古田武彦著作集1 歎異抄の本質 -- 流罪記録の「眼睛」について 解説

古田武彦講演 二〇〇〇年十一月十四日(火)


古田武彦と行く、君が代と九州吉野の旅

親鸞流罪記録について

『歎異抄』
(表紙)
蓮如之
歎異抄一通
(本文)
ひそかに愚案をめぐらして、ほゞ古今を勘ふるに、先師の口傳の眞信
異なることを歎き、後學の相續の疑惑あることを思ふ。・・・
・・・
一彌陀の誓願不思議にたすけまいらせて、・・・
・・・
一おのおの十余ケ國のさかひをこえて、身命をかえりみずして、
たづねきたらしめたまふ御こゝろざし、ひとへに往生極楽のみちを
とひきかんがためなり。しかるに、念佛よりほかに往生のみちをも
存知し、また法文等をもしりたるらんと、こゝろにくゝおぼしめして
おはしましてはんべらんは、おほきなるあやまりなり。
もししからば、南都北嶺にもゆゝしき學生たち、おほく座せられて
さふらふなれば、かのひとにもつりて、往生の要よくよくきかるべきなり。
・・・念佛はまことに浄土にむまるるたねにやはべるらん、
また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じても存知せざるなり。
たとひ法然聖人にすかされまひらせて念佛して地獄におちたりとも、
さらに後悔すべからずさふらふ。・・・
・・・
一、善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや・・・
・・・
一、専従念佛のともがらの、わが弟子、ひとの弟子といふ相論のさふらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。・・・
・・・
・・・
・・・

・・・大切の證文ども、少々ぬきいでまいらせ
さふらふて、目やすにして、この書にそへまいらせてさふらふ
なり。聖人のつねのおほせには、彌陀の五劫思惟の願を
よくゝ案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり、されば
・・・
聖人のおほせには、善悪のふたつ、總じてもて存知せざるなり。
・・・

後鳥羽院之御宇法然上人他力本|願時念佛宗興行ス干時僧侶興福寺|
敵奉之上御弟子中狼藉|子細アルヨシ旡実風聞ニヨリテ|
罪科ニ処セラルヽ人數事
一法然上人併御弟子七人流罪又|御弟子四人死罪ニオコナハルヽナリ聖人ハ|
土佐國番田トイフ所ヘ流罪云々|名藤井元彦男云々生年七十六歳ナリ
親鸞ハ越後國罪名藤井善信云々|生年三十五歳ナリ
浄圓房備後國澄西禅光房伯耆國|
好覚房伊豆國行空法本房佐渡國|
幸西成覚房善恵房二人同遠流ニ|サダマルシカルニ無動寺之善題大僧正|
コレヲ申アツカルト云々|遠流之人々已上八人ナリト云々|
被行死罪人々
一番 西意善綽房
二番 性願房
三番 住蓮房
四番 安楽房
二位法印尊長之沙汰也

親鸞僧儀ヲ改メテ俗名ヲ賜フ仍テ僧ニ非ズ俗ニ非ズ|
然間ニ、禿ノ字ヲ以テ姓ト為シテ、奉問ヲ經ヘ被レ了|
彼ノ御申シ状干今外記庁ニ納ルト云々
流罪以後愚禿親鸞書令シメ給也

右其聖教者為當流大事聖教也右於無
宿善機無左右不可許之者也

釈蓮如御判

ー抜き書き(かな書き)は岩波古典大系に準拠、流罪記録は『親鸞思想』に準拠
(インターネットに掲載するため、漢文は読み下し文に変えています。
ABCDは古田氏が付けた記号。|は蓮如本底本改行箇所 )

