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鉄検査のルール違反 ーー谷野満教授への切言 古田武彦
寛政宝剣額の「再利用」についてーー史料批判 古田武彦(『新・古代学』第1集 特集2和田家文書偽書説の崩壊)へ
筆跡の科学的検証 宝剣額(『新・古代学』第2集
特集1和田家文書の検証)へ
『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社
特集2 和田家文書「偽書説」の崩壊
「宝剣額」研究序説
古田武彦
一
一個の注目すべき史料が存在する。
それは「宝剣額」と呼ばれる、金石文である。東北地方の神社の絵馬堂に献ぜられる奉納額として、格別不思議なものではないが、その奉納者(二名)及びその祈願内容を見るとき、きわめて重大な意義をもつ。
この史料について、その内容及び意義を問い、その大筋の輪郭を明らかにすることによって、本研究の「序説」とする。
二
当史料は青森県北津軽郡市浦村の教育委員会に保存されていた。昭和五〇年頃以来のことである。その前(昭和四八年頃まで)は、同村日吉神社(日枝神社(1) )の拝殿に掛けられていたという。その額面に記されているごとく、当神社への奉納額であるから、当然であろう。 (2)
市浦村で昭和五一年九月に刊行された『市浦村史資料編(中巻)』の先頭に当資料の写真(白黒)が掲載されている。 (3)
当史料の文面は左のようである。
「(一)(右端部)
奉納御神前日枝神社
(二)(左端部)
寛政元年酉八月 日 東日流外三郡誌
(右行)筆起
(左行)為完結
(三)(下部)
(右行)土崎住
秋田孝季
(左行)飯積住
和田長三郎 」
以上、要旨は次のようである。
〈その一〉寛政元年(酉)八月(一七八九)日、両名が二個の宝剣を打ちつけた奉納額を作り、日枝神社(日吉神社)の御神前に奉納した。 (4)
〈その二〉その奉納の目的(祈願内容)は、「東日流外(つがるそと)三郡誌」執筆の開始とその無事完結を、神前にて祈願することであった。
〈その三〉両名の名前は、土崎(現、秋田県秋田市)に住する秋田孝季と、飯積(5)(現、青森県五所川原市)に住する和田長三郎とである。
三
右の「和田長三郎」の実在について、各種の根本史料が見出された。
A「知昌良惠信士 文化十酉十一月
下派 長三郎(父)(6)」
(長円寺過去帳、No.4「寛政三年頃〜文化一二年頃」所収)
B「豊室成秋信女 文政三辰七月
和田長三郎」
(長円寺過去帳、No.5「文化一三年頃〜文政九年頃」)
C「(表)
知昌良惠信士 文化十酉十一月
安昌妙穏信女 文化十四丑年
(裏) 和田氏
文政丑五月建(之)」
(長円寺境内、和田氏墓地内の墓石)
D「御棟札 文政九丙戌年九月
庄屋 長三郎」
(飯詰村史一三四ぺージ、稲荷宮)
E「文政 長三郎」
(飯詰村史、二四二ぺージ、「庄屋年表」)
右の長円寺は、現在「五所川原市飯詰」にあり、旧字地名は「下派立」である。右の過去帳では「下派」と略記されている。
和田家は、長円寺の近隣にあり、同じく「下派立」に属している。同寺は、和田家の菩提寺である(禅宗)。
この過去帳に出現する「下派立、長三郎(A)」及び「和田長三郎(B)」は、同時期(寛政〜文化〜文政)、同地域(飯詰ーー下派立)の人であるから、同一人物と認められる。
また、同寺境内の和田家墓地に建てられている古墓石は、石背の文字
「文政丑(十二年)五月建(之)和田氏」
がしめすように、文政年間の建立であるが、この建立者は、上の「下派、長三郎」「和田長三郎」と同一人物と認められる。
なぜなら、過去帳の
「知昌良惠信士 文化十酉十一月」(A)
が、この墓石(表)の
「知昌良惠信士 文化十酉十一月」(C)
と一致しているからである。
「過去帳」という文献と、「墓石」という金石文が一致する、という、いわば理想的な形で、この「寛政〜文政期」に、この飯詰(下派立)の地に、「和田長三郎」なる人物の実在したことが、疑いようもなく、立証されることとなったのである。 (7)
