倭人の南米大陸への航行について 古田武彦『邪馬壹国の論理』へ

エバンス夫妻との往復書簡 古田武彦『邪馬壹国の論理』へ

バルディビア探求の旅 倭人世界の南界を極める 大下隆司(『古田史学会報』79号)へ

 図版の関係により、西藤氏の見解とこれに対する古田氏の反論は、カットしております。
 又英語版は、一九九二年古田氏が昭和薬科大学在籍時、紀要の中で、エバンズ説に対して別の見方、言葉を変えれば史料批判から論じた英文です。その英語の論文に横田が、図版を付け加えたものです。(横田 記)


『海の古代史』 原書房刊 1996年9月

海の古代史

 

黒潮と魏志倭人伝の真実

メガーズ博士(エヴァンズ夫人)来日記念・講演と討論

 

古田武彦

海の実験場(序に代えて 第一章より)

     一

 地球は実験場である。人間という生物が、いかに生き、どのように行動したか、その足跡が記録されている。彼等が、地球にとって何者であったか、その“成績”の刻まれた答案用紙なのだ。
 だが、人間は健忘症である。たかだか数十万年前の足跡すら、すでに忘れていた。日本列島の一角、上高森遺跡(宮城県)なども、その一例だ。「発掘」という作業によって、わたしたちは“忘れた過去”を思い出したのである。
 まして大洋 −−沿々たる黒潮の大海流、その上を通りすぎた人類の祖先、その勇敢な人々の足跡は、すっかり忘却の彼方にあった。歴史のなかに入れられていなかった。
 しかし、実在した歴史は復活する。紙の上に、土の上に、死者の中に、生きた人々の体内に、しっかりとその痕跡がとどまっていたのである。
 一九九五年の秋、それは人類にとって、輝く記憶の回復の時となった。これがベティ・J‐メガーズ博士(エヴァンズ夫人)来訪の十日間の意義であった。


     二

 わたし自身、それまで思いもかけなかったこの問題に当面したのは、二十五年前。三国志の魏志倭人伝の探究に端を発した。否、その探究の帰結として、わたしはこの問題にはからずも遭遇することとなった。
 わたしを導いたのは、学問の方法だった。近畿説にせよ、九州説にせよ、既成の説を「前提」とせず、ただ、三国志の著者、陳寿の指し示すところに従う。この方法であった。その帰結が「歴史の真実」を伝えているか否か、わたしは関知しない。
 ただ、「陳寿が言っているのは、こうだ」
 その一点を、何の掛け値も、水増しも、削除もなく、そのまま示すこと、それに尽きた。それがわたしの方法だったのである。
 その方法は、次々とわたしの思惑と憶測を“裏切り”つづけた。その結果、「邪馬台国」ならぬ邪馬壱国(原文は「壹」)を“博多湾岸とその周辺”へと指定することとなったのである。思いもかけぬ決着だった( 『「邪馬台国」はなかった』 参照、朝日文庫一九七一)。
 それにとどまらなかった。この方法は、わたしを導いて、倭人伝の中で誰一人、真面目にとりあげようとしなかった二国−−裸国と黒歯国−−が南米西海岸北半部、エクアドル、ペルーの地にあり、この予想外の帰結にまで到らしめたのである。
 陳寿によれば、女王国の東、千里にして「倭種」あり、という。一里は、約七十七メートル(当時は七十五メートルと九十メートルの間。七十五メートルに近い、とした)の「短里」だから、関門海峡以東が「倭種」。その「倭種」の南に「侏儒国」がある、という。女王国の東南にあたる。
 その「侏儒国」は「女王を去る、四千余里」とあるから、里程は、関門海峡からは“残り”三千余里。海上を測ってみると、当初「予想」した宇和島近辺を越え、高知県の足摺岬近辺となったのであった。

 その「侏儒国」が、次の問題の一文の起点だ。
   「(裸国、黒歯国)東南、船行一年にして至る可し」

 わたしは倭人伝の「年数」について、「二倍年暦〕という仮説に到達していた(後述)。
 この立場からすると、右の「一年」は実質半年のこととなる。六カ月だ。
 ところが、「大平洋ひとりぼっち」の堀江青年などの航海実験によると、「日本列島−サンフランシスコ」間は、約三カ月前後。とすると、あと三ヶ月の「距離」を黒潮上にたどれば −−その結果がエクアドル、ペルーだった。
 わたしは論理の筏に乗り、冒険航海の末、ここに到ったのである。前人未到だった。
中国史書から見た世界

