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「芭蕉自筆『奥の細道』」真偽論争の現況 京都市 古賀達也


1997年10月27日 No.22

古田史学会報 二十二号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫

「言語考古学」の成立(序説) 京都市 古賀達也


仮説の発見と検証の豊前旅行(後編)

豊前は九州王朝の第二の都の検証

香芝市 山崎仁礼男

(5)鹿毛馬は間違いなく神籠石山城

 四日目。朝一番の鹿毛馬神籠石(頴田町)を実見。列石は山を取り巻いて並んでいた。石の積み上げは一列一段のみで、御所ケ谷山城と全く相違。山頂から土砂が流れてきて、厚い所は二メートルもある。現在神籠石山城の年代比定に定説がない。私は一~二世紀のものと見ています。その根拠は肥前国風土記の「小城郡の昔者、この村に土蜘蛛あり、堡を造りて隠り、皇命に従はざりき。日本武尊、巡り幸しし日、皆悉に誅ひたまいき。因りて小城の郡と号く」とあって、日本武尊が現地(先住)の民衆が砦に立て籠もった所を殺しています。この砦を弥生の高地性集落と考えます。卑弥呼以前の魏志倭人伝の歴年の内乱の前の七~八十年の王朝は、朝鮮半島から渡来した部族で、これが北九州で日本で最初の奴隷制の王朝を建てたのです。弥生の高地集落は原住民が奴隷狩りから逃れるために、高地に集落や砦を造り、また大きな部族は神籠石山城を造ったのです。倭国大乱で日本中が戦乱と考えるのは誤りで、高地性集落はこの時代の奴隷狩りに備えたものと解すべきです。
 古事記では倭建命がその名前を熊曽建から贈られるのですが、正当性は熊曽建にあり、倭建命は侵略者であったことを示しています。鹿毛馬神籠石山城はこの地域の石包丁の部族のものではないか。

(6)沖の島の遺物が無言で語る武器型青銅器は祭器にあらず

 若宮町で竹原古墳を見る。古墳は良く管理されていた。田舎だ。どうして筑前・豊前という文化の中心にないのか。宗像大社に車を走らせる。その割りに小さな感じ。周囲に物産店も少ない。神宝館に入る。信仰の聖地としての沖の島の鏡やいろいろな祭器が陳列されている。しかし銅剣・銅戈・銅矛の武器型青銅器の姿がない。学者は言う、武器型青銅器は祭器であると。しかし私は墓から出る細型のものを除いてそれは権力の象徴であると。理由は原始信仰は血と肉であり広がりは部族の人口増加によるもので、あんなに広範に広がるはずがない。信仰の聖地の沖の島に武器型青銅器の出土しないことは、私の仮説が正しいことを証明した。成務紀五年の条の盾矛の下賜は銅矛と見てよい。これは大きい。

(7)宮地嶽古墳の被葬者は九州王朝の大王葛子

  津屋崎町の宮地岳神社に行く。誠に運が良い!年三回しか宮地嶽古墳は開けて一般公開していないのに、偶然、公開日に当たる。筑紫舞の舞われたという古墳の真ん中の広がったところに身を寄せることができた。帰りに神社の祭神を聞いた。
        勝村大神
宮地嶽三柱大神 息長帯比売命
        勝頼大神
 これは九州王朝の兄弟首長制だ!息長帯比売命は当然近江天智王朝から強要されたか、神社側が中央権力に擦り寄ったか、その結果である。勝村大神と勝頼大神が当初の祭神である。名前は人間臭いし、古くない。九州王朝の大王とてすべて神となるとは限らない。 通説は七世紀中頃とし、胸形君徳善(高市皇子の義父)に比定する人もいる。こういうことはあり得ない。仏教文化の影響下に成立した大陸系遺物を豊富に出土したという。九州王朝への仏教公伝を教到元年(五三一)以降とし、九州年号の兄弟(五五八年から六年)の兄弟の二代の大王ではないか。あるいは、教到元年に二中歴は舞遊始まるとあるが、筑紫舞がこの大王の前で舞われたとすると、古墳で舞われた筑紫舞の伝承と合う。祭神は継体二十二年の筑紫君葛子兄弟となる。磐井一族の死より九州王朝内で新王系に変わったのだ。桓武天皇と一緒だ。だから神になったのだ! さらに、葛子の葛は辞書を引くとカツと読むのです(室伏氏指摘)。これで決まりです。ではこの古墳が九州王朝の大王葛子のものとして、何故残ったのか。それは九州王朝の滅亡する前に既に神社となっていたからです。天皇制による九州神社の祭神すり替え強要の仮説で見ると、神社の宮司の奮闘で祭神を息長帯比売命という天皇制の神にすり替えることで、神社として生き延びたからではないか。九州王朝の大王の墓が筑後の磐井の墓のほか一つもないのがおかしいのです。多分筑後まで天皇制の太宰府の手が及ばず破壊を免れたのか、ではその他の九州王朝一族の墓はどうなったか。    以上

