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平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の事実を求めて(『新・古代学』第3集)へ
知的犯罪の構造「偽作」論者の手口をめぐって(『新・古代学』第2集 和田家文書の検証)へ
古賀達也
一
平成七年九月十六日、五回目の津軽旅行の初日。もちろん目的は和田家文書調査だ。夜行列車「日本海」で早朝の弘前駅に着いた私は朝食を済ませると弘前図書館へ直行した。
今回の弘前図書館での調査は主に東奥日報の閲覧、それも私が生まれる以前、昭和二六年頃の記事だ。和田元市・喜八郎父子が山中の洞窟から仏像などを発見した昭和二四年以降の状況を把握するためである。その結果、いくつかの興味深い発見があったが、本編ではイシカの神石(隕石)についてのエピソードを紹介する。
二
昨今でこそ和田家文書偽作キャンペーンに荷担した報道姿勢をとり続けている東奥日報だが、昭和二六年当時は比較的公正な記事を掲載しているようだ。たとえば、同年八月二八日の紙面 に「八百年前の隕石 飯詰村和田君保存」という見出しで次の様な記事が見える。
「北郡飯詰村の史跡を調査中の考古学者中道等氏は、古墳並に佛像、佛具、舎利坪を発見、保管している飯詰村民和田喜八郎君(二四)の宅から日本には珍しい流れ星の破片である隕石を見附けた。この隕石は重さ二百匁、高さ二寸五分、底辺三寸の三角形で約八百年位 以前に落下して風化したもので隕石としてはやや軽くなっている。
和田君の語るところでは古墳の祭壇に安置されていたもので古代人も不思議に思って神としていたものであるといわれている。」
この記事に並んで、隕石の写真が掲載されている。翌二九日にも、「山岳神教の遺跡発見 飯詰村山中に三つの古墳」という見出しで、和田家が発見した佛像・佛具などについての中道氏の見解などが掲載されている。その記事によれば、当時和田家が発見保管している物として、佛像十六体、木皮に書かれた経文百二十五枚、唐国渡来の佛具、青銅製舎利壷二個が紹介され、「国宝級」と評している。
こうした遺物を和田家が昭和二四年頃から集蔵している事実を見ても、昨今の偽作説がいかに成立困難なものであるかは明白だ。
三
図書館での調査を終え、和田喜八郎氏へ電話で隕石の記事のことを話すと、
「その隕石ならあるよ。見せるから明日来てくれ」
とのこと。四十年以上も昔のことなので、今では紛失しているのではと心配していたが、和田家で大切に保管されていたのだった。
翌朝、古田先生や札幌の吉森政博さん(古田史学の会・北海道)と合流し、和田氏が待つ石塔山へ向かった。相変わらずサービス精神旺盛な喜八郎氏は遠来の私たちにその隕石をはじめ様々な遺物を提示された(隕石はその重さなどから隕鉄のように思われた)。更に『護国女太平記・巻之十二』や『東日流外三郡誌・附書』『丑寅日本国史絵巻』など計七点の和田家文書を貸していただいた。これら文書の詳細な調査報告は別の機会にしたいが、紙は未使用の大福帳のものが多く、反故紙は表紙(『護国女太平記』)に使用されているぐらいで、ブラックライト検査でも戦後開発された蛍光増白剤使用の痕跡は認められなかった。筆跡は『東日流外三郡誌』は末吉、絵巻五巻は長作、『護国女太平記』は江戸期のもので秋田孝季の可能性を有している。
四
今回借用した文書の一つ『丑寅日本史繪巻・十之巻』に収録されている「神像之事」に隕石のことが次のように記されている。
神像之事
イオマンテに奉済せる神像とは石神なり。
宇宙より落下さる流星石をイシカ神、山に木の石となるヽをホノリ神、海や川に魚貝の石となれるをガコ神とせるは、古来よりの神像たり。
此の神像たるは柱六本の三階高楼を築き、地階に水神、二階に地神、三階に天神を祀りて祭事せり。是の高楼は大王オテナの住むる處に築きたるは古きハララヤ跡に遺りけり。
是の高楼に祀れるは石神にして、人の造れるは祀ることなし。
是れをカムイヌササンとて、そのイオマンテは大なるあり。三年毎にコタンを挙して祭事し、神招行事七日七夜を通 して行ず。