     三

 確かに、前人未到だった。倭人伝の解読、というかぎり、それに違いなかった。しかし、幸いにも、そこでわたしはすばらしい先達に出会うこととなったのである。それがエヴァンズ夫妻だった。
 導きは、故米田保さんである。朝日新聞社の名編集者だ。はじめ、わたしの「南米西海岸北半部」説の公刊に難色を示されたが、「方法上の必然性」をわたしから聞くと、逆に積極的に協力してくださった。そして『ライフ』(一九七○年一○月一六日号)の記事から、エヴァンズ夫妻(スミソニアン研究所)とエミリア・エストラーダ氏(エクアドル)の存在を、わたしに知らせてくださったのである。「縄文土器の南米渡来」説だ。
 エストラーダ氏はヨーロッパ留学中、考古学に興味を持ったという。あのシュリーマンの業績にも、当然関心を持たれたことであろう。故国エクアドルへ帰って、土中に遺物を求めた。その結果、一種“異様”な土器、あのインカ時代の遺物とは“選を異にした”土器類に遭遇した。そのうえ、ヨーロッパ時代に手にしていた図鑑類から、「縄文土器」と呼ばれる、遠国日本列島出土の土器片との相似に着目した。これを、ペンシルヴァニア大学における、同窓の考古学者、エヴァンズ夫妻へと送り、協力を求めたのである。
 これを正面から受け止めたのが、少壮の考古学者、当のエヴァンズ夫妻だった。夫人がはやくよりこの道に入り、戦争から帰ったエヴァンズ博士が、その同じ道を後から歩むこととなられた、という。
 夫妻は、エストラーダ氏からの遺物と情報に接するや、ただちに日本へ飛ぴ、各地に縄文の遺跡と土器に接し、「日本列島−エクアドル」間の縄文伝播という、それこそ前人未到の新学説を樹立されるにいたったのであった。
 その新学説は、一九六五年、スミソニアン博物館が世界に発信した学術報告書として公刊された。『エクアドル沿岸部の早期形成時代−−バルディビアとマチャリラ期−ー』が、これである。
 当時、夫妻は三十代の少壮考古学者であった。その野心的な、あまりにも野心的な、文字通り前人未到の新学説が、一介のアマチュア研究者(エミリア・エストラーダ氏)との連名において、世に問われたのである。
 アメリカが世界に誇る、世界最大の博物館たるスミソニアン、その冒険的壮挙であった。わたしにはここに、アメリカ的な、あまりにもアメリカ的な学問精神、創造の精神を見まいとしても、それはついに不可能だった。
 この三人の研究こそ、わたしにとつて、素晴らしき先達となったのである。


     四

 しかしながら、三人の先達の前途は平坦ではなかった。従来の考古学界は必ずしもこれを容易に受け入れようとはしなかったからである。
 たとえば、ジョン・マラーは「芸術様式の考古学的分析」(一九六六)、「エクアドルの早期形成時代についての、フォードの見解に関する一コメント」(一九六八)等の論文を持つ学者であるが、次のように辛辣な批判を行った。
「メガーズ、エヴァンズとエストラーダの、文化的“文脈”の処理における失敗、それはそのスタイルの比較が十分にコントロール(対照、調査)されていないことである。日本で、時間と空間の非常に幅広い範囲から出土する材科が、同じくエクアドルで、時間的に非常に幅広い範囲から出土する材科と比較されている(ラスロップ 一九八七、ピアスン 一九八八、マラ− 一九八八)。
 その当時、日本とエクアドルとの間に文化的、生態学的類似性があり、それが類似した発明の可能性を導いたのではないか、という疑い、これにはほとんど注意がはらわれていない」(「様式と文化交流との間」)*1

 それに対する、エヴァンズ氏の反論は極めて的確にして周到であった。

「(一)マラー氏は、エクアドルのバルディビア土器と日本の縄文土器との間の『一致していない例』をあげているが、それ以外に、はるかに複合した一致の見られる数多くの例については、これを軽視している。

 (二)マラー氏のように『一致しない例』をあげて、両者が『独立発達』をしたこと、すなわち両者の無関係を立証できるとしたら、日本列島内の『九州と本州の縄文土器』についても、両者の差異をあげて、両者は『独立発達』すなわち無関係だ、といいうることとなろう。全体に対する観察が重要である。

(三)ポイントは、次の一点である。
『もっとも大事なちがいは、日本の貝塚から出土する壷のほうが、エクアドル海外出土のものより三○○○年くらい出現することだ。次に来るべき幾千年かの間に、容器の形は多様化し、模様づけはさらに変化した。そして地域的な違いとなって発達した。

 エクアドル海岸の“もっとも早い”時期の壷は、すでに“十分発達しきった”ものだ。』

『他にも切実な要因がある。それは、エクアドル(およぴ新世界の他の場所)には先祖(文化的先行物)が欠如している。これとまさに対照的に、日本では、まことに長い“発達の連鎖”が存在する。だのにエクアドルにはない、というこの事実だ。また、もう一つ、比較された複合物が日本とエクアドルと、“同時代性”をもつことだ。さらに日本海流(黒潮−北太平洋海流)という形で、交通の可能性のあるルートが実在することだ。さらにまた、縄文人が沿岸を離れて漁業に従事していた、という証拠があることだ。』(「縄文とバルディビアとの関係)*2

 右の論点中、「縄文とバルディビアとに共通する諸要素の複合について、前者には幾千年の前史があり、永い発達過程がある。しかし後者には、それがない。『成熟の帰結』がいきなり出現している。そして『最初』となっている」との指摘、この「歴史的形成の論理」こそ、エヴァンズ氏の論理の核心である。一方では、土器文様の複合に関する精細な観察、他方では、鋭く、骨太い、右の論理性、この両輪の上に、エヴァンズ夫妻の新学説は成り立っている。今回のメガーズ氏(エヴァンズ夫人)の講演でも、この点が力説された。

(以下2ページ略記。 考古学上の技術論・様式論な問題であり、図版を伴い、関係者が多岐に渡るため略します。備考と同じ文献を挙げておきます。横田)
  西藤清秀氏ー関西大学考古学教室開設参拾周年記念、考古学論叢 昭和五十八年三月刊
  古田「貴重なエバンス説への反論ーー西藤氏の場合」『古代史を疑う』(駸々堂刊)

