和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判ーー筆跡学から「偽鑑定」を正す3 古田武彦

寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)

知的犯罪の構造「偽作」論者の手口をめぐって(『新・古代学』第二集 特集1 和田家文書の検証)


古田武彦懇談会 二〇〇三年一月十八日

死せる和田喜八郎氏

生ける古田武彦らを走らす

 それでは、季刊『邪馬台国』(七十七号 二〇〇二年九月号)を、資料としてお持ちしました。

インターネット事務局2003.7.31
 季刊『邪馬台国』七十七号 二〇〇二年九月号からの引用です。図は省略。に*・れ*は、異体字です。表示できません。図及び異体字は、今回の説明に直接関係ありません。引用した『東日流外三郡誌』(八幡書店)は文化地誌篇です。

死せる和田喜八郎氏
生ける古田武彦らを
走らす

 現代通用の「ひらがな」ばかりが
 用いられている

 古田武彦や古田武彦に追随する人たちは、いまだに『東日流外三郡誌つがるそとさんぐんし』が、「偽書ではない」というキャンペーンをつづけている。ほんとうに、どうなっているのだろう。
 『東日流外三郡誌』をみれば、たとえば「ひらがな」が、一字残らず現代通用の「ひらがな」で書かれている。図一に、その例を示す。
 こんな江戸時代文書が、あるはずがない。あるというのなら、『東日流外三郡誌』以外に、そのような江戸時代文書の例を、示していただきたい。

こいしきや都に咲いた吾が想い
   京師に通ふ出船またるる


りんどうの花しぐれのたそがれに
 東日流に冬の
    近きをぞ知る


けはふとも道を求めて中山の
  雲居にかかる
     すずかけの幹


雨乞の祈りはすれど
     雨降らず
  ごみそあしたに
   のばす神告

図1『東日流外三郡誌』の「かな」は現代用いられている「かな」と同じものばかりである。(事例は、八幡書房刊『東日流外三郡誌』による)

 

數田年治の『音韻啓蒙』

 例をあげよう
 明治七年(一八七四)に、數田年治の『音韻啓蒙』という本が刊行されている。
 図2の『音韻啓蒙』のはじめの部分を示した。
 明治のはじめに印刷された本ですら、現代のふつうの人が、すらすらと読めるものではないことがわかろう。それは、漢字は、ほぼ現代と同じであるが、「かな」が。現代とは、かなり異なるからである。
 たとえば、見出しの、「正音五十に定(さだま)れりと云事(いうこと)」をみてみよう。
 現代、「に」という「かな」には、「仁」の字の草書体からきた「に」の字しか用いない。しかし江戸時代から、明治のはじめごろは、「尓」の字の草書体からきた「に*」の字が、かなり用いられていた。
 また、「れ」という「かな」には、現在は、「礼」の字の草書体からきた「れ」しか用いない。
 しかし江戸時代から、明治のはじめごろは、「連」の字の草書体からきた「れ*」の字が、かなり用いられていた。
 『音韻啓蒙』の本文の第一行の、「正音は上古より、五位十行に定(さだま)れりけるを、何(いつ)の程より混初けむ。」のところでも、「は」「に」「れ」「け」「る」などで、現代とは、異なる「かな」が用いられている。
 ところが、『東日流外三郡誌』では、現代通用の書体の「かな」ばかりが用いられている。
 江戸時代の「かな」を知らないレベルの低い現代人が、捏造している。

図2 『音韻啓蒙』のはじめの部分。<略>
図3 『古事記伝』の書き出しの部分。<略>
図2 図3を常用漢字、現代「かな」で記したもの<略>

 それでも、『古事記伝』『音韻啓蒙』は、「に」に「に*」を用い、「れ」に「れ*」を用いるなど、共通のかなを、かなり用いている。
 『東日流外三郡誌』は江戸時代の文書を見慣れた人ならば、ぱっと見ただけで、「ニセモノ」とわかる資料である。くりかえす。現代のふつうの人が、すらすらと読める江戸期の文書があるというなら、一例でもよいから、その事例を示したうえで、「真書説」を主張していただきたい。
 『東日流外三郡誌』論争は、論争というには、あまりにばかばかしいレベルの低い議論である。

