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古田史学会報 14号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
◇◇ 『彩 神(カリスマ)』 第三話◇◇◇◇◇◇
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美 ◇◇
◇ ◇
子供達が中に入ると、
「お先に頂いてるぜ。」
吉備津彦がどんぶりを掲げてみせた。足元には御飯粒の留まった小鉢や、魚の骨、果 物の皮を盛り上げた皿が散らかっている。大柄な吉備津彦は他人(ひと)の倍、養分を補給せねばならないのだろう。
「狡(ずる)いよ、独り占めは--」
「おいらの分も残しといてくれよ--!」
少年達が囲炉裏端へ殺到すると、
「早い者勝ちだい。」
吉備津彦と一緒に椀を啜(すす)っていた羽山戸が、悪戯(いたずら)っぽく目を光らせた。
「さあさあ、喧嘩しないで--」
「押し合うと火傷しますよ。」
天照(アマテル)の母咲玉(さきたま)が、杓(ひしゃく)でめいめいの器に滾(たぎ)る麦粥をよそってやる。
「小母さんの腕輪はゴホウラ貝だね。」
お代りの椀を差出しながら、羽山戸が咲玉の手元を覗いた。甲斐々々しさに似合わず 滑らかで華奢な両手首を、白い巻貝が房を成して飾っている。
「高木様が琉球(沖縄)へ行った時、買って来てくれたのよ。」
咲玉はにっこりして、
「もう四、五日すれば、あなた方のお父様と戻って来るでしょう。」
と、祭壇を振り返った。対海(つみ)の家は皆、旅の安全や豊饒を祈る為の祭壇を設けていたが、天照の所のは両脇や下部に石蕗(つわぶき)に拵(こしら)えてやったのと同じ手毬が楕円、長方形、三角を組み合せた艶やかな色糸に、貝殻や雲母(キララ)をちりばめて吊されていた。
「朝日祭りもお終いか……。」
羽山戸は溜息をつき、
「お前らと相撲の決着も着かないまま、別れちまうのか……?」
冗談めかして仲間を見回した。
「まだ時間はあるぜ。」
吉備津彦がなだめるように肩を叩き、
「来年は、みんなして大国へ来れば良いよ。」
須佐之男も明るく言う。
しかし、羽山戸は、
「俺は『日栖(ひす)の宮』の後継(あととり)だからな。戦(いくさ)の噂が流れているし、阿波へ許嫁(いいなづけ)を迎えにも行かなきゃならないし、悠長に構えていられないんだ。」
と、首を振り、
「これ、全部小母さんが拵えたの?」
改めて手毬の列を眺めた。
「作ったのは天照よ。」
咲玉が娘を指さすと、
「よくこんなに沢山、作れたね。」
須佐之男が感心した。
「お姉ちゃんは、海神鎮(かみしずめ)の能力(ちから)があるんだもの。」
石蕗が、我が事のように誇る。
「石蕗ったら……」
天照が赤くなった時、
「大変だア!」
「咲玉様ア、手を貸して下され--!」
二、三の船大工が飛び込んで来た。
「何が起きたの?!」
びっくりして立ち上がる咲玉に、
「井伏の爺さんが裏穴の岩場から足を滑らせて、深みにはまっちまったんでさア。」
「底にべらぼうな魚が隠れていて、爺さんを引きずり込もうとしているんですよ。」「フカか、大ダコでなきゃ良いんだが…。」
男達は口を喘(あえ)がせて説明する。
「石蕗、どこへ--?!」
天照が叫んだ時には、若布(わかめ)の手毬は浜の向こうへ弾んで行っていた。
大ダコと聞くや、石蕗が石の銛と綱を手に駆け出した。
洞穴の入口は、いつにも増して逆立っていた。真白な大波が幾重にも岩をかみ、ドス黒い帯が引いて行くかと思うと、再び天から雪崩れ落ちる。両側の石像や自分達の供えた花、御燈(みあかし)がどうなったか、まるで判らない。けれども、飛沫(しぶき)を透して井伏老人が岩にしがみついているのは、朧気(おぼろげ)に見る事が出来た。波が治まるまで辛抱する積もりなのだろう。が、年寄りの力がどこまで保(も)つか……?おまけに、太いレンガ色の紐が、周囲を躍り狂っているではないか。
(兄<アン>ちゃんを殺(や)った奴だ--!)
