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1996年2月20日 No.12

古田史学会報 十二号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫


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新年おめでとうございます

 昨年は、生涯の中で輝く年となりました。『新・古代学』第一集(七月、新泉社刊)によって、和田家文書のすぐれた史料性格を明示し、積念を晴らしました。
 さらに十月末からの十日間、念願のメガーズ博士(エバンズ夫人)の来日を得、その「縄文人、南米渡来」説の実証性・論理性が記念講演(憲政記念館)や各界学者との長時間討論を通 して明晰化されました。同時に、わたしの「裸国・黒歯国、南米」説もまた。皆様の御支援の賜物です(講演会場に和田家伝来の海外神像等を近世国際交流として展示)。次いで十一月末、韓国の光州方面 へ赴き、『三種の神器』様式の出土物に接し、未知の探究へと新たな喜びをえました。
 仰いで天災を悼み、伏して人災を観る今年も伏して御教導を切願いたします。
     一九九六年 元旦  古田武彦

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昨年十一月二日憲政記念館にて

メガーズ博士来日記念講演会の報告

事務局

 会場はさながら少し小さめの映画館の様であった。壇上中央のスクリーンは小振りではあるけれども立派なもので、講演者は手元でスライドを操作し時に該当箇所を小型のライトで差し示す。高い天井、広い空間。整然と並ぶ臙脂の跳ね挙げ椅子は大勢の人で埋っている。きちんと背広を着込んだ男性が多く、女性やラフな格好をした者は少ない。
 そんな中、東京古田会会長の藤沢氏の紹介に応じ青のジーンズ系の上着にベージュのスラックスという出で立ちのメガース博士(エバンズ夫人)が登場する。髪は総白髪だが若々しい。物事に打ち込む人々の「若さ」を改めて感じさせられた。
 博士の講演は「新大陸の先史時代には二つの大きな論争の的がある」ということから始まった。即ちそれは「いつから人類が住み始めたか」ということと、「太平洋を越えての人類の接触があったか」ということである。
 それに関連して、何十年に亘る研究にも拘わらず一万二千年より昔にアメリカ大陸に人類がいた痕跡が見つかっていないこと、分かっている中で最古に住んだ人々は遺伝子・歯・言語などの研究から東と南アジア起源と思われること、全体として三回の波のような移民があり、後の二回は比較的最近で北アメリカに限定されるものであること、更新世(約一六四万年前~約一万年前)である一万二千年前、氷河が後退し気候・植物がほぼ現在のようになったこと、人間は新しい資源を利用していき、六千年前には豆・じゃがいも・玉 蜀黍等が栽培され生活は安定、定住化していったこと、社会は規模拡大・特殊化していってヨーロッパ・アジアに比肩する文明を築き上げ、やがてアンデス・中央アメリカ・メソアメリカに亘って、ローマ帝国に地理的広がり・道路網の広がりで引けをとらず、ヨーロッパより高度なタペストリーや金銀細工等を誇り、東南アジアに似た複雑な暦法・階段式ピラミッド・宗教・書き物の文化を持つインカ帝国が成立することなど、アメリカ大陸の歴史について概略をざっと語った。
 そして「新大陸と旧大陸には文化的発展段階において類似が見られる」と言って本題に入る。スクリーンでバルディビア遺跡の地理的な説明をし、土器等の技術がそこで独立して生み出されたものなのか、それとも太平洋を渡って伝播したものなのかという問題に関わるそもそものきっかけから説明する。
 一九六〇年代始め、エクアドルにあるバルディビアの谷間の遺跡の深い層から「他のどの層」のものと比べても類似点のない夥しい数の土器が見つかる。何層かに亘り様々な土器が出てくるのだが、一番古い段階のものが一番数が多く、特徴的であった。指や貝殻等で附けられた窪みや刻み・模様の数々は「新世界」の初期の他の遺跡からは見つからないもので色々な形があり、中には塔のようなものもある。特に古いものは五千六百年前のものだ。
 博士達は「『新世界』と『旧世界』は各々独立して発展してきた」という大学院でも習う「常識」に囚われ同様のものを他地域で探そうとは最初思わなかったが、偏見に囚われなかったエミリオ・エストラーダ氏は日本に同様の土器を見つけることになる。バルディビアの土器は九州の阿高・曽畑・出水の各遺跡の縄文時代初期の終わりから中期の始めの頃の土器と酷似していたのだ。そして研究が進められ、一九六五年には博士と御夫君のクリフォード=エバンズ博士・エミリオ=エストラーダ氏の三氏連名のもと二五枚の写 真を以て二者を比較した報告書が出版された。
 そして実際にそれらの写真がスクリーンに映し出され博士がライトを使って一つ一つ解説する。それぞれ写 真の右一列がバルディビアのもの、残り三列は日本のものというが少なくとも僕には言われなければ全く区別 がつかない。刻みや窪み・模様の組み合わせ・柄等どう見ても同類のものとしかいいようがない。「バルディビアの装飾」と「日本の装飾」が「似ている」というより、「同じように装飾された土器」を集めたら偶々その見つかった地点がバルディビアと日本であったという感じだ。海を挟んだ共通 点は他にもある。
 今から約六千年前、両岸の人々とも魚介類や鹿などを獲って小グループで生活し、植物栽培へと向かう始めの段階に入っていた。石を加工して釣針・錐・ナイフ・ハンマー・錘・小手等を作る技術への適応レベルもほぼ同じだ。
 博士は「両者に構造的な拘束がなく、土器は当時の文化的発展に役立つものであったこと」、「その技術やモティーフの組み合わせが他ではみられないこと」、「バルディビア遺跡が突然エクアドル沿岸に姿を現す六千年前、日本では数千年に亘って丹念に構築されていった土器の技術が広まっていたこと」、「日本~バルディビアに交流手段があること」等から「日本→バルディビアの土器伝播」が証明されるという。
 この説に異を唱える者がその拠り所としたことに「太平洋を渡る航海などできる筈がなく、漂流した生き残りの二・三人の漁師が文化を伝えられたとも思えない」ということがあり、「太平洋を渡るためにはどんなに理想的なコンディションでも五百五十六日、漂流すればその三倍は掛かる、天候はよく崩れ、そうすれば生き残れないとも思える」と主張する者もいたが、一九八〇年五月八日に伊豆の下田を出航した、五千年前からある種のダブルカヌー第三野生号は五か月足らずでエクアドルまで辿り着くことに成功した。
 考古学上の証拠はある。「文化を伝播させることができるのが人類が他種と違う点であり、現代の例を見ても判るようにだからこそ人類は少ない完璧な進化でここまで速く進歩してこれた」ということを定義として受け入れ、偏見を排して土器の装飾といった全く任意の、従って考古学者が過去を探る主な範囲となるところでの類似性を見れば、それは「海を渡っての交流」を差し示している。「最早立証責任は『縄文・南米土器文明独立発達説』を唱える側にある」と訴え、古田教授と後援者に感謝を述べ講演を終えた。
講演は予定より更に短く七十五分程度のものだったが、博士の自信と確信・冷静さと知性・力強さとバイタリティーを感じるのに充分なものだった。そしてまた、どうしても(この講演による効果 に期待は持つものの)このテーマの扱いについてのアメリカと日本の相異を感じざるを得なかった。いずれにせよやがては日本の、或は世界の教科書に採り上げられることになるだろう。今尚多忙な研究生活を続ける博士の話を生で聞けたことは非常に貴重な体験だった。質問の機会がなかったことが惜しい。

