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「宝剣額」研究序説 和田家文書の信憑性(『新・古代学』第1集 和田家文書「偽書説」の崩壊)
原教行信証の成立 ー元仁元年問題の史料科学的研究ー(古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2)
古田武彦
一
筆跡研究を推進してゆく中で、わたしはこれに対して自然科学的方法を導入すべく努力した。筆跡鑑定の「主観性」を、できるだけ除去せんとしたのである。
工業用カラーフィルター(数十種)の使用をはじめ、各種の方法を試みた試行錯誤の末、もっとも「有効な方法」を見出すに至った。それがデンシトメーターの使用による方法である。
デンシトメーターとは、電気露出計であるが、それを使用する方法については、すでに詳述しているが、今要点を列挙してみよう(「史料科学の方法と展望」「古文書研究」第四号、昭和四十五年十月。『古代は沈黙せず」駿々堂、所収)。
〔写真撮影上の注意〕
1第一に大事なことは、筆跡文献を撮影する場合、文献全体の「光度」を一定することである。
2使用フィルムは「F」が適当。
〔写真焼付上の注意〕
1焼付用紙は、フジグラフなど。
2焼付は、「無修正」のこと。
3焼付は、はば三〜四ミリの字が適当。
4焼付の調子は軟調が望ましい。
〔濃度測定上の注意〕
1実験室の電圧関係を「一定」にする。
2フィルム直接検査より、フジグラフ等の焼付の検査が適当。
3測定写真中の黒色部分の「透過率」と「黒化濃度」がメーターに表示される。
4透過光をもって透過するためのスリットは、直経約一一・五ミリ位であるが、そこを通過する光線(白色光・黄色光・緑色光・紫色光・赤色光等の光線)によって、メーター装置の方に、〔01〜100〕(透過率)、〔0〜0.1〜0.9〜1.0〜2.0〕(黒化濃度)といった数値が的確に表示される。
5「紙」と「墨」のプラスされた数値から「紙」の濃度をとり除く。これがこの方法のキイ・ポイントである。
6「墨」のダブッた所は、測定個所から除く。(たとえば「十」の字の交点)
7一字の中の黒化濃度及び透過率の逐次変化を数値化し、表示するとき、当原本執筆者の筆癖・筆風・個性が表現される。これを「筆圧曲線」と呼ぶ。
以上の方法にもとづく、親鸞文書中の懸案個所に対する検証は、いちじるしい「成果」を生んだ。
たとえば、教行信証坂東本(親鸞自筆本)の元仁元年項の上欄における
「元仁者 後堀川院諱茂仁
聖代也 」
の書き入れ中、「後堀川」のみは、別人(親鸞以外)の筆跡による後時挿入であることが判明し、従来の教行信証成立論上の「一矛盾点」と見えていた(喜田貞吉等による)難点を解決しうるに至ったのである。
けれどもこの場合、
(一)問題の文字群「元仁、後堀川、院」等及び本文が、いずれも、同一料紙上であること。
(二)親鸞筆跡が当坂東本において、また他の文書群(西本願寺・高田専修寺等)において、多量に確認されていること。
以上のような、前提条件に恵まれていたこと。この一点の認識が肝要である。
二
今回調査対照とした「宝剣額」(第一集、参照)の場合、右の親鸞筆跡の場合と比して、差異点と共通点がある。
〈差異点〉
(1) 秋田孝季の筆跡とされる「伊達鏡実録」などが存在するけれども、これらはいずれも料紙の上に書かれてあり、当額のように「板」の上に書かれたものではない。
(2) また右の「料紙」上の場合、流麗な草行書風であるのに対し、本額の場合は、主として楷書風であるから、比較しがたい。
(3) 和田長三郎吉次に関しては、「自筆」と見なされうるものが、一段と乏しい。
(4) このような奉納額の場合、プロの書き手(職人)の手(筆跡)による場合が多く、必ずしも「奉納者(この場合、孝季と吉次)自身の手(筆跡)」によるとは限らない。
〈共通点〉
当「宝剣額」内の文字を、相互に比較する場合には、「同一材質」上の墨字として、一定の、比較上の「安定性」をもつ、といえよう。
以上のような、測定とそれにもとづく判定上の注意をはらいつつ、当額の測定を行った
(測定は、凸版印刷(株)総合研究所、生産技術センター、安藤・広田氏による)。
第一、筆圧曲線の場合。
安藤氏の報告にあるように、
(α)土崎住 秋田孝季
(β)飯積住 和田長三郎
につき、両項中の同一字である「住」の字に検査を集中したところ、両筆跡は「別人」である可能性の高いことが判明した。
第二、光学反射濃度の場合。このケースも、右と同じく、両筆跡のしめす「光学反射」の様態は、かなり異なっていること、巻頭掲載カラー写真のしめす通りである。(下図)
以上の検査結果のしめすところは、次のようだ。
「秋田孝季の項と、和田長三郎の項とは、それぞれ別人の筆跡である可能性が高い。」と。
この結果に対し、
(一)当「宝剣額」の筆跡は、孝季と長三郎(吉次)と、両人の筆跡を反映している。
(二)当「宝剣額」の作製者(職人)が、二人がかりの手(筆跡)で作製したもの。
のいずれか、と考えると、その判別は自然科学的立場からは、何ともいえない。
ただ、(二)のケースが、かなり「不自然」であることは、否みえぬところであろう。
なお、当「宝剣額」や他史料をめぐって行われた、各デンシトメータ検査は、今後「寛政原本」の出現によって、新たな「効果」を生ずること、十分に期待しえよう。
和田家文書に関する、簡明な“科学的検証”が、明確な「効果」をもたらした一例をあげよう。
「武州雑記帳」という表題のもと、「石塔山大山祗神社印」の押された文書が収録されている。
これは「神社と農民」との間の「金銭貸借関係」をしめす近世文書である。
「覚」という表題のあと、農民の各別の名前と押印が連ねられたのち、末尾に次のような記載がある。
「右石塔山大山祗神社
總代 認(神社印)
和田長三郎
辛未
十二月八日取立
壹岐殿 」
ところが、右の文面に「えどり字」があり(「三郎」を除く)、「神社印」が「認」字の下端部の上に押印されていることから、これを和田喜八郎氏の「偽造」とする輩がいるようである。
けれども、この「第一紙」にある「神社印」の場合、逆に「神社印」を先ず押印した上に、墨書がなされている。この点、カラーコピー(四倍拡大、巻頭口絵)で明白である。もとより、末尾の筆跡も、「喜八郎氏の筆跡」とは、似ても似つかない。この文書の末尾の「辛未」は、当文書全体に現われた年次が「幕末〜明治初」の間であることから見ると、「明治四年(一八七一)」であると思われる。「五ケ年」の貸借であれば、慶応三年、「一ケ年」であれば、明治三年の文書となろう。
和田家の菩提寺たる長円寺の「過去帳」によれば、この時点では「権七」の子、末吉が「長三郎」の稱を継いでいるようである。この長三郎は、末吉であろう。
和田家文書内の末吉の「自文」によれば、末吉は「神職」などの稱号を辞し、同村(現、五所川原市)内の「和田壹岐」にこれを譲った旨、記している。(薩長政権側の“圧迫”に対する「策」であった、という)
この文書の“あて名”は、その「神職」の人を指しているようである。
喜八郎氏によれば、この種の文書はおびただしく所蔵されているとのことであるから、幕末〜明治初期の「村方(むらかた)文書」の研究者にとっては、垂涎の的、基礎史料の宝庫であろう。
1994/11/07
凸版印刷(株)総合研究所
生産技術センター 広田
(以下 略)