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古田武彦・古代史コレクション10

真実の東北王朝

ミネルヴァ書房

古田武彦

始めの数字は、目次数です。はしがき、序文、跋文は下にあります。

【目 次】

i はしがき --復刊にあたって

v 序文遮光器土偶と序文は下に)

001 第1章 多賀城碑探究
仝講演多賀城碑について 『市民の古代』第八集

多賀城碑文に歴史の真相あり/「真偽判別」に明け暮れた日々/「多賀城碑、偽作説」に異議あり/里程記載から得た「本物の心証」/倭人伝里程研究で学んだこと/先人の研究で残された矛盾/方向のない里程/すべては「西」の国界/起点は京にあり/蝦夷国内に多賀城はあった/古代の城柵もすべて蝦夷国内にあり/先学の遺影の前で


033 第2章 多賀城碑再考

杜の都で得た学的刺激/中国の史書にあった先行例/中国の西域経営を手本とした近畿天皇家/西域にて古代の東北を考える/「集字」こそ真作の証明/文献の中の多賀城碑文/金石文は文献に優越する/続日本紀に後代の改変あり/土中に温存された史実/靺鞨国をめぐる疑義/日本海にのぞむ大国/日本国と交流のあった渤海国/東アジアの古代を反映する多賀城碑文/蝦夷国から沿海州へ至る道


067 第3章 日本中央碑の思想

巫女の語りを聴きながら/脈々と伝えられる人間智/結び草にたくす母の情/たった四文字の記念碑/「日本中央碑」こそ「壷の石碑」だ/その時、多賀城碑は地上になかった/削り取られた裏面/古歌に反映する二つの異なった認識/忘れられた偉才、秋田孝季の証言/沖縄と北海道をむすぶ四世紀前後の大交流/縄文期の日本海をめぐる大航海時代があった/アラスカから沖縄までを活動範囲に/「日本書紀」の「粛慎国」とはどこか/「大河」=黒竜江の証明/黒竜江流域と大交流していた古代アイヌ族/リーダーは大和朝廷下の人物にあらず/盗用された九州王朝の史書/「日本国」は九州王朝の独創/粛慎攻略は日本と隋の軍事緊張の反映/弥生期以前「日本」の中央は蝦夷国だった/多元史観を証明する「日本中央碑」


111 第4章 東日流外三郡誌への旅

秋田孝季との出会い/偽書あつかいする前に/原本に会える!/心をとらえる詞章の宝庫/「津軽の藩史は偽なり」/後世の「聖者」にたくされた「遺言」/孝季に誓う/記録された古代の津軽/地形図が歴史の真相を語る時/三人の協同作業/公的記録にない魅力/隠れた近世の百科全書派/みちのくの歴史の最奥の扉を今開く


139 第5章 東日流外三郡誌との出会い

聖地・石塔山にて/夢にまで見た資料との対面/つかんだ真作としての確認/「長髄彦の謎」をめぐるモノローグ/見出された解明への緒口/神武かニニギノミコトか/符合する神話と出土物/銅鐸の不在と前漢鏡の存在/「邪馬壱国問題」への邂逅/そそがれた汚名/孝季は「邪馬台国」と書いていた/いくつかの可能性/「山」を父祖の地とする勢力/孝季に捧ぐ


179 第6章 東日流外三郡誌を問う

真贋を問う/ダーウィンをめぐる疑惑にこたえる/「ビッグ・バン」について/「キュリーの反証」/「神は人の上に人を造らず・・・」/「安・長、欠落の論証」/秘められた福沢諭吉との約束/福沢思想とはなじまず/至宝の一句に原産あり/決定的な証拠/今なお脈打つその思想
天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり 総覧


213 第7章 アイヌとストーン・サークル

古代アイヌへの朔源の旅/考古学と地名研究の断層/アイヌ神話/「ムックリ」にゆれる長い黒髪/アイヌの大地と心への愛/日高に生きる「北の巨人」/千歳の環状土籬/墓所と同時に祭りの場/なぜ大湯にストーン・サークルがあるのか/御倉山の大噴火/信州から北進したストーン・サークル


245 第8章 最上川と御神楽岳と鉄

迷い道の先に喜びあり/米沢市のスーパー・ロングハウス/「最上川ストーン」文明/土器を御神体とする風習/御神楽岳は縄文以来の祭祀の山/古代人は山をどう見たか/最高峰を禁忌したニニギの軍団/縄文のキーワードとしての「みか」/鉄をめぐる古代東北の謎/「鉄の王国」に侵入した近畿天皇家/新地町武井地区にて/東北王朝に製鉄はあったか/筑紫から津軽へと伝わった製鉄技術