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 以上、これで全部です。どこかで見たような見出しです。
 これは、もう私どもから見れば非常にレベルの低い話だ。(笑い)レベルの低いのは私どもではなく、安本美典氏の方が非常にレベルが低い。
 なぜかと言いますと、まず安本美典氏の方は、現存する『東日流外三郡誌』(明治写本)の史料の基本性格を理解していない。これは寛政原本というのが未出ですが、これが元になっています。江戸時代の寛政年間十八世紀末から十九世紀初めにかけて、秋田孝季とその弟子の和田吉次、そして妹のりく、この三人が作ったものを仮に古田が「寛政原本」と名づけたものです。これに対して、「明治写本」と言われるものが作られた。これは転写本で、明治・大正と昭和十年ぐらいまで、かかっています。作った人は和田末吉さん、その子供の長作です。なぜ、この二人が「明治写本」を作ったかと言いますと、寛政原本がかなり古びて破損してきたということもあります。ぼろぼろになって醜くなってきたということが理由の一つです。別の理由は、寛政原本は、明治の人にはやはり読みにくくなってきた。それで明治以降の人にも読みやすい文書に書き換え改める。一般の人に流布させるために読み変える。これが大きな目的になっている。つまり現代のコピー機の変わりになって、そのまま写すという写本。本当はそのほうが有りがたいのですが、そうではないので転写本です。
 このような本は、例がたくさんありまして、たとえば親鸞の『教行信証』でも、かなり早い時期に読み下し本が、世に出ております。『教行信証』そのものは漢文で書かれております。残念ながら一部分しか残っていませんが、確かに読み下し文で書かれたものがある。これは『教行信証』を漢文で読もうとする気はないが、読み下し文なら読んでみたいという人がいる。その人たちのために、読み下し文にしようとすることは、決して悪いことではない。
 同じように江戸時代の文書は、一般の人には読みにくくなってきた。ことに明治以後の教育を受けた人には読めないところが出てきた。だから明治以後の読みうる「かな」に写しましょう。そういう意味の転写本。「明治写本」は、そのような性格をもっている。これは、ただわたしが言っているばかりではなく、読んでいると「原漢文」と書いた読み下し文がたくさん出てくる。言葉で書いてあるばかりでなく、その読み下し文が漢文と違っている箇所がある。わたしは漢文が好きなので「原漢文」は、こういう漢文でないか。それを彼(ら)は漢文になれていないから、読み違って書き写している。そう考えると解けてくる読み下し文がある。彼(ら)の漢文理解の程度によって、読み下しを間違いながらも一生懸命作っている姿がある。そういう史料が「明治写本」です。正確には、明治・大正・昭和写本です。このような基本性格の「明治写本」に対して、江戸時代の文字が書いていない、けしからんと言うこと自体が、史料性格の読み違いである。史料の基本の性格を見失っている。基本認識が違えば結論が全く違ってくるのが当然である。これが簡単な第一の論点です。

 次に、この結論に対して、それはいちおう論理だから古田がそう言うのは勝手である。それは解釈に過ぎないと言う人が出てきても良いのですが、それにたいして実証的に明らかにするのが次の問題である。

 ここにあげられている文書を見れば、たしかにおかしいと、現代の普通の教育を受けた人はおかしいと思う。(しかし、それが問題であることを示します。)
 ここに出てくる先頭の文書。「こいしきや都に咲いた吾が想い 京師(みやこ)に通ふ出船またるる」ですが、旧かなづかいでは「こいしき」は「こふしき」。「咲いた」は旧かなづかい・文語では「咲きたる」でしょうね。「通ふ」は旧かなづかいで、これで(かれらにとっては)良いのでしょう。今のかなづかいでは「い」です。また「またるる」は旧かなづかい。つまり旧かなづかいと、今のかなづかいが混用されている。
 次の「りんどうの花しぐれのたそがれに 東日流に冬の近きをぞ知る」もそうです。「りんどう」は旧かなづかいでは「りんだふ」である。後は旧かなづかい。
 三番目の「けはふとも道を求めて中山の 雲居にかかるすずかけの幹」の、「けはし」の「は」は、旧かなづかいの「けわし」の「わ」の代わりの「は」。後は今のかなづかい。
 最後の「雨乞の祈りはすれど雨降らず ごみそあしたにのばす神告(かみのり)」ですが、「祈りは」の「は」は、旧かなになっていない。

 要するにこれらの文は、旧かなと新かなが混用されている。これはインチキだ。江戸時代の文章だったら、旧かなづかいでなければならない。おかしい。これが季刊『邪馬台国』七十七号で、書いている人の言い分です。たしかに、ここに揚げてある本居宣長の『古事記伝』や數田年治の『音韻啓蒙』は、旧かなづかいばかりです。
 しかしその時に、安本美典氏らは理解していないことがある。何を理解していないか。これらは復古文だ。古に復帰する復古文として本居宣長の『古事記伝』は書かれている。數田年治の『音韻啓蒙』も同様に書かれている。この知識は高校の国語で漢文を教える教師の基本的な知識である。ですが江戸時代の人は皆復古文で、文を書いていると考えたら、それはとんでもない話です。今、その例を挙げておきます。