祭事終りての夜はイシカの神石、ホノリ神石、ガコ神石を掌に拝頂せし者は神の全能神通 力に依りて、死すとも速やかに人身をして世に甦えると曰ふ程に人はこぞりて終祭の宵に神石を掌に拝頂せり。
此の神石は東日流中山なる石塔山荒覇吐神社に秘蔵し、毎年仲秋の満月に各々のコタンより参詣せる老若男女に拝頂さる習あり。人々各々、己が諸願を此の神石に祈らむと曰ふなり。
この神石を水に入れにして、その水を神水とて病にかヽれる者に飲ましめては必ず難病も心に悩めるも安心立命に達すと曰ふ。
石塔山に降臨せし流星は鐵石にして重し。また地神なる木石塊も亦然なり。水神たる神石は今は世になき古代の生物の神石なり。
(「、」「。」は古賀による)
ここで注目されることは、石神を祭る高楼が六本の柱とされている点であろう。これなどあの三内丸山遺跡の六本の大柱穴と無関係とは思えない。偽作論者らはまた「三内丸山を見てから喜八郎氏が書いた」と言うに違いないが、今やそうした低レベルの中傷を相手にするよりも、和田家文書の内容の分析研究が必要な段階である。現に隕石(隕鉄)や三葉虫・アンモナイトの化石などが石塔山に集蔵されていることは、参詣した多くの人が知るところでもある(平成七年の例祭でも隕石が公開された)。
五
以上紹介したように、昭和二四年に発見された隕石が和田家文書では「イシカ(天)の神石」とされ、六本柱の高楼の三階に祭られていたとする伝承は貴重だ。三内丸山で同類の高楼跡が出土している以上、天地水の三神石を祭った六本柱の高楼跡が他の遺跡からも出土する可能性は高いのではあるまいか。そして同時に木や魚貝の化石が出土すれば、和田家文書に記された伝承が極めて正確であった証拠となろう。
このように私が見た範囲だけでも和田家文書には貴重な伝承が数多く記されている。しかし、明治大正写本だけでも推定二千点はあるとされており、それらの多くは学問的にも未調査の状態である。一日も早く和田家文書が公的機関で保管研究されることが望まれるのだが、そのためにも昨今の偽作キャンペーンや虚偽情報を暴露していかなければならないと痛感している。読者諸賢のご支援、ご指導を願いつつ本編を筆了する。
補筆
隕石を天からの神石とすることは、『東日流外三郡誌』にも見える。たとえば、八幡書店版第一巻五八七頁の「天地之明覚荒吐神之大要」には次のように記されてい
「荒吐族が石を神せるは、この諸神いづれも石化に通ずる故なり。天よりの流星石、山なる大岩石、海なる海底岩石、諸生物なる化石、これ荒吐なる化神とて祀るなり。」
注 初出は「古田史学会報」十号(平成七年十月三十日)転載
出土していた縄文の石神
「歴史は脚にて知るべきものなり」。秋田孝季によるこの至言を今回ほど痛切に感じたことはなかった。九月十四日より始まった東北・北海道の旅は、数々の発見と出会いと感動に満ちた十日間となった。恐らくは同様の道筋を孝季もたどったに違いない。私の場合は文明の利器、鉄道と自動車に頼ったのだが、短期間に広範囲の移動が可能な反面 、多くの見落としと聞き落しがあったに違いない。それでも数々の学的収穫に恵まれた。
江戸時代、文字どおり自らの脚で歴史を訪ねた孝季らならば、比較にならぬほどの更に多くの知見を聞きつくし書き遺したことは、現存している和田家文書の膨大さからもうなづける。
孝季に倣って綴り始めた「平成・諸翁聞取帳」。今編は東北・北海道巡脚編。お世話になった当地の方々に感謝を込めて、ここに報告する。
五所川原図書館にて
旅は五所川原市立図書館での調査から始まった。和田家文書を最も早くから調査研究されていた大泉寺の開米智鎧氏が、昭和三一年から翌年にかけて青森民友新聞に連載した記事の閲覧とコピーが目的だ。
昭和三一年十一月一日から始まったその連載は「中山修験宗の開祖役行者伝」で、翌年の二月十三日まで六八回を数えている。さらにその翌日からは「中山修験宗の開祖文化物語」とタイトルを変えて、これも六月三日まで八十回の連載だ。
