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師表としての二先生の御指摘 青森県藤崎町 藤本光幸
1997年 6月16日 No.20

古田史学会報 20号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫

百済年号の発見 古賀達也


ある「月読命」伝説試論

京都市 本野嗣郎

 室伏志畔は「伊勢神宮の向う側」で古代史の分野に殴り込みをかけた「暴れ龍」と、言いたいところだが、著者に倣って「馬」と言っておけば、その馬の強靱な蹄が蹴り起こしたのが、「月読命」の発見である。では、どうして発見されたか。
 著者の意図は近畿大王家が六七〇年~七〇一年(著者は六九〇年持統即位から六九二年伊勢行幸に画期をみる。)倭国を併合して日本国を建国し、天照大神を主神として斉祀ったのは、単純に倭国(九州王朝)の主神をそのまま主神として受け継ぐといった単層的なものでなく、この画期線にはもっと重層的なものが隠されているはずだとの直感から、倭国の主神-天照大神の向う側に隠されているであろうにちがいない「神」を探すことにある。この場合、私は直感といったが著者はある方法論によれば「神」隠しがなければならないと睨んでいるのだ。
 その方法論とは吉本隆明の「言語にとって美とは何か」から導き出された「指示表出と自己表出」の方法論である。この視点から、古田武彦の倭国(九州王朝)=主神・天照大神=(近畿大王家)大和朝廷の等式に不満をもち、単純に大和朝廷が倭国の主神を主神とするはずがないという。でなければ幻想的統一国家-万世一系の天皇制が創出出来るものではないというわけである。
 かくして、「神探し」がはじまり、先に見た著者の画期的な発見、「月読命」と出会うのである。
 古田武彦が序文で評しているように「月読命」の発見が最大の成果である。
「著者独自の創見は月読命の発見だ。研究史上、今後の各論者の探究の輝ける先導者となるであろう。」と古田武彦は激賞する。
 違った意味で私も衝撃とある種の羨望をもったことを告白しなければなるまい。
 それはおくとして、月読命が著者のいうように倭国-九州王朝の主神であろうか。ここにおいて、果してそうか、という大いなる疑念が湧出してきた。
 私の大胆な仮説を言わせてもらえば、月読命は天照大神と併立した神である。つまり、二神が主神の地位にいたのである。著者が灰塚照明に導かれて発見した月読命は壱岐のシンボルとしての主神であり、天照大神は対馬をシンボライズする主神である。これら二神をコントロールしていたのは倭国の最高神とされていた天神である。
 古田武彦が既に指摘しているように、大国主命、天照大神は同族である。恐らく氏族が違っただけのことで、天照は大国主命の第一の高官といわれる。月読命も又、恐らく同族で大国主命の配下であろう。
 月読命-月の神を奉ずる人々とは、星を目印とし、渡り鳥に教えられ、海流や風を利用して、航海に極めて長けた技能をもった人々であったにちがいない。
 先史人類学の片山一道によると、「状況証拠しかないが、人類史上はじめて、なんらかの遠洋航海を実践したのは西太平洋のラピタ人だろう」という。今から約四千年前ラピタ人は忽然と人間史の舞台に登場、まずニューギニア東北部の島嶼やビスマーク諸島の海辺に出現し、三百年くらいの短期間に東のソロモンからニューカレドニアに拡がり、さらに東のフィージーや西ポリネシアのトンガやサモアの島に進出した。東西四千キロ以上も広がるという太平洋の中に島嶼が点在する真の海洋世界で、ありきたりの小舟で往来できるような世界ではない、とも片山一道はいう。
 「このラピタ人は幻の民族でもある。どこから彼らが来たのか、・・中略、それともシナ海の沿岸地帯から南下したグループの一つだったのか。わずかに残されたラピタ人の古人骨を見るかぎり、あるいは比較言語学の知見に照らすと、その可能性が大である」と。
 片山一道は又、次のようにもいっている。
 ラピタ人をルーツとするオセアニアの人々はアジアから環太平洋に拡散したモンゴロイド系の人々の中、ただ唯一、海洋世界に定着したグループなのである。だから「海のモンゴロイド」と呼んでよい。
 彼らが再び活発な航海活動を始めるようになるのは、今から約二千年程ほど前のこと、と言われている。
 「海のモンゴロイド」と原日本人は何処から来たか、と密接な関連となるが、原日本人の問題はアジア人は何処から来たか、と重なってくる。埴原和郎は 1. 大陸からの南下説、 2. 二万年前氷河時代にインドネシア辺りに南下したアジア人が、ここで進化して、その一部が北上したとの北上説、 3. 北と南と両方にいて、それぞれ進化したという二元説などの三説があり、どれが正しいか、まだ分かっていないという。
 しかしながら、縄文時代一万二千年前から弥生時代前期から中期にかけての日本列島の人的移動、大陸や南方との人的交流について大半は状況証拠ながら、ある程度の推定は可能である。松本秀夫は「日本人はどこから来たか」でモンゴロイドは(松本は蒙古系と表現)ユーラシア大陸の中央とインド・中国の海岸沿いに移動した北方系と南方系の二通りがあるという。
 古田武彦は和田家文書の記述から、日本列島旧石器期には今の北海道東北地方を中心に「粛慎列島」であった可能性を強調している。が、これは中央ステップ地帯をシベリア地方のバイカル湖辺りに移動して、アムール川流域から南下した人々であろう。
 一方、大陸中央から朝鮮半島経由で日本に南下した人々、さらに大陸海岸部を移動したモンゴロイドが海洋民に進化して、東支那海を突っ切って日本に渡来した人々など。既にして日本列島に居住していた縄文人たちはかくの如く、重層化している。
