古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 2
第二節 原始専修念仏における親鸞集団の課題ー史料「流罪目安」の信憑性についてー一〜六
インターネット事務局注記 2003.7.15
これは論文のコピーです。本来は縦書きの文書を、横書きにしております。また史料批判の対象である漢文そのものが、表示が困難なため一部略しております。論証には影響ありませんが、これを元にして史料批判は出来ません。古田氏の著作を閲覧して下さい。
親鸞思想
その史料批判
古 田 武 彦 著
明石書店
第二章 歎異抄
第二節 原始専修念仏運動におけると親鸞集団の課題〔序説〕
ー史料「流罪目安」の信憑性についてー
一
それが産出せられた時代においては、不可欠の重大な意義をになっていたにもかかわらず、時代的契機の変遷につれて、かえって軽視せられ、無視せられ、果ては、現代の専門的研究家によってさえ原文より削除せられようとしている一箇の史料がある。歎異抄末尾に存する「流罪記録」がそれである。
はやく江戸時代の講説者香月院深励が、つぎのように述べた。
コレハ一向此鈔ニカヽリ合ハヌ事ナリ。併シ無理ニ義ヲ付ケナバ云ハレヌ事モナケレトモ。私ニ考フルニ彼文ハ余ノ聖教ノ附録ニシテ書キ添ヘト見エタリ。然ルヲ此鈔ノ附録ト濫入スルトミエタリ。
(1)
これはこの記録を、原文よりまったく隔離する見地であった。
これに対し、歎異抄聞記をのこした幕末篤学の士妙音院了祥は、この一節を原著者によるものとはしながらも、これは、親鸞の御消息集や御本書(教行信証)等を、「大切の証文」として抜き書きしたものに、原著者が私に添えたものである、とした。すなわち、その主要部たる「大切の証文」は後人によって省かれ、この流罪記録のみ「此鈔の末尾に後人が写し置いたで有らふと見えるで」と言った。
(2)
ここでは、この記録はその原存在を否定られこそしなかったけれども、彼はそれ以上この記録について言及せず、その積極的な意義は認められなかった、と言っていい。
この了祥説を現代にうけつぐのが、梅原真隆氏である。氏はこの記録を、親鸞が「法然門下の正統の弟子であることを示す (3)」ものであり、「師資一味の信心」に住せられたことを証明するものである、とせられた。しかしながら、附録は、法然や聖覚や隆寛のものの抜萃が主体であり、それらは今は散佚して、その断片たるこの記録を残存せしめているのみである、とされる。これは、現今の研究者の中ではもっともこの記録の価値に留意したものではあるけれども、それ自体の完結性を承認せず、残存物としての不完全な意義しか認めない立場にとどまっているのである。
この点、金子大栄氏のごとき、もっと率直に、この記録は「何の為に附記せられたかは、明らかではない (4)」としてその意義を不問に付し、さらに、「写本の中には、この附記のないものもあるのである
(5)」として、この記録の信憑性への疑問を暗示せられているのである。かかる氏の態度は、現今のおびただしい量にのぼる歎異抄解説書ー宗門的たると教養的たるとを問わずーにおよそ共有せられているものなのである。
特にわれわれにとって看過できないのは、現代のもっとも専門的な研究家によって、この記録の意義どころか存在まで原文から抹殺せられとする見解が、後述のごときさまざまの「実証」や「論証」をともなって現れ、これが親鸞聖人全集の解題(言行編一)にも採用され、さらに、新しい版本(岩波古典文学大系『親鸞集 日蓮集』)にもこの記録が削除したものが採用され、ようやく定説化せられつつある点である。
しかしながら、本論文のめざすところは、単にささやかな一書の、なおささやかな一節の原存在と意義を回復せんとすることにとどまるものではないのである。古代末期の専修念仏集団をつつんでいた固有の緊張と、この集団のイデオロギーと宗教的高揚の産出を促進した、その真の動機を思想史的側面から明らかにせんとするものなのである。
けれども、本論文は、歎異抄末尾の史料の現存在性を立証するために、しばらくこの序説において子細の考証を行わなければならない。けだし、一箇のささやかな存在への容疑を加えるのは容易であるのに反し、その容疑を反証するためには多大の立証操作を要するものだからである。しかし、この小部分を脅かしていた原存在への疑いが解消する時、はじめて、その現存在を脅かされて苦闘しつづけ、そのため、かえって見事な思想的対応を生み出していった、原始専修念仏集団のエネルギー発出の動機を証する道の基礎が開けるのを見るであろう。
現存最古の写本たる、蓮如本による「流罪記録」原文を左にかかげる。蓮如本を底本とする、幾多の刊本が流布しているけれでも、姫野誠二氏の『歎異抄の語学的解釈』を除いて、他のすべての刊本は、編者の主観をもって改変して刻版せしめている箇所が存する。しかもその箇所こそ、本論文の原典批判の論証過程に関与すること後述のごとくであるから、今、原型のまま掲載する。(:は底本改行箇所)
後鳥羽院ノ御宇法然上人他力本:願念佛宗ヲ興行ス〒時興福寺:僧侶敵奉之上御弟子中狼藉:子細アルヨシ旡實風聞ニヨリテ:罪科ニ處セラルヽ人數事
一法然聖人并御弟子七人流罪又:御弟子四人死罪ニオコナハルヽナリ聖人ハ:土佐國番多トイフ所ヘ流罪罪名:藤井元彦男云々生年七十六歳ナリ
親巒ハ越後國罪名藤井善信云々:生年三十五歳ナリ
浄聞房備後國澄西禅光房伯嗜國:好覺房伊豆國行空法本房佐渡國:幸西成覺房善恵房二人同遠流ニ:サタマルシカルニ旡動寺之善題大僧正:コレヲ申アツカルト云々
遠流之人々已上八人ナリト云々
被行死罪一人々
一番 西意善綽房
二番 性願房
三番 住蓮房
四番 安楽房
二位法印尊長之沙汰也
親鸞改メテ僧儀ヲ一賜(タマ)フ俗名ヲ一仍テ僧ニ非スレ俗:然間タ以テ禿ノ字ヲ一為シテレ姓ト被レレ經ヘ二奉問ヲ一了:彼ノ御申シ状〒今一外記廳納ルト云々:流罪以後愚禿親鸞令シメレ書給也
二
多屋頼俊氏は、その著『歎異抄新註』において、この記録は「後人の書き添へた裏書 (6)」であるとし、原文からの完全削除を主張された。この説は、やがて宮崎圓遒
(7)氏、姫野誠二 (8)氏、金子大栄 (9)氏の承認されるところとなったのである。その多屋氏の論説の決め手となったのは、つぎの点である
「蓮師本では(この本、今は巻子本となってゐるが、もとは半紙に半面六行に書かれたもので、袋綴になって居たと考えられる。いま袋綴の形に還元して云ふと)、前葉裏の三行目で本文は終り、つぎの三行目分空白、次に白紙一枚を置いて、その次から書かれて居り、・・・即ち古寫本、板本の大多數はこの文を載せて居らず、蓮如聖人本や永正本も紙を別にして本文と區別して居る。これは此の文を古来本文の一部分とは見て居なかった事を示すものであらう。」(10)
