古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 2 親鸞思想ーその史料批判ー

 これは1996年版6月30日発行の
若き親鸞の思想 新史料「建長二年文書」の史実性(三夢記について)です。追加論証は、あとがきに代えて(赤松俊秀氏に答える)にございます。

 インターネット事務局注記 2002.8.31
 これは論文のコピーです。また本来は縦書きの文書を、横書きにしております。厳密に論証を表示しているわけではありません。また史料批判の対象である文そのものが、異体字のため表示できておりません。以上により、これを元にして史料批判をおやめ下さい。古田氏の著作を閲覧して下さい。もちろん厳密な史料批判をされるときは、「建長二年文書」を閲覧して下さい。

親鸞思想

その史料批判
古 田 武 彦 著

明石書店

第一篇 親鸞の思想

第一章 若き親鸞の思想

第一節 新史料「建長二年文書」の史実性

   

 ここに一箇の文書がある。「偽作文書」として、今、学界にこれを顧みる者はない。しかしながら、筆者はこの「定説」に疑惑を抱き、これに対して、史料批判の検証を試みたいと思う。
口絵写真参照

親鸞夢記云
建久二歳辛亥暮秋仲旬第四日ノ夜
聖徳太子善信ニ告勅メ言ク
 我三尊化塵沙界 日域大乗相應地
 諦聽諦聽我教令 汝命根應十餘歳
 命 終速浄土入 善信善信真菩薩
正治第二庚申十二月上旬
 叡*南旡動寺在大乗院同月下旬終月
 前夜四更ニ
 如意輪観自在大士 告命シテ言ク
  善哉善哉汝ニ願将滿足
  善哉善哉我カ願亦滿足
 建仁元歳辛酉四月五日ノ夜寅時
六角堂ノ救世大菩薩告命シテ
善信ニ言ク
 行者宿報ニシテ設ヒ女犯ストモ
 我成リテ玉女ノ身ト披レン犯セ
 一生之間能ク荘厳シテ
 臨終ニ引導シテ生セシム極楽 
(ママ)
干時建長二年庚戌四月五日ノ寅時
       愚禿釈親鸞七十八歳
                書之  
    釈覺信尼へ/

(擬漢文体をそのまま横書き表示、異体字も
あります。左右の訓も省略。 叡*(えい)は、比叡山(ひえいざん)の叡(えい)から、又を略した「音通」表記、後述)

 この文書は、多くの史家・学者によって、ほとんど一顧もされていないものであるが、直接、批評を下されたのは、梅原隆章・梅原真隆の両氏である。
 
「この親鸞夢記には三個の夢が記されている。第一は建久二年、第二は正治二年、第三は建仁元年の夢である。これは後代の偽作であるが、傳説の考察には役立つ点*もあるからここに引抄した。この夢想記と添状の寫真版によって見ても、親鸞の書風には似せてあるけれども、真筆とは認め難い。」(梅原隆章氏『親鸞伝の諸問題』一〇九頁)

点* は旧字黒編に占 [黒占]

 「右の添状も、親鸞夢記云も、ともに文字を見れば真筆でないことは明白である。しかし、宗祖六百五十回忌の時の記念帳(明治四十五年高田山専修寺発行ー古田註)と、今回の記念帳(昭和四十二年同寺発行ー古田註)との間に五十年の経過があるとしても、肉食妻帯というテーマを掲げて、この三夢の記を捨ててしまっていることは、夢告を考えるという面では、実に片手落である。勿論この文書は後代の偽作であろうが、伝説の考察のためには重要な資料となるのではないか。せっかく高田山の宝庫に大切に伝承されてきたもののうち、三夢の中の特に『行者宿報』のみがとり上げられる理由を、もっと深く考える必要がある。」(梅原隆章氏「六角夢想」ー梅原真隆編『御伝鈔の研究』六〇〜六一頁)

 「高田の専修寺に伝わる夢想化の三つの夢はこの『正統伝』にのせてある。(1)  恐らく、これは同時に構成された伝説であろう。」(梅原真隆氏「選択付属」ー梅原真隆編『御伝鈔の研究』九二頁)

 右の文の示すごとく、両氏とも、右の文書をもって、一個の「伝説」となし、「偽作」となし、要するに、親鸞の真作にあらざる事を論断されているのである。
 けれども、むしろ直接この文書に批評を加えぬままに、この文章の記載内容を否定し去るのが、他の多くの史家の通例である。その事例として、先ず中沢見明氏の場合を左に示そう。

 「比較的古くから生じて居たと思はるゝ、聖人の在叡時代の傳説は、河内磯長の聖徳太子の靈告である(ママ)即ち、聖人一九歳、建久二年九月十四日、磯長の太子廟於て、
 我三尊化塵沙界、日域大乗相應地、諦聽諦聽我教令、汝命根應十餘歳、終速浄土入、善信善信真菩薩
 の六句の文の告命があったと云ふのであるが、この告命の文が、十年後に来るべき、吉水入室を豫言したものであるが、此文が『親鸞傳繪』上第三段に載せられた六角夢想の告命の文と二文連續して、共に太子の遺作と傳えらるゝ、太子廟窟の偈文によく似て居るようであるが、親鸞聖人の真實に感得せられた六角堂観音の告命の文は此太子廟窟偈の文であったらしい。それで『親鸞傳繪』所載の六角堂観音の告命の文は廟窟偈を改作したものであったと思ふ。それは後章に述べるが、今此聖人の磯長靈告も又後世に廟窟偈を依て考案されたのはないかと思ふ。そして此磯長霊告の文に『善信善信真菩薩』とあるが、それは『教行信證』後序の『夢の告に依て綽空の字を改』とある夢告に附會したのではあるまいかと思ふ。(中略)兎に角聖人十九歳の夢告は『教行信證』後序の變形で、存覺師時代より、もっと後世に生じた傳説であろう。」
 (中澤見明氏『史上之親鸞』五七〜五八頁)

 右のように、中沢氏は「女犯の偈文」(六角堂観音告命の文)も、十九歳の磯長の靈告も、共に後代の偽作とし、「廟窟偈」を後人が改作したものであろうと言われたのである。

 次に、現代史家の例として赤松俊秀氏の所説を見よう。
 「事実、建仁元年(一二〇一)の六角夢告以外に、親鸞が太子または救世観音から与えられた夢告は存在しない。『正統伝』ではなお二回の霊告があったとしているが、いずれも他に微証のないもので事実とは信じられないものである。」
 (赤松俊秀氏「親鸞の妻帯について」ー『続鎌倉仏教の研究』一二一頁」

