古賀達也
『新・古代学』のすすめ 「平成・諸翁聞取帳」起筆にむけて
(
古田史学会報1995年 8月15日 No.8)へ
寛政宝剣額は山王日枝神社にあった
わたしが和田家文書研究のため現地調査を開始したのは平成六年五月のことであった。市浦村史資料編『東日流外三郡誌」中巻の巻頭グラビア写真などに掲載されていた寛政宝剣額の調査が主目的だった。その宝剣額には『東日流外三郡誌』編者の秋田孝季と和田長三郎吉次の署名、それに『東日流外三郡誌』の完成を祈願する内容が記されていた。このことから当宝剣額が『東日流外三郡誌』真作説にとっての一級史料であることがわかったのだが、その際、当宝剣額が昔から山王日枝神社に存在していたことを証言していただいたのが、北津軽郡中里町に住んでおられる青山兼四郎氏であった。古田武彦氏とともに青山氏宅で証言をお聞きし、その一部始終をビデオ収録したのだが、氏の津軽弁を正確に聞き取れなかったこともあり、後日、手紙で質問を行い、その返答をいただいた。わたしからの質問状は次の通りであった。
青山兼四郎様
先日(五月七日)は突然の訪問にもかかわらず、和田家文書ならびに秋田孝季の偏額について、貴重なお話を伺わせていただき、誠に有り難く存じました。心より御礼申し上げます。お預かりいたしました文書は古田武彦先生とともにしっかりと調査させていただきます。
さて、日枝神社の額は大変貴重なものです。何故なら「東日流外三郡誌」など一連の和田家文書は和田喜八郎氏による偽書であり、秋田孝季なる人物は架空の者で実在しないと、世の偽書論者たちは主張しているからです。当額が本物ならば秋田孝季実在の物的証拠となり、従って和田家文書も本物ということになります。いずれ、これらのことを学術論文として発表するつもりでおりますが、過日、お話しいただきましたことを書面にて再度ご確認させていただきたいのです。誠に突然の失礼なお願いではございますが、学術論文の性格上、厳密に論証をすすめたいので、是非とも差し仕えのない範囲で結構ですから、よろしくご教示のほどお願い申し上げます。
質問は次の点でございます。
(1). 山王日枝神社に架かっていた頃と、同封の写真の額は同じ物と判断できますでしょうか。
(2). この額が山王日枝神社に奉納されていた御記憶は、最も古い時点でいつ頃でしょうか。
(3). 山王日枝神社のどこに架かっていたのでしょうか。
(4). 山王日枝神社に架かっていた時には、額は記された文字の一部または全部は見えましたでしょうか。もし、見えていたならどの部分が見えていたのでしょうか。
(5). この額を降ろされたのは和田喜八郎氏でしょうか。また、いつ降ろされたのでしょうか。降ろされた時、青山様も御一緒でしたのでしょうか。
(6). 青山様がこの額に「秋田孝季」や「東日流外三郡誌」なる文字が書かれているのを最初に見られた(知られた)のはいつでしょうか。
(7). 青山様以外にこの額が昔から山王日枝神社に架かっていたのをご存じの方はおられますでしょうか。おられましたらお教えいただけないでしょうか。
(8). 共同墓地に他にもあると仰られていた山王日枝神社の絵馬や額には江戸時代のものがあるのでしょうか。
(9). 失礼ですが、青山様の御出身地と生年月日をお教えいただけないでしょうか。
以上で、こざいます。誠に失礼な質問ではございますが、学問的研究の論証として是非とも必要なことで、重ねて御教示のほどお願い申し上げます。世に流布されている和田喜八郎による偽書とする説に対して、学問的に反証したいと考えております。よろしくお願い申し上げます。
また、ご当地へ調査に参りたいと存じます。そのおりに、お会い出来ましたら幸いでございます。
平成六年五月十五日
「古田史学の会」事務局長 古賀達也
以上の質問に対して、次の返信をいただいた。全文掲載する。
返信
前略。突然の来訪を受けて誠に恐縮している処であります。ぜひとも外三郡誌についての詳しい解明が欲しい処で、郷土史発掘のために私たちも最も重要なものとして調査しています。
とりあえず、おたづねの各項目についてお答えいたします。
(1). 私が市浦村相内財産区の測量及び登記事務について山王日枝神社に行ったのは昭和二十八年秋頃で、大変な額が掲げられて、その一部鬼額の下になっていたのです。写真と同じものと記憶しています。
(2). 当時佐藤万次郎他各財産区委員の説明では相当に古い由緒あるもの、たしかに京都からきたものとだけ賜わっています。
