和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判(『古代に真実を求めて』第2集)へ
「偽作」論者の手口をめぐって
古賀達也
昨今の『東日流外三郡誌』偽作キャンペーンというものは、まことに奇妙な現象である。『東日流外三郡誌』をまともに読んでもいない人々が、あるいは直接会って聞き取り調査もせずに、虚偽情報あるいは誤情報に基づいて、その所蔵者を偽作者と名指しで批判する。そしてそれをマスコミや雑誌が拡大再生産する。このようなことが学問として許されるのであろうか。
一例をあげよう。偽作論者は『東日流外三郡誌』に見える「民活」という用語を「民間(企業)活力」という現代語の略語であるとし、それをもって現代人による偽作の根拠とする。その後は、別 の偽作論者により「民活」の存在が偽書の根拠として無批判に使用され、それを読んだ一般読者は『東日流外三郡誌』の内容さえ知らぬまま「偽作」として自らの知識にインプットするという具合いである。
問題の「民活」という用語は『東日流外三郡誌』八幡書店版第一巻百五十五頁に見える。
阿蘇辺一族とは、津軽の最古民にしてその種姓は西大陸よりの渡民なり。
津軽の国は当時、山海の地理よく、狩漁の幸は住むる民の飢えを能く保てり。然るに、寒処なりせば、津軽中央なる阿蘇辺平野に地湧く温泉の辺に集ふて、冬を過す民を阿蘇辺一族と曰ふ。
一族の暮しは、占が総ての民活に要となり、その導者は君主なる坐に存す。(後略)
(『東日流外三郡誌』総集篇第六巻所収 「津軽阿蘇辺一族の滅亡」)
この文章で「民」とは文字通り「民衆」「人民」の意で使用されており、問題の「民活」も「民の生活」といった意味にしかとれない。これを「民間企業の活力」などとしたら、文脈が意味不明となろう。ようするに「民心」とか「民生」とかと同様の用例なのである。意訳すれば、次のようであろう。
「阿蘇辺一族の暮しぶりは、人々が生活する上で占いによる判断が要となっており、そのため占い師が一族を統率する君主となる。」
占い師や祈祷師がシャーマンとして一族に君臨することは、邪馬壱国の女王卑弥呼を持ち出すまでもなく、古代史ではよく知られていることだ。このように、何ら問題無い文章や用語を、勝手に現代語の「民間活力」の略語と誤断し、偽作の「根拠」としてしまう。もはやあきらかであろう。おかしいのは『東日流外三郡誌』ではなく、偽作論者の「理解」の方だったのである。しかし、偽作論流通の過程で、根元の誤解は表面に現れないまま、「民活」イコール「民間活力」だから偽作、という誤った「結論」だけが一人歩きしているのである。ここに、当偽作キャンペーンが持つ社会現象としての恐ろしさを感じるのは私一人だけではあるまい。学問の方法と論理がゆがんでいるのだ。
より決定的な論点を述べよう。現代経済用語としての「民活」の成立よりも、『東日流外三郡誌』の「民活」の方が「出現」が早いのである。なぜなら、経済用語の「民活」が世間に流布したのは昭和五五年頃以降であるが、それに対して『東日流外三郡誌』約二百冊は昭和四〇年頃には既に藤本光幸氏の手元に来ていたし、「民活」が記されている「総集篇第六巻」は昭和四六年頃から市浦村史版『東日流外三郡誌』が発行された昭和五〇年までには、市浦村史編集委員会に渡っているのである。その証拠に市浦村史版『東日流外三郡誌』上巻には、「総集篇第六巻」に収録されている「津軽無常抄」などが掲載されている。「民活」が記された「津軽阿蘇辺一族の滅亡」が市浦村史版に収録されていない理由は不明だが、「総集篇第六巻」が市浦村にわたっていることは確実である。従って、藤本光幸氏の証言からも、市浦村史版に掲載された「総集篇第六巻」の記事の存在からも、『東日流外三郡誌』の「民活」の方が先であり、真似しようにも世間では「民活」なる現代経済用語はまだ存在していなかったのだ。このように「民活」偽作論はその「論拠」が根底から狂っていたのである。
さらに今回の偽作キャンペーンは、偽作者と名指しで中傷されている所蔵者や関係者たちへの直接調査を欠いたまま、「欠席裁判」の如く続けられているのもその特徴の一つだ。しかも、偽作説に不利な証言をする者は偽作の「共犯」とみなされ、それらの証言は「第三者としての客観性を持たない」という「理由」で無視ないし軽視されるのである。一旦こうした方法が許されるなら、誰でも「有罪」にできよう。偽作論者もそろそろ自らの行為のおかしさに気付いてもよい頃と思うのだが、首謀者たちの真の狙いは古田武彦叩きと古田史学(多元史観、九州王朝説など)つぶしであろうから、彼らの良心に期待すべきではない。当真偽論争の本質が、和田家文書問題を利用した古田説「支持者」をも取り込んでの一元史観側からの古田史学(多元史観)への攻撃にあることを、偽作論者は今や隠そうともしていない。