 この大陸沿岸部からのモンゴロイドの移動と密接にかかわってくるとみられるのが、長江中・下流域の遺跡である。近年、大きくクローズアップされている河姆渡-良渚の遺跡がそれで、黄河文明に先行する長江稲作文明としての評価が突出しはじめている。特に稲作と漁労を基盤として極めて高い水準の玉文化を築いた良渚は、五三〇〇-四二〇〇年前の約千一〇〇年間花開いていた。その良渚は長江の大洪水で滅亡したといわれるが、ここで生活していた水田稲作と漁労の兼業の人々は、その後何処へ行ったのか。
 主力は北の黄河流域へ行き黄河文明勃興に力をかし、一部は雲南からベトナムへ、一部は渤海湾沿岸部・遼東半島一帯から朝鮮西北部へ、さらに一部が朝鮮西海岸から日本列島へ(これについては箕氏朝鮮-箕氏韓国の古田武彦の説がある。)、そして一部は東支那海から日本列島へ、といった展開が描ける。福永光司は「馬の文化と船の文化」でこのような図式を示唆しており、一括してこれらの人々を「倭人」とし、長江下流域から雲南一帯に散開した人々を「越人」としている。
 この図式は水田稲作の日本への伝来が、長江中。下流の江南地帯からである事を強く示唆するものでもある。
 それは、ここではおくとして、古田武彦の「盗まれた神話」の紀記分析を底本とする私の仮説の核心は次のようである。縄文時代後期後半以降黄河文明が活発化するBC千三〇〇年、(殷の最盛期)から江南一帯の人的移動が大きくなったとみられる。これらの一環で時期は定かでないが、対馬海流上の隠岐、対馬、壱岐諸島に渡来してきたグループが、同じ「日の神」グループである。太陽神信仰の思想をもっていたのである。
 その最初の一団が大国主命を最後とする「出雲王朝」で、拠点は隠岐である。何故、彼らが対馬海流上東方の隠岐に上陸したのか。
 その答は「黒曜石」であろう。七千年前-五千年前の稲作遺跡が多く遺存する淅江省の遺跡から「黒曜石」が出土しているという。その原産地は明らかでない。いずれ調査の結果明示されよう。言うまでもなく、中国では「黒曜石」は産出しないから、ある中国の学者は「イランからもってきたのでは・・・」と言っているようだが、日本からの可能性の方がはるかに強い。「河姆渡遺跡」から数多く出土している「決*状耳飾」は日本列島各地で同時期頃の遺跡で出土している。七千年前、日本と中国江南地方との間に活発な交易が行われていた事の物的証拠であろう。彼等はこの「黒曜石」を資本に、交易を東支那海を西に、日本海を東にと、時には南海上に拡大し、「出雲王朝」を築いたのだ。
 次に、遅れて対馬海流上入口に渡来して来たのが、「天照大神」を主神とする「九州王朝」の一団である。彼等は「対馬」を主に「壱岐」にも支配地を付随させたが、所詮、「黒曜石」には敵対する手だてなく、「出雲王朝」の配下として、その発展に協力したのであろう。もちろん、ルーツが同根との共通認識があったからだ。
 そして、核心の心は、第三波として対馬海流上にやって来たグループである。彼等は何処から来たのか。
 大陸の東支那海沿岸部もその候補地の一つではあるが、そうとすれば前二者と変わらない。結論から言えば、南西太平洋圏-オセアニア圏からである。先に記したようにこの地域で活躍した「海のモンゴロイド」は世界に冠たる海洋民である。
 約四千年前に南下して「海洋民」に進化した彼等の一部が、原郷を目指して北上したのである。約二千年前に再び活発な航海活動を始めた「海のモンゴロイド」に先行したグループであろう。つまり、「月の神」を奉戴する極め付けの航海技能を持った一団が対馬海上に出現、「天照大神」グループの了解のもと「壱岐」に定着したとみられる。彼等両者ともにルーツを同根とすることを理解し合えたからに他ならない。
 「月の神」グループは秀抜な航海技能を駆使して「天照大神」グループを内側から援ける事で、その拡充に力を貸し、後に「天孫降臨」から北九州に「倭国」を建設するに至るのである。
 この「月の神」とは他でもない「月読命」である。「日の神=天照大神」と「月の神=月読命」の二つの文明が合力、「天照大神」を表-シンボルとし、「月読命」を後衛とする強力な集団が組織され、「日の神」の先達「出雲王権」を奪取して「九州王朝」を建国することになる。
 (すでに明らかなように、古田武彦の最新の説-パラオ諸島近辺から「二倍年暦」の文明をもって日本列島に北上した人達が、魏志倭人伝「邪馬壱国」の支配階級であった-、を横睨みしているのである。)
 九州王朝の主神は「天照大神」と「月読命」の二神である。それぞれは「表」と「裏」の密接な関係にあり、「邪馬壱国」の「卑弥呼」と男弟を始めとする「九州王朝」伝統の統治形態-兄弟統治思想の淵源であると考えられる。
 「月読命」について、日本書紀(岩波文庫)は次の如く記す。
伊奘諾尊・・・・、左の手を以て白銅鏡を持りたまふときに、即ち化り出づる神有す。是を大ひるめのむちと謂す。右の手に白銅鏡を持りたまふときに、即ち化り出づる神有す。是を月弓尊と謂す。
大ひるめのむち及び月弓尊は、並に是、質性明 麗し。故、天地に照臨ましむ。
                          <一書第一>
「天照大神」は、以て高天原を治すべし。月読命は、以て滄海原の潮を八百重を治すべし。
                          <一書第六>
 古事記には次の如くである。
 天照大神に賜ひ詔りたまはく、「汝命は高天原を知らせ」と事依さして賜ひき。・・・。次に月読命に詔りたまはく、「汝命は夜の食国を知らせ」と事依さしき。
<講談社学術文庫>
       (一九九七年五月二日了)
(註)1.片山一道、埴原和郎の説は「大航海」NO.8(一九九六年)
  2.長江稲作文明については、「創造の世界」九二号(一九九四年)、九五号(一九九五年)