 

283 第9章 歴史の踏絵 −ー 東北王朝

よみがえる少年の日の感動/蝦夷国と陸奥国の実体は同じ/「外つ国」とは福島県から先を言う/「蝦夷国」とは中国側の造字/「クイ」と呼ばれていたアイヌ族/敬称として使われた「えみし」/歴史の推移を物語る「蝦夷」の二面性/「歴史の踏絵」としての「東北王朝」/一戸町の御所野遺跡が教えること/古来の聖地との共存/「墓の上に墓をおかず・・・」

 

307 跋文

 

311 付録 その後の『東日流外三郡誌』

313    I  秋田孝季論
331    II 「寛政原本」の出現について
349   III 名代論 --孝季と崇道天皇

359 日本の生きた歴史(十)

361  第一 多賀城碑「里程」新論 --田中巌論文をめぐって
362  第二 杉本文楽「曽根崎心中」論
364  第三 「舶載」三角縁神獣鏡論

372  資料

1   人名・事項・地名索引

 ※本書は『真実の東北王朝』(駸々堂出版、一九九〇年)を底本とし、「はしがき」、「付録」(『なかった --真実の歴史学』第三号、六号、ミネルヴァ書房より)、「日本の生きた歴史(十)」を新たに加え、口絵九〜一六ぺージを『なかった --真実の歴史学』第三号・四号・六号より拡載したものである。なお、本文中に出ててくる参照ぺージには適宜修正を加えた。


古田武彦・古代史コレクション10

真実の東北王朝
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2012年 3 月20日 初版第1刷発行

 著 者 古田武彦

 発行者 杉田敬三

 印刷社 江戸宏介

 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房
______________________

©古田武彦,2012     共同印刷工業・藤沢製本

ISBN978-4-623-06058-0

   Printed in Japan


はしがき --復刊にあたって

            一

 それは一つの運命のように、わたしの生涯の中で現われてきた。一連の文書、『東日流つがる〔内・外〕三郡誌』との“出会い”である。
 すでにその書名を聞き、そのサンプルのように市浦(しうら)村史版の『市浦村史資料編』上・中・下巻が、送られてきていた。青森県の鎌田武志さんからである。けれども、わたしの「食指」は動いていなかった。なぜなら、その原本、それも本来の江戸時代の「寛政原本」、原著者の秋田孝季(たかすえ)と和田吉次(及び、りく)による自筆本を見ることができぬ以上、“うかつ”には動けない。そういう思いだった。この本に対する「疑惑」が存する以上、当然の用意であった。
 かつて親鸞研究に没頭した三十代から四十代にかけての、わたしの研究経験からしても、それは半然すぎる「用心」だったのである。

            二

 爾来、二十有余年。事態は一変した。肝心の「寛政原本」が出現したのである。この史料群に対して己がいのちを懸けつつ亡くなられた藤本光幸さんの没後、妹の竹田侑子さんから送られてきた史料群の中にそれがあったのだ。
 期待はしたものの、わたしのいのちのあるうちに、遭遇したこの一事は“神よりの、すばらしい賜物”と言わざるをえない。恵まれたのである。
 早くから予想された通り、「偽書説」派の人々からの「中傷」や「悪罵」は“すさまじい”ものだった。和田喜八郎氏はもとより、豊島勝蔵氏からわたし自身に至るまで「偽書造作者」として次々と“指名”され、攻撃されつづけてきたのである。
 けれども、「寛政原本」そのものが出現した上、秋田孝季のもたらした「科学史的記述」の信憑性という“画期的”な報告が出た。東北大学の化学科の出身で科学史の専門家、吉原賢二氏によるものである。
 秋田孝季は、寛政五年(一七九三)八月から長崎で三十六日間英人史学教師エドワード・トマスの博物学あるいは自然史の講義を聞いたという(北方新社版、I巻二二七〜二二八、IV巻五三八〜五四五ぺージ、VI巻二七〜三〇ぺージ)。宇宙の始まりから生物の進化に到る壮大な記述であるが、まさにこの時期の真実性(リアリティ)に合致し、とても和田喜八郎氏やわたしたちの“手におえる”テーマではない。 ーーこれが吉原氏の判定だったのである。(1)

