芭蕉隠密拒絶説の発見
古田武彦
かぐや姫 お帰んなさーい。待ってたわ。
かぐや彦 いつ帰ったんですか。
武彦 昨日、と言いたいとこだけど、もう二週間以上前だ。今回は、旅行中も原稿もち歩き、指宿の民宿(千成荘)でも 書いてい
たんだ やっと、めでたし、めでたし、さ。
かぐや姫 どう?南九州。すてきだった?。聞かせて。
武彦 もちろん、すばらしい大収穫だったよ。一万三千年前の滝之段遺跡(鹿児島県市来町)なんて、思いもよらないタイプだった。
かぐや彦 何がです。
武彦 文字通り、滝の前の猫のひたいくらいの狭い地形のところから、石器や土器が集中出土しているんだ。
かぐや姫 鹿児島県は、縄文草創期や早期、放射能年代では一万二千年から六千三~四百年前なんでしょう。
武彦 そうだよ、町田洋さんの火山研究をもとにした、新東晃一さんの研究だね。
かぐや姫 新東さんて、背が高くて、すてき。見たのは写真だけだけど。
武彦 そうだね。第一日目(十一月二十六日)は雨でね。困った、と思っていたら、逆だった。いつも発掘現場を廻っておられる新東さんが、タップリ時間をとって皆さん(「古田武彦と古代史を研究する会」「多元的古代・関東」「古田史学の会・東海」等)にお話して下さったからね。
かぐや彦 雨で、ついてた、わけですね。
武彦 新東さんも、だけど、市来町の学芸員の新町正さんも、若いけど、いや、若いからこそ熱心で有難かった。わたしが「市来」の「き」は柵、城。「い」は接頭語。「ち」は 神様以前の「神」の意味だ、と説明したら、驚いておられた。
かぐや姫 あしなづち、てなづち、やまたのおろち、おおなむち、の「ち」ね。わたし、おぼえた。
武彦 そうだよ。あの地帯は、もっともっと古いものが出そうだね。あれだけの密集度、まるで製作場みたいな姿は、決して「はじめて」じゃないね。
かぐや彦 面白そうですね。これから。
武彦 面白い、といえば、飛び切り面白い話にぶっつかったんだよ。
かぐや姫 何それ、話してよ、すぐ。
武彦 昨年の十一月から十二月にかけて芭蕉の自筆本出版というのが新聞やテレビで報道されたね、知ってるかい。
かぐや彦 『奥の細道』でしょう。大阪の中尾さんという方の所蔵でしたね。
武彦 そうだ。だから、中尾本とも呼ばれるんだけど、親鸞研究や和田家文書研究に連なる筆跡問題への関心から調べてゆくうちに、とんでもない問題にぶっつかったんだよ。
かぐや彦 何です。
武彦 『奥の細道』のはじめの方の「須賀川」の段で「右に岩城・相馬・箕張の庄」とある。ここは最初の文章では「岩木」とあったのを貼紙(はりがみ)して「岩城」と直し、同じ貼紙で「三春」とあったのを、「箕張」と直した。
かぐや彦 何ですか、「箕張」って。「三春」が正しいんじゃないですか。
武彦 その通りさ。「岩城」の場合とは逆に、正しいものをわざわざ“まちがった”形にしている。この問題がきっかけになって、次々と不思議な問題が続出してきた。今、簡単に要約してみよう。
かぐや姫 あ、ずるい。全部話して。
武彦 それは改めて、書くさ。今は、要点で、がまん、がまん。
第一、芭蕉は、自分用の「所持本、ないし持ち歩き本」では、「三春」の藩名をはばかった。
かぐや姫 あ、それ分かるわ、わたし。三春藩は、安倍・安藤・安東・秋田とつづく水軍の家柄で、だから逆に、海のない、小さな、三春藩に押し込められたのね、江戸時代。
かぐや彦 そしてお目付け役が会津藩、松平ですね。その「日」と「かげ」が明治維新で逆転したんですね。
かぐや姫 その三春藩をバックアップしたのが、伊達藩だわ。
武彦 その通り。その話が、実は『奥の細道』理解に不可欠だった。
かぐや彦 どうしてですか。
武彦 次へ行くよ。
第二、「三春藩」をはばかる、この書法の本命、それは伊達藩だった。
かぐや姫 三春藩は小藩だけど、伊達藩は大藩だわ。
武彦 そうだね。それに、芭蕉は「三春」へは行っていないけど、伊達藩は真ん中を突っ切ってる。
かぐや姫 「路縦横に踏で、伊達の大木戸をこす」ね。歌舞伎役者のせりふみたいだからおぼえてるわ、わたし。
武彦 第三、その伊達藩に入る前(白川の関)、入ってあと(多賀城、松島)、いずれも、名題の歌の名所で、芭蕉は肝心の俳句を作っていない。
かぐや姫 だって芭蕉は、松島を楽しみにして江戸を出発したんでしょ。一番はじめに「松嶋の月先心もとなし」とあったわ。やっぱ、変よ。
武彦 芭蕉はあとで、弟子に聞かれて「あんまり絶景だと、句ができない」と答えてるよ。
かぐや姫 いよいよ、変。だったら、白川の関も、多賀城も、絶景すぎた、ってわけね。
かぐや彦 『奥の細道』にある、他の芭蕉の俳句は、みな、たいした景色じゃないから作った、ってことになるな。失礼だよ。