 赤松氏は、六角堂「女犯の夢告」を肯定し、他を否認しておられる。現在の史学界の認識を端的に表しているものと言えよう。また宮崎円遵氏の『親鸞とその門弟』や松野純孝氏の『親鸞』においても、「女犯の夢告」を肯定し、「磯長の夢告」や「大乗院の夢告」については無視される点、赤松氏と同一の立場に立っておられるのである。すなわち、諸氏ともここにあげた三夢告をふくむ文書を親鸞真作と認めておられないのである。
 (「女犯の夢告」のみは別の「真仏書写文書」によって、親鸞真作視されるにいたっている。 ー後述)
 このように、宗門の内外を問わず、現今の親鸞研究界において、無視と否認を蒙っているこの文書は、果たして“一片の偽作”と断じ去り得るものであろうか。


  

 諸氏の論説を精視すると、一つの重大な問題点の存することに、筆者は注意せざるを得ない。それは、この文書の存在を無視して、まったくこれに触れぬ場合は論外として、両梅原氏のようにこの文書に批評を加えられた場合においても、「勿論この文書は後代の偽作」「恐らく、・・・・・・伝説」というように、周到なる史料批判の手を加えることなく、一挙に論断が下されている点である。
 すなわち、そこには「偽作の論証」が存しない、という根本の問題点を見逃すことができないのである。そこにおいて、唯一の根拠らしきものとしては、この文書が“親鸞の真筆”ではないと、ということのみである。
 確かに、写真版を一瞥してもただちに判明するように、この文書の筆跡が親鸞のものでないことは、一点の疑う余地もない。たとえば、同文書中、三箇所出現する「旬」の字を見ても、とうてい親鸞の筆跡とは見なし得ないばかりか、相当後代の筆風ではないか、と思わしめられるのである。
 それゆえ、この文書がかって、「親鸞真筆」として表示せられた(高田専修寺 明治四十五年発行の記念帳)とすれば、親鸞筆跡研究の進展と共に、かえってにわかに史料上の信憑性を失ってきたのも、一応怪しむべきものではないと思われるのである。
 しかしながら、史料批判上の問題として、この文書の「非真筆性」は、果たして、ただちに偽作性の証明となるものであろうか。


  

 この問題に対する貴重な経験は、親鸞研究史上において見出される。それは先に一言した「女犯の偈文」の夢告を記載した「真仏書写文書」の問題である。この文書をめぐる偽作より真作への評価の変遷は、わたしたちに興味ある教訓を与えている。
 まず当文書を原型式のまま、左に掲示しよう。

 親鸞夢記云
 六角堂ノ救世大菩薩示シ現シテ顔容
端政之僧形ヲ令シメテ著セ白納御
袈裟ヲ座シテ 廣大ノ白蓮ニ命シテ
<空白>
善信ニ言ク
 行者宿報ニテ設ヒ 女犯ストモ
 我成リテ玉女ノ 身ト披ラレム犯セ
 一生之間 能ク荘 厳シテ
 臨終 引導シテ 生セシム極楽ニ     文 (左訓省略)
<空白>
 救世観音誦シテ此文ヲ言ク此文ハ吾誓
 願ナリ一切群生ニ可ヘシ ト説聞カス告命シタマヘリ
 因テ斯ノ告命ニ數千萬ノ有情ニ
 令ムト聞カ之ヲ覺エテ夢悟了

(擬漢文体をそのまま横書き表示、異体字があります。左右の訓も省略。)

 この文書に関して、かって「偽作説」を述べられた、山田文昭氏の所論を顧みよう。

 「この真筆なるものは、今現に高田の寶庫に蔵せられてあるが、その筆跡は聖人の筆格ではない。けれども、紙質・墨色・筆勢等正しく鎌倉時代のもので、聖人を去ること遠くないものである。何故に斯かるものが偽造せられたか。それは今断定の限りではないが、古来高田ではこの文に就て唯授一人の口訣がある」
 (山田文昭氏『親鸞とその教団』六五頁)

 わたしたちの学ぶべきは、右の論述において山田氏の示された論証方法の、方法上の誤謬であろう。
 氏は、「女犯の夢告」に関して、「非真筆性」を根拠として、「偽造」を論断された。しかし、今日の史学界において、これを「偽造」と見なすものはない。真仏書写の文書として、今は失われた「親鸞真筆文書」の書写文書であることが判明しているのである。
 このような研究史上の経験を有するわたしたちにとって、冒頭に掲げた問題の文書(「三夢記」)が「非真筆」であるという事実は、これが「書写本」たるを示すにとどまることは明かである。ことに、この文書全体の性格を検視するならば、これが「真筆」であるはずがない、という事実がただちに判明する。なぜならば先頭に、「親鸞夢記云」とあるのであるから、それ以後の文面は、同書からの引用であることは明かである。したがって、これは書写者が、「親鸞夢記」という著述から抜き出して書写したものであることは明かであり、その筆跡が「親鸞真筆」である道理は、とうてい存しないのである。
 この点、真仏書写の文書として、「女犯の夢告」の場合も、同様の形態をとっていることが、注意せられねばならない。すなわち、真仏は親鸞真筆の単一文書の複写を行ったのではない。「親鸞夢記」という著述がすでに存在し、真仏は、その著述から「女犯の偈文」と夢告状況記載を引用、書写したのである。このような文書様式から見ると、さきに山田文昭氏がその「非真筆性」に依拠して偽作説を唱えたことの、その方法論的誤謬が明白となろう。これを一言にして評すれば、「史料性格」の誤解である。
 同様にして、わたしたちは、今、問題の文書についても、その「非真筆性」は、決して偽作の証拠でなく、むしろ、きわめて自然なる様相であることを確認しなければならぬ。


   

 このようにして、この文書(「三夢記」)に向けられていた、ほとんど唯一の批判点は消え去った。しかしながら、これによって、この文書の「真撰性」がただちに肯認されるものではないことは当然である。真仏書写文書の場合のように、親鸞の面授の弟子にして、代表的門弟、しかも親鸞生前に没している人物たる真仏の疑いなき筆跡による文書でなく、その上、相当後代の書写文書であるから、これに対し、積極的な証拠を確認し、確たる「真作」の論証が成立せぬ以上、にわかにこれを信憑しがたいことは、火を見るよりも明らかであろう。