さらに、飯詰村史の記載史料としての「棟札」(D)「庄屋年表」(E)の両者によって、その「(和田)長三郎」が「庄屋」であったことが確認された。
すなわち、従来存在した「和田長三郎、非実在説」や「和田長三郎、非庄屋説」は、いずれもその根拠を失うこととなったのである。
この「実在の和田長三郎」が、冒頭の「宝剣額」の中の連署名中の一人として、その名をしめしていたのである。
四
公刊された『東日流外三郡誌」中、当「宝剣額」に関する、興味深い二つの記事がある。
〈その一〉
「安東一族之故事歴巡脚 余が由理家に在住之砌り、飢餓諸国に流布し、凶作の相次ぐ地獄の娑婆にして、折しも三春藩にては、天明五乙巳年二月、三春城消失の災を被りぬ。(中略)
・・・三春藩之飢餓も治まりぬ。是ぞ安東一族の祖恩なれば、千季主令を以て余及び和田氏に尋史の労を仰付たり。
先ず十三湊山王日枝神社に参拝仕り、剣絵馬を奉納仕り、諸国巡脚の無事たるを祈念し、石塔山に一字の草堂を建立なして旅出でたり。
『寛政二年より文政五年に到る諸国の安東一族なる歴史は深く、茲に東日流外三郡誌、内三郡誌と題して七百四十巻余の歴書と相成りぬ。然るに秋田千季是を見届けずして他界せるは悲しきなり。』
文化二乙丑年正月元日
和 田 吉 次
秋 田 孝 季 翁
明治廿年五月再筆 和 田 末 吉」
〈『 』は、古田〉
(『東日流外三郡誌』〈6〉八幡書店、四六〜七頁、北方新社版〈五〉六八一〜二頁)
右の「文化二乙丑年(一八〇五)」という年時記載から見れば、おそらく『 』部分は、「後時の追記」(秋田孝季による)なのではあるまいか。でなければ、『 』の中の
(1),「寛政二年(一七九〇)より文政五年(一八二二)に到る」
(2),「秋田千季是を見届けずして他界せるは悲しきなり。」
(千季の死は、文化一〇年〈一八一三〉)
のいずれの記事とも、矛盾するからである。
それが本文と「同一筆」(孝季の自筆か、吉次の再写〈副本〉)であったため、明治写本では、和田末吉が“ひとしなみ”に再写した。そのために、右のような「文面上の錯乱」が生じたのではあるまいか。
この「錯乱」問題は、『東日流外三郡誌』の「偽作性」を指示するものではなく、「真作性」を証言するものである。
なぜなら、「偽作」の場合、これほど“見えすいた”錯乱と矛盾は、かえってありにくい。ところが、「真作の再写」の場合、かえって右のような“赤裸々な矛盾”が生じうるからである。要するに、再写者(この場合は、和田末吉か)の不用意のためなのである。(8)
それはさておき、右の文面中の傍点部が今問題の「宝剣額」を指していること、疑いがたい。
〈その二〉
次頁写真の「右端」及び「左端」に描かれたものが当の「宝剣」であること、明瞭である。しかも、一方(「右端」)は、宝剣の「表」、他方(「左端」)は、宝剣の「裏」を表示したものであると思われる。
ところが、「裏」に当たる方に、
「東日流外三郡誌之現景如件」
の一文が記されている。この筆者は、同書右頁(一六二頁)に
「奥州東日流飯積大光院住
秋田孝季
和田長三郎画集」
とある通りである。
これは、「日下領国風〔景〕全八十八景」と題された画集の末尾である。その冒頭には
「為東日流外三郡誌編纂(「纂」か、古田)之要
秋田 孝季
和田壹岐」
とあり、つづく「記述」と題した文の最後に、
「寛政二年五月一日
秋田土崎湊日和見山之住
秋田孝季 見取
津軽奥法郡飯積之住 和田壹岐 写画」
(一一三頁)
とある。すなわち、「宝剣額」奉納の翌年、この「見取」「写画」が行われている。
従って、先にあげた、末尾の、二振りの「宝剣」図(表と裏)は、前年(寛政元年)奉納の「宝剣額」の存在を前提にして描かれたと考えて、何の矛盾も存在しない。
その上、ここに興味深い現象が見られる。現「宝剣額」の宝剣の裏側には、鍛冶屋(職人)の「自署名」と「年時記入」が存在した。(9)
〈右側〉
「(上部)寛政元戊酉八月自
(下部)鍛冶 里原太助」
〈左側〉
「(上部)ナシ
(下部)鍛冶 里原太助」
とある。
この「宝剣額」の中の
「飯積住 和田長三郎」