合計百四十八回という大連載の主内容は、和田家文書に基づく役の行者や金光上人、荒吐神などの伝承の紹介、そして和田父子が山中から発見した遺物の調査報告などだ。その連載量 からも想像できるように、開米氏は昭和三一年までに実に多くの和田家文書と和田家集蔵物を見ておられることが、紙面 に記されている。これら開米氏の証言の質と量の前には、偽作説など一瞬たりとも存在不可能。
これが同連載を閲覧しての率直な感想だ。まことに開米氏は貴重な証拠を私たちに残されたものである。
図書館ではもう一つ収穫があった。昭和五十年発行の『続高楯城物語』、編著者は柳原与四郎氏。こちらも和田家文書(『東日流外三郡誌』も含む)の紹介と、それに基づく高楯城史の研究発表が中心をなしている。柳原氏は和田喜八郎氏など地元の有志とともに高楯城史跡の保護と調査研究をすすめられた人物である。
同書にも高楯城関連の和田家文書などの紹介が多数なされているが、中でも注目すべきこととして、当時、木村実氏がそれら古文書の書写 をされていた事実が記されていることだ。たとえば「殉者火葬記」という高楯城落城のことが記された文書を掲載し、その後に「之は四十三年九月木村家古文書から写 しとして木村実氏の書である。続いて木村氏の写し書きがあり討死した人名が一巻の古書に遺されていたという事であった。」と、木村実氏が古文書の書写 をされていたことが記されているのである。もちろんそれは「偽作」などとは無縁。コピー器が今ほど普及していなかった当時としては達筆者による書写 は当然の行為と言うべきであろう。ちなみに、「再建」された高楯城の展示室には、木村実氏よりもたらされた文書が六卷ほど存在している(案内していただいた野宮喜造氏の説明による)。末尾に「和田末吉」という署名が見えるので、和田家文書明治写本を戦後に再書写したものと思われる。もちろん筆跡は末吉や長作のものではなく、なかなかの達筆であった。
阿吽寺での新証言
翌日、津軽海峡トンネルをくぐり北海道の地へ。木古内駅では吉森さんをはじめ北海道の会員の皆さんに出迎えていただいた。三年前、「市民の古代」分裂騒動の時、関西で孤立していた私に、一面 識もなかった吉森氏から激励の手紙が届いたことに始まった親交が、このように北海道の大地での再々会となったことに深い感謝と感動を禁じえない。その吉森さんと共に集われた会員の皆さんの心温まるもてなしが続く、私にとって初めての北海道旅行。ここでも望外の収穫に恵まれたのだった。
それは松前町阿吽寺でのこと。和田家文書「祖訓大要」を秋田孝季が書写したとされる 安東一族ゆかりの寺院だ。残念ながら「祖訓大要」については火災のため寺伝も残っていないようで不明のままだったが、案内していただいた地元の歴史研究家永田富智氏より貴重な証言を聞かせていただいた。
永田氏は昭和四六年に市浦村村役場で和田家より届いたばかりの『東日流外三郡誌』二〜三百冊をご覧になっており、しかもそれらが紙質や墨・書体などから判断して明治後期のもので戦後は有り得ないと述べられたのである。氏は私とは違い、和田家文書の資料価値をそれほど高くおいておられないようだったが、それは『東日流外三郡誌』に書かれている内容は古いが、文書そのものは明治期のものであるという理由からのようである。しかし、氏の証言は昨今の和田喜八郎氏による戦後偽作説を否定するものであり、必ずしも完全な真作説ではない氏の証言ゆえに、大きな説得力を持つ。そして何よりも、北海道史編纂の実績を持ち、現在も松前町史や福島町史の編纂に携わり、古文書などを熟知されている氏の経験から来る眼力が、『東日流外三郡誌』(明治写本)の明治期作成をきっぱりと証言しているのである。
思いがけぬ新証言に驚いた筆者の要望により、証言のビデオ収録や会報への掲載も氏は快諾された。真実は強い。真実を語る人は強い。いささかのためらいもなく、永田氏はビデオカメラの前でもう一度証言を繰り返された。氏の証言により、『東日流外三郡誌』和田喜八郎氏偽作説はますます根拠を持たぬ ことが明かとなったのである(永田証言の詳細は古田史学会報十六号に掲載)。
森田村石神遺跡の石神
