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寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)
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東日流外三郡誌とは
古賀達也
青森県五所川原市飯詰の和田家に推定一万点を越えるとされる先祖より受け継いだ、あるいは山中より発見された文書・遺物がある。文書は数千冊、遺物は一万点にも及ぶという(当主和田喜八郎氏談)。まさに「北の正倉院」とも称すべき様相である。中でも文書類は「和田家文書」と称され、その内容は津軽(東日流)の古代より近代に至る伝承などが記された一大伝承史料群である。その文書群の一つ「東日流外三郡誌」は昭和五〇年に『市浦村史資料編・東日流外三郡誌』として刊行されたこともあり、全国的に脚光をあびることとなった。刊行後、その史料状況や史料性格への誤解などから偽作視されることもあったようで、今日に至ってもそうした声は続いている。
私は昨年五月より四度にわたり、古田武彦氏らとともに現地調査に赴き、和田家文書に接することができた。その結果、和田家文書について多くの知見を得た。よって、和田家文書研究発展のため、ここに知り得たことを記し、また、同文書への言われなき中傷への反証を試みたいと思う。現在もなお調査研究中の対象であるので、不十分さや思い違いもあるかも知れないが、中間報告として本稿を発表することにした。本稿が和田家文書への正当な評価、学問研究に貢献できれば幸いである。
和田家が収蔵している文書の総数は、その量が膨大なため、未だ正確な数や内容は不明である。当主和田喜八郎氏の話などを総合すると、概ね次のような分類が可能である。
(A).江戸期(天明・寛政年間頃から幕未)の文書類
(B).明治・大正(一部は昭和初期)期の写本(原本は江戸期寛政頃から幕末までに成立)
(C).江戸期の「参考書」類(江戸期原本作成時の史料と思われる)
(D).明治.大正期の文書類、あるいはそれの写本
これら四種類に大別すると、 (A).群は現時点では最も数が少ないようである。それでも、一枚ものの「庄屋文書」「神社文書」などもあり、正確な数は不明である。ただし、後で述べるように今後この (A).群が大量に発見される可能性を有している。
(B).群は、寛政期に成立した「東日流外三郡誌」などの明治・大正写本が中心であり、和田喜八郎氏によれば推定二千冊(巻)に及ぶと見られる。この内、これまで私たちや刊行担当者たちの目にふれたものだけでも四百冊(巻)はあるようである。現在もなお和田家より古田武彦氏へ (B).群文書が続々と調査研究のため送られてきており、今後その数は更に増えるであろう。
一例として、 (B).群中代表的な「東日流外三郡誌」を、昭和六三年から平成二年にかけて刊行された八幡書店版によって見ると、総収録数百九十三巻(冊)、編数で二千二百五十九編という膨大な史料群である。「東日流外三郡誌」そのものは約三百六十巻あったと記されていることから、すでに百七十巻分ほどに当たる明治写本が失われている、あるいは未発見ということになろう。
これまで論議の対象となってきたのはそれら (B).群文書であるが、江戸期成立の文書を明治・大正期、一部は昭和初期(昭和七年の年次を持つ「北斗抄廿七」の存在を確認した)にかけて書写された、言わば「再写文書」であることから、その史料性格上、書写時に書写者による改編や追記がなされている部分がある。その結果、江戸期成立の文書の写本に明治以後の知見や呼称が記されることになり、このことが偽作論の「根拠」の一つとされているが、再写本に見られるこれらの現象を偽作の根拠にするなどとは、史料性格を無視した暴論、あるいは文献史学の基本を知らぬ行為と言われても致し方ないのではあるまいか。
さらに、 (B).群文書には明治・大正期書写者(和田末吉、和田長作。現当主喜八郎氏の曾祖父・祖父)自身による (D).群文書が挿入されているケースさえもある。明確に挿入が判るケースもあるが、混然として判りにくいケースもまま見受けられるので、書写本による史料批判が必要であり、刊本では判りにくいと思われる。
このように、 (B).群文書は和田家文書中で量も膨大で、内容も多岐にわたっているため、古田武彦氏や私により写真撮影・コピー・ビデオ収録を進めてはいるが、いずれはコンピュータによるデータベース化が必要であろうと考えている。
しかし、それ以上に我々が注目し、期待しているのが、これら明治・大正写本の元となる江戸期寛政原本の発見である。明治・大正時代に書写された原本の存在なくして、これら膨大な (B).群文書の存在は説明できない。したがって、現在未発見の大量の (A).群文書、すなわち寛政原本の発見が期待されるのである。現在発見されている (A).群文書が虫食いなどで、かなり傷んでいることから、未発見の寛政原本の損傷も大きいことが予想できる。和田喜八郎氏も寛政原本公開の考えを持っておられるので、一日も早い発見・公開が望まれるところである。