 

訓んでみた「九州年号」

熊本市 平野雅曠

 九州年号については、これまで主として文字面によって論議されてきた。例えば、善化か善記か、吉貴か告貴か、或は大化か大和か等々。楷書ならばはっきりするところを、草書や略記された字体では、筆の運び具合いで全く別な文字に読まれてしまうことも起こる。そして、それらが年代記や社寺の縁起書などとして後世に伝わる訳である。
 発音史料の無い、眼から入る史料によるしかない現在の私たちは、そうした誤記誤読の不完全な中で論証を交わしているのである。しかし、文字の読めない古代の庶民にとっては、年号も代々耳から伝わった筈であるし、漢字も生活語として、発音通り読み書きされた筈である。
 中国の春秋時代(わが国の縄文晩期)、楊子江流域、江南地方から火ノ国山門(今の熊本県菊池市)に渡来し、後に倭国王家を打ち建てた呉王夫差の後裔たちは、生活語として「呉音」を用いていたことは確かである。
 従って、それらの人たちによって創められた九州王朝の公年号、「九州年号」も、当然呉音訓みだったことは想像に難くない。
 このように理解した上で私は、これまで勝手に訓み下されていた九州年号に、呉音によるふり仮名を付けてみた。
 もっとも、白村江敗戦(六六三)後の筑紫都督府管理時代から、大和王朝の「大宝」年号に至る迄に定められた年号群は、「漢音」を常用する唐朝や大和朝廷の訓みに従って、漢音によって訓まれたであろう。
 
九州年号表
善記 ゼンコ       善化 ゼンクェ
正和 ショウワ
殷到 エントウ     教到 キョウトウ
僧聴 ソウチョウ
明要 ミョウヨウ    同要 ズウヨウ
貴楽 キラク
法清 ホウショウ    結清 ケチショウ
兄弟 キョウダイ
蔵和 ゾウワ      蔵知 ゾウチ
師安 シアン      師要 シヨウ
知僧 チソウ      和僧 ワソウ
金光 コンコウ
賢棲 ケンサイ     賢接 ケンショウ
鏡常 キョウジョウ   鏡當 キョウトウ
勝照 ショウショウ
端政 タンショウ    端改 タンカイ
吉貴 キチキ      告貴 コクキ
願轉 ゴンテン     煩轉 ボンテン
光元 コウゴン     光充 コウシュ
定居 ジョウコ
倭京 ワキョウ     和京縄 ワキョウジョウ
仁王 ニンオウ
聖聴 ショウチョウ   聖徳 ショウトク
僧要 ソウヨウ
命長 ミョウヂョウ
常色 ジョウシキ
白雉 ビャクチ
   (ハクチ)
白鳳 (ハクホウ)
朱雀 スサク      朱鳥(シュチョウ)
   (スジャク)
大和 ダイワ      大化(タイクワ)
   (タイクワ)
大長 ダイヂョウ
   (タイチョウ)