石蕗は銛を構えた。
白い渦に一瞬、無気味な赤目が光る。
石蕗が思い切り銛を打ち込むのと、白魔の腕が小さな体を巻き込むのと、同時だった。
◇ ◇
”寝ろてばや
寝ろてばや
昇る日の下(もと)、櫓は軋(きし)み
篭に釣餌に寄る魚
死んだ弟(おとと)の七つ星
天照の歌声が、朝靄(あさもや)を縫って行く。岬の家々も浜の工事場も、静まり返っていた。空は明るんでいたが、地平にはまだ、二、三、消えがての星が見分けられる。辺りは深い靄に覆われ、松林や舫(もや)い綱の輪郭も分かち難い。そんな中を、波に洗われ易い岩の道を辿るのは危険だったが、天照は灯明を捧げ、洞穴を潜(くぐ)って行った。明りの下には水に揺らぐ海草を刺繍(ぬ
いと)った手毬が、濃緑(こみどり)の中に僅かな金銀を弾(はじ)いている。
この若布の手毬が、大ダコの死骸と共に岸に打ち上げられた日の荒々しさは洞穴からは消え、一画に新たな石像が聳(そび)えていた。他の像が、動的といっても足をはね上げたり、両手をかざして歓呼している程度なのに、これは目を瞠(みは)り、口を結び、銛を構え、足下に大ダコを取りひしいでいた。
天照はその前に膝まづいて灯明を供え、若布の手毬を像の首に吊下げた。一緒にここへお詣りに来る度に、石蕗はすぐ退屈して外へ出たがったものだった。あれから幾らもたたない中(うち)に、自分がこれらの石像の仲間入りをする羽目になろうとは、予想もしなかったろうに……暇さえあれば石を砕く槌音を立てていた井伏老人も、今ではあんなに供養を尽くしていた孫の傍で安らかに眠っている。
あの日、奉納相撲と称して浜で格闘を演じた須佐之男や羽山戸、吉備津彦らも各々(それぞれ)の故郷へ帰って行き、現在(いま)、洞穴詣でを欠かさないのは天照だけなのだ。
その天照も来年からは、巫女として沖津宮( 現福岡県沖の島)へ行かねばならない。
(あんた達の事、忘れないわ。私はきっと立派な巫女<かんなぎ>になって、いつもあんた達の為に祈るわ。)
立ち上がった時、天照は岩角に淡い黄の花を認めた。いつか風が種でも運んで来たか、それとも誰かが植えたのか、一輪のツワブキの花が健気(けなげ)に波飛沫に耐えている。
”寝ろてばや
寝ろてばや
浜の生い松、夜風に哭(な)いて
親知らぬ子の涙の滴(しずく)
しらしら玉と散りかかる
寝ろてばや
寝ろてばや……
天照の歌声が、蕭々(しょうしょう)と靄の中に尾を引いた。
(緑玉・完)
〔後記〕
今回も長々とお付合い、恐れ入ります。いわゆる「神代文字文書」の一つ『秀真伝』(ほつまつたえ。原『古事記』ともいわれる)では、天照は男性神とされているのですが、私は従来説通
り女性、それも十代の少女と致しました。須佐之男や羽山戸も天照と同年で、暫(しばら)くはこの年齢設定で話を進める予定でございます。
(深津)
◇◇ 学林 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
他面、当然ながら、今のわたしにとってこの論文は「方法論上」の不満を蔵している。ここで「ギリシャ語原文」として引用したものは、たかだか活字化されたギリシャ語本テキスト(ドイツ、シュトットガルト)版にすぎぬ
。けれども方法上は当然、本源の最初の古写本にさかのぼり、その紙質や原筆跡の科学的検証がきびしく行なわれねばならぬ 。それによって、右のテキストの信憑性を検証しうるであろう。さらに、イエス伝自体の内包する原資料群の根本的な追跡も、あるいは可能となりうるであろう。