 以下、この文書の史料批判的検証を行い、これを列記しよう。

 <イ>奥書のしめす文書性格

 この文書は、三つの夢告を記した後に、「(ママ)干時建長二年庚戌四月五日 愚禿釈親鸞七十八歳 書之」という二行にわたる奥書を有している。このことから判明するように、この文書形式は、真仏書写文書の場合のような、一つの夢告の直写ではなく、親鸞自身が、建長二年に、自分のかって若き日に体験した三つの夢告を並載したものである。しかも三つの夢告を思い出すままに書き並べたのではなく、すでにそれぞれ書き記していた、三時点の自筆文書(夢告)を、まとめてみずから書写した形なのである。
(これが娘の覚信尼の求めに応じたものであったという事情が、「添状」としての親鸞書状に記されている。この書状については、後述する。)

 このことから、今のべた親鸞の建長二年自筆文書全体が「親鸞夢記」の中に、そのままの形で掲載されていることが知られる。すなわち「親鸞夢記」は「明恵上人夢記」のように、夢告を順を追って、箇条書きに書き進めていった、というような体裁のものではない。実はすでに成立していた各時点の「夢告文書」を原型のままの形で、並載した様式をとっていたものと思われる。
(この点、たとえば「西方指南抄」の編輯方式を思わせるのであるが、このような著述性格については、後に再論しよう。)

 特に今、注意しておきたいのは、真仏書写文書との関係である。「女犯の偈文」自体は両者に重複している。しかし一の真仏書写文書は、夢告の状況説明をふくむ独立文書であり、他は状況説明をカットして、夢告の日時および偈文のみを三箇連結した「建長二年文書」である。その両者について、重複部分(女犯の偈文)の存在をもかえりみず、双方とも原型のまま輯録するのが、「親鸞夢記」の編述方針であった、と思われる。

 今、本文書「三夢記」の構成を図示すれば、左の通りである。

  〔三  夢  記〕
親鸞夢記云
_____________________________________
I 建久二年夢告の偈文(磯長の夢告)
II 正治二年夢告の偈文(大乗院の夢告)
III 建仁元年夢告の偈文(女犯の夢告)
_____________________________________
I ・II・III に対する、建長二年奥書
  釈覚信尼へ(建長二年文書のあて書き)

(三夢記から「親鸞夢記云」の一句を除いた残りすべてが、「建長二年文書」である。)

 右のように、本文書の史料性格は一応明らかになったのであるけれども、さらに、これは後代の“偽作”ではない、という論証へとわたしはおもむかねばならない。


  
 <ロ> 本文書が鎌倉中期以前の製作に属しているという論証
           ー「ニの畳用」についてー


夢告文書IIの中に、つぎの文面が現れている。

 正治第二庚申十二月上旬
 叡*南旡動寺在大乗院

(叡*(えい)は、比叡山(ひえいざん)の叡(えい)から、又を略した「音通」表記)

 右の第二行目は、一見、一種不可解な文形である。しかし、実は「ニの畳用」と称すべき、特異の時代的表記法なのである。

 今昔物語集の用例を見よう。(岩波古典文学大系本による。)

       ・ ・
(1)彼ノ蓼原ニ堂ニ詣ヅ(巻十二の十八)
               ・    ・
(2)牛、堂ヲ右ニ三廻廻テ、庭ニ仏ノ御前ニ向テ臥シヌ。(巻十二の二十)

 右のような特異な用法が鎌倉中期以前に属していたことは、この二例とも、鎌倉中期以前書写の鈴鹿本に出現していることによって、明白である。
 さて右の「ニ」は、いずれも「場所のニ」の用例をあげたのであるが、この場合、「A・・・ニ・・・B・・・ニ」となっていて、Aの方がより広い領域、Bの方が、Aに含まれた、より狭い領域を指し示しているのが注目される。

 つぎに、このような「ニの畳用」が日本式漢文においても反映している事例を、わたしは、かって「性信の血月永*文集と、親鸞在世集団ー新史料蓮光寺本をめぐってー」において述べた。(本書二五三頁)その要旨は左の如くである。

月永*は異体字、月編に永[月永]

 血月永*文集蓮光寺本において、つぎの文形が現れている。

              ・           ・
 愚禿者ハ坐スル流罪ニ之時(ニ)、望ム勅免ヲ之時(ニ)、改ムル(ニ)藤井ノ姓ヲ以テス愚禿之字ヲ

 これは今昔物語集中に出現する、

    ・       ・
 此ノ間ニ尼ノ不返来ヌ前ニ出デ、迯ナム

のごとき、「時のニの畳用」の用法が、日本式漢文化されたものと見なされる。(この場合も、まず、より広い時間を言い、つぎにそれに含まれる、より狭い時間を言う点、場所のニの場合とおなじである。)
 このように考察し来る時、わたしたちは、問題の文面が、「叡*南旡動寺(広い領域)、在大乗院(狭い領域)」という形態をなしているのに気附くであろう。

 しかも、わたしたちは今昔物語集中に、つぎの事例を有している。

然 少将ハ、御葬送ノ暁ニ、比叡ノ山ノ横川ニ只独リ登リ慈覚大師ノ、横河ノ北ナル谷ニ大椙木ノ空ニ在テ、如法経書キ給フ所ニ詣デ、法師ニ成ヌ。(55〜1、2、四、巻第十九)

 右における「場所のニの畳用」を、日本式漢文として表現すれば、「横河ノ北ナル谷ニ(広い領域)大椙木ノ空ニ(狭い領域)」となることは明らかであろう。してみれば、問題の文形が、「叡南旡動寺ニ、大乗院ニ在テ」という和文の、日本式漢文化であることは、これを疑い得ないであろう。
 このように、特異な鎌倉初期独特の表記法が、後代のいわゆる偽作者の手になるものとは、何人も信じないであろう。
 現に、当の偽作者ではないかと論者によって疑われることのある、高田正統伝の著者、五天良空は、「同年十月上旬、叡南無動寺の大乗院に閉籠して、密行を修せらる。」として、今日通常の文体で書している。また彼の自序(正統伝序)においても、「我日出之国、在天之一方」「各在一方通念仏」のごとく、きわめて通常の「在」の用法しか出現しておらず、全文、きわめて凡庸な江戸時代の漢文に過ぎぬ。
 これによってみても、この文書が、五天良空のごとき後代の作者の手になるものではないことが知られるであろう。「ニの畳用」という、独特の時代的用法の示すごとく、鎌倉中期以前に算出せられたものと、見なすほかないのである。


  六
 <ハ>建長二年文書が親鸞自身の手による記載である、という論証
     ー自署名と年次記載の様式ー

 この文書が鎌倉中期以前に成立した、という論証より、さらに進んで、これが親鸞自身の手になる文書であることを論証したいと思う。
 それを解決すべき解決の鍵は、建長二年の奥書中に存する、親鸞の「自署名」と「年次」の記載様式の中にひそめられているのである。
 この文書の奥書中における、「自署名」は「愚禿釋親鸞」となっており、「年次」は「建長第二」となっている。このいずれも、親鸞通常の書写・著作等における様式としては、必ずしも一般的なものではないのである。今、それを検するため、現存の親鸞奥書書類において、自署名と共に、年次記載の存するものにつき、これを年次順に列挙しよう。