 尚、この後休憩を挟んで古田教授が演壇に立ち、両土器群には土質や形・日本のような土偶でなく「日本人そっくり」の「可愛らしい髪の長い土のお人形」が出土すること等に相違が見られることを付け加えた上でその類似性・限定性を強調、エクアドル沿岸と同類の土器群が出土する所として夏島・水戸・諸磯・三浦半島・足摺半島(一部の出土品について)等を補足し、更に「エバンズ説は文献(『海賦』・『三国志』など)にも反映されていること」、「『縄文時代に遠洋航海は無理』という主張が『中国江南・会稽山の麓の河姆渡遺跡(約六千六百年前/縄文早期末に該る)から石快*状耳飾り(日本列島縄文期特有と言われていた)が出土したこと』や『ウラジオストックから隠岐や赤井川の黒燿石が出土すること』等により覆えされ、然もこの二つの例はどちらも『海流を横切っての航海』であること」、「南米のミイラ(約三千五百年前/縄文時代後期半ばに該る/のもの)からベーリング海峡を通 ったとすれば死滅してしまうはずの『アジア、それも就中日本に多い寄生虫』の化石が見つかったこと」、「ウィルスのHTLVI型が沖縄・鹿児島・足摺・和歌山・北海道太平洋岸・南米北部~南部に住む人々の間のみで見つかっていること』から少なくとも彼等は祖先を同うするということが言えること」等を博士夫妻とのエピソードを交えながら指摘すると共に、A・ウェゲナーを引き合いに出しながら日本の学会・教科書会社等を批判し、キュリー夫妻に準えてエバンズ夫妻を賛え、そして三十年前若い学者の「未知への探検」をその報告集に載せたスミソニアン博物館を賛えた。
 この二人の「姉弟」の講演は一見「静と動」、対照的に見えたが、「何があったのか」をひた向きに求める共通した姿は恐らく誰の胸にも印象付けられたことだろう。
 古田教授を紹介する『多元的古代・関東』高田会長の言葉にもあったことだが、文献の記録を考古学的な物証が裏付けている。あと何が足りないのだろう。「常識」との合致だろうか。何にせよこの説の社会的・国際的な認知は、更なる事実の追求への大きな一歩となるであろうと思う。