 これは親鸞のもっとも有名な本である『歎異抄たんにしょう』、その最後の「流罪記録」と呼ばれているところをコピーしたものです。コピーしたものは「蓮如本」と呼ばれていまして『歎異抄』の一番古いもので、また史料として一番正確なものだと考えられているものです。有名な蓮如が大部分若いときに写 したものです。四〇代だと考えますが蓮如の文字です。
 この「蓮如本」につきましては、私の若い時の研究の一コマになったのですが、従来この「蓮如本」についての研究、当時の有名な多屋頼俊さんなどの『歎異抄』の研究の解説を見ますと、蓮如聖人の晩年の七十歳前後の筆跡である。そう書かれています。たしかにその点は、下の段Cのところ、最後の筆跡を見ますと「右其聖教者為當流大事聖教也右、その聖教は、当流大事の聖教たるなり。」、「於無宿善機無左右不可許之者也 無宿善の機においては左右(そう)無くこれを許すべからざるものなり」そして「釈蓮如花押」とある。これは確かに蓮如晩年の七十・八十歳前後の筆跡として理解して良いと思います。
 しかしどうも他の筆跡は違うように見えた。たとえば「大切の証文・・・」の部分や、先頭に「歎異抄一通 」とありますが、だいぶ違うでしょう。本当に同じ人の字なのか。最初に「蓮如之」とあるでしょう。特にこの「之」は所有を表しますが、この「蓮如之」と最後の署名の「釈蓮如」とは、同じ人が同じ時期に書いたものとは見えなかった。しかしこれが晩年の蓮如の筆跡であることは全くの定説だった。
 その疑問を持ちまして、それでは蓮如の筆跡を確認しよう。そういうことになった。それでは蓮如の筆跡を全国から集めなければならない。幸いなことに蓮如の筆跡は全国各地至るところにあります。彼は一向一揆の波に乗って、全国の一向一揆の集団に配りまくっていますから。しかも年代が明確なものを集めて、年代別の物差しを作る。その中で問題の筆跡を並べてみよう。こう考えた。私は三十歳でしたが、全国の蓮如の自筆があるというお寺につぎつぎ回りました。いろいろな苦労がありましたが、お寺を回って見せていただき、蓮如の筆跡を写 真を撮るという作業を繰り返しました。それで蓮如の十代終わりぐらいか二十代始めの筆跡から、七・八十歳の晩年までの筆跡を、だいたい二・三年毎に並べて見ることが出来ました。ぜんぶ写真化して、それを並べてみた。つぎつぎ変わってきましたが、それで蓮如の筆跡が、途中で大きく変わる。それは彼の三番目の奥さんと思いますが、彼女が非常に書のうまい人。名人とは言い過ぎですが書のかなりうまい人と結婚して、それから字がうまくなった。側にお師匠さんがいるので、かなりうまくなった。だんだん変わって、ある箇所でガラリと変わる。予想したとおり最後のCのところは晩年の七十歳前後の筆跡です。
 ところが表紙の「蓮如之」や「歎異抄一通」そして本文そのものは蓮如の三十代終わりから四十代始めの頃の筆跡である。それがはっきり証明できた。それでひじょうに苦労が報われた感じだ。
私がそんなことに拘(こだわ)ったのは、筆跡が変わっているのを確かめたい。それだけではなかった。どうも最後に付いている「流罪記録」はおかしい。尻切れトンボの感じだ。それは「流罪以後愚禿親鸞令書給也 流罪以後、愚禿親鸞書かしめたもうなり。」で終わって、最後に「釈蓮如」とある。その間に、変な権威主義的な「左右不可許之者也」と書いてある。うかつに他の人に見せてはいけないと言っている。そういう文章に変わっている。
 しかも『歎異抄』そのものを内容から見ますと、これを書いたのは弟子の唯円であるらしい。若い弟子らしい。その若い弟子である唯円が晩年の親鸞から書き取った文章です。晩年の親鸞が、唯円坊はどう考えたという語りかける親鸞の言葉が二回出てくる文章がある。だから唯円が書いた文書ということは、現在ではほぼ疑いがなくなっている。これも経緯はいろいろありますが、結論としては、そのように固まってきている。ならば最後に、唯円の奥書がなければならない。つまり私唯円がこういう経過で、亡くなられた親鸞聖人からこのようにお聞きしました。また私唯円はこういう者です。何年何月何日。そういう奥書が内容から言って必要である。また内容そのものから言うと自分は親鸞聖人から、いつ、どこで、このような形で教えを受けたか。また年が離れていますから親鸞と唯円の間の人物、つまり若い唯円の直接の先生。それも必要である。
 そのような当然有るべきものが一切ない。ないところに、筆跡の変わったうっかり人に見せてはいけないという文章と「釈蓮如 花押」が入っている。
 するとこれは、本来あった『歎異抄』の作者唯円が書いた奥書を含む一番肝心な部分をカットして、蓮如が「人に見せてはいけない。」と言ったそういう自分の「釈蓮如」の入った奥書とをすり替えた。こういう大変なこと。皆さんは大変とは思われないでしょうが、本願寺関係や親鸞研究を行っている者から言うと大変なこと。蓮如がそれこそ改竄(ざん)・ねつ造の犯罪者となりますから。そういうことを、うかつに言ってはいけない。それで実証的に筆跡の面から、定説として蓮如の晩年の筆跡と言っているけれども、実はそうではないのだ。筆跡が大きく変わっているのだ。そういうことを実証的に証明しようとした。それでは原本を見なければならない。
 原本を見るとき宮崎圓尊さんという僧侶であり、大谷大学の教授でもある、この方が人格的に非常にフェアな方であって、非常にお陰を被りました。その宮崎さんに「『歎異抄蓮如本』原本を見たい。」と言いましたら、「本願寺に申請を出しなさい。」と言われ出しました。本願寺の学者の中心であり責任者が宮崎さんです。申請すると、予想外に一ヶ月足らずで本願寺から許可がおり、見せていただきました。閲覧は本願寺の事務局員と二人で見せていただき、写 真を撮らせて頂きました。見ていくと、そうすると問題の箇所では、附いてきた本願寺の事務局員が「あ! ここで筆跡が変わっていますね。」と向こうから言われた。予想したとおり、そこで筆跡が変わっている。やはり実物をみれば明確だ。当時は写真(版)がなく、苦心して手に入れた悪いコピーしかなかったが、それでは良く分からなかった。実物を見ると、まさに、ここで筆跡が変わっている。ここで私がすこし予想外だったのは、末尾のC部だけが晩年で、それ以前は全部蓮如が四十才初めの若いときの文字だと考えていたが、実際に実物を見るとそうではなかった。上の段の「遠流の人々已上いじょう八人」、ここまでが四十才初めの文字だった。「被行死罪人々」の所から変わっていた。確かによく見ると、「遠流の人々」の「人」は丸い太った字ですが、次の「死罪人々」の「人」という字は非常にスマートにはなっている。だから違っていたのですが、見るまでは末尾のC部だけだと考えていました。実際は「被行死罪人々」の部分から変わっていた。ここから書き始めている。
 このコピーは染み(シミ)抜きしてありますから分かりませんが、紙質の問題も論じてみると、シミが全面にべったり付いていましたが、そのシミが次の「一番西意善綽房」の直後の部分から変わっている。
もう一度言うと、C部から変わっていると思っていましたが、実際はその前の空白のところの終わりから書き始めている。染み(しみ)がべったり付いていましたが、これもやはり「一番西意善綽房」のところから変わっている。そういうことが分かりました。
