和田家文献は断固として護る(『新・古代学』第一集)へ
寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)
青森県藤崎町 藤 本 光 幸
『北奥文化』十八号に斉藤隆一氏の「九州安倍宗任伝説と和田家文書の真相」と云う論文が述べられている。しかし、この中で私にも関係があり、しかも誤って記載されて居る事項もあるので、真実を述べてこれを訂正する。斉藤論文では
“北海道の余市町から発見された武具類が国宝級と鑑定され、『東日流外三郡誌』に記された天真名井宮説を唱える人の見解が新聞に載った。すると余市にある天内山は天真名井宮の行幸に因んだと秋田孝季が書いた文書が、その後『和田家資料1』に出てきている。ところが調べると天内山とは、明治に入植してきた「あまうち」家の領地は無関係だった(注8)。それを指摘されても無視し、和田家文書を真作と主張する人々は相変わらず「考古学と和田家文書の見事な一致」などと主張するのである。
(8)藤村明雄氏の調査による。”
としているが、『和田家文書1』「丑寅日本雑記全」天内山抄には次の様に述べられている。
「天内山抄 渡島なる余市の村に天内山あり、名称正しくは天真名井山なり。文明壬寅年、天真名井宮行幸なせる地にて、この湊に軍船を造れるためなる水軍をなせる要湊を築き、此の山に城を築きけん。企ぞ志したるもコシャマインエカシの乱起り、多く殉じて志ならざるところなりと曰ふ伝えあり。
寛政五年三月七日 秋田孝季 」
所で私は現在、藤本姓ですが、私の実父幸一は藤崎町字葛野の天内家から藤本家に婿養子に来たものであり、葛野の天内家は葛野御所の天内家と謂われ、天真名井宮の直系の子孫と伝えられて居る。明治維新の戦に三条実美の要請に応じて出陣した天内嘉之以降の系図は次の様になって居る。
天内嘉之(文化八年一月二日誕生、明治二七年二月十一日死亡)
天内嘉之-------- 卯之 -------- 浅吉 -------- 幸吉
| (婿養子) |
----- 萬之 --- 幸一 -------- 光幸
(余市に移住) (藤本家へ婿養子)
この系図でも判る様に、余市の天内家は萬之の時(明治期)に余市に移住し、本家筋の葛野の天内家(あまない)に対して、別家筋になるので(あまうち)を名乗ったものであり、しかも当初、萬之に男子がなかったので、私の父幸一が養子となって余市の(あまうち)家に入ったのですが、後に実子が生まれましたので、私の父は余市から藤崎に帰って来て後、藤本家に婿養子として入ったものである。従って私も幼少の頃はよく余市の話を聞かされたもので、天内山からは古い太刀なども出土して居る事なども聞いて居る。
この様に、余市の天内山は元来は天真名井だった事から名付けられた山。「あまない」と山と呼ばれて居ったのですが、萬之の天内(あまうち)家が現在に至って居るので現在はあまうち山と呼ばれて居るのでしょう。
藤村明雄氏の調査によるとされて居るが、藤村氏はどの様な調査をされたのでしょうか。
□□ □□ □□ □□ □□
インターネット事務局注記(2000.5.10) 古田史学会報24号で下記の訂正が出されております。
〔前号の訂正〕 二三号2頁の藤本光幸氏稿「天内家と天内山」中に掲載された天内家系図の天内嘉之の生没年が、文化八年~明治二七年とありましたが、現在再調査中とのことで、生没年は「不明」としておいてほしい旨、筆者より連絡がありましたので、そのように訂正させていただきます。(編集部)
高裁「偽作」裁判勝訴によせて
五所川原市 和田喜八郎
『古事記』や『日本書紀』の人格神に慣れた現代人は本当の神格は森羅万象のすべてであることを忘却の彼方に信仰の要点を欠した。
吾國の古代信仰は身近なるものから天地の万象みなながら神と仰ぎ宇宙の運行を神の遍満、すべてを神格としたものである。天と地と水の一切こそ生物源祖として万物生命はこの源成化に誕生され、その生命を生死を以て生存を輪廻できるというのが、古代人の信仰であり、思想の原理であった。北日本は倭國ではなく、もとより原住民が國称した國号であったことは、中國の古書『旧唐書』に遺証されている事実があり、北日本國の王統や信仰、そして古代稲作の史実は近年の発掘に立証され、その以前に『東日流外三郡誌』に明記されていたことである。