次に (C).群文書だが、喜八郎氏の話では、和田家文書中この (C).群文書が最も多く、推定約三千冊はあるとのこと。これら (C).群文書は江戸期寛政原本作成にあたっての参考書とされたようで、江戸期の和漢の史書やオランダ語の文献もあるとのことである。私もそのうち数点(『旧唐書」他)を実見したが、今後の調査により貴重な文書の発見が期待されよう。なお、八幡書店の森克明氏によれば、和田家蔵書調査時に『日本政記」『近古史談」『大学章句』『校刻日本外史」『玉かつま』等を実見したとのことである(『東日流六郡誌大要別報』所収「『東日流六郡誌大要』覚書」、八幡書店、一九九〇年)。
こうした文書の他に、金石文や版木・竹経・錦絵などもあるらしいが、まだ実見していないので本稿では触れない。
最後の (D).群文書は明治・大正期の教科書や、書簡類である。ただ、私が実見したものは (B).群文書中に貼り付けられていたり、綴じ込まれているもので、独立したものは未見である。これらがどの程度存在するのかは不明だが、明治期の書簡(和田末吉と福沢諭吉との書簡などがあるそうである)など興味深いものがある。今後の調査が期待されるところだ。
明治・大正写本の史料状況は大別すると、巻子本と冊子本、あるいは一枚ものからなる。巻子本は冊子本を巻子に再装丁したものが多いようである。この巻子本への装丁作業は明治・大正期に限らず戦後も行われているようである。和田喜八郎氏の話では、紙の痛みが大きいものなどを巻子本に装丁したとのことであった。冊子本の場合は、使用済みの大福帳の紙背を再利用したものが少なくない。これは、膨大な書写により、和田家が窮乏し、五所川原市の佐々木家より使用済みの大福帳をもらい受けて書写を続けたためである。この大福帳自身も明治・大正期の地方経済史研究にとって、第一級の史料であり貴重なものである。これら大福帳が明治・大正期のものであることは、裏面(大福帳としては表面)に明治や大正の年次が繰り返し記されていることで判明する。このように貴重な大福帳を大量に入手することは、現在では困難だ。このこと一つを見ても、和田家文書を戦後の偽作とすることは無理である。
通常この大福帳は縦半分に折りたたんだ紙を綴じているため縦長の形をしている。和田家文書では大福帳のままの形で使用したものもあるが、多くは大福帳の紙を一枚一枚外して広げ、何も書かれていない裏面を表にして、二枚ずつ袋綴じのように張り合わせ、更にそれを冊子として製本するという体裁になっている(横綴じ本となる)。量が量だけに、これは大変な労力と時間を要する作業でもある。和田喜八郎氏の話では、祖母(祖父長作の妻)が傷んだ文書を再製本していたのを記憶しているとのことであった。
また、これら大福帳を再利用した横綴じ冊子本とは別に、通常の和綴じ本の体裁のものもある。「東日流外三郡誌」にはこのタイプが多いようである。私が実見した「東日流外三郡誌」は、大福帳のままとこの和綴じ本タイプのものであった。ちなみに八幡書店版刊行時の調査では、収録した百九十三巻中、冊子本が百七十六冊(横綴じ本一冊、大福帳七冊を含む)、巻子本二十六巻であったと報告されている(中村和祐氏「『東日流外三郡誌」の完結によせて」『東日流外三郡誌別報6』所収、八幡書店、一九九〇年)。
このように、和田家文書の状況を見れば、喜八郎氏による偽作などという説がいかに成立困難なものであるかは、それこそ一目瞭然である。むしろ、先祖の遺した膨大かつ貴重な文書を代々にわたり書写し、紙代に窮すれば、もらい受けた大福帳の紙背に書写を続けるという、和田家の執念とも言うべき偉業に頭が下がる思いである。
なお、念のため付け加えると、展覧会展示用や望まれて作成された、和田家文書のレプリカ類が存在する。これらレプリカ類は戦後作成されたもので、筆跡などを和田家文書に似せている。レプリカであるから似ているのは当然だが、そのためこれらレプリカの紙質を鑑定し、戦後作成された偽作とする偽作論が出現する原因となったようだ。私の見た範囲では、レプリカは厚く大きめの紙に書かれ、明治・大正写本とは大きさも紙質も全く異なっており、これを本物と思う方がどうかしている、といった様相を呈している。
筆跡も本物に似せているため、くせ字や異体字などは共通しているが、筆の押えや返しが流暢で滑らかであり、和田家文書とは筆跡が異なる。この点もまた、偽作論者には両者の区別がつかないようであり、誤鑑定と言わざるを得ない。こうした誤鑑定に基づく所説は学問的基礎を取り違えたものであり、研究者として厳に戒めねばならないことを今後の研究のために付言しておきたい。
