これは1996年版6月30日発行の序文・目次です。本書は、1975年、富山房から刊行された。

親鸞思想

その史料批判
古 田 武 彦 著

明石書店

 『親鸞思想』の新版に寄す

  親鸞は運命である。わたしの学問研究を導く、無上の炬火、それが親鸞思想であった。もとよりそれは、信仰ではない。学問である。あるいは机上で、あるいは竹林の散歩道でわたしは親鸞の残した一字一句と対面し、それを反芻してきたにすぎない。しかしふりかえってみれば、それはわたし自身にとっては、すなわち、わたし自身の内面の一画に、信仰以上の信仰ともいうべき、生命の炎として存在する。それを知って今さらながら、愕然とせざるをえないのであった。
 三十代を中心として、わたしは親鸞研究に没頭した。それは必ずしも、いわゆる研究を目的とするものではなかった。学術誌に己が業績を累積する。そのための研究ではなかった。ただ、人間とはいかなる存在か、自分がその一人として生きるに値する存在か、その検証なのであった。
 そのような奇矯な問いかけは、一九四五年にはじまる。敗戦の年である。わたしは弱冠一八歳であった。人は一夜にして変身した。昨夜は皇国主義を謳歌し、今日は民主主義を是とする。それが一般であった。大学教授から小学校教師まで、高僧から政治家・官僚まで、是非を一変させて恥じることがない。青年の目にはそのように見えた。そして人生の前途に深く絶望したのである。
 そのとき、わたしの脳裏に一人の姿が浮かび上がった。親鸞である。旧制広島高校でふれた歎異抄、あのような言葉を語った人も、やはり時代と共に己が言説を適応させたのか。そのような人間であったか、否か。その検証に己が生命の存否を賭けたのである。
 性急にして愚かなる、笑うべき思いこみと表すべきであろう。然しわたしにとってそれは、至上の問いであった。厳粛なる疑問と化していたのである。
 そのさい、頼るべき解説書はなかった。なぜなら高名な学者や評論家は、一夜にして変身した。わたしの目には、そう見えていたからである。それ故、自分の手で自分の目で確かめる以外にない。これがわたしの方法となった。親鸞の書き残したものを、直接読む。くりかえし読む。活字本から写本、写本から自筆本、わたしの探求は否応なく前進した。写真による歎異抄蓮如本研究から、教行信証坂東本研究へ、その根本は己が目による、直接の認識であった。
 その結果、わたしの所願は達せられた。五十代から八十代にかけて添削し抜かれた坂東本、その中に「主上臣下、背法違義」をめぐる一節は、一字一句の変化なく保存し通されていた。その光景を確認した。その筆跡は、坂東本の基本筆跡であり、五十代を遡るものではありえないけれども、その文章の成立は三十代、土御門天皇(一一九八〜一二一〇)を「今上」とする時代、承元年間という流罪期間内の造文であったことを認識しえたのである。爾来、親鸞は己が魂としてこの一句を守り抜き、九十歳の人生を終えたのである。
 人間は時代より偉大である。権力の変転は人生に比べれば表皮にすぎぬ。この真実をわたしは知ったのである。
 このような経験は、その後のわたしの学問研究を性格づけた。学界の定説に依存せず、己が目による、人間の認識にのみ依拠する。活字に満足せず、原史料へと沈静しつづける。自然科学的な認識方法を尊重する。そして何よりも、ことの真実のみを求め、他の一切を顧慮せぬ。それがわたしにとって、唯一の学問の方法となったのである。
 四十代以後、わたしが古代史の研究に向かった日も、この方法は一貫した。否、この方法こそがわたしの生命であるから、その対象は何物であろうとも、それはただ対象の変化にすぎなかったのである。わたしには、他に学問と呼ぶべきものは存在しなかったのである。
 たとえ倭人伝あれ、たとえ古事記・日本書紀であれ、たとえ神社伝承であり、たとえ和田家文書(青森県)のような記録文書であれ、わたしの方法に一切変化はなかった。否、学問とはわたしにとって、それ以外の何物でもあり得なかったのである。
 今、本書公刊以後二十余年にして、装いを新たにし、書肆を新たにして公刊されることになり、深い感慨を憶えざるをえない。それはわたし自身の「愛知」の探求にすぎないのであるけれど、なお一書の生命を保つとすれば、これ以上の幸せはない。
 最後に一言する。今、自己の研究の発端についてのべ、それがわたしにとって孤立の探求のあっでことを語った。しかしそれは同時に、あまりにも多くの方々の御支援の賜物であった。岡田甫(はじめ)・村岡典嗣(つねつぐ)・宮崎圓遵・藤島達郎・平松冷三・家永三郎、さらに赤松俊秀氏も加え、このような方々の御力なしには、わたしの研究は成り立ちえなかった。孤立は万人の守護の下にある。深い人生の不可思議に驚かざるをえない。