幸いにして私は和田家文書(明治大正写本)を実見する機会を得たし、所蔵者や関係者とも率直に意見を交わすことができた。その結果、『東日流外三郡誌』は和田喜八郎氏の偽作では有り得ないという結論に至った。同時に、偽作論が当初の誤認・誤解という初歩的な段階から、虚偽情報や情報(史料)操作という手段を選ばぬ確信犯的段階に達していることが、日々、明白となってきたのである。本稿において、読者はそうした偽作論者による赤裸々な情報操作、虚偽情報の正体と「冤罪」発生構造を知るであろう。学問と真実と未来のために、そのことを書き残すものである。
『季刊邪馬台国」五一号において、和田家文書偽作論が特集されている。同特集中に古文書・古典に関する誤解による誤った論断が含まれている。「『東日流外三郡誌」の内容分析」次のようなリード文がある。たとえば同誌六〇頁、という特集記事冒頭に
「はへ(蝿)」と書くべきものを、「はえ」と現代表記し、「想ひ」と書くべきものを、「想い」と書く。「黄」「徳」「諸」「彦」などの現代の常用漢字を用いている。このていどの粗雑な内容のものを古文書だと信じこんで、『東日流外三郡誌』を強く吹聴している大学教授たちの頭脳構造は、いったい、どうなっているのだろう。
以上のようなリード文に続いて、具体的な偽書の根拠として歴史的仮名使いと異なっている点や、係り結びが間違っている点などを指摘され、「江戸期や明治期の人が書いたのであれば、間違うはずがない初歩的な誤りが多い」と結論づけられている。だから現代人が書いた偽書だと展開されるわけだが、これは中近世文書の実体を無視した暴論である。歴史的仮名使いと異なる用例は枚挙に暇がないほど多い。ためしに岩波古典文学大系『御伽草子』をひもといてみればよくわかる。編者による()書きの注(歴史的仮名使いによる改定文字)がいたるところに記されている。さらに『御伽草子』「文正そうし」の三〇頁頭注(六)には次のような指摘が岩波の編者によりなされている。
「こそ」を受けて「べけれ」とあるべきところ。御伽草子では、係り結びは往々くずれている。以下この類は多いが、一々注記しない。
岩波の編者によれば係り結びが混乱した例が多いということである。したがって、歴史的仮名使いと異なっていることや、係り結びが誤っていることは必ずしも現代に偽作された根拠とはなり得ないのである。安本美典氏がこうした史料状況をご存じないとは思えないのだが、まことに理解に苦しむところである。ちなみに歴史的仮名使いと異なる用例は日蓮などの中世文書においてさえも少なくない。次に、より驚いたのが「常用漢字」使用の問題である。同誌によれば江戸期・明治期の旧漢字ではなく現代の常用漢字が使用されていることも偽書の根拠とされている。同誌で指摘されている漢字について管見のおよぶ範囲で検討したところ、この編集部は古文書を見たことがないのではと思うほどの内容と言わざるを得なかった。例えば次の通りだ。
(1)「者」「諸」
「者」「諸」の字が常用漢字だから偽書ということらしいが、これなどは「ヽ」が付いている旧漢字を捜す方が難しいぐらい古代から近世までの史料に「常用漢字」が使用されている。有名な例では法隆寺の釈迦三尊像光背銘に「者」も「諸」もあるから見ていただきたい。どちらも「常用漢字」である。
(2)「徳」
これも同様だ。正倉院文書などの写経中に「功徳」などの単語で頻出する。これなども「常用漢字」が少なくない。もちろん近世文書(江戸・明治)にもいくらでも使用されている。
(3)「彦」
北部九州には「猿田彦大神」と記された江戸期の金石文(石碑)がゴロゴロしている。私はそんな中で育ったから断言できる。とりあえず、古い例を一つだけあげる。丹後籠神社蔵の「海部氏勘注系図」(国宝)中に「彦」の字があっちこっちに使用されている。もちろん「常用漢字」の「彦」である。この国宝に現代の「常用漢字」の「彦」が多数使用されているから現代人が作った偽書だという論者がいれば顔を見てみたいものである。
(4)その他
以下、同誌に指摘された「常用漢字」の内、古文献や金石文に使用されている例を管見の範囲でなるべく古い使用例を一つずつ紹介する。もちろん、江戸期にも使用されていることは言うまでもない。
「霊」 「大般若波羅蜜多経」神亀五年長屋王願経に見える。
「鋳」 『伊呂波字類抄』「鋳銭司」の項に見える。
「為」 「威奈大村骨蔵器」に見える。
「黄」 「東大寺獻献物帳」大小王眞蹟帳、天平宝字二年、に見える。
「横」 「宇治橋断碑」に見える。
この他にも、いくつか出典不明だが古文書に見える字がある。最後に「陽」の字について述べる。つくりの横棒が一本足りない(易)のを誤りとされているが、これは誤りというよりも略字・異体字の類であろう。『古事記』伊勢本序にも同様の「陽」が見えるし、「東大寺献物帳」天平勝實八歳にも見える。「得」のつくりの横棒が一本足りないケースもある(福岡県糸島郡「雷山縁起」江戸期写本に見える)。こうした異体字の類の存在は文献史学では常識である。誤字なのか「異体字」なのかは慎重な判断が必要であろう。