の「飯」の字が、「右側」の宝剣下部(左端)に“接触”して、きゅうくつに記入されている。一見、すでに、「宝剣」の打ちつけられたあと、記入されたかに見える。もちろん、実際は、その逆のケースもありうるかもしれないけれど、要は、次の一点だ。
「この署名の筆者は、宝剣の裏側を見ていない。」
と。そういう様相をしめしているのである。
一方、先の「全八十八景」末尾の「見取」「写画」の場合も、この「宝剣」の裏側に、鍛冶屋自身の「自署名」や「年時記入」の存在を「知らぬ」場合でなければ、このような「写画」への記入文章(「東日流外三郡誌之現景如件」)は、たとえ“風流なる余興”としても、書き入れにくいのではあるまいか。
こと、人間の微妙な「心理」の内部にわたるため、もちろん厳格な論証とはならないけれども、両史料(「宝剣額」と「全八十八景、末尾の写画」)間の契合には、まことに興味深いものがあると言えよう。
五
今年(一九九四)七月、報道せられた三内丸山遺跡(青森県青森市)は、縄文時代の実状について、従来の知見を一変せしむべき一大発見となった。
わたしも、八月八日、この現地を訪れ、青森県教育委員会の発掘責任者(岡田康博氏)から詳細にその実状を聞くことができた。その詳細は、今ここに尽くす紙幅をもたないけれど、中でも、抜群・出色の発見は、二〇メートルを越す、木造建築物の存在(柱痕が現存)であった。
ところが、今問題の『東日流外三郡誌』には、すでに右の存在(すべきこと)が「予告」し、記載されていたのである。
津軽地方の先住民たる「津保化族」について、その伝承を記したさい、その習俗として
「雲を抜ける如き石神殿を造りきあり、」
(『東日流外三郡誌』第一巻、北方新社版、九九頁、八幡書店版、一一六三頁)
と述べられている。上の「石神殿」は、一見「石の神殿」の意とも見なしうるのであるが、実は「石神の殿(高殿)」の意ではあるまいか。なぜなら、『東日流外三郡誌』では、「石神」という語は、重要な言葉であり、いわば「術語」をなしているからである。たとえば、
「東日流の民は、石神を海、川より形よき磨石を拾い来りて祭壇に祀り、氏神として崇むなり。海なる石神は海の幸、山川なる石神は山の幸として頂宝し、供物は常に塩と洗米なり。」
(『東日流外三郡誌』第五巻、北方新社版、六八頁「東日流古伝之抄」)
「川、海の渚に石神鎮むるところとて、川及び海に汚物をすてつるを戒む。石神にその色を以て神なる神石になほらふるなり。(中略)依て石神崇拝ぞ最も神に親近しその霊験ありとぞいはしむるなり。」
(同右、五〇頁「東日流古伝之抄」)
といった類、頻出する。従って「石神殿」は、“石神を祀る神殿”の意と解すべきであろう。
さらに、この語に冠せられた形容句たる「雲を抜ける如き」の一句を見るとき、この点、いよいよ確かめられよう。なぜなら、たとえば、ピラミッドのような石造物の場合、“雲を背にして”というような形容句が、より適切であろうけれど、日本の木造建造物たる相撲の櫓太鼓のような場合、その下に立つとき、「雲を抜ける如き」という形容句は、ピッタリではあるまいか。
要は、「石造」「木造」の別を問わず、櫓太鼓風の建造物であり、そこには「石神」が祀られている、というのである。(10)
その上、未公刊ではあるけれど、和田家文書に属する『北斗抄」(十三)には、
「古き世に外濱なる大濱山内(三内とも書く ーー傍書)の郷ありて津保化族の集落あり、山海の幸に安住たり」
(同書、十三の十)
とあり、あの三内(さんない)の地(青森県青森市)が先住民たる津保化族の代表的集落の地として、その筆頭にあげられている。この文面の筆者は、
「實暦二年四月七日 江羅要介」
となっており、それを筆写し、収録していたのである。
さらに、『東日流外三郡誌』では、この津軽の先住民、津保化族について「靺鞨族、珍愚志(ツングース)族」の一派と記している。ところが、縄文時代、この津軽海峡圏と沿海州(旧、靺鞨の拠点、ハンカ湖・黒竜江・日本海沿岸等)との間に交流が久しくつづいていたことを、最近の黒曜石の鎌や縄文土器の出土が証明しているのである。