<親鸞の自署名と年次様式>
     <年次>     <自署名>
 1 文暦二歳(六十三歳) 愚禿親鸞  唯信鈔(真) 墨美、親鸞聖人御真蹟集、一三頁
 2 寛元四歳(七十四歳) 愚禿親鸞  唯信鈔(顕智)写伝二、親鸞聖人全集(以下同じ)、二三四頁
 3 寛元四歳(七十四歳) 愚禿釋親鸞 自力他力事 写伝二、八八頁
 4 宝治第二(七十六歳) 釋親鸞   浄土高僧和讃 和讃、一三九頁
 5 建長三歳(七十九歳) 釋親鸞   古書簡四 書簡、四八頁
 6 建長三歳(七十九歳) 愚禿親鸞  末燈鈔一(上と同一) 書簡、六三頁
 7 建長七歳(八十三歳) 愚禿釋善信 一念多念分別事 写伝二、八〇頁
 8 建長七歳(八十三歳) 愚禿親鸞  愚禿鈔上(顕智) 漢文、一九頁
 9 建長七歳(八十三歳) 愚禿親鸞  愚禿鈔上(存覚) 漢文、七四頁
10 建長七歳(八十三歳) 愚禿親鸞  愚禿鈔下(存覚) 漢文、一〇五頁
11 建長七歳(八十三歳) 愚禿親鸞  浄土三経往生文類(略) 和文、一七頁
12 建長七歳(八十三歳) 愚禿親鸞  尊号真像銘文(略) 和文、六九頁
13 建長七歳(八十三歳) 愚禿親鸞  皇太子聖徳奉賛(真仏)和賛、二四八頁
14 建長七歳(八十三歳) 愚禿親鸞  真蹟書簡一 書簡、八頁
15 建長七歳(八十三歳) 愚禿親鸞  末燈鈔二 書簡、六八頁
16 建長八歳(八十四歳) 愚禿親鸞  唯信鈔文意 和文、二一四頁書
17 建長八歳(八十四歳) 愚禿親鸞  浄土論註(真) 加点二、一五三頁
18 建長八歳(八十四歳) 愚禿親鸞  古写書簡五 書簡、五三頁
19 康元元 (八十五歳) 愚禿親鸞  西方指南抄上本(真)輯録一、五六頁
20 康元元年(八十四歳) 愚禿親鸞  西方指南抄上本(真)輯録一、一一〇頁
21 康元元 (八十五歳) 愚禿親鸞  西方指南抄中本(真)輯録一、一六一頁
22 康元元年(八十四歳) 愚禿親鸞  西方指南抄中末(真)輯録一、二一八頁
23 康元元 (八十四歳) 愚禿親鸞  西方指南抄下本(真)輯録二、二九〇頁
24 康元元 (八十四歳) 愚禿親鸞  西方指南抄下末(真)輯録二、三六七〜三六八頁
25 康元二年(八十五歳) 愚禿親鸞  浄土三経往生文類(広) 和文、三八頁
26 康元二歳(八十五歳) 愚禿親鸞  一念多念分文意(真) 和文、一五二頁
27 康元二歳(八十五歳) 愚禿親鸞  唯信鈔文意(真) 和文、一八三頁
28 正嘉元年(八十五歳) 愚禿親鸞  正像末和讃(覚然)和讃、一五二頁
29 正嘉元歳(八十五歳) 愚禿親鸞  上宮太子御記(真)輯録二、三九五〜三九六頁
30 正嘉元年(八十五歳) 親鸞    末燈鈔三 書簡、七〇頁
31 正嘉元年(八十五歳) 親鸞    末燈鈔四 書簡、七二頁
32 正嘉二歳(八十六歳) 愚禿親鸞  尊号真像銘文(広)(真)和文、一二〇頁
33 正嘉二歳(八十六歳) 親鸞    愚禿悲歎述懐(顕智)和讃、二一三頁
34 正嘉二歳(八十六歳) 愚禿親鸞  古写書簡六 書簡、五六頁
35 正嘉弐年(八十六歳) 愚禿親鸞  末燈鈔五 書簡、七四頁
36 正治元歳(八十七歳) 愚禿親鸞  選択本願念仏集 写伝一、一八五頁
37 文応元年(八十八歳) 愚禿親鸞  阿弥陀如来名号徳 和文、二三三頁
38 正嘉弐年(八十八歳) 愚禿善信  末燈鈔六 書簡、七六頁
 <注>『西方指南抄』において、年時と年齢間に錯誤の存在することは周知のようであるが、今は原型のまま表記した。

 右の表を通観するとき、まず自署名の様式について、一つの著しい特徴を発見し得るであろう。
 それは、自署名中に「釋」の字を含む記載様式は、3(寛元四歳、七十四歳)より7(建長七歳 八十三歳)までの十年間に限られている、ということである。8以後38まで、三十一例の多きを数えながら、その中には「釋」の字を含むものの存在を見ないのである。換言すれば、三十八例中の四例しか、その事例を見ぬ特殊例であること、しかもその出現時期に“特定姓”を有しているのである。

 なお、左の三事例に吟味を加えよう。

(1)6の場合、5と同一書簡である。5は鎌倉期古写書簡たるに対し、6は後代の『末燈鈔』所収のものである。(2)

(2)高田専修寺蔵の「歓喜二歳書寫」とされていた『唯信鈔』に「愚禿釋親鸞」の自署がある。しかしこれは親鸞八十歳代の執筆であるとの説があり、今これを一応省略した。(3)

(3)『浄土和讃』中、「愚禿釋親鸞作」という自署名が存している。(全集、和讃篇三十二頁)末尾に生桑完明氏の解説せらるるごとく、『浄土和讃』が『浄土高僧和讃』と一連のものであるならば、これも「寶治第二、七十六歳」時点の(もしくはそれ以前)の執筆と見なされよう。

したがって、この問題を整理すれば、左のごとくである。

一、自署名中、「釋」の字を含むのは、七十四歳から八十三歳の間であり、「釋の十年」とも呼び得る。

二、それ以後は、「釋」字を有せざる、「愚禿親鸞」のような自署名がほとんどになった。

三、統計事例中重要なことは、現存史料上八十三歳以後の「釋」字を含まない用例が、圧倒的に多いことである。(約90%)