(カッコ内は漢音)
  付記
 基準年号として、鶴峰戊申が『襲国偽僣考』に掲げた古写本『九州年号』を上段(左側)に記し、異なった年号一つを下段(右側)に掲げた。なお『二中歴』の最初の年号の訓みは、「継体 ケタイ(ケイテイ)」となる。
                               (平成九年七月記)
インターネット事務局注記(2001.5.6)
1. 上段(左側)に左側を、下段(右側)に右側を追加しました。

 


広岡重二さんを悼む

古田史学の会代表  水野孝夫

 会員の最長老、広岡重二さんが九月二一日早朝に亡くなりました。明治四四年生まれで八七才でした。昨年七月には奥様を亡くされましたが、「二人ぶん生きる」と、本年四月九州「君が代の源流を探る旅」に参加され、また七月には「孫と曾孫を連れて」恒例の富士登頂にも成功されました。八月の関西例会でもお元気な様子でしたのに残念です。
 遺稿となってしまいましたが、昨年創刊の会員論集第一集に、氏の論文「日本古代史の謎を解く」を掲載できたことをよかったと思います。この論文は「市民の古代」へ一投稿され、分裂後に掲載を謝絶されたものでした。この論文で触れられているように、氏は戦前・戦中・戦後の動きを、政治と思想の観点から観てこられ、どうあるべきと考えられたかを、私たちに語り続けて来られたと考えます。そして古田史学と出会われたわけで、「市民の古代研究会」が分裂の危機にあった臨時総会で、その思いを述べられたのを忘れることができません。御葬儀に参加して、登山帽をかぶり微笑された遺影の前に穏やかではあるが信念には頑固だった故人を忍びました。ご冥福をお祈りします。

 


◇◇ 連載小説 『 彩神 (カリスマ) 』 第五話◇◇>

枯葉の琴(2)