 一九九六年五月八日
                                 古田武彦
                                   六九歳

 付言
 今年三月三十一日、わたしは十二年間の教職(昭和薬科大学)を退き、京都郊外の旧屋に復した。無位無冠、本来の姿に立ち、親鸞研究においても第一歩から、歩みはじめることとなろう。
 「みだ仏は、自然(じねん)のようをしらせむれうなり」(顕智、聞書、正嘉二歳)と語った。親鸞の最晩年の内奥に対面しうれば幸いである。

 

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目次

序  家永三郎

自序

第一篇 親鸞の思想 1

第一章 若き親鸞の思想 36

第一節 新史料「建長二年文書」の史実性 3

第二節 新史料と恵信尼文書 36

第三節 新史料の思想性 62

第二章 親鸞の中心思想 ー三願転入の論理ー 86


第三章 親鸞生涯の思想 143

第一節 「承元の奉状」の思想性 143
第一項 教行信証著作の動機 143
第二項 親鸞の思想責任(その一) 150
第三項 親鸞の思想責任(その二) 154
第四項 親鸞の思想責任(その三) 157
第五項 教行信証構成の秘密 163
第六項 「愚禿親鸞」自称の意義 167
第七項 教行信証における対権力者観 172

第二節 逆謗闡提 184
第一項 親鸞の「逆謗闡提論」に対する後代の理解 184
第二項 「逆謗闡提」の歴史上のおける意義 193
第三項 法事賛における「逆謗闡提」 197
第四項 親鸞の指さす「逆謗闡提」の中核としての具体的人物 197
第五項 親鸞以前の仏教史上の天皇観 203
第六項 「逆謗闡提」の総体概念 208
第七項 後代の理解 211

第三節 親鸞晩年の思想
213
第一項 法然追悼の賛文 214
第二項 恩光未だ報答せず 217
第三項 法然の遺志 220
第四項 「遺志」と「報答」 224
第五項 「信巻銘文」の思想 228
第六項 「逆謗闡提」に対する最終の回答 231
第七項 後鳥羽院の死に際して 232

第二篇 資料の研究
233

第一章 消息文・文集 233
第一節 親鸞「消息文」の解釈について ー服部・赤松両説の再検討ー 235
第二節 性信の血脈文集と親鸞在世集団 ー新史料「蓮光寺本」をめぐってー 253

第二章 歎異抄 332

第一節 歎異抄の歴史的意義 332

第二節 原始専修念仏と親鸞集団の課題 ー史料「流罪目安」の信憑性についてー 409

第三節 歎異抄蓮如本の原本状況 ー「流罪目安」切断をめぐって 409
第四節 蓮如筆跡の年代別研究 ー各種真蹟書写本を中心としてー 427
第五節 口伝と証文(正) 445
第六節 口伝と証文(続) 445

第三章 教行信証 503
第一節 親鸞の奉状と教行信証の成立 ー「今上」問題の究明ー 503
第二節 坂東本の史料科学的研究 ー教行信証成立論の新基礎としてー 560