一件実証的に見える右の論拠から、この文は「歎異抄としては、本来はなかった(11)」と論断される時、大いなる飛躍が存する。蓮如本中に行をあけたり、“紙を別にし”たりした当の人物は、蓮如なのであり、その後に「右斯聖教者為当流大事聖教也・・・」(傍点古田 インターネットでは赤色)と奥書を附したのも蓮如なのであるから、右の事態は、氏の帰結とは逆に、つぎの二点を指示するものではあるまいか。
つまり、第一に、改行改紙はけっして“この記録がこの書に含まれない”との意味をもつものではないのであって、蓮如自身、この「流罪記録」を、「右斯聖教」の中に含ましめて考えていた、ということである。さらに第二に、蓮如の見た原本(それが原著者筆のものかどうかは不明であるけれども)では、この記録が歎異抄原著者に属するもの、としての体裁をとっていた(少なくとも蓮如にはそのように見えていた)ということである。
これからすれば、むしろ氏の推論とは逆に「古来」「歎異抄の一部と見なされていた」ことになるのではなかろうか。
しかし、今の場合われわれに必要なことは、氏の「今日から見ると根拠のないもの」「もはや論ずるには及ばない(12)」等といった断案にもかかわらず、その決め手をなすはずのものが何らの証明を構成し得ていない、という一点を認識すれば足りるのである。逆に、この記録が原著者のものに属する、という積極的な証明は本論文の次段以降において詳細に立証せられるであろう。
三
別の見地から、蓮如本の後代性を論ぜられたのは姫野氏である。流罪記録を有する蓮如本(13)に対して、流罪記録を有しないものの最初にある古写本龍谷本(14)をあげて、氏は次のように述べられる。「ただ和語を多く漢字で表している点では(蓮如本では、そうした漢字を意識的に仮名書きに改めているふしがある)、恐らくこれ(龍谷本を指すー古田)は原本に近かろう。(15)」とされた。
たしかに、姫野氏の言われるように、蓮如本が仮名書きしている所を龍谷本が漢字表記している箇所は、筆者(古田)の検出によると、一三六個を数える。(逆に、蓮如本が漢字の所を、龍谷本が仮名表記している箇所六箇所)けれども、実は姫野氏の「漢字より仮名へ」と書き改められたという推測とは逆に、この転移が「仮名より漢字へ」の形でおこった、とする実証が得られるのである。
<蓮如本> <龍谷本>
A シヽ (十三条)ー 鹿(シカ)
B マタク(結文) ー 全(マチタク)
これに対して、親鸞自著自筆本に、「鹿(シシ)」の訓を検出し得る(16)。また三宝絵の東寺本は、文永十年(一二七三)書写とあって、歎異抄成立と同時代のものであるが(17)、「鹿(シヽ)」「鹿 (シ)」「鹿シヽ」とあって(18)、この時代に鹿に「シヽ」の訓があったことが知られる。
つぎにBについては、かかる促音省略表記法が古く平安初期成立の経典訓点史料に出現していることはよく知られたところであるが(19)、親鸞自著自筆本にも数多く出現する。
○それ衆上あて(一念他念文意129 )
○従(シタガテ)、遇アテ、為ナテレ人ト、反(カヘ)テ、還到(カヘリイタ)テ、(以上行巻)
挙(コゾ)テ、何因縁アテカ、有(タモテヨリ)レ国ヲ(以上信巻)
全(マタク)(化巻3箇所出現)
これに対し、覚如の口伝抄自筆本では、「もとも」「あやまて」「もはら」の三例を見るに過ぎず、「全」については、「またう(20)」と書いている。さらに、蓮如の自著自筆本においては、促音省略表記は「もて」「よて」以外は存しない。このような時代的変移に対し、蓮如本と龍谷本の表記法を対置してみよう。
<蓮如本> <龍谷本>
1 アツカテ(六条) アツカリテ
2 アヤマテ(十二条) アヤマリテ
3 ヒトアテ(十二条) ヒトアリテ
4 シタカテ(十八条) シタカヒテ
5 マタク(結文) 全(マチタク)
右に対して、逆の例(蓮如本が普通表記で、龍谷本が促音省略表記になっているもの)はまったく見られない。これによってみると、まず蓮如本は、この点で蓮如自身の表記法慣例を反映していないことが判明する。したがって、蓮如の書写原本にあった、と見るほかはない蓮如本表記法は、まさに親鸞と覚如の中間の位置にあることを思わせる。
したがって、この特殊表記の全体としての対比結果自体が、蓮如本と龍谷本の実質内容の先後関係を推定せしめるものなのであるが、さらに、この見地から前記Bの例、「マタク ー 全(マチタク)」の関係を見ると、親鸞の自署自筆原本に「全(マタク)」の用法を三箇所にわたって検出し得るのであるから、この場合も、「漢字より仮名へ」の転移ではなく、「仮名より漢字へ」の転移が生起した証とせねばならない。
以上によって、この問題は、姫野氏の推測とは逆に、蓮如本のほうを龍谷本に比してより古いものとする指向性を与うるに終わった。
四
金子大栄氏は、つぎの三点をあげ、永正本(流罪記録を有しない)に比して蓮如本は「より後代的のもの」とある、と論述された。(21)
(一)歎異抄の「抄」の一字を、蓮如本はすべて「鈔」と記しているが、永正本の「抄」の字の方が古い。
(二)「候」を永正本が、「さふらふ」と読むのに対し、蓮如本は「さふらう」と読んでいるが、「さふらふ」が原型で、鎌倉時代は大体「さふらふ」が用いられた。
(三)永正本は仮名遣いが乱れ、「オ」の場合にも、「ヲ」を多く用いるのに対し、蓮如本はほとんど「オ」である。仮名遣いの紊乱した平安末ー鎌倉時代に相当しているのが前者であり、仮名遣いが徐々に統一した室町時代に相応しているのが、蓮如本でる。
氏の論拠について、左に点検してみよう。
(一)「抄」と「鈔」・・・この点は明らかに氏の錯覚であって、蓮如本は三箇所とも全部(22)「抄」であり、かえって永正本・大谷本とも末尾一箇所を「抄」とするほかは「鈔」の字を用いているのである。
(二)「候」表記・・・歎異抄の中に「候」の出現は一一八箇所を検するが、その蓮如本による内訳はつぎのとおりである。
A a未然形(サフラハ)18
b連用形(サフラヒ)28 ーウ音便を除くー
c已然形
命令形(サフラへ)12 (c計)
B a終止形
連体形
連用ウ音便(サフラウ) 53(a計)
b連体形
終止形 (サフラフ) 6(b計)
右表中、上段(A)グループは、いずれもハ行に活用しているのに対し、「サフラウ」と発生する場合の大部分(53/
59)をウと書くのである。この点を真蹟書簡等の親鸞自著自筆本に検すると、そこでもハ行活用表記と見なされる「候」は、いずれも右表Aグループに属する未然形・連用形・已然形・命令形に当たるものに限られ、Bグループのごとき終止形・連体形・連用形ウ音便の形については、いずれも口をつぐんだごとく、「候」とのみ書いて「ウ」「フ」共に表記しないのである。(23)
さらに、この問題について、親鸞古写本書簡中、親鸞面受の門弟顕智の書写本(24)がその鍵を提供する。十一箇所存する「候」の中の内訳は、つぎのとおりであった。
A a未然形(さふらは) 1
b連用形(さふらひ) 0
c已然形(さふらえ) 2
B a終止形
連体形(さふらう) 8 (a計)
ここでは、已然形がア行音便形に表記されている点が蓮如本の表記と異なるのみで、他はほぼ一致している。
