古田史学会報一覧 へ
続平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の真実を求めて(『新・古代学』第4集)へ
1996年10月15日 No.16
古田史学会報十六号 |
発行 古田史学の会 代表 水野孝夫
永田富智氏(松前町史編集委員)へのインタビュー
▽▽▽▽▽▽
偽作論者たちは、『東日流外三郡誌』を昭和五十年頃(市浦村誌版発行時期)から六十年頃(八幡書店版発行時期)にかけて、和田喜八郎氏が偽作し続けたとの虚偽情報を繰り返しているが、「嘘も百回つけば本当に聞こえる」というヒットラー流のこうした手口に対して、それを否定する新たな証言が得られた。
証言者は、北海道史編纂などを手掛けられた永田富智氏である。氏は道南でも著名な歴史研究家であり、古文書の実地調査の経験も豊富な方である。その永田氏が『東日流外三郡誌』(明治写
本)を昭和四十六年時点で、二~三百冊見たこと、しかも氏の経験からそれらの紙質・墨・書体が明治期のものであり、戦後のものでは有り得ないと証言された。また、その証言のビデオ収録と本会報への掲載も了承された。古文書調査研究の実績に裏づけられた氏の証言は、戦後偽作説を否定する有力な証言である。和田喜八郎氏偽作説はもはや完全に崩壊したと言わざるを得ない。(編集部)
▽▽▽▽▽▽
--『東日流外三郡誌』(明治写本)を見られたことがあるとのことですが、いつのことでしょうか。
たしか昭和四六年(注1)の年で、私は当時、北海道史の編集委員をやってまして、調査で歩いた時に市浦村に行ったんです。その時に山内英太郎という(市浦村史)編集委員がおりまして、その人が「実は今日、和田さんの家から『東日流外三郡誌』という貴重な史料を借りてきたんで、これからいろいろ調べて村史資料編を作る考えでおります」というような話がありまして、その時に私は原本を見せてもらいました。おそらく二百冊から三百冊ぐらいが、だいたい七〇センチの長さ、幅が五〇センチくらいの木の箱に入っていたと思いますが、それを見せてもらいました。
それを私が見せてもらった時に、一番最初に感じたのは、まず、たくさんの記録が書かれてありますが、その記録は古いものではないということです。それから、墨がそんなに古いものではない。だいたい明治の末期頃のものだという感じを受けました。
それは何故かというと、だいたい明治の末頃にはやりだした機械織りの和紙がありまして、その和紙を使っているということです。
それから書体が明治以降のものであろうと考えまして、『東日流外三郡誌』は、内容は非常に古いことは書いてあるけれども、これはそんなに古いものではないだろうというふうな判断をして、その後、その問題は研究はしなかったということです。
--『東日流外三郡誌』は山内英太郎さんの御自宅で見られたのですか。
市浦村の村役場の中です。
--数にして二百冊から三百冊をその時点で見られたのですね。
はい。
--それは明治の末頃の紙に、だいたい明治時代に書かれたものと考えてよろしいでしょうか。
はい。
--たとえば、戦後になって最近書いたものだとか、
いや、そういうふうには感じません。
--そういうふうには見えなかったということですね。
はい。
--その時、どなたか他に一緒に見られた方はございますか。
村役場の編集室というのは、なにか総務課の係の後ろの方にありまして、みんな机を並べていましたから、そこで話していましたから、特別な編集室という形を作っていたようには思いませんでしたけど。
--見られた物には『東日流外三郡誌』という名前が文書の表紙に書かれていたのでしょうか。
たしか書かれていたと思いますね。ですら山内さんもそのように言っておられたんだろうと思いますし、行った時も『東日流外三 郡誌』という、市浦に関する記録だというようなことを言っていました。
--墨とかの問題から見ても明治大正のものと言ってもよいのでしょうか。
