の「王者」とも言うべき唐人石がそのような「反射」と「光度」を示すかどうか、その測定に照準を絞った。
その際、技術上、若干の問題があった。
(1).本来、巨岩そのものを(石屋に依頼して)削平し、磨いた上で実験を行うのが最上である。なぜなら縄文時代、この「縄文灯台」が「生きて」用いられていた当時、当然それらの鏡岩は人間の手で丁寧に磨かれていたはずだからである。
(2).しかし、大自然の「自然状態の維持」という要請から、先述の最上の方法を断念し、代わって大量の銀紙(映画用のレフ)を用意し、唐人石の全面に貼付して、これを「測定対象」とした。
(3).従ってあらかじめ、一方でこの唐人石の「岩」そのものの輝度を測定し、他方で使用する銀紙(レフ)の輝度を測定し、その比較数値表を用意した。
(4).さらに唐人駄場及び臼碆展望台に設置された測定装置を用い、唐人石に貼付された銀紙(レフ)の「輝度」を測定したのである。(14)
海上の実験船は意外な効果を見せた。それは臼碆の南方から唐人石を見ると、その石との中間をなす「山あいの間」から、その真正面に、唐人石の輝きを認識できた。予想外の認識であった。すなわち唐人石の存在は、臼碆の海上領域(南方)から見て、絶好の位置にあったのである。
当日の測定と撮影の結果は、見事に示した。私たちが仮説を立て予想していた通り、唐人石の鏡岩は海上から見て、まさに太陽や月の光を反射すべき絶好の位置に存在していた。 ーー「縄文灯台」の概念はリアル(真実)だったのである。(15)
臼碆から唐人石を望む(上)
唐人石から唐人駄場を望む
十一
今後の研究の展望を述べよう。
近来の日本古代史の研究は、縄文学の分野に対して、幾多の新しい視野を開くことができた。
(1)縄文語の現代への遺存について
鳥取県訂正2の大山(だいせん)の麓にあった神杜(大神山神社(16))において、毎年「もひとり神事」が行われている。7月14・15目、山頂の火口湖から神水を採り、これを神杜に持ち帰り、神前に奉納してこれを祀るのである。
大山は縄文期のはじめ、激しく爆発していた。「国引き神話」(出雲風土記)で「火神岳」と呼ばれたのは、その反映であろう。次いで縄文の中頃、爆発はおさまり、「ちょろちょろ火」すなわち「もひ(藻火)」の時代となった。この「もひ」を採り、山の中腹の神社に持ち帰り、「鎮火」を祈った。これが「もひとり」の語源であろう。やがて縄文末葉になると、その「もひ」も休止した。そのため、直ちにそこに現在のような火口湖が出現したのである。従ってそれ以後「もひ」を採ることができず、「神水」を採る行事に変化せざるをえなかった。それにもかかわらず、言葉としては「縄文中葉」通りの「もひとり」と呼ばれている。すなわちこれは「縄文語」である。
現代の言語が縄文にさかのぼりうること、その事実を証明した、貴重な事例である。
(2)三国志の魏志倭人伝の国名表記について
ここに記せられた国名(三十国等)について、私ははじめこれを「中国側の表記」と考えた。(17)しかし、これに対する的確な批判があり、一転してこれを「倭人側の表記」と考えるに至った。(「一大国」の表記に対する批判(18))
この新しい立場からすれば、先述の「裸國」「黒歯國」もまた「倭人側の呼び名」による「倭人側の表記」と考えざるを得ぬこととなった。(19)
すなわち「裸國」の場合、
(1).「ラ」という日本語に対し、裸の習俗を持つ(エクアドル近辺)ことを知っていたため、この「裸」の漢字を当てた。
(2).「ラ」に接頭語(「ウ」)を付したものが「ウラ」である。 ーー「浦」に当る。この「ウ」は「ウミ」「ウシ」「ウマ」等の接頭語である。すなわち「ラ國」とは『海岸の国』の意の日本語である。
次に「黒歯國」の場合、
(1).「コクシ」という日本語に対し、黒い歯(オハグロ風)の習俗を知っていたため、この漢字を当てた。
(2).中国の古典に出現する「黒歯國」(山海経等)は、「中国の東北にあり」、とせられている。従ってこれを知る中国側の場合、(倭国のはるか「東南」であるから)かえってこの国名は「当てにくい」のである。
(3).事実、このエクアドル地帯には「歯を黒く塗る」習俗がある。
(4).「コクシ」という日本語は「筑紫(「チクシ」あるいは「ツクシ」)」の共通部分の「クシ」を語幹とする。「ク」は「奇(く)し」の語幹。「シ」は「人々の生き死にする場所を示す(20)」「コ」は「コシ(越)」の「コ」である。(21)
(5).「コクシ」という日本語の「母語」としては、「チクシ(ツクシ)」がありえよう。
次に、「侏儒国」の場合、
(1).「足摺岬の東側に「鈴(スズ)漁港」がある。