偽書論をマスコミ・週刊誌・書籍を以て、大学教授や博士などの肩書で出版された数多くの偽書キャンペンで世に流布し、裁判にまで私を訴えてあきたらず、そのグループであろうか?敗訴が濃厚となるや、神社の遺物を盗む大量の盗難を以て挑む事件が、昨年から今年に渡り、三度も破錠侵入し、数々の遺物が盗みさられた。しかも警察を嘲笑うが如く一回目の捜査中に第二回を犯している。三回目は神社大祭のあと、遺物の片付けが稲刈の農忙期にかかり、神社へ出向くのが遅れていた事情と留守であることを調べて盗みを堂々と犯人は真夜中に鉄柵を破り神社をも破錠して盗み出した手口は前回と同じである。かくも執拗に『東日流外三郡誌』にかかわる遺跡荒しまでするようになった大犯罪は赦されるものではない。これは私に親しく近づいた者が、何処に何を蔵しているか、能く知っていた者の指示があったものと思われてならない。初めて侵入したにしては、あまりに的中した盗み口である。
裁判は「盗作問題」全面勝訴となり、偽作論をキーワードにした一切が棄却された判決は、最高裁の審判であり、これを機に盗難犯人グループも必ず逮捕されるだろうと私は神懸けている。どうか、本会の日本全国会員の協力を願い、一日も早く犯人と覚しきを警察への通報してくださる日を待っています。会員の方々は遺物の多くを見られているので、似た様なものをどこかで見たならばお知らせ下さい。
『東日流外三郡誌』は古史古伝の類になる架空の書物ではなく、また偽書論者らのいふようなことは微塵もない文献である。このことは古田武彦先生がその調査に依って証明されていることは、今でもなんらかわらないところであり、これから原本を編纂して世に遺すことである。数多くの活字にして悪評した偽作キャンペンの者達も、真実の前には必ず屈するであろう。
『東日流外三郡誌』は彼等のいうように、私が偽作したものであったなら、裁判にも既に敗れたはずであり、また古田先生もこれに没頭する筈もない。
とかく東北の歴史には、まつろわぬ化外の民「蝦夷」意識があることは歴史の深層にあり、排斥されてきたが、幸いにもアラババキ神の信仰が日本の全土にわたって遺されている。神の大宮である出雲大社、坂東の氷川神社など武蔵の各処、宮城県の多賀城にはそのまま遺されているが、これを尋ねてみれば北海道にも及んでいる。
それも、江戸時代の國学者、菅江真澄や近代の柳田国男でさえもそのルーツが明らかにされないほどに古い時代の神であり、古代丑寅日本國に一統された天と地と水を神格とした神であり信仰であったことを知るべきである。その『東日流外三郡誌』を裏づけたのは最近の発掘に依る築館遺跡の六十万年乃至八十万年前の石器や青森の三内発掘に依る縄文集落跡やストンサークルの出土に依って、元来の通説は覆され、この実証は発掘以前にして活字になっていた『東日流外三郡誌』を心して読むべきである。
日本全国に渉って巡脚した一萬冊を超える古文書には更に海を超え「山靼」「オリエント」の古事にもふれて居ります。
偽作キャンペンの者達が活字にした行文には何の証明もつかない自暴論であることは世の人々に知り得たことであろう。古田史学会ではこの外道的な文面に対してその理由を説き示していたことに、彼等は反省すべきであるが、偽書論を以て、世評のキーワードに自分を目立たせる他に術もない学論では、その反論にも答える論証にも明答は見えだせずに己人的な悪評を突く他に術もなかったのであろう。もう彼等が歴史を論ずる資格はないと私はもとより、世評は定まっている。私は彼等に依って悪評されたことには、法的にも赦すことは出来ない心算である。
また、彼等のキーワードとする偽作キャンペーンには何の立証もない事実の無根で謂われ無き迫害であった。今後は彼等が活字にした数多くの諸書を読みただす時が、私にはたっぷりあるので、これを正論に当て報復に決したい。
(石塔山荒覇吐神社東日流中山保存会)
裁判関係の資料は以下の通り
報告 平成九年一〇月一四日 最高裁判所判決 付 上告趣意書(平成九年(オ)第一一四〇号 上告人 野村孝彦)
付録 資料和田家文書1 邪馬台城 総覧
寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)
和田家文献は断固として護る(『新・古代学』第一集)へ
古田史学会報一覧 へ