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『邪馬壹国の論理』(ミネルヴァ書房)IV
2010年6月刊行 古代史コレクション4

倭人の南米大陸への航行について

ーーその史料と論理ーー

〔本稿は英訳論文の原文としてまとめられた。したがってわたしの従来の論文・著書の内容と方法の要約を含んでいる〕

   一

 科学は時として既成の常識に反し、全く新しい概念へとわたしたちを導くことがある。この論文では、次の命題が学問的に有意味であることが論述される。すなわち、 ーー“三世紀以前、倭人は太平洋を越えて航海し、南アメリカ大陸西岸に到着したことがある”と。
 この種の命題は、かつてわが国の研究史上において論ぜられたことがなかった。その理由は、第一に、『古事記』『日本書紀』(八世紀初頭に、天皇家の史官によって編集されて成立した歴史書)がわが国の従来の歴史知識の主要な源泉とされてきたこと。第二に、『三国志』(中国において三世紀に、『史記』『漢書』をうけつぐ「正史」として成立した歴史書)の中の魏志倭人伝に対して、従来の研究者は“誇張と誤謬が多い”という評価を下してきたからである。
 しかしながら、研究の進展によってこの『三国志』に対する判断は、基本的な誤認の上に立っていることが明らかとなってきた。
 (一)倭人伝の中に記載されている、一見巨大な里数値(たとえば「帯方郡治 ーー女王国〈邪馬壹国〉」間の距離を一万二千余里と記載する)は、決して誇大値ではなかった。なぜなら、三世紀の魏・西晋朝においてはその里数値は漢代の約六分の一の里単位にもとづく実定値をしめすものであった(古田著『「邪馬台国」はなかった』および古田稿「魏晋 (西晋)朝短里の史料批判」参照)。しかるに、従来の研究者たちはそのような「里単位の変動」という根本問題を顧慮しなかった。ために、たとえば右の「一万二千余里」という記載に対し、これを“法外な誇大値”であるかのように錯認したのである。
 (二)同じく倭人伝中に倭人の寿命について「其の人寿考、或いは百年、或いは八、九十年」と記載されている。一方、『三国志』全体の中に年齢の記載されている中国人の事例九十名について調査すると、その平均は、五十二・五歳である。そしてこのうち、特に高齢者であるため記載された例を除いてグラフ化すると、「三十代と四十代」が頂点となっている。
  また一方、日本列島に出土する弥生人の人骨に対する調査も、当時の倭人の寿命が決して平均九十歳前後もの長寿ではなかったことをしめしている。このため、従来の研究者たちは、このような倭人伝の記述に対しても、誇大にして信用できないものと見なしてきたのであった。
 しかしながら、『三国志』とほぼ同時代に成立した『魏略』(魚豢(かん))の記事によると、「其の俗正歳四節を知らず。但ゝ春耕・秋収を計りて年紀と為す」と書かれている。「正歳」とは、中国の陰暦の正月、「四節」とは当時の中国で行われていた暦(景初暦・正嘉暦等の太陰暦)の体系をさしているのである。
 ところが、このような「正しい暦の体系」を倭人は知らない。しかし、それに代わって別種の暦(年の算出方法)を倭人は、慣例としている。すなわち、春耕と秋収の二点を計算してそれぞれを年紀(年のはじめ)とする、そういったやり方で倭人は年を計算している、というのである。
 こうしてみると、先の倭人の寿命(平均約九十歳)の記載は、実はこのような方法で計算された寿命ではなかったか、という問題が浮かび上がってくる。
 またこの点をさらに補強する史料がある。それは先にあげた『古事記』『日本書紀』においても、古代天皇の寿命がいずれもいちじるしい長寿として書かれている点である。その平均は、八十七・五歳(『古事記』)、九十三歳(『日本書紀』)であり、先の倭人伝の記載と一致しているは、最高は、百六十八歳〈『古事記』〉と百四十歳は〈『日本書紀』〉)。
 また朝鮮半島側の古典『三国遣事』(高麗の史書、十三世紀)にも、その中に収録された古記録「駕洛(からく)国記」には、百五十八歳(王)、百五十七歳(王妃)の年齢が記載されている。この駕洛国は、朝鮮半島南端であり、日本列島の九州北岸と海を隔てて相対峙している。
 このような事例から見ると、日本列島とその近辺においては、「二倍年暦」(一年に二回齢をとる、という計算方法)が行われていた、という事実を帰納することができる。このようにしてみると、先の倭人伝における陳寿の記述は、やはり「正確な現地取材の情報」を反映した記事であったことが判明する。すなわち、決してこれは“誇大や不正確”の記事ではなかったのである。
 以上の二例によって、わたしたちは次の命題を認識することができる。“三国志魏志倭人伝の記述方法は、真実(リアル)である”と。