 以上、それぞれ鋭い主張点をもつ反論ながら、真にエヴァンズ夫妻を“悩ませ”ていたのは、意外にも次のような“反論”だったようである。

一、十五世紀、コロンブスがはじめてなしとげた「アメリカ大陸発見」という人類史的壮挙を、紀元前三○○○年か、それ以上の昔、日本列島の原始人などにできたはずがない。

二、大平洋は大西洋以上に巨大である。日本列島からアメリカ大陸にたどり着くには、一両年もしくはそれ以上の歳月を要しよう。その間の水や食糧をたずさえて航行することなど、古代の原始民には到底不可能である。


 以上だ。このような「反論」は、必ずしも学術論文のかたちはとらなかったであろう。けれども、それだけにむしろ、アメリカ国民にとっての「伝統的常識」に属した。そのため、学界やジャーナリズム等、各種の場面でエヴァンズ夫妻を“悩ます”ことが多かったようである。
 わたしたちには、「快挙」ではあっても、むしろ「当然」とも思えた、「野性3号」(一九八○)の成功(日本列島〜アメリカ大陸間、五十一日間)が、メガーズ博士を深く喜ばせた背景はここにあったようである。
 しかし、わたしにとって、それらはすでに何等の「疑問」でも、「悩み」でもなかった。なぜなら、すでに『「邪馬台国」はなかった』に記したように、大平洋をヨットで横断した、日本青年の記録を知っていたからである。

 (a)堀江謙一(一九六二年 西宮→サンランシスコ、三カ月と一日)
 (b)鹿島郁夫(一九八七年、ロサンゼルス→横浜、三カ月と十日)
 (c)午島龍介(一九六九年、博多→サンフランシスコ、二カ月と二十日)
  (一九七○、エンセネダ《メキシコ北端》→博多、二カ月と二十七日)《往復》


彼等の記録は、右の、常識的なあまりにも常識的な「反論」が、実は一片の杞憂と憶測にすぎなかったことを、疑う余地なく、立証していたのである。
 さらに、「手作りョットによる単独世界一周」の壮挙をなしとげた、青木洋氏(堺市)から、わたしは、

  「縄文時代にも、絶対、日本から黒潮に乗ってアメリカ大陸へ行っていましたよ」

という確信を、二十代初めのご自身の単独航行の経験から、その「水と食糧」の実際を、あますところなく、疑う余地なく、お聞きしていたのであった。
(水を入れる「壷」と、魚を釣る「釣り針と糸」が必要。一週間に一回くらい、スコールのような大雨が降る。それを「壷」にためておく。ときに舟に飛ぴ込んでくる魚を解体し、「えさ」にして釣ると、直ちにかかってくる。これが、太平洋上における青木氏の実地経験であり、その結果、右の確信をもたれた、という)。
 以上のような、わたしの「常識」は、やがてアメリカ国民の「新しき常識」となることであろう。二十一世紀の世界的常識である。


     五

 一九九五年は、エヴァンズ説にとって黄金の年となった。なぜなら、その前年、「四柱の論証」が成立していたからである。新しい論証から、さかのばってみよう。

 第一は、「HTLV I(ローマ字)型の論証」である。一九九四年、名古屋で行われた日本ガン学界において田島和雄氏(愛知ガンセンター疫学部長)によって報告された。それによると、日本列島の太平洋岸(沖縄・鹿児島・高知県足摺岬・和歌山・北海道)の住民(現在)に分布する、HTLV I(ローマ字)型のウイルスと同一のウイルスが、南米北・中部山地のインディオの中にも濃密に発見された。その結果、両者が「共通の祖先」をもつことが推定されるに至ったのである。
 その田島氏が今回(一九九五年十一月三日)の「縄文ミーティング」(全日空ホテル)で、メガーズ博士とともに親しく、意見交換を行われたのであった。本書中のハイライトのひとつとなった。

 第二は、「寄生虫の論証」である。一九八○年、ブラジルの奇生虫研究の専門家グループ、アラウージョ博士等による共同報告である。それによると、南米の北・中部に分布する、モンゴロイドのミイラには、その体内もしくは野外に「糞石」が化石化して存在する。その中の(同じく化石化した)寄生虫に対して調査研究を行った。その結果、それらの寄生虫はアジア産、ことに日本列島に多い種類のものであることが判明したのである。この寄生虫は寒さに弱く、摂氏二十二度以下では死滅する。従って通常考えられやすい「ベーリング海峡〈ベーリンジヤー)経由ルート」では不可能である。事実、シベリアやアラスカ等には、これらの寄生虫を「糞石」の中に見いだすことはできない。従って残された可能性は、エヴァンズ夫妻等によって提唱された「日本列島→南米西岸部(エクアドル)」の黒潮(日本海流)ルートによると考えざるをえない。これが、共同報告の結論であった。
 その放射能測定値は、はじめ「三五○○年前」頃(縄文後期)と伝えられたが、一九九五年、わたしの手元に到着した、アラウージョ博士の三十余篇のリポートによると、その時期は右の前後(縄文中期−弥生期)にかなりの幅をもつようにみえる。スペイン語等の論文もふくんでいるから、今後、各専門家の手によって、より詳細に確認したいと思う。  いずれによ、右のような「縄文時代における、日本列島から南米西岸部への、人間渡来」というテーマが、その共同報告の帰結をなしていることは疑いがたい。

 第三は、「三国志の論証」である。一九七一年、わたしの『「邪馬台国」はなかった』によって明らかとされた。すでに述べた「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」がこれだ。この論証の成立後、わたしはエヴァンズ説の存在を知った。右の本を世に出して下さった米田保さんのおかげである。その後のエヴァンズ氏との交流は、往復書簡として『邪馬壹国の論理』(朝日新聞社刊)の中に収録されている。