            三

 学問の方法論の上でも、ここには重要な問題がふくまれている。たとえば「高天原」に対する理解である。本居宣長は『古事記伝』によって、これをはるか何万メートルも上空の“領域”と見なした。その上空から海上へと「天の沼矛ぬぼこ」を突きおろした、というのである。この“超能力的な”イメージを、明治維新以降の「国語学者」も「言語学者」も「歴史学者」も、この「宣長命題」をいっせいに“受け継いで”きていたのである。
 しかし、これに反し、『東日流外三郡誌』中の「荒吐あらはばき神要源抄」での「高天原寧波(ニンポー)」の表記が明瞭にしめしているように、「神聖な水のある、海士(あま)族の集落」、それが「高天原」の語義である。もちろん、寧波は、会稽山下の現実の集落であり、「超能力」などとは、全く無関係だったのである。
 わたしたちの歩むべき未来、それはどちらか。世界のすべての理性ある人々には、明瞭至極だ。
 あなたは、どちらの道へとおもむかれるのだろうか。

   平成二十四年一月十三日
                          古田武彦


(1) いわき市・吉原賢二氏「東日流つがる外三郡誌の科学史的記述についての考察」(『古田史学会報』九七号、同氏「『東日流外三郡誌』について」、古田「知古あり、三郡誌」『Tokyo 古田会 News 』一三二号、二〇一〇年五月、参照。


東北の縄文文明のシンボル 遮光器土偶 真実の東北王朝 古田武彦

序文

 ようやく会った。わたしはこの機会を待ちつづけてきた。ようやく会って、すっかり彼女の魅力にとりつかれた(口絵カラー写真参照)。
 小柄だが(高さ二二・六センチ)、威厳のある、その姿を、見て、見て、見抜いた。時の経過(た)つのも、忘れていた。十分間も、一時間も、一瞬だった。右から左から、上から下から、斜め上から、斜め下から、なめまわすように見た。見て、見て、見惚(ほ)れた。彼女はゆるぎなく、堂々としていた。三千年近い歳月を、このようにしていつも存在しつづけていたのである。
 昭和五十九年十一月三十日、埼玉県大宮市の県立博物館の一室だった。入るとすぐ、四方ガラスに囲まれて展示されていた。その魅力と威厳にふさわしい、特別展示だった。
 遮光器土偶(しゃこうきどぐう)と考古学者は呼ぶ。宇宙人と呼ぶ若者もいる。それらはいずれも“ふさわしい”名だ。なぜなら、現代では、老いも若きも、「大和朝廷中心の歴史教育」に汚染されている。その“汚染された”目では、「理解できない」もの、それが存在する。地中から出土する。その反映だからだ。「現代」とは、もちろん、明治維新以降である。
 江戸時代の孤高の学者、秋田孝季(たかすえ)はちがった。“これは神像だ”と言った。“これは、東北の大地の中の、東北の古代文明、その人々の信仰対象である” ーーそうのべている。貴重な先行説だ。
 わたしが、孝季に会ったのは、のちのこと。このときは、ただこの「理解できない」ものに見惚れた。それは異質の文明が、この産出地に実在した、そのまぎれもなき証しだったのである。
 「ふくろう人間だ」
 わたしは、そう思った。これはわたしの“創見”ではないであろう。すでに「みみずく人間」(埼玉県)と呼ばれるものも、出土しているからである。動物の首と人体、この“組み合わせ”による神像、それは地球上、各地に存在する。
 さらに見入った。いや、魅入(みい)られた。右の目は下向きに。世のくさぐさの悲劇、くりかえされる喜劇、それらの「人間の戯曲」という名の何千年、何万年の歴史、否、この宇宙の何億光年の歴史を、静かに、慈悲深く、見下(お)ろしている。慈愛と悲しみに満ちて、ひたひたと見つめている。この土地の果ての、いかなる人間の、どのような叫びも、つぶやきも、彼女の思いから外(そ)れることはない。すべてを汲み尽くす目だ。そしてしっかりと、閉じられている。
 左の目は、天空を指す。永遠の彼方だ。大地が裂(さ)けようと、天空が尽きようと、変わりなき理想。不壊(ふえ)のルール。それの存在することを見通す。だから、くよくよしない、ぺこぺこしない。五頭身の身躯は、全身、誇りに輝いている。
 チグリス・ユーフラテスの河のほとりにも、文明は花開いた。ナイルの河のデルタにも、壮大な文明ははぐくまれた。東、インダス河や黄河の流域にも、古代文明は独自の姿を見せた。
 「文明は、大河のほとりに生れる」と。
 実(げ)なるかな。黒潮という名の、大洋の中の巨大大河とその大分流、対島海流にはさまれて、日本列島の古代文明は花開いた。まだ、大陸の各地帯が“眠りつづけて”いた、縄文時代、今から一万四千年前から、縄文という名の「人類最古の工業文明」が花開いたのである。
 その終末、縄文晩期前半に、彼女は誕生した。東北地方の一角、北上川の上流に、その神々しき姿を現わしたのだ。
 「これは、ただごとではない」
 わたしは、ふかく、心に銘じた。これほどの「名品」を生み出す力、その独創のエネルギーが、ここには、かつて、実在したのだ。
 「物」に満ち、「物」が氾濫しながら、何か大事なものを見失った現代。それは、何か。一方で、地球上の誰人(たれびと)に相対しても、不屈の魂をもち、他方で、この世に生れた何人(なんびと)に対しても、決して蔑視せぬ、人間の魂。それが稀薄となった現代とは、何か異質の文化、独自の文明が、そこに存在していたこと。 ーーその一事を、わたしはこのとき、信ぜさるをえなかったのである。
 黙然として、わたしは館を去った。案内して下さった高田かつ子さん(現在、「市民の古代」関東支部)に、深くお礼をのべて、東京に帰った。
 そして、わたしの古代東北文明探究への旅、その第一ぺージがはじまったのである。
(当展示物〈遮光器土偶〉は、岩手県岩手郡岩手町の高橋昭治さん所蔵。このとき、大宮市の埼玉県立博物館に特別出品されていた)。