(3). 山王日枝神社の奥の院でやや中央より左寄の処だったと思います。
(4). 日枝神社と秋田孝季の字がハッキリ記憶しています。東日流外三郡誌の字句について当時詳しく判断いたしていませんでした。寛政年間についても同様に古いことだけとしか覚えていませんでした。
(5). 額が降ろされたことには詳しくわかりません。
(6). 私が小学校に入れられた当時、福士貞蔵校長先生と奥田順蔵内潟村長が今泉、相内、十三湖について十三史談会を創設して調査していたので、よく私の家にもきていろいろと話ししていたことなどで「やっと解った頃でした」このことでいくらか知っていた。
(7). 当時の財産区委員などはみんな知っていた。氏名は山内英太郎、山内秀太郎、鳴海藤雄、佐藤万次郎(委員長)、柏谷豊作、三和清吾、岡本米太郎などでした。
(8). 相内共同墓地には殆ど墓石がわりに使用されていて、その石などに菊のご紋章などが明らかに彫られて山王坊日枝神社の古さを物語っています。
勿論当時の方々にはこの由来について詳しく知る人もないのであるが、今や東日流外三郡誌の解明によって次第にその全貌が推察されるところとなっている。詳しくは再会の日に語りたいと思っています。
私の祖先も日王寺院より法華宗拝領して青山城が建立され今も毎年の例大祭には家族揃ってお参り致しています。
(9). 出身地は名刺の通りです(中里町今泉・・・古賀注)。生、年、月、日は大正十一年二月十七日生です。
追面
このことについて更に先生方のご努力によって解明されるよう先般の資料を基に調査して下さい。
私たちは、よく解読できないので、どうか先生方の力で詳しく後日発表されるよう願っています。なお詳しくは後便にたくして、とりあえず送付いたします。追便にて詳しく。
乱筆ご容赦のほど
<住所略>
青山兼四郎
昭和二十四年、宝剣額は日吉神社にあった
市浦村山王日吉神社の宮司を四十六年の永きにわたり勤めておられる松橋徳夫氏は、寛政宝剣額が昭和二十四年宮司就任当初から同神社拝殿に架かっていたことを証言されている。編集部ではこの事実をすでに電話や手紙で確認していたが、昨年八月の現地調査時において、松橋宮司宅を訪れ更に詳しく聞き取り調査を行った。その際に、証言のビデオ収録を申し入れたところ、快く応じていただいた。本証言はそのビデオにもとづいて文章化したものである。松橋宮司の了承を得て、本会報に掲載した。松橋氏は記憶していることと、そうでないことを明確に区別して話しておられ、その慎重かつ実直な人柄をうかがいとっていただけるであろう。聞き手は古田武彦氏。初出は、「古田史学会報」五号(平成七年二月二十六日部)。
(古田)ーー お忙しいところ、どうもすみません。この宝剣額(宝剣額の写真を示しながら)は市浦の教育委員会にあったものでございますが、その前はいわゆる日枝神社にあったとお聞きしてておりますが、そうでございますか。
(松橋) はい、間違いございません。わたくしが昭和二十四年五月に宮司に就任いたしまして、ここのお神楽は毎年旧の六月の十六日でございまして、その場に参りました時に、昭和二十四年の年に初めてこの額を拝見したわけでございます。
ーー 二十四年でございますね。
そうでございます。剣が二本と、「奉納御神前日枝神社」というような字は見ておりますけれども、あとは何が書いてあるかよく気をつけなかったのではっきりしたことは判りません。
ーー この特徴的な図柄でございますから、この二本の宝剣のついた額はあった、ということは間違いございませんですね。
はい。
ーー それで、やはりこの宝剣の額のことについて、それまでの氏子さんや氏子総代さんともお話になったわけですね。
ええ。珍しい額だというので、その時は「ああ、これ古い額ですね」ということを申し上げまして、皆で見ておりました。しかし、下の文字とかは記憶しておりませんので。
ーー 「御神前」とか「日枝神社」とかいうのはあったわけでございますね。
そうでございます。
ーー ここに「日枝神社」と書いてありますが、現在、現地で(神社を)拝見しますと「日吉神社」と字は書いてございますね。
そうでございます。
ーー 発音はやはり「ひえ」神社と。
そうでございます。東京に同じ日枝神社という神社がございますし、ここは俗に山王様と申し上げまして、昔は山王宮とも言われた神社でございます。いずれにしても「ひえ」神社、字は違っていても「ひえ」神社、「日」の下に「吉」書いても「枝」書いても「ひえ」神社ということでございます。