まあ、大正の頃はどうか。私はやはり明治の後期だろうと思います。
--まかり間違っても昭和とか戦後は有り得ないということでございますか。
戦後はまずないでしょうね。
--ようするに、明治期の文書であるということは、まず動かない、ということでございますね。
はい。
--どうも本当にありがとうございました。
<編集部>
()内は編集部による注。
(注1)インタビュー時には「昭和四二年」とされていたが、後日、当時のメモを調べたところ四六年であるとのことで、ここでは訂正された四六年で採録した。
◎日時 平成八年九月十五日 午後二時頃~三時頃
◎場所 北海道松前町阿吽寺
◎聞き手 古賀達也氏
◎ビデオ撮影 吉森政博氏
◎同席者 阿吽寺住職・長瀬弘雄氏
古田史学の会・北海道会員
◎文責 編集部
中高年サラリーマンのための
奈良県香芝市 山崎仁礼男
素人ながら古代史を研究してみようと考えておられる方の爲、おこがましいのですが、私の試行錯誤の結果を記して見たいと思います。
古代史学会は古田武彦氏とその学説を学会あげてシカトしていて、彼らの旧説に依然としてしがみついています。専門の学者たちが九州王朝説の研究に参入してこないのです。素人が研究に参加できる余地が大幅に開かれているのです。また九州王朝説が歴史学上に開いた広大な地平線は無限ともいえるものです。何しろ、「書紀」成立以来千三百年に近い歳月の歴史を、いわば全部書き替えなくてはならないからです。例えば、過日戦後の政治学者として日本の思想界のリーダーであった丸山真男氏の訃報に接しましたが、私が古田武彦氏の著作を読んだ第一の感想は、我々は九州王朝説を学ぶことにより丸山真男の現代政治の思想と行動を始めて越えることができると感じたことでした。丸山真男は九州王朝の存在を知らないのですから、そして天皇制の成立過程に彼の時代では知ることのできない欠落がある限り彼の分析にも限界があるはずと考えられるからです。
まず、古田武彦氏の著作を徹底して読むことです。「邪馬台国はなかった」「失われた九州王朝」「盗まれた神話」の三部作を何回も繰り返して読んで行くことです。次に「ここに古代王朝ありき」「古代は輝いていた」も読んでください。それと同時に古田氏の挙げられた史料の原文を買ってきて、原文と付け合わせて読んでください。別
に大層なものがいる訳ではなく、書紀や岩波文庫の「魏志倭人伝」などを買ってきて間違いないと確認しつつ読んで行くことです。こうして原史料を使って論証するとはどういうことなのか、自ずと真似ができるようになるというものです。
次に、歴史学には哲学的な思考方法を必要とします。例えば岩波新書の「歴史とは何か」(E.H.カー・清水幾太郎訳)など仮説の重要性を説いています。あるいは古代のことですから共同体のことを知らなくてはなりません。大塚久雄「共同体の基礎理論」(岩波書店)をお勧め致します。職業上で知る経済学では近代経済学の理論はあまり役にたちませんが、マルクス経済学関係が役に立つように思われます。経済学では「人間の経済」(K.ポランニー 岩波現代選書)が古代を扱ったものとして、西洋史ですが驚くべきものでした。
研究をするのですから、必ず原典に当たって調べる必要があります。ですから最低限の原典が必要です。以下原典名と入手方法を書きます。
(一)日本書紀 岩波日本古典文学大系
(二)古事記 同右
(三)祝詞 同右古事記にあり
(四)風土記 同右
(五)続日本紀 岩波その他
(六)先代旧事本紀 売っていません。「旧国史大系」図書館で借りてコピー。奈良の図書館が貸してくれた。古本屋で三万円でした。
(七)釈日本紀 同右(相当厚いがコピー)
(八)古語拾遺 岩波文庫にあります。
(九)上宮聖徳法王帝説 岩波日本思想大系 「聖徳太子集」所収、図書館でコピー
(十)元興寺縁起 同右「寺社縁起」所収コピー
(十一)革命勘文 同右「古代政治社会思想」所収コピー
(十二)律令 同右「律令」これは買わなくてはなりません。