<追記1>教授にメガーズ博士が今特に興味を持っているのは南米コロンビアのハシント遺跡で火焔式土器に似たものが出土すると言う。

<追記2>教授は講演の後半で足摺等の巨石文明についてスライドを交えつつ語った。山の中腹のその山全体の三分の一を埋めるほどの石等はその迫力がスライドからでもかなり分かったが、その余りに大きなスケールのせいか苦心の末気球から撮ったと言う佐田山遺跡の全体写真にしてもその大きさが実際どの程度のものか残念ながら僕にはイメージが湧きにくく、自分の目で見るしかないと思った。せめてゆっくり映像が見たい。
 教授は「石」についても研究していたという博士の御夫君に見せられなかったことを悔やみ、また海亀(石で作られた動物の像はほぼ百パーセントこれを象っている)が卵を産むこの島は「神の生まれる島」なのではないだろうかと述べた。

<追記3>休憩の時から壇上に和田家の収蔵物がほんの一部公開された。奇麗なパピルス二枚・スフィンクスの像二体・エジプトのファラオを思わせる胸像一体・陶器一つ・蛇の像一体・鰐を象ったような船に母とその胸に抱かれた幼子が乗る灯明皿一つ・腕を交差させた女性の立像一体。素晴しく精巧である像や灯明皿は青銅でできているらしい。展示されたパピルスは新しいもので、もっと古いもの、もっと大きなもの(畳一畳の三分の二を占める程大きなももまで)等全部で二二〇枚も和田家には収蔵されているそうで、更に古賀事務局長によればスフィンクスは八体あると言う。スライドのみで紹介された古代の地中海世界を思わせる像を含め、それでも当然ほんのほんの一部に過ぎないようだ。文書もある。
 教授は見もしないで偽物とする人々を批判し、取り敢えず保護し真贋はその後じっくり研究して判断しようと訴えたが、まさにその通 りであろう。古賀氏の「私もこんなに明るいところで見るのは初めてだ」という言葉が印象に残った。収蔵物たちは何年、何十年、何百年明るい光を浴びずに「日の目を見ずにいる」のだろうか。特殊な加工を施された(現代の文明の結晶である)ガラス越しにでも「日の目を見る」のはいつのことになるのだろうか。その時には何を置いても見に行きたいと思うが・・・。

【編集部】
当講演、並びに翌日行われた「縄文ミーテティング」(古田氏、メガーズ博士、大貫良夫 東大理学部教授・人類学、田島和雄 愛知がんセンター疫学部長、鈴木隆雄 老人総合研究所疫学室長)での討議内容の詳細は近日中に原書房より出版予定となっています。

インターネット事務局注記(2000.12.1)
1.石快*状耳飾りの快*(けつ)は石編に快。心編は削除。


九州王朝への一切経伝来 京都市 古賀達也


◇◇◇ 学林 ◇◇
学問はナショナリズムに屈服してはならない。(中略)日本国家のナショナリズムの欲望によって「歴史の真実」を曲げること、これは学問の賊である。わたしたちは、あまりにも、その好例を見てきた。同じく、他の国が己のナショナリズムによって「歴史の真実」を見ようとしないとき、その非を率直に告げる。それこそ真の友であり、「皇国史観」流の歪曲者、御用学者とキッパリ袂別 する道、その唯一の道である。
学問は政治やイデオロギーの従僕であってはならない。(中略)それがソクラテスたちの切り開いた、人間の学問の道なのであるから。<『「君が代」、うずまく源流』より>
古田武彦