この問題の第二の鍵は、親鸞真績書簡に見出される「はからう」の語14を検することによって得られる。
A a未然形(はからは) 0 ー唯信鈔文意専修寺本に一例有り
b連用形(はからひ) 4
(はからい) 7
c已然形
命令形(はからへ) 0 (c計)
B a終止形(はからう) 3
連体形(はからふ) 0 *ー唯信鈔文意専修寺本に一例
尊号真像銘文広本に二例あり
右表の示すところは、上段Aグループが主としてハ行に活用し(ただし「はからい」を除く)、下段グループは、「ウ」と表記する、という点(厳密には終止・連体で、「ウ」「フ」混用であるという点も含めて)から、前にあげた蓮如本の「候」表記と相似関係を有するもの、もしくはその方向を示すものと言い得るであろう。
さらに、第三の鍵として、建治元年(一二七五)の「紀伊国阿弖百姓等申状」の中の「候」表記が存する。
「ヲレラカコノムキマカヌモノナラハ、メコトモヲヲイコメ、ミミヲキリ、・・・サエナマント候ウテ、」
ここには明らかに「さふらう」という表記が鎌倉期の歎異抄成立期に行なわれた証跡が現れている。(25)
むろん、かかる少数の例からは、積極的な一般的断定のなし得ぬことは言語追跡のルールから見て当然のことである。けれども逆に、金子氏のごとく、鎌倉時代が「さふらふ」であり、後代に「さふらう」に変じた。したがって、「う」を用いる蓮如本より「ふ」を用いる永正本のほうが古い、といった、大まかな論法の断定がいかに危険であり、根拠をもたないか、ということは明らかに指証されているものと言わねばならぬ。(26)
(三)「オ」と「ヲ」・・・歎異抄中に出現する三四八箇所の「オ」「ヲ」について、蓮如本・永正本・龍谷本を対比する時、つぎのようである。
A 目的格の「ヲ」 二〇六箇所(三本共通)
B 目的格以外 一四二箇所 a三本同じもの 一一一箇所
b三本で異なる所あるもの 三一箇所
右の中、問題となるべき箇所は、Bーbであるから、左にそれを表記して、親鸞の自著自筆本および蓮如の自著自筆本の同語表記例と対照しよう。
(次頁に掲載、ただし、インターネット版では、JPEG画像として掲載。)
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この表によって、明らかなように、蓮如本の「オ」表記法はここでもきわめて高い確率で、親鸞自著自筆本の「オ」表記法に一致する。永正本・龍谷本は、これに反する(28)。ここには前記金子氏の論定とは逆の帰結が示されている。
以上のようにして、金子氏が蓮如本の後代的なものとして推定せられた論拠三点につき検証したところ、それらはいずれも事実に一致していなかった。のみならず、かえって蓮如本表記が高い確率をもって、親鸞自著自筆本(及び歎異抄成立期書写本)の表記法に一致相応していることが立証された結果となったのである。
五
蓮如本には、後代の「誤脱」が多いとせられ(29)、現代の代表的研究校訂者は、これらを「明らかな写誤(30)」として訂正している。けれども、今、子細にこれを検証する時、実はそれらが歎異抄成立期に属し、その後失われた特異語法を反映するものに他ならなかったことを明らかにし得るのである。左にそれを述べよう。
(一)「ヲ」の畳用表記について
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<蓮如本>
フタツノ不思議ヲ子細ヲモ分明ニイヒヒラカスシテ(第十一条)
<他の六古写本>
フタツノ不思議ノ子細ヲモ分明ニイヒヒラカスシテ(六本共)
<現代校訂者>
六本に同じ(姫野氏)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
通常の見地では、六本のほうが正文と見えるにもかかわらず、われわれは今昔物語集に左の諸例を見出す。(31)
○我レ年来観音ヲ像ヲ顕サムト思フ心有リ(三、
122-3)
○其ノ家ニ盗人入テ絹ヲ十疋ヲ盗ミ取ツ(三、
575-2)
○此ノ被負(オハル)ル男、負ル男ヲ肩ヲヒシト食タリケレバ(四、
542-12〜13)
右は頻出例の一端であるが、鎌倉中期を降らぬ頃の書写とされている鈴鹿本の現存部分にも出現する(右第三例)のであるから、かかる表記法が、平安末ー鎌倉期に属するものであることは確実である。したがって、前記「不思議ヲ子細ヲモ」と表記する蓮如本は、歎異抄成立時代の語法をそのまま反映しており、かかる特異の時代的語法の記憶の消滅した後代(室町以降)にいたって、「不思議ノ子細ヲモ」と改めた、とせねばならぬ。
(二)
終止形中止法について
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<蓮如本>
A他力ノ悲願ハカクノコトシワレラカタメナリケリトシラレテ(第九条)
B本願ヲウタカフ善悪ノ宿業ヲコヽロエサルナリ(第十三条)
Cステニ定聚ニクラヰニオサメシタマヒキ命終スレハ(第十四条)
D正念ニ住セスシテヲハラン念仏マフスコトカタシ(第十四条)
<他の六古写本>
A同上(第九条)
B本願ヲ疑(ウタカ)ヒ、(竜谷本)
Cオサメシタマヒテ(永正本、)豪摂寺本、光徳寺本、妙琳坊本、大谷大学本)
D同上
<現代校訂者>
A○かくのごときの(梅原氏)
○かくのごとき(姫野氏)
B蓮如本に同じ
Cオサメシタマヒテ(梅原氏、姫野氏)
D正念に住せずしてをはらんに(梅原氏、姫野氏)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
右表蓮如本表記の傍点部は、何れも中止法でありながら終止形が用いられている。この点を誤文として、他の六写本や現代校訂者は交々訂正を行っている。しかしこれは、「重文構造における上句末の終止形使用(32)」という特異の時代的表記に属するものなのであった。同じく今昔物語集を検してみよう。(33)
○此レヲ思フニ、由(ヨシ)无キ事ニ依(ヨリ)テ愛執ヲ発(オコ)ス、如カ此クゾ有(アリ)ケルトナム語リ伝ヘタルトヤ(三、266-1)
○人極テ多(オホク)集リテ物騒キニ依テ、心乱レヌベシ。然レバ、静ナル所ニ行ヌ、此ノ講吉ク御心ニ入レテ勧メ可給シ(三、378-1)
○我レ既ニ法ヲ知ヌ、仏ヲ造リ奉ラムト思フ(三、90-17)
右傍点部は、それぞれ「オコスモノデアッテ、ソレニヨッテ」「行ッテシマイナサイ、ソノ上デ」「知ッテシッタ、ソコデ(即チ)」の意を表明する。このような屈折のある内容を、簡明な終止形中止法によって、歯切れよく表現する特異語法なのである。同様に、前掲蓮如本表記の傍点部は、左の意を表明する。
Aコノヨウナモノデアッテ、ソレニヨッテ(即チ)
Bウタガウモノデアッテ、ソノ上
Cオオサメナサッタノデアッテ、ソコデ(即チ)
D終ルデアロウガ、ソウスルト
このようにしてみると、文意の上でも、梅原氏・姫野氏の訂文からは現われ得ぬ、屈折した心理的内容が、表されているとともに、何よりも語気の点で、終止形でいったん言い切った中止法の力強さは、後世の連用形中止や現代文脈では容易に表現し得ないものと言うべきであろう。