第一勧銀の暴力団胴元事件と日本古代史

奈良県香芝市 山崎仁礼男

(1) ダブル・スタンダードの問題
 日本の最大の銀行が長年に渡り総会屋=暴力団の胴元となっていたと云う事件が発覚しました。これを商法違反の犯罪で、暴力団を援助した社会的な最悪の悪徳と見なすのか、それともちょっとした弱みを総会屋に握られてゆすられた結果として何年ものうちにあんな大金にまで膨れ上がってしまった、と考えるのかです。一般社会からは数百億の公金を暴力団に貢いだ人物として犯罪者扱いされるが、銀行内部では犯罪者ではなく企業のための犠牲者であって運が悪く失敗したのだと云う構図を想定してみます。ダブル・スタンダードの問題として考えてみます。社会と企業は戦前の内部の二つの規範が存在するのです。
 銀行の内部牽制組織は厳重です。今度の事件の場合、総務部・営業店・審査部・決済権限者の約十人ほどの手を経なくては完全犯罪は成立しない。多分、最初にこの案件が上がってきた時、審査部の担当審査役は反対したでしょう。しかし俺が責任を持つからと上司に云われその審査役が企業防衛のためと説得されると、そこで事態は終わりです。以後、これにかかわる案件は素通りすることになります。稟議書の一行を読んだけで、上司の過ちを突いてそこから出てくる化け物がどんなに大きいか、優秀な連中は百二十パーセント事態を正確に理解したのです。誰ひとり副頭取にこのような貸し付は辞めるべきとは云わない。そう云う馬鹿がいたら、彼が銀行員としてのエリートコースを外されます。なお、こと一般の貸出案件について時として侃々諤々の討論は保証されていて、そうでなくては正しい決済が不可能です。しかし日本的合理主義はここで止まるのです。これ以上は聖域であって、触らぬ神に祟りなしということです。日本式合理主義の限界、ダブルスタンダードの別の側面です。

(2) 所有と占有の問題
 所有と占有の分離が問題です。株式会社は株主のものであり、利益追求を目的とした手段です。戦後の財閥解体の旋風のなか、かってはオーナー銀行であった一流銀行はオーナーたちを追い払ったのです。例えば富士銀行は安田財閥の安田一族の銀行であったが、岩佐頭取がこれを追い払ったのです。それはそれなりに民主化されたと云えましょう。
 かくして株式の相互の持ち合いのなか、このような社員あがりの人物が会社の支配権を握る形態が日本社会に出現した。所有者不在の会社です。日本社会では占有者がいつの間にか所有者になったかのような錯覚があり、これが一人歩きを始めるのです。アメリカの公認会計士制度のそもそもの発生は、ヨーロッパからアメリカに投資された資本が、果たしてうまくいっているかどうか管理監査するため、ヨーロッパの資本家たちが専門家を必要とするなかで発生してきたものです。日本は所有が占有を管理するシステムが未成熟なのです。