第三節 原教行信証の成立 ー元仁元年問題の史料科学的研究ー 594

第四章 建長の連署と親鸞の事書 ー二十四輩文書の真作性ー 633


附篇

第一節 親鸞の歴史的個性の比較史学的考察 679
第二節 親鸞聖人血脈文集蓮光寺本(新出テキスト) 703

あとがきに代えて 711


    

 本書の著者は東北大学に学び故村岡典嗣先生に就いて日本思想史学を専攻し、近年まで育英の業に従事しつつその専攻の研究にいそしみ、めざましい業績を次々とあげてこられた篤学の士である。たまたま私が村岡先生逝去直後東北大に出講したという縁故により、著者は二十年後の今日まで上京されるごとに陋屋を訪れて研究の成果を私に示されるのであるが、そのたびにいつも学界の通念を根本からうち破る新説をもたらすのを常とした。その精進ぶりには舌を捲かないでいられないばかりでなく、研究を語るときの著者のつかれた情熱に接すると、怠惰な私など完全に圧倒されてしまうのであった。
 今、著者が全力投球の意気ごみでとりくんできた親鸞研究にひとくぎりのついたのを機会に、富山房から一冊の論文集が上梓されることとなったのは、まことによろこびにたえない。親鸞研究に豊富な新知見を加上する本書の公刊が、学界に寄与するところ絶大なもののあろうこと、とくにもともと活発*な親鸞研究をいっそう促進する強烈な刺激となるであろうことは、私の信じて疑わないところである。

発*は旧字

 本書の学問的価値は、読者が直接本書を読まれればただちに理解せられるはずであるから、ここで蛇足を加える必要はないように思うが、あえて一言すれば、精緻で周到な基礎的考証とそこから導き出される斬新な事実認定と鋭い問題提起とが、本書の生命ではなかろうかと思う。著者は、多くの研究者が今までさんざんに使い尽くしてきた周知の文献につき、原本の書風・用紙等に対して、自然科学的技術まで駆使した調査を進めたり、用語・文体・字配りを歴史的用例とつぶさに照合したりするなどの、水ももらさぬ周到な実証的方法をもって縦横に再検討を加え、その結果、あるいは教行信証序・蓮如本歎異抄奥書の成立について、あるいは教行信証三願転入文の解釈について、あるいは血脈文集のテキストとその変形過程について、その他、これまでの研究者の誰一人も思い及ばなかった新知見のかずかず見出したのであるが、そのような精緻な考証が、実証学者の往々にして陥りがちな、些末な事実のせんさく、考証のための考証に終わることなく、それぞれがいずれも親鸞の思想における根本問題は何かを改めて考え直すための重大な問題的につらなっているのである。手堅い文献学を通して歴史上の思想の内奥に迫ろうとする村岡思想史学の最良の開花の一典型をここに見ようとするのは、あまりにも著者の学問的系譜に拘泥した私のひがめであろうが、それはとにかく、本書には従来の親鸞研究を大幅に書き改めようとする対決の姿勢が随所に示されており、たとえ著書の結論にただちに同意しがたいとする人にあっても、本書に示された実証と問題提起とを無視することだけは今後到底不可能であるに違いない。
 研究生活の出発点以来親鸞研究を究極の目標としながらも、ついにその課題を果す力なくして方向を転換してしまった私に、本書の序文を書く資格があるかどうかさえ疑わしいが、それだけに自分の極めえなかった大きな達成のひとつが世に出ることは、わが事のようにうれしく、著者に請われるままに、あえて蕪辞を寄せて本書の公刊を祝う次第である。