「O・Nライン」についての一私見

和歌山県橋本市 室伏志畔

 古代史における画期線をどこに引くかというO・Nライン問題について、従来、近畿一元史観の立場から大別 して六四五年の大化の改新に見る説、二つは天智・天武・持統の間に置く説、そして七〇一年の大宝律令の制定に見る三説があったが、古田武彦は多元史観の立場から七〇一年の大宝律令の制定を是としたことは記憶に新しい。
 問題はこれらの画期線の提唱が、大化の改新の見られた権力主体の転換という観点が薄れ、郡評問題の余韻からか、甲子の宣や庚午年籍をあげ、また大宝律令をとるにしろ次第に転換点を制度的転換に求めるという視点移動をいつしか行っているのは否めない。
 古田武彦のO・Nライン説もこの制度的転換の視点を踏襲した。しかし二〇世紀における各国史の画期線は一九一七年のロシア革命にしろその終焉にしろ、あるいは日本の敗戦にしろ、通 常、その権力主体の転換時をもって画期線と見るのが常識である。
 近畿一元史観が歴史を大和朝廷内のコップの嵐としてしか見ない以上、制度的な転換時に画期線を求めたがるのは理解できるが、倭国から大和朝廷への一大転換を見る多元史観としての古田史学が権力主体の転換時に一切触れることなく、その確立期としての法典整備期をもって答えとしているのは、多くを触発されながらいささか疑問なしとしない。
 そこには九州王朝としての倭国は六六三年の白村江の敗戦後、長い時間をかけて凋落していったという暗黙のイメージをわれわれにあったことは否めない。しかしこれは倭国は大和朝廷の昔のまたの名であったと、その存在を抹消、吸収していった近畿一元史観の偽装のヴェールの最後の残り滓ではないのか。人間の死が一瞬の全面 的な死として訪れず、脳死から心臓死、そして個々の細胞死にどれぐらい時間がかかるかは、その毛髪が人間の死に拘わらず多年にわたり生き続ける話を思い起こすなら、何をもって死の常識的な判断とするかは明らかである。
 とするなら、人間の心臓死に当たる国家の権力機構の消滅にかかわらず、倭国はその伝統的権力によってなお幻想領域で生き続けていたにすぎないのを、われわれはあまりにも実体的な存続として見誤っていなかったかと思うのである。
 実は今度思わぬきっかけから¢伊勢神宮論£を書き始めたところ、『日本書紀』の持統紀終結の意味について、われわれの蒙を啓いた古田武彦の大嘗祭についての講演を読み返していたところ、それに先立つ清寧紀の¢大嘗£はおくとしても、天武紀六六三年のそれを万端整えた中臣・忌部氏の褒賞記事のみあって「大嘗」の期日を記さないとぼけた条を眺めながら、それは弘文天皇(大友皇子)の事項の盗載であるという一卓見もさることながら、この「大嘗」に倭国の死を読むこともできることに気づいた。
 それならこれに前後する倭国の死刑執行人である郭務心宗*の最後の離倭となった六七二年五月三〇日の条が意味深長に見えて来た。倭国解体の見届人である使者が、その死の執行を見届けずに帰国するなぞ断じてありえないからである。そして彼の帰国を待ち望んだかのごとく翌六月、大海人皇子が吉野を脱出し壬申の乱に走ったことは注視されてよい。というより、われわれはこの大和朝廷の皇位 簒奪というコップの中の嵐にすっかり気をとられ、その背後に奇しくも重なってあった倭国の権力機構の消滅を想像だにしなかったのである。つまり六七二年は倭国(権力機構)の消滅と大和朝廷の皇位 算簒という二重の意味をもった大画期線であったのではなかったか。
 それを傍証するのはそれから二〇年後の六九一年十一月にはからずも行われた持統天皇の大嘗祭であった。持統はその翌年の三月伊勢行幸を行うのだが、その明くる年の六九三年から伊勢神宮で式年遷宮が始まるのを見出したとき、わたしはその伊勢行幸の重さとなぜ二〇年毎に式年遷宮が行われるかの意味に気づいた。持統は二〇年前に起こした夫・天武と共に果 たした大和朝廷の算簒という天武朝の創業と奇しくも重なってあった倭国消滅という強運を今更のごとく思い、倭国を根の国送りとすることによって、その魂を夫・天武の魂とともに再び大和朝廷に新しく取り込むという式年遷宮という秘儀を思い至ったのだ。しかもどちらもそれは大和朝廷にとって他言無用の真実であった。
 とするならこの六九一年の持統紀の大嘗祭のもつ意味は、古田武彦が言うように倭国吸収による実体的な日本の第一人者の就任宣言に止まらず、輝かしかった倭国のもつ幻想的権力の収奪に大和朝廷が踏み切ったことを告げる。換言するなら持統天皇は古田武彦が見事に解いたように日本国の第一人者となったことを確認するにとどまらず、倭国の幻想的な権力をわがものとすることによって、過去に対してずっと大和朝廷はこの国に君臨しつづけてきたことを逆さまに宣言したのである。 言わば持統は倭国と大和朝廷の間にあった断絶を、ひと捻りすることによって幻想的に接続し、万世一系の天皇制の創出をやってのけたのだ。もとよりそこに藤原不比等が控えていたことは言うまでもない。とするならこの六九一年もまた六七二年以上の画期の線であることはいうまでもないが、それはは意識と無意識の間にある幻想的な線と同じように見える者にしか見えない画期線なのである。
 そして天武に始まり持統によってより画策された王朝の制度的な確定を見るのが七〇一年の大宝律令の制定なのだ。
 とするなら、元明、元正天皇の時代にある軍器、禁書、兵器等の大和朝廷への回収は、決して動乱といったものではなく、倭国の最後的な大和朝廷への吸収の詰めを物語るものではなかったか。
 つまり実体的な国家であると共に幻想的な天皇制国家に成長しつつあったこのときの大和朝廷にとって、O・Nラインは権力主体の転換点に置くときは六七二年、新たな幻想国家の創始とするときは六九一年、そしてそれらの制度的な完成期に線を入れるなら七〇一年と見れるある幅をもった帯なのではなかろうか。
編集部
O・Nラインとは、OLD・NEWラインの略で、九州王朝から大和朝廷への権力の交代時期(七〇〇年)を示す用語で、古田武彦氏による命名。氏は『旧唐書』や郡・評木簡が共に九州王朝から大和朝廷への中心権力の変動が七〇〇年付近を境に発生していることを示していることから、これをO・Nラインと命名された。九州年号がこの年に終り、代わって大宝年号が大和朝廷により建元されていることもO・Nラインに一致している。