 以上のような事実を基礎にして、当文書の奥書を見ると、それは「愚禿釋親鸞」という少数例の表記を示している。しかもその年時は「建長二年」であるから、「七十八歳」であって、まさに「釋の十年」の真只中に当たっているのである。

 このような統計上の事実は、現代において、各寺院に秘蔵されていた親鸞真筆写本・古写本が公開され、『親鸞聖人全集』といった形でまとめられた時点において、はじめて統計し、認識し得ることなのであるから、室町期や江戸期の「いわゆる後代の偽作者」などの念頭にだにし得ざるところであろう。してみるとこのような“偶然の事実”は、はからずも、この「建長二年文書」の“非偽作性”を立証すべき重大な鍵をなしている、とみなされねばならない。

 この事実をさらに確実に指示する箇所が存在する。それは「年時記載」の様式である。前表によって統計すれば、左のようである。

(1)  歳 ー 二十三例(たとえば「文暦二歳」)
(2)  年 ー 十例(たとえば「建長七年」)
(3) ナシ ー 四例(たとえば「康元元」)
(4)  第 ー 一例(たとえば「寶治第二」)

 これで明らかなように、年時記載に「第二」といった様式を用いる例は、たった一例しかない希有の例である。
 ところが、当文書の奥書は、「建長第二」となっている。しかも、これは「七十八歳」のものであるから、「寶治第二」(七十六歳)と用例ときわめて接近している。前記の表においては、4と5の間に入り、「寶治第二」の直後に来ることとなろう。すなわち、親鸞の年時表記としてはきわめて特異ながら、七十代後半においてそういう表記に傾いた時点があった、という史料上の時点に適合するのである。
 このような“希有の偶然”は、いかなる天才的偽作者も、とうてい「利用」し得ぬところと言わねばならぬ。なぜならば、偽作者の真理は“通常の親鸞文書”に相似せしめんとするにある。しかるに、このような例外書式を重ねて使用し、しかも正しき時期に的中せしめることは、至難の業に属するからである。
 以上によって、わたしはこの建長二年文書が後代人の作為するところでなく、親鸞その人の手によるものであることを確信せざるを得ないのである。


  

 以上によって、当文書の真作性が立証されるにいたったのであるけれども、なおこれを補強すべき諸点があるので、これを加えよう。

<ニ>建長二年文書中の、三つの夢告の各文体の相異について

 建長二年文書が、三つの異なった時期の文書の併記合載であることは、すでに<イ>において分析した。
 すなわち、三つの夢告文書は、それぞれの当該時点の執筆でありながら、それが原型状のまま、建長二年に、親鸞自身によって、併合して書写されている、と見なされるのである。しかも、そういう史料の様態に適合しているのは、各文体の相異である。

 第一の夢告(建久二歳)の場合、「聖徳太子善信ニ告勅シテ言ク」として、和文風の順序になっているのに比し、第三の夢告(建仁元歳)の場合は、「六角堂ノ救世大菩薩告 命シテ善信ニ言ク」として、漢文式の表記となっている。このように、両者の文体を書き分けるということは、後世の偽作者としては、きわめて不可解である。(第二夢告の場合は、「告命言」とのみあって、「善信」を欠く。)
 ところがわたしは、坂東本教行信証末尾の分析によって、従来いわゆる「後序」と称されて来た部分が、その実、各執筆時点を異にする四文書(「承元の奉状」「法然追悼の賛文」「吉水入室文書」「元久二年文書」)の連結によって形成されていることを立証した。(「親鸞の奉状と教行信証の成立」本書五〇三頁参照)その際、各文書の文体は、それぞれの執筆時点に適した個性ある文体を示していることが検出されたのである。
 このように、現在において、学的に新たに検出された事実は、いわゆる「後代偽作者」のよく知り得るところではない。それはまさに、親鸞自身の「手口」によく適合しているのである。

 その上、第一夢告に現出しているような、和文風の順序に感じを並べ、その間に仮名を点綴する方法は、たとえば「今昔物語集」の鈴鹿本(鎌倉中期以前成立)にも現れるごとく、鎌倉期に属する表記法である。
 さきにあげた『明恵聖人夢記』は、親鸞と同時代の人たる明恵の自筆本が現存している。そして、そこにも同様の表記法が出現している。

鳥説此偈已時成辯之手持二巻劫經、一巻外題ニハ佛眼如来トカー(キ)一巻外題ニハ釈迦如来トカケリ(明恵自筆『夢記』冒頭)

 さらに、このような文形は、現在親鸞真作とされている真仏書写文書(「女犯の偈文」)の中にも、つぎのような形で姿を現している。

 救世観音誦 此文言此文吾誓願ナリ一切群生ニ可説聞告命シタマヘリ

 それゆえ右の第一夢告のように特異な時代的文体が、後世の偽作者によるものとはなし得ないであろう。
 また、月日時の記載方式についても、

I  暮秋仲旬第四日ノ夜
II イ 十二月上旬
  ロ 同月下旬終月前夜四更ニ
III 四月五日ノ寅時

  として、表記形式がそれぞれ異なっている。
 これをもって、後代偽作者の「作文上の技巧」と考えるには、それはあまりにも無意味である。これに対し、すでに成立していた各時点文書の、原型のままの書写とするとき、きわめて自然なのである。

 この点、教行信証坂東本末尾(いわゆる「後序」)の連結四文書においても、

1 今上諱為仁聖暦承元丁卯ノ歳仲春上旬之候(「承元の奉状」)
2 皇帝諱守成聖代建暦辛未ノ歳子月ノ中旬第七日
3 同シキ二年壬申寅月ノ下旬第五日午時(「法然追悼の賛文」)
4 建仁辛酉ノ暦(「吉水入室文書」)
5 元久乙丑ノ歳
6 同シキ年初夏中旬第四日
7 同シキ日
8 同二年閏七月下旬第九日(「元久二年文書」)

というように、表示様式が統一されないまま、各文書の原形式をとどめていたのと、奇しくも一致するのである。
 したがって、この点においても、当文書は後代の凡庸なる伝説作製者の手になるものではない、親鸞その人の「手口」を歴々と露呈しているのである。


   

 なお、当文書真作説を補強すべき一証を加えよう。

<ホ>「叡*南」という時代的特殊表記について

 平安末から鎌倉期において、特異なる「音通」表記の多く用いられていることにつき、筆者は他の論文において述べた。
(「原始専修念仏運動における親鸞集団の課題」本書350頁参照)

 その中の「扁旁(へんつくり)の省略字について、左に摘出しよう。(<>内は正字)