もちろん、これらの記事(津保化族、靺鞨淵源)は、右の各出土以前に公刊されたものの中に存する。
従ってこれらの事実を正視する限り、『東日流外三郡誌」などの伝える伝承は、決して等閑視できぬていのもの、そのように言う他はないのである。
その『東日流外三郡誌』は、当「宝剣額」奉納の時期(寛政元年、一七八九)に「筆起」が決意された、空前の一大伝承・史料集成であった。
六
当「宝剣額」の奉納せられていた、日吉神社(日枝神社)の宮司をしておられる松橋徳夫氏は、当方の質問(11)に対して、書状(平成六年七月一二日消印)をもって、次のように回答してこられた。
「前略山王日吉神社の奉納額について取急ぎ御返書申し上げます。
1). 私が日吉神社兼務宮司に就任したのが昭和二十四年五月ですが、当時すでに当神社拝殿に架かっておりました。
2). 日吉神社前総代三和定松様始め現総代様等の記憶によりましても戦前より同神社にあったことは事実であります。
返書おそくなり誠に申し訳ありません。
洗磯崎神社 宮司松橋徳夫」
(松橋氏は「日吉神社宮司」を兼務、昭和二四年より今年〈平成六年〉まで、四六年間の永年にわたっている。)(12)
右の点、今年八月にお会いしたときも、九月にお会いしたときも、「全く変更なし」と、くりかえし明言された。
そして「神に仕える身に、うそはつけません」と言われた率直な一語がわたしの心の奥底に深く突きささっている。
市浦村中里の青山兼四郎氏の証言(13)たる「この奉献額が日吉神社にあったのを、小学生の頃(昭和初年)から見ていました」との一言と共に、わたしは同世代の人々の中に、このように誠実な証言者をえたことを、心から誇りとしたい。
七
当「宝剣額」は、従来「偽書説(14)」が喧伝されていた『東日流外三郡誌』の信憑性をしめすための、最上の史料である。
もとより、ことは学問に関する。軽率な「断言」を避けると共に、いったん獲得した結論も、再考、三思するに、いささかのためらいもあるべきではないであろう。なぜなら、学問とは、そのように「誠実なる試行錯誤の営み」であるとも、言いうるからである。
けれども、反面、学問は「拙速」をきらうものであるから、性急な「偽作説」の喧伝にもかかわらず、みずからのぺース、ゆったりとして時間のかかる研究過程こそ、尚(たっと)しとせられねばならぬ。
この点、スピードを不可欠とするジャーナリズムの世界とは、おのずから得意分野を異にするのではあるまいか。『東日流外三郡誌』をふくむ、厖大な和田家文書群は、今、研究の途上にある。一番肝心の、いわゆる「寛政原本」の出現も、もちろん、現在なお「未来」のことに属する。
これらの一つひとつに精魂こめて、わたしたちが立ち向かうとき、後代の探究者に対して、さわやかな足跡を、確実に伝えうるのではあるまいか。
八
最後に一言する。
歴史学の父と称される、ギリシアのヘロドトスは、その名著『歴史(15)』の中で説いた。
すなわち、同じ事件について、ギリシア人側の伝えるところと、ペルシア人側の伝えるところと、全く異なっている。しかし、そのいずれも切り捨てず、共に採録した、というのである。その「異なる所伝」の中から、真の「歴史の真相」の現れるべきことを期待したのであった。
この点、わが国の古代史学界は、いわば不幸な状況にあった。なぜなら、古代史の国内史料として、『古事記』『日本書紀』『風土記』といった、いずれも「近畿天皇家中心主義」という一元史観の「器(うつわ)」にもられた史料しか、文献として存在しなかったからである。
そしてこれに反する記事をもつ外国史料、たとえば「旧唐書」などに対し、正当な評価を与えず、いわば「歴史」から“切り捨ててきた”からである。
この点、『東日流外三群誌』の場合も、同様の運命に属した。記・紀の伝える伝承とは異質の古代世界、津軽藩系の史料の伝える伝承とは異質の中・近世世界、それがあまりにも多く深く語られているのである。その点、「反記・紀」及び「反津軽藩」的な史料性格をもつ、と言っても、必ずしも過言ではないであろう。
またこの点にこそ、当伝承、史料集成のもつ魅力と共に、従来の論者からこうむりやすい「感情的反発」の深い源由が内在したように思われる。