 第四は、無論、エヴァンズ説(一九六五)だ。一九二○年代以来の、エストラーダ氏の「発見」にもとづく新学説の誕生である。

 以上のように、最初は「単独」にして「孤立無援」だった、この独創的学説は、三十年たった今、状況が一変した。当初は、予想さえされなかったであろう、種々の「学際的裏付け」をえたのである。

 この一点が重要である。すなわち、右にあげた四つの論証は、相互に何等の関係なき、別の学問分野に立つアメリカの孝古学、アジアの古典研究(史料批判)、ブラジルの自然科学(寄生虫)、日本の医学(ウイルス)と各別である。一九九五年初頭、田島氏にはじめてお会いしたとき、氏はわたしの名前も著書(『「邪馬台国」はなかった』)も、全くご存じなかったのである(東京、国立予防衛生研究所における学会の会場脇でお会いした)。
 にもかかわらず、四者の学問研究の“指示した”ところは、一致した。もしくは同一方向へと帰着点をもつように見える。すなわち、

  「(古代における)日本列島の住民と南米北・中部住民との関係」

の存在である。もちろん、別々の学問領域の研究であるから、「時期」や「関係のあり方」等、それぞれの説明しうるところは、当然各別だ。

 たとえば、エヴァンズ説の場合、四、五千年前にエクアドルにいて、バルディビア土器を作製した、当の人々の子孫が、現在も南米に生存し、居住しているかどうか、一切不明だ。土器そのものは、その間の事情を語りはしないのであるから。
 また、わたしの場合、三国志は三世紀に成立した本だ。その、三世紀の倭人の情報にもとづいていること、当然である。わたしはこれを「縄文以来の伝統的情報」を倭人が中国人の使者(あるいは駐留の武官)に伝えたもの、と見なしている。しかし反面、これが直接に「縄文時代の同時代史料」によっているものではないとは、言うまでもない。
(中国の四書五経類ならば、日本の縄文時代晩期にあたる)
 ブラジルのアウラージ氏等の場合、南半のミイラから「日本産」に多い寄生虫が見いだされたからといって、それが「日本産」のみに“厳しく限定される”わけではないであろうから、「日本産以外」のアジア産である可能性もまた、全くこれを排除することはできないであろう。
 さらに田島説の場合、日本列島の場合も、南米の場合も、ともに現在の住民による「ウイルス」の研究であるから、そこから両者が「共通の祖先」をもつことが立証されたとしても、その中間をなす長期間において、いかなる「移動」や「拡散」や「集中」があったか、その類の事実はいっさい不明である。この点、たとえば寄生虫の場合のように「ベーリンジヤー通過説」を否定することも、また逆に肯定することもできないのである。それらとは、基本的に学問の方法を異にしているからだ。
 以上のように、各学説、各様各別でありながら、その「指示するところ」が、なぜ大局において一致しているか。少なくとも、共通の方向性をもっているか。それがこの本質だ。キイ・ポイントなのである。こう考えてみると、四学説間に、それぞれ差異のあることは、実は「弱点」なのではなく、逆に一定の事実に対する「強い立証力」をもつものなのでばあるまいか。

 学問から理性が生まれたのではない。人間の理性から学問は生まれたのである。微細な注意点を精細に検証すること、それはもちろん、学問に不可欠だ。だが、それ以上に不可欠なのは、「大局からの視点」ではなかろうか。人間の理性にもとづく、大局的判断だ。そのような立場に立つかぎり、この四者が同一の史科事実を、なんらかの形で、それぞれに反映していることは、疑いえないのではあるまいか。これらを単に「偶然的一致の偶然的結合」と見なすこと、それは、かえって人間の理性的判断に反するものなのではあるまいか。
 以上を「四柱の論証」と呼ぶ。この論証の成立したその翌年、それがメガーズ博士の来日十日間の年に当たっていた。


     六

 この「四柱の論証」は、エヴァンズ説にとってのみならず、わたし自身の論証にとっても意義深いものとなった。なぜなら、わたしの論証には幾多の「仮説」が含まれている。もちろん、単なる“憶測”ではなく、それぞれ史科批判の上に立つ「論理性」をもつものであるけれども、幾つかの論証の積み重ねの上に立つ帰結だったからである。その子細は次のようだ。

 一、「二倍年暦」−−すでに述べたように、わたしはこの仮説に立ったため、「船行一年」を実は半年(六カ月)のことと解した。それゆえにその到達点を「南米西海岸北半部(エクアドル・ペルー)」と定めえたのである。さもなくば(もし、一年間そのままだったとすれば)、到着点は、あるいは大西洋岸に至るか、あるいはタヒチ島方面に向かうこととならざるをえなかったであろう。
 今回の「四柱の論証」の成立ば、この「二倍年暦」の仮説が正当であったこともまた、裏付けたのである。
 なおこの「二倍年暦〕の源流が、太平洋上の島々(パラオ島をふくむ)にあつたことを、今年三月(一九九六年)、直接現地におもむき、確認することができたのであるが、この点、別論文で詳述した。