この旅行中、最大の発見。それは小島英伸氏(京都市在住、津軽出身)により導かれた。発端は八月二四日に遡る。『新・古代学』2集の拙論「知的犯罪の構造」を読まれた布谷道治氏(京都市在住)が小島氏を伴って初めて拙宅を訪ねられた日のことだ。話がはずむ中、津軽出身の小島氏より、森田村石神地区の石神縄文遺跡から隕鉄が出土しており、実物を触ったが間違いなく金属であったと聞かされたのである。
和田家に隕鉄が伝存しており、それが「天の石神」であること、そして三内丸山遺跡から出土したような六本柱の高層建築物に天地水の石神が祭られていたことを、筆者は会報十号で紹介し、将来同様の遺跡から隕石や化石が出土する可能性を示唆したばかりだったので、小島氏の情報にいかに驚いたか想像していただけよう。
実は同じ事に気づき、森田村の歴史民俗資料館で石神を既に見ておられた人が他にもおられた。藤本光幸氏である。石塔山例祭の前日、藤本邸に泊めていただいたのだが、私が森田村石神遺跡の隕鉄のことを話すと、藤本氏はすでにご存じで、資料館で以前見たことがあるとのこと。早速二人で資料館へ赴き、石神を探した。資料館には石神遺跡の出土品が展示されており、それは縄文前期から晩期に至る大規模な遺跡だ。あの三内丸山よりも古い時期を含む。
問題の石神は何の説明もなく展示ケースの中に並んでいた。直径十五センチくらいの丸い白と黒の石が二個、やや卵型のものが二個と、「石神」は知らない人が見ればただの丸い石としか映らない。あるいは縄文式土器の迫力に圧倒されて見落としてしまいそうな様相でさえあった。しかも発掘報告書には出土事実さえ記されていない。係の人にたずねると、「内部見解」は明快だった。「縄文の石神です」と。私が和田家文書のことを話すと、興味を持たれたのか、集蔵庫からお菓子の容器に入った別 の石神を見せてくれた。それは調査のために割られており、外側は白っぽく石のようだが内部は金属結晶で、キラキラと輝いていて錆びていない。かなりの純度の鉄のようだ。そして、その容器には「石神」と書かれた紙が貼ってある。別 の紙片には説明書きがあり、「初代石神。二代三代展示。(4代以降は不定形)」と記されている。ようするに、調査のため割ったものが初代で、展示されている黒い石と白い石が二代目と三代目の石神、卵型のものが四代目以降ということらしい。説明では中期末から後期にかけての縄文式土器と一緒に出土しており、縄文時代の信仰の対象であったことは間違いないとのこと。富山大学の先生から聞いた話として、白っぽい方は「銑鉄」ではないか、黒い方はもっと貴重なものと説明された。
私が、黒い石神は隕鉄の可能性があるので是非検査してほしい、地球上の鉄であれば、その産地が特定できるかも知れないし、縄文時代に鉄球を石神として祭っていたことは宗教史の面 からも貴重なニュースになることを述べると、それならば調査してみたいと係の方は返答された。
ちなみに、展示されている二個の石神は底がやや削られて、転がらないような工夫が施された状態で出土している。あきらかに平面 の上に並べたことをうかがわせる加工の痕跡だ。これが縄文の「石神」で、もし隕鉄であれば、恐るべきは和田家文書だ。縄文時代からの伝承を伝えていたのだから。しかし、これは不思議なことではない。出雲の国引き神話が旧石器縄文の神話であったことを古田先生が既に論証されているし、それを証明する黒曜石の出土分布と産地が今では科学的に証明されてもいる。縄文の宝庫である津軽に縄文神話が伝承されていたとしても、それは在って当り前とも言えよう。あるいは石神という地名そのものが、そうした縄文の「石神」の伝統を受け継いだものであろう。地名の伝承力もまた凄いものである。
他にも、この石神遺跡からは驚くべき発見が続いているようだ。いずれ全てが公表されるであろう。また、同遺跡は近々十年計画で発掘が開始されるとのこと。次に出土するものが、あの三内丸山を凌ぐ可能性は充分だ。楽しみしてに待ちたい。
石塔山、盛岡、仙台