インターネット事務局注記(2000.12.1)
1. 郭務[心宗*]のソウは、こざと(心)偏に 宗 です。


◇◇ 連載小説彩神(カリスマ) 第三話◇◇

緑玉( 二 )

 

--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美
     ◇      ◇
 「兄(あん)ちゃん、本当に出漁するの?」
 石蕗(つわぶき)が驚いて駆け寄ると、
 「ああ。俺の腕は知っているだろ?」
 赤熊(しゃぐま)風の舟子(かこ)は胸を叩いた。彼は石蕗の長兄、重也(しげや)だった。銛打ちの名人で魚の他、鳥やイノシシを狩る事もある。対海(対馬)では力自慢でもあり、自分で舟を波打際へ押し出して行く。
「無理しない方が良いんじゃない……?」
「こんな時化(しけ)じゃ、ろくに獲物も見つからないぜ。」
天照(アマテル)と須佐之男(スサノオ)も、心配そうな顔をした。水平線は幾重もの飛沫(しぶき)が泡立ち、黒ずんだ三角波がフカの背びれを思わせて無気味である。
「まあ、見てろ。両手じゃ計れん程デカいカツオを舟一杯積んで来て、お前らを羨ましがらせてやるから。」
 言うなり、重也は銛を手に飛び乗った。
櫂が軋(きし)み、舟は瞬く間に遠去る。老練な水夫でも二の足を踏む三角波を、重也は巧みに利用して沖の漁場を目指して行く。舟が波の頂きに押し上げられる度に重也は岸辺へ他を手を振り、なびく縮れ毛が褐色に輝いた。
「凄ェや、兄ちゃん……!」
 石蕗は目と口をあけ放し、
「普通なら、とっくにひっくり返っているのに……」
 天照も固唾を飲んでいる。
「おい、何か見つけたようだぞ。」
 須佐之男が身を乗り出した。
 確かにこう荒れては、殆どの魚は黒い渦の下か水底の岩影に隠れてしまう。が、重也は,銀と青の背びれを輝かせたカツオの群れが、波の真下に迫り上がって来るのに気がついた。
 重也は、素早く銛を投げ込んだ。白い石を刻んだ銛が、パッと臙脂(えんじ)に染まる。先端には五、六匹のカツオが串刺しになっている。重也は無造作に剥ぎ取り、又、銛を打ち込んだ。
 カツオは毎年今時分、産卵の為に海流を北上する。それを狙って付近の漁師達は網を仕掛けるのだが、カツオは大きく、力も強く、捕らえられても暴れ回って手を傷つける事がある為、掬(すく)い取るには太竿(ふとざお)という特殊な道具が必要とされる程だ。
けれど、重也は銛を愛用した為、カツオはいつも面白いように獲れて、今日も半刻(はんとき)もしない中に舟底は足の踏み場もなくなって来た。もう引き上げねば、重さで舟が沈みかねない。カツオの肉は栄養価も高いし、骨は削って釣餌にも出来るのだが、大国 (後の出雲)ではまだこのやり方が普及していないらしい。早く帰って、ネコも好むカツオ節の作り方を須佐之男に教えてやろう。
取り直そうとした櫂が、やにわに強く引かれた。粒立ったレンガ色の太い紐が、舟の周囲に翻る。荒波を透かして巨大な坊主頭が覗き、血走った眼光が一瞬、重也を睨めつけた。
 タコだ。カツオの巣となる水底の岩棚に、大ダコが絡み付いているのだ。魚達が手でつかめる程群がって来た筈だ。皆、化け物を恐れて逃げ出したのだ。
重也は懸命に舟を操ろうとしたが、櫂はアッと言う間に拐(さら)われ、レンガ色の紐が八方からのしかかって来て、目の前が真暗になった。
「兄ちゃーん、兄ちゃーん!」
石蕗は手を輪にして叫んだが、聞こえよう筈もない。
「兄ちゃん、死んじゃやだよ……!」
思わず飛び出そうとして、
「おい、危ない!」
「やめなさい!」
 石蕗は天照と須佐之男に押し留められた。
「兄ちゃん、死なないでよ。おいら、独りぼっちになっちまうよー!」
 喚(わめ)く石蕗の眼前で、レンガ色の吸盤は情け容赦なく舟を墨の渦へ叩き込み、自身、どこかへ姿をくらませてしまった。真赤にゆだった坊主頭が、地獄の業火に見えた。三角波が舟の板切れや折れた櫂、血染めの銛、太竿を次々に岸へ打ち寄せる。
「兄ちゃん……!」
 石蕗は、まだ銀の魚がはね回っている魚篭(びく)を抱き締め、泣き崩れた。
「泣くな、石蕗。」
 いつの間にか、井伏老人が後ろに来ていた。
「重也はお前を飢えさせまいとして荒海に乗り出し、死んだのじゃ。舟子(かこ)として本望じゃったろう。お前も兄の気持ちを無駄 にせず、早う大きくなる事じゃ。」
「そうや、石蕗。」
 天照も、優しく少年の肩に手を置いた。
「あんた達の好きだった若布(ワカメ)の林を図案化して、緑と青し白と金の糸をかがって手毬(てまり)を拵(こしら)えてあげるわ。同じ色の風車もね。」
「それと一緒に御燈(みあかし)を捧げて、また、裏穴へ行こうぜ。」
 須佐之男も口を添える。
 石蕗は打ちひしがれながらも、涙を零(こぼ)すまいと唇をかんでいた。ひ弱で体も小さく、泣く事と悪戯(いたずら)しか出来ない自分が、兄のようになれるのか……?いや、ならなければいけないのだ。父に先立たれ、母は病み、次兄は韓(カラ。現朝鮮)へ出稼ぎに赴いたまま行方知れず、頼みの長兄も大ダコの餌食になった今、誰が母を看護する?
誰が長兄(あに)の恨みを晴らすというのだ……?
(兄ちゃん、見ていてくれ。俺、きっと強くなるよ……!)
石蕗は涙を拭った。
(続く)

