古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 2 親鸞思想ーその史料批判
これは1996年版6月30日発行の、あとがき(赤松俊秀氏に答える)です。本論証は、若き親鸞の思想 新史料「建長二年文書」の史実性にございます。
親鸞思想
その史料批判
古 田 武 彦 著
明石書店
自序に記したように、この本は出版前に数奇な運命に会うた。そのため多くの年月が流れ、やっと上梓の日近きを迎えた。
折しも、再校正の途次、赤松氏から書状をいただいた。見ると、“あなたの説について記したから、送る”旨の添状と共に一冊子が付されていた。
その内容は、短いながらも、烈しくわたしの三夢記真作の論証を否定したものであった。その上、「新しい研究に憂うべき研究が早く現れている」とし、「研究法上の法則」を無視した研究」と言い、「歴史研究としては意義が認められない」とまで極論しておられる。
すなわち、事は方法論という、学問の本質に属する地点において、氏はわたしに論難の刃をむけられたのである。
それゆえ、わたしの方法論と赤松氏のそれとの明白に袂を別つ、その決定点を明らかにし、もって異例ながら、あとがきに代えさせていただくことにする。
思うに、真実のための学問上の闘いのみを目指す本書にとって、それはもっともふさわしい終尾となるであろうから。
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赤松俊秀氏は昭和四十八年度、大谷大学の「安居」において「本願寺聖人伝絵序説」の講義を行われた。
(右の冊子は昭和四十八年六月、大谷大学内、安居事務所発行)
そしてその第二章中、「親鸞三夢記復活説」という題名をもうけ、わたしの三夢記真作の論証に対する批議を行われた。すなわち、この文章は「聖人の真作ではない」と論断されたのである。
氏の論断が、遺憾ながら一個の錯断に過ぎなかったこと、それは本書の第一章の内容がおのずから十分に反証しているとおりである。けれども、今回の氏の反論に直接報いるため、以下、簡明に再批判させていただこう。
一、「ニの畳用」用法の時代性について。
わたしは今昔物語集の鈴鹿本(鎌倉中期成立)の中に頻出する「ニの畳用」をもって、平安末〜鎌倉中期間の時代的特殊用法とである、とした。これに対し赤松氏は、今昔物語集は十二世紀初頭(平安末)の著作であるから、その時期に「ニの畳用」が行われたのは確かだ、としながら、親鸞在世時の十三世紀前半まで行われた証跡がない、と言われる。
その上で、山田孝雄氏の「平家物語の語法」に「ニの畳用」の例があがっていないことを証拠に、わたしの立論を疑われたのである。
しかし、本書の第二編第一章第二説に述べたとおり、血脈文集蓮光寺本に性信の地の文章として、
・ ・
一、「ヒト(人)ニヤウカイ(屏外)ニシラシムヘカラス」(二八〇頁参照)
二、「坐スル 流罪ニ 之時(ニ)、望ム勅免ヲ之時(ニ)」(二八六頁)
がある。右の一は、「ニの畳用」そのものと解するほかはない。さらに右の二は、和文の「ニの畳用」をそのまま漢文化した、日本式漢文と見るほかはないものである。
(右二例とも附篇第二節「蓮光寺本テキスト」参照)
さらに歎異抄蓮如本に唯円の文面としてつぎの例がある。
・ ・
「フタツノ不思議ヲ子細ヲモ分明 ニイヒヒラカスシテ」(三六八頁参照)
「ニの畳用」と「ヲの畳用」とは、文法上同一性格の文脈であるから、晩年の唯円にこの文例が存在することは、すなわち鎌倉中期の親鸞集団内において「ニの畳用」の用法が行われた、その確証である。
これらの事例はすでにそれぞれ既発表の論文において、わたしの明示したところである。しかるに赤松氏はこれらをかえりみず、もっぱら山田孝雄氏の大正初頭の著作のみを、典範とされたため、このような論をなされるに至ったのである。