(3) 疑似共同体的資本主義
 法人資本主義と云う概念を主張する経済学者がいる。私はこれを疑似共同体的資本主義と呼びたい。安田一族を追い払った富士銀行は所有者不在の株式会社となった。占有者が所有者のような顔をして振る舞ったのです。
 戦後の民主化の結果、皮肉にも、株式相互持ち合いのなか、株式会社富士銀行は行員一同(正しくはそのエリート集団)が占有(所有)するものとなり、時代の労働攻勢のなかで共同体化を促進したのです。株式資本は行員一同が管理するフアンド(基金)となり、行員たちはその銀行を繁栄させることを目的とするように誘導され、そしてそこが自己の生涯の安定した住家となったと信じるよう思想宣伝されたのです。例えばそれは、大企業の持つ福利厚生施設を考えればおよそ想像できましょう。資本主義である限り資本と労働の矛盾は存在する。しかしこの矛盾は抑圧された。銀行が安定して繁栄する限りその危機の少ないこと彼らはよく知っているのです。
 共同体の原則は何か。それは何よりも生き残ることであり、繁栄を続けることと云うべきです。共同体の今日の存在形態は我々の家庭であり家族です。子供のためには何でもやってしまうと云う献身の哲学です。誠に歴史の弁証法とは不思議なものです。戦後の民主化が、オーナー所有と云う人的血族的な隷属関係を廃棄し、社員エリート所有の株式会社を生み出した。しかしこの会社は疑似共同体化となって、違った形の反動化への道を突っ走ったのです。戦前から多少は存在した終身雇用制を完成させた。難関の受験競争に打ち勝って、第一勧業銀行と云う疑似共同体に参加し行員は、住友銀行流に表現すれば向こう傷は問わない行員は生涯面倒を見るとの暗黙の約束と期待のなか、直ちにこのダブル・スタンダードの社会の仕組みを理解し、競争場裡の狼となるのです。共同体の戦士が如何に勇敢であったか、歴史の教えるところです。住友イズムはこの極致です。

(4) 現象形態の背後にある矛盾
 矛盾の第一は所有と占有の矛盾からやってくる。資本主義社会において、株式会社は株主のものです。さて、占有者に過ぎないものが所有者のように振る舞っている場合、誠に都合が悪いところが株主総会です。勿論多くの株主は所有と云う感覚はなく、公認会計士も経営に癒着しておりチョロマカスことは容易です。ここに、占有者にとって都合の悪い場所を利用しようと云う知能犯が現れる。企業にスキやエラーがあれば待ってましたとばかり食らいついてくる。企業は常にリスクとアクシデントにさらされている。占有者の代表は真の所有者ではなく、別の面ではサラリーマンですから、自分の代だけうまくやりたいと云う要求が潜在する。何事もなく株主総会を乗り切ることを切実にのぞむ。ここを突かれる。それは占有と云う外皮のもとで所有者が不在であると云う、彼らの不安定な存在形態の中にその根本的な原因があるのです。
 会社の経営者がオーナーならば、彼が腹さえ決めればよく、オーナーに委託された経営者ならば失敗の原因をオーナーが納得すれば問題がない。
 別にダブル・スタンダードからくる矛盾がこれを増幅する。ダブル・スタンダードを容易に受け入れると云うことは、日本人が個人としての信念を持たない人間の群れであるということです。日本人の個人は弱い。他方、ダブル・スタンダードの存在は集団が独自の制裁措置をもっていることです。企業の規範違反の制裁措置は転勤や仕事の上での差別です。これが強力です。弱い個人はひとたまりもない。集団の内部に異なった思想を許容しない集団はその内部から発展しない。対立を抹殺(自粛と云う形態が多い)してしまうので、内部からの弁証法が成立しないのです。
 かくて日本社会はその内部にビルトイン・スタビライザー(自動安定化装置・経済用語)を持っていない。そして、時として矛盾が深まると暴走を開始する。それが第二次世界大戦の軍部であり、今回の第一勧業銀行の事件と云うべきです。

(5)ダブル・スタンダード社会の発生の根源
 ここからいよいよ古代史の問題です。私の最大の疑問は日本の儒教と中国朝鮮の儒教とどう違うかと云う疑問なのです。
 倭奴(日本)も亦た儒書を重んじ、仏法を信じ、凡そ中国の経書は皆、重価(高い値段)を 以て之を購う。独り孟子無し。其の書を携えて往く者有れば、舟、輒覆溺すと。此れ亦た一奇事なり(明代の五雑俎「中国の歴史3」陳舜臣著・平凡社刊)と後代に云われています。