 二、「短里」−−三国志全体が「一里=約七十七メートル」の「短里」により、倭人伝もまた同一の「短里」による。これは、わたしが年来提唱してきたところ、これが「周朝の短里」の復活としての「魏・西晋朝の短里」である、というのが、その仮説のボイントであった。谷本茂氏との共著である『古代史の「ゆがみ」を正す』(新泉社一九九四)に、その詳細が述べられている。
 今回のケースも、帯方郡治(ソウル近辺)から「邪馬壹国」さらに「倭種」「侏儒国」と、その間はいずれもこの「短里」によって測定されたものだ。その上にたっての「東南、船行一年」なのであるから、「四柱の論証」によって「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」が裏付けられた以上、その「基礎論証」としての「短里」仮説もまた正しかった。そのように考えざるをえないであろう。なぜなら、計測方法の「主柱」をなす、「短里」仮説はまちがっているが、その計測結果にたつ最終帰結だけは正しい。およそそのような道理は、この世に存在しえないからである。

 三、「邪馬壹国」−−「四柱の論理」成立の波及効果は、右にとどまらない。日本古代史上、最大の懸案ともいわれる、いわゆる「邪馬台国」論争にも終止符を打つ、そのような効果をも、必然的に“ともなわざる”をえないのである。

 なぜなら、今までの論述でも明らかなように、最終地点たる「裸国・黒歯国」に至るべき、日本列島内の始発点、それは他でもない、この「邪馬壹国」だったからである。この中心国たる「女王国〕をもって“博多湾岸とその周辺”と見なす立場、これこそがそれ以降の「測定」の基点をなしていたこと、これはいうまでもない。
 右のような基点は、「部分里程の総和は、総里程でなければならぬ」という当然の要請にもとづき、従来“見過ごされていた里程”たる、対海国(一辺、約四百里)、一大国(一辺、三百里)の各半局を加えることによって成立した。いわゆる「半周読法」である。これによって、文字通り「部分の総和は全体」という公理が満足させられると同時に、部分里程の最終地点たる「不弥国」(博多湾岸)において、すでに「総里程」は終わった、と見なすこととなった。従って必然的に、「不弥国は邪馬壹国の玄関である」 という命題が生まれた。その結果、邪馬壹国、すなわち「女王国」は、“博多湾岸とその周辺”という帰結を生んだのである。
 その帰結を「基点」として行った測定結果が正しかった。「裸国・黒歯国、南米西海岸北半部説」は妥当していた。それが「四柱の論証」によって裏付けられた、となれば、それは必然に、計測の「基点」自体が正しかったことを意味せざるをえない。人あって、いかにしてこの結果をまぬがれんと欲しても、それはついに空しい。天に向かってつばして、天をよごさんと欲する類の挙と同一であろう。


     七

 この問題のもつ波及効果は、あまりに大きかった。大きかっただけに、逆に疑問をいだく人もあるかもしれぬ。今まで、わたし以外のどの「邪馬台国」論者も、いっせいに、申し合わせたように無視もしくは軽視してきた「裸国・黒歯国」記事、そのような、倭人伝中でも“枝葉末節のつけたし”のように思えた記事に、それほどの「邪馬台国」決定力があるはずがない。そういう、一種の“既成の通念”をもつ人々は、いまだに決して少なくないのであろう。これが問題のポイントだ。
 だが、実はそうではない。「裸国・黒歯国」記事こそ「倭人伝の核心」である。「倭人伝の中心テーマ」なのだ。以下に簡約しよう。
 キイ・ワードは「(侏儒国)女王を去る、四千余里」の一句だ。一般に信じられてきたように、「邪馬壹国」すなわち女王国の存在、そしてその記載が倭人伝の中心目的であったならば、右の一句は不要である。「邪馬壹国以前の里程」こそ有用なれ、そこへ到着したあと、またも「里程」を記すことなど、全く不要だ。事実、投馬国や狗奴国など、「侏儒国」よりはるかに“重要”と見える国でも、女王国からそれらの国に至る「里程」など、一切書かれていない。

次に問題の本質を述べよう。

   (1)洛陽〜帯方郡治(里程は公知であるから歴史書に記載は不要)
  (2)帯方郡治−邪馬壹国(一万二千余里)
  (3)邪馬壹国−侏儒国(四千余里)
  (4)侏儒国−裸国・黒歯国(船行一年)


 右のように、第一原点(洛腸)、第二原点(帯方郡治)、第三原点(邪馬壹国)、第四原点(侏儒国)、第五原点(裸国・黒歯国)という「五点の総行程〕をしめす形で、倭人伝は構成されているのである。いいかえれば、「裸国・黒歯国」という“東の極点”にして“認識の東限”をなすところ、その地は中国の天子の都、洛陽からどれだけ離れているか、その地理的極限認識の記載こそ、倭人伝の主目的だったのである。
 このような見地からすれば、邪馬壹国そのものは、いまだ「途中経過地」にすぎぬ。だからこそ、女王国到着直後、さらに「女王を去る四千里」というこの明白な「里程記載」が必要だったのである。
 もちろん、中国側が女王国自身に対して多大の関心をもったこと、それは自明だ。倭人伝内の記事の豊富さが、何よりもそれを証言している。また呉との軍事的対立の中で、倭国のもつ軍事的意義に注目していたことも確かであろう。しかし、それにもかかわらず、倭人伝全体の構造から見れば、右に指摘した「五点の行路」記事が倭人伝構成の主柱、いわば、「文脈の背骨」の位置を占めることを見逃すことは不可能なのである。
 これに反し、倭人伝を論ずるにさいし、「邪馬台国」にのみ焦点をあて、「裸国・黒歯国」の存在や意義など一切不問に付してきた、従来の「邪馬台国」論者、それは“日本列島中心の視点”にのみ画執して、「中国側の視点」を根本的に無視した、夜郎自大の論にすぎなかったのではなかろうか。 これに対し、中国の史家、陳寿にとっては、西の果て、「日没する処に近き」地に至る認識をしるした漢書(西域伝)、史記(大宛列伝)、史書の歴史伝統を継承し、東の果て、認識の極点への行路をしるす、そのためにこその倭人伝だったのである。「洛陽中心の倭人伝」この自明の見地を彼等は忘失していた。 −−後代の史家からそのように評されても、あるいは止むを得ぬのではあるまいか。


