古田史学会報12号 へ
和田家文献は断固として護る(『新・古代学』第一集)へ
五所川原市 和田喜八郎
「神代より世にあることを記しおきけるななり。日本書紀などは片そばぞかし」と、源氏物語の序章に歴史の編集について論評したのは、平安時代の女流作家紫式部である。
江戸期に有名な本居宣長は、現代邪馬台国論争となっている魏志倭人伝に対しての評判は「信じるに足らん」と、一蹴している。
とかく、神代という架空夢幻の神話を、天皇一元の祖として歴史の筆頭に古事記や日本書紀などを構成段階には、木に竹を継ぐようなものであった。神から人皇に万世一系とするは、六世紀の神話語部で知られる大野安麻侶や稗田阿礼などが皇宮に召され、祐筆の者に諸国の神話を継併せたものであり、神代という実在のない架空想定で年代を無限に遡らせることの可能な先史空白を神の代にして造られたものである。
一方東北の古代を伝う古史に於ては、地の古語にして「イシカホノリガコカムイヌササン」と称し、「ツルシ」という地語があり、後世にこれを語部録と名付られた古代文字に綴られた古書があり、その古代文字の実在は津軽金木町藤枝遺跡からは、縄文土器に描かれたものが発掘された例があり、近年まで南部地方では、「めくら暦」として語部文字が用いられていたことを知るべきである。日本紀元よりはるかな古代に古代文字の実在していた東北は古代文化の先進にあったことを証明している事実は言うまでもない。
神という信仰はあったが、人祖に神を継接することなく、宇宙なる天のすべてを「イシカカムイ」とし、地なる一切を「ホノリカムイ」と称し、水野一切を「ガコカムイ」として、神なるは天地水の一切とし、偶像を造ることなく、天然自然はみなながら神として崇拝されていた。
後世になると女人達が土器を造るかたわら土偶を造り、コタン(邑)やチセ(家)の守護神として造られたのは縄文の中期から晩期にかけてのものである。
然るに、文字はその以前より子孫のために遺されたもので、その時代の推移に依って、語部文字は七種にも数が増えている。この文字による大事なことは、古代の出来事が明細に記録されて遺す語部録が神の祀られる聖域に完全保存され、世に伝へられたものが『丑寅日本國史』という膨大な遺物と史料である。
この史料の公開は、郷土史家である福士貞蔵先生や奥田順造先生が、昭和二十三年に地方誌に載せていたが、世に重視されることはなかった。
昭和五十年に私が史料を提供して市浦村から村史資料と編纂し初めて公刊されてより話題が全国的に広まった。
しかし、近年これを私が偽造したものとしてさまざまな悪評を新聞や週刊誌などに載せたり、裁判に提訴するものがあり、私を槍玉
に突く事態がいまだに続いている。
だが、偽書とされている私の提供した史料の史実性は活字に公刊以来続々として発掘された遺跡には、驚くべき史実の証明が年毎に裏付となって発掘された。
その代表的なものを例に挙げると、語部の古代文字が土器に描かれて出土した藤枝遺跡や、古代稲田の存在が発掘された垂柳や三和の遺跡、そして縄文時代の通
説を覆した山内丸山遺跡などが続々と従来の考古学に新風を注ぎ学界は東北日本國に対する歴史の古陋を改めなければならなくなった。
偽作論者が私の公私に呈供した史料を偽書として諸紙に悪評を続けているが、彼らの自作自演劇に終止符が天誅となって報復され自業自得に世評の的にさらされる日も近い。彼らの悪評は学論の是非はなく、私己人への集中被罪攻撃であり、また自己的な疑念の判断で活字にしたことが、このあとその記事で苦言を辿ることになる。
彼等が活字に遺した数々は、眠れる虎の尾を踏んだ如く「覆水盆に返らず」と言う己が造悪の呪縛に免れる術はなくなるだろう。
此たび、岡崎市針崎町宮前十一番地在住の伊奈繁弐さんと云う方が十一月三十日に「謎多き人物菅江真澄」を自費出版され、読者の好評を得て居ります。彼も偽書論者には厳しく早計なる偽書説と批判をしております。
会員の皆様のなかで、この本を読んで見たいと希望する方は、定価のない本ですので本人に直接申し込んでください。
(TEL0564-51-3854)
菅江真澄は秋田孝季と朋友であり、当時の世襲が能く理解できる本であります。
東北は今、永き弾圧の歴史より、真如実相の正統史が古代縄文層より発芽し、旧来の陋習を破り、國中はおろか世界に東洋古代文化を飛躍し、丑寅日本國は倭国の一元支配にあった國でなく、多元國家の併合民族に依って争を避けて肇國された國と解る。また山靼や紅毛人國の古代オリエントに交わるある歴史のことも理解されます。