(2).「ス」は「住まい」の意。須磨・鳥栖(トス)の「ス」である。
(3).「スズ」は「ス」のダブリ語(重複語)。この形式の表現は、南方(ニュージーランドなど)に多い。(22)
(4).「スズ」という日本語をもとにし、実際に現地人の「身長が小さかった」から、「スズ」と発音の似た「侏儒(シュジュ)(「小人」を意味する)」の漢字を当てた。
以上を要するに、これらの国名はいずれも「日本人による日本語」をもとにしている。 ーーその可能性を否定できないのである。
これが新しく築かれた、研究のための足場である。
十二
大胆に、新たな仮説へと進もう。
第1、エクアドルにはインディオがいる。彼等は日本人(太平洋岸の住民)と同じウィルスと遺伝子を持っている。当然、言語においても、「祖源の姿」は同一の言語が両方に分岐していると考える他はない。
第2、もし彼等の現在の言語が、長期間の周辺語族との接触を通じて、「複雑化」あるいは「混融化」していたとしても、その「言素(言語原素)」においては、共通部分を遺存している可能性が高い。
第3、もし彼等が他の言語(たとえばスペイン語等)によって、本来の「自己言語の伝統」を失っていたとしても、地名などには、その古代言語の「痕跡」が遺存している可能性もまた、大である。
第4、従って日本側とインディオ側との、深い信頼関係に立ち、そして長期にわたる辛抱強い努力が続けられるならば、必ずその豊かな実りが得られる日の到来すること、私には全く疑うことができない。
第5、そのような将来に向かって、私たちは、日本とエクアドルの未来に、押しつぶされぬ希望を持つ、若い魂を一人ひとり育てたいと願う。(23)
それは目本人の歴史のみならず、人類の歴史とその本質について、想定外の、未曾有の知見を与えることとなるであろう。
(元昭和薬科大学教授)
(註)
(1) 軽気球は青高館(狩野正好氏)提供
(2) 加賀美英雄・満塩大洗教授
(3) 古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社等)
(4) 古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す』(新泉社・1994年5月刊)
(5) 古田武彦編『海の古代史』(原書房)
(6) 同上
(7) "Man across the Sea-Problems of Pre-Columbian Contacts" University of Texas Press, Austin & London
(8) Meggers, Betty J., Clifford Evans and Emilio Estrada "Early Formative Period of Coastal Ecuador : the Valdivia and Machalilla Phases, Smithsonian Contributions
(9)「エヴアンズ博士の夢」産報・歴史シリーズ3(1977)
(10)春成秀爾編『検証、日本の前期旧石器』(学生社・2001年5月刊)
(11)「ヴァルディビア土器の再検討」(『関西大学考古学研究室開設30周年記念、考古学論叢』1983年3月刊所収)
(12)古田武彦『失われた日本』(原書房・1998年2月刊)
(13)今吉弘編『鹿児島県の不思議事典』(新人物往来杜・2003年11月刊)
(14)谷本茂・坂本泰三氏、普喜満生教授等、多くの地元の方々と共にご協力を得た
(15)「足摺周辺の巨石遺構 ーー唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書」(1995)土佐清水市教育委員会、土佐清水市文化財調査報告書
(16)米子市小高1025
(17)対海国、一大国等
(18)倉田卓次氏
(19)倭人伝に中国側から送られた国書の引用がある点からも、倭人側が「漢文を訓む力」を持っていたこと、確実である
(20)「言素論(II)」(多元No.59)等参照
(21)「芥屋(ケヤ)の大門」に対する「苔(コケ)牟須毘(ムスビ)」も同じ(福岡県)
(22)「マル・マル」など
(23)そのような研究者の輩出を熱望する
2016.2.25訂正(縄文学会の原文は未訂正です。引用時は、原文通り引用のこと)
訂正1 大下隆司氏の指摘により「アウラージョ」を「アラウージョ」に訂正。
訂正2 鳥取県在住のかたの指摘により、「島根県の大山」を「鳥取県」に訂正。
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