 儒教の合理主義、特に孟子の民を貴しと為し、社稷(国家のこと)は之に次ぎ、君を軽しと為すなど、万世一系といわれる日本では、この孟子の思想は体質に合わないところがありました(同書)。日本の儒教と中国の儒教の何処が違うのか、体系的に書いた本を探しています。
 日本人は確かに儒教も仏教も学んだ。また明治の王政復古以降ヨーロッパの思想も学んだ。これらは共同体を越えた普遍の思想を含んでいる。しかし、それはアクセサリーであり、権威であり、富国強兵の生産の手段として利用したに過ぎないのではないか。しかもこの学び方は権力者が推進したもので、権力者に都合のよいように変容しているのです。
 このような体制を最初に成立させたのが天武天皇による万世一系の天皇制の思想とその体制です。内部は部族の生き残りの思想で固め、外側は儒教・律令制・仏教で飾りたてたのですが、これらの普遍と合理主義の思想は天皇制に抵触しないように大きく歪められて採用されるのです。かくして日本の権力者は、以後、すべてこの天皇制の手法を踏襲したのであり、明治王朝の復活はこれを倍加したのです。ところが愚かにも、日本人は民族とて普遍や合理主義の思想を習得したと錯覚しているのです。民族として共同体的人間関係以上の関係を築くことが出来ず、築こうとする運動は抑圧され、常に疑似共同体関係に追い込まれ、この体制は絶えず再生産されてきたのです。常に聖域の存在する社会として、合理性と普遍性は必ず屈折する社会ができあがり、日本人に染み付いた体質となったのです。

(6) 問題の解決の方向
 疑似共同体的幻想の終身雇用制は、経済が成長し企業が一定地域で成長を続ける環境のなかで有効に機能する。しかし資本の国際化はこの体制や系列関係の疑似共同体幻想も崩壊させる。資本は資本なのである。国際的となった資本の合理性が、日本社会の戦後体制を大きなローラーとなって踏み潰しつつあるのです。だからといって第一勧業銀行が一部のエリート行員の終身雇用制を容易に廃止するとは思えない。
 まず、日本社会からダブル・スタンダードを廃止するよう努力することです。具体的にはこの事件について、役員たちを犯罪者として第一勧業銀行の関連会社を含めてに明確に対応させることです。会社が骨を拾ってくれると思っている限り、ダブル・スタンダードは決してなくならない。それは一年後に彼らが何処に再就職したかを調べればよい。
 オーナー資本主義より社員のエリート占有の会社のほうが、より人的従属が少なく、制度として否定する必要はない。問題はこの企業の業績の評価をより一層はっきりさせることです。公認会計士制度を見直して、会計士と企業の癒着を制度的に正し、開示の内容をもっと増やし、公認会計士の責任を追求出来る制度を発展させるべきと思われます。証券アナリストなどの分析や検討結果を株主に配布し社会的評価を株主が知るようにすべきです。国や地方公共団体にも言えることで、占有監視の社会的システムの整備が問題です。
 最後は、集団内部での弁証法的緊張関係の構築です。批判的意見の存在を認め、集団の権力者は常に批判にさらされて権力を行使することが、結局その集団が誤りに陥ることが一番少ないであろうと云うシステムの承認です。かつて戦争直後は経営民主化闘争として多くの企業内組合がこれを担ったものです。
 企業内での思想・言論・集会結社・経営批判の自由の保証である。労働関係におけるダブル・スタンダードの廃止である。それは、そこに働く人達の叡知にゆだねるということです。だが、果たしてこう言うことが近未来の日本社会で可能であろうか。絶望的である。では完全な自由な労働移動の可能な社会が日本にくるであろうか。それは多くに人にとって失業の脅威に脅える日々ではないか。日本人が民族として真の合理主義と普遍の思想を体得するために、まだまだ長い道程が必要なのである。

 


<例会報告>
 五月例会では、昨年宮崎県南郷村神門(みかど)神社で発見された綾衣文書に記された百済年号、「白雲」「明雲」が古賀より紹介され、朝鮮半島三国(新羅・高句麗・百済)の年号の実体からも、同時代の倭国に年号が存在していない方がおかしいと指摘。そうした視点からも九州年号の実在は動かし難いと報告された。なお、同綾衣文書については、古田氏による現地調査がすでに行われており、講演会での調査結果 報告が期待されるところである。
 六月例会は二九日の古田武彦関西講演会準備のため、休会。 (古賀)


◇◇連載小説『彩神(カリスマ)』 第四話◇◇

銀蛇の窟(6)