 

   二

 このような倭人伝の史料性格に対する認識は、わたしたちの注目を、倭人伝中の次の一節に向けさせることとなった。
 ーー 又裸国・黒歯国有り。復(ま)た其の東南に在り。船行一年にして至る可し。

  右の文において基準点となっているのは、当然、日本列島の倭国(九州北岸に都をもつ)である。ここから方角において東南、所要日数において一年の航海ののち、到達する地点とは、いずれの地であろうか。ただ、このさい、注意すべき点が四つある。
 (1).この記事が倭人伝内に記されていることからすると、当然“魏使(中国側から倭国に行った使者)が倭人からえた情報”にもとづく記事であると考えられる。したがってこの「一年」も、倭人の「二倍年暦」にもとづく表記であり、通常の表記では、「半年」に相当する、と考えられる。
 (2).『三国志』(「倭人伝」をふくむ)内の表記のルールによると、方角は原則として「直線方向」をしめすのに対し、距離や所要日数は、直線距離ではなく、“実際の行路に従った計測にもとづく数値”が使用されている(古田著『「邪馬台国」はなかった』参照)。これは“その土地に至る実際の行路をしめす”という実用的な『三国志』の記載方法から見れば当然といわねばならぬ。したがって右の文においても、「東南」は直線方向であるけれども、「船行一年」は決して直線距離ではなく、海流等による実際の航路に従った所要日数を記したものと見なされる。
 (3).その航海の到着地点は、決して「小さな島」のようなものではなく、「巨大な陸地」つまり大陸に類するものであろうと思われる。なぜなら、もしこれが「小さな島」の類であったなら、右のような簡単な方角と所要日数の表示だけでは、到底その地点を指定するには、不十分であり、かつ実際的でないであろう。そしてそのような“非実際的な記事”は、『三国志』全体の史料性格と表記のルールに反するからである。
 (4).右のような大まかな指示によって必ずその地に「至ることができる」という確信の、もう一つの源泉は、次のような倭人の「実際の知識」にもとづいていると考えられる。それは、“いったん海流に乗ずれば、人は必ず一定の地点に運ばれてゆく”という海流の知識である。すなわち“海流のルート”がそれである。
 以上のような立場から、先の一文のさししめす所を地図上に検してみよう。その帰結は、ただ一つである。
 (A)日本列島南辺より舟が黒潮に乗ずれば、必然に北太平洋海流に乗じてアメリカ大陸に到着せざるをえない。
 (B)しかし、北米大陸は、日本列島の東南に当たっていない。その上、「日本列島 ーー北米大陸」間の所要日数は、後述のように約三カ月である。
 (C)これに対し、日本例島の東南方向の彼方に存在する大陸はただ一つ、すなわち南米大陸である。そしてここは後述のように日本列島からまさに“ほぼ半分”の航行地域に相当する。よって、右の一文の指定に妥当している。