偽作論者は和田家文書が昭和三〇年以後段階的に作られ現在に至っているとしているようだが、その根拠は各文書が公刊された年次に基づいた憶測に過ぎないと思われる。和田喜八郎氏の証言では、昭和二二年夏に天井裏からの落下を機に世に出始めたとされるが、それを裏付ける事実がある。
当時、地元の郷土史家の第一人者ともいえる人物に福士(ふくし)貞蔵氏がおられた。氏は津軽地方の市町村史を数多く手掛けられており、同時に津軽地方の古文書の調査や書写、伝承の聞き取りなどをなされている。そして幸いにもそれら調査の自筆原稿が五所川原市立図書館に存在する(福士文庫)。その中の「郷土史料蒐集録第拾壱號」に次の和田家文書群が書写されているのだ。
○役小角(えんのおずぬ)関連の文物、金石文等(漢文、『飯詰村史』に開米智鎧(かいまい ちがい)氏が紹介、後出)
○高楯城・藤原藤房卿関連文書(漢文)
○飯詰町諸翁聞取帳 文政五年今(こん)長太編(高楯城関連も含む、『飯詰村史』に掲載)
これらはいずれも和田家所蔵の文書、あるいは山中の洞窟より発見されたもので、既に公刊されたものも少なくない。同「蒐集録」には別に和田米八(喜八郎氏の親戚)蔵書の書写もされており、その書写年次が「昭和廿三年正月廿八日筆寫」「昭和廿四年十月廿四日寫」と記されていることから、先の和田家文書類の書写も同時期と見て大過あるまい。以下、和田家文書が戦後(主に昭和五〇年頃まで)どのように世に紹介されていったかを述べよう。
(1).福士貞蔵編『飯詰村史』昭和二六年
(収録和田家文書:文政五年今長太編飯詰町諸翁聞取帳」「庄屋作左衛門覚書」)
福士氏は、「蒐集録」収録の「文政五年今長太編諸翁聞取帳」や、これも和田家文書と思われる「庄屋作左衛門覚書」を『飯詰村史』の第十三章「口碑及傳説」の「追記」等で紹介し、同章「追記」冒頭や「編輯を終へて」に次の様に記し、集録した和田家文書に強い関心と高い評価を与えていたことをうかがわせている。
「以下は傳説ではなく史實とも思われますが再検討を要する部分もあるので、念を執って暫く本章へ編入する事にした。」
「第十三章の追加(主に和田家文書記事・古賀)は、本史に一段の重きを加ふる好史料であるが、原文を見られなかったので、口碑傳説の部に入れて置くの餘儀なきに至ったのは、實に遺憾である。」
そして、資料収集の協力者の一人として、和田喜八郎氏の名前を上げ、謝意を記している。ここで「原文を見られなかった」とあるが、この「原文」とは明治写本ではなく江戸期の原本を指すと思われる。それは次の理由による。まず、当然のことだが和田家文書を見なければ、福士氏は書写できない。また明治写本さえも実見しないで、研究誌に紹介したり、村史に掲載したりできないであろう。
このことは、同じく「福士文庫」にある福士貞蔵著『郷土史料異聞珍談百話」の自筆原稿中に「諸翁聞取帳」の藤原藤房卿の記事の引用がなされており、その後註として次のように記されていることからも証明される。
「(註)右は原本ではなく写本に據ったものであるが、誤字又は脱字があるらしい。」
この福士氏による註は「文政五年今長太編諸翁聞取帳」の原本ではなく、明治の和田末吉による写本によったことを示しているのである。
さらに、福士家より「津軽諸翁聞取帳」(明治写本)が発見されているようである(『東日流六郡語部録諸翁聞取帳』和田喜八郎編、一九八八年、八幡書店にその経過が紹介されている)。和田喜八郎氏も福士氏に貸し出した旨、述べられている。したがって、福士氏は明治写本を書写したが、江戸期の原本(原文)を見られなかったことを遺憾とされたのであろう。
ところで、『飯詰村史』は昭和二六年の発行であるが、編集は昭和二四年に完了していることが、編者による「自序」や「編輯を終へて」に記された日付から判明する。このように、和田家文書は戦後間もない昭和二一二年頃には福士氏により書写され、紹介されているのである。偽作論者は同『飯詰村史』の内容を知っていながら、その中に福士氏が特筆して紹介した「和田家文書」の存在に、気づかぬふりをしているとしか思えない。すなわち、昭和二三年は喜八郎氏が述べるように、天井裏から文書が落下した翌年であり、和田氏の証言と福士氏による書写・公刊と時期的にピッタリと符合するため、こうした事実をひた隠しにしているのだ。
さらに、昭和二三年といえば喜八郎氏はまだ二一〜二歳であり、これら多くの文書、しかも難解な漢字漢文や用語を多用した文書・金石文などを偽造偽作したとは、さすがに偽作論者たちも言えなかったのではあるまいか。
私は故福士貞蔵氏の自筆原稿や氏の手になる膨大な著作類に触れ、津軽の優れた郷土史家福士貞蔵氏の業績を知った。氏の自筆原稿等は、和田喜八郎氏偽作説を否定する貴重な「証言」と言わねばならない。
(2).福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」
『陸奥史談』所収、昭和二六年(収録 和田家文書:「諸翁聞取帳」)
