寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)

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「これは己の字ではない」 砂上の和田家文書「偽作」説 『新・古代学』第一集


『新・古代学』古田武彦とともに 第7集 2004年 新泉社

『東日流外三郡誌』序論

日本を愛する者に

古田武彦

  一

 一つの念願を達することができた。
 今年の六月中旬、五日間を通して和田家文書の「講読」に取り組んだ。青森の古代史の会の皆さんが、これを望み、見事になし遂げて下さったのである。わたしはそれに応じさせていただいただけだ。心から楽しい、すばらしい五日間だった。
 
 きっかけは、昨年だった。例によって、ねぶた祭りの頃だった。北海道の札幌へ行く途中、お寄りした。暖かく、皆さんは迎えて下さった。その時、お聞きした。もう、この四、五年、休むことなく、毎月、『東日流外三郡誌』の勉強会をつづけておられるとのこと。驚いた。
 青森市といえば、あれほどの「反、東日流外三郡誌」キャンペーンの中心地だ。これでもか、これでもか、とそのキャンペーンはつづいている。或いは、第一面で、或いは、コラム欄で、“こりもせず”それは続けられている。今回も、“貴重な”その資料を、会の方々からいただいた。
 「あとになれば、『なぜ、あんなにシャカリキ三郡誌攻撃をしたのか。」と不思議がられる。そういう時代が来ることは確実です。そのときには、この『反、キャンペーン』は、“貴重な”資料になりますよ。」
 そう言って、各自のお家から、もってきていただいたのである。

  二

 お送りした資料は次のようだ。
(1) 丑寅風土記第五巻(全六) 二一四枚
(2) 安倍氏歴抄         七三枚
(3) 丑寅日本繪巻        三六枚
(4) 北斗抄十七        一八六枚
(5) 奥州風土記 全      一四三枚
(6) 丑寅日本紀 第九      五四枚
(7) 丑寅日本国史繪巻 六之巻  四八枚
(8) 北鑑 第二十七巻     一〇五枚
(9) 第七十六巻 東日流外三郡誌 九三枚
(10)第四十四乃至四十七巻 東日流外三郡誌 一六二枚
(11)第二十八巻 東日流外三郡誌       四〇枚
            〈計一一五四枚〉
 右のうち、「一四六枚」を「コピー用」(手持資料)として、指定。それらを用意して下さった。
 右は、わたしの手持ちの史料(和田家文書)の、ごく一部だ。和田喜八郎さんが、わたしの研究室(昭和薬科大学)へ送って下さったものである。いやというほど次々と送りこまれ、狭い部屋を“満た”した。すべてコピーさせていただき、すべて現物(明治写本)は送り返した。全部、宅急便で発送し終わったのは、わたしが同大学を「去る」日(三月三十一日)の直前だったことを覚えている。四月になって、和田さんから「確かに、来たよ」という返事を聞いた。

  三

 右は、「九牛の一毛」と言えば、言いすぎだけれど、感覚的には、それに近い。その全体から、むしろ“アトランダム”にえらんだものだ。他に、たとえば「未公刊」の「北斗抄」や「北鑑」等々を“はしから”という手もあったけれど、それでも「一部分」にとどまろう。やはり、あち、こちから、いわば“気まぐれに”セレクトした形となった。全体の雰囲気を知っていただくためである。
 これらを手元に、五日間ははじまった。

 第一日は、夜からだった。
 七日は仙台、八日は東京の講演のあと、九日の夜行に乗った。青森には止まらず、朝、函館に降りると、直ちにとって返し、青森に向かった。昼前に着くと、いつものように、青森ホテルのレストランで五戸雅彰さんにお会いした。いつも、穏和で、正当な判断力をしめされる。真の教養人である。お会いして、深く心の充たされる方だ。
 和田家文書についての「反、キャンペーン」についても、「あんなもの、裁判で、ちゃんと決着がついているんです。その記録や(専門の)評価を読めば、ハッキリしていることですから。」と、動じられる様子もない。
 このように、有識者を全く「動かす」ことのできない、新聞の大衆向けキャンペーンとは、一体何なのだろう。
 逆に言えば、「動かす」ことができないからこそ、新聞は“不安に駆られ”て、これでもか、これでもかと同類音響を「プラス」しつづけるのではあるまいか。
 いうなれば、編集者乃至、新聞(や雑誌)所有者の「不安の心裡の告白」、それが「反、キャンペーン」のもつ、ありていな真実の姿であるように思われる。
 五日間のはじめにも、わたしはそのように語った。