 このことを「蓮如切断」という言葉を使って、東大の『史学雑誌』に発表しました。つまりこれは関東における若い弟子である唯円が書いたものが『歎異抄』。それが本願寺系のお寺にありました。それを若い四十歳代の蓮如は、それをそのまま写していた。それが晩年に一向一揆の波に乗り、本願寺という党派の長となった蓮如は、切り取って、あたかも本願寺の史料で有るかのように改竄(かいざん)を加えた。この筆跡の変化が、これを示している。これが証明された。このことを「蓮如切断」と題して東大の『史学雑誌』に出したが、東大だから掲載されたのでしょう。本願寺関係ではなかなか出してくれなかったでしょう。
 それで現在でも蓮如の筆跡を年代別に分けて写真化したという点は、現在でも私の史料によって行っているようである。蓮如全集などが出るたびに、私にあれを使わしてくれと許可を求めにくる。私は良いですよと了解して、この蓮如の筆跡の比較が、いろいろなところに出ています。しかし本願寺が「蓮如切断」を認めることはありません。私は本願寺が「蓮如切断」を認めても良いと思いますが、筆跡に関した仕事だけは、繰り返し私に使わしてくださいと許可を求めに来る。
 これも一言言わせていただくと、蓮如の人生は最初の三分の二と、残りの三分の一とは人生が激変する。つまり最初の人生は本当に貧しい生活で、こういう文書を作って売る。もっとはっきり言えば、願主つまり依頼主の注文に応じて、文書を写 してお金をもらう。(親鸞)文書を写すことによって、お金をもらい生活していた。そういう時代だった。話にあるように、嘘か本当か知りませんが「天井粥」。ご存じかどうか分かりませんが、つまり食べる米があまりなく天井が映る。それを食べてずっと生活していた。それが若き日から中年までの蓮如。それが四〇過ぎぐらいに、にわかに激変がやってくる。それが一向一揆。その一向一揆の波に乗った蓮如はにわかに金持ちになってゆく。それはそうですよ。「南無阿弥陀仏」と書けば、たいそうなお金が入る。日本で第二次世界大戦後、「光」と書いて宗教の教祖になり、にわかに金をもうけた人がいた。これは非常に効率がよい。「光」という一字だけだ。それで蓮如も「南無阿弥陀仏」と書けば、お金が入ってきた。それで蓮如は書いて書きまくった。だから「南無阿弥陀仏」と書いた蓮如の筆跡は本当に日本全国にたくさんある。それらは皆かなり高い値段で売れている。だから蓮如はその当時、新興宗教の成金のようになり生活が一変する。生活が一変する中で、蓮如が一番やろうとしたことを、考えていたことを実行した。
 それは本願寺の起源が絡む問題です。親鸞の最後の娘である覚信尼、親鸞は子供が多かったですが一番下の娘、彼女は親鸞が死んだ後非常に生活に困っていた。それを関東の門弟が、京都で生活に困っている覚信尼に対して、お金を送った。それで生活を支えていた。そのお金を送るとき、送るだけではただ恵むことにしかなりませんので、京都にある親鸞のお墓を護ってもらうという名目で、お金を送った。その覚信尼の子孫が、今の本願寺の法主さんである。その本願寺は天皇家と縁組みをしたように、あの本願寺になっている。だから言ってみれば本願寺は、ほんらい東国の門弟たちのおかげで生活できていた墓守である。それを蓮如は嫌がった。そして一向一揆の波に乗った蓮如は経済力を貯えるのと同時に、そういう関東の門弟たちの関係の文書を次々と手に入れていった。手に入れてどうしたか。これがまた凄い。蓮如の息子が書いている文章に出てくる。お風呂に入る度に文書を燃やした。我々はいま楽に風呂に入ることができる。しかし我々が子供の頃には、風呂に入るには薪(まき)に火を付けなければならない。薪で風呂を焚くには、火を起こすのに新聞紙などに火を付けて薪に火をつけなければならない。それで蓮如はお風呂に入るたび毎に、集めた関東の文書類をお焼きになった。風呂の火を、関東の文書類を燃やして火を起こした。「御風呂のたびごとにやかせられ候。」、そのように蓮如の息子が書いている。すごい証言者。証言者の子供が、大人になって書いている。
 関東の門弟が親鸞の跡を継いでると信じている。(また周りもそれを承認している。)それでは蓮如は困る。そういう証拠文書も全て焼き捨てる。そして本願寺が本当の親鸞の血を受け継いでいる跡継ぎである。血脈と言いますが、跡継ぎである。そういう新たな教義を作っていった。
 しかし親鸞は、自分の血がつながっている子供に、跡を継ぐ権利を与えよう。 そのような考えは全くない内省的な人物です。
 親鸞は「弟子一人も持たず候。」という『歎異抄』に出ている名文句でも分かるような人柄です。ところが逆に親鸞の血縁の最後の子である覚信尼の後を継ぐ本願寺が、親鸞の正統の子孫だ。そのような念仏の天皇家のようなことを最初に主張した。その主張の先頭に立ったのが蓮如で、そのような主張に都合の悪い文書を、それこそ次々焼き捨て、切り捨てていった。こういう人物が蓮如。そのやりかたの一つが、『歎異抄』の最後の所の元の奥書を切り捨てて、自分の奥書を付け加えた。これが今問題にしている「蓮如切断」ということです。
 私が思いますのに蓮如という人物は、大変魅力的です。親鸞とぜんぜんタイプが違う。親鸞は一生、自分の考え方や動き方はまったく変わることのなかった人物です。時代は激変しましたが。それに対して蓮如は今言ったように、人生の前半生と、後半生がガラリと変わる。このガラリと変わるところが、人間としてみれば非常に興味がある。まじめに天井粥を食べていた若いときと、中年以降の晩年に一向一揆の波にのった活躍。そういう蓮如とが、まったく違った二つの顔を示している。
 ところで五木寛之さんが岩波新書で『蓮如』という本を出した。ベストセラーにもなった。私も『さらばモスクワ愚連隊』などの本を出した時代に、けっこう五木寛之さんのファンだった時代がある。それで『蓮如』を出されたというので買って読んでガッカリした。五木さんの蓮如は、良い蓮如ばかり。良い蓮如ばかりというのは、前半生蓮如がいかに念仏に力を尽くしたか。プラス面 ばかりを書いている。私などが東大の『史学雑誌』に書いた。また『親鸞思想』(明石書店)で書いた。もう一つの蓮如。改竄する蓮如。貴重な文書を、自分に不利益であれば毎日風呂の焚付(たきつけ)にして焼く蓮如。こんな事実は全く触れていない。これは全く知らなかったのでしょうか。そうではない思う。私の研究は親鸞研究でかなり知られている。それに東大の『史学雑誌』に書かれているので、秘密でも全然ない。『親鸞思想』という厚い本も目立った本です。五木さんは市葉先生のお陰をこうむったと書いてある。市葉さんは先ほどの宮崎さんのお弟子さんで、私より三・四歳上の方で、私もよく知っている方である。市葉さんから蓮如の情報を得ながら私の蓮如研究を知らないことは有り得ない。しかし今言ったように、「蓮如切断」の問題や、関東の文書類を毎日風呂の焚付けにして焼きつける。息子が証言しているのですから。そういう小説家から見たらおもしろくて仕方がないと思うことは、一切書いていない。いかに蓮如がすばらしい宗教人であったか。最初から、そちらばかり書いて、そこで書き終わっている。私は非常にガッカリした。本願寺にすれば非常に有り難かった。岩波新書で五木寛之が出してくれたというので、大喜びでその本を盛んに買ったかも知れないし、また五木さんの蓮如を劇にして、全国を巡回して今でも回っているはずです。本願寺にすれば、ピーアールに五木寛之さんの『蓮如』は全くふさわしい。
 しかし私から見ると、ウソの蓮如。都合の悪いところをぜんぶ隠した蓮如である。本願寺というと、そういうこともあると思うだろうだろうが、五木さんの書いたものはまさかそんなことはないだろう。そういう感じを日本の若い人々も持っているだろうから、そこが狙われた。捏造(ねつぞう)というのは藤村さんだけだと思ったら大間違い。有名な作家も捏造している。またそれに気がつかずにいる。そういうことです。