けれども、日本の片隅に住む一介の探究者たるわたしにとって、それはとうてい不可能であった。そこでその“可能な場”として「親鸞研究の領域」がわたしの眼前に大きく映じてきたのである。けっして真宗教徒やクリスチャンとしてでなく、親鸞とイエスに共存する原始宗教性(レーニンの言う「革命的民主的」性格)という真実の探究をめざしていたわたしにとって、それは必然の道であった。その二十年の結実がすなわち、この論文集全体でである。<「親鸞の歴史的個性の比較史学的考察」より。『親鸞思想』所収>
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 古田武彦 ◇◇◇◇
和歌山県橋本市 室伏志
古田武彦がその学説のほぼ布陣を終え、新たな展開を模索して自己の布陣の一角を自ら突き崩し、神武出発地を従来の宮崎県の日向から福岡県の高祖山連峰にある日向峠の麓に一説を書き換える自己革命を通して、「君が代」の問題に始まる第二展開に入ったとき、わたしは古田史学に組する者として自らを軽蔑せざるをえなかった。なぜなら古田史学に近づいた者なら一度は神武出発地を天孫降臨の地に比定した福岡の日向ではと疑いつつやり過ごしたからである。これほど頼りがいのない会員に囲まれた不幸な師もまた少ないかもしれないとひそかに思ったわたしの予想はそれに重なるように新たな展開に入っていた『東日流外三郡誌』をめぐる「市民の古代」の紛糾となってその後現象した。
かれらは古田武彦が自己の学説を自ら突き崩してまで史学のさらなる展開を求めた勇気から何ひとつ学ばなかったのである。この勇気は古田武彦をして自らの城塞を突き崩す一方、「記・紀」の域外に国内文献渉猟の旅を飛翔させることと別でなかった。しかし口では多元史観と言いながら本質は大和一元史観と同じ安全思考しかできなかった「市民の古代」残留派は、古田武彦が従来、偽書とされた中に大和国家一元史観から見ての「偽書」認定であったかもしれないという洞察を見なかった。
一方、安本美典は六〇年代の終わりに和辻哲朗らの説の上におかぐらして『神武東遷』をまとめ、戦後史学の「神話と歴史」理論の陥穽に切り込みながら、七〇年代の古田史学のダイナミックな九州王朝論の陰に埋もれ、次第に戦後史学との折り合いに学問を転向させていった。そして犯罪者さながらの手つきでこの犯罪心理学者はここが好機と古田武彦の「偽書」評価につけ入ろうとしたのが『季刊・邪馬台国』を中心とする「偽書」キャンペーンであったことは言うをまたない。
古田武彦が歴史学のさらなる深化と拡充のために、褒貶半ばする危険な「偽書」の内にあらたな展開の糸口はないかと模索したのに対し、安本美典は偽書論を深化させるのではなく、古田潰しを画策することによってただただ浮名を流すという真実探究とは程遠い芸人もどきの組織論をもって「市民の古代」の尻軽連中を抱き込んだのである。しかしそうした名利に目ざといだけの志しの低さをもってしてはせいぜい粗忽者しか組織しえないことは『季刊・邪馬台国』が今日身をもって証明しているのである。
ところで地下鉄サリン事件を一頂点とする無差別殺人事件を実行したオウム真理教の犯罪は断固として裁かれねばならないが、その上で今回のTBS問題に至るマスコミの言動を振り返るとき、犯罪報道の多くが警察情報と被疑者情報に当たるしかないように、これらマスコミ報道が、被害者情報を踏まえてオウム側情報と警察情報をネタに組み立てられてきたこと、そしていま情報は官憲操作の手の内に入ったことを視聴者は気づかねばならい。そしてTBSはマスコミ各社の中ではオウム側に踏み込んだのに対し、他社は安全策から警察情報を元に報道を競っていたにすぎないのではないか。