以上、数点にわたって批判したが、この程度の事例を偽作の根拠にあげるようでは、大学教授としての「頭脳構造」を疑われるのは、安本氏の方ではあるまいか。明治以後の近代国家が、数ある「字形」の中から選択した「公認の字形」のみ正しく、国家の公認から漏れた字形は誤字と理解するのは、受験では通用するかもしれないが、歴史研究には通用しない。このような「受験教養」レベルの論難が偽作論には少なくないが、一般読者への誤った知識の流布も含めて、和田家文書にとって不幸な「真偽論争」であった。
さらに、和田家文書偽作説の根拠の一つに、現代語表記が存在するという指摘が安本美典氏や斎藤隆一氏からなされている。この指摘について、古田武彦氏は現代に使用されている言葉がどの時代に成立したのかは難しい問題であり、江戸時代には使用されていなかったと簡単に言えるものではないと反論されている。また、現在出ている和田家文書は明治・大正期においても再写・改写されたものであり、明治・大正の認識で書き改められたり、その時代の用語が使用されている場合もあろうとされている。
たとえば、『季刊邪馬台国』五一号にて「バイカル湖」「モンゴロイド族」などの表記が江戸の寛政六年(一七九四)の文書に出てくるはずがない、とされているが、少なくとも「バイカル湖」は江戸時代には既知の名前である。同表記(しかもカタカナで)が文化四年(一八〇七)に成立した『環海異聞」に見える。あるいは寛政六年(一七九四)に成立した『北槎聞略』にも見える。寛政頃はロシアとの交渉が頻繁に行われた時期であり、東北地方では人々の間でロシア語の歌や言葉が交わされていたという記録もある(菅江真澄日記)。
このように、現代語と指摘された他の表記も江戸期に使用された可能性は高いと思われる。しかし、より本質的には、ある用語がどの時代に成立したかは、よほど恵まれた場合しか証明できないのである。同様に、「その時代には使用されていなかった」などという論証はきわめて困難なのだ。その逆の「使用されていた」という場合は、一例でも史料にあることを証明できれば可能である。「不存在」という論証困難な作業仮説程度のものを偽作説という仮説の「根拠」にするなどとは、およそ学問の方法や論理が理解されていない証拠である。もっとも偽作論者のいう「不存在」とは、自らの知識の「不存在」ではあるまいか。
新人物往来社の別冊歴史読本『「古史古伝」論争』に掲載された安本美典氏の論文「『東日流外三郡誌』は現代人制作の偽書である」に次のような指摘がなされている。
和田喜八郎氏は、「木作新田奉行和田壱岐」の布令の「文書」などを示すが、「木作新田奉行」(現在、青森県木造町)なるものは存在しない。存在したのは、奉行所ではなく「木作代官所」であった。
安本氏は津軽藩史、あるいは青森県近世史をご存じないようだ。このような誤った東北の「歴史」を正すため、以下、知るところを述べる。
(一)津軽藩は新田開発のため各地に「新田奉行」を置いた。
津軽藩は新田の開発のために初代から明治初年まで、一部の中断期間を除いて、藩をあげて新田開発に力を注いでいる。そのための組織として開発地に新田奉行を置いた。参考までに『青森県の歴史』(宮崎道生著)の当該部分を引用しておく。
御蔵派は、古知行開発のできない土地に対する開田策で、新田奉行を任命して監督させ、堰奉行・普請奉行を置いて水利面を担当させ、“人寄役”を設けて他領からも百姓呼び寄せて実施したものである(同書一五〇頁)。
(二)木作にいた新田奉行
『青森県史・第二巻』に引用されている『要記秘鑑」の寛政二年十一月九日条に「広須組木作新田普請奉行平澤吉三郎」という記事が見える。さらには『津軽史・第三巻』(青森県文化財保護協会発行、昭和四十九年)の「木造」の項に掲載されている文書に、「其頃(天和二年、一六八二年。古賀注)新田奉行ハ一丁田権之進建雄相勤候也」と木造新田奉行の存在が記されている。このように、木作では新田開発が行われており、そのために新田奉行が置かれていたことがわかる。なお、新田奉行と代官所は職掌が異なり、両者が並存することも当然考えられる。
(三)「木作代官所」について
木作には確かに代官が置かれていたが、厳密に言うなら元禄頃に広須組から木作新田が分離するまでは広須の代官が木作村に存在していたので「広須代官」と呼ばれるべきものであろう。