 その問題に連なっているのが、私が三十代後半に行ったこの筆跡問題です。この筆跡問題を取り扱ったことは、その後の古代史を研究する上で非常に大きな意味を持ってきました。
(原文)
・・・大切ノ證文トモ、少々ヌキイテマイラセサフラウテ目ヤスニシテ
コノ書ニソエマヒラセテサフラフナリ・・・
(読み)
大切の証文ども、少々抜きいで参らせ候て、目安にして、
この書に添えまいらせて候

 「大切の証文」というものがあって、その証文の少々、つまり百あればその中の五つか十ぐらいかも知れませんが、抜粋して目安書き、箇条書きにして『歎異抄』に付けさせて頂きました。こう書いてあります。
この「大切の証文」とはどれだ。それが問題です。
 通説というか江戸時代からの普通の理解は、ここでは前書きの直後からの十箇条。たとえば「一、おのおの十余国の境を越えて、身命をかえりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとえに往生極楽の道を説きけんが為なり・・・」などです。これは二番目ですが、「一、云々」と、このような形で親鸞の言葉が直接引用されている。さらには「一、善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」「一、専従念佛の・・・今の親鸞は弟子一人も持たず候」「一、をのをの・・・たとえ法然聖人にすかされまひらせて、さらに地獄に堕ちたりとも、さらに後悔せず候」など、十七歳の少年の時に、私はこれを読んで震え上がり感動した文章もここにあります。
 普通の理解は、このような最初の十箇条の文章が「大切の証文」である。この通説が、まず第一にある。ところがこの通 説の具合の悪い点は、先頭においてあるものを「添え参らせ候」と言えるのか。そうは言わないのではないか。そういう問題がある。それに果 たしてその十箇条の文章が「証文」に当たるのか。そういう問題もある。
 それに対して敗戦前後に多屋頼俊さんという『歎異抄』の専門家と目される学者が新たに出した意見はこの「大切の証文・・・」の文章の次、「聖人つねのおほせには、彌陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり、・・・」、これである。これも親鸞らしい文章で、「阿弥陀仏は後世の私一人のために深く誓願をお立てになったのである。」という、独断の極みみたいな文章がある。
もう一つ有ります。「・・・善悪のふたつ、總じてもて存知せざるなり。」、これも「私は良いとか悪いとか一切知らない。」となり、まことに親鸞らしい文章である。この二つの文章が大切の証文である。そういう説を多屋頼俊さんが出して以来、この説もひじょうに重きを成していた。
 私はこれは両方とも違うのではないか。先頭の十条、後の二つ加えられたものも、これらは作者唯円が親鸞から聴いた話である。聴いたものを書くのであるから口づたえの口伝(くでん)である。
 それに対して「証文」というのは、裁判などに書かれた正式文書が「証文」である。裁判文書を「目安」という用語がある。ですから最後に書いてある文章は裁判文書である。そういう目から見ると、流罪記録と言われているこの文章こそが「大切の証文」にあたる。A・Bこれこそが「大切の証文」である。訴訟文書に当たる。そういうことを東大の史学雑誌で二回出した中の一回目に論じました。その肝心のところを蓮如が切断したのだと、二回目の論文で論じました。
 これは多屋頼俊さんなど本願寺系の学者と中外日報という宗教系の新聞でかなり痛烈にえんえんと論争しました。私の方も上記の意見どおりであり、相手も従来説を述べて、お互いに一歩も譲らないで激しい論争がおこなわれた。それも『親鸞思想 -- その史料批判』(再刊明石書店)に収録されています。