     八

 「侏儒国」の地と見なした、高知県の足摺岬近辺に対して、わたしは何等の知見も土地鑑ももっていなかった。
 しかるにいま、この三年余りの間、すでに十四回も現地に足を運ぶに至ったのは、一九九三年の一月初め、わたしのもとに送られてきた一通の書簡のためであった。現地の方からのものであったが、その中の十数枚の写真がわたしをとらえた。それが唐人石、唐人駄場を中心とする足摺岬周辺の巨石群であった。それらはわたしに「何物か」のインスピレーションを与えた。ためにその月の終わり、当地を訪れることになったのである。*5
 その年の四月以降、三年間にわたり、土佐清水市の教育委員会から委託を受け、各界の専門家の協力をえた結果、調査報告書を作製しうるに至った。その内容は、本書の公刊以前に公表されているから、詳述しない。ただ、その要点は次のようなものだ。

(1)当地の巨石群は、自然の「摂理」をもつ自然巨石を中心にしながら、他(人間)の手で付加されて「三列石〕や「環状列石」などとして全体が構成されている。

(2)右の点、最高蜂白皇山(佐田山)の第二峰をなす、Bサイト項上部巨石群に対する研究調査によって確認された(岩石学の加賀美教授による)。

(3)当地の巨石群に多い三列石」「男女のシンボル石」「(海に向かった、鏡状)平面石」「亀状の巨石」等、いずれも右と同じく、

 (a)自然物、
 (b)自然物プラス人工の付加、
 (c)人工的、のいずれかに属する。
その典型的なものは、(b)のケースであろう。


(4)それらが「構築」された時期は、今後の課題であるが、当地の状況から見れば、「縄文期」の可能性が高い。なぜなら、

1) 当地の巨石群は、東京ドームの十倍、二十倍にもわたる広領域に、点々と分布している。それらを祭祀等の対象とした人々の人口は、かなり多大と考えざるをえない。

2) 当地の畑等から頻出する土器類の大半は、縄文土器および黒曜石(大分県姫島産)の鏃であり、弥生式土器や土師器、須恵器などおよびそれ以降の土器類は激滅する。すなわち当地において多大の人口を擁していた、その痕跡を有するのは、「縄文期」にほぼ限られている。

3) 以上の状況から見て、前述の“予想”が一応えられるものの、詳細は、今後の本格的な、考古学発堀の継続的実施にまたなければならない。


以上だからである(なお同報告書中には、種々の立場からの報告・論文がふくまれている。参照されたい)。


     九

 ここにおいてわたしは、右の報告書以後に発見した新事実を記する。それは当遺跡の中心に位置する、唐人石、唐人駄場のもつ意義である。

(1)「唐人」の字面は“宛て名”だ。だから本体は「とうじん」という発音にあたる。

(2)「とうや」制度は、関東から関西まで各地に分布してる。「おとう」とは“神”を意味する言葉である(「神」と書いた木札を背中に指す。関東の「おびしや」の「とうや」制。萩原法子氏による。肥後和男『宮座の研究』弘文堂、昭和十六年刊、第二篇第八章當屋に詳細な調査報告がふくまれている)。

(3)和歌山県新宮市の「おとう祭り」において、御神体とされているのは、しめ縄の張られた巨石である。それは、足摺岬周辺の「灘の大岩」と呼ばれる巨石と相似しているこの「大岩」も、今回の実験調査の対象となった。右の報告書参照)。これが「おとう」の本体なのである(「お」は敬称)。

(4)「とうじん」の「じん」は「神」。神社の「神」であろう。古来から「とう」と呼ばれているものが「神(かみ)」すなわち“御神体”であることをしめす。「大塚古墳「車塚古墳」などの「大塚」「塚」と「古墳」は同意。また、「大日霊貴尊(オオヒルメムチノミコト」「大己貴神(オオアナムチノカミ」などの「貴(ムチ)と「尊(ミコト)」「神(カミ)」は、同類の尊称であるが、前宗教圏の「貴(ムチ)」(「チ」は“神”を意味する)と、後宗教圏「尊」「神」とが“相重ねて”用いれている。同意「複合使用」の実例である。
 倭語(和名)の「とう」と漢語の「じん」の「複合使用」もまた、この類の使用法のひとつと思われる。

 右の認定は、これを確定するためには、なお幾多の裏付けが必要である。しかしながら、現在のところ、もっとも有力なる仮説として捉起させていただきたい。もしこれが確定されれば、ここでも幾多の波及効果を生ずるであろう。稿を改めて詳論したい。


     十

 今回、メガーズ博士は来日に際して、ひとつの学的課題を日本にもたらされた。コロンビアのサン・ハシント遺跡の出土土器の紹介である。具様な文様をもつ、華美なデザインの土器であるが、日本列島の中央部、長野県(勝坂2式)や新潟県(火焔式土器)などと、不思議な共通性、もしくは対応性をもつている。
 博士は、この土器をめぐる「日本列島−南米」間の交流の可能性を求め、これに対する日本側の学者の「意見」や「情報」に接することを、今回の来日の大きな“目的”としておられたのである。その詳細は、「縄文ミーティング」(全日空ホテル、十一月三日)や「(追加)ミニミーティング」(学士院会館本郷別館、十二月十日)に関する、本書の報告をご覧いただきたい。
 わたしにとって印象的だったのは、本来、エヴァンズ説に対して“否定的”であった小林達雄教授(国学院大学)が、このサン・ハシント遺跡の土器に関しては、「これは確かに、似ているんですよ」と、むしろ当惑気味ながら、率直に語っておられたのが、忘れえぬ記憶となった。今後の対照研究に期待したい。