--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美 ◇◇

  ◇ ◇
 白銀(しろがね)の広間に、優美な琴の音が流れていた。天井も柱も床も雪のように白く、壁には藍や薄緑の緞子(どんす)で蛇を織込んだ幕が張られ、琥珀の栲綱(たくづ=しめなわ)を巡らせた祭壇も、太陽神と輝きを競うように翼を広げ、天へ駆け昇ろうとしている蛇(じゃ)の形である。とぐろを象(かたど)った藺草(いぐさ)編みの円座に置かれた壺や杯(さかづき)は、勾玉 (たま)や亀甲文様の他、透明な青や薄紫の花で飾ってあったが、不思議な事に些(いささ)かも匂わず、そよぎもしなかった。それもその筈、これらは皆、塩の結晶なのである。塩は海水からだけ採れるのではない。岩山にも辛味を帯びた地下水が滲(にじ)み出て幾筋もの塩場を成し、獣達の栄養源になる事がある。鳥髪一族の地下倉はこの岩塩の一大殿堂であり、足名椎(あしなづち)らの貴重な収入源でもあった。
 櫛名田の奏でる琴は、蛇神の巻き起こす金銀の風雲が眩(まばゆ)く棚引き、弦のわななきに白い指がまつわり、酩酊感を募らせて行く。
「見事だぞ、櫛名田。」
 山田は拍手して、
「さあ、注いで貰おうか。」
 と杯を差出した。普通なら労(ねぎら)う意味で相手に一献(いっこん)射すのだが、山田は酌も琴も夫への奉仕としか考えていないらしい。
 「あら、もうお酒が切れてしまいましたわ。新しくお持ち致しましょう。」
 「どうかこの肴(さかな)、召し上がってみて下さいませ。」
 姫の不興を見てとって、派手な裳を引いたりの侍女達が代わるがわる山田を饗応(もてなし)に来る。その際、櫛名田に向ける眼差しには、明らかに非難の色が浮かんでいた。嫌悪を露(あら)わにして須佐之男の計略を台無しにする気か、というより、ちはやと同じく、こんなに美々しい男性の何が不満なのか、と言いた気だ。天下は自分一人の物と言わんばかりにふんぞり返って、挨拶もそこそこに飲み出した、こんな男のどこが侍女達に受けるのだろう…?
 櫛名田の嘆息も知らず、山田は両腕に侍女達をかい込み、平然と口移しに酒を飲んだりつねり合ったりまさぐったりして戯れては、いつの間にか隅に押しやられてしまった許嫁(いいなづけ)をふと、思い出すように、
「おい、櫛名田、そなたも--」
 と、杯を突きつける。縁には侍女達の口紅の痕が、幾重にもこびり付いている。
「私も姫にお酌して頂こうかしら……?」
 酔った勢いで、侍女達もしなだれかかって来る。
 櫛名田は唇をかんだが、言う通りにしてやれと須佐之男が物陰から目配せした為、やむなく彼らの杯に瓶(カメ)口を当てがってやった。とにかく相手を盛り潰す事だ。泥酔すれば痴態も長続きしまい。
 早くも侍女達の領布(ひれ)はずり落ち、胸ははだけ、腰紐は垂れ下がったしどけない格好のまま、その場で寝息を立て出した。山田は半目になって煽り続けていたが、とうとう瓶は床に転がり、膝が濡れたのも構わず、櫛名田にもたれていびきをかき始めた。
 櫛名田はそっと山田を床に横たえると、須佐之男らを手招いた。須佐之男は頷(うなず)き、入って来ると、
「後は我々が引き受けますから、あなたは母上と廚(くりや=台所)へ。」
 櫛名田を退らせ、山田が帯びていた鋼の剣を抜き取る、一撃の下(もと)に相手の首を切り落とした。
 その時には足名椎とその部下達の刃も、酔い伏した侍女達を次々に刺し貫いていた。

画 『東日流六郡誌大要』より(なし)

 朝靄の中に銅羅が轟く。
 日光(ひかり)が明るむにつれて、白幕は薄れ行き、鬱蒼たる杉木立に囲まれた神殿(やしろ)が荘厳な姿を現した。塵一つなく掃き清められた前庭には、青銅の甲胄に身を固めた武士(もののふ)や燦(きら)びやかな盛装の女達が居並んでいる。  純白の麻服に透明な臙脂(えんじ)、橙(だいだい)、藍色の勾玉(まがたま)を連ねた若々しいみずら髪の須佐之男と、赤地錦の裳を引いて清らかな中(うち)にも艶麗な気品を漂わせた櫛名田が正面 に出て来ると、兵士らは一勢に武器を掲げ、勝閧(かちどき)を上げた。階段(きざはし)の下(もと)で若い二人を仰ぐ手名椎夫人の目には、祝福と同時に、最愛の末娘もいよいよ手離さねばならない寂しさの篭(こも)った涙が浮かぶ。
 ほほえみつつ義母を見おろした須佐之男はやおら「草薙」(くさなぎ)と命名された鋼の剣を片手に取り、紫の濃淡を広げる東雲(しののめ)に向かい、音吐朗々と歌い上げた。

 八雲立つ出雲八重垣妻隠(つまごみ)に
 八重垣作るその八重垣を
           (『古事記』より)
<出雲の国は八方から雲が湧き、群がるように、未だ危険の多い所だ。そこで、私は妻を守る為に堅固な城砦(じょうさい)を築き、みんなにも同じ事を義務づけるとしよう。>
 古志郷の人々が行って来たような婦女暴行を、今後は一切禁じるという、祝婚歌になぞらえての新たな掟の樹立だった。<完>