(十三)倭名類聚鈔 この本はぜひ必要。十年前、風間書房刊を買いましたが。
外国文献では、
(十四)岩波文庫「魏志倭人伝・後漢書」など
(十五)岩波文庫「旧唐書」など 私は漢文の力がないので中国の漢籍はやらないとしま した。史記・三国志等は現代文訳のみ。
(十六)三国史記 この本は是非必要。六興出版社のものを使っています。
(十七)三国遺事 同右
次に辞書類です、
(十八)日本書紀索引 吉川弘文館のものを使っています。
(十九)古事記事典 桜楓社のものを使っています。古事記大成が欲しい。
(二十)日本古代氏族人名辞典 吉川弘文館
多ければよいというものでありませんので、これで止めます。国史大辞典を持っていますがこれは助かります。諸橋の漢和辞典が欲しい。地名辞典が必要です。日本歴史地名大系、平凡社刊。京都市・京都府・香川県はまだ刊行されていませんが福岡県が必要と思います。ともかく在職中にコツコツと集めて置くことが必要です。働いているときは金はなんとかなるが、年金生活にはいると妻の目を気にして何となく買い憎くなるものです。
素人の最も困ることは、いわゆる通説を知らないことです。国史大辞典で通説がどんな研究書に書かれているか知るのですが、
(二一)日本古代史の基礎的研究(上下) 坂本太郎著、東京大学出版会,誠実で博学のこの人の意見を聞くことは大切と思っています。
(二二)上代日本文学と中国文学(上巻だけ) 小島憲之著 塙書房刊 世の中にはよくもこんなに勉強した人がいるものとビックリ。
(二三)韓国古代史,李丙 著金思 訳六興出版刊,朝鮮古代史の本は絶対必要です。
通説・諸説は先人の思考の結晶なのです。ただし学問としては九州王朝説の登場により破産していることも事実なのです。そこには先人が考えた無限の知的活動の成果が九州王朝説によって体系づけられることを待っているのです。過日、井上光貞氏の日本律令の成立とその注釈書により九州王朝の律の存在と賠償制を明確にすることができました。通説は宝の山であることくれぐれもお忘れなく。但し、ミイラ取りがミイラにならないためには九州王朝説に立った厳しい思想闘争であることもまたお忘れなく。なお、重々気をつけるべきこともう一つ、現在の日本考古学の説(出土の事実ではなく、その上にたてられた)の上に自説を組み立てないことです。必ず文献によることです。古冢期(弥生)の日本考古学の年代比定は絶対的に信用してはなりません。
<後編は次号>
◇◇ 連載小説 『 彩神 (カリスマ) 』 第四話◇◇◇◇
--古田武彦著『古代は輝いていた』より--
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深津栄美 ◇◇
◇ ◇
「久しぶりだな、須佐之男」
赤銅色(あかがねいろ)の実が弾け、純白の歯が笑いかける。対海(つみ。現対馬)で共に過ごした頃から、吉備津彦の巨躯と腕力は抜きんでていたが、現在(いま)はすっかり若長(わかおさ)らしい貫禄がついて眩しい程だ。天国(あまくに)土産の青銅の甲胄を着せ、太刀を佩(は)かせたら、さぞや立派な武士(もののふ)振りだろう。
が、後ろにもう一人、客が控えているのを見て、須佐之男の懐旧の情は消え失せてしまった。
「御両親はお達者かな?」
振根が吉備津彦の連れに呼びかけ、越(現福井~新潟)の皇子(みこ)の一人武沼河別 (たけぬなかわわけ)だと須佐之男に引き合わせた。彼の母は白日別(しらひわけ。現北九州)の出身で、夫の故国(沼河)と自分の故郷(武……別
)にちなんだ名前を我が子につけたのだという。振根は何度か越や白日別へ交易に赴いた事があり、各地の首長一族と親しい間柄だった。
「おかげ様で皆、無事でおります。」
武沼河は丁寧におじぎをして、
「先日賜わったゴホウラ貝の首飾りを、母は命の次に大事にしております。」
媚びるように振根を見上げた。黒目が殆ど上瞼に隠れ、白目がくっきりと現れて三白眼(さんぱくがん)を成す。本人は意識していないかもしれないが、微笑すると唇(くち)の端(は)が片方めくれ、青白い歯が光るのでは、慇懃無礼を通