(三)謙譲の「タマフ」について
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<蓮如本>
Aヨクヨク案シミレハ天ニオトリ地ニオトルホトニヨロコフヘキコトヲヨロコハヌニテイヨイヨ往生ハ一定オモヒタマフナリ(第九条)
Bマタヒトアリテソシルニテ仏説マコトナリケルトシラレサフラフシカレハ往生ハイヨイヨ一定トオモヒタマフナリ(第十三条)
<他の六古写本>
Aオモヒタマフヘキナリ(六本共)
Bオモヒタマフヘキナリ(六本共)
<現代校訂者>
Aオモヒタマフヘキナリ(多屋氏、梅原氏、姫野氏)
Bオモヒタマフヘキナリ(姫野氏)
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右表中の「べき」の挿入された場合(六本及び現代校訂者)と、挿入されぬ場合(蓮如本)との語義を比較してみよう。
(1)「オモヒタマフヘキナリ」
この場合、「たまふ」は尊敬、「べき」は当為、「なり」は断定の助動詞であるから、直訳すれば、「オ思イナサルベキダ」「オ思イナサルノガ当然ナノデアル」の意となる。したがって、「往生は一定と、あなたがたはお思いにならねばならぬのである」と、対話者(弟子たち)に対して自己の教義を押しつける気味を帯びる。「尊敬」に加うるに「当為」と「断定」をもってするとは、まさに慇懃無礼と言わざるを得ぬ筆法であろう。一言もって評すれば、後世の教団権威主義確立後の説教者口調である。
(2)「オモヒタマフナリ」
この場合、「たまふ」は、他の動作につける尊敬の助動詞とはなり得ず、自己の動作につける謙譲の助動詞(下二段終止形)とせざるを得ぬ。したがって、「なり」は断定にあらずして、「咏嘆」の義となる。そうすると、この場合の「オモフ」という動作の主体は、対者(弟子)にあらずして「自分(親鸞)」であり、直訳すれば「(私ハ)思イマスヨ」「私ハ思ッテイマス!」の意となる。したがって、この蓮如本原文には、「謙譲」に「咏嘆」を加えて、「「往生は一定と私は思います!」と、自己の確信を感動をこめてさわやかに吐露している趣があらわれる。これははたして後世「誤脱」「写誤」のなしたところであろうか。逆に、平安ー鎌倉文献に頻出する「タマフ」の謙譲用法が失われていった後世(室町以降)において、文法的にも人間像的にもその時代にふさわしく書き改められた、とすべきではあるまいか。
(四)「通古ナリ」の表記について
・・・
<表示できないので略>
・・・
以上によって、今や、われわれは他の六本に対して蓮如本の実質内容の、より古いことを知ると共に、そこには明らかに蓮如本成立時代に属する特異用法を見出した。これらは明らかに、蓮如本の原型性を指し示すものにほかならない。
六
前項において、蓮如本の原型性を立証したのであるが、その地点から直ちに、蓮如本末尾の「流罪記録」の原存在性を揚言し得るであろうか。なおそこには、一脈の論理的飛躍の溝が横たわっていると言わねばならぬ。それは、前項までの立証が主として本文内のものであったから、蓮如本の本文そのものは原型性を有するとしても、やはり「流罪記録」自体は後人の付加に相違ない、との立論を容易に望見し得るからである。そこでわれわれは、前項までの方法的成果の上に立ちつつ、この項では「流罪記録」自体の範囲内に限って、その時代性を検証せねばならぬ。
(一)「オコナウ」表記について
○御弟子四人死罪ニオコナハルヽナリ (流罪記録蓮如本)
右の「オコナハルヽ」について、「オ」と表記するのは蓮如本のみで、他の「流罪記録」を有する他の四本共(36)すべて「ヲ」と表記する。
○講(オコナウ) 坂東本教行信証化身土巻(親鸞聖人全集二七一頁)
○助修(オコナウ) 同右(同右三八三頁)(37)
ここでも蓮如本表記が親鸞自著自筆本に一致し、他の四本はこれに反する。これによってみると、本文の「オ」「ヲ」表記で考察したしたのと同じ先後関係が現われており、蓮如本流罪記録も本文と同傾向の仮名表記を記載していることとなる。
(二)「之上」表記について
流罪記録中の左の部分について、現代校異者は疑惑し、改変して刻版せしめている。
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<五写本共>
○〒時興福寺僧侶敵奉之上御弟子中狼藉子細アルヨシ旡実風聞ニヨリテ罪科ニ處セラルヽ人數事
<現代校異者>
○敵二奉之一。御弟子中(真宗聖教全書二 増谷文雄氏 筑摩叢書版)
○敵二奉之一。上御弟子中(宮崎圓遒氏 親鸞聖人全集)
○「上」は「意味不通の文字」であり、「誤りであろう」(姫野氏)
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けれどもわれわれは、保元物語、吾妻鏡及び古文書中につぎのような文例を見出す。
○為義既老骨を振て参候の上、所存の旨を争(いかでか)一言申さで候べき(岩波古典文学体系「保元物語」金比羅宮本九七頁)
○此両人奉二為(オンタメニ)源家一。兼日顕二陰徳一之上。各募二神職一之間。・・・(吾妻鏡巻一治承四年七月大)
○而不レ昇二僧正一以前。改任無二其例一之上。今度為二色衆一。・・・(後宇田院御灌頂記。徳治三年正月二六日丙戌)
右は、わたしの検出し得た例の一端であるが、そのいずれにおいても、Aという事情にさらにBの事情を附加するという場合の慣用語法なのである。
(三)返点省略表記について
流罪記録中には、一見微細に見えるものの、特異な表記法が出現している。
左のように、レ点の代わりに、一、二点を用い、一を記して二を省く、という特異な省略返点表記は、実は、親鸞の自著自筆本、加点自筆本に頻出するのである。
<JPEG図表として表示、一部のみ記載>
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<蓮如本>
a〒時
b被行死罪一人々
c改メテ僧儀ヲ一
d賜(タマ)フ俗名ヲ一
e以テ禿ノ字ヲ一
f〒今一
<永正本>
a干時
b被行死罪人々
c改メテ二僧儀ヲ一
d賜(タマ)フ二俗名ヲ一
e以テ二禿ノ字ヲ一
f〒今
・・・
<略>
・・・
<現代校訂者>
○一切訓点を完成せしめて版刻
(真宗聖教全書(二)
増谷文雄氏 筑摩叢書
梅原真隆氏角川文庫)
○蓮如本によるとしながら、その実b・fを永正本の型で記載
(多屋頼俊氏歎異抄新註)
○蓮如本については正確ながら、他本を同じものとして扱ったもの
(親鸞聖人全集言行篇1 姫野誠二氏前掲書)
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○破旡スル明ノ闇ヲ一、迷ヒ行ニ一、転シテ世間道ヲ一入ル出世間道ニ一(教行信証坂東本)
○有(マシ)仏(マシキ)一(観念法門)、帰メ老死ニ一(往生礼讃)、来シテ照ス身ヲ一(般舟讃)加点本