ーー 京都の比叡山の所にもございますものね。
はい、そうでございます。
ーー そうしますと、念を押すようでございますけれど、氏子さんや氏子総代さんも含んで、そういう方々も永年この額には慣れ親しんできておられると。
ええ、当時の方はそういうことでございますね。
ーー 昭和四十年代の終りの頃か五十年代の初めに教育委員会に移ったということのようで。
そうでこざいますね。私もはっきり記憶はございませんが、昭和五十年頃ではないかと記憶しております。
ーー それまでは氏子さんたちもよく慣れ親しんでおられたということでございますね。
そうです。
ーー 実は今泉の青山さん(青山兼四郎氏)という方から、子供時分から、昭和の初めから(日吉神社拝殿で)これをよく見ておったとお聞きしておりますが、そういうことでございましょうね。それからもう一つお聞きしておきたいのですが、先ほど、文字が「奉納御神前」とか「日枝神社」というのははっきり憶えていると、他ははっきり憶えていなかったと仰ったんですが、しかし、ここ(額面の「秋田孝季」「東日流外三郡誌」などの部分)にこういうふうに文字があったこと自身はよく憶えておられるのですね。
ええ、それは書いてあったことはよく憶えております。その時分まだ興味はなかったものですので、はっきりしたことは憶えておりません。ただ文字が書いてあったことは記憶しております。
ーー こういう感じの字面というか、姿をしておったわけですね。
はい
ーー 貴重な御証言、どうもありがとうございました。
※()内は編集部による注。
◎日 時 平成6年8月4日 午後4時〜5時
◎場 所 市浦村 洗磯崎神社 松橋家
◎聞き手 古田武彦
◎ビデオ撮影 古賀達也
◎立会人 上城 誠
◎文 責 編集部
安本美典・三上喜孝責任編集『季刊邪馬台国』の無責任中傷記事に反論
『東日流外三郡誌』公刊のいきさつ
「責任編集」とは名ばかりに、匿名「情報」を羅列した無責任な無署名記事で他者を名 指しで中傷し続ける『季刊邪馬台国』誌はもはや学術雑誌とは程遠い。同誌に名指しで誹謗中傷を受けた、和田家文書の紹介者藤本光幸氏に『東日流外三郡誌』公刊時のいきさつと『季刊邪馬台国』誌への反論の筆をとっていただいた。初出は「古田史学会報」四号(平成六年十二月二十六日)
『季刊邪馬台国』五二号に、“虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで”との表題で、ニュースソースはすべて匿名という、およそ学術雑誌とは思えぬ 内容で、虚偽記事が掲載されている。 『東日流外三郡誌』に最も深く携わった者の一人として、ここに真実の歴史、同誌公刊のいきさつを明らかにしておきたい。
『東日流外三郡誌』公刊の件に関しては『季刊邪馬台国』五二号一一〇頁に藤野七穂氏が述べて居られる
「“和田家文書”が世に出る契機は、昭和四十六年の市浦村長・白川治三郎氏の発意になる村史編纂事業に端を発する。村史編纂委員長の山内英太郎氏が史料の収集に奔走するうちに和田喜八郎氏と知り合い、その家蔵の『得難い貴重な史料』を提供され、通史編に先立って、資料編の刊行に踏み切ったのである。この『得難い貴重な史料』というのが『東日流外三郡誌』だったのである。」
と云う事が本当の事実である。
なお昭和四十六年の時点で、私の所へ『東日流外三郡誌』が約二百巻(冊)程、来て居り、当時の白川治三郎村長が、私の家に和田喜八郎氏と共に訪れて、村史を編纂したいので何とか協力してもらい度い、そしてその為には『東日流外三郡誌』を市浦村に貸出してもらえないかと懇願するので、今まで埋もれていた「安東氏」が正式に公表される事でもあるので、私としては、既に約十年も前から出版の為に原稿化して居り、『東日流外三郡誌』として出版の予定で居る事を話した所、それでは、資料の中から市浦村に関係のある項目のみを摘出して出刊するとの約束で、初五十巻程既原稿化済みのものを、和田喜八郎氏の了承のもとに貸出したのである。従って、市浦版の『外三郡誌』は初版を『みちのくのあけぼの』と題し、「市浦村史資料編東日流外三郡誌」と副題して刊行されたのである。
その後、和田喜八郎氏と私は市浦村史編纂委員に任命されたが、刊行された上巻は当初の約束であった市浦村に関連する項目のみという点が守られてなかったので、それまでに市浦村へ持参した約百巻程で、以後の貸出を停止したのである。