--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇深 津 栄 美
   ◇       ◇
「そんな汚い獣の仔、どうするんだい?」
 月美(つぐみ)の母伊佐は、子ギツネの手当をしている娘に眉をひそめた。
「人間すら食べ物が不足しているのに…。」
「でも、このまま放したら、それこそ熊や狼の餌食にされてしまうわ。ほら--」  月美は子ギツネを抱き上げてみせた。右の前足の付け根を、ザクロのような傷口が深く抉(えぐ)っている。狩人の矢に射られたか、それとも罠にはまったか、何にせよ、これでは真直大地を踏み締める事も出来まい。子ギツネ自身、余程怖い思いをしたと見え、月美の優しい腕の中でも未だに慄(おのの)いている。
「餌はどうするんだえ?」
 母に問われて、
「私の食べしろを分けてやりますわ。」
 月美は子ギツネの足に薬を塗り、包帯を巻いてやると、さっそく干し魚や焼肉の一かけらに牛乳を溶かした水を添えて運んで来てやった。子ギツネは少し元気が出たらしく、あちらの陰、こちらの隅と嗅ぎ回り始めたが、皿は物珍し気に覗(のぞ)き込んだだけで口をつけようとはしない。そのくせ、竈(かまど)の火加減を見ている月美にする寄っては、しつこく鼻で脇腹を押した。穴暮しをしていた時は、まだ乳離れ出来ていなかったのだろう。
「しようのない子ねえ……。」
 月美が苦笑すると、
「野育ちの仔に、海の幸の有難さは判らないのかもしれないね。」
 伊佐は試しに、昨夜(ゆうべ)のお余りを与えてみた。すると、子ギツネは一気に飲み与込んでしまい、満足気に舌なめずりをして喉(のど)を鳴らし、竈の隅に丸くなった。
「まあ、えらく節約(つま)しい育ちよ。」
 伊佐は笑い出したが、乞食でさえ持て余すような残飯を片付けてくれる者が現れたのですっかり機嫌を直していた。
 二人の看護で四、五日もすると子ギツネは完治し、元気に家の回りを飛びはねるようになった。
 丁度新嘗祭(にいなめさい)を控え、村は準備に追われていた。月美らも毎日畑へ赴いては、収穫(とりいれ)に精を出した。僅かでも実ったアワやヒエは刈り取って酒に醸(かも)し、社に供えねばならない。けれども食糧難は深刻化しており、朝、畑へ行ってみると一面 ほじくり返され、暗がりで判らなかったのか、芋(イモ)や大根の葉は勿論、まだ十分使える麦穂までが、無残に土足で踏みにじられている事がよくあった。
「なぜ、こんな酷(むご)い真似を……!?」
 月美も伊佐も打ちひしがれていると、子ギツネが落ち穂をかき集めてはくわえ込んで来る。
「まあ、ギンは賢いのね。」
月美は子ギツネの頭を撫でてやったが、畦道では村の男達が、
「大国(おおくに:後の出雲)の奴らが、八坂八浜(やさかやはま)へ乗り込んで来たそうな。」
「ああ、須佐の尖兵(せんぺい)がワンサと船団(ふね)を組んでな。」
「須佐は、吉備(きび:現岡山)を包囲しようとしておるとか。」
「隠岐の羽山戸(はやまと)様の援助(たすけ)を乞おうにも、こう餓死者が増えては使いも出せぬ わ。」
「とうとう戦か……?」
「畑荒しも奴らの仕業(しわざ)じゃろうか……?」
「大国では、あの優美な白鷺も蛇を食らうというぞ。」
 不安そうに囁(ささや)いていた。
 ギンと呼ばれた子ギツネは、頭を傾(かし)げて人々を眺めていたが、やおら、半分朽ちかけた畑の監視(みはり)小屋へ駆け込んだ。
その夜更け--
 一人の盗賊が、畑に忍び込んで来た。元来背が低く、「侏儒(しゅじゅ:小人)国」といわれる阿波の人々からすれば、雲突くような巨人に見えよう。賊は葉にちりばめられた露を飛び散らし、蔓草(ツルくさ)を引きちぎり、枝をへし折り、強引に獲物をもぎ取り始めた。
 が、賊は急に一軒の小屋の灯(ひ)を認め、立ちすくんだ。小屋の前には、一人のほっそりした白衣の女が佇(たたず)んでいて、
「妾(わらわ)はこの地の巫女(みこ)なるぞ。おぬしは何者じゃ?」
 と、男を睨(にら)みつけた。
「返事をせぬな? 大方、須佐の賊徒の一味であろう? おとなしく立ち去れば良し、さもなくば祭司長(つかさ)に知らせて責め打ちにしてくれようぞ。」
 だが、男は厚願(こうがん)にも、
「天よ、この女子(おなご)を許し給え。自分が何をしているのか、判らないのです。」
 両手を上げて祈る振りをし、歩み去ろうとした。
 その衿首が、凄(すさま)じい力で引き戻される。不意を突かれてよろめく男の眼前に、 底なし沼が広がった。真黒な水面には青白い鬼火が幾つも燃えさかり、水底(そこ)には牙をむき出した灼熱の地獄がみるみる半月形の頤(あぎと)を開いた。
  男の悲鳴と血飛沫(ちしぶき)が、闇を切り裂いた。(続く)

〔後記〕
 畑荒らしを見つかり、聖書の文句を引用する件(くだ)りは、立原正秋のエッセイからの借用です。(深津)

 


「芭蕉自筆『奥の細道』」真偽論争の現況 京都市 古賀達也


思文閣出版 「鴨東通信」(No. 二七) てぃーたいむ

『「芭蕉自筆 奥の細道」をめぐって』

山本唯一(大谷大学名誉教授)