福士氏はそれら和田家文書を書写するに留まらず、研究誌にも引用・紹介されているのだ。例えば「諸翁聞取帳」を『陸奥史談』第拾八輯(昭和二六年四月発行)において「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文で紹介している。同論文冒頭には次のように記されており、飯詰村で発見された史料に基づいていることがわかる。
「勤皇の士雲の如く起りて鎌倉幕府を倒し、目出たくも王政復古となり、昨日の悲憤は今日の悦びと化したが、賞罰當を失ひ、秕政多きを嘆き、藤房卿はしばしば*諌奏したが、毫も容れられなかった。茲に於て藤房卿は奉公の甲斐なきを悲しみ、官位を捨て北山の岩倉に入りて僧となった筈であるが、今日に至るも其の終る所が知られなかった。然るに今回端なくも飯詰本村に於て意外の史料を発見した。
記録は『諸翁聞取帳』といって、飯詰を中心に隣村の史實を或る文献より寫したり、又は口碑傳説など聞取った事柄を書留めた物で、筆者と同じく餘り學力のある方でないらしく、文体は成って居らんし、それに用語も無頓着で意味の判らぬ個所もあるが、全く耳新しい史料であるから、同好の士に紹介する事にした。」
しばしば*([尸/婁]々)は、尸編に婁。JIS第三水準ユニコード5C62
この後、「高楯城系譜」が漢文風のまま掲載されている。ここで重要なことは、この史料を当時(昭和二六年から見て最近)飯詰村で発見されたもの、としていることだ。この「高楯城系譜」は先の『飯詰村史』に掲載されているものと同文であり、同じ史料に基づいていることがわかる。すなわち「和田家文書」の一つ「諸翁聞取帳」なのである。この「諸翁聞取帳」のことは「東日流外三郡誌」にも次の様に記されている。
「諸翁聞取帳
是の書は飯詰味噌沢に主家せる庄屋作佐エ門及飯積派立今長太、和田長三郎、北屋名兵衛、菊池庄左エ門等が書遺せる諸翁聞取り帳なり。是れは、史実伝説混合せる処ありとも、亦後考にして再調しべし。
明治二十一年十一月三日
飯詰村福泉之住 和田長三郎」
『東日流外三郡誌」第五巻、八幡書店、七〇九頁)
ここに記された人物の内、『飯詰村史』「第十四章在方役人」の「庄屋」の項で、天明年間(一七八一〜一七八八)北屋名兵エ、文政年間(一八一八〜一八三〇)長三郎の存在が記されている。偽作論者は和田家は明治二二年以前に飯詰に住んでいなかったとか、庄屋ではなかったとするが、『飯詰村史』でははっきりと「庄屋長三郎」の存在を記しており、またこの「長三郎」が「和田長三郎」であることは、和田家の菩提寺長円寺(飯詰)の「過去帳」からも証明できるが、このことは別稿にて論じる(和田家ではしばしば長三郎を襲名している)。
このように、昭和二二年に天井よりの落下を機に世に紹介された「和田家文書」の出現事情と、福士氏の「史料紹介」の内容(時期と場所)が見事に符合する事実こそ、「和田家文書」喜八郎氏偽作説を否定する重要な論点なのである。なお、「諸翁聞取帳」という文書は複数あるようで、固有書名というよりも「諸翁からの聞き取り」という収録スタイルに基づく一般書名として、和田家文書では使用されているようである。
(3).開米智鎧「藩政前史梗概」『飯詰村史』所収、昭和二六年
(引用 和田家文書・史料:骨蔵器銘文、銅板銘文、木皮文書、「諸翁聞書」)
和田喜八郎氏宅近隣に大泉寺というお寺がある。そこの前住職、故開米智鎧氏は金光上人の研究者として和田家文書を紹介した人物であるが、氏もまた『飯詰村史』中の研究論文「藩政前史梗概」に和田家文書等を引用・紹介している。同論文はグラビア写真と三三頁からなる力作である。内容は和田元市・喜八郎父子が山中の洞窟から発見した「役小角関連」の金石文や木皮文書などに基づいた役小角伝説の研究である。
この論文中注目すべき点は、開米智鎧氏はこれら金石文(舎利壼や仏像・銘版など)が秘蔵されていた洞窟に自らも入っている事実である。同論文中にその時の様子を次のように詳しく記している。
「古墳下の洞窟入口は徑約三尺、ゆるい傾斜をなして、一二間進めば高サ六七尺、奥行は未確かめていない。入口に石壁を利用した仏像様のものがあり、其の胎内塑像の摩訶如来を安置して居る。總丈二尺二寸、後光は徑五寸、一見大摩詞如来像と異らぬ。(中略)此の外洞窟内には十数個の仏像を安置してあるが、今は之が解説は省略する。
此の洞窟に就いて岡田氏所蔵の記録に
東方一里洞穴三十三観音有
正徳年間炭焼午之助説
といふ、若し此れが此の古墳の洞窟を指したものとすれば、多数の佛像の存在を三十三観音と推考したものであらふ。」
このように洞窟内外の遺物の紹介がえんえんと続くのである。また正徳年問(一七一一 〜 一七一五)の炭焼午之助の説として三十三観音が洞窟にあったという記録も紹介し、和田父子が発見した洞窟のことではないかとも論じている。偽作論者の中にはこれらの洞窟の存在を認めず、和田家が収蔵している文物を喜八郎氏が偽造したか、古美術商からでも買ってきたかのごとく述べる者もいるが、開米氏の証言はそうした憶測を否定し、和田家文書に記されているという洞窟地図の存在とその内容がリアルであることを裏付けていると言えよう。ちなみに和田氏による洞窟の調査については、『東日流六郡誌絵巻全』山上笙介編の二六三頁に写真入りで紹介されている。