さらに、かかる返点省略表記は、蓮如本冒頭の序文にも出現しているのである。「所(トコロ)レ留(トヽムル)耳(ミヽ)ノ底(ソコ)ニ一」がそれである。しかしこの点については、蓮如本を底本或いは対校本とするという、すべての校本、版本がこれを無視乃至見落として、一様に「所レ留二耳底一」と完成せしめている。けれども写真拡大して検すると、蓮如本原本には明らかに一に対する「二」の返点を欠いているのであった。(38)
諸家の無視される、この微細な点が今の行論には重大であって、かかる本文冒頭の序(すでにその原型性は立証された)中の省略表記と、流罪記録中の省略表記とのまさに合致するを見る時、これは両者とも蓮如の見写原本に存在したものとすべきであろう。そしてそれはまた同時に、親鸞の自著自筆本、加点自筆本にまったく合致する独自の表記なのであった。したがって、この点も流罪記録の原存在性を指証するものとなるのである。
(四)音通表記法について
A「巒」の字表記
蓮如本には、「親巒」という特異表記が出現しており(39)、多屋氏はこれを蓮如本「誤脱」実例とされる。その内訳は次のようである。
1. 鸞ー8 (内「流罪記録」中2)
2. 巒ー3 (内「流罪記録」中1)
3. (a) 巒にかぶせて鸞と訂し、さらに右横に鸞と傍記した箇所ー1
(b) 鸞にかぶせて巒と訂正している個所ー2(40)
ところが、親鸞の自著自筆本や在世時門弟筆写本に、この「巒」字が出現している。
○巒師ひとりさだめたり、神巒とこそまふしけれ(浄土高僧和讃曇鸞讃)
○愚禿親巒敬信尊號八十四歳書之(西本願寺蔵、親鸞聖人真蹟六字名号)(41)
○援*ニ愚禿釈親巒信二順シテ諸佛如来ノ真説ニ一 (高田専修寺本「教行信証」信巻序)(42)
援*は手偏なし
特に最後の例は、親鸞の生存中に(建長七年八十三歳)門弟専信によって書写されているのであるから、歎異抄原著者たち親鸞面受の門弟の間に、かかる特殊表記がすでに行われていたことが確証されるのである。
したがって、この「巒」字出現は多屋氏の言われるような、蓮如本「誤脱」の証にあらずして、その原型性を指証するものに他ならないが(43)、この際重要なことは、先の内訳の表のごとく、「流罪記録」中にも本文と同じく巒字が出現している点である。すなわち、蓮如本の流罪記録は本文とその原型性、原存在性を共有している、と言い得るのである。
B 他の音通表記の諸例
右に述べた「巒」字使用は、単なる特殊事例に留るものではなく、実は「音通」と称すべき、独特の時代的表記法の一なのである。
<蓮如本中の「音通」表記> ()内は正字を示す
1學文(=学問)(44)
2正教(聖教)(44)
3自見之覺語(=覚悟)
4煩悩至常(=熾盛)
5三蜜行業(=三密)
6檀波羅蜜(=〜密)
7法花一乗(=法華)
8真言法花(=法華)
9方便報身(=法身)
10誓觀房(=勢観房)
11古親鸞(=故親鸞)
12番多(=幡多)
13無動寺之善題大僧正(=無動寺之前代大僧正)
<12、13は「流罪記録」中>
われわれはこれらを単なる「誤記」と認定する前に、左表のごとき同時代文献の例証を検討せねばならぬ。
A「音通(45)」表記(岩波古典文学体系によって冊数・頁を示す) ◎は鈴鹿本所在
◎正教(聖教)二、 53 54 56 129
○禅唐院(=前唐院)三、 109
○前(=膳)三、 70260,464
○礼拝苦行(=恭敬)三、 545
○西ノ東院(洞院)五、 106
○儀(=議)二、 270
○語(=悟)二、 87
○白父(=伯父)二、 93
◎干(=肝)五、139,180
○烈(=列)二、 103
○白木(=新羅)三、 29
B古文書(平安末ー鎌倉時代)に表われる「音通」表記
○複レ舊(=復舊)(46)
○怠轉(=退転)(46)
○佛性(=佛餉)(47)
○佛聖(=佛餉)(47)
○太政官府(=〜符)(48)
○典客郎中暑(=〜署)(49)
○玄番寮(=玄蕃寮)(50)
○厳蜜之間(=〜密)(51)
○形罰(=刑罰)(52)
○一烈(=一列)(53)
C天台座主に表われる「音通」表記(群書類従第五十七補任部十四「東叡山明王院本」)
○重輪(重愉)51代(一一六二)
○金剛樹院(寿院)64代(一一六二)
○学道(学頭)70代(一二一三)
○隆晏(隆安)74代(一二二九)
○性恵(=聖恵)125代(一三三八)
○生放初例歟(=生妨)104代(一三一三)
右表について、左の諸点を注目せねばならぬ。第一に、今昔物語集におびただしく存するかかる表記が、鈴鹿本に出現するゆえに、平安末鎌倉期に属するものであることが認定される。第二に、従来言われていたように、今昔の筆者が下級僧侶であって、その無教養の所為に帰することは、必ずしも妥当でない。それは、右表Bのように、後鳥羽院庁下文や北条時宗御教書といった、当代最高級の公式文書にも同種の表記が出現するからである。第三に、これを単なる「誤記」と見なすことはできない。その理由は右表Cのように、延暦寺内の僧侶の筆記としてはとうてい単に「誤記」となし得ぬ類の固有名詞(座主名や寺院名)にかかる表記を見るからである。しかもそれは、かかる固有名詞の記載の関心の焦点が存する文献なのである。第四に、この最後の例の如きは、明らかに有意識の記述態度が見られる。比叡山の座主選出に対する幕府の干渉妨害について、「生放初例歟」と記しているのであるから(54)、これが「生妨」もしくは「障妨」の義であることは明白ながら、その字面の露骨さをはばかっている趣がうかがえるのである。第五に、第一代より第百六十七代(室町中・末)まで記録する天台座主の中で、平安末ー鎌倉期にかかる表記が多く出現していることである。(55)
以上によって見れば、如上A・B・Cの諸例は単なる誤記や写誤でなく、また無教養なるが故の「あて字」でもなく、平安末ー鎌倉期の汎時代的な許容表記法である、と認定しなければならない。(56)
したがって、蓮如本中の諸例も、後代の粗雑なる写誤のためでなく、逆に、その原型性を示すものと見なさるべきなのであるが、前記の表のように、当の「流罪記録」中にも、「番多(=幡多)」のごとく偏省略音通表記が本文と同様に出現して、その原型性を示しているのである。
なお、蓮如本中には、前記「生放初例歟」と同じく、特に有意識のはばかりの意を含めているのではないか、と思われる音通表記が、「流罪記録」の内外に各一例存するのである。
まず、本文中のものとして、十八条結文の「誓觀房」が、「勢観房」のことであるのは疑いがないが、歎異抄の原著者が、法然の高弟で知恩院の開基たる高名な勢観房源智の正字を知らなかった、と見なすのはきわめて不自然であるから、当然音通表記と見なすべきであると共に、さらにつぎの点が考えられる。この段は、源智が法然の真意を知らず、親鸞の説(法然も親鸞も信心は同一なりとの説)を攻撃、相論し、法然の親鸞を正しとする裁決を待ってはじめて落着する話であるから、同じ原始専修念仏集団内部において、有力な源智集団と相接している親鸞集団の中の原著者にとって、かかる物語の記載はいささかはばかりの意を字面に表せざるを得なかった、と解すべきではあるまいか。