好色二代男(井原西鶴作 岩波古典文学大系)
「さては、いかなる太夫さまあい給ふもしらず。御口説のうち、賎しき我などに」と、思ひ念切れて、下男の団介を頼み、「御行方、忍びて、いずく迄も見まいらせよ」といふ。・・・
・・・「あれは去る御方の奥さまなるが、御つれあいに離れさせ給ひて、御ぐしなども切せ給ひ、世に替りたる御物数奇(ものずき)。心まかせの御身とて、鏡袋にこんな物を大分いれて、御気にあい申(まうす)者には給(たまは)る。」と、一歩一合あまり見せける。
・・・
・・・
 遊女の身程、大事に悲しき物はなし。請覆す酒にうわがへの妻もいとはず、大奉書を用捨もなくつかはれ、町からの太鼓持にさし櫛をとられ、なじみも

 ここでは、「あい」は、旧かなづかいでは「あひ」となります。ここでは旧かなづかいと新かなづかいが混用されている。
 また次の文の「うわがへ」は、旧かなづかいでは「うはがへ」と「は」でなくてはいけないが、「わ」になっている。次の「つかはれ」は旧かなづかいです。
 ですから、この『好色二代男』では旧かなづかいと新かなづかいが混用されている。これが江戸時代の実態です。しかし学校で教えるときは教えにくいので、現代語として新かなづかいを教え、文語として旧かなづかいを分けて教えている。要するに整理して、どちらかに分けて教えている。現実の江戸時代は、旧かなづかいと新かなづかいが、混用されている。それを、昔は全部古文で書いているのだ。庶民も復古文を使っていたと思い込んでいる。

 だから、現在の出来の悪い奴が、現代文は新かな、古文は旧かなと知らない奴が書いた。けしからん。しかし、そのように考えることこそ、これらの文が本物の証拠だ。現代の人が、旧かなづかいと新かなづかいがあることぐらいは、少し習えば、それくらいのことは分かる。しかし江戸時代庶民は、旧かなづかいと新かなづかいの混用だった。それに対して宣長のような知識階級・インテリは、そのような庶民のような混用を否定して、復古文と称して平安時代の再現のような新しい文章を作った。それを思い込んで引用して『東日流外三郡誌』を批判した気分になっている。

 ですから、人を批判するときは、よく調べてみることである。今のことは、特別の話ではないから、少し勉強すれば分かることである。今の言語学者に聞けば、直ぐに教えてもらえる。それを勉強しないで人を揶揄する。死んだ人をそれこそ辱める。そのような文章を書いている。非常におそまつ。こういうお粗末なきわまりない方法で『東日流外三郡誌』を否定したために、今日も『東日流外三郡誌』がリアルであるという話が幾つか出てきたような貴重な記録、それをみんな足蹴にする。まして今日言いましたように、日本人の祖先の人々の一つである粛真・靺鞨の言葉が、記録されている。このような重大な問題にも全く無知である。『古事記』『日本書紀』での話しか信用しない。このような皇国史観で、歴史を捕らえている。
 このようなことに時間を割くのも、時間の無駄のような感じですが、せっかく名前を出していただきましたので、お答えました。

 ついでに参考に、我田引水ですがあげさせていただきます。下の例です。
 『親鸞思想』(ーその史料批判、明石書店)、これのわたしの中心的な研究の例です。これは歎異抄の各写本のかな使いを比較したわけです。蓮如本と言われる蓮如が書き写した本が一番古い本で、永正本や龍谷本などが後の室町から江戸の時代に書き写した本である。蓮如本は室町という一番早い時期の本です。
 そこを比べて見ますと、一番目には「オモムキ」という言葉が五回出てきますが、永正本ではワ行の「ヲ」、龍谷本ではア行の「オ」となっています。ところが一番古い蓮如本では、ア行の「オ」と書いてある。ところがなんと蓮如の自書自筆本では、つまり自分の奥書や手紙の文書では、ア行の「オ」と書いている文とワ行の「ヲ」を書いている文と、混用で出てきます。ですから蓮如自身は混用の文書を書いています。しかし歎異抄を書き写すときは、原文がア行の「オ」となっていたから、「オ」とそのまま書き写しています。自分の流儀で文書を書き直していない。これが蓮如本の良いところです。
 次の「オコリ」では、永正本ではワ行の「ヲ」、龍谷本ではア行の「オ」、蓮如本ではワ行の「ヲ」です。以下、十三番目まで、全部比べている。
 ですから、これを季刊『邪馬台国』七十七号の目で見れば、『歎異抄』蓮如本は偽作ということになりませんか。これは大変失礼な話になるのではないでしょうか。

以上で、この問題を終わらせていただきます。


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