しかも今昔物語集が嘉承(一一〇六〜八)すなわち一二世紀前半以降の成立であるのに対し、親鸞の比叡山時代は同じ一二世紀に属する。(一一九九に親鸞は二十七歳)問題の「ニの畳用」が現われる第二夢告の時点は、正治二年(二〇〇〇、親鸞は二十八歳)である。だから、この間(十二世紀の中葉)に強いて「ニの畳用」の用法の急滅を措定せんとする赤松氏の論は、あまりにも強引な議論ではあるまいか。
さらに親鸞集団外史料にも明白な証拠がある。
・・ ・・
○セメテノ事ニハ、在家ニテ無二無三ノ信者ニテアラムハ、イマヒトキハノ事ニオホユ。
(却廃忘記)
・ ・
○或時順行房金剛界伝受時、本ヲ不書之時、種々御教戒アリ(同右)
(注)却廃忘記」は冒頭に「禅堂院世出世御物語聞書、文暦二年九月六日始之、随思出記之、」とあり明恵の弟子長円による、明恵の言葉の記録 。親鸞における歎異抄に当たる。
右は文暦二年(一二三五)の史料であるから、“十三世紀前半には「ニの畳用」なし”とされた赤松氏の立論の成立しえないことは、きわめて明白である。
二、日本式漢文の表記について。
さらに赤松氏は「叡*南旡動寺在二大乗院一」について、「叡南*旡動寺の大乗院に在りと読むほうがより妥当であろう。」と言われる。しかし、赤松氏のように読むためには、原文面が「在二叡*南旡動寺(之)大乗院一」となければならぬ。もし氏が、“「A在レB」の文面で「AのB在り」と読める。”すなわち換言すれば“「AのB在り」という和文を漢作文した場合、「A在レB」と書く慣用があった”と主張されるのなら、その実例を室町期以降の史料からあげられるべきである。しかるに、その証拠は一例も出されぬまま、ただ断案のみしめされるのである。
インターネット事務局注記2002.8.10
叡*(えい)は、比叡山(ひえいざん)の叡(えい)から、又を略した「音通」表記
三、「愚禿釈親鸞」について。
赤松氏は、「愚禿釈親鸞」の用例は、その一例が、「専修寺に現存の尊号真像銘文(広本)に存する」とされ、この一例によって「偽作された疑い」が「強まる」と称しておられる。
しかし、尊号真像銘文(広本)の自書名は、
正嘉二歳戊午六月二十*八日書之
愚禿親鸞 八十
四歳
(親鸞聖人全集和文篇 一二〇頁)二十*は異体字
ここに「釈」の字はない。
(これに対し、本文中に引用された親鸞自身の銘文の表題に「和朝愚禿釈親鸞『正信偈』文」とあるのは、“過去の一時点に書かれた正信偈銘文の表題”の転記である。これには年時記載は存在しない。したがって、わたしの統計<年時記載付署名の統計>には、当然入っていないのである。)
「釈」の字の出現は、四例(一六頁の3・4・5・7)であるが、その中で「愚禿釈親鸞」という形そのままのものは、3の「自力他力事」だけだ。
寛元四歳丙午三月一五日書之
愚禿釈親鸞 七十
四歳
(親鸞聖人全集、写伝篇2、八十八頁)
これは赤松氏現任の大谷大学蔵、恵空写伝本文中のものだ。宗昭(覚如)が四十九歳の時、親鸞の「御自筆」によって、書写したものだと奥書に述べられている。
したがって“専修寺蔵本の中から写して偽造したのだろう”という、赤松氏の推測には、ひっきょう何の根拠もない。
(もしまたかりに、専修寺蔵本末尾に同一様式の署名があったとしても、「偽造」と決めつけるためには当然別途に必要にして十分な論証が必要とされるはずである。この点、それを欠く赤松氏の論法は“安易”というほかはない。)
四、「釈覚信尼」について。
・
赤松氏は親鸞三夢記の末尾が「釈覚信尼江」だと言われる。「原本を拝見した」と称せられだけに、これは不審である。原文面は冒頭写真のしめすように「釈覚信尼/
」である。「江」などどこにもない。誤植に非ずんば氏の錯認であろう。
(氏からわたしに送られてきた冊子においても訂正されていない。)
さらに重大な問題は、この三夢記の文書様式に対する、氏の誤断である。