このように、和田家文書に記された記事がリアルであることが、故開米氏の「証言」からも明らかであり、それはとりもなおさず和田家文書が偽作では有り得ないという結論へと導くのである。余談だが、当時、飯詰村では和田父子が発見した遺物が評判となったようで、和田父子が山に入ると、村人がぞろぞろと後をつけたという。この逸話も当時村人たちが「和田家文書」や「遺物発見」を疑っていなかったことを表しているのではあるまいか。偽作論者はこの時発見された「遺物」をことさら過小評価しようとするが、開米氏の論文に掲載されているグラビア写真を見ても、発見された遺物が貴重なものであることは明白である。少なくとも、戦後の混乱期に炭焼きを業としている貧しい農家であった和田家で偽造したり、購入したりできるものでないことは疑いない。
開米氏のこの論文中に注目すべき点がもう一つある。同論文は役小角が主テーマだが、論文中に「諸翁聞書」という文書が次のように引用されている。
「降って文明十二年南朝天真名井宮が郎黨とも十七名高楯城主五代の藤原藤光に頼らせられ「天下太平祈願」を中山に修せられた事は諸翁聞書に出て居るが、今回発掘の摩詞如来像は當時法要の本尊ではあるまいか、といふのは、佛像と一処に掘り出された護摩器の中に鐵の金剛厥が大小四本ある、(中略)慶長元年兵法役松山定之助、老中役中野萬右衛門、奉行役今清右衛門、代官役木村正衛門等の遺臣が大光院に藤原家累代を供養した記事は諸翁聞書に傳へている。」
この「諸翁聞書」と先の「諸翁聞取帳」とが同じ物か別物なのかは不明だが、「東日流外三郡誌」などに頻出する「天真名井(あまない)宮伝承」や「藤原藤房卿の末裔伝承」がここに現れていることは興味深い。すなわち、開米氏はかなりの量の和田家文書をこの昭和二六年時点で既に読んでいるという事実が浮かび上がるのである。和田家の近隣にある大泉寺住職の開米氏ならば、和田家が所蔵していた膨大な文書の存在を知っていたとしても何等不思議ではないからだ。現に開米氏は役小角研究に次いで金光上人の研究を和田家文書に基づいて開始し、昭和三九年には『金光上人』を刊行することになる。
(4).佐藤堅瑞『殉教の聖者金光上人の研究』昭和三五年
(引用 和田家文書:金光上人関連文書」)
浄土宗の祖法然の直弟子で東北地方へ浄土宗を布教し、津軽で没した著名な僧に金光上人がいる。しかし金光上人の詳しい事績は謎とされてきた。開米智鎧氏とともにその金光上人研究をすすめられてきたのが、西津軽郡柏村浄円寺住職佐藤堅瑞氏である。
佐藤氏は開米智鎧氏とは仏教大学の先輩後輩の関係にあり、昭和一二年頃から全国を行脚し金光上人研究をされていたが、和田家文書の「発見」を開米氏より伝えられ、昭和三一年より共に調査研究を行われたのである(開米氏の大泉寺と佐藤氏の浄円寺は八キロほどの距離で、氏は自動車やスクーターでしばしば大泉寺を訪ねられていた)。佐藤氏は「浄土教報」にも和田家文書(金光上人関連)の調査報告を発表されているが、昭和三五年一月に『殉教の聖者金光上人の研究」を刊行された。
佐藤氏は今も御健在であり、この間の事情などを御教示いただいたのだが、氏は昭和三一年から三五年にかけて多くの和田家文書を実見されており、先に紹介した「諸翁聞取帳」や「東日流外三郡誌」、それに洞窟より発見された役の小角関連の銅板銘や木皮文書、骨蔵器なども見ておられるとのこと。また、「調査が必要」とされながらも、当時和田喜八郎氏が「浄土宗の僧籍に入り忍海と改名し、最低の権律師を頂いたようだ」とも証言されている。偽作論者は和田氏が僧籍にあったことを疑問視しているが、佐藤氏の証言によれば、やはり事実のようである。当時のことを知る関係者が少なくなった現在、こうした佐藤氏の証言は貴重である。
(5).開米智鎧『金光上人」昭和三九年、金光上人刊行委員会発行(非売品)
(引用和田家文書:金光上人関連文書」)
先に紹介した佐藤堅瑞氏の『金光上人の研究』に次いで昭和三九年に刊行されたのが、開米智鎧氏による『金光上人』である。同書は本文二八八頁からなり、総本山知恩院門跡岸信宏氏、大本山増上寺法主椎尾弁匡氏による序文、文書などのグラビア写真二二枚などが収録されている。巻末に収録されている藤本光幸氏の「刊行にいたるまで」によれば、昭和二四年に和田喜八郎氏により山中から発見された修験道資料や金光上人関連文書により力を得た開米氏が、以来十有余年、資料の整理研究を行い昭和三八年に脱稿されたものと紹介されている。