り越して下心そのものの印象を与えてしまう。外見で人を判断するのはいけない事だ、と須佐之男も承知してはいたが、三白眼の歪んだ笑いが武沼河に対し、心理(きもち)の上で距離を置く事になったのは事実だった。
「吉備津殿もお越しという事は、又ゾロ黒曜石が御所望かな?」
息子の表情を読んだか、振根は客人達に愛相の良い顔を向ける。
「御明察です、振根様。」
吉備津彦が頭に手をやる。
「この程、我が国は南の侏儒国(小人国の意、現四国地方)と交易を結びましたが、どういう訳かあちらは吝嗇家(りんしょくか)で粟十石につき藺草(いぐさ)の編物五千枚だの、クジラ一頭につき竹細工百個だの、無理難題ばかり押し付けて参ります。お互い武力衝突は好みませんが、ここは一つ、玉
萋鎮石(たまものしずし。黒曜石の古名)の威力(ちから)を見せておかないと、今後も何かと差障りが生ずると思いますので。」
「で、如何程お入り用かな?」
振根の問いに、
「畚(もっこ)に三山(みやま)でよろしい。」
武沼河が、片手の指を三本突き出した。
「中二山(うちふたやま)は吉備津殿の物、残る一山を私めにお譲り頂きたい。身内の恥を晒すようですが、実は我が国では宗家と分家の間が紛糾致しまして、白山のお社も巻き込みかねない故、至急武器を補充せねばならんのです。」
「承知致した。」
振根はあっさり頷(うなず)き、
「しかし、鉱山(かなやま)堀りは手間がかかる。畚に三山の黒曜石となると、おいそれと運んで来る訳にもいかぬ 。長旅の疲れもあろうし、二、三日お待ち願えぬか?」
と、息子を振り向いて、
「その間、おぬしが鉱山を案内すると良い」
だが、須佐之男は、他国の使者達に大国の実情を教えるのは気が進まなかった。吉備津彦は些か血の巡りの遅いところがあるが、武沼河の三白眼は見るからに油断出来ない気持ちを起こさせる。黒曜石の交易(とりひき)にかこつけて、良からぬ
事を企んでいたらどうするのか…?
しかし、父の命令には逆えない。その日から、須佐之男は二人を主な採掘場へ連れて回った。地上から数里も掘り下げられた穴倉の底で、褌(ふんどし)一丁の男達が汗だくで鶴嘴(つるはし)や鉈鎌(なたがま)を振るっていた。土砂を満載した畚が逞しい肩に搖れ、粗木(あらぎ)の二輪車が喧(やかま)しい音を立てて近くの川岸へやって来る。頭から砂埃(すなぼこり)を被り、睫
毛(まつげ)まで灰色になった女達が、笊(ざる)で宝石(いし)を選り分けては洗い、川床の砂金をすくう。岩場のあちこちには火が焚かれ、農具や武器を鍛える槌音も盛んに木精(こだま)していた。二股の枝や長い箸を使って、真赤に灼(や)けた刃を裏返す。水を浴びせる度、視野が利かなくなる程湯気が立ち込め、金と朱の火花が鮮やかに飛び散る。須佐之男が天国から持ち込んだ金属器を手許に置いて、自分達も銅を切り出して模造品をこしらえたり、剣(つるぎ)や鎌に新たな刃の取付けを試みている者もいた。父や兄を手伝って自身、鉱床(かなとこ)を叩いている少年が大勢いる。
「おぬしらもやるのか?」
抗内で岩盤に道を阻まれた際、須佐之男が腰に帯びていた銅矛を根方に差入れ、楽々と掘り起こして崖下へ突き落としたのを見て、吉備津彦は目を丸くした。
「無論さ。俺は次の大国の主(あるじ)だからな。」
須佐之男は反り身になったが、目は吉備津彦を通り越して武沼河に注がれ、挑戦的に眩(くる)めいた。
武沼河は知ってか知らずか、物珍し気に辺りを見回していたが、
「あの音は……?」
ふと、耳を澄ませた。槌や鉈の響きに混じり、筬(おさ)の音(ね)が聞こえて来る。
「山姫が機(はた)を織っているのさ。」
須佐之男は冷やかすように、
「竜が雨を降らすのは滅多に見られんそうだが、ここじゃいつでも山姫の地下宮殿が拝めるんだぜ。ついて来いよ。」
と、手招いた。
程なく、行く手に眩い光が現れ、
(又、鉱夫の灯(ともし)か……?)