○白父<伯> ー岩波日本古典体系今昔物語集第二巻九三頁
○干<肝>  ー岩波日本古典体系今昔物語集第五巻一三九頁、一八〇頁
○太政官府<符>ー承元元年(一二〇七)「沙彌圓爾度縁」(東福寺文書一)
○玄番寮<蕃>

 右のような事例は、親鸞と同時代の明恵の自筆の『夢記』にも数多く出現して現代の閲読者を一驚せしめる。
○卉<=菩薩>
○婁各<樓閣>
○羊石<=達磨>
○秘宀<=秘密>

表示できないので略(二件)

○玉玉<=瓔珞>
○荘ム<=荘厳>

 これらは決して「誤字」ではなく、平安末から鎌倉期に多用された一種の慣用略字形なのであった。
 さて、当文書において、「叡南」が「叡*南」と表記されている。(両梅原氏は、共に「叡南」という正字形に「訂正」して活字化されているが、写真版をもって判然とするように、原文書においては、「叡*南」と表記されているのである。)これは、鎌倉中期以前にあり、しかも叡山に住んだ親鸞の書法が“訂正されずに”そのまま書写されたものとする時は、容易に理解し得る時代的表記法である。(明恵の例でもわかるように、日常使用頻度の多い用語においては特に、このような省略字形は成立しやすいのである。)
 これに対し、もしかりに後世の偽作者の製作になった場合は、かえって「叡南」という正字を書し、このように「後代の目にとっては怪し気なる」省字法を用いることはしなかったであろうと思われる。
 したがって、この問題も、当文書の“非偽作説”を指向するのである。

(叡*(えい)は、比叡山(ひえいざん)の叡(えい)から、又を略した「音通」表記)


   

 以上によって、当文書の真作性については、必要にして十分なる論証が得られたと思われる。しかしながら、なお解明すべき若干の問題が存在する。

 <ヘ>「善信」という自称の出現について

 「善信」という名称については、一般に元久二年(三十三歳)以後のものと信ぜられている。教行信証末尾の建久二年文書に、「又依テ夢ノ告ニ改メテ綽空ノ字ヲ同シキ日以ヲ御筆ヲ令メタマヒ書名之字ヲ畢ヌ」(漢文表記略)とあるからである。
 このような見地からすると、当文書中の建久二年文書(十九歳)の夢告説明において、すでに「善信」の名が出ていることに対し、不審が抱かれるであろう。けれども、この問題はけっして建久二年夢告固有のものでははない。すでに真作性を疑う者のない「女犯の偈文」についても、同様である。本文書中の第三夢告の場合にも、「善信」の名前が出ているのと同じように、真仏書写文書の場合も、「善信」の称が出現しているのである。この「女犯の偈文」(本文書第三夢告と真仏書写文書)も、元久二年(三十三歳)より前のものであるから、「善信」の称が出現する不都合は、建久二年夢告(十九歳)の場合とまったく同一である。しかしながら、この問題は、親鸞自身の自分の表記様式を考察するとき、ただちに氷解するであろう。

 親鸞真筆の『西方指南抄』の中に、「七箇条起請文」がある。その末尾に法然の門弟らの連署が略記されているが、その中で親鸞自身について「善信」と表記している。(全集、輯録篇2、一七一頁)しかしながら、これは「元久元年十一月七日」の文書であるから、当然「善信」でなく「綽空」でなければならぬ。事実、二尊院に所蔵される「七箇条起請文」には、「僧綽空」と署されているのである。これによってみると、親鸞は「七箇条起請文」を書写しながら、自署名については「現在名」(善信)に改めているという事実が知られるのである。(親鸞は、元久二年以後、「善信」の自称をみずから廃止した形跡はなく、最晩年の書状においても、使用している。)

 このような親鸞の「手口」は、教行信証にも現れている。

然ニ愚禿釋ノ鸞建仁辛酉ノ暦棄ステ雑行ヲ□帰ス本願ニ(化身土末巻)

(異体字表示、漢文表記略)

建仁元年(二十九歳)の吉水入室の際、すでに「愚禿釋親鸞」の称号を名乗っていたわけではない。しかるに後年の称号を主語として、文脈を構成しているのである。しかもここは、各執筆時点を異にする四文書合成の部分であり、主格に対する述語部分が、建仁元年時点執筆の「吉水入室文書」から採択した文書であろうということは、すでに論証したごとくである。(「親鸞の奉状と教行信証の成立」本書五〇三頁)そうするとはじめの文書においては、その主格は、「範宴」のごときであったものを、後年の自称(愚 禿釋親鸞)によって、“置換”したと見られるのである。

 こうしてみると、自称部分を執筆時現在の呼称をもって“置換”するというのは、親鸞の一貫した手口であると言わねばならぬ。

 さらに、これと同類に属すると思われるのは、左の表現である。

達ス
太上天皇 諱(イミナ)尊成
今上天皇 諱為仁 聖暦承元丁ノ卯歳仲春上旬之候ニ
<教行信証化身土末巻「承元の奏状」中>

「承元元年」は十月二十五日に改号されている。したがって問題の「仲春上旬」においては、「建永二年」なのであった。しかるに改号後の名称たる「承元」をもって、二月の事件を記載している。これも名称が改訂された後の記述様式として、先の親鸞自称改訂問題と一脈の共通性をもっていると見なし得よう。

 この「承元の弾圧」(したがって「建永の弾圧」とも称される)について、各書の表記形式は次のごとくである。(4)

 ○「建永二年」と表記するものー伝法絵、法然聖人絵、十六門記、九巻伝、四十八巻伝、法然聖人伝絵詞
 ○「承元二年」と表記するものー皇帝紀抄、念仏無間地獄鈔、興福寺略年代記、立川寺年代記、建長寺年代記、和漢合符

 このようにしてみると、親鸞の表記様式はけっして孤立したものではなく、むしろ同時代の通有的表現方法に属していたのではないかと思われるのである。
 ともあれ、親鸞の表記法におけるこのような「表現改定様式」の存在を知ったわたしたちにとって、当文書の第一夢告、第三夢告及び真仏書写文書における、「善信」の名称は、けっして怪しむべきものではないことが明らかとなろう。
 しかも問題はそれにとどまらぬ。なぜならば、このような“独特の表記様式”、しかも親鸞その人の「手口」であることの確認される表記様式は、かえって後代の偽作者の採択し得ぬ方式と言わねばならぬ。何となれば、高田専修寺秘蔵の「西方指南抄」、二尊院内蔵の「七箇条起請文」、共にかっては容易に人のうかがい知ることのできぬものであって、室町ー江戸期の偽作者流のよくその存在を知り得るところではなかったからである。
 したがって、一見怪しむべきに似たこの「善信」表記は、逆に当文書の“非偽作性”を指向していたのである。