この字面について、氏は「これは宛名の記載としては他に例を知らない。異様なものである。宛先きの人の法名の上に『釈』を冠し、法名の下に『尼』を附する例が鎌倉時代中期の文書にその実例があるとは、とても考えられないことである。親鸞三夢記が聖人の真作とされるためには、まず釈覚信尼の宛名が当時行われていたことから実証する必要がある。」と言われる。
ここで「宛名」と言い、「宛先の人」と書いておられる点、氏はあたかも“書状の宛名”であるかのように錯覚しておられるようである。だから、その法名の下に「釈」「尼」を付するのはおかしい、などと言われるのである。
しかし冒頭写真を一瞥すれば判明するように、同じ覚信尼あてで、同日付(四月五日)の手紙が書写されている。
この仮名書きを主体とした文面末尾の「かくしん、(へ)」という宛先き。これこそ通常の書状の「宛名」である。「釈」「尼」もない。
たとえば、例の「いやおむな」書状の
わ□(ぅ)ごぜんへ
という仮名書きの宛名と同型式である。
これに対し、親鸞夢記中に引用された建長二年文書(冒頭の「親鸞夢記云」の一行、五字を除いた、以下全部)は書状ではない。右の書状に付けられた付載文書である。(正確には、この文書に対する送り状が右の書状である。)
したがって、建長二年文書の末端に転写された「釈覚信尼/ 」は原型式において、この文書の「表紙」に付けられた「袖書」として存在していたもの、と見なすのが当然である。
たとえば坂東本の証巻、真仏士巻の表紙に「釈蓮位」という親鸞の自筆による「袖書」の存在することは有名である。
「唯信銘文意」(高田専修寺蔵、親鸞真筆)には表紙の左下に「釈信証」とあり、「尊号真像銘文」(略本、福井県、法雲寺蔵、親鸞真筆)には外表紙の左下に「釈覚信」とあり、内表紙にもまた「釈覚信尼という「袖書」が記せられている。
これらはいずれも、同時代の表記慣例の上に立った、親鸞自身の書式をしめしている。これは明らかに、「釈プラス法名」であり、すべて漢字で書かれている。
これに対し、建長二年文書の場合、さらに「ーー尼」の字が付せられていたのはなぜだろうか。その理由を語るものこそ、右にあげた「尊号真像銘文」(略本)の「袖書」に出現する「釈覚信」の名である。この人物が親鸞の直弟の一人であったことはよく知られている。つまり親鸞の娘覚信尼と同名だったのである。それゆえ、かれと区別し、これを特定するためには「ーー尼」と「尼」字を付せねばならなかった。換言すれば、親鸞集団内に二人の「釈覚信」という法名をもつ人物がいた。一人は男であり、他は女(自分の娘)であった。それゆえ、後者に対して「ーー尼」の表現を用いたのである。
文書に対しては、このように厳密な表記方式をとった親鸞も、一方の添状の方では、「かくしん、(へ)」と、平易な書き方をしているのである。
(なお、「ーー尼」という表現が親鸞の時代に用いられたことについては、西方指南抄<高田専修寺蔵、親鸞真筆>中に左の用例がある。
・
かまくらの二品(ほむ)比丘(びく)尼、聖人の御もとへ、念仏の功徳をたづね申されたりけるに、御返事。
<親鸞聖人全集、輯録編1、一九七頁>
以上を要約しよう。
親鸞夢記に建長二年文書が収録されたとき、表紙の「袖書」の「釈覚信尼、」が当該文書の末尾に付載された。これが三夢記の文書様式であり、何の不思議もない。
以上によって、この署名様式についての、赤松氏の疑難が、実は文書様式の根本的な誤認にもとづくものであったことが判明したのである。
五、“覚信尼とわうこせん”について。
さらに赤松氏は、この時期に(建長二年)に“覚信尼という法名は存在しなかった”として、つぎのように論ぜられた。