〔後記〕
 拙い自作を激励して下さって、お礼の申し上げようもございません。今回も、というよりこの「緑玉」にはどこかで聞いたような名前の人物がよく登場するのですが、これは単なるイタズラでございます。今後も、どうかよろしくお願いいたします。(深津)


東北と西南との相異なる古代 五所川原市 和田喜八郎


古田史学とは何か2

プロメテウス的転回について

橋本市 室伏志畔

 小林多喜二の虐殺に象徴される昭和の大弾圧を前にした昭和六年(一九三一年)に、一大学生であった花田清輝は七という数字の魔力に取り憑かれた青年の敗北を描いた小説『七』を書いた。ここで花田清輝は七の数字の不思議にあずかる者はまたそのからくりに嵌まりやすいという透徹した認識をもって、自身の分身である主人公を十三挺のピストルの前に立たせ、どちらから選んでも七つ目のピストルを選ぶという手の内を読まれた奸計の前に無惨に敗北する姿を描き、迫りくるマルクス主義運動の近未来に警告した。
 しかし、時代は非転向を貫いた小林多喜二を教条とすることによって、マルクス主義運動は権力のたやすき餌食と化した。七の不思議を七と知れない方法によって駆使すべきだという花田清輝の提起はまったく生かされず、マルクス主義運動は自らの方法的破綻の内に権力の手に帰した。命の取引にはもっと慎重であるべきだという花田清輝の批評より、小林多喜二の決死の抵抗のみを抵抗としか考えることが出来ない思考のうちにマルクス主義は自らこけたのである。マルクス主義がその尻尾をあからさまに振り回しては強大な天皇制権力に抗すべくもなかったのである。
 この抵抗の錯誤の図式は戦後日本にあってポツダム民主主義の受容及び、マルクス主義の再生過程において反転して現れた。あるがままの受容が困難な暗い谷間の時代にあってはそれを反転させる方法的受容がベターなら、請われるがままの受容が可能な明るい地獄にあっては眉に唾つけて否定的に対すべきだったのだ。戦前、マルクス主義がその尻尾を誇って失敗したなら、戦後はそれぞれ米ソの権威の狐にたやすく騙されるお人好しを日本の知識人は率先して演じたというわけだ。
 このとき古田武彦の戦後における思想の受容の在り方は、花田清輝とはちがってまた独自なものであった。親鸞の護国思想を語るものとして本願寺教団が戦時中振り回した言葉は、実はその反語としてのみ理解可能であると、戦後親鸞研究に畫期の転換をはかった服部之総の説が一世を風靡した中で、古田武彦はこの説に敬意を払いつつもそれを取らず、独自の親鸞思想の掘削から、それが権力者に対する憐みから発した言葉で、「主上臣下、法に背き義に違い忿りを成し恨みを結ぶ」をまったく裏切らず、豊かにそれを裏書する言葉であることを論証し、結果 として服部之総と同じ立場へ出て行くのだが、このあまり見栄えのしない独自の掘削の在り方に、その後の古田史学の思想の精髄があったと今はいうべきであろう。
 人は結果が同じなら手早く先人の恩恵に預かれば足りたのにというかもしれない。しかしこの易きにつく功利主義こそ戦後民主主義をやせ細らせ、マルクス主義を教条的な非生産的なものとした当のものではなかったか。古田武彦が開いた知の回路を利用するのみで、自ら掘削をしなかった者がひとたび暗礁 に突き 当たったときいかにうろたえたかは、「市民の古代」の先の紛糾劇が詳しい。
「もともと人生に道はない。人が歩いて始めて道ができる」(魯迅)ものであるからこそ、古田武彦はそのように自らの道を切り開くことによって古田史学を築いてきた。しかし「市民の古代」に参集したものの、古田武彦の既に切り拓いた道を歩いてきただけの便乗者は、「偽書」問題という始めての障害にぶつかったとき、道が見つからないと慌てたのである。かれらは学問の大道が道なきところに道をつけるものであることを気づかず、踏ん張るべきところで臭い屁をひって、乞われるままにたやすき道についたのである。とすればわれわれもまたそれぞれの営為のもとに自らの道をつけることなくして何ごとも始まらないことを銘記すべきであろう。