  

 つぎにわたしたちは、この「建長二年文書」の宛てられた人の名、「釋覺信尼/ 」の問題を検討してみよう。
 はじめに梅原隆章氏の論文で触れられてあったように、当文書は、当文書と一対(つい)の「」を有している。この「添状」にも同一のあて名「かくしん/ (へ)」が現れている。(5)  そこで先ずこの「添状」の信憑性を検証しよう。これまでは、この「添状」もむろん「偽作」とされ、従来の親鸞聖人全集その他の類書から、いっさいオミットされているものである。今、それを原型のまま掲示しよう。

御文くわしく承候、わさとも
申入へく候に、かたみと御望候ゆへ
四十八の御願文、いにしへの
夢の御文ともを、書きまいらせ候、
いきて候へは、また對面候て
しかしか申まいらすへく候、
何事も疑いなく、御安心たし
ろかせたまはて、御念佛せさせ
候よし、めで度事にて候なり。
他力には義なきを義とす
とは申候なり、只ゝ御はからい
なく、御本願にまかせ、いよゝ
御念佛候へし、
かへすゝ。
南無阿彌陀佛
   四月五日
     かくしんへ                     親鸞
                                (花押)

 右の書状について、問題点を箇条書きにして述べることとする。

 (1)  親鸞が自署述や書状の末尾に、しばしば「南無阿弥陀仏」と記したことは、よく知られている。(「性信の血月永*文集と親鸞在世集団」本書二五三頁)たとえば書状の場合では、血月永*文集第四集や末燈鈔一においてもそれが見られる。したがって、本書状末尾の「南無阿弥陀仏」についても親鸞のものとしては、自然である。(ただしこの場合も、この様式を欠く方が圧倒的に多いから、「偽作」としてはかえって不自然である。)

 (2)  「親鸞」(花押)
という様式は、きわめて一般的であり、何の不審も存せぬ。

 (3)  「かくしんへ」という仮名の宛書きは、多くはないとは言え、「たかだの入道殿」(真蹟書簡五)、「しやうしんの御ばうへ」(古写書簡二)等があり、さらには「わ□(う)ごぜんへ」(真蹟書簡七)があり、この場合は、自署名さえ「しんらん」と仮名書きになっている。有名な「いまごぜんのはゝに」(真蹟書簡一〇)もある。(以上、書簡番号はすべて全集による。)したがって、本書状の「かくしんへ」も、何ら怪しむべきところはない。

 (4)  本書状の用語について
 「かたみ」という用語は、他の親鸞書状に用例を見ないが、平安・鎌倉期における用語としては、通常のものである。

 (一)逢はむ日の可多美にせよと、たわやめの思い乱れて縫へるころもぞ(万葉集、十五)
 (二)梅が香を袖にうつしてとどめては、春は過ぐともかたみならまし(古今集、春上)
 (三)いきのこりて候は、かたみとおもひまいらせ候らんとて、(元久二年(一二〇四)十二月、欣西書状{一四九八番}大和興善時阿弥陀像胎内文書。鎌倉遺文第三巻)

 「わざと」についても左の用語例がある。

 抑態と(わざと)此下人をハまいらせ候也、(元久二年(一二〇五)十一月、成弁書状{一五九六〜八番}高山寺明恵上人行状記(本伝、正嘉元年十一月十日以御自筆之本書了。鎌倉遺文第三巻)

 つぎに、「御文」「御望」「御願文」「御安心」「御念仏」「御本願」といった「御」のついた敬語表現が多いが、この傾向は親鸞書状全体にも、しばしば見える所である上、この際女性(娘)相手の書状であることも影響しているかと思われる。「如来の御ちかひ」(真蹟書簡一、三頁)、「御安ども」(同上、七頁)、「御ふみ」(古写書簡一、三七頁)、「御念仏」(末燈鈔一二、八八頁)、「御本願」(親鸞聖人御消息集一、一二五頁)といった用例が存在している。

 (5) 「覚信」の呼称について
 「建長二年文書」に「釋覺信尼/ 」とあり、当書状には、「かくしんへ」とあるのであるが、この名称は、建長二年時点のものとして妥当であろうか。
 健治三年や弘安三年の寄進状などにおいて、「あまかくしん」の覚信尼の自署名が存することは、よく知られた所である。(真宗聖教全書五、拾遺部下、七三三〜七三四頁)しかし、親鸞在世中の書状として、覚信尼を指称すると思われる「わ□(う)ごぜんへ」(真蹟書簡七)があり、さらに、建長八年の恵信尼書状に「へ」への宛名が存するのであるから、建長二年において、「釋覺信尼」の称号が出ていることを怪しむ人もあろう。今、関連の略年表をしるせば、つぎのようである。

○一二四五(寛元三) 日野広綱死
○一二五〇(建長二) 建長二年文書覚信尼宛書状(添状)
○一二五三(建長五) 唯善生(本願寺通紀)
○一二五六(建長八) わうごぜん宛恵信尼書状
○一二七七(健治三) 尼覚信寄進状
○一二八〇(弘安三) 尼覚信寄進状

 一応、上のような年表が考えられるけれども、なおこの中には、未確定の要素が多い。
 すなわち覚信尼がはじめ室(妾)となり、一子覚恵を生んだ、その日野広綱と死別した年次や、再婚した夫禅念との間の子唯善の生年は、第一史料が存しないから不確実である。
 只、彼女の一生の中で、(A) 日野広綱の室(妾)の時代、(B) 広綱が死去し、一子覚恵を連れて寡婦であった時代、(C) 禅念と再婚し、唯善を生んだ結婚生活の時代、(D) 禅念と死別し、ふたたび寡婦となった時代、というように各時期がこもごも来去していることは確実である。してみると、(1) 、Bの時期に、「覚信尼」と自称した可能性も十分存する。(2) 、恵信尼が、夫たる親鸞生前の建長8年にすでに、「恵信尼」と名乗っていたように、覚信尼が「覚信尼」という法名をすでにAの時期から有していた可能性も存しよう。したがって、わたしたちが現在有している史料からは、建長二年に「覚信尼」の称があったということを否定する線は出て来ないと言うほかないであろう。それゆえ、この呼称問題から、偽作性の論証は成立し得ないのである。