しかしながら、ふたたび、ヘロドトスの名を想起してほしい。ここにこそ、「真の歴史」が誕生するのである。異質の別伝承、対立する多伝承、それをうけ入れること、直ちに一方を排除せぬこと、この肝心・至要の一点を守るか否か、そこに「成熟した二一世紀」にわたしたちが胸を張って入りうるか否か、その峻厳な分かれ道がある。(16)
ヘロドトスの導きに従って、わたしは深くそのように信じ、この「序説」を草し終えたのである。
〈注〉
(1) 「山王日吉神社」と称する。「日吉」は九州では「ひよし」と発音する例が少なくない。たとえば、「日吉(ひよし)神社〈山王宮〉」(久留米市日吉町三丁目、旧郷社)、また吉野ヶ里の中央墓域の傍らにあって注目を集めた神社も、「日吉(ひよし)宮」である。思うに「住吉(すみよし)神社」などと、一連の名称ではあるまいか。
ところが、近畿では、有名な「日吉(ひえ)大社(山王さん)」(大津市坂本、旧官弊大社)のように、「日吉」と書いて「ひえ」と読むのが通例である。中には、「日枝神社(山王宮)」(滋賀県長浜市)のように「ひえ」の発音を表記した例もある。(いずれも神社本庁の『神社名鑑』による。)
これらはいずれも「大山咋命」を祭神とするから、「日吉(ひよし)ーー日枝ーー山王社」が一連の同一神格の神社であることは、疑いがない。
これによって見れば、市浦村の「山王日吉神社」が氏子さんたちによって「ひよし」と発音されている(古田採取)のも、興味深いが、同時に中・近世以降の「神道的通称」によって「ひえ」と読まれてきたことは、同神社松橋宮司によっても、明晰である(ビデオ収録)。従って「日枝神社」の表記もまた当然であり、これは近世神道史上、常識に属する概念であることを明記しておきたい。
なお「安政二乙卯年、神社微細社司由緒、調書上帳」は、現在最勝院(弘前市)に伝わる貴重な基本史料(江戸時代、津軽藩による)であるが、ここにも当社は「山王宮一宇」として出現している。
(2) 昭和四八年、当額は、「阿畔(あうん)の仁王像の台座に使われていた」という。(和田喜八郎氏〈五所川原市〉による。)このさい、後出の青山兼四郎氏や市浦村教育委員会関係の方々が同道された、という。
その後、当教育委員会関係の展示場に当額が出現することになったようである。
(和田氏は、右の昭和四八年が当額初見であったという。)
以上が、当額の写真が『市浦村史史料編(中巻)』に掲載されることとなった経緯である。
(3) 『「古史古伝」論争』(新人物往来社、一九九三年八月『別冊歴史読本』)の二四七頁に当「宝剣額」の小写真(白黒)が掲載され、これが今回の「宝剣額」探究の「再出発点」となった。後出の古賀達也氏の慧眼(けいがん)による。
(論文及び写真は、藤本光幸氏「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」による。)
(4) 両名の書筆時点と宝剣「打ちつけ」時点との前後関係は、必ずしも一義的に決定しえない。(もちろん、一般論としては、奉納額中の文字の書筆者は、祈願者〈たち〉自身である必要はない。しかるべき〈他の〉書き手による場合も、決して少なくないであろう。)
(5) 現在は「飯詰」と書くのが普通である。
(6) 「父」について、鉛筆で「父」と右わきに再筆されている。(五所川原市史編纂室側の調査時の“書き入れ”か。)本文は、もちろん書筆である。
(7) 同じく、この「和田長三郎(吉次)」と見られるものとして、左の二つの記載がある。
A. 「安昌妙穏信女 同年(前項は「文化十四丑」 ーー古田)十二月 下派 長三郎」
B. 「幽教童女 同年(前項は「文政七申」 ーー古田)八月 下派 長三郎」
右の A. については、同寺境内の古墓石にも、同一の文面があり、長三郎吉次の妻「りく」(秋田孝季の妹)の死を伝えるものと見られる。(ただし「りく」の法名は、別史料では未見。)
次の B. は、長三郎の身内の「童女」であろう。
なお当帳には、次の記載がある。