「次に証明を要するのは、覚信尼が法名でしるされていて、建長二年(一二五〇)既に出家したことになっていることである。覚信尼は当時二十七歳であった。覚信尼がそのころ出家していなかったことは、それから六年後の建長八年九月十五日に母の恵信尼が娘の覚信尼に下人を譲ったときに、その宛名に法名をしるさずに『わうこせん』と俗名でしるしていることで明らかである。」
右において赤松氏は、建長八年に覚信尼が「わうこせん」という俗名を記している。そのことを根拠として、その六年前の建長二年に「覚信」という法名はあるはずがない、と言っておられる。この点はすでに第一章に述べたように、彼女の数奇な変転をかえりみざる、士の独断に過ぎぬ。要するに建長八年の史料をもって建長二年の史料であるかのように見なすことは許されるのである。
その上、今新たな論点として、つぎの点が注意さるべきであろう。
建長八年の恵信尼の手紙の場合は、“下人を譲る”という俗事である。(先にあげた親鸞の「わ□(ぅ)ごぜんへ」宛の手紙ー年時記載なしーも「いやおむな」問題という俗事である。)これに対し、今問題の建長二年文書は俗事ではない。信心の問題である。つまり、親鸞の生涯を決定し、彼の内面の最深層に存在しつづけた三夢告を記した文章である。その上、添状には「他力には義なきを義とす」「只ゝ御はからい、本願にまかせ、いよゝ御念仏候へし」と、親鸞の信心の確信を平易に言い切った表明がそえられている。このようなとき、俗名に非ず、法名を記すのは、親鸞のような厳しき念仏者にとって、むしろ当然であろう。
親鸞は慈信義絶状において、「これほどのそらごとはこのよのことならば、いかでもあるべし。・・・いかにいはむや、往生の大事をいひまどわして・・・」(親鸞聖人全集、書簡篇四二頁)と、俗事と信心の問題の軽重をハッキリと区別している。
この厳しい親鸞の峻別の姿勢は、書状の宛名の様式においても現れている。
先ず、集団あての場合に、これを見よう。
A「かさまの念仏者」(真蹟書簡一)
「念仏する人々」(古写書簡五)
「念仏の人々」 (御消息集<略本>四)
B「ひた□(ち)の人々」
<番号はいずれも親鸞聖人全集、書簡篇による。>
Aでは信心の問題の書状であるから、「念仏者」「念仏する人々」「念仏の人々」と書かれている。ところがBでは、「念仏」の語がない。その実体はAの場合と同じく、常陸の親鸞集団の念仏者たちであることは当然だ。だが、この書状の内容は「いまごぜんのはゝ」の“身のふり方”の依頼であって、信心の問題ではない。だから「念仏者」といった類の表現を避けているのである。親鸞の、表現に対する慎重さ、厳しさがハッキリと知られよう。
この点、個人あての場合も同じだ。親鸞の書状のほとんどすべてが門弟の「法名」を宛名としていることはよく知られている。「性信」「真仏」等だ。ところが、先の「わうごぜん」あて(真蹟書簡七)「いまごぜんのはゝ」(真蹟書簡一〇)の二つだけは「法名」でなく「俗名」だ。この二人は「法名」をもっていなかったのだろうか。そんなことはありえない。
「わうごぜん」は親鸞の愛娘であり、「いまごぜんのはゝ」は親鸞が「たのむかたもなく、そらう(所領)をもちて候はゞこそ、ゆづりもし候はめ。」と言った、孤愁にして親愛の人物だ。(赤松氏によれば、「わうごぜん」と同一人。覚信尼のこと。)法名をもたぬはずはない。人の妻たること、母たることが何等法名をもつことに矛盾しないこと。それは他ならぬ親鸞の妻たる恵信尼が実証している。親鸞生前の建長八年の書状に「恵信」という法名を記しているのである。旧仏教とは異なった面目をもつ在俗信仰の親鸞集団であることからすれば、いっそう当然と言えよう。
では、右の二例、なぜ宛名が「俗名」となっているのであろうか。すなわち、その内容が二つとも俗事だからである。「わうごぜん」あては、“いや女の身のふり方”である。「いまごぜんのはゝ」あては、“当人の身のふり方”である。いずれも信心のことではない。それゆえ「俗名」を記しているのである。このように分析しきたれば、親鸞の宛名表記における、いわばけじめのつけ方の厳しさが知られよう。