 最後に、当文書と当書状の伝来の問題について考察しよう。

 これらの文書類は、高田専修寺に伝来している。したがって高田系の偽作者が「疑撰」したとするならば、当然その「宛名」は、「真仏」なり「顕智」であるべきであろう。しかるに宛名がむしろ本願寺系の「血脈」に属する「覚信尼」であることは、偽作説にとって不利というほかはない。
 また、高田系に「釈覚信」(男)という門弟があり、現に親鸞宛の書状が真筆で伝承されている(真蹟書簡二、九頁)にもかかわらず、当文書、当書状は、その「覚信」あてではない。

 このような事実から見ると、「偽作説」はその「偽作の目的」を有しないこととなろう。
 この点、五天良空の正統伝が、これら三つの夢告を十分に用いながら、この三つの夢告を記した「覚信尼」あての文書の伝来することにまったく触れていないのは、この文書が必ずしも、高田系の伝統のみに有利でないと見えていたことをおのずから語っているものと言えよう。

 建長八年の恵信尼文書で語られているように、覚信尼は、この直前「せうもう(焼亡)」によって、多くの文書を焼失したようである。したがって、かって父から「かたみ」と思って送られたこの文書・書状も、焼失したのであろうと思われる。このようにして、高田系においてのみ、「親鸞夢記」から書写した文書及び「釋覺信尼」あての書状の書写文書が遺存することになったのであろうと思われる。
 要するに、伝来・伝承からも偽作説は成立しがたいのである。


    十一

 最後に、「親鸞夢記」の性格について述べよう。
 真仏書写文書が存在することから、「親鸞夢記」が親鸞生前に成立していたことは確実である。何とならば、真仏は親鸞生前に没しているからである。このことからすると、「親鸞夢記」は、親鸞面授の門弟の編述でなければ、親鸞自身の編述と考えるほかないであろう。ところが「親鸞夢記」という名称からすると、これは門弟の編述ではあり得ないと思われる。

 親鸞の高弟性信の編述した文書集が『「親鸞聖人血月永*文集』であるように、門弟の編述した「夢記」ならば、『親鸞聖人夢記』『親鸞御夢記』といった、呼称をとらざるを得ないであろうと思われる。(6) 『明恵上人夢の記』『上人大師御夢記』のごときも、勿論後人の表題である。(明恵自筆の『夢記』は、首尾共に欠くため、明恵自身の表題は認識し得ない。)こういう点から見ると、以外にも「親鸞夢記」は、親鸞自身の手による編述であると、認定しなければならないのである。それゆえにこそ、親鸞の高弟真仏がこれを書写したのである。
 「親鸞夢記」は、夢告を箇条書きにして整理したものではない。各時点の文書を、そのままの形で、併載・列挙したものである。こうした輯録方法が、きわめて“親鸞らしい方法”を示しているという点についてはすでに述べた。

 親鸞真筆の『西方指南抄』は法然に関する「夢記」を含んでいるが、その中に内容上の重複が存する。

 健保四年四月廿六日 園城寺長吏、公胤僧正之夢ニ、空中ニ告云、源空本地身大勢至菩薩、衆生教化故来此界度度ト。
 カノ僧正ノ弟子大進公寶名ヲシラス、記之。
(『西方指南抄』上末、一〇九頁、左右の訓省略)異体字含む

 園城寺長吏法務大僧正公胤、為 法事 唱 導之時、其夜 告 夢 云。源空為教益 公胤能説 法 感即不可盡 臨終先迎攝 源空本地身 大勢至菩薩 衆生教化故 来 此界度度
(『西方指南抄』中末、一八六頁、左右の訓省略)異体字含む

 わたしたちは、この状況を見て、「親鸞夢記」中に一方では「真仏書写文書」あり、他方では「建長二年文書」中の「女犯の偈文」あり、双方に同一偈文の重複しつつも詳略の存する状況と、あまりにも相似するに驚くであろう。

 以上によってわたしは、次ぎの四事実の必要にして十分なる論証を、帰結することとなったと信ずる。
 
 一、「親鸞夢記」は親鸞自身の編述である。

 二、「建長二年文書」は、親鸞の真作である。従来欠けていると信ぜられていた。叡山時代の若き親鸞の思想をうかがうべき、無類の史料である。

 三、「女犯の偈文」は建仁元年四月五日の夢告であることが決定せらるる。

 四、覚信尼あての親鸞書状も真作である。



(1) 「宗祖六百五十回忌の時の記念帳」とは、明治四十五年四月六日発行の「高田山専修寺」という記念帳の写真版を指す。その第九に「開山大子御真筆覚信尼贈ラセラル御消息及三夢ノ記」がある。「今回の記念帳」とは、宗祖七百回忌記念の「高田本山専修寺」という記念帳の写真版(京都便利堂印刷)を指す。後者には、真仏書写文書(女犯の夢告)は掲載されているが、「三夢ノ記」は掲載されていない。

(2) ただし、両者間の多少の内容の異動はあるから(たとえば末尾の「南無阿弥陀仏」の有無等)、必ずしも末燈鈔所収のものが「改作」とは断ぜられない。要するにこの時期は、「釈」と「愚禿」の混用期であるから、この5と6もその一微証と見なすべきかもしれぬ。

(3) 小川貫弌「坂東本『教行信証』の成立過程」(慶華文化研究所編『教行信證撰述の研究』所収)二四三〜二四九頁

(4) 田村圓澄『法然上人傳の研究』一七二頁

(5) 周知のように、高田系には親鸞の弟子として「覚信」(男)がある。従って、「かくしんへ」とある場合、一応この覚信ではないかという疑いがあるわけである。しかし、つぎの三点から、やはり覚信尼であることが判明する。

○1「建長二年文書」のあて書きが「釋覺信尼/ 」とあること。
○2「かくしん」あて書状の内容に「いにしへの夢の御文ともを、書きまいらせ候」とあって、右の「建長二年文書」を指していると見られること。
○3「かくしんあて書状」の日付けは、「四月五日」であり、「建長二年文書」の日付けと一致していること。(これは「建仁元年四月五日」の「女犯の夢告」の日であり、この「日」を意識して、この文書・手紙が書かれたものと思われる。)


(6) わたしは歎異抄蓮如本の研究において、面授の弟子に「親鸞呼び捨て呼称」の存したことを立証した。(「原始専修念仏運動における親鸞集団の課題」)しかし、これは文中の課題であり、著書の表題のごときに適用しがたいものである。たとえば、歎異抄の場合にも、序文において、「親鸞聖人御物語」とあるのを見ても明らかである。
 したがって、「親鸞夢記」というような、“呼び捨て呼称による表題”は後代人はもとより、面授の弟子さえも、名付け得るところではないのである。


内容は古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2 親鸞思想ーその史料批判ーと同じです。

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あとがきに代えてー赤松俊秀氏に答えるー

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