野村孝彦氏側斎藤隆一氏報告書【甲第二八五号証】に対して、学問の方法に関する点に絞り、次の通り意見を申し上げる。
斎藤隆一氏は『東日流外三郡誌』など和田家文書明治大正写本に見える「現代的用語」を偽作の根拠として数年来揚げ続けて来られた。それに対して私は、氏が指摘された用語の多くが江戸期以前に存在していたことを典拠を明示して反論してきた(論文やパソコン通信ニフティーサーブ「古田史学研究会」などにおいて)。そして、用語の成立時期の特定は一般に困難であり、自己の「現代語のはず」という思い込みによる批判は論証方法上危険、かつ、学問の方法からみて問題であることを、繰り返し指摘してきたのであるが、ついに斎藤氏には理解できなかったようである。
こうした論証抜きの自らの思い込みによる「現代的用語」をいくら揚げても、偽作説の根拠とは成らず、「相乗効果」などという「効果」の存在もまた思い込みにすぎないのである。一方、和田家文書が明治大正を中心に昭和十五年頃まで書写・清書され続けてきたという史料情況を正しく捉えれば、その書写時代の用語が混入する可能性が存在し、ますます「現代的用語」などという視点からの偽作論は学問の方法上危険であることは明白である。
また、「市浦村」という戦後命名の村名が和田家文書にあるかのように記されているが、管見では和田家文書明治大正写本には、「視浦」という用例は見えるが、「市浦」という用例を知らない。斎藤氏が以前指摘されたのも「視浦」であり、「市浦」ではなかったはずだ。このような、読むものを惑わせる斎藤氏の「報告書」が、情報操作の悪しき一例でなければ幸いである。
「北方領土」については、膨大な和田家文書中(刊行された八幡書店版『東日流外三郡誌』だけでも全六巻、総頁数四千七百頁を越える)に、そうした「現代でも使用されている用語」が存在していても別段不思議ではないし、「北方」も「領土」も古くから使用されていた普通の用語であり、こうした例まで偽作説の根拠にあげるに到っては、誠に理解に苦しむところと言わざるを得ない。
斎藤氏をはじめ、偽作論者に共通する特徴のようであるが、わたしたちが明確に反証をあげても、それの紹介も自説の撤回もせずに、また別の虚偽情報を繰り返すという手口は、およそ学問的とは言えない。
一例をあげれば、松田弘洲氏や斎藤隆一氏は『東日流外三郡誌』刊本に虫くいによる欠字がないことを偽作の根拠として繰り返しあげられた。そこで、わたしが、虫くいなどによる欠字の箇所を具体的に頁まで掲げて指摘(「知的犯罪の構造 ーー偽作論者の手口をめくって」『新・古代学』2集所収)したにもかかわらず、自らの誤りも認めず、その指摘にも触れられないまま、偽作説を発表され続けている。新たな偽作説を発表するのであれば、まず自らの誤りを訂正、謝罪し、なぜそのような誤りを犯したかを反省してからにすべきではあるまいか。当真偽論争において、偽作論者はこうした基本的な人間社会のルールや、学問の方法における誤りに全く気づいていないかに見える。
言うも愚かだが、こうした文書の真偽論争においては、まず実物をしっかりと自分の目で見ることから始めなければならない。そのために、その文書所蔵者に何度でもお願いし、時間を充分にかけて調査研究を進めなければならない。また、先行研究者(本件の場合、藤本光幸氏や古田武彦氏)の見解や助言を得ることも不可欠な作業である。まして、具体的な存命の人物(本件では和田喜八郎氏)を偽作者として名指しで発表するのであれば、本人に何度も会い、充分すぎるほどの聞き取り調査が必要なはずである。もちろん、そうした調査の上でも他者を偽作者とする以上、自らの社会的全責任をかけて行う必要があろうが、偽作論者たちにこうした深刻な決意が感じられないのはなぜであろうか。斎藤氏をはじめ彼らは、自らの軽薄な知識と不十分で先入観に基づいた調査により、あまりにも簡単に他者を誹謗する「論文」を発表し続けるからだ。学問研究の正道に立ち帰り、充分に時間をかけ、実物をしっかり見るという慎重な研究態度を偽作論者に求めるのも、今となっては無理であろうが、せめて、和田家文書研究に真剣に取り組み、寛政原本公開の条件整備を進めている、わたしや古田武彦氏の研究活動の進展を静かに見守っていただきたいものである。裁判所に学問的真偽論争の当否の判断を求めるのはあまりに筋違いであり、ある意味では学問研究の退廃でさえあろう。わたしは、これからも和田家文書の学問的調査研究をすすめていく所存である。
以上
平成九年一月二十五日
京都市上京区河原町通今出川下ル大黒屋地図店方
古賀達也
仙台高等裁判所第二民事部御中
報告 平成九年一〇月一四日 最高裁判所判決 付 上告趣意書(平成九年(オ)第一一四〇号 上告人 野村孝彦)