それはどちらにつくも諸刃の剣としてマスコミの喉元に吊された剣であるにも関わらず、今日、マスコミが視聴率競争を生き延びようとするとき関わらざるをえない必然悪であったことは確かである。しかしオウム側の「悪」が誰にも明白となり、警察が一種、「正義」の代行者になり始めた段階から、オウム事件における自衛官関与問題やその政治資金の流れそして統一協会や北朝鮮との関連問題への言及がすっかり影をひそめてしまったのは、警察の手の内にマスコミが囲われたからではないのか。
TBS批判がこの手の内になかなか納まらないのに業を煮やした官憲が、情報を流すことに始まったと一部で噂される由縁である。われわれはTBSを始めとするマスコミがこれを契機にますます建前と本音を分離した「公式」報道に陥らないかを恐れる。マスコミの手がTBSに限らず程度こそ違えすべて灰色のコードの上にあらざるをえないのは、二十世紀世紀末の情報戦を生きるマスコミの宿命であり、今日スパイがダブル・スパイでないと勤まらないのと同様である。「愛される共産党」を標語に戦後中国から帰国し、名誉党員に成り上がった野坂参三の素性が、ソ連崩壊後の機密情報の公開から五重スパイとも七重スパイのゆえに、あそこまで行けたのだという現代の黒い逆説を忘れ、われわれはあり得ない「真っ白な」報道をマスコミに期待しているのではない。灰色の情報源に片足かけながらそれを突き抜けた未来に通ずる報道となることを求めているからだ。
いまこのTBS問題にある官憲情報をもにした報道を「公式」報道(定説)と読み、オウム側情報を「偽書」情報(偽説)と見るとき、真実の歴史探究がこれらの内にあるのではなく、これらの情報を踏まえた向こう側に展開さるべきが明らかなら、TBS問題はTBSだけが詰め腹切らされて済む問題でないのは自明である。多元史観を云々する者がすっかりオウム問題に関して定説(一元史観)に踊らされながら、多元的古代の探究なぞ言うはおこがましいかぎりなのだ。
思うに真実探究のあり方にこれといった定型が成り立ちえないのは、真実が人それぞれの個性的な方法を通 してしか覗き見られないものとしてあるからだが、古田武彦は親鸞探究の過程で『マタイ伝』の次の言葉の前に佇んでいた姿をわたしはいま思い出す。
《しかしイエスは彼の弟子たちに言った、『まこと汝らに私は言う、富む人は困難して天の王国に(入る)であろうことを。しかしふたたび汝らに私は言う、富む人が神の王国に(入る)よりも駱駝が針の穴を通って入ることはいっそう容易である』》
古田武彦はこのイエスの言葉の中にある「富む人」の原義についてカトリック、プロテスタントがともに「心の富む人」としたのを斥け、文字通
り所有の「富む人」を指すとし、口説の徒が所有の「富む人」に抱えられた結果の変容が「心の富む人」であったと断定したのである。のみならず古田武彦はこの駱駝の論理は対人的平等性を貫徹するためにあるのであって、決して無産階級を優遇する論理ではなかったと安易な階級迎合をも斥け、その核心は「所有の貧しき者と神の前に己を空しうする心の貧しき者とが強い確率をもって結び付いている」ところにあるとする論理を抽出したのである。
かつて「神の前に己を空しうする」青年が「富む人」の中から出にくく、イエスの元から悲しく立ち去らねばならなかったように、今も昔も古田武彦の前に駱駝の論理は「真実の前に己を空しうする」者は誰かと問うているようにわたしには見える。このとき安本美典やマスコミはなんと空しい「正義」の虚名を追う情況そのものに化していることであろう。死者は死者をして葬らしめよ!