『「芭蕉自筆 奥の細道」をめぐって』 は、インターネットは掲載していません。


山崎仁礼男著『蘇我王国論』(三一書房)について

「記紀」記述矛盾の向こう側

大阪府泉南郡 室伏志畔

 大和朝廷に先在する九州王朝・倭国を実証し、日本歴史学にコペルニクス転回をもたらした古田史学の誕生以来すでに四半世紀が経過した。しかしそれは大和朝廷論に対し倭国の実在を論証するに急なあまり、大和朝廷史の内部に踏み込むことは少なかった。このときに当たり山崎仁礼男が大和朝廷史に倭国論を内的に導入する視点を切り拓くことによっ従来の古代史解釈を一新する『蘇我王国論』をここに上梓した。
 山崎仁礼男は、蘇我氏を磐井の乱(継体の反乱)以後の大和朝廷に送り込まれた倭国の目付役とすることによって、倭国と大和朝廷を別個の軌道をもった惑星とするしかなかった従来の多元史観の視点を越えて、蘇我氏をリンクとした双子惑星とする新たな視点を打ち出したのである。のみならず、その蘇我氏こそ倭国の磐井律令に痕跡を残している九州律令及び大和朝廷の律令の生みの親であったとし、近畿における蘇我令の先在を論証するのである。そして東アジアにおける律令国家の林立を富国強兵政策のしからしむるところであったとし、我が国への律令国家のアイデアの提案者は百済の酒君であり、そのコンサルタントが木満致でその請負人がその血族蘇我氏にほかならないと流れるように鮮やかにカードを切って見せたのである。しかもその施行はまず倭国の既存体制の外側に、「渡来人」の開拓地区を設け律令制度を試験的に実施して旧豪族との摩擦を避け、王家と蘇我氏が共々の繁栄する渡来人による包囲網を完成した後、旧豪族世界に及ぼすものであったとするのである。のみならず磐井の乱(継体の反乱)後の倭国復興王朝による大和平定のため送り込まれた倭国の宰相こそ蘇我氏であったとし、物部守也の征服の後、近畿大王家をほぼ膝下におさめ蘇我王国を樹立したとする。これは従来、蘇我氏が大王家を凌駕していたかどうかについて云々されても、蘇我氏の核心について問うこと少なかった盲点を律令施行の請負人とすることによって中央突破する瞠目すべき仮説の提示なのである。
 山崎史学の新しさは令制用語の記述矛盾から蘇我令の存在を突き止めたように、正史の記述矛盾、つまり齟齬から歴史を復元するという方法をおのがものとしている強みにある。 それについて山崎仁礼男はこう書いている。
「『書紀』は一旦伝えられた年紀の上に(一部改変を加えながら)歴史を描いたのです。そしてその後讖緯説を導入して書き換えたのです。書き換え前の草稿の史料がそのまま現『書紀』のなかに飛び込んだミスは非常に多いのです。このような「『書紀』の草稿」のままの修正漏れのミスやその矛盾と推定されるものは、私の計算では、『書紀』全体の「誤りと矛盾」が三一二箇所に対し、書き替えによる「誤りと矛盾」は一五三箇所で五〇パーセント弱となります。」と、まるで何でもないかのように正史の「誤りと矛盾」の驚くべき具体数を上げている。本書はその数箇所からの正史及び通説への異議申し立ての書なのである。
 私は「古代に真実を求めて」一号に掲載された『造作の「天智称制」』で、山崎仁礼男が万世一系の天皇制を謳う手前、大和朝廷を天下国家にした最大功績者を書けない恨みを、天智称制七年を設ける中に正史は辛酉革命と甲子革令をもって白村江の敗戦で打ちひしがれた九州において、倭国革命を成し遂げた革命家・天智のを暗示があるとし、六六一年の辛酉の年こそが、神武起源を設定する讖緯説の起点にほかならないという刮目すべき論稿に接し、この畏友と親しく交わることになった。