元禄頃(一六八八〜一七〇四)以降は木作新田が分離したので、広須と木作新田の両組の代官が木作村に並存していたようである。この時期であれば「木作代官所」という表記も成立する。ただし、安本氏が指摘された和田家文書が具体的にどの文書を指すのか不明なので、正確には判断できないが、おそらく『真実の東北王朝』に掲載された『天草軍記』末尾の「津軽藩布令覚書」のことと想像するが、同文書は「寛永十五年」(一六三八)と年代が記されているので、書かれてある通り「木作新田奉行」で正しく、むしろ「木作代官」とある方が疑わしいのである。また、この寛永年間頃、津軽藩は広須地域で新田開発に力を入れていた時期であることからも、木作に新田奉行がおかれていたことは間違いないと思われる。なお、同和田家文書には「木作新田奉行」とあって、安本氏が示す「木作新田奉行所」などとは記されていないことを念のため指摘しておく。
以上の史料事実が示す通り、「木作新田奉行」は存在しており、そのことをもって和田家文書偽作の根拠とはできないのである。この偽作論は先の「受験教養」レベルの偽作論よりも、生半可とは言え、地方史の知識を利用(誤用)した点において、若干、「高等」だが、地方史辞典類の簡略化された記述内容を無批判に誤用する方法論は、受験参考書を無批判に信用することと同様の誤りをおかしているとも言えよう。
これは、「和田家文書と考古学的事実の一致 」 ーー『東日流外三郡誌』の真作性 古賀達也 古田史学会報(1994年12月26日 No.4)の方が詳しいのでリンクします。
ーー『季刊邪馬台国』の詐欺的編集を批判する
本会報創刊号にて、私は松田弘洲氏の偽作論(歴史読本別冊『古史古伝論争』所収、「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」。一九九三年十二月発行)などを批判した。中でも、松田氏が「江戸時代に津軽藩とか、三春藩などと称することはなかった。読者も手元の辞典を引いて、大名領をいつから“藩”と称したのか確認したらよろしい。」として、『東日流外三郡誌』に「藩」表記が見えることを偽書の根拠とされたことに対して、次の反証批判を行った。
1. 吉田松陰書簡などに「藩」表記が見える。
2. 秋田孝季と同時代の「藩」表記として『耳嚢』の例がある。
3. 『角川日本史辞典』によっても、「藩」という呼称は江戸中期以後より成立し、公称としては明治政府により始まるとされている。
4. 松田氏は「公称」として成立した明治期を、実際に使用され始めた時期と勘違いされている。
5. よって、「藩」表記が見えることをもって、和田家文書偽作の根拠とはならない。
このように述べたところ、『季刊邪馬台国』五十五号で松田氏より反論(「やはり『古田史学』は崩壊する」)がなされた。結論から言うならば、氏の反論は全く反論の体をなしていないのだが、同論文中に挿入されている「編集部註」に、偽作キャンペーンのためには手段を選ばぬ同誌編集部の姿勢がよく現れているので、この点について読者に紹介し、批判することにする。
江戸期に「藩」表記は成立していたとする私の批判に対して、松田氏は次のように言われる。
「私は『公称としての藩』を問題にしたつもりです」
ようするに、江戸期の私的な「藩」表記ではなく、明治より始まった「公称としての藩」の方を問題にした「つもり」と言われているのだ。しかし、私が批判した歴史読本の松田論文には「公称として」などとはどこにも書かれていない。見苦しい言い訳である。
しかし、これでは「言い訳」にもなっていない。何故なら、「公称としての藩は明治から」という論法では、『東日流外三郡誌』偽書説の根拠には全くならないからだ。すなわち、『東日流外三郡誌』が江戸幕府の公文書ならともかく、津軽の民間で成立した同書に対しては、「公称、私称を問わず江戸期に藩表記はなかった」としなければ偽作の根拠とはならないのである。現に当初松田氏はそのように理解(誤解)したからこそ、『東日流外三郡誌』に現れる「藩」を偽作の根拠としたのではなかったのか。このように、松田氏の弁明は論理にさえなっていない。
さらに松田氏は吉田松陰書簡の「藩」に対して、「維新回転」の松陰思想の時代(幕末)なら私的な「藩」表記はありうるともされている。ようするに、『東日流外三郡誌』成立時期の寛政年間(1789〜1800)では「藩」表記はありえないと言いたいのであろうが、私は最初の論文で「いくらでも『藩』表記は見られる」と述べたはずだ。いくらでも見られる江戸期「藩」表記の他の例を紹介しよう。
1. 「藩邸」(新井白石『折たく柴の記』正徳六年<1716>頃成立、自筆原本伝存)
2. 「賢藩(加賀の前田家:古賀註)」「加藩(加賀藩:古賀註)」(新井白石書簡、『白石全集』による)
3. 「藩邸」「我藩」「藩士」「藩医」(杉田 玄白『蘭東事始』文化十二年<1815>成立、文政頃の写 本伝存)