 次に航行日数についての記録をしめそう。
 (一)まず「日本列島 ーー北米大陸」間の横断日数について、最近の日本の青年たちによる実例をしめす。(いずれもヨットによる)。
 (a).堀江謙一氏 一九六二、西宮 → サンフランシスコ。三カ月と一日
 (b).鹿島郁夫氏 一九六七、ロサンゼルス → 横浜。  三カ月と十日
 (c).牛島龍介氏 (往)一九六九、博多 → サンフランシスコ。二カ月と二十日
        (復)一九七〇、エンセナダ〈メキシコ北端〉 →博多。二カ月と二十七日
 (二)一九四七年四〜八月に、ヘイエルダールたちが筏のコン・ティキ号によっておこなった、有名な実験によれば、「南米大陸(リマ) →タヒチ島」間を約三カ月(三ヵ月と十一日)で航行している。

 以上の二例から判断すると、「日本列島 →北米大陸西岸 →南米大陸西北岸」の場合、これを“約半年の航行距離”と見なして大きな誤差はないであろう。
 このように、倭人伝中の一文は南米大陸西北岸を指している、と理解されるのである。

 

   三

 以上の分析は、倭人伝中の一文に対する“もっともストレートな理解である。けれども他面、「歴史上の事実」としてこれを見ようとする場合、一つの大きな問題点が残されている。それは、たとえ『三国志』の記述のしめすところがそのような帰結であったとしても、この一個の孤立した史料だけでは、その史実性は、保証しがたいであろう。なぜなら“異系統の二史料のさししめす点が一致したとき、はじめてそれを史実と見なしうる” ーーこれは、歴史理解の基本的なルールであろうから。
 ところが、さらに別種の史料が見出された。『文選』(梁の昭明太子撰、六世紀)に収録された「海賦」(晋の木華作、三世紀)がそれである。この史料は従来はただ文学上の題材としてのみ扱われ、かつて歴史上の史料として検討されたことはなかった。しかし、その内容は、明らかに三世紀の倭人に関する史料であった。まずその理由をのべよう。
  (1)この史料には倭人の習俗である「持衰(じさい)」の記事が現れている。
  (a)若し其れ、穢(わい)を負(お)うて深きに臨み、誓いを虚(むな)しうして祈りを愆(あやま)てば、・・・(「海賦」)
  (b)其の行来・渡海、中国に詣(いた)るには、恒(つね)に一人をして頭を梳(くしけず)うず、[虫幾]蝨(きしつ)を去らず、衣服垢汚(こうお)、肉を食わず、婦人を近づけず、喪(そう)人の如くせしむ。之を名づけて持衰(じさい)と為す。苦し行く者、吉善なれば、共に其の生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭(あ)えば、便(すなわ)ち之を設さんと欲す。
其の持衰謹(つつし)まずと謂(い)えばなり。(『三国志』魏志倭人伝)
 
[虫幾](き)は、虫編に幾。JIS第3水準ユニコード87E3

 右の (a),(b)が同一習俗の表現であることを疑うことはできない。

 (2)大陸(朝鮮半島南端)からこの国(倭国、九州の北岸)に至る距離が同一(三千里)である。
 (a) 一越三千  (「海賦」)
 (b) 狗邪韓国 ーー 対海国(千余里)
   対海国  ーー 一大国(千余里)
   一大国  ーー 末盧国(千余里)
          計   三千余里(合計値としてインターネットでは表示)
(b)の方が狗邪韓国(朝鮮半島。釜山近辺)から末盧国(日本列島、九州北岸・唐津近辺)までの間を途中経過の島々(対海国〈対馬〉、一大国〈壱岐〉)をふくんで詳細に書いているのに対し、(a)の方は、同じ海上ルートながら、直線的、概括的に描かれている。(a)が海上ルートであることは、「海賦」の文中に「海に汎(う)かび」「帆(はん)席を卦(か)け、濤(なみ)を望んで遠く決(わか)れ」等とあることから明白である。けれども両者、同一の海上距離の表現であることは明らかである。

