和田家文献は断固として護る(『新・古代学』第一集)へ
京都市 古賀達也
秋田孝季に史書編纂(和田家文書)を命じた三春藩主秋田家は安日王の末裔であることを家門の誇りとした。そうした祖先崇敬の念は下国安東氏(秋田氏)系図にも一貫して流れている。一族の結束も強く、松前藩家老職の下国氏は参勤交代などで江戸に行く際にはほぼ例外なく三春の秋田家を訪れ、三春藩主への挨拶を欠かさなかった。
また、下国安東氏最後の当主であり、秋田氏初代藩主秋田実季は万治二年(一六五九)に八十四才で没するまで、系図編集に情熱を傾けている。目的は、藤原・橘・紀・源・平のどれにも属さない阿倍安東の系を記録し、被征服氏族安日王と結び付け、常に異端を歩んだ祖先を記録することであったという。
「朝敵安日王の末裔であることを誇る」という秋田家の認識は近代まで続く。明治になって子爵となった秋田家は、宮内省から朝敵長髄彦の兄安日王の子孫では困るので、系図の書換えを命じられた。しかし 秋田家は「当家は神武天皇御東征以前の旧家といふことを以て、家門の誇りといたしております。天孫降臨以前の系図を正しく伝へておりますものは憚りながら出雲国造家と当家のみしか無いのでございます」と改訂を拒否したことを喜田貞吉が紹介している。これに対し秋田家は「拒否したと云ふ事実はない」と抗議し、喜田も取り消すという騒動が起きた。もっとも拒否しなかったと言うものの「長髄彦の子孫」であることを否定はしていない。
安日王の子孫であることを誇る和田家文書に一貫して流れる思想は、こうした歴史事実と符合し、三春藩秋田家を宗家とする安東一族の歴史的背景は真作説を指示している。
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