まだまだいくらでもあるが、これで十分であろう。やはり「藩」表記は幕末からではなく、江戸中期からであり、それもかなり一般化していたようである。よって、松田氏が「『藩』という表記は江戸時代に用語として熟していなかった」とされるのは、はっきり言って氏の勉強不足である。
秋田孝季と同時代の「藩」表記例として根岸鎮衛(1737〜1815)著の『耳嚢(みみぶくろ)』八〜十巻に見える「藩」を紹介したが、松田氏は同書は十巻一揃いの伝本は存在せず、六巻と八〜十巻は明治期刊本が底本である、したがって活字化された明治時代の人の手によって「藩」表記が入ったのではないかとされ、「その点、よくお調べ下さい」と反論された。
氏に言われるまでもなく、江戸期の表記例として紹介する以上、その史料が江戸期写 本に基づいていることは当然調べていた。ところが氏が参考にされた東洋文庫本『耳嚢』(平凡社、一九七二年発行)編注者鈴木棠三氏の解題は、現時点では反論の根拠として適切でないことを松田氏はご存じなかったようだ。
私が紹介するに当たって依拠した『耳嚢』は、現在知られている諸本中唯一の十巻完備本であるカリフォルニア大学バークレー校所蔵本(旧三井文庫)を底本として刊行された岩波文庫本(一九九一年発行)である。同書解題(長谷川強氏)ではバークレー校本が善本であることを記している。また、書写時期は天保頃から幕末にかけてであり、江戸期「藩」表記の例とすること全く問題ない写本なのである。ここでもまた、氏の勉強不足が露呈したようである。
『季刊邪馬台国』での松田氏の肩書は「『東日流外三郡誌』真相究明委員会会長」とある。大いに真相を究明していただきたいものだが、どうやら氏はその『東日流外三郡誌』さえもまともには読んでおられない節がうかがえる。というのも、私が『天草軍記』末尾の「津軽藩布令覚書」に「寛永十五年」の年代が記されているとしたことに対して、書かれてもいない年代を古賀が捏造したと論難されたのだが、松田氏は古田氏の著書(真実の東北王朝)に掲載された同布令の写真しか見ておられず、同布令覚書の全文が掲載されている『東日流六郡誌大要』(八幡書店)を読んでおられないようである。『真実の東北王朝』掲載の写真は同覚書の後半部分であり、前半部分には「寛永十五年」の年次が記されているのである。氏は批判の対象とした当該文書の活字本さえ読まず、その史料性格・史料状況を誤断されたまま「批判」を試みられ たのである。これでは結論を間違うのも当然である。
また、松田氏は次のようにも述べる。「活字になった『東日流外三郡誌』のどこに も、虫食いのために欠字となった部分は見当たらないのだ(これからは、虫食いのために 欠字となった外三郡誌というものが発行されるかもしれないが)。」(歴史読本「古史古伝論争」所収前掲論文)
この氏の主張は全くの虚偽情報である。既に発行された市浦村史版・北方新社版・八幡書店版すべてに、虫食いや破損などによる欠字が見られる。たとえば一番巻数が少ない市浦村史版にも次のページに欠字が存在する(欠字の理由は「虫食い」と明記したものもあれば、その他様々である)。
(上巻)三四・三五・九〇・一五二・二六二・二六三
(中巻)八三・二一三・二三五・二五六・二八一・三八二・四七一・五五七・六二三・六二六・六三五・六四〇・六四九
(下巻)一二四・一七五・二七六・二七八・二九六・三〇九・三二一・三三三・三九九・四一五・四一六・四一八・四二四・四二七・四三一・四三六
このように、随所に欠字が存在し、松田氏が『東日流外三郡誌』を読んでいればこれら全てを見落とすことは、まず考えられない。したがって、次のように断定せざるを得ない。松田氏は『東日流外三郡誌』をまともに読んでおられない、と。最近の偽作論者の諸論を読んでいて思うのだが、彼らは『東日流外三郡誌』をまともに読んでいないから、簡単に偽作論を唱えられるのではないか。和田家文書の刊本だけでもきちんと読めば、質、量ともに和田喜八郎氏が偽作できるようなものでないこと、明白であるからだ。松田氏も「『東日流外三郡誌』真相究明委員会会長」を名乗る前に、まず『東日流外三郡誌』をきちんとお読みになることをお勧めしたい。
さてここまでは本稿の導入部分であり、いよいよ本題に入ろう。『季刊邪馬台国』編集部は松田論文が反論の体をなしていないことに、実は気付いていたのだ。従って、松田氏を援護するため、論文途中に「編集部註」なるものを入れている。次の通 りだ。
[編集部註]
吉川弘文館刊の『国史大辞典十一』の「はん 藩」の項に、つぎのような文章がある。「江戸幕府が『藩』の公称を採用したことは一度もなく、旗本領を『知行所』というのに対して、一万石以上の大名の所領は『領分』と公称されていた。それに対して、徳川将軍家の大政奉還に伴う王政復古後、維新政府が明治元年(一八六八)閏四月、旧幕府領を府・県と改め、元将軍家を含む旧大名の領分を藩として、その居城所在地名を冠して呼んだとき、行政区画としての『藩』が生まれた。」(傍点編集部。つまり、公称としての「藩」は、天子が諸国に封じて自己を補翼せしめた諸侯を指す。)
