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東北の真実ーー和田家文書概観(『新・古代学』第1集 特集1東日流外三郡誌の世界)
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和田氏の遺稿(古田史学会報分)の一覧は下にあります。
『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社
特集1 東日流外三郡誌の世界

「和田家文献は断固として護る」

 

 新春の初日を拝し今年の幸ある末広の幸運をお祈り申し上げます。昨年は母が逝きまして年賀を控えさせていただきました。真実一路の丑寅日本史を主唱する私に、いわれなき障害とわが家に遺る文献に対する偽証と捏造して、活字に弘布している者もありますが御安心ください。私は天地神明に誓って、彼の記筆に載って居る様な事実はありません。降りかかる火の粉がいかに降りかかろうとも粉骨砕身東北日本史を陽光に当てる為に、私はがんばります。どうか皆様も今一度の御協力を願います。

                        平成六年正月三日
                    東日流中山史跡保存会
                            会長 和田 喜八郎

 昭和二二年夏の深夜、突然に天井を破って落下した煤だらけの古い箱が座敷のどまんなかに散らばった。家中みんながとび起き、煤の塵が立ち巻く中でこの箱に入っているものを手に取って見ると、毛筆で書かれた「東日流外三郡誌」「諸翁聞取帳」などと書かれた数百の文書である。どの巻にも筆頭として注意の書付があり、「此の書は門外不出、他見無用と心得よ」と記述されていた。
 親父がまだ若かったし、私も終戦で通信研究所の役を解かれ、家業である農業と炭を焼く仕事に従事し、これは二年目の出来事である。当時、飯詰村史を担当していた福士貞蔵先生や奥田順造先生にその一冊を持参して見ていただくことにした。次の日五所川原の弥生町に住んでいた福士先生にみていただくと、「これは歴史の外に除かれた実相を書き遺したものだから、大事にするように」、できれば三日ほど貸してくれないかと言われ、そのままにしていたが、まさか飯詰村史に記入されるとは思わなかった。先生は仏教のことはその明細にくわしくないので、これを村の大泉寺住職開米智鎧和尚が別編として村史に加えることにした。
 その頃、青森民友という地方紙が私のことをさんざん悪口をならべて記事にされたことを今でも覚えている。私の親父は怒り、この古書を全部焼却するため裏の畑へ運び火をつけた。そのときは祖母がまだ存命していたので、それを知った祖母は盲目であったが、體ごと火をまさぐって親父を叱り、さすがの親父もあわてた。