と、二人は思ったが、誤りであるのはすぐに判った。
「千枚岩」と俗称される、階段状に幾つも岩が積み重なった形の崖の脇に、見事な白銀(しろがね)の円柱が地下の奔流に足を洗わせ聳(そび)えていたのだ。天井は高いが、どこからも外光の射し込まない闇の空間に昼を欺く輝きが躍り、柱表面
の凹凸一つが確認出来る程だ。光と影の微妙な交錯は、地中深く秘められた生成の炎が天に向かってほとばしるようだ。三児島(みつごのしま。現隠岐)を初め対海(対馬)、一大国(現壱岐)を経て大陸と
関わり、最新の利器を取入れ、繁栄している大国(おおくに)の、これは正に根源(みなもと)だ。吉備(現岡山)が交易を結んだ侏儒国は鉄鉱石を産するようだが、技術面
では大国の足元にも及ぶまい。このまま力を蓄えさせておいたら、余勢を駆っていつかは越は無論、吉備や白日別 も大国に併合されかねない。特に越は大国とは地続き、古(いにし)えの八束(やつか)の遠征以来、何度も占領された事があるのだ。
(何とかしなければ……)
武沼河の表情に焦りの色が濃く浮かんだ。
その耳に、
「白銀の内部(なか)には、白山に負けない瑠璃や翡翠(ひすい)の大殿堂があるんだぜ。見たいか?」
須佐之男の声が、勝ち誇ったように響く。
「おお、案内(あない)して貰おう。」
頷く武沼河の目が三白眼を成し、吉備津彦に合図する。
「じゃ、行くぞ。」
須佐之男が背を向けた途端、四本の手が思い切り彼を突き飛ばした。
(続く)
【後記】
スサノオとその父(ということにしておきました)振根が黒曜石その他の採掘の陣頭指揮に当たっているのは、石見銀山の地底で、写 真で見た事のある山口県秋芳洞を描写の下敷に致しました。(深津)
☆☆古田武彦編,新刊の紹介☆☆
定価一八〇〇円 原書房
昨年十一月に行われた、スミソニアン博物館のベティー・J・メガーズ博士(エバンズ夫人)来日記念講演と国内の研究者も交えての縄文ミーティングの内容などが収録されている。「倭人は太平洋をわたった」という古田武彦氏の年来の主張が、世界の知性と学際的研究(考古学・遺伝子学・生物学)の成果
により、いよいよ確かな学説として承認されようとしている。本書はその記念碑的意義をもつ一冊である。 お求めは書店、あるいは原書房まで。
□□ 事務局だより□□
◎『親鸞思想』『神の運命』『海の古代史』と古田先生の新刊が続き、全国の古田ファンや古代史研究家にとっても、楽しみな日々が続いているのではないだろうか。現在も先生は原稿執筆などが目白押しで忙しい毎日のようだ。
◎来春発行予定の本会会誌『古代に真実を求めて』2集にも、「五十年目の卒業論文(仮題)」というテーマで御寄稿していただけることになった。村岡典嗣先生より受け継いだ「人間が認識したものの再認識」というアウグスト・ベイグの学問の概要についての紹介とのこと。古田史学が誕生した母なる領域が親鸞なら、父は村岡典嗣氏であり、アウグスト・ベイグは祖父にあたろうか。
◎ベイグが提唱した学問はフィロロギーと呼ばれ、フィロソフィー(愛知・哲学)に対して、「論理を愛する」という意味だが、未だ適当な日本語訳がない。しかも、その対象は人間が認識したもの全てが含まれる。文献・美術・思想・建築・遺跡など、あらゆる分野がフィロロギーの研究対象だ。古田先生の研究テーマが文献にとどまらないのも、うなずける。
◎最近、縄文遺跡の発見が続いている。中でも岩手県宮古市崎山貝塚の祭祀遺構発見は、「貝塚はゴミ捨て場ではなく、貝に対する感謝から貝を祭る場所」という先生の主張を証明するものとなった。しかも千数百年かけた大土木工事(縄文中期)とのこと。これも、年来の先生の主張を裏付けることとなった。いわく、縄文都市・縄文国家・吉野ケ里に先行する縄文土木技術、等等。
◎同遺跡発掘担当者も古田先生の熱心な読者とのこと。発掘のニュースを聞かれた先生は、早速、岩手県へ行かれた。
◎本号では、原稿オーバーのため予定していた記事が掲載できなかった。次号にて掲載します。執筆者の方々にはお詫び申し上げます。皆様の寄稿を待っております。
これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。
(全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailは、ここから。
続平成・翁聞取帖 『東日流外三郡誌』の真実を求めて(『新・古代学』第4集)へ
古田史学会報一覧に戻る
Created & Maintaince by" Yukio Yokota"