その対照研究に必要なものは、次の三点であろう。

(1)サン・ハシント遺跡と同様に、日本側の縄文土器に関しても、放射能測定、その他の科学的測定値を提出すべきこと。

(2)日本の考古学者が調査団を組織し、当ハシント遺跡を十分に研究調査すること。

(3)加えて、おくればせながら、エクアドルのバルディビア遺跡に対しても、日本側の考古学者とその調査国が、エヴァンズ夫妻らの研究調査より、さらに広く、さらに深く(縄文早期や旧石器時代に“相当”すべき地層など)発堀調査すべきこと(これと、右のサン・ハシント遺跡との関連の有無の調査が必要である)。

以上が、二十一世紀の、世界の考古学者に報告される日、そのような未来に待望したい。


     十一

 一九九五年の十一月二日、国会議事堂わきの憲政記念館において、和田家(青森県五所川原市)秘蔵のエジプトの神像類とギリシアの壷が“公開”された。メガーズ博士の来日記念講演に次ぐ、わたしの講演のさいであった。
 天明年間(一七八一〜八九)、秋田孝季(天明・寛政期の学者、書写編集者)らが田沼意次の命を受け、中近東におもむいたさい、入手したという。近世の国際交流の、隠された一場面だ。同じく、ジョン万次郎の漂流を発端とする、日米国際交流を記念する、今回の催しの一端として、わたしの講演の中で紹介させていただいたのである。
 わたしの学問的視野の中では、エヴァンズ説と和田家文書(及び関連宝物)との間には、一つの共通項があった。すなわち「それ自身は無二の価値をもちながら、当代の学界の偏狭な定見に合致せぬため、それが受け入れられずに月日を経てきた。ともに人類損失である」この一点だ。

 今、多言を要せず、和田家文書をめぐって発見された、珠玉のテーマを簡記したい。

(1)和田家文書の中心をなす「東日流外三郡誌」によれば、秋田家(三春藩主)の祖とされる安日彦、長髄彦は「筑紫日向の賊」に追われて当地(津軽)に来た、という。

(2)「筑紫日向」は「ツクシのヒュウガ」(九州の日向の国。秋田孝季の理解)ではなくて、「チクシのヒナタ」(福両市の西、高祖山連峰。日向峠、日向川あり。いずれも「ヒナタ」と読む)である。

(3)古事記・日本書紀の神話の中心をなす「天孫降臨」の地、「筑紫の日向の高千穂のクシフルダケ」も、本居宣長以来の通説のような「南九州の霧島連峰付近」ではなく、「福岡市の高祖山連峰付近」である。

(4)その証拠の一つには、南九州の場合、「クシフルダケ」が存在しないのに対し、高祖山連蜂中には存在し、農民の日常使用地名に属する。その二は、高祖山連蜂は「吉武高木,三雲,須玖岡本・井原,平原)といった、三種の神器(鏡・剣・勾王)をもつ弥生の王墓に囲繞されているのに対し、南九州にはそれが一切ない、この点が重要だ。

(5)神話と考古学的出土状況との一致、それはかつてシュリーマンが『イリヤッド』(イリアス)とヒッサリクの丘発掘状況との一致を証明したのと、同一である。

(6)古事記・日本書紀にいう「天孫降臨〕の主、「ニニギノミコト」は、すなわち「東日流外三郡誌」に記す、「筑紫日向の賊」にあたるものと見られる。

(7)博多湾岸を中心とする筑紫近辺では、「弥生前期末、中期初頭」において考古学上の出土状況に一大変動の生じていること、著名である。「前末、中初」の一線である。

(8)縄文晩期・弥生前期の水田として有名な板付遺跡は、「中期以降」消滅している。一方、津軽(青森県)において弥生前期(弘前市砂沢)、弥生中期(南津軽郡田舎館村)の水田が発見された。

(9)「東日流外三郡誌」では、安日彦・長髄彦は、“稲をもたらした人”として、特記されてい る。
(10)「東日流外三郡誌」では、津軽を中心とする東北地方を「ヒノモト(日下もしくは日本)の国」として、繰り返し表記している(その美称としては「日高見」がある)。

(11)博多湾岸にば「ヒノモト」の字地名が集中している。板付にも「ヒノモト」という字地名がある(福岡県では五カ所)。

(12) 一個の人間集団がA地からB地へ移動するさい、A地の旧地名を“持って”B地の新住地へ移る。その例は多い。ヨーロッパからアメリカへの移民の例は有名であるが、日本でも、黒田家が岡山から博多への“領地代え”のさい、福岡(岡山市内)の地名を“持って”移り、これが現福岡県、福岡市の地名のはじまりになったことは、周知だ。

(13) 安日彦たちも、「ヒノモト」の地名を持って津軽に移り、そこを「ヒノモト」と称したのではあるまいか。

(14) ながらく難題であった「なぜツガルを東日流と書くか」という疑問も、これによってはじめて氷解した。「日ノ本」の地名を持って、ここ東なる津軽の地へ流れ来た、の意である。「流れる」とば、対馬海流上の東遷を指す。