同書には多数の和田家文書が収録紹介されているが、同書付録の「金光上人編纂資料」には約二百三十編の和田家文書名が見える。このように『金光上人』編纂にあたって、開米氏は膨大な和田家文書を昭和二四年以降参照しているのである。紹介されている和田家文書には一枚ものの簡単な「書簡」もあれば、浄土宗や修験宗の教義に関するものなどがあり、浄土宗史や仏教教義に詳しくなければ書けない内容といえる。一例をあげれば、金光上人が著したとされる「末法念仏独明抄」第八巻得道品には「妙法蓮華経」方便品の一部が転用されていたりする。浄土三部経からの引用が多い金光上人関連文書に法華経が引用されていること自体興味深いことだが、こうしたことを見ても、仏典に詳しくなければ書けない内容であることがわかるのである。少なくとも法華経方便品の文意を理解していなければ、引用は不可能である。おそらく偽作論者たちはこうした史料状況さえも気付いていないようである。
これら金光上人関連文書は地元伝承や古文書を採録したものと思われ、全てが史実というわけではないこと、当然であろう。いずれにしても、浄土宗の僧侶である開米氏が研究に値すると判断した内容であり、当時、二〇代前半の和田喜八郎氏が偽作できるようなレベルでは、質においても量においてもないのである。偽作論者は故意にこうした内容にまで触れようとしていないのではあるまいか。同時に、開米氏もこうした和田家文書を無批判に信用したわけではないことが、「序説」に次のように記されていることからうかがえる。
「昭和二十四年「役行者と其宗教」のテーマで、新発見の古文書整理中、偶然燭光を仰ぎ得ました。
行者の宗教、即修験宗の一分派なる、修験念仏宗と、浄土念仏宗との交渉中、描き出された金光の二字、初めは半信半疑で蒐集中、首尾一貫するものがありますので、遂に真剣に没頭するに至りました。
此の資料は、末徒が見聞に任せて、記録しましたもので、筆舌ともに縁のない野僧が、十年の歳月を閲して、拾ひ集めました断片を「金光上人」と題して、二三の先賢に諮りましたが、何れも黙殺の二字に終りました。(中略)
特に其の宗義宗旨に至っては、法華一乗の妙典と、浄土三部経の二大思潮を統摂して、而も祖匠法然に帰一するところ、全く独創の見があります。加之宗史未見の項目も見えます。
文体不整、唯鋏と糊で、綴り合せた襤褸一片、訳文もあれば原文もあります。原文には、幾分難解と思はれる点も往々ありますが、原意を失害せんを恐れて、其の侭を掲載しました。要は新資料の提供にあります。」
このように戦後比較的早く世に紹介された和田家文書の一つとして「金光上人関連文書」は、内容も量も一個人が短期間に偽作できるというものではないことを証明するのである。しかも、同時期に「役小角資料」「諸翁聞取帳」「天真名井家関連資料」も公刊・紹介されており、ますます和田喜八郎氏偽作説は成立困難なのである。
(6).豊島勝蔵編『市浦村史資料編・東日流外三郡誌』全三巻
(別に「年表」一巻)昭和五〇年
和田家文書を一躍有名にしたのが、昭和五〇年より刊行された『市浦村史資料編・東日流外三郡誌』である。和田家文書を代表する「東日流外三郡誌」約三百七十巻の内、約百巻がジャンル別に収録されている。発刊時から全国的に反響を呼んだようで、同時に江戸時代成立のものとしては内容に不審があるとして、偽作ではないかとの声も生じたが、考古学的発掘調査事実などと文書の内容の符合から、失われた津軽地方の歴史を補う貴重な文献資料として高い評価も得ている。例えば同村史編者豊島勝蔵氏は『東日流外三郡誌・中巻』(昭和五一年発行)の編集後記で次のように記している。
「この『東日流外三郡誌』によって、処々方々をかけめぐり、特に城祉についてはほとんど一致をみているし、今まで不詳であった寺趾及び館祉なども、あらたに発見することが出来たりしているので、すばらしい資料だと考えています。」
さらに『市浦村史・第一巻」(昭和五九年発行)でも、豊島氏は『東日流外三郡誌』発行以後続いた考古学的発掘調査の結果と「東日流外三郡誌」との一致や関連を詳しく紹介されている(山王坊遺跡など)。
和田家文書中代表格ともいうべき「東日流外三郡誌」は、こうして世に本格的に紹介されたのであるが、『市浦村史資料編』では全体の約三分の一程度の紹介に留まった。後の昭和五九年に藤本光幸氏らによって現存写本約二百冊(巻)が北方新社版として刊行されることになるのだが、偽作論者たちはここでも和田喜八郎氏による偽作がこの間に続けられて「東日流外三郡誌」の巻数が増えたかのごとく主張しているのだ。こうした主張が全くの虚偽情報であることが『市浦村史資料編・東日流外三郡誌・下巻』(昭和五二年発行)に記されている豊島氏による「下巻の編集を終って」の次の文面からも明らかである。
「東日流外三郡誌にめぐり会ってからもう七年目のリンゴの花盛りを迎えた。その問、資料の借用・書写・資料の整理編纂・裏づけ旅行・研究家との応待等々心に余裕のない七年間であった。まったく外三郡誌の内容そのものについて熟考する余裕もないほどの忙しさであったことは、知る人ぞ知っていることであろう。私の手にした外三郡誌は巻数からいって、三分の一ほどでしかなかったけれども、津軽の古代史・中世史の資料の乏しさに比べれば、分量と内容との面からいって一驚に値するものであった。(中略)