「先祖代々命をかけて今まで護ってきたものをなんで焼くのか親不幸者!」

 言われて親父も仕方なく水をかけて消し止めた。
 飯詰村史が公刊されると私の家に歴史家が多く訪れるようになり、史料を借りてゆくが、その多くは返されることもなく史料は多く失われたことも事実である。私もそんなことはなんの気にもしなかったが、史料に書かれていた地名に、突如として親父が炭を焼く釜を造っていたとき、その場所から古い仏像や青銅器などが掘り出され、村は大騒ぎとなり、多くの人々が山に鍬などもって掘りに出かける始末となり、親父もこの場所に堂を立てて供養したことを思い出す。
 もう四十余年も昔のことであるが、以来公民館に貸付していた史料も今は行方不明である。私の出会った先生方はみんな故人となり、昭和四十七年頃、市浦村の山内英太郎さんから電話があり、「市浦村の伝説が書かれてある文献を貸してくれないか」と言われ、ためらうこともなく貸付けたが、これが「みちのくの曙 ーー東日流外三郡史」という題で、昭和五十年に発行された。以来、多くの客が訪れてくるようになり、さまざまな人との出会いがあった。雑誌や新聞の記者、テレビのデレクターなど長時間番組が全国放映で十年余り毎年一本は放映された。
 古田先生と知り合ったのも多分この頃だと思います。まもなく古田先生は「真実の東北王朝」を刊行され大きな話題となった。
 その前後をして、先生や私のことを虚偽誹誘中傷記事で、松田という者が豆本を刊行した。当時は「東日流外三郡誌」という表記があればよく本が売れたときでもあり、その内容はどうであっても買って見る一般人の心理を利用したものでかなり売れたと思う。これに味を占めた松田氏は、次々と私の文献に対する誹誇羅列が出版の数を増し、彼は名を知られるようになったが、彼は中傷以外の歴史評はまったく虚妄であり素人まるだしで誰にでも突込まれる記事である。更にまた、中傷一本槍で刊行するが、世間はそうあまくなかった。
 それから、方針を改めたごとく、自分を隠したように安本教授や野村氏などの仕掛人が現われて来た。先づ野村という私の合ったこともない人物から写真の無断盗用と云うことで、莫大な金銭の要求を弁護士を通じて通達され、更には青森地方裁判所から訴状が届けられてきた。
 私もこれには途惑ったが、私当ての手紙を一切整理していた成田浮城さんの手違いとわかった。成田さんは、私のところに寄せられた二干通余の手紙などを自分の出版する原稿の参考にしていたが、公職についたので一応整理したという記事も添えられて返され、そのままに保管されていたが、寺田会長が五所川原市の図書館で私の家にある文物や私の神社に保存されている秘宝の一部を公開することとなり、2ヵ月間展示されたとき、にわかに何か説明のある本も出版しようと言われ、私がノートに記入していたものや成田さんからの記事、板柳町の木村さんなどの再写などをどうやらミックスされ出版となった。
 この中に混入されたのが例の写真である。だが、著者は私になっていたので訴訟に及んだのであろうが、野村氏はこの訴訟書や、興信所の報告書などをコピーし各所に宣布し、県下はもとより秋田、岩手など私が講演に巡った市町村を公私を問わず配布して、今もなお走り回っている。
 裁判が始まって彼は、(テレビ、新聞)などに自分の正統的記事で作為し悪世評を私にあびせんとした。更に安本美典氏、三上喜孝の責任編集と云う「季刊邪馬台国」などは既に御存知の通りである。
 今年の二月、裁判も判決されるが、私としては真実をつらぬくまで争う心算でいる。これは謂れなき中傷だけの挑戦であり、古田先生や親友の藤本さん、そして私の保存会全国会員の皆さんや古田史学会の皆さんに、全史料の審査を科学的に学際的にも証明していただき、降りかかる火の粉をはらわなければ私も死ねない。
 だが私には金も財産も知力もなく、ただ老いだけが遺され、いくばくの余生をむしばんでいる。武家に累代し、世に偲び、そして遺してくれた遺跡や遺物を私の代で失いたくはないのが今の執念でもある。
 私をおとしめた者には必ず神の報復が降りかかり、誅滅されることを信じてやまない。弁解するわけではないが、私を中傷する彼等は、ただ一向に私を既めるために、かつては地方に於て、私の資産をめぐる地方裁判所訴訟で争った相手の一方的な作り話を興信所が報告書にしたものや、私と対立したアマチュア史学らの中傷話を裁判所や一般人にまでコピーを宣布している。
 こんなことは許されるものではない。
  平成七年一月一七日
            (わだ・きはちろう 和田家文書所蔵者)

以下、和田喜八郎氏の遺稿と古田氏の弔文です。

長作爺さんの思い出 和田喜八郎(古田史学会報 九号)

四千幾百冊もの偽作は不可能 和田喜八郎(古田史学会報 十号)

東北と西南との相異なる古代 和田喜八郎(古田史学会報 十二号)

東北日本の古代考八十万年 和田喜八郎(古田史学会報 十四号)

偽書論をキーワードにした者達に一言 (古田史学会報 二十三号)

秋田一季様、御逝去のご報告 和田喜八郎(古田史学会報 十九号)

極 北 東 の 古 代 文 化 波 及 和田喜八郎(古田史学会報 三十号)



遺稿 北天の誓者は強し 和田喜八郎(古田史学会報 三十五号)

和田喜八郎氏に捧ぐ 古田武彦(古田史学会報 三十四号)
   一九九九、九月二十八日、午前四時、永眠


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これは研究誌の公開です。史料批判は、『新・古代学』各号と引用文献を確認してお願いいたします。

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