  一九七四年 新春
                     家 永  三 郎


  自 序

 親鸞の研究はわたしにおいて、一切の学問研究のみなもとである。わたしはその中で、史料に対して研究者のとるべき姿勢を知り、史学の方法論の根本を学びえたのである。
 最近、わたしはふとしたことから古代史の深山に踏み入ることになった。三国志の中に「邪馬壹国」を見、宋書・隋書・旧唐書などにおいて「九州王朝」の実在を知ったのである。けれども、これらの新事実に遭遇しえた、その理由はほかでもない。かって親鸞研究において学びえた方法、“原史料を尊重せねばならぬ。それゆえ、その一字一句をも、後代の研究者は軽易に改変してはならぬ。”ーこの鉄則を古代史の史料にもまた、適用したにすぎなかったのである。
 さにあれ、この一書は誕生の前から数奇な運命を経験した。かって京都の某書肆から発刊することとなり、出版広告まで出されたにもかかわらず、突然、ある夕、その書肆の一室に招かれ、特定の論文類の削除を強引に求められたのである。当然、その理由をただしたけれども、言を左右にした末、ついに「本山に弓をむけることはできぬ。」この一言をうるに至った。
 わたしの学問の根本の立場は、“いかなる権威にも節を屈せぬ”という、その一点にしかない。それは、親鸞自身の生き方からわたしの学びえた、抜きさしならぬ根源であった。それゆえわたしは、たとえこのため、永久に出版の機を失おうとも、これと妥協する道を有せず、ついにこの書肆と袂をわかつ決意をしたのである。思えば、この苦き経験は、原親鸞に根ざし、後代の権威主義に決してなじまざる本書にとっては、最大の光栄である、いうほかはない。ーわたしはそのように思いきめたのである。
 けれどもその後、幸いに事情を知られた家永三郎氏の厚情に遭い、今回、東京都の富山房より出版しうることとなった。かって少年の日、わたしは富山房の百科事典を父の書棚に見出し、むさぶるように読みふけった思い出がある。本の乏しい戦時中であった。今、ここよりわたしの初の論文集を刊行しうることとなったのは、一個の奇縁と言うべきであろう。
 そののちさらに、わたしの古代史研究の没頭にともない、担当せられた石田毅には重ね重ね迷惑をおかけすることとなった。
 そしてようやく上梓の日をむかえ、恩師村岡典嗣先生をはじめ、わたしの親鸞研究の進展の歩みの一つ一つに力をかされた多くの方々。そのひとりひとりに向って、今深く、感謝のまなざしをむけさせていただきたいと思う。

 一九七三年十月二十六日深夜
                             古 田  武 彦

(つぎにわたしの各論文を発表時期別に掲載した。この発表順序どおりにお読み下さるならば、わたしの研究の展開にそい、時間的に筋道だった読み方がしていだだけることであろうと思う。
 なを、既発表論文の場合、認証表記・略字等、全体の統一上の些少の変更の他は、原型のままとした。)


発表論文 順序 (未発表論文は昭和43〜46年)

(一)親鸞「消息文」の解釈について
    ー服部・赤松両説の再検討ー
       史学雑誌 64〜11 昭和30年

(二)親鸞の歴史的個性の比較史学的考察
    ー対権力者におけるイエスとの対照ー
      神戸大学教育学部 研究集録 第11集 昭和30年

(三)歎異抄の歴史的意義
        文化 20〜5 昭和31年

(四)原始専修念仏運動における親鸞集団の課題(序説)
        ー「流罪目安」の信憑性についてー
        史学雑誌 74〜8 昭和40年

(五)性信の血脈文集と親鸞在世集団
     ー新史料「蓮光寺本」をめぐってー
        史林 49〜3 昭和41年

(六)歎異抄蓮如本の原本状況
        ー「流罪目安」切断をめぐってー

(七)親鸞の奉状と教行信証の成立
     ー「今上」問題の究明ー
      『真宗史の研究』 永田文昌堂 昭和41年

(八)蓮如筆跡の年代別研究
     ー各種真蹟書写本を中心としてー
         真宗研究 11   昭和42年

(九)坂東本の史料科学的研究
    ー教行信証成立論の新基礎としてー
         仏教史学 13〜1 昭和42年

(十)原教行信証の成立
    ー元仁元年問題の史料科学的研究ー
         日本思想史研究2  昭和43年

(十一)口伝と証文(正)
        中外日報(4・18〜5・7) 昭和45年

(十二) 口伝と証文(続)
        中外日報(12・15〜1・19) 昭和45年〜46年


目次そのものは古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2 親鸞思想ーその史料批判ーと同じです。

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