(15) 北部九州の縄文、弥生前期水田が、なぜ「東北北地方の中・南部」を飛び越えて、まず津軽にはじまったのか。この水田分布上の謎も、実は「東日流外三郡誌」の記述と一致していたのであった。

(16) 以上、歴史の画期点を要約すれば、「弥生前期以前、『日本(ヒノモト)』と呼ばれていた国は、『倭国』と呼ばれた国によって交代された」となろう。倭国とは、志賀島の金印(紀元五七)にも表現された「委(=倭)」である。
(「倭奴国」は、後漠の光武帝のライバル「凶奴」に対する表記。“従順な部族”の意)。

(17) 右の記述を明確に裏付けるもの、それは意外にも、新唐書(一○六○)である。「日本はすなわち小国、倭の為に併せらる。故に其の号を冒す」
 右に言うところは、「志賀島の金印から白村江の戦い(紀元六六二あるいは六六三)に至る倭国、その成立以前に存在した古代日本国を併合し、支配して成立した。今回、その由緒ある『日本』の国号を復活させ、継承したのである」だ。

 古事記・日本書紀等の「目」だけからは意味不明の一文だが、今回、右のような「東日流外三郡誌」の解明によって、ぴったり文字通りだったことが判明するに至ったのである。「東日流外三郡誌」と古事記・日本書紀と新唐書、さらに「水田の東方伝播」という遺跡事実、これらを一貫して理解しうる学問的伝説、それはすなわち史実そのものをしめしている、そのようにわたしは考えざるをえない。*6
 シュリーマンの画期的発掘のあと、彼を「詐欺師、(買い入れた骨董品を発堀品と称する)ペテン師などとする攻撃が凄烈を極め、そのため彼の業績を世界史的に“とらえ直す”作業が滅速している。人類の大きな損失である。

 今回も、和田喜八郎氏へのいわれなき中傷・攻撃が一日も早く終息し、新たな歴史像の構築が建設的に進展することが望まれる。 今回の孝秀遺品(エジプト神像等)の「公開」が、その一契機になれば幸いである。


制作者 補注(1997.12.1)
 尚、和田家文書(東日流外三郡誌)については、所有者和田喜八郎氏が偽作したとして、訴えられていた裁判は「和田喜八郎氏の偽作説は成り立たない。」という最高裁判所の審判が下りました。
 (朝日新聞 1997年10月14日参照 「著書は盗作ではない。」ー最高裁、真偽論争に決着ー)




     十二

 最後に一言する。今回の記念すべき講演・討論集に対し、書肆の求めに応じて寄稿した、わたしの立場は次のようである。

 第一に、わたし自身の見解を、何者にも忌避、遠慮の念をもたず、率直に記したこと。これ、執筆者として当然にして自明のことながら、今回の十日間の記念行事を通じて、わたしは常に、開催者ないし司会者側にあったから、必ずしも直言を第一義とはなしえない立場にあった。
 けれども反面、一冊の本として公布されるとき、それを求めた読者にとって、“物足りぬ”一面を示すに至るかもしれぬ。それゆえ、敢えて当稿において、過不足なき直言を尊ばんと欲したのである。

 第二に、右の事実は逆に、読者の思考に対して、何の「束縛」をも与えんと欲するものではないこと、当然である。叙述に対する肯定と否定、賛否の存するところは、読者にとって不可欠の、神聖なる基本権利に属するものだからである。
第三に、しかも本書の性格上、計論、討議の間に、各界の専門家による忌憚なき痛論が展開されている。それによってわたし自身とは立場を異にする、また相反する貴重な意見、主張の存在を、的確に読者は知るであろう。

 いずれなりとも、自由に取捨してほしい。これがわたしの究極の願いである。

 なお、末筆ながら、今回の事業に対し、先導と後援を賜った、ジョン万次郎とウィットフィールドの国際交流に対する記念センターと、国会議員の平野貞夫氏、また、高知県土佐清水市と足摺岬巨石文化研究会の方々に、さらに、東方史学会のために御支援賜った、各読者の会や知己の方々に、深く感謝する。
 そして何よりも、各界から当事業にご参加、ご協力いただいた方々に対して、失礼の数々をおわびし、心の底から御礼申し上げたい。

《注》
*1) C‐Lライリー他編・古田訳著『倭人も太平洋を渡った』(創世記、再刊、八播書店)
*2)  同右書
3) 「関西大学考古学研究室開設参拾周年記念、考古学論叢」昭和五十八年三月刊
4) 古田「貴重なエバンス説への反論−−西藤氏の場合」『古代史を疑う』(駿々堂刊)
*5) 平野貞夫氏
*6) 唐書旧と新唐書との関係は、従来「誤解」されてきたように、必ずしも相反するものではない。この点を含み、本問題(日本と倭国)の詳細に関しては、「日本の始まりーー『東日流三郡誌』抜きに日本国の歴史を知ることはできないーー」 古田史学の会・北海道ニュース第五号ー 一九九六年七月ー 参照 )

2016.2.25 大下隆司氏の指摘により 「アウラージョ」を「アラウージョ」訂正済み 下の2カ所です。

1,第二は、「寄生虫の論証」である。一九八○年、ブラジルの奇生虫研究の専門家グループ、アラウージョ博士等による共同報告である。
2,その放射能測定値は、はじめ「三五○○年前」頃(縄文後期)と伝えられたが、一九九五年、わたしの手元に到着した、アラウージョ博士の三十余篇のリポートによると、・・・


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著作 古田武彦