 跋文

 わが国の「正史」をつらぬく蝦夷観は、一言でこれを尽くすことができる。いわく、
 「未服の民」
がこれだ。「正史」とは、『古事記』(準正史)及び『日本書紀』『続日本紀』以降の六国史(りっこくし)である。鎌倉・江戸の幕府が「征夷大将軍」を称したのも、これに由る。
 だからこそ、一回も「近畿天皇家が全東北地方を平定し、統一した」という史実も、記載もない段階から、しきりに、
 「蝦夷反す」
の記事のみ、頻出する(『続日本紀』等)。その秘密は、右の一言にあった。
 この一言はまた、明治以降、わが国の軍隊が朝鮮半島や中国大陸に侵出するさい、切札となった。「皇軍の論理」だ。まだ、半島や大陸は、皇軍の勢威下に安定していない。八路軍などが蠢動(しゅんどう)している。だが、案ずるには及ばない、彼等は「未服の民」である、と。すべてはこの一言で“正当化”“合法化”されたのであった。
 わたしはかつて、京都、景観の地(嵐山、周恩来碑)を、黒竜江省の要人をともなって案内したことがあった。先般、同省を訪れたさい、お世話になった石興竜さん(通訳)の御依頼をうけたからである。
 車がある神社の前を通過したとき、要人はいきなりつぶやいた。
 「アマテラス・オオミカミサマ」
 おどろいてその子細を問うた。少年時代、日本の教育をうけた。そのさい、この中国の土地(東北地方)も、太陽の照らす限り、どこでも、その「アマテラス・オオミカミサマの土地だ」と教えられた。思い出すも、にがにがしげだった。彼の抗日行動の「源泉」の一つとなったように見えたのである。
 これこそ「未服の民の論理」だ。本居宣長が縷々(るる)説いたところ、それがここに「実践」されていたのである。宣長は、“太陽の照らすところ、いかなる土地でも、天照大神の御恵みを受けつつ、それを知らないでいる”と、くりかえし力説した。その「国学の精神」を、明治維新以降の政府は、継受し、教科書にも強調させたのである。
 「もうよい、その話は」、そう言って、顔をしかめる向きもあろう。しかしまだことは終わっていない。近畿天皇家中心主義の史観のもと、「沖縄」や「東北」や「北海道」の光栄ある、独自の歴史伝統に対して、正当にこれを評価せず、尊敬せず、「未服の民の論理」で処理している限り、「対外侵略の論理」は、ただ一時休息し、国内に“息をひそめ”ているにすぎぬ。この一点の認識が肝心だ。
 外国が、わが国の教科書に対し、これを“憂える”のは、その意味で当然ともいえよう。
 と同時に、わたしは思う。その外国もまた、他国(日本列島をも当然ふくむ。北部九州や琉球だ)に対する、「侵略」の史実を、明記し、疑いなく特筆しているだろうか、と。もし、それなくして他(日本)にのみこれを求める、とすれば、一言にして、それは怠慢、さに非ずんば怯懦(きょうだ)である。
 わたしは願う、自己に対しても、世界に対しても、真実を恐れざる魂を。それがこの日本列島の大地より湧き立つ日の到来することを。
 さはあれ、「サイ」は投げられた。東北への探究は、今はじまったのだ。たとえ明日、わたしが死んでも、若い魂が本書を愛しはじめてくれるなら、わたしにとって、言うべきことは、何一つない。
  一九九〇年一月八日
                 古田武彦


関東と蝦夷(『市民の古代』第三集)

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