武彦 次へ行こう。
第四、芭蕉は松島で異常に興奮し、同行の曾良と“しゃべりつづけ”ていた。
「予は口をとぢて眠らんとして、いねられず」とある。
かぐや姫 「口をとぢて」というのは、“俳句を作りやめて”というんだって。そう習っ
たわ。
かぐや彦 だけど、俳句を作る時だけ“口をあけ”、一緒にいる曾良とはしゃべらない、っていうのも、不自然だね。
武彦 そのとき、曾良の作った不思議な句がのせられている。
「松島や 鶴に身をかれ ほととぎす」と。
かぐや彦 何でも、千鳥が「鶴に身をかる」という古歌があるって、聞いた。
かぐや姫 それでも、わかんない。
武彦 ほとどきすは、おしゃべり鳥だ。「かっこ、かっこ」だからね。これに反し、鶴は「鶴の一声」っていうくらいだから、沈黙鳥。
かぐや彦 芭蕉先生には「鶴」でいてほしい。「一声」だけでいいんですよ、ってわけか。
武彦 わたしの家の中で話しているとき出た説だけどね。今までの注釈にはないようだよ。
かぐや姫 その「鶴の一声」って、“書いてる”の?それは『奥の細道』に
武彦 その答は、「イエス」だ。芭蕉は、多賀城へ行く前に、伊達藩(国守)のお声がかりの公道をわざわざ地図に書いてもらって、たずねている。菅菰を作るための菅作りの名所だ。そこで次のように書いている。
「かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に十荷(とふ)の菅有。今も年々十荷の菅菰を調(ととのへ)て国守に献ずと云り」
かぐや彦 あっ、『奥の細道』だ。
武彦 そう、これを本全体の題として、引き出し、クローズ・アップした。「伊達藩お声がかりの名所、その道は“奥の細道”でした。」そういう題なんだね。
かぐや彦 何ですか、それは。
かぐや姫 わたし、『奥の細道』っていうのは、芭蕉が辿った東北全行程のことだって習ったわ。
武彦 わたしも昔、そう教えた記憶があるね、高校の国語の時間に。でも、まちがいだった。勝手に拡大解釈していたんだ。芭蕉が『奥の細道』と言っているのは、あそこだけ。伊達藩の有名な場所の、有名な道そのものの形容なんだよ。
かぐや彦 だから、何で。
武彦 大胆な仮説を提起しよう。
<その一> 伊賀上野の下級武士であった芭蕉は今回の長途旅行について、伊賀の藤堂藩にとどけ出をすませた。(「手形」問題も、或は、関係か)
<その二>そのさい、藩から「三春・伊達の道路、港湾関係の実状報告」を“要望”された。(「口頭」であり、証拠文書は残らない形で。)
-江戸時代において、「道路・港湾」の改修は、“お取りつぶし”の直接証拠とされた。たとえば、江戸初期の房総里見藩取りつぶしの罪状の一つに「道路をひろげ、垣根や堀を作った」ことがあげられている。-
<その三>芭蕉は松島で「何か見た」が、報告しなかった。伊達の道路についても、「わたしはそこに『奥の細道』しか見出せなかった。」と、報告した。そしてこれを題名とした。
かぐや彦 結局、実質上、藩からの“要望”に対して、「NO!」と答えたんですね。
かぐや姫 それが「鶴の一声」ね。
かぐや彦 それに、あの曾良がすばらしい助言をしたなんて。今までの「芭蕉、忍者説」では、ずい分、曾良も“活躍”させられていましたよね。
かぐや姫 本当の忍者は、供に選ばれた曾良だ、なんてね。
かぐや彦 三百年以上経って、永年の冤罪がやっと晴れた、ってわけだな。
武彦 わたしも、一時「芭蕉、(初歩的)隠密説」に傾きかけながら、スッキリしなかった。他の芭蕉のすばらしい俳句や文章とピッタリしなかったんだ。
かぐや彦 かといって、自分の藩からの“要望”を、その場でピシャリとはねつけれるような時代じゃありませんし、ね。
かぐや姫 すごい。わたし、芭蕉さんにほれ直したわ。いちどでいいから、あんな人といっしょに旅行してみたい。
かぐや彦 そう、熱っぽくならず、もう失礼しようよ。
武彦 今日、話したのが、「芭蕉隠密拒絶説」のアウトラインだ。今回の旅行中、宮崎県南郷村の南郷旅館で、夜思いつき、翌日(十一月三十日)、早速バスの中で皆さんに報告したんだ。最後の「拒絶説」部分以外は、前の晩、旅館の大広間のレクチュアの時間にお話したんだ。旅館のお女将さんも聞きにこられて、楽しい、もり上がった講義だった。その余波だろうね。自分の部屋に引き上げてから、ことの真相に気づいたんだ。
おかげさまで、一つ一つの発見が、ことの全体のイメージと、しっくりマッチする、そのことの大切さを改めて痛感したよ。
(江戸時代の「手形」一般については、渡辺和敬氏<愛知大学教授>の御教示をえた。)
一九九七・十二月十四日 記
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