そして本にまとめることをせかしたところ、打てば響くように三カ月ほどで六〇〇枚近い原稿をまとめ、私と三一書房の編集長をまごつかせ、十カ月余りでここに発行される運びとなったのである。このことは如何に山崎仁礼男の中で古代史に対する見解がすでに醸成され、あとは樽詰めを待つばかりであったかを伺わせるに十分である。実際、山崎仁礼男はあと二冊の本の用意があるという。これは情況との接点で古代史に問題意識を持ち込み、見通しもなく火のないところでも煙りを立たさずにはおかない、批評としての私の幻想史学の方法と何たるちがいであろうか。それは古代史に対する知見において、持てる者と持たざるを常態とする者の方法の違いなのであるが、私は彼の実力は認めてもその富裕を羨むまい。
 それはともかく山崎仁礼男は本書で、古田武彦、八木充、角林文雄、井上光貞、薮田嘉一郎、小田富士雄といった壮々たる歴史学者の胸を借りて、その上に多元史観をもって驚くべき展開をそれぞれにおいて及んでいる。これは近畿天皇家一元史観が倭国論を排除すとるに比例して、多元史観も硬直し、一元史観をイデオロギー的に一面的に否定して、戦後史学の多くの成果を汲み取らず、それを批判的に学ぼうとしない薄っぺらな態度に対する適切な内部批判となっている。私はそこに列挙された律令論、盗作論、架空論、編纂論、「国記」論、法興論、「詔」論、金石論、弾圧論、虚像論、王国論等と多岐に亙る山海の珍味に、一応箸をつけそれぞれに酔わされたが、それらについて個別的に述べるほどの紙数を与えられていないが、天武による仏教弾圧論は、たまたま私が『伊勢神宮の向こう側』で、太宰府天満宮を始めとする廃神毀社を幻視していたときにこの論稿を示され、百万の援軍を得た想いもあって忘れがたい。また金石論で山崎仁礼男は薮田嘉一郎の金石文の研究を踏まえて、大和朝廷は金石文を改竄したのみならず、持統紀五年八月の十八氏の「その祖等の墓記を上進らしむ」の記事を上げ、墓を暴いて墓誌を抜きとったものとしている。これは第一次史料と第二次史料の一致をもってする「科学的」文献史学の方法が、大和朝廷史ではうかつに使えない見事な反証となっており、私が『日本書紀』の記述は大和朝廷にとって都合のいい置き石で、その幻想表出を読み解くことなく、西欧や中国文献と同様に文献実証するとき見事なまでに天皇制の掌中に嵌まるであろうとしたことの、これ以上ない論証となっている。
 最後に山崎仁礼男は、「記紀」という文献史料しかない古代史の厚い壁を、「誤りと矛盾のある記事」を「仮説を立て分析・検討する」という自身の方法について語るが、その方法は古田武彦に多くを学びつつ、より多くを中小路駿逸の「学問は手続き」とする方法に負っているように私には見受けられた。いわば山崎史学は古田武彦と中小路駿逸の二人の申し子なのである。そしてその方法の彼方に展開するカタストロフィについて、「偽史は一個所が崩れ落ちると、将棋倒しに連鎖反応を起こし崩壊します」と確信をもって山崎仁礼男は語る。
 イソップ物語風に言うなら、山崎仁礼男の今度の成果は、退職を挟んだ十二年の一素人のこつこつしたアリの努力の結晶なのであるが、それは古代史の現状を様々な工夫をもってした越境の試みであり、素人侮りがたしの感を深くさせ、われわれを励まさずにはおかない。しかし、先のほがらかさとは別に、山崎仁礼男は自身の評価について「四半世紀後を待つしかない」といささかペシミックなのが気にかかる。とするならわれわれ会員は、本書によって新たに惹き起こされた古代史における地殻変動すら知らない、他人まかせのキリギリスじゃないのかと、彼に言わせることがあってはなるまい。(H9.9.25)