しかも、それは単に性格上の潔癖さ、といったものにとどまるものではない。親鸞思想の本質に根ざすものであった。すなわち
一、夫あり子供ある在俗の女が、信心に入ったとき、すなわち法名をもちうること。(他面、従来の俗名も、生きつづけている。)
二、書状の内容によって、俗名と法名を明別すること。
この二点である。
しかるに建長八年の恵信尼の書状から、この時点以前は、“出家していず、ために法名をもたなかった”と独断されたのである。そして晩年、第二の夫禅念と死別して再び寡婦となった覚信尼は、そこで“はじめて出家したため法名をもち、それが晩年の文書(寄進状等)に出現する”と考えられたようである。
このように一人の生涯を「在俗」時代と「出家」時代の二つに別つ。ーこれこそ旧仏教的思考法そのものである。赤松氏は旧仏教「出家の論理」をもって、それに反する道を生きた、親鸞自身の文書を切り捨てる。そのような挙を敢行されたのであった。
最後に特記したいことがある。
本書中の「史料批判の方法について」(三十五頁)で述べたように、高田専修寺に伝来された三夢記に対して、もしこれを「真赤な偽作」視する人々があるならば、その人々(たとえば赤松氏)に対してこそ“必要にして十分な偽作の論証”が厳しく要求される。これが当然である。
たとえば、人あって、“建長二年に彼女は「覚信尼」という法名をもっていなかった”と主張したいなら、そのとき、その史料根拠が厳密に要求されるのは、その人(赤松氏のような偽作論者)に対してである。しかるに別の年時(建長八年)の別の性格の用件(俗事)の史料で代替し推量する、といった、薄弱きわまる根拠で、軽々しく「偽作」だと揚言することは許されない。
これに反し、“古田が真作と称するなら、建長二年に彼女が「覚信」という法名をもっていた、その証拠をあげよ”と赤松氏が言われるとき、明らかに方法論上、氏は“逆立ち”しておられるのである。わたしはそのように見える。
なぜなら出発点はいつも“史料から”であって“定説から”ではない。大正以来の啓蒙主義的な寺伝不信のムードの中から「偽作」説が「定説」であるかのように、ながらく学界に喧伝されてきたにしろ、新たに厳しい史料批判の立場から、この「定説」を再検証したとき、そこには何ら「偽作の論証」が成立しえてなかった。そのことが見出されたならば、いわゆる「定説」はもはや何らの権威をももちえないのである。
赤松氏は、このように“逆立ちした”方法に従ってきた研究史上のみずからの姿に気づかれず、いたずらにわたしを論難されたようである。
しかし、いかなる大家にも、もはやそのような“無理”の許される時代は去ったのである。
(赤松氏は、わたしの新書版「親鸞ー人と思想ー」<清水書院>のみを対象とされた。ところが、本書は当初、右の新書に相連続して出版されるはずであった。しかるに“本山を忌憚した”書肆の所業によって、出版の突如中止に会い、ために多くの歳月をけみせざるをえぬこととなった。赤松氏もまた、いわばこの奇禍の災厄をこうむられたもの、と言うべきであるかもしれぬ。
なお、三夢記に関するわたしの論稿として、「親鸞と夢告、上・中・下」<中外日報、昭和四十七年七月二・五・六日所載>がすでに発表せられている。)
一九七三年十月二十六日夕刻 記
内容は古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2 親鸞思想ーその史料批判ーと同じです。
新古代学の扉 事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp
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制作 古田史学の会