 (3)卑弥呼を女王とする国(邪馬壹国)の危難に対し、中国(魏)が女王側の求めに応じて急援したという歴史的事件が書かれている。
 (a)若し乃(すなわ)ち、偏荒速(すみ)やかに告げ、王命急(にわ)かに宣すれば、・・・
 (b)倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素(もと)より和せず。倭載・斯烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)って之を告喩(こくゆ)す。 (『三国志』観志倭人伝)
 
 ここにおいても、両者同一の状況が表現されている。
 さて、「海賦」の作者木華(字(あざな)は木玄虚)は魏晋(西晋)朝の中枢に位置した官僚(楊駿の府の主簿)である。ところが、『三国志』の著者陳寿も同じ王朝の史官である。つまり、両史料を書いた二人は、共に魏晋朝の史官である。したがって右の類似記述はすなわち同一の事実を背景にしていること、これを疑うことはできない。
 いいかえれば、「海賦」のこれらの記事は、倭人に関する史料である。ここに日本古代史の研究は、三世紀の倭国に関する新しい中国史料を、依拠丈献として加えることができるようになったのである。

 

   四

 “「海賦」は、倭人に関する史料をふくんでいる” ーー前節で証明されたこの命題は、わたしたちを次の問いへと向かわせる。それは、この倭人の史料は、「海賦」全体の中でどのような位置を占めているか、という問題である。いいかえれば、それは、「海賦」中の片隅に一つの挿話(エピソード)として顔を出しているだけなのか。それとも、「海賦」全体の中でなくてならぬ重要な役割をになって出現しているのか、という問題である。
 その答えは、まがうかたなく後者である。なぜなら、右の(1)の(a)の「持衰」記事のあと、倭人の数奇な航海の描写にうつり、その倭人の不可思議な経験の結果としての、海の彼方の道の世界の見聞が記せられているからである。すなわち、この海賦は、「倭人の東方への数奇な航海経験」を中国人(魏晋朝中枢の官僚)が記したもの、そういう性格の文献なのである。
 右の「持衰」の記事のあと、「海賦」はまず次のように書く。
 是において、舟人漁子、南に徂(ゆ)き東に極(いた)る、
 ここで「徂(ゆ)く」とは、“ある地点までおもむく”の意であり、「極(いた)る」とは、“極点に到達する”の意である。したがってこの舟人(倭人)は、日本列島(九州)から南方の海上に出で、そこで東に方向を転じ、その東方の極点に到着する、というのである。この場合、この舟人を導いている真の動力は、当然、大自然の海流である。すなわち、日本列島南方から北米大陸西岸に向かっている、黒潮と北太平洋海流がそれである。
 この後、この舟人の航海はさらにつづく。

 或いは、 [元/黽]ダ*(げんだ)の穴に、屑没(せつぼつ)し、
 或いは、岑[山/敖](しんごう)の峯に挂ケン*(けいけん)す。

[元/黽]、元の下に黽。JIS第4水準、ユニコード9EFF
[元/黽]ダ*(げんだ)のダ*は、口二つの下に田。その下に黽。JIS第4水準、ユニコード9F0Dの別字。
[山/敖]、山の下に敖。
挂ケン*(けいけん)のケン*は、[四/口/月]で、四の下に口、その下に月。

 その結果、彼等は、ついに終着点に着く。 ーー裸国・黒歯国である。
或いは、裸人の国に、掣掣洩洩(せいせいえいえい)し、
或いは、黒歯の邦に、汎汎(はんはん)悠悠(ゆうゆう)し、

  そしてその帰途について、次のように記している。
  或いは、乃(すなわ)ち、萍流(へいりゅう)して浮転し、
  或いは、帰風に因りて以て、自(おのずか)ら反(かえ)る。
 すなわち、いったん潮流に乗ずれば、“自然に故郷(倭国)に帰り着”くことができるけれども、逆にいったんそのルートからはずれれば“浮草のように風浪に翻弄される”、そういう運命にさらされてしまう、というのである。

 