 ところが今年、今回一度読みなおしてみた。そうすると私の言ったことは間違っていた。私の言ったことを、もう一度述べますと、「大切の証文」とは通説では、最初の十条いや次の二条だ。そう言っていた。それではA・Bの文章「流罪記録」と呼ばれる文章とは何ものだ。それは後世何かの記録が間違えて紛れ込んだものだ。だから本来これは『歎異抄』とは関係がないのだ。それが通説だった。それに対して私は、いや違う。この「流罪記録」は、後世江戸・室町とか明治以後など後世紛れ込んだのものではない。むしろ親鸞またはそのお弟子さん段階で書いた、非常に古い親鸞と同時代の文章である。その事を一生懸命証明しようとした。その方法は親鸞と同時代、鎌倉初期・平安末期の同じ文書類から、同じ言葉や同じ語法を抜きだして見て、「流罪記録」と一致する。つまり室町とか江戸時代にはもう失われた用法が、この「流罪記録」にきちんと採用されている。そんな後世作った文書が紛れ込んだものではなくて、親鸞と同時代か、直後のお弟子さん段階の文章である。
 だから「大切の証文」とはこれであって、裁判用語で言っている訴状のことを「証文」という。以上のように論じたのですが、その論じたことを今の私の目で見ると、まったく違っている。