私の旅の後半の収穫は、人々との出会いだった。石塔山では青山兼四郎氏や松橋宮司、和田喜八郎氏をはじめ全国からみえられた懐かしい方々と再会を喜び、岩手大学では岡崎正道助教授と「現代」について語り合い、仙台では佐々木広堂氏や初めてお会いする会員の皆さんと楽しい一夕を過ごした。おりからの台風にもかかわらず、福島県から青田さんも見えられた。古田史学の会設立時からの同志であり、学志の方々だ。偽作論者による口汚い中傷が続けば続くほど、真実と私たちの友情は一層光り輝く。学問の殿堂とは、そのような真実を求めて止まぬ 人々の真心の中にのみ存在しうるのであろう。ラファエロが描いた「アテネの学堂」のソクラテスたちのような。
注 初出は「古田史学会報」十六号(平成八年十月十五日)転載
昭和四六年に『東日流外三郡誌』約二百冊を見た ーー戦後偽作説を否定する新証言
「古田史学会報」十六号(平成八年十月十五日)へ
世の中には訳のわからぬ人がいるものである。過日、筆者に「ゼンボウ」なるあまり聞いたこともないような雑誌が送られてきた。差出人は偽作キャンペーン一派の原田実氏。また私や古田氏への中傷でも書いて送ってきたのかと思いながら読むと、どうやら「史学博士」の肩書で偽作論(論というよりも古田氏や藤本光幸氏らへの個人攻撃と本会への中傷に満ちた内容)がゼンボウに掲載されたのがよほどうれしかったのか、御丁寧にも送ってくれたようだ。私は寡聞にして「史学博士」などという博士号があったことを知らなかったのだが、原田氏はどこの大学でこの「史学博士」を取ったのであろうか。ともかくも、こうした肩書取得が氏の心根の卑しさの表れでなければ幸いである。
「学問の優劣は肩書ではなく、論証そのもので決まる」とは、古田武彦氏の言葉だが、原田氏は昭和薬科大学で古田氏の助手をされながら、こうした学問に対する姿勢や倫理はまったく学ばれなかったようだ。
さて、このゼンボウ9月号掲載の「なぜ原本を出さぬ、詐術にまみれた三郡誌騒動」という同誌編集長署名記事中にも、古田史学会報への事実無根の虚偽情報と中傷がなされていた。また同様の内容が、和田喜八郎氏と裁判で争っておられる野村孝彦氏の陳述書にあり、裁判書に提出されていたことを知ったので、この点について真実を明かにし、本会の名誉のためにはっきりと反論しておきたい。
偽作キャンペーン一派は会報6号に掲載された、白川治三郎氏(元市浦村村長)による証言記事(『東日流外三郡誌』公刊の真実)の内容が、氏が編集部に送った「手紙」の内容とは「かなりそのニュアンスが違っている。詐術の臭いが強く漂っている。」と中傷する。当方の現地調査などに基づいた主張や証言に学問的に反論できなくなると、誹謗中傷に奔るのは当偽作キャンペーンの特徴だが、いよいよ本会報の編集にまで「詐術」などと論難し始めたところを見ると、偽作キャンペーンも言わば末期症状の様相を呈し出したようだ。
これに対する反論は極めて簡単明瞭だ。当方には白川氏の自筆原稿が存在するからである。『季刊邪馬台国』五二号に掲載された白川氏らへの誹謗中傷記事(白川村長が秘宝発掘に公費を支出した、など)に対する反論の寄稿をお願いし、その原稿をほぼそのまま会報に掲載したのであり、ニュアンスなど違いようがないのである(白川氏の原稿の一部を掲載したので、会報6号と見比べていただきたい)。
このように、「すぐにばれる嘘」をつかねばならないほど、偽作キャンペーン一派は追いつめられているのであろうが、それにしても彼らも地に落ちたものである。ことのついでに、「すぐにばれる嘘」の別 の例を紹介しよう。偽作キャンペーン一派の主張に、『東日流外三郡誌』明治写本を書写 した和田末吉「文盲説」というものがある。「親戚筋の話」と称して繰り返し宣伝しているが、これなどもちょっと考えれば「すぐにばれる嘘」の好例だ。
大正八年に死去した末吉が文盲であったことを知っているとすれば、当時二十才の人でも現在では百才近くの高齢となる。そのような高齢の、しかも末吉のことをよく知っておられる親戚 の方が御健在なら、それこそ教えてほしいほどだ(末吉や長作のことを知りたくて、私は津軽の地を何度も訪ねている)。
何という名前の親戚か、何才の方なのか。何を根拠に文盲だと判ったのか。偽作論者は、この問いに答えることができないまま、虚言を繰り返すのである。
これまで度々主張してきたことだが、学問的に偽作論を述べるのであれば、次の諸点に答えねばならない。