こうした目糞、鼻糞の賑わいの情況をよそに、灰塚照明が神社誌を踏みしだき、また古書、古伝を選りわけ、『桓檀古記』の中に神武の古邑の地として「伊都国は筑紫に在りて亦、日向国なり」に象徴される記載を高山秀雄の示唆から見出し、それを『古事記通信』で深めているのはさすがである。大和国家一元史観によって歴史の主流から遠ざけられ、顧みられることなかった「偽書」、古書、古伝を正当に評価し直し、その本来あるべき位置へ復すことは「真実の前に己を空しうする」者にのみ与えられた光栄にちがいない。
(H8.4.29)
熊本市平野雅曠
○土井晩翠の詩
私が小学校の五年生ごろの或日、高等科の教室から生徒の合唱が聞こえてきた。
祁山悲秋の 風更(ふ)けて
陣雲暗し 五丈原
零露の文(あや)は 繁くして
草枯れ馬は 肥ゆれども
蜀軍の旗 光無く
鼓角の音も 今靜か
丞相病 篤かりきーーー
“いい歌だなあ”と私は耳を澄ませた。
学校が退けて、近所の女生徒が得意気に練習するその歌を、私はいつの間にか、うろ覚えながら、第一節だけは歌えるようになっていた。もっとも意味は解らないままだが、曲が好きだったからだろうか。
その後、中学校での漢文の時間に、『十八史略』か何かで、五丈原が諸葛孔明に関したものであることを習った記憶があるけれど、その歌が、明治の詩人土井晩翠の「星落秋風五丈原」と題する詩であることを了解したのは、早や老境に入ってからのことであった。
○諸葛孔明
中国の三国時代、蜀の王劉備の下には、有名な関羽や張飛らがいたが、共に豪傑型の将軍で、知略の才には乏しかった。その事を良く知っている劉備は、これを補うべき軍師として、諸葛孔明を迎えるために、三度もその住居を訪ね、礼を厚うして協力を乞うた。
いわゆる「三顧の礼」に感激した孔明は、劉備の為に力を尽くすことを承諾し、丞相の高位 に即いた。
この事は、劉備没後の建興五年(二二七)、蜀軍が魏と戦うべく出陣するに当たって、孔明が劉備の嗣子劉禅に提出した『出師の表』に記されているが、この表は、これを読んで泣かない者は人に非ずとまで評された名文と伝えられる。
臣は本布衣(ほい)、南陽に躬耕(きゅうこう)す。苟(いやしく)も性命を乱世に全うせんとし、聞達を諸候に求めず。
先帝、臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)し、臣を草廬の中に三顧し、臣に諮うに当世の事を以てせり。是に由りて感激し、遂に先帝に許すに駆馳を以てす。
卑しい身分の私を見下した態度もなく、辞を低うして、みすぼらしい住居を三度も訪ねられて、時局の事を問われたのです。
それ故に私は感激し、遂に先帝の乞いを納れて、犬馬の労を尽くすべく決意しました。
と記されており、かかる孔明の一貫した忠誠に対して、劉備の信頼は頗る厚く、その臨終に当っては、嗣子劉禅の後事を託し、もし彼が君主としての才が無ければ、其方が蜀の後継者となってくれとまで言い遺している。
『出師の表』にはこの事を、
故に崩ずるに臨んで、臣に寄するに大事を以てせしなり。
と記している。彼は翌年再び出陣するに当っても、表を提出した。『続出師の表』と呼ばれる。
蜀の建興十二年(二三四)は、魏は初代曹操の孫、明帝の時代に当る。蜀軍は魏と戦うべく北進を開始し、漢中を経て魏領に入り、五丈原に陣を布いた。
だが、多年の心労と激務とは孔明の身を蝕んでいたのだった。たまたま陣中に病を得た彼は再び起つことができなかった。
祁山(きざん)の風泣く秋の一夜、満天の星空から、蜀軍の陣営に巨星の流れ落ちるのが見えた。五十四年の波乱の生涯を閉じた諸葛孔明の最期であったが、その死は側近以外には秘とされた。
孔明の知謀を恐れ、持久戦の構えを取り続けていた魏の将軍司馬?(字は仲達)は、流れる星に孔明の死を察し、蜀軍の引揚げを慮って、総攻撃の態勢に転じた。案の定、蜀の陣には人影なく、仲達を先頭に追撃に移りかかった折、突如として山陰から打出す軍鼓の響、旗立て進む蜀軍の中に、軍師孔明らしい車上の姿を望見した仲達軍は?孔明死するは誤りだったか?と驚きあわてて、きびすを返して退却したのである。
これは、孔明が臨終に当り、側近に授けた計略であった。魏軍を追返した後、初めて孔明の死去が全軍に知らされたのである。
時の人たちは、「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と評して、彼の知謀を讃えたのである。
○孔明没後