〔後記〕
 「銀蛇の窟」は、今回で終了です。洋の東西を問わず、歴史というのは悲劇の繰り返しなので、お話の上でだけでもハッピーエンドになるのは、書いている方もホッとさせられす。スサノオが奪い取った剣の名は従来説通  まりになってしまいましたが、彼の有名な「八雲立つ」の歌の解釈は、古史古伝研究家の間で語られているものを採りました。(深津)

 


師表としての二先生の御指摘 青森県藤崎町 藤本光幸


□〔 本の紹介〕 □ □ 《古賀達也》

白川靜、字書三部作完成にさいして

 漢字学の碩学、白川靜氏(立命館大学名誉教授)が十三年半の歳月をかけて、『字統』『字訓』『字通 』の字書三部作を完成させたことが話題になっているが、これら三部作は無理としても、白川漢字学に触れてみたいという方のために、次の本を紹介する。

漢字百話』(中公新書)

白川氏によれば、「三千年も前の甲骨文を、そのまま後世の文献と同じように我々が読んで理解できるというのは、他の言語系・文字の体系の中では考えられない」という。そうした漢字の通 時性が理解できる白川漢字学の普及書とも云うべき一冊である。値段も手ごろ。古代史研究にも多くの示唆を与えてくれる。
 例えば「御」は、祭るという意味が本来の字義とのこと。とすれば「魑魅を御す」とは、魑魅をおさめる、と読むほか、魑魅を祭るとする理解も可能だ。漢字はかくも面白い。

『孔子伝』 (中公叢書)

 俗流論語解説書やサラリーマン向けの孔子伝が跋扈する昨今だが古代人としての孔子と古代思想としての儒教に肉迫した本書は、数在る孔子伝中白眉である。儒教思想が本源的に持つ革命性や呪術性、思想の「毒」とも云うべきダイナミズムをきれいさっぱりと欠落させ、体制や時流に無批判で迎合する俗流論語解説本が「知的シリーズ」とやらで巷に溢れる中、白川靜のこの『孔子伝』は真実の孔子や古代思想に迫ろうとする者には必読の書と、あえて言い切ろう。また儒者への批判者としての荘子や墨子にもふれており、理解を助ける。

『詩経』(中公新書)

『詩経』は古くは『詩』と呼ばれており、宋以降詩経といかめしい名前で呼ばれるようになったという。そのような儒教思想的解釈で歪められた詩経を白川漢字学により古代歌謡本来の姿で蘇らせたのが本書だ。「平成」の出典でもある詩経は、わが国の古代歌謡にも大きな影響を与えた。『詩経』序に「詩は志の之(ゆ)くところ」といい、『古今集』の序にはそれを承けて、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」という。
 孔子は周公を聖人として崇めたが、『詩経』には周の支配搾取に喘ぐ亡殷の民の歌が少なくない。孔子はこのような歌をどのような気持ちで読んだのであろうか。『詩経』が儒教の聖典四書五経に加えられ、今日まで伝えられたという意味では誠に幸いであった。

 