この度、市浦村から下巻を発刊しましたが、「東日流外三郡誌」による資料は、これで打切らして戴き、残りの同資料は藤本光幸先輩の編集で発刊する運びとなりましたので、御期待を願います。下巻の構成は、系図篇・落人篇・戦乱篇としました。その後和田氏から資料がまいりましたが予算の関係で割愛さしていただきました。(後略)」
このように、豊島氏は自らが手にした「東日流外三郡誌」は巻数からみて三分の一程度であったこと、残りは藤本光幸氏により刊行されることになっていること、和田氏からはその後も資料が届いたが予算の関係で割愛したことを記しているのである。ここまではっきりと豊島氏が述べているのを知っていながら、偽作論者たちは悪質な虚偽情報を垂れ流し続けているのである。もし知らずに虚偽情報を流しているとすれば、当該文献を読みもせずに偽作論を述べていることになり、およそ学問的態度ではない。
同様の問題に、「虫食い」の件がある。偽作論者たちは「東日流外三郡誌」に虫食いによる欠字がないことを偽作の根拠として度々主張しているが、これなども悪質な虚偽情報である。市浦村史版をはじめ、北方新社版、八幡書店版のすべてに虫食いなどによる欠字が随所に見られる。何よりも、市浦村史版『東日流外三郡誌』中巻の編集後記に「文中□印は、虫クイおよび二重書、破損のため不明なところです」と編者豊島勝蔵氏が虫食いなどによる欠字の存在を明記しているほどである。また、偽作論者たちが「東日流外三郡誌」を読んでいれば、随所に見られる欠字記号すべてを見落とすことは、まず考えられない。したがって、偽作論者たちは「東日流外三郡誌」を読んでいないか、虫食いの存在を知っていながら嘘をついているかのいずれかではあるまいか。このように、偽作論者たちは偽作キャンペーンのために虚偽情報を繰り返し吹聴しているのである。以下は参考のため、書名のみを紹介する。
(7).藤本光幸・小舘衷三編『東日流外三郡誌」全七巻、北方新社、昭和五八〜六一年。『東日流外三郡誌』約二百冊、「天内家関連文書」を収録。
(8).山上笙介編『東日流六郡誌絵巻 全』津軽書房、昭和六一年。
(9).山上笙介編『總輯東日流六郡誌』津軽書房、昭和六二年。
(10).東日流中山史跡保存会編『東日流外三郡誌』全六巻、八幡書店、昭和六三年〜平成二年。『東日流外三郡誌』百九十三巻(冊子本百六十七冊、巻子本二十六巻)を収録。
(11).同『東日流六郡語部録 ーー諸翁聞取帳』八幡書店、平成元年。
(12).同『東日流六郡誌大要』八幡書店、平成二年。
(13).藤本光幸編『和田家資料1』北方新社、平成四年。『奥州風土記』『陸奥史風土記』『丑寅日本記全』『丑寅日本史総解』『丑寅日本雑記全』を収録。
(14).藤本光幸編『和田家資料2』北方新社、平成六年。『丑寅日本記』『丑寅日本紀』『日之本史探証』を収録。
偽作論者が主張する昭和三〇年以降の段階的偽作説は、本稿で紹介したような歴史事実を無視した虚偽情報という他ない。『季刊邪馬台国」などに名を連ねている偽作論者の内、公刊された和田家文書だけでもきちんと読んでいるのは、いったい何人いるのだろうか。先行偽作論者による和田家文書の部分引用(しかも誤読誤解もある)ぐらいしか読んでいないのではと疑いたくなるようなレベルの「議論」も少なくないのである。
念のため述べるならば、私は偽作説の存在そのものを批判しているのではない。問題としているのは、昨今の偽作論者の言動が学問の方法とその領域を逸脱し、とりわけ和田喜八郎氏や関係者への誹諺中傷、甚だしきに至っては「犯罪者」扱いするその偽作キャンペーンに危険な社会現象を感じ取るからである。
その一方で、私は偽作説の中でも次のような、節度を保ち、学問の方法と領域を逸脱すまいとする論者がおられることも知っている。
「しかし最近、安藤氏研究の権威と目される高名な研究者と話したおり、その研究者が以前、「東日流外三郡誌」の原本を見ていたことを知った。そのお話によれば、原書には付箋が非常に多数貼ってあり、付箋の記述はいずれも荒唐無稽ないし明らかに後世の書き込みであったが、もともとの部分については検討を要することを感じたというのである。(中略)もちろん調査の結果、原東日流外三郡誌など存在せず、無からの創作であることが明らかになるかもしれないし、あるいはまた、あったはずの原東日流外三郡誌を、加筆の過程で目茶苦茶にしてしまい、今となっては確認できなくなっているのかもしれない。いずれにしろ、現在までの論争では、状況証拠でしか批判が行なわれていないことが気になるのである。厳格な実証主義史学の立場からすれば、状況証拠はいくら積み上げても所詮状況証拠でしかない。一つでもいいから直接の証拠を必要とする。「東日流外三郡誌」の早期の直接の調査が待たれる所以である。」
(小口雅史弘前大学助教授「『東日流外三郡誌』をどうあつかうべきか近時の論争に寄せて」『季刊邪馬台国』五二号所収、一九九三年)