   五

 倭の舟人がこのような辛酸を経て辿りついた大地の光景について、「海賦」は種々の不可思議な描写をおこなっているのであるけれども、それらについての詳細な叙述は、別の論文(「海賦と壁画古墳」)にゆずり、今はその中でもっとも印象的かつ重要な事例を一つだけあげよう。
  若し乃(すなわ)ち、巌[土氏](がんち)の隈(くま)、沙石の[山欽](がけ)に、
  毛翼鄙(ひな)を産(う)み、卵を剖(わ)りて禽を成せば、
  鳧雛(ふすう)、離[ネ従](りし)として、鶴子(かくし)淋滲(りんしん)たり。
  羣(むら)がり飛び、侶(とも)に浴し、・・・

[土氏]は、JIS第4水準、ユニコード577B
[山欽]は、JIS第4水準、ユニコード5D94
[ネ従]は、JIS第4水準、ユニコード8937

 この「毛翼」という動物について、次の特質が考えられる。
 (1).鳥類の中の猛禽類に属する。
 (2).「毛翼」という新語が造語されていることから分かるように、鷲や鷹などの、中国人既知の猛禽ではない。
 (3).形態上、特異な羽毛がいちじるしい特徴をなしている。
 (4).孤生でなく、群生する習性をもつ。
 (5).他の動物の屍肉を食とするかに見える。(右の記述は、海岸にうちあげられた死んだ鯨の屍肉の描写につづいている。)

 以上の特徴を総合すらば、わたしはこれを「コンドル」の描写であると考える。そしてこの猛禽は、南アメリカ大陸西北岸都を棲息地としていることは、周知の通りである。

 

   六

 以上によってわたしたちは知ることができる。『三国志』魏志倭人伝と「海賦」と、この両史料の記載する裸国・黒歯国は同一の領域を指していることを。そしてその領域は、いずれによってみても、南米大陸西岸部を指しているのである。
 両史料とも魏晋朝の史官の記述したものである。
 両史料とも「倭人からの報告」にもとづく記述である。
 しかしながら、両史料は個々に独立した別個の史料であり、一方が他方を転写した、というような同系の史料ではない。
 
 したがって、魏晋朝の史官が倭人からこの東方の“異域の大陸”についての報告を再度にわたってえていた、という事実、すなわち「この種の報告が存在したという事実」は、これを疑うことができない。

 

   七

 しかしながら、このような倭人の報告が果たして客観的な史実の反映であるか、それとも倭人の“興にまかせたお話”にすぎないか、それは必ずしも即断を計さないであろう。なぜなら、ことが異常な事実であるだけ、.わたしたちはこれを事実と判定するについては、決して慎重でありすぎることはないであろうかう。
 この問題に対応する、全く異質の情報がある。すなわち、エクアドルのバルディビア遺跡の発見である。これはアメリカのスミソニアン研究所のクリフォード・エバンス氏、ベティ・ジェイ・メガース氏(エバンス夫人)、エクアドルのエミリオ・エストラダ氏の三人が発見したものである。それは、西紀前三二〇〇年頃の壷であり、その壷は、同じ時期(縄文期)の日本の壷(ことに九州の壷)と“おそろしいほど似ている”という。
 クリフォード・エバンス氏は、その詳細な報告書『海岸部エクアドルの初期形成時代』の中で、両者(日本の縄文土器とバルディビア出土土器)の対照を詳細に行なっている。またベティ・ジェイ・メガース夫人は、その著『先史アメリカ』の中で簡略な対照写真を掲載している(三五〇〜三五一べージ、インターネットは下に表示)。

日本の縄文土器の文様

バルディビア遺跡出土土器の文様

 もっともわたしの注目を引いたものは、クリフォード・エバンス氏の本の中の地図だ(三五三ページ)。

クリフォード・エバンズ氏作成の海洋図

これとわたしが作製した図(三五二ページ『「邪馬台国」はなかった』所収)と比較してほしい。この方は、『三国志』魏志倭人伝の解読結果に従って作製したものである。(このわたしの地図作製のさいは、「海賦」については、未知であった。)