「明治維新以後、幕末の勤王事蹟や旧制度の記述、その後の地方自治制度の展開に伴い『藩』の呼称が普及し、通 例、規模の大小に応じて国・郡・城下町などの地名を冠して用いられる。」
平凡社刊の『世界大百科事典二十五』の「はん 藩」の項は、つぎのような文がある。
「もとより幕府がそう(藩と)公称したのではない。藩が日本で一定の行政区域の表現とされたのは、明治維新当時だけである。」
ところが、「和田喜八郎文書」では、江戸幕府の役人である「代官 青沼源三郎」が、「享保二年(一七一七)」に書いたとされる「公文書」的なものに、「藩許是無く」とでてきたりするのである。(『東日流外三郡誌3』八幡書店刊、一八六ページ)
※()内は『季刊邪馬台国』編集部による註。<古賀>
引用が長くなったが、ようするに『国史大辞典』にも『世界大百科事典』にも、公称としての「藩」は明治からとされているので、江戸時代には普及していなかったかのごとく印象付けようとしているのだ。また、後半の「江戸幕府の役人」とか「公文書的なもの」とかは、その根拠が不明であり、明治大正期まで再写が繰り返された同文書の史料性格からしても、偽作と断定できるようなものではない。
問題なのは、編集部註に引用された二つの辞典の文章の前半部分が意図的にカットされていることだ。まず、『国史大辞典』の方は、直前に次の文章がある。
「はん 藩 近世大名領の総称、または明治新政府成立当初の地方行政区画の一つ。「藩」という漢字はもと「まがき」(栗の丸太の柵)、「さかい」、「まもり」を意味し、転じて中国周代の封建制度で、天子が諸国に封じて自己を補翼せしめた諸侯を指して藩輔・藩屏・藩翰・藩鎮などと称した。その先例により、江戸時代、江戸幕府に服属していた大名を「諸侯」、その領地もしくは支配組織を「藩」といい、幕府と大名の支配の仕組を「封建」と呼ぶならわしが、儒者の間から起った。新井白石が『藩翰譜』を編み、その編纂の次第や「藩邸」での出来事を『折たく柴の記』に記し、太宰春台が『経済録』で「封建の制」を説いたのは著名な例である。「親藩」「当藩」「藩士」「藩制」などの熟語や「水藩」「紀藩」「備藩」「長藩」などの固有名詞も普及していたが、」
このあとに「編集部註」の引用部分が続くのである。すなわち、「藩」の呼称が熟語・固有名詞ともに普及していたと明記されている前半部分を、きれいにカットしているのである。しかも、「〜していたが、〜」という前半を受けて後半につながる一連の文の途中でカットするという、かなり悪質な手口だ(同誌「責任編集者」の専門分野は犯罪心理学と聞いているが、こうした手口がその学問の「悪用」でなければ幸いである)。
このカットされた前半部分こそ、私が繰り返し論じてきた内容であり、松田氏への反論の根拠となる事実が記された文章なのである。したがって、『季刊邪馬台国』編集部はこの前半部分が松田論文にとって致命傷となることを知悉していたからこそ、読者の眼に触れないように詐欺的に「部分引用」したのである。
ことは『世界大百科事典』でも同様だ。カットされたその前半部分には次のように記されている。
「はん 藩 江戸時代、幕府権力の保障のもとに1万石以上の領地を与えられた大名とその家中および領分を総称して藩という。藩とはもと<まがき><まもり>の意味で、中国周代の封建制度において、中央朝廷の藩屏(はんぺい)としての諸侯を藩王・藩鎮などと呼んだのを知った漢学者が、それを日本の場合にあてはめて、大名を諸侯、その支配組織を藩といったのが一般化したらしいが、(以下、引用部分に続く)」
ここでも「藩」呼称が一般化したらしいと明記されている。そしてその部分はやはりカットされ、しかも、文脈の途中でカットするという手口もまた『国史大辞典』の時と同様だ。一般の読者で『国史大辞典』や『世界大百科事典』を持っている人は少ないであろうし、わざわざ図書館で調べる人もほとんどおられまい。それを見越した上で『季刊邪馬台国』編集部はこうした詐欺的な部分引用を行い、松田論文をもっともらしく印象付けようとしたのである。偽作キャンペーンのためには手段を選ばぬ同編集部の姿勢が「編集部註」に現れたものと言えよう。
こうした「犯罪的」な手口と比較すれば、松田氏の不勉強による誤論誤断など、まだかわいいものである。今や、『季刊邪馬台国』に掲載される偽作論は、はじめから、「眉につばつけて」読んだほうがよい段階に達している。偽作論者に良心があり、学問的に偽作論を主張したいのであれば、こうした「犯罪的」編集の雑誌に加担されることは、思い直されるのが賢明であろう。
ーー宝剣額は山王日吉神社にあったーー