次に「流罪記録」中の例として、「旡動寺之善題大僧正」が存する。宮崎圓遒氏も姫野誠二氏も、これを「前大僧正」の誤り、とされた。梅原真隆氏や増谷文雄氏は訳文においてもそのまま「善題大僧正」と訳しておられるのであるが、この人物が慈円を指していることが明らかであるのに(57)、その慈円に「善題」などという呼称のないだけに、いっそうこの記録の粗雑性、非信憑性を思わしめることとなっていたのであった。そしてこれはまた、「流罪記録」後人附加説成立の心証の一をなしていた、と思われるのである。
けれども、これは先にあげた音通表記の例から見ると、当然「前代」にほかならず、何の奇異もない。現代人には無理無体としか言いようのないこの表記も、すでに「禅唐院(=前唐院)」「
前(=膳)」「怠(=退)」等を見て来たわれわれにとって、もはや解するに難からぬものであろう。
その際、「前代」とは、「大僧正」に直接かかるものではあり得ない。何となれば、「大僧正」は年々代々相続・継嗣する類の僧官職ではないからである。(58)これに対して、「無動寺之前代」という語脈で見る時、きわめて自然な理解が得られるであろう。すなわち無動寺の統括者は「検校」と呼ばれるが、これは天台座主と同じく、毎年欠けることなく代々相継承する正規の補任僧官職であり、慈円が寿永元年と建仁二年の両度にわたって、「検校」に補任せられていることは、「無動寺検*校*次第(59)」に見えるごとくである(60)。しかして、かかる高名の実力者が、幸西・善恵等公的流罪人を「アツカル(61)」ことに関するものであり、それを記すについていささかはばかりの意を示すものとして、音通表記がとられていると見なされるのである。これは前述の「生放初例歟」「誓觀房」といった諸例と同じく、有意義の音通表記の用例と言えるであろうが、その点、当然察知し得るはずの「慈円」という実名をあえて出さぬところにも、その用意が存するのを見るのである。(62)
(五)親鸞「呼び捨て」表記について
α親鸞御同朋ノ御ナカニ(十八条結文)
β親鸞御信心ニヒトツナラヌ御コトモ(同右)
γ古親鸞ノオホセノコト(同右)
右について、姫野氏は、「往々敬称を附けないのが本結語の特徴である。・・・文章を洗練しなかっただけのことで別意はあるまい。(63)」と言っておられるのであるが、実は「往々」でなく、歎異抄本文(序文を除く)中のすべてにわたって「呼び捨て」呼称を行っているのである。このように、「親鸞聖人」といった敬称を附さぬ表現は、覚如・蓮如・従覚等後世のいずれにも発見することはできぬところなのである。ところがわれわれは、親鸞自身が法然に対して「呼び捨て」呼称を行っているのを見出す。
○以テ二空ノ真筆ヲ一令メタマヒキ三書二之ヲ一(教行信証化末
381)
○空之真影申シ預(アヅカリ)テ、奉マツル二圖書シ一。(教行信証化末
381)。
○源空三五のよわいにて(淨高和讃源空聖人 192)
○源空みづからのたまはく(淨高和讃源空聖人 134)
<頁数は親鸞聖人全集>
さらに歎異抄原著者の伝える親鸞の言葉にも、「法然ノオホセマコトナラハ(第二条)」の表現が見られる。けれども、親鸞も、源空呼び捨て呼称を搬出せしむる右源空和讃においても、(右はその一例に過ぎぬ)、表題には「源空聖人付釋二十首」と明記する。この点、歎異抄原著者が本文中にはすべて呼び捨て呼称を用いながら、冒頭の序においては、「仍故親鸞聖人御物語之趣」と明記するのも、これと軌を一にしている。
しかも法然在世集団に参加していなかった歎異抄原著者の地の文には、法然を「呼び捨て」呼称する所は絶無なのである。これと同じ現象をわれわれは実悟自筆本の「実悟記」によって、検することができる。蓮如在世集団に参加していなかった著者実悟が(64)、蓮如を地の文で指す場合、ほとんど「蓮如上人」と記している(65)のに対して、蓮如在世集団に参加していた前住実如や宿老衆の談話として直接法的に引用する場合には、「蓮如」という「呼び捨て」呼称が十八箇所にわたって出現するのを見るのである。(66)
このようにしてみると、歎異抄本文に見える、親鸞「呼び捨て」呼称は、原著者が親鸞在世集団に参加していたことの期せざる証拠となっていたのであった。しかも、われわれは、他にも親鸞在世集団に参加した門弟の親鸞「呼び捨て」呼称の明白な実例を有する。
○親鸞御入滅弘長二歳・・・(高田本教行信証教・信・真仏各巻末奥書)
これは親鸞在世集団に参加していた門弟顕智(67)の筆である。こうしてみると、つぎのように帰結し得ると思われる。すなわち「親鸞聖人」と記してあっても、必ずしも直ちに後代の記録たる証拠とはなり得ない(68)けれども、逆に「親鸞」と「呼び捨て」呼称が支配的に用いられている場合、それは親鸞在世集団の参加者(面受の門弟)の手になる記録であることを指し示しているのである、と。
さて、以上の帰結によってわたしはほかの「流罪記録」の信憑性、非「後人付加説」を決定的に立証する段階に立ち到った。今、「流罪記録」中に親鸞を呼称するところを見よう。
○親巒ハ越後國罪名藤井善信
○親鸞改メテ僧儀ヲ一賜(タマ)フ俗名ヲ一
○流罪以後愚禿親鸞令シメレ書給也
ここには、明らかに親鸞在世集団の記録たる指標をなすところの、親鸞呼び捨て呼称が、あざやかに現れているのを見る。(69)
かくして、今や、後人による讒*(ざん)入説、後人による裏書付加説は、決定的に拒否せられねばならぬ。すなわち流罪記録は本文と同じ原著者の手になるもの、と断定し得るのである。
注
(1) 歎異鈔講林記下巻(真宗体系註琉部二頁)
(2) 歎異鈔聞記(続真宗体系別巻二頁)
(3) 「 歎異鈔」角川文庫版解説一〇六頁
(4) 「 歎異抄」岩波文庫新版八〇頁
(5) 現行刊本の改変の跡を摘記する。
(a)真宗聖教全書二および「 歎異抄」筑摩叢書版
イ「敵二奉之一。御弟子中」として、「上」字を削除。
ロ「〒レ時」「彼レ行二死罪一人々」「改二僧儀一」「賜二俗名一」「〒レ今」として返点をすべて変更あるいは完成せしめている。
(b)親鸞聖人全集(言行編1)は「敵二奉之一。(一字空白)上御弟子中」とするが、原文には返点はむろん一字の空白は書かれていない。
(c)「 歎異鈔」角川文庫は(a)のロと同じ。
(d)「 歎異抄新注」は「彼行死罪人々」「〒今」の返点「一」の誤脱。
(d)姫野氏も「法然上人併御弟子」として「并」を「併」にあやまっておられる。
(6) 「 歎異抄新注」解題六頁
(7) 親鸞聖人全集(言行編1)解題一八七頁
(8) 「歎異抄の語学的解釈」一七〇頁
(9) 親鸞著作全集(金子大栄編)六九七頁註○15
(10)「 歎異抄新注」解題五〜六頁
(11)同右六頁
(12)岩波古典文学体系『親鸞集 日蓮集』補注一七四、一七五(二六二ー二六五頁)