1. あれほどの大量の大福帳や明治の和紙をどこから入手したのか。
2. 和田家文書に記された古今東西にわたる膨大な情報をどこで調査したのか。
3. 和田家が集蔵している遺物美術品をどこから入手したのか。その費用はどこから出たのか。最近、二度にわたり石塔山に大規模な盗難があったが、これなどもそれら遺物が「本物」であることを犯人たちが認めていた証拠でもある。
4. 和田家文書の内容と和田喜八郎氏をよく知る人たちは、いずれも喜八郎氏には書けるようなものではないと述べられている。喜八郎氏に会ったこともない安本美典氏や斎藤隆一氏らに偽作説などあげつらう資格はない。
以上の問い全てに具体的に答えられて初めて偽作論は成立の余地があるのだが、あれほど繰り返されている偽作キャンペーン中、これらに明快かつ具体的に答えたものはなく、すべて一方的な推測や虚偽情報の羅列に終始している。そしてそのことを一貫して主張、学問的反論を行ってきた本会報や編集部に対し、事実無根の中傷を続けるのである。このように偽作キャンペーンは社会常識や学問的対面 さえかなぐり捨て、もはや末期症状の状態といえる。真実の前に偽作キャンペーンがひれ伏す日は近い。その時、かくも度過ぎた偽作論者を生んだ日本の学問の方法は大きく見直されることとなろう。
注 初出は「古田史学会報」十六号(平成八年十月十五日)転載
ーー「判 例 タ イ ム ズ」 の 解 説
数年来続いた『東日流外三郡誌』裁判は最高裁での上告棄却により、和田喜八郎氏側の実質「勝利」で幕を閉じたが、その後も和田家に対して、嫌がらせ電話などが続いているという。一方、偽作論者側からは最高裁判決後も「裁判所は偽作説を認めた」「勝利した」などという論調を繰り返してきたが、この度裁判関係の専門誌『判例タイムズ』No. 976(九月一日刊)に、同裁判の判決文の紹介と解説が掲載された。その解説のポイント部分を紹介したい。専門家による第三者としての解説だけに、同裁判の性格を知る上で貴重なものでる。同時に、偽作論者(原田実氏ら)の判決評価が虚勢であったこともうかがえよう。
《解 説 》
(前略)「この事件が上告審判決で決着が付いた時、X(野村氏側)、Y(和田氏側)双方はそれぞれ勝利宣言をした旨報じた新聞記事があった由である。Xは判示事項一の通 り写真関係では終始勝ったのだし、控訴審で賠償額も倍加したのだから、Xの勝利宣言はある意味で当然であろうが、他方五〇〇万円ほか謝罪広告・訂正広告・指揮部分削除等の請求中、認容されたのは四〇万円だけである。訴訟費用の負担も一・二審を通 じ四分の三がX負担とされた。それを不満としての上告も例文棄却となったのであるから、Y側の実質勝利宣言も無理のないところがある。
この事件の甲号証(野村氏側提出証拠)は二百号証を超えたという。判決文から窺われる事案の寸法からはちょっと考えられない数字であるが、結局本件訴訟におけるX側の狙いは「写 真」「論文」を手掛かりにして裁判所に『東日流外三郡誌』の偽書性を肯認させようとするにあったことからの現象であろう。裁判所が判示事項二のように述べてその判断を回避した段階でその狙いの大半は失われた筈であるが、もし、判示事項三が全部排斥でなく、七項目中一つでも剽窃・盗用の判断が出ていたら、判示事項二にもかかわらず、X側は実質上狙いを ーー論理法則上「偽書でない」という全部否定は一部肯定で崩せるからーー 達することもできた。
その意味では、控訴し上告しても偽書説へ敗訴感はX側の方が大きかったであろうと思われる。」
※文中()内は、編集部による注。
以上のように、判例タイムズ解説は本裁判の手掛かりを全然残せなかった点で、実質的の目的が『東日流外三郡誌』偽書性を裁判所に肯認させることにあったと指摘し、にもかかわらず「偽書説への手掛かりを全然残せなかった」判決であり、敗訴感は野村氏側の方が大きかったであろうと、見事に本質を突いている。専門家による客観的な解説であるだけに、偽作論者の「勝利」キャンペーンはその声高な主張とは裏腹に、一層空しく響いている。(判決文詳細は「新・古代学」3集に掲載)
注 初出は「古田史学会報」二十八号(平成十年十月十二日)転載