 それでは違っていたら、論争した相手方の学者が言うことが本当であったのか。幸か不幸か、全くそうではない。相手はもっと間違っていた。
 それで結論から言いますと、この私が主張したAの部分「大切の証文」は、親鸞自身が書いたものである。筆跡は蓮如ですが、親鸞自作の文章である。しかも親鸞が流罪中に、裁判所に出した訴え状である。親鸞は越後の国に流罪になりました。お師匠さんの法然は土佐の国幡多というところに流罪になりました。私の親戚 が居ますが土佐の高知と足摺岬のちょうど間の山奥というか、愛媛県よりの山合いのところです。土佐の中でも一番へんぴなところ、そこへ法然は流されることになっていた。他の弟子達も次々流されていった。そのとき親鸞は越後に流されたのですが、その時は親鸞は三十代後半。この三十代後半の親鸞が書いた文章である。そのことが争いようもなく、私の現在の目にはそう見えてきた。

なぜかと言いますと、
まずAの部分を読んでみましょう。
A(流罪記録・大切の証文・御申状)
後鳥羽院の御宇法然上人他力本願時念佛宗興行す
干時僧侶興福寺敵奉之上、御弟子中狼藉子細あるよし
無実風聞によりて罪科に処せらる人數事
一法然上人併御弟子七人流罪又御弟子四人死罪におこなはるゝなり
聖人は土佐國番田という所へ流罪罪名藤井元彦男云々生年七十六歳なり
親鸞は越後國罪名藤井善信云々生年三十五歳なり
浄圓房備後國澄西禅光房伯耆國
好覚房伊豆國行空法本房佐渡國
幸西成覚房善恵房二人同
遠流にさだまるしかるに無動寺之善題大僧正これを申あづかると云々
遠流之人々已上八人なりと云々
被行死罪人々
一番 西意善綽房
二番 性願房
三番 住蓮房
四番 安楽房
二位法印尊長之沙汰也