『東日流外三郡誌』真作性の一級史料といえる山王日吉神社の寛政宝剣額について、その「再発見」から宝剣裏側の銘文「寛政元」「鍛冶里原太助」など発見までのいきさつは本会報で述べてきたが、偽作論者からの反論が『季刊邪馬台国』五五号(昨年十二月発行)に掲載された。その主たる論拠は筆跡と赤外線写真によるものであったが、この点に関しては既に古田武彦氏が「文化財の再利用」の可能性を示唆されており、偽作論者の所説にはその可能性の有無に論究したものもなければ、その可能性を否定したものもない。こうした問題は宝剣額全体の赤外線写真やその他の科学的調査が必要であり、別の機会に論じることにしたい。本稿ではこれまでの聞き取り調査などの結果から、寛政宝剣額和田喜八郎氏偽造説が論理的に成立困難であることを述べる。
偽作論者は同宝剣額を昭和四十八年頃に和田喜八郎氏が偽造したものとするが、宝剣額が昭和初期から日吉神社拝殿にあったことを青山兼四郎氏が証言しておられるし、同神社宮司、松橋徳夫氏も宮司に就任した昭和二十四年六月に初めて見たことを証言されておられることから、同神社に古くから存在したことは疑いないと考えられる。私は昨年五月と八月の現地調査時に両氏に対して宝剣額が神社のどの位置に架かっていたかを、個別に質問したところ、両氏とも拝殿内の正面に向かって左側に架かっていたことをはっきりと述べられた。こうした証言内容の一致から、私は両氏の御記憶と証言の信頼性は高いと判断したのである。更に本稿執筆のためこの一月に両氏へ電話で再度同じ質問を繰り返したが、いずれもまた同じ答(拝殿内の向かって左側)が返ってきたことを付け加えておく。
また、青山氏が松橋氏を紹介したかのように偽作論者は述べているが、そうではない。昨年五月、宝剣額を「再発見」した時点で私たちはその裏付けをとるために、日吉神社の宮司にお尋ねするのが最も確実と判断したのであり、問い合わせに対して七月に手紙で宝剣額が拝殿に架かっていたことを知らせていただいたものである(八月には直接お会いしてビデオ収録もさせていただいた。)。
偽作論者は青山氏に対しても論難を加え、「青山氏が、福士貞蔵氏や奥田順蔵氏と交流があったとは思えない(十川秀雄氏)」と、福士氏らと共に子供時分宝剣額を見たという青山氏の証言を否定しようとする。しかし、これも根拠の無い憶測に過ぎない。青山氏の話しでは、氏が通っていた小学校の福士校長とは家族ぐるみの付き合いがあり、青山氏の御母堂が福士氏の子供に乳を与えたこともあるとのこと。また青山氏の祖母は同小学校の用務員を永年務めておられたという。こうした両家の親密な関係から、青山氏は福士氏の遺跡調査や発掘にしばしば同行された。そのため、山王日吉神社にも福士氏に伴って行き、その時に宝剣額を見られたのである。青山家と福士氏との関係は小学校の資料などを調べれば判明すると思われる(この件については青山氏により詳しく発表されるであろう。)。
偽作論者(斎藤隆一氏)は青山氏と松橋宮司を「和田氏にとっては身内同然」としてその証言を否定するが、「身内同然」とはどういう意味か何の説明もなく、単なる中傷としか思えない。考えてもいただきたい。松橋氏が面識も利害関係もないわたしたちに対して、なかったものをあったなどと「嘘」をつかなければならない理由は全くないのである。しかも、自らの証言のビデオ収録まで了承されたのである。偽作論者も松橋氏に直接お会いして話を聞けば、氏の実直にして誠実なお人柄を理解しうるであろう。
偽作論者によれば、宝剣額の写真を『市浦村史資料編東日流外三郡誌・中巻』に掲載することを主張されたのは、当時の編纂委員長であった山内英太郎氏(故人)であったという。その山内氏は日吉神社のある相内出身であり、同じく相内出身の佐藤慶治氏(故人)や、日吉神社宮司松橋氏も村史編纂委員として名を連ねておられ、地元の日吉神社に宝剣額があったことは、当然山内氏らはご存じであったと考えざるを得ない(三者のうち御存命の松橋氏は昭和二十四年宮司就任時からあったと証言されていることは既に述べた通りである。)もし宝剣額が神社にあったものでなければ、山内氏が掲載を主張するはずはないのではあるまいか。なぜなら村史は広く村民の眼に触れることを前提としており、ありもしなかった宝剣額を「寛政元年八月、東日流外三郡誌筆起を祈願し、秋田孝季、和田長三郎が日吉神社に奉納したもの。」などと解説入りで掲載すれば、地元の人に嘘がばれること、自明だからだ。同時に、村史発刊時から昨今の偽作キャンペーンで問題になるまでは、村民から村や編纂委員に対して宝剣額は日吉神社になかったというクレームも出されていない。宝剣額が日吉神社になかったのなら、そうした地元出身編纂委員から、掲載時あるいは掲載後に疑義が出されてもよさそうなものだが、そうした事実もまたないようである。こうしたことを考えても、宝剣額は日吉神社に存在したと考えるのが論理的なのである。このように学問の本質にとって真に肝要なことは、大局的な論理性なのである。