 


□□本の紹介□□□□□古賀達也□□

ドレフュス家の一世紀

平野新介 著

 ドレフュス事件とは、一世紀前、フランスで起こった冤罪・誤審事件である。ユダヤ人のエリート将校がドイツのスパイ容疑で逮捕流刑されたが、それは陸軍による冤罪事件であった。ドレフュスは五年の流刑、ドレフュス無罪を信じ、陸軍による冤罪を告発した支援者ゾラも有罪判決を受け、亡命を余儀なくされた。フランスの朝野を二分したドレフュス事件は、有罪の決め手となっていた文書や筆跡鑑定がいずれもでっち上げであったことが判明し、無罪となったのだが、著者はドレフュスの子孫を訪ね、ドレフュス事件が現在も続いていること、同事件のためドレフュス家が一丸となって闘い続けたことを克明に記している。なお、事件を陸軍が公式に謝罪したのは、なんと一九九五年のことだった。
 興味深いのはドレフュス支持派で、後に首相となったクレマンソーの次の言葉だ。「この事件を理解していない唯一の人間が彼(ドレフュス)だ。彼はドレフュス事件については底知れぬ ほど無知だ」。事実、ドレフュスは生涯愛国主義者で、自らの冤罪事件がユダヤ差別 やファシズムとの闘争であった歴史的意義を理解していなかったというのだ。このクレマンソーの指摘を読むとき、私は、誤筆跡鑑定や偽文書、偽証言等の点に於ての、ドレフュス事件と和田家文書偽作キャンペーンとの驚くほどの相似が、ドレフュスと和田喜八郎についても見られると考えずにはいられないのだ。和田家文書の持つ歴史的価値と偽作キャンペーンとの闘いが帯びる歴史的意義を、喜八郎氏がもっと深く理解されていたらと考えるのは氏に対して失礼であろうか。
 現代フランスが今も持っているユダヤ差別や冤罪発生構造を知る上でも、本書は優れた一冊である。(朝日選書 本体 一三〇〇円)

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昭和天皇独白録

寺崎英成/マリコテラサキ 著

 本書は既に文芸春秋で発表されたもので、ご存じの方は多いと思う。このたび文春文庫として刊行された。天皇自らの独白など、他には得られないだけに、貴重な一次史料と言える。もし、天智や持統にこうした独白録があったら古代史研究は全く異なった様相を帯びたに違いない。
 本書には注目すべき発言をいくつか見ることができる。例えば「私を神だと云ふから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういふ事を云はれては迷惑だ」 「敵(連合軍)が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体護持は難しい。故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和せねばならぬ と思った」。
 自らを神ではないと医学的根拠で主張する科学者としての天皇と、三種の神器を国体護持の要と考え、ポツダム宣言受諾を決断する天皇とは、通常の感隔では結び付かない。『日本書紀』以後押し進められた、天皇の神格化と三種の神器の絶対的シンボル化は、このように近代にまで影響を及ぼしているのだ。
 昭和天皇自らの戦争責任弁明の書である以上、割り引いた史料批判が必用だが、本書を読んで、皇室賛美に与するものではないが、昭和天皇が今までよりも身近に感じられたことを、私も「独白」するにやぶさかではない。
 本書に収録されたマリコ・テラサキ・ミラーによる、父、寺崎英成の生涯を記した一文も読まれるべきである。あの時代にこのような外交官がいたことは、この国の近代史における「救い」とも思えた。学校で習った近代史が感動をよばなかっただけに、本書はこの国の近代史を風化させる動きを、天皇の「独白」でもって、否定する力を秘めているように思われた。本書が歴史の闇に埋もれなかったことを喜びたい。 (文春文庫 定価四五〇円)


□□ 事務局だより □□
▼二十年来の古田史学の支持者で関西地区の長老格でもあった広岡重二氏が逝去された。告別式では古田先生が見事な弔辞を述べられ参列者の感動を呼んだ。が、一番喜ばれたのは故人であったはずだ。共に蓬莱山に登りたかった、と結ばれた古田氏の言葉は、残された私たちの胸にも深く響いた。合掌。(古賀)

インターネット事務局注記(2001.5.1)
1. 『「芭蕉自筆 奥の細道」をめぐって』 山本唯一(大谷大学名誉教授)は印刷物のため略
2. 講演会案内、例会案内も略。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから


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