(13)現存七古写本中「流罪記録」を有するものは、蓮如本、永正本(端ノ坊本)、豪摂寺本、光徳寺本、妙琳坊本の五本である。
(14)同じく「流罪記録」を有しないものは、龍谷大学本、大谷大学本(端ノ坊別本)の二本である。
(15)姫野氏前掲書解説十九頁
(16)教行信証の親鸞自著自筆本および古写本(坂東本、高田専修寺本、西本願寺本)に共通のものとして、証巻(親鸞聖人全集二二二頁、坂東本コロタイプ版55)に「鹿(シヽ)」の訓を検出した。〔教行信証には、親鸞自筆本とされる坂東本(東本願寺蔵)と、門弟専信によって親鸞生存中(建長七年)に書写されたものとされる高田専修寺本と、文永十二年(一二七五)頃の書写と近来言われている西本願寺本が存する。坂東本の訓には他筆もありとせられ、その他筆の書き込み年代も明らかでないから、三本共通の訓を採用した。けだし、従来清書本とされてきた西本願寺本がその実文永十二年頃のものとすれば、歎異抄推定成立時代と(注(17)参照)と合致することなる。〕
(17)歎異抄成立時代は、むろん未定と言わねばならないが、親鸞没後、面受の弟子の著作という点から、つぎのように上限と下限を設定し得る。すなわち上限は親鸞没年たる弘長二年(一二六二)であって、問題ないが、第一下限としては唯円没年とされる正応元年(一二八八)、第二下限としては如信没年とされる正安二年(一三〇〇)、第三下限としては、一応面受の弟子の生存可能最高限のケースとして、元弘三年(一三三三)(鎌倉幕府滅亡)の線を考えよう。第一下限までのところが、もっとも信頼され得るものであることは言うまでもないが、語法や表記法の時代的特質といったものを対象として著作時代を問題とする時は、一応第三下限までの限界を考えて大過なきを得ると考える。
(18)「三宝絵略注」山田孝雄四五〇頁
(19)○発タテ(石山寺蔵金剛波若経集験記平安初期点)
○謬ア(や)マテ、猥ア(や)マテ、頼ヨテ(知恩院大唐三蔵玄奘法師 表敬平安初期点)
○己ヲハテ、妄イツハテ、到イタテ(地蔵十論経元慶七年点)(「日本語の歴史」平凡社参照)
(20)覚如口伝鈔自筆本五74( 親鸞聖人全集所収)
(21)岩波文庫新版「 歎異抄」解題二七頁(昭和三十三年改版)
(22)表題・書頭・末尾各一箇所。他本は表題なし。
(23)しからざる例を一例のみ検出し得た。西方指南抄中の基親上書に、「そののち何事候呼(なにことさふらふ)」とあるのがそれである。しかしこれは基親書状の書写であるから、親鸞自身の表記慣例に属するか否かは証しがたい。逆にかかる場合、訓を附しないのが親鸞自身の自著自筆本の表記慣例なのである。
(24)高田派専修寺蔵、慈信房義絶状( 親鸞聖人全集書簡編四〇頁)
(25)この文書中の「候」表記六十三箇所は次表のとおりである。
また長野県正光寺に蔵する「陀如来名号徳」は、親鸞八十八歳の著作を、歎異抄成立時代たる応長元年(一三一一)に書写した古写本であるが、その中に「候(さうら)はまし」(
親鸞聖人全集和文編二二六頁八行目)の表記と共に「候也(さふらう)」(同上二三〇頁)があった。写真で拡大して検出したところ、この振り仮名は本文と同筆であることが確認できた。
<ハ行> <ワ・ア行> <活用語尾を記さぬもの>
未然形 ハ 0 ワ 4 無1
連用形 ヒ 0 イ 7 無5
ウ 1(音便) 無5 連用形計10
終止形 フ 0 ウ 0 無15
連体形 フ 0 ウ 0 無13
已然形 ヘ 9 エ 2 無1
命令形 へ 0 エ 0 ーー
(26)さらにわれわれにとって、この問題に対して、つぎの二点を注意しておくのは有益であろう。第一に蓮如本のこの表記法は、蓮如自身の表記法を反映していないことである。第二に、蓮如本以外のすべての古写本、六本とも(永正本・龍谷本・蓮如本・豪摂寺本・孝徳寺本、妙琳坊本・大谷大学本)ことごとく「サフラフ」と表記して、その例外を見出すことが出来ないのである。(これら六本とも室町以降の書写である。)
(27)下二十四、三四九頁、宝文館「三宝絵略注」山田孝雄
(28)さらに、この表に現れているごとく、蓮如本は「オ」を用いることが圧倒的に多いのであるが、実は、これはいずれも単語の語頭の場合であって、「イトヲシ」「トヲリ」「シリトヲシ」のごとく、語中に存する場合は「ヲ」を用いている。ところが同じく語頭では、「オ」を多く用いる親鸞自著自筆本の中にも、「をなして」「もよをされて」のごとく、語中の場合では「を」を用いる傾向が現われている。このようにしてみると、蓮如本と親鸞自著自筆本との「オ」「ヲ」表記の一致度は、驚くべき高さに達していると言えよう。さらにわれわれは、蓮如自著自筆本を検すると、「御俗性」自筆本について、時代の下降するに従い、写本中の表記が「オ」より「ヲ」へ転移する状況を発見し得る。(真宗聖教全書の校訂に従った場合)ここにも、「を」を多く用いるほうが時代の早い(平安末ー鎌倉)証拠、とされる金子氏の所論に反する傾向が現れているのを見るであろう。
<自筆本>
1おしへて
2おゐて
3おくる
4おちず
<永禄九写本>
1をー
2をひて
3をー
4をー
<本派本>
1をー
2をひて
3をー
4おー
(室町)<名鹽本>
1をー
2をひて
3をー
4をー
(室町)<高田本>
1おー
2をひて
3おー
4おー
(29)多屋頼俊「歎異抄新註」解題二頁
(30)梅原真隆氏「歎異抄」訳注五頁凡例
(31)岩波古典文学体系によって、冊数と頁数、行数を示す。(二六二ー二六五頁)
(32)岩波古典文学体系今昔物語集三、三四頁
(33)同右三
(34)本文略ですので略
(35)本文略ですので略
(36)端ノ坊本、豪摂寺本、光徳寺本、妙琳坊本
(37)高田本、西本願寺本もこれに同じ。ただし、前者につき真宗聖教全書は「オコナフ」と記す。
(38)これはおそらく「留」字の左真横にすみがついて、「留」と見える点を誤られたのであろうと思われる。(この点「新註」の冒頭の写真を拡大しても認識し得る。)〔本派本願寺に蔵する「正信偈註」(蓮如自筆本)、「正信偈註尺」(蓮如所持本)は、この省略返点表記について、興味ある問題を提示しているのでこれにつき改めて他の論文で報告することにしたい。〕(「留」の左真横すみの件、訂正する。 四二九頁)
(39)(龍谷本一箇所を除いて)他の六本は、すべて「鸞」字である。この点、蓮如本の大きな表記特徴となっているのであるが、多屋氏はこれを「誤脱」の例とされている。(「新註」解題二頁)例外的な龍谷本一箇所について、姫野氏の前掲書の校異には、結文末の「古親鸞」の場合龍谷本でも「鸞」字を用いている、としておられるが、これは氏の珍しい錯認であろう。この点「新註」の「巒」字が正しい。
(40)この3.b の箇所は姫野氏の校異によれば、先に巒と書いた後、その巒にかぶせて鸞と訂した、とされているのであるが、実際にこの点を検すると、実はどちらが先どちらが後とも判じがたい様相であった。けれども今同様例中、特に鸞と傍記する3.a