我々の前途が予断を許さぬ困難にあるとしても、幸いわれわれのここ一、二カ月の動きの中でも、名古屋の林俊彦が「一大」が「天」であることを発見し、九州の灰塚照明が「接尾語〈ら〉は海神であった」という注目すべき新たな一鍬を振るっている。古田史学はこれらの個々の営為の共同意志の深化・拡大として現在あるのであって、それぞれがさらに一を加えることなくしてその前途は細るしかないのである。とすれば私もまた一を加えんとするのだが、歴史学が指示的語彙の意味の再発掘を通 して埋もれた歴史の古層の復原に行き着くのを常道とするなら、私はそれに行き着くまでの艱難にめげることなき共同の意志の内圧を高めつつ行きたいと思うのだ。
 ともあれ学問はそれぞれの手仕事を通してしか何事も加ええないことを、古田武彦のマルクス理解の中に探ってみたい。
 古田武彦は、今は幻しの初期著作である『近代法の論理と宗教の運命』で、信仰の自由の批判的考察を行い、無神論者の宗教批判を
「ドイツにとって宗教の批判は本質的に終わっている。そして宗教の批判はすべての批判の前提である」
という初期マルクスの『ヘーゲル法哲学批判』の言葉から始めている。この批判の前提には、マルクスの「神が人間を造ったのではなく、人間が神を造った」という原理が踏まえられてあり、それゆえ批判は既に天上の宗教批判から地上の国家批判に移るしかなく、また宗教批判を通 ることなくしてキリスト教単性社会の色眼鏡をヨーロッパは外すことはできないという刮目すべき批判の原理が述べられているのだが、ここではそれに踏み込むことはできない。ここで問題としたいのは、古田武彦はこのマルクスの宗教批判に至る流れを、西洋哲学史はヘーゲル→フォイエルバッハ→マルクスの系譜で理解してきたが、むしろヘーゲルからマルクスに至る流れの間に、古代ギリシャの悲劇作家アイスキュロス→ゲーテにバトンされた「非哲学的」な人間観を盛った「西欧思想史内的なマルクス理解」をとるのがむしろ望ましいという。
 ヘーゲルからマルクスの間に古田武彦が挿入した媒介項としてのアイスキュロスとゲーテが象徴するものは、オリンポスの十二神の主神ゼウスに反抗し、天上の火を地上の人間にもたらそうとしたため、いまは山上に鎖でつながれ大鷲にその肝を日々啄まれる劫苦にありながら決して挫けぬ プロメテウスなのだが、この「苦悩し、泣き叫び/生命を享楽し、歓喜にむせぶ/決してお前(ゼウス)を尊敬しない」とゲーテによって謳われたプロメテウスの態度の内にマルクスはヘーゲル哲学に最も欠けたものを発見したのだと古田武彦はいう。
 換言すればシュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒涛)時代のゲーテにこの「鎖と花」 に象徴されたプロメテウスを見出したマルクスは、このプロメテウスに似せて作られた人間の血をヘーゲルに輸血することによってその思想的骨格を形成したのである。つまりヘーゲル哲学のプロメテウス的転回にマルクスの思想的生誕の秘密はあるというわけだ。この古田武彦のマルクス理解は、民衆の人間的な挫けぬ 意志ゆえに一切の苦悩と歓喜を引き受けざるをえぬところに宗教をおいた親鸞に古田武彦をその後導くが、私にはこの古田武彦のマルクス理解が、日本の大衆の悲苦の涙の谷間を潜って戦後「最後から来た人」(埴谷雄高)として吉本隆明が六〇年安保後、マルクスを古代ギリシャ哲学から連綿と流れる自然哲学の中に奪回することによって、マルクスとマルクス主義を峻別 し、そこから『言語にとって美とはなにか』以後の原理論の構築に乗り出した姿を思い起こし、改めて自らの掘削がいかなる大河のごとき流行に拘わらず、万代不易の拠点として確かなものであるかを再確認して愉快であった。
 九〇年代初頭のソ連邦崩壊に伴うマルクス主義の退潮にかかわらず、私には古田武彦の内にあってマルクスの思想は色褪せることなくいまなお健在であることをまったく疑わない。自らの鍬を振るうことのない粉飾者は常に時代の粉飾された主義主張に動かされるしかないのは、戦時下にあっても戦後もいまも変わらないである。
 かつて黄金に憧れたミダス王は、ついに夢叶い触れるものすべてが黄金に変わる現実を得たとき、それがまた食べ物すらままならぬ 現実でしかないのに困惑したが、今日おのれの鍬を振るうことのなかった小ミダス王たちは、マルクスが『ルイ・ボナポルトのブリューメール十八日』で描いたペテン師ナポレオン三世にまとわりついては振り捨てられ、要あれば集められる浮浪者さながらに、苦い現実に会えばたちまちあちらの甘水を求める乞食となって、ついに絶対神ゼウス(天皇)のもとに帰参する一元史観のあぶくのごとき取り巻き浮浪者の一群に成り下がっているのは憐れである。(つづく)