和田家文書に疑念をいだいておられる小口氏とは、その見解こそ異なるが、氏のいわれる厳格な実証主義的史学の立場と方法には賛成である。地元青森県の研究者である小口氏が和田家文書に対して直接原書にあたって研究されることを期待したいのである。
最後に本序説を終えるにあたって、次の一文を紹介しておきたい。
「わたしはかって次のような学問上の金言を聞いたことがある。曰く『学問には「実証」より論証を要する。(村岡典嗣)』と。
その意味するところは、思うに次のようである。“歴史学の方法にとって肝要なものは、当該文献の史料性格と歴史的位相を明らかにする、大局の論証である。これに反し、当該文献に対する個々の「考証」をとり集め、これを「実証」などと称するのは非である。”と。」
(古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 ーー中国古典と日本古代史」『多元的古代の成立[上]邪馬壹国の方法』所収、駿々堂出版、昭和五八年。初出は東北大学文学部「文芸研究」百〜百一号、昭和五七年)
当文面は『三国志』の史料批判に対して古田武彦氏が述べられたものだが、現在の和田家文書真偽論争に対しても全くそのままあてはまる指摘である。古田氏の学問が『三国志』に対しても、和田家文書に対しても全く同一の方法論にたっておられることを明白に示す文章である。にもかかわらず、残念ながら氏の学問とその方法を真に理解していた者が必ずしも多くはなかったことが本真偽論争の過程で明かとなった。
古田氏の言うところの大局の論証、すなわち次に示す「偽作説成立」のための根幹的論点に対して、偽作論者は今日に至るまで回答できなかったし、また将来においても不可能であろう。
一、偽作に要する大量の明治・大正時代の紙(大福帳など)をいつどこから入手したのか。
二、和田家文書に採録された古今東西の膨大な伝承群に関する知見をいつどのように入手したのか。
三、膨大な量の文書を毛筆で書き、かつ製本する作業を、近隣の村人から知られずに戦後何十年も続けることが、どのようにしたら可能なのか。
四、和田家が収蔵している膨大な遺物・古美術品をどこから入手したのか。
五、戦後間もなく、地元の研究者により和田家文書が研究・発表されている事実をどのように説明するのか。
これら偽作説成立のために必要不可欠な論点に応えられないまま、そして、再写文書・書き嗣(つ)ぎ文書という、和田家文書の史料性格への正確な認識を欠いたまま続けられている偽作論は、やはり学問的に成立困難なのである。と同時に、これら偽作説成立の根幹にかかわる論点がなに一つクリアーできない以上、和田家文書は真作と見なさざるを得ない、これが学問の方法論と論理が指し示す到達点なのである。「論理の導く所へ行こうではないか。たとえそれがいずこに至ろうとも。(ソクラテスの意、岡田甫(はじめ)氏による)」
(こが・たつや 古田史学の会事務局長)
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秋田孝季奉納額の「発見」「和田家文書」現地調査報告(古田史学会報 創刊号)
偽書説と真実 真偽論争以前の基礎的研究のために
寛政奉納額鉄剣に銘文 寛政元戊酉八月自 鍛冶 里原太助(古田史学会報 第二号)
『和田家文書』現地調査報告 和田家史料の「戦後史」(古田史学会報 第三号)
和田家文書と考古学的事実の一致『東日流外三郡誌』の真作性(古田史学会報 第四号)
寛政宝剣額の論理 江戸時代の「藩」表記について(松田弘洲氏の偽作論に反論する)(古田史学会報 第五号)
「山王日吉神社」考(1)日吉神社 社殿は江戸時代に存在した(古田史学会報 第六号)
「山王日吉神社」考(2)明治の神仏分離と日吉神社の変遷,「民活」偽作論の虚妄(古田史学会報 第七号)
『新古代学』のすすめ「平成・諸翁聞取帳」起筆にむけて(古田史学会報 第八号)
「山王日吉神社」考(3)菅江真澄は日吉神社に行っていない(古田史学会報 第八号)
『平成・諸翁聞取帳』天の神石(隕石)編(古田史学会報 第十号)
山口家文書「庄屋作左衛門覚書」考 和田家文書は孤立していない(古田史学会報 第十一号)
「山王日吉神社」考(4)宝剣額偽造説の変節 和田家文書『武州雑記帳』の史料状況(古田史学会報 第十三号)
和田家文書と秋田家(古田史学会報 第十九号)
昭和二九年東奥日報に掲載 和田家資料(出土物)公開の歴史(古田史学会報 第二十三号)
“カメ”(犬)は「外来語」か『東日流外三郡誌』偽作説と学問の方法(古田史学会報 第四十七号)
寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)
和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判(『古代に真実を求めて』第2集)へ