それより四年後の魏の景初二年(二三八)司馬仲達は朝鮮半島に於て、公孫渕を破ったが、あたかも倭国女王卑弥呼が魏への朝貢の年であった。
翌三年正月、明帝は病に倒れ、暫く臨終に謁することができた仲達は、帝から幼い斉王の後事を託されたのであった。しかし、仲達の子、司馬師は、後に斉王を廃し、次弟の子司馬炎は、遂に禅譲と称して晋朝を建てることになる。
さて、孔明の没後約四百年、世は唐の時代となり、高祖の二男李世民が兄弟を殺して帝位 に即き、太宗となった。
この太宗と当代の名将と言われた李靖(衛国公)との問答記録『唐太宗李衛公問対』(巻中)に、
臣窃(ひそ)かに陛下製る所の破陣楽舞を観るに、前に四表(四個の鉾)を出し、後に八旛(八本の旗)を綴ね、左右に折旋り、趨歩で動き、金鼓に各その節(リズム)を有す。これ即ち八陣図(諸葛孔明の八種の戦闘体形図)の四頭八尾の制(きまり)なり。
人間但楽舞の盛(いみ)じきを見る。豈軍容
の斯くの如きを知るもの有らんや。
「破陣楽舞」の舞を見る人たちは、ただ舞の壮麗さに見とれて、この舞が戦陣の体形であることを知るものが有りましょうか、恐らく有りますまい。と述べているのである。
そして又、この事は我国の八幡宮にも大きな係りをもつと思われるのである。
○武の神、八幡大神
福岡県築上郡吉富町小犬丸の八幡古表神社は、欽明天皇時代の創建とされ、古い伝統をもつ神舞「細男の舞」や「神相撲」で有名である。
元正天皇の御代、九州の隼人の反乱の際、宇佐八幡と共に神軍を派遣した縁で、宇佐八幡宮秋の放生会の際は、吉富港から宇佐へ海を渡った古表神社の神舞が奉納される。
神舞は「御鉾の舞」と「八乙女の舞」とから成るが、前者は左手に白い御幣、右手に鉾をもち、緑・白・赤・水色の衣を着た四神の姿で舞われ、後者は左右の手に赤い御幣をもつ八人の少女によって舞われる。
由来、八幡宮は武神として尊崇されてきたが、源義家が「八幡太郎」の名を冠したのも、この事を裏付けているし、長い歴史の裡に、出征する将兵が武運長久を祈願したのも、これによるのである。
唐の太宗が、諸葛孔明の「八陣図」の「四頭八尾の制」を取り納れて作った「破陣楽舞」と、八幡古表神社の「四神、八乙女」の神舞とは、そっくり同じとは言えないまでも、何か大きなつながりを持つことは争そえまい。
孔明死して千七百六十有余年、彼の遺業は今尚、中国よりの渡来神である八幡神に護られて、日本の風土に生き続けているのである。
(参照,福永光司著『馬の文化と船の文化』)
(平成八年三月記)
五月十二日、天満研修センター(大阪)にて第二回定期会員総会が開催され、九五年度事業報告・決算、並びに九六年度予算案が承認されましたので、ご報告します。
【古田史学の会,九五年度事業報告】
1. 古田史学論集『古代に真実を求めて』1号発行(五百部)(編集:吉森政博)
2. 古田史学会報7回発行(編集:古賀達也)
3. 『新古代学』編集委員会に参加(古賀)
4. 古田武彦講演会(大阪),2回開催
5. 『新古代学』五十冊を大学・図書館に贈呈
6. 古田武彦著『学問の未来』を会員に進呈
7. 古田武彦著『親鸞思想』(絶版)、同『近代法の論理と宗教の運命』(未刊行)の刊行を出版社(明石書店)と交渉。古田氏の同意の上、交渉成立。
□□事務局だより□□□□□□
▼本号では古田先生より大部の原稿を頂くことができた。筆跡鑑定に関する方法論についての論文だが、偽作論者の「筆跡鑑定」が、いかにずさんなものであるかがよくわかる。
▼わが国の親鸞研究に画期をなした名著、先生の『親鸞思想』が従来偽作とされてきた史料の再評価に主眼のおかれていることを見るとき、先生の学問の方法が『三国志』『記紀』そして「和田家文書」に至るまで一貫していることが理解できる。
▼今では古本屋でも入手困難な『親鸞思想』が復刻されることになった(明石書店より)。同書は、目の醒めるような論証と科学的調査により、次から次へと通説を覆し、親鸞の生き生きとした思想と生涯権力に屈しなかった彼の姿を蘇らせている。
▼古田先生が京都に帰られるということで、住所電話番号の問合わせが寄せられているが研究に専念したいと言われる先生のお気持ちを配慮すると、対応に苦慮しています。事務局を通じて対応できることは、喜んでさせていただこうと思っています。ご理解の程を。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
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