 法然は「一法然上人・・・藤井元彦男云々生年七十六歳」とある。罪人の場合は「男」という字を付ける決まりになっている。親鸞は「藤井善信云々生年三十五歳」は善信(ぜんしん)と言いましたが、それを取って善信(よしのぶ)。法然とは約四十歳年齢差がある。無動寺之善題大僧正。これは慈円のことです。無動寺は比叡山にあります。流罪の人八人となっていますが弟子が七人、それに、お師匠さんの法然を加えて計八人。
 それで今の私から見ると、親鸞が書いたとしか考えられない。そう言ったのは、今読んだ最後の方で、「幸西成覚房善恵房・・・遠流にさだまる」とある。ところが関白兼実(かねざね)の弟である慈円(善題大僧正)の「預かり」となり遠流されなかった。
 兄が関白兼実であるから有名であり信用があった慈円が二人を無動寺に預かりますからと言って、島流しには実際にはならなかった。今の法律ならそんなことは出来ないが、当時はこのようなことが可能だった。
 そうしますと私が注目しましたのは、結果として法然は土佐に流されなかった。これも慈円が、口利(くちき)きしたという噂、そういう話が出ているのですが、とにかく土佐の国へは流されなかった。どこへ流されたか。讃岐の国・香川県へ流された。それから許されてしばらくして戻ってきて、京都の郊外・長岡京市のお寺に留まった。京都市内に入ることは許されなかった。多分同調する人が出てくるから困る、そういうことでしょう。とにかく西山という所にいて、最後にようやく市内に入り、二カ月目に死んだ。死にそうだというので、最後ぐらいは入れさせてやれということでしょう。これは有名な法然に関する我々が知っている確実な事実である。
 浄土宗のほうでもよく言われている。
 としますと、この文章を書いた人は本当に、「法然が土佐の国幡多に流された。」と思って書いている。讃岐に止まった、それを知らないで書いている。先ほどの弟子の二人が、慈円が口利きして流されなかったということを知っているのに、それ以上に大事な法然が土佐の国にまで行かず讃岐の国で留まった。そういうことを知らずに、書いてはいない。ということは、この人物には法然が讃岐の国で留まったという情報は届いていない。じゃあ。何故か。親鸞は流罪にされています。罪人に、「あなたのお師匠さんは土佐の国に流されず、讃岐にとどまった。」と、わざわざ連絡する人はいないし、当初のうちは知らない。親鸞は京都を出るとき「法然上人は土佐に流された。」と思って出た。そのままの状態の時に、この文章は書かれている。
 もちろん親鸞は五・六年経って、流罪は許される。一年ぐらい佐渡にいて、関東に呼ばれて行く。そして、そこで過ごす。もちろんその段階では、法然は死んでいますし、関東の親鸞も知っています。関東の人々は偉い法然のお弟子さんということで親鸞を信用し受け入れたのだと思います。出来るなら法然を呼びたかったのでは。ですから関東の人々も、法然がそういう経過をたどったことは知らないはずがない。そうしますと、同じ親鸞でも、そういう流罪が済んだ後の親鸞がこのような文書を書くはずがない。となれば、流罪中の親鸞。それも前半の親鸞、早い時期の親鸞。だったら、幸いにも法然が讃岐の国で止まったことを知らなかった。それを知らなかったから、このような文書になった。今の私が読んだら、このようにしか見えない。それを後世の文書であるとか、デタラメに書いた文章であるとか、とんでもない。いわんや私がこれを「原始専従念仏運動における親鸞集団の課題」という、くどくどしい題を付けて、これが原始専従念仏集団で作られた文書であることを一生懸命言いました。
 原始専従念仏集団段階の文書ではない。原始専従念仏集団の段階では、法然が讃岐の国で止まり、許されたことを知っています。
 要するに流罪中の親鸞、それも早い時期の文章でなければ、このような文章は書けない。それで私が、かって東大の史学雑誌に出した論文は間違っていた。そういうことを、今回は感じたわけです。

 さらにそれの裏付けを言いますとB、ここから後は言うまでもなくお弟子 さんの文章である。

親鸞僧儀ヲ改メテ俗名ヲ賜フ。仍テ僧ニ非ズ俗ニ非ズ。然間ニ、禿ノ字ヲ以テ姓ト為シテ、奉問ヲ經被レ了。彼ノ御申状干今外記庁納ルト云々
親鸞僧儀改めて、俗名を賜う。よりて僧にあらず、俗にあらず。
しかる間に、禿(とく)の字をもって姓と為して奉問を経られ終わる。
かの御申状は今外記庁に納る。