会員論集、編集作業始まる

        古田史学の会・北海道 吉森政博

 昨年八月の「古田史学の会」第一回会員総会で、会員論集編集責任者に任命され、北海道の会の例会で了承を得て、古田史学の会・北海道全体の事業として会員論集の発行準備を進めてきました。
 現在、掲載論文も揃い、北海道の会会員が手分けしての入力作業もほぼ目途が付き、今後、校正・レイアウト・編集作業へとはいっていく段階になってきました。このまま順調に作業が進めば、年度内には発行・発送ができるのではないかと思います。
 内容的には、古田史学会報第十号に紹介された、古田先生の『明治体制における信教の自由』、最近書き下ろしていただいた『人間の認識』の二つの論文を始め、山崎仁礼男氏の『造作の¢天智称制£』、室伏志畔氏の『古田史学の新段階』、古賀達也氏の『倭国に仏教を伝えたのは誰か』など、読み応えのある 論文がそろいました。
「二十一世紀に向う、人間の使命。それは次の三つの課題への挑戦である。」との書き出しで始まる『人間の認識』は、「宗教・科学・国家」の根幹的な問題点を痛烈に批判した、凝縮された骨太い論文となっています。
 『明治体制における信教の自由』ともども、古田先生の学問を貫く、「人間の思想の本質」に肉迫せんとする姿勢が見事に現れた、必読の論文です。
 古賀氏の論文は、これまで「何年」かが主に問題とされていた「仏教初伝」において「誰が」を問い、九州の寺院に残る伝承を分析、ついに特定の僧名を比定することに成功した画期的な論文です。
 詳しくは、今春の発行を楽しみにお待ちください。
 なお、現在一つだけ問題がありまして、会員論集『○○○○』という名称が未定となっております。北海道の会だけでは決められないことですので、皆さんのお知恵を拝借したいと考えております。
 初の会員論集ですので、できる限りいいものを、と考えておりますが、予算の関係で、ワープロ文字を使用するため、本としての仕上がりに若干不安がありますが、好論文が揃いましたので、最善を尽くしていきたいと思います。
 また、第2号の投稿を創刊号で募集しますので、奮ってのご投稿をお待ちいたします。

<事務局>
 会員論集創刊号は九五年度会員には、一冊進呈いたします。その他の方は本会書籍部へ購入をお申し入れいただくことになります。申込方法は、後日、会報にてご案内申し上げます。九五年度会員は会報送付用封筒宛名下の会員番号末尾に95と記されています。


□ □ 事務局だより □ □ □ □
▽朗報が届いた。奈良の太田さんからだ。母校九州大学の学生新聞に「九州古代史・古田史学と九州王朝」の題で古田説がそのまま連載されているというのだ(昨年十二月で十八回目)。京大学生新聞にも『新・古代学』のの書評や古田史学に基づく連載が続いているが、それと相前後して九州大学でも公然と古田史学が紙面 を飾っていたのだ。数年来の和田家文書騒動を利用した古田叩きは、一元通念側の強さではなく、弱さの現れだったのである。一元通 念の牙城がひとつ、又、ひとつと音をたててきしみ始めている。見る人にははっきりとそれが見えるであろう。
▽大学センター入試の当日、交野市の加藤さん(会員・関西創価高校教諭)が拙宅へ見えられた。教え子達を京大まで引率した後の時間を利用しての御来訪とのこと。古田先生の近況や古田史学の将来について、短時間であったが熱い真剣な語らいとなった。論語学而編に「朋、遠方より来る有り、亦、楽しからずや。」とあるが、朋とは師を同じうし、友とは志を同じうするともあり(鄭玄注)、本会設立により実に多くの朋友を得たものである。誠に有難いことである。
▽この他にも熊本の平野さんからは御著書『倭国王のふるさと・火ノ国山門』を贈呈いただいた。次号で紹介させていただく予定である。また、本会報にも会員の皆様から多数御寄稿を頂いており、逐次掲載していきたい。
▽古田先生はこの四月に京都へ帰ってこられるが、その後は御研究に専念されるとのことである。無理を言って、四月に関西講演会をお願いしているが、その後は先生の御研究の妨げとならぬ よう、本会としても講演依頼等は自粛したいと考えている。先生の近況や御研究状況などは会報にて御紹介していくこととなろうが、ご理解のほどお願いします。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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