C. 「露光禅定尼信女(「信女」は右わきに記す。 ーー古田)天保十一子八月十三日和田権七」(長円寺過去帳No.8)
D. 「即運天涯居士(明治二己巳年 ーー冒頭ーー古田)六月廿九日飯詰、和田長三郎」
右の D. は、「明治二年」という年時から見れば、この「飯詰ノ和田長三郎」は、いわゆる「明治写本」(正確には「大正六年」に及ぶ)の書写者たる「和田長三郎末吉」であろう。(「明治写本」は、明治初年頃より。)
この「明治二年」の時点において、末吉の居所が「飯詰」(旧、下派立)であったことが知られる。
また C. の「和田権七」は、「天保十一年」という年時から見て、「末吉の父」とされる「権七」当人と見なして、あやまりないであろう。
(『東日流外三郡誌絵巻、全』津軽書房、二五三ぺージ)
また、この「天保年間」という江戸時代において、「和田姓」を名乗っていたこと、先の「文政年間」の「和田長三郎」の表記と共に、注意せられよう。
(8) 意外な局面から、はからずも「東日流外三郡誌の真作性」が論証されることになったのであるけれど、同様の論証経験を、わたしはすでにもったことがある。それは、親鸞の「血脈文集の真作性」の論証であった。(「性信の血脈文集と親鸞在世集団 ーー史料『蓮光寺本』をめぐってー」『親鸞思想ーその史料批判ー』冨山房刊所収)
(9) 東北大学金属材料研究所(谷野満教授)による検査のさい、発見された。
(10) 津軽藩によって破壊されたと伝えられる、石塔山の「石塔」のごときも、この「石神殿」の伝統を受け継いだものかもしれぬ。
(11) 当方の質問状は、当額の「再発見」のさいの同道者たる、古賀達也氏(現「古田史学の会」事務局)によって出された(平成六年六月二八日)。
(12) 当書状の「公開」についても、快く御承諾いただいた。
(13) 同じく、古賀氏の質問状は古田の依頼による(平成六年五月一五日)。青山氏は“イ、当額には、小学生時分(昭和初年)から認識があった。ロ、昭和二八年秋頃、市浦村相内財産区の測量・登記事務で当神社に行き、「その一部鬼額の下になっていた」当額をみた。ハ、その時、当額に「日枝神社と秋田考季の字」があったことは、はっきり記憶している。ニ、当時の財産区委員などは皆、当額のことは知っていた(福士貞蔵校長・奥田順蔵内潟村長、他各財産区委員名列記)。”等、詳細に注目すべき証言を明記して下さった。(ビデオには、すでに収録していた。)
(14) 松田弘洲氏『東日流外三郡誌の謎』(あすなろ舎)安本美典氏『東日流外三郡誌「偽書」の証明』(広済堂出版)その他。
(15) 岩波文庫(上・中・下)松平千秋訳
(16) 近時、当額の木部に別署名の痕跡あり(赤外線写真による)、との指摘がなされているようであるけれど、文化財において「旧文化財の再利用」のケースの少なくないこと、著名の事実である(百済の武寧王陵の銘版〈石〉や法隆寺釈迦三尊の台座〈木〉等、事例は多い。)
事は、慎重かつ客観的なるべき学問研究のことに属するから、十二分の用意をもつ学術論文をもって、時間をかけて論証し、検討を尽くすべきこと、もっとも肝要の一事であろう。心ある江湖の人士に向かって、敢えて特記させていただきたい。
(『昭和薬科大学紀要 人文・社会・自然』第二九号 一九九五年より、再録)
〈補〉
最近、『北斗抄、十四』(未公開)の中に「神器傳統之事」という一文が収録されていることを知った。その末尾に「文政二年八月三日 和田長三郎、和田理久」と連名で署名されている。明治写本であるから、両名同一筆(長作の筆跡)であるけれど、寛政写本では、それぞれの「自筆署名」である可能性が高い。ともあれ、この時点(文政二年、一八一九)まで理久は在命していたこととなろう。とすれば、当論文の注(7).でのべた「安昌妙穏信女(文化十四年、一八一七死)」は「りく」ではありえないこととなる
(この点、古賀達也氏の御教示をえた。一方、長円寺過去帳No.5の「豊室成秋信女〈文政三年、一八二〇 死〉)については、「りく」の可能性は一応存しよう)。
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