なぜかというと、「奉問ヲ經被レ了。 奉問を経られ終わる。」の「經被レ 経られ」は尊敬の敬語である。親鸞のことを敬語で書いてあるというのは、親鸞本人ではなくお弟子さんが書いた文章。「奉問を経ル」とは、要するに訴状を出したということです。
 次が大事で、「彼ノ御申状干今外記庁納ル」。「申状」というのは訴状で本人の言い分を述べたものです。その書類は今外記庁(裁判所)にありますと書いてある。ところが訴えを出した文書が、どれだけの期間残されるかという問題がある。時代は違うが昨年扱った『正倉院文書』。これは六年単位で五回、三十年が最大です。三十年経ると廃棄しなければならない。それ以前に廃棄される可能性がある。『正倉院文書』は一番残す方ではないでしょうか。ここでは罪人の親鸞が「俺たちは無罪だ。」と言っている。そのようなものを五年も十年も、そう残して置くはずはない。これも東大の史料編纂所の中世の研究者に確認したい。今の私の感覚では三年も残せば長い方ではないか。五年も保存しておれば有り難くて涙が出るように思われる。ほとんどの書類は、一両年で廃棄された可能性が高い。鎌倉時代は、今と違って裁判を長く伸ばせる時代ではないですから。速戦即決の時代ですから。一両年残せば、ほとんど答は出ると考えてる時代ですから。ところが、そういう習慣の時代に、これを書いたお弟子さんは、外記庁(裁判所)に行けば「申状」は有るよと書いてある。これは「申状」を出して、そんなに時間が経っていない。ですからお弟子さんがこれを書いたのは、親鸞の流罪が済んでから直後ぐらいに書いている。だから訴状の原文は「外記庁納ル 外記庁に行けばあります。」という言い方をしている。ここに書いてあるのは、明らかに親鸞が提出した「写し」ですから親鸞の書いた原文ではない。控(ひかえ)です。はっきり言えば控では値打ちがない。改竄されうるから。自筆の原文でないと訴状としての意味を持たない。ところが訴状の原文は今でも「外記庁」に行けばあるよ。だから信用して欲しい。そういう言い方をしている。この書かれた最後の四行自体が、これを書いたのは親鸞の流罪直後、あるいは流罪中かも知れません。そういう時期にお弟子さんが、書いている。親鸞本人は流罪の前半ぐらいに書いている訴え状です。そしてここでは「御申状」と書いてあるのは、弟子が書かなければ「御」が付きません。そういう「申状」が、外記庁に出てなかったら弟子は書けません。
 そしてまた一番笑うべきかんじんな点は、なぜこんなことに気が付かなかったのか。自分で、自分を笑っている。それは「彼ノ御申状」とある。その「彼ノ」とは代名詞である。その前に実物があって、それに対して「彼ノ」という代名詞が使われるのが当たり前である。そうすると、目の前に実物がなければ「彼ノ御申状」とは書けない。そうすると目の前に「申状」がなければ、「彼ノ御申状」とは書けない。そうすると「A後鳥羽院・・・」は「申状」であり、しかも弟子が「御申状」と書いているから親鸞が書いた「申状」である。こんなことは分かり切っている。なぜ一生懸命論争しているときに、その事に気が付かなかったのか。こんな分かり切ったことを書かなかったのか。「原始専従念仏運動における親鸞集団の課題」という、もって回った言い方をしたのか恥ずかしくなる。
 と言うわけでして、どうしても論文を書かなければならない。私が東大の『史学雑誌』に書いたことは間違っていた。そういうことを書きたいと考えています。以上お恥ずかしい話になりますが、私にとっては大きな経験、間違っていたという報告をさせていただきます。どうも有り難うございます。
(終わり)

  追補注
1 流罪記録原文(カタカナ書き)の「旡実風聞」は間違いではありません。これは有名な親鸞の誤字です。「旡(キ)」と書いて「無(ム)」と親鸞は、読んでいます。筆書きの行書や草書では、区別は難しいです。それを蓮如が忠実に模写したことを示しています。

図1 A 申状

『歎異抄』流罪記録と蓮如奥書:申状

図2 表紙及び本文の一部

『歎異抄』表紙及び本文の一部


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