の場合と対比する時、3.b はその傍記がないのであるから、3.a と異なり、「鸞を訂して巒へ」としたものとする理解に筆者に従っておく。
(41)親鸞聖人御真蹟集「墨美」特集一頁(これは西本願寺蔵の親鸞真筆六字名号の代表的なものとされているのであるから、今は、それに従って、用いることとする。)
(42)傍訓は略した。(親鸞聖人全集九五頁)また、最初の「巒師」「神巒」のごときも(親鸞聖人全集八八・八九頁)後代蓮如発願開版になるといわれる文明版本ではいずれも「鸞」に改められている。
(43)他にも「巒」字を用いる例があるのであげておく。すなわち覚如の口伝鈔自筆本(「鸞」18「巒」 5)、口伝鈔南北朝書写本<岐阜県専精寺蔵>(「鸞」15「巒」
8)、覚如の門弟乗専書写(「末燈鈔」従覚の「慕帰絵詞」吉野本写本、ただし後者は一箇所)にも巒字を見出す。
(44)その内訳は、「學問」3 「學文」2 「聖教」4 「正教」2 である。
(45)精しくは「音通」「形声字共通」「省文」「増画」「借字」等に分類すべきこと、山田氏の説かれるごとくであるが、(岩波古典文学大系)、今は便宜上「音通」をもって総括代表称呼とした。
(46)建久七年(一一九六)「後鳥羽院廰下文」〔高野山文書一寶簡集二〕
(47)寿永三年(一一八四)「高野山金剛峯寺衆徒等愁状」〔高野山文書一寶簡集三十三〕
(48)元応二年(一三二〇)「高野山金剛峯寺衆徒等解」〔高野山文書百二〕
(49)承元元年(一二〇七)「沙彌圓爾度縁」〔東福寺文書一〕
(50)承元元年(一二〇七)「沙彌圓爾戒牒」〔東福寺文書一〕
(51)弘安四年(一二八一)「北条時宗御教書ー寺田太郎入道へ」〔東寺文書〕
(52)正和五年(一三一六)「西大寺長老空覚以下一門連署起請文〔西大寺文書二〕
(53)元弘三年(一三三三)「南部時長披陳目安」〔南部文書四〕
(54)今、その全文をあげる。「大百四前大僧正公什。裏筑地 治山五ヶ月正和二年葵丑正月十二日任。横川長吏兼帯云々。同二月一日於二青蓮院三条坊一被レ請二宣命一。同五月二日為二武家沙汰一直奉レ改二易座主職一畢。仍不レ及二排堂排賀一。生放初例歟。」〔群書類従、補任部十四、天台座主記「東叡山明王院蔵本」〕堅田本ではすでに「生放」を「生妨」と訂しているが、ここに返点のない点から考えると、「障妨」とするほうがよいとわたしには考えられる。
(55)親鸞の自著自筆本にも音通表記が存在する。「御安」(=御案)(親鸞聖人全集書簡編真蹟書簡七頁)、「蜜義」「蜜語」(=密)(坂東本信巻)、「四[四月]山権律師劉官讃」(=隆寛)(全集和文編尊号真像銘文広本一〇三頁)のごときである。ことに最後の例は、親鸞自身全く解説せぬ点、追放中客死した隆寛に対し、「はばかり」の意を表するものとも見得るのである。
(56)もし現代の論者が、正字ならざるをもって、これらをあくまで誤記となさんと欲するならば、それは中国正字表記法を基準としての、「誤記」に過ぎず、けっして日本の平安末ー鎌倉期の時代的用法を基準としての、「誤記」にあらざることを認識せねばならぬ。そしてかかる正誤基準の主観的なくいちがいこそは、室町以降再び朱子学等大陸文化のおびただしい流入とともに、中国正字表記法に復帰した後代に対して、これらの、いわゆる「誤記」に寛容であった時代(平安末ー鎌倉期)の存在を客観的に指証するものにほかならない。
(57)承元の法難時の前大僧正(大僧正)該当人物という点による。
(58)大僧正がその生在中辞去した場合「前大僧正」と呼ばれたことはよく知られているが、代々続いていない「大僧正」に「前代」という修飾限定用語は冠し得ぬから「前代大僧正」とは単独では言い得ないはずであろう。
(59)群書類従(第参輯)補任部僧官補任
(60)しかも、その事歴として「再度寺務総*四十餘年之間」と記せられているように、正規の検校の期間は短かったにもかかわらず、事実上無動寺の現任「検校」以上に、実力者として無動寺を領していたのであった。それも道理で、慈円以後「検校」職を継いだ「真性」「豪円」「良快」らの事歴には、いずれも彼らが慈円の弟子であることが記せられているのである。そしてその弟子たちが「検校」職にある間も、慈円は生存して無動寺で寺務に支配力を有しつづけていたのであった。その上、この弟子たち「良性」「良快」も相継いで大僧正になり、やがて「前大僧正」となったのである。したがって、つぎの点を指摘することができよう。すなわち、この「無動寺之善題僧正」を「無動寺之前大僧正」の珍妙な誤記なり、とみなす場合、(宮崎・姫野説)には、(これらの説では、この文は後人が付加記入したもの、とするのであるから、後代から見て)この呼称が無動寺内の「慈円」「良性」「良快」の中の何れを指しているか、必ずしも明確でないこととなるであろう。
(61)健治三年日記(金沢文庫曽蔵、尊経閣本)一二月廿七日頃に、「於与黨者預在京人等可令配流也」とある。
(62)この箇所の原資料成立年代については後述。(七の(一))
(63)姫野氏前掲書一六四頁
(64)実悟が蓮如七十八歳の子で、八歳にして父蓮如を失ったことは人の知るところである。実悟記は、蓮如死後八十余年にして編述したもの。
(65)その中で二・三「蓮如」とあるのは、その事実上直接法的形態に属するのかと思われる。
(66)その場合、「蓮如上人」も存しはするものの、「蓮如」呼び捨て名称が色濃く出現していることは争いがたい。(この点後代の「真宗法要」本では、それら“呼び捨て呼称”の箇所を「蓮如上人」と書き改めているのが検せらるのである。)
(67)彼は親鸞の門弟真仏の弟子であったが、親鸞自身にも面受の間柄であった。(「顕智筆」の点、保留する。ー後註)
(68)親鸞の「源空聖人付釋文二十首」のごとき表題や、歎異抄の序文の場合、さらに前記「実悟記」の(66)の場合など、その他、例がある。
(69)この三例中、最後の例は、「愚禿親鸞ト」として括弧付きの意味と考えられるから、除くとしても、初めの二例は明らかに該当する。
インターネット事務局注記2003.7.15
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讒*(ざん)は、言編の代わりに手編です。
奸*も、異体字です。(編は女二つ)
総*,検*,校* は、異体字です。
[四月]は当て字です。表示出来ません。
論文は古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2 親鸞思想ーその史料批判ーと同じです。
新古代学の扉 事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp
原始専修念仏における親鸞集団の課題ー史料「流罪目安」の信憑性についてー 七から九へ
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