藤野七穂氏が『季刊邪馬台国』五二号一四八頁で
「《東日流外三郡誌読掟》には全三百六十八巻だとあるのだが、市浦版編集段階では『虫にくい荒されボロボロ』な部分を除き、『読み得る事のできる』約百巻分を編集した時(昭和五十八年)にはさらに『読み得る事のできる』ものが百巻余りも追加発見されたことになっている。」
と述べているが。真相は前述した様に昭和四十六年の段階で、既に約二百巻程が来ていたのであるが、市浦村の約束違反のため、貸出を約百巻程で停止し、私達(北方新社版)の編集方針も一応の年代別 、ジャンル別に整理して出版することに変更し、従って出版時も昭和五十八年と遅れたのである。これが真相である。
なお、当初、私は「金光上人関係資料」「天真名井家関係文書」は『東日流外三郡誌』と表題がないので、別な文書として処理したが、後に和田喜八郎氏から『外三郡誌』の中の文書だと指摘されたので『東日流外三郡誌』補巻として出刊したものである。
更に藤野七穂氏は
「不思議なことになぜか『三百六十九巻』が存在する。」
と指摘しているが、この点に関しては、私も後日知ったことで、私自身、今なおこの点については疑問を持っている。(しかし、この三百六十九巻も和田喜八郎氏の筆跡ではない)
以上が『東日流外三郡誌』公刊に関する真実である。次に『季刊邪馬台国』のデタラメな虚偽記事に反論する。同記事には次の様に述べられている。(反論の便宜上1 〜 7 の番号を付した)
「関係者の話を総合すると『東日流外三郡誌』が世に出るまでの事情は、つぎのようになる。
1 昭和四七年ごろ、和田喜八郎氏が、市浦村の村長であった白川治三郎氏に、和田家の蔵のなかから、安東家の秘宝の隠し場所の書かれた文書がみつかり、場所もわかっているので、発掘調査の費用を出してほしいと、話をもちかけた。
2 市浦村と、他に五〜六人のひとが、和田喜八郎氏に出資した。藤本光幸氏が、多額の出資をした。市浦村は、公費を出した。
3 秘宝が出たばあいの取り分を多くするため出資者の人数は限定した。
4 しかし、秘宝は出ず、市浦村は和田喜八郎氏を追及した。和田喜八郎氏は出資への対価として『安東文書』(当時は『東日流外三郡誌』とはいっていなかった。市浦村の関係者と表記されていたのである。が、この文書に『東日流外三郡誌』と名づけたら、そのあとは、『東日流外三郡誌』と書いた文書が出現するようになった)を提出した。
5 『安東文書』については、当時、しかるべき人(存命中)のところにもちこまれたが、その方は「古文書とはみとめられない」とののである。
6 しかし、市浦村は、公費を支出しており、なんらかの形を残さなければ、責任問題が生ずる可能性があった。市浦村に関係のある部分を抜き出し、昭和五十年に『市浦村史資料編・東日流外三郡誌』として刊行された。
7 和田喜八郎氏からは、仏像その他が出土したとして提出され、出資者全員で出土物を分けた。出土場所はわからない。」
これから前記に対する反論を述べる。
最初に“関係者の話を総合すると”とあるが、関係者とは誰か。具体的な氏名を一人もあげられないことが、冒頭からこの記事の虚偽性を明らかにしているのではないか。
同時に1 ,2 のような事実もまったくない。すべて安本美典氏の推定による捏造された事柄である。
前記の事実がないことであるから、3 の様な事実も全くない。事実は先に述べた通 りである。
4 の事実もない。また、『東日流外三郡誌』には当初から『東日流外三郡誌』と表題があり、『安東文書』とは呼んでいなかった。安本美典氏は“市浦村の関係者が名づけたとしているが、市浦村関係者にはそのような人は一人もいない。当初から『東日流外三郡誌』と表記されていたのである。
5 「当時、しかるべき人(存命中)のところにもちこまれた」とするが、しかるべき人(存命中)とは誰のことか。氏名も発表できないような人のことを“しかるべき人”として虚偽記事の根拠とするのは五流週刊誌と同じではないか。
6 の事実もない。市浦村に関係のある部分を抜き出して刊行されていれば、当初の約束通りであり、約百巻程では終らなかったのである。
7 の事実もない。その他の出土物とは何の事か。明確に示しもしないで、しかも出資者全員で分けたとしているが、全くの中傷、誹謗である。