偽作論者の主張は、本物の寛政時代の宝剣額を和田喜八郎氏がどこからか持ち込んで来て一部書き換えて偽造した、というものであるようだが、このことも冷静に考えてみればかなり困難な推定である(斎藤隆一氏は宝剣額そのものも偽造と考えておられるようである。偽作論者内部でもまだ見解の一致を見ていないのであろう。)。秋田孝季らによる宝剣額奉納を記した『東日流外三郡誌』の内容にあわせるような、寛政期の額(しかも宝剣額)がそれほど簡単に都合よく入手できるものであろうか。明治以後の額ならばともかく、江戸寛政期の宝剣額など希少であり、もし他の神社などから持ち出したのであれば、当然その神社周辺の住民の間で紛失が話題にのぼるであろうが、そのような話しがあったことも聞かない。そもそも、他から盗んできたものであれば、それを全国的に評判になった上巻出版後に、しかも地元を中心に多くの読者の眼にさらされる村史中巻の巻頭グラビアに掲載するということなど、常識では考えられないのである。
以上論じたように、偽作論者の主張する宝剣額和田喜八郎氏偽造説は多くの困難性をともなう。論理の導くところ、やはり宝剣額は松橋宮司や青山氏の証言通り、古くから山王日吉神社にあったと見るべきなのである。
(追記)
市浦村史版『東日流外三郡誌』が刊行された当時の市浦村村長白川治三郎氏も、「山王日吉神社拝殿には多くの絵馬がかかっており、その中に宝剣額があったような記憶がある」と筆者への手紙で述べられている。青山氏、松橋氏、白川氏の証言より推定すると、昭和初期から戦前にかけて、日吉神社拝殿には多くの絵馬が架かっていたが、戦後には数枚になっていたようである。その中の一枚が問題の宝剣額であったのだ。
また、偽作論者たちは山王日吉神社は江戸時代にはなかったとするが、同社殿がかなり古いものであることや(戦国期とする見解もある)、安政二年の津軽藩文書に同社社殿・拝殿の存在が記されており、江戸時代に日吉神社が存在していたことは確実である。このことについてはいずれ稿を改めて論じるであろう(拙稿「山王日吉神社考」、『古田史学会報』に連載中)。
本稿では偽作キャンペーンの手口を紹介し、その反証を行った。今回、紹介できなかったものも含めて、当偽作キャンペーンにはいくつかの特徴がある。
一は、虚偽情報であることが明確に指摘されても、当方の反論を紹介せず、あるいは検討はずれの誤引用ですませ、自らの非に対して知らぬふりを続け、繰り返し虚偽宣伝を行う。安本美典、斎藤隆一氏ら。
二は、和田家文書であるかどうかの確認を怠ったまま、出所不明の史料など(その多くは戦後作られたレプリカのようである)を偽作の証拠として利用する。安本美典、斎藤隆一氏ら。
三に、筆者や古田武彦氏に対して、近年問題となった某宗教団体の事件と同類のものとして印象付けるよう扱い、中傷と名誉殿損を続ける。安本美典、原田実氏ら。
四に、真偽論争の内容も詳しく知らない人々(有名人)を偽作キャンペーン誌(『季刊邪馬台国』誌)に次から次へと登場させ、「多数派」形成を印象付ける、安本美典氏。
などである。これらはすべて、学問とは無縁の方法である。したがって、筆者はこれらを「偽作キャンペーン」と呼ぶのである。ちなみに、偽作キャンペーン誌に掲載された林健太郎氏の手紙を紹介しよう。
●林健太郎氏(元東京大学学長、西洋史学者)
「御高著『虚妄の九州王朝』御恵送に与り誠に有難う御座いました。初版がよく読まれ、それがこういう改訂新版に発展したのは慶賀の至りです。古田氏はオウム真理教麻原の如く信者を持っていますから何度もやっつける必要があります。」(「詐欺師たちの時代」、『季刊邪馬台国』五七号所収)
これが最高学府元学長の書く内容にふさわしいものであろうか。掲載する方もする方だが、書く方も書く方である。この一文は、現在日本の教育や学問の憂慮すべき状況と、古田史学がおかれている名誉ある運命を二重に投影していて、興味深い。
最後に、和田喜八郎氏偽作説が成立しないことはもはや明白であるが、その一方で明治における和田末吉偽作説が再度浮上する可能性もあろう。この点についても、論理的に反論可能であるが、私たちは最終的には寛政原本を公開することで、本真偽論争に終止符を打ちたいと考えている。それは同時に和田家文書研究の本格的開始をも意味する。寛政原本の存在はまだ確認できていないが、それなしでは膨大な明治大正写本の存在を説明できないことから、必ず寛政原本は存在すると思われる。
寛政原本の出現は、今回の偽作キャンペーンに名を連ねた学者や文化人のレベルや存在、そしてわが国の学問の方法を再考する契機となるであろう。その日の到来が一日も早からんことを願って、本稿の結びとしたい。