「古代に真実を求めて」第2集編集経過報告

魅力あふれる論文が揃う

>古田史学の会・北海道 吉森政博>

 発行作業が遅れておりました古田史学論集「古代に真実を求めて」第2集、ほぼ原稿が出揃い、ワープロ打ちなどの原稿取りまとめ作業は大詰めを迎えています。当初6月の発行を目指していましたが、編集部の作業の遅れにより、2~3か月遅れる見込みとなっています。第2集の発行を心待ちにされていた会員の皆さんにはお詫び申し上げます。
 その代わり、寄稿していただいた皆さんのご努力により、大変魅力あふれる論文・メッセージが揃いました。第2集は「古田武彦古希記念特集」と題して、中小路駿逸先生・上岡龍太郎氏・中山千夏氏を始め様々な方からメッセージを頂戴致しました。中小路駿逸先生からは入院。手術という体調のすぐれない中で、『古田説をめぐる異論・異説の生産が、あの、従来長く「一言通念」信者によってなされてきたのと同様に「古田説という答えに合わせて事象を根拠に仕立てる」というやり口とかぎりなく等しくなっていくのを、どうやって拒否できようか』と、我々にとって重大な指摘を含む、貴重なメッセージをいただいています。また、ユトレヒト天文台の難波收氏からも、オランダの支石墓「ヒューベネット」に関する貴重な報告が届いています。そのほか、多元的古代研究会関東の高田かつ子さんが、古田先生の人間性を如実に示す、かつての教え子とのエピソードを寄せてくださったのをはじめ、各友好団体からも興味深いお話をいただいています。
 古田先生からは、昭和薬科大学退職記念最終講義録「学問の方法について」の掲載を快くご承知いただいたのをはじめ、「アウグスト・ベエクのフィロロギイの方法論について〈序論〉」では、五十年前に書こうとしていた卒論に事寄せて、一貫して流れる学問への姿勢、今後の決意もふくめた味わいのある文章をいただきました。さらに、和田家文書「偽作」論者のまやかしの「偽筆跡鑑定」を徹底的に論破した、『和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判--筆跡学から「偽鑑定」を正す』は、二百字詰原稿用紙二百七十六枚という力作で、これでもかこれでもかと執拗ともいうべき徹底した論証を繰り返す迫力は、『「邪馬台国」はなかった』をはじめとする初期3部作を彷彿させる、非常に歯応えのある論文となっています。第2集が発行されたら、私自身真っ先に再度腰をすえて読み返すのを楽しみにしております。
 その一端をご紹介すれば、以前季刊邪馬台国で、和田家文書のなかの「陽」や「場」などのつくりが「易」になっていたり、「峯」の脚が「ヰ」になっているのを誤字と指摘、こんな誤字が共通していたり氾濫している文書だからと貶める材料にされていましたが、今回の論文の中で、書家として高名な東晋の王羲之や唐の欧陽詢をはじめ、文字の本場中国の多くの石碑の中に同種の文字が見られることを紹介、この種の字形が古から正統に存在することを論証。偽作説側の筆跡鑑定を「個人の書き癖と流派の中で伝承される流癖というべきものを混同している」とバッサリ。いまだにまやかしの結論だけが一人歩きしている『季刊・邪馬台国』の「偽鑑定」を完膚なきまでに論破し尽くしているばかりでなく、筆跡鑑定というのはこういう部分にまで注目するものなのかということがわかる筆跡鑑定の決定版ともいうべき論文。
 そのほか、第1集にもご登場いただいた室伏志畔氏や山崎仁礼男氏、太田齊二郎氏をはじめ、会員論文やフォーラムにも好論文が目白押し、必ずや会員の皆さんのご期待に沿える論文集となることと確信しております。
 今後、編集作業に一層拍車を掛け、できるだけ早く皆さんのお手許に古田史学論集「古代に真実を求めて」第2集をお届けするべく奮闘するつもりでおりますので、もう暫くお待ちいただけますようお願い申し上げます。

論集進呈のお知らせ
 吉森氏からの御報告にもありますように、本会の会誌『古代に真実を求めて』第2集の編集が急ピッチで進んでいます。2集より、明石書店から発行される予定ですが、本会会員には一冊進呈することとなってます。九七年度会員へのサービスとなりますので、会費納入がまだの方は前号に同封しました振込用紙にて、会費三千円をお早めに振り込んで下さい。発行は秋頃になると思われます。
 九七年度会費未納の会員は、本紙郵送用封筒の宛名シールに、四桁の会員番号の次に96と記入されています。既にお支払いいただいている場合は97となっていますので、お確かめ下さい。御不審の場合は事務局までお問い合わせ下さい。郵便局からの連絡に若干の日数がかかりますので、変更が間に合わない場合もあります。
  (事務局・古賀)


会員総会のお知らせ

 六月二九日(日)の古田武彦関西講演会終了後、第3回古田史学の会会員総会を開催します。総会では九六年度決算事業報告と、九七年度予算案・人事などの議案が予定されています。人事については任期満了(二年)に伴い、全国世話人の選出・役員承認をお願いすることとなりますが、現世話人9名(吉森政博<北海道>・佐々木広堂<仙台>・青田勝彦<福島>・宮林勇一<神奈川>・上城誠<静岡>・水野孝夫<奈良>・山崎仁礼男<奈良>・前田博司<下関>・古賀達也<京都>)に加えて、新たに林俊彦氏<名古屋>を推薦します。
 また、会員論集の安定発行のため、来年度(九八年四月)から賛助会員制度(年会費五千円)を発足させることを提案します。賛助会員には会員論集『古代に真実を求めて』を一冊進呈し、一般会員(年会費三千円)は会報のみとなります。なお、九七年度は従来通り年会費三千で全会員に論集を進呈します。
 どうか、ご理解のほどよろしくお願い申し上げ、総会への御出席をお願いいたします。
(事務局長 古賀達也)

 

□□事務局だより□□□□□□
▼本号では山崎副代表より、いま話題の第一勧銀事件についての厳しい一文をいただきました。何を隠そう、山崎氏は元銀行マン。内部事情に詳しいはず。
▼藤本氏からは小学校時代の恩師の思い出を綴っていただいた。三井武子さんは女性初の労働省課長になられた方らしいが、誠に良き先生に巡り会われたものです。
▼本野氏は初寄稿。新人の方は優先的に採用する方針ですので、ふるって御寄稿のほどを。楽しく面白く、そして為になる話題から超硬派の論文まで、特に制限はありませんので。
▼『新古代学』3集の編集を本会が引き受けることになりました。こちらも御寄稿を待っています。(古賀)

インターネット事務局注記(2001.5.1)
1. 連載小説 『彩 神 (カリスマ) 』第四話 銀蛇の窟(6)の画 『東日流六郡誌大要』は省略。
2. 講演会案内、例会案内も略。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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