以上の様に、『季刊邪馬台国』五二号の“虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで”の文章こそ、単なる推定によってありもしない事実をあった様に書いた捏造された偽作文である。なお、この文には和田喜八郎氏、元市浦村長白川治三郎氏、私、藤本光幸が実名で出て居り、他は全て匿名である。全く名誉毀損も甚だしい中傷文である。賢明なる古田史学の会々員、及び一般の皆様の判断を乞うものである。
(古賀注)
藤本氏が批判された『季刊邪馬台国』五二号の記事は、無責任な無署名記事だが、そのほぼ同文が安本美典著『虚妄の東北王朝』(毎日新聞社刊、一九九四年)の九四頁に「『東日流外三郡誌』が世に出た事情」として掲載されている。したがって、『季刊邪馬台国』の無署名記事も安本氏の執筆と考えざるを得ない。同氏(同誌)はこのような匿名「情報」や無署名記事、あるいは論文無断掲載を愛用されているようだが、「責任編集」の看板に偽りあり、と言うほかない。
『季刊邪馬台国』の中傷記事に反論する
『東日流外三郡誌』公刊の真実
『季刊邪馬台国』五二号に掲載された「虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで」という記事で、和田喜八郎氏・藤本光幸氏そして当時の市浦村村長白川治三郎氏を実名で誹謗中傷するという暴挙に偽作論者は出たのだが、会報4号の藤本氏に次いで白川氏からも反論の弁を御寄稿いただいた。偽作キャンペーンの為には、匿名による虚偽情報を愛用する同誌の醜い正体がまた一つ暴かれようとしている。真に平和な国際社会の醸成や人権確立などを願い、『東日流外三郡誌』の公刊に踏み切られた白川氏の真剣な思いと歴史の真実のために、氏の貴重な証言を掲載する。初出は「古田史学会報」六号(平成七年四月二十六日)
ーー 和田氏から発掘調査の費用を出してほしいと申し出たこと。
この話は村にもちかけられたこともないし、従って公費を出す訳はない。
他の五〜六人のひとが、また藤本氏が多額出資したと言うことも聞いていない。その後秘宝が出ないからと言って、和田氏といざこざがあったと言うことも聞いていない。
また、村では秘宝探しの発掘もしていないから、和田氏を追及する根拠もない。
ーー 『東日流外三郡誌』と市浦村関係者が名付けたと言うこと。
『東日流外三郡誌』を初めて見たのは、昭和四十六年の秋頃と思う。場所は市浦村役場の村長室です。資料は一冊がコピーされてから次の一冊が届けられるので、日数の間隔はかなり費やされている。その都度一冊ずつ、全部読み切らず断片的に見ていた。
私の記憶では最初から史料に『東日流外三郡誌』と書かれていたと思う。
ーー 秘宝探しに公費支出した責任逃れの為、『外三郡誌』を刊行したと言うこと。
資料(『東日流外三郡誌』)はこれまでの日本史に書かれなかった、安倍安東氏にまつわる極めて貴重と思われる内容が多く、これを一般に公開して世論を喚起し、その真偽の程を学者の研究にゆだねると共に、安倍安東氏の政策の根底には、混迷せる国際情勢に於てこれからは真に平和な国際社会醸成の為の人権確立や、正しい宗教観が貫かれていること等を世に喧伝したいという目的があった。責任逃れ等とは、とんでもないことだ。
ーー 仏像その他出土品を分けた話。
村として秘宝発掘の事実はないし、他にも仏像その他発掘による出土品のことは全く聞いていない。従って、これらを出資者が分けたと言う話は全く根拠がない。
古賀注
白川氏は市浦村村長を三期十二年務められており、今も御健在である。昭和四六年、村長就任以来、村史編纂にとりかかられたのも幼い頃より福島城趾や唐川城趾等にまつわる伝承を聞かされていたが、詳しいことは謎に包まれたままなので、土地の古老が存命中にできるだけ記録を残しておきたかった為と言う。故山内英太郎氏を役場職員として調査研究に当たらせたのが、村史編纂の始まりで、程なくして『東日流外三郡誌』が拝借できるようになり、この豊富な資料を放置しておくのが勿体ないと考え、村史資料編として刊行することに踏み切られたのである。
秘宝探しのために公費を支出したなどという『季刊邪馬台国』の記事は、事実無根の中傷である。村の公費支出が事実ならば、記録が残されているはずである。議会の承認がなければそのような支出を村長個人で決められるものでもない。『季刊邪馬台国』の虚偽記事は学問とは無縁、全くの無責任編集と言わざるを得ないのである。
和田家「金光上人史料」発見のいきさつ
(古田史学会報 1995年 6月25日 No.7)へ
(『新・古代学』古田武彦とともに第4集1999年新泉社)へ