古田武彦作成の倭人ルート

 この両図はおどろくべく相似している(日本列島の九州 →南米西北海岸)。そしてもっとも重大なことは、両地図は、全く別個に独立に作られた、という点である。クリフォード・エバンス氏の本は、わたしの『三国志』魏志倭人伝解読の時期(昭和四十二〜六年)以前の昭和四十年(一九六五)に発行(ワシントン、スミソニアン研究所刊)されているから、当然、氏がわたしの研究を知られることはありえない。
 またわたし自身も、 ーーうかつながらーー 全くエバンス氏の業績を知らなかった。わたしの本『「邪馬台国」はなかった』刊行(一九七一年)のさい、出版社(朝日新聞社)の方から、この情報をえ(『朝日ジャーナル』〈一九七一・七・二三〉の利根山光人氏の文「古代アンデスの謎」を提示していただいた)、それによって一九七〇年十月十六日号の『ライフ』の記事を知り、その後さらにクリフォード・エバンス氏にお便りしてはじめて右の報告書を送付していただいたのである。(右のベティ・ジェイ・メガース夫人の著書〈一九七二、シカゴ、アルディン社刊〉は、一九七五年二月、エバンズ夫妻を直接訪問された崎谷(さきや)哲夫氏によってもたらされた。)
 要するに、両図は、全く相互に影響をうけあうことなく、別個に独立に作製されたのである。このことは、一方が出土遺物の比較から、他方が史料解読の論理的進行の中から、すなわち全く別種の方法から導かれたものであることをかえりみれば、むしろ当然であろう。

   八

 このような、全く異種の依拠史料が奇しくも同一の帰結(倭人の南米大陸西北海岸ヘの接触)をさししめしたこと、これこそこの帰結が客観的史実であること ーーそれを疑いなく証明したものなのであろうか。
 しかし、わたしたちは、この結論に“イエス”の答えを与える前に今一度慎重にならねばならないであろう。
 なぜならそれほどこの帰結は、深刻な影響を人類の過去の歴史の探究着たちに与えるであろうから。
 したがって直ちに今、性急な結論を下す前に、なお未知な問題点を列挙しておこう。
 1 「倭人の太平洋横断」に関する中国史料は、三世紀(日本の考古学上では、弥生期に属する)の史料であるのに対し、バルディビア遺跡の出土品(西紀前三二〇〇年頃とされる)は、「縄文期」に属する日本の土器に“酷似している”とされるのである。そこには、両者、時期上の大差がある。
 2 三世紀倭人の「太平洋横断」に関する報告も、それが“現在(三世紀)の経験”の報告であるか、それとも“過去からの伝承”の報告であるか、明らかにしがたいのである。
 3 バルディビア遺跡出土の土器が果たして本当に日本の縄文人によってもたらされたものであるか否か、この点は、エバンス夫妻等の長期にわたる誠実な学問的努力の累積にもかかわらず、未だ日米両国の考古学界一般の承認する所とはなっていない。
 4 同じく、“『三国志』魏志倭人伝の記述が正確かつ真実(リアル)なものである”との史料性格の認識、また“海賦三世紀倭人の報告にもとづく記録である”という史料性格の認定、これらは ーーわたし自身は論証の道理の上から確信しているにもかかわらずーー 未だ日本古代史学界の共通認識として認められるには至っていていない。

 以上のような史料上の制約(1・2)や現今の学界状況(3・4)にもかかわらず、この稿の結論として、わたしは、十分な確信をもって次のように述べることができると思う。すなわち、“「倭人の太平洋横断とその南米大陸西北岸ヘの接触」という命題は、決して詩人等の懇意的な空想ではなく、出土遺物や中国史料の印象的な徴証がさししめす真実な帰結である。それゆえ、この課題に対する真摯な追究をおこなわず、この問題のしめす重大さを今後も無視しつづけるならば、それは一種の学問的怠慢にほかならぬであろう”と。
 この結論を明白に提示するために、この論文は書かれたのである。


古代史再発見1 卑弥呼と黒塚

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