 五日間の全部を記することは不可能だ。だから今は、その要点を抜萃してみよう。
 第一には、わたし自身がこの文書(『東日流外三郡誌』)に接した経緯である。
 その大きな“きっかけ”を与えて下さったのは、この青森の会を「創設」された鎌田武志さん、高校の教師の方だった。信州の白樺湖で行われた「『邪馬台国』シンポジウム」にも出席し、わたしの説に対する「反対論」を常々と(或いは、ニコニコと)のべて下さった方である(「東[魚是]国」「大海」問題など。同報告、第一巻参照)。
 鎌田さんがわたしに言われた。
 「古田さんに研究していただきたい本があるんです。」
「何ですか。」
 「『東日流外三郡誌』と言います。」
 この本の名には聞きおぼえがあった。その第一冊のコピーを、わたしのところへ送ってこられた読者の方があった.

[魚是](てい)は、魚編に是。JIS第4水準ユニコード9BF7

 やはり、わたしに対し、「研究」をうながされたのであろう。しかし、わたしには「食指」が動いてはいなかった。
「はあ、そのうちに。機会がありましたら。」
とお答えして、青森から京都の自宅へ帰ってみると、“間髪を入れず”といったタイミングで、宅急便が送られてきた。あけてみると、市浦村版、『東日流外三郡誌』の全巻(上・中・下巻とも五冊)だった。

 次に、忘れられぬ邂逅があった。藤崎に住む、藤本光幸さんである。
 わたしの青森での講演のあと、講師控え室に、かっぷくのいい紳士が来られた。開口一番、
「先生に、『東日流外三郡誌』の御研究をお願いしたいと思います。」
「いや、わたしは活字版だけでは。やはり古写本を見ませんと。原本です。」
 すると、紳士は即刻答えられた。
「お見せできると思います。」
 その応答に驚いた。わたしの研究者としての関心は、グイとこの文書に引き寄せられたのである。

 しかし、わたしにとって、決定的な瞬間は意外な形でおとずれた。夜汽車の中だった。鎌田さんから送っていただいた全五冊持って乗りこんだ。京都から青森行きの直行列車。その長い夜の“ひとり時間”を、この全五冊に集中したのである。そしてその下巻の最後のべージに、わたしは次の一文を見た。
    津軽蕃偽史禄
 請行無常の中におのが一代を飾り、いやしき身分を貴家に血縁し、いつしか皇縁高官職の血脈とぞ世人に思はすはいつの世の富や権を掌握せる者の常なり。然るに、その実相はかくなれやと審さば人皆祖にして、平なりとぞ思ふべし。
 津軽藩主とて為信のその上を審さば、今なる血縁なきいやしき野武士物盗りのたぐいなり。
 いつぞや世とて勝者は過去の罪障も滅却すといふごとく、人ぞ皆蓮の根ある処の如く審さば泥の内に芯根もつものばかりなり。
 然るに実相を消滅し、天の理に叶はずとも無き過去を作説し、いつしか真史の如くならむ事末代に遺るを吾は怒るなり。津軽の藩史は偽なり。
 依て吾は外三郡誌を以て是を末代に遺し置きて流転の末代に聖者顕れ是を怖れず世にいださむために記し置くもなり。
     寛政五年            秋田孝季

 感動した。それは“いっとき”の感想ではない。心の底からゆり動かされたのである。
 わたしなどは、自分の出した本の「反響」に一喜一憂していた。「反応がない」などと、悩んでいたのである。
 秋田孝季はちがった。彼の「現代」人が、想定された「読者」ではなかった。はるか未来、「流転の末代」に、その「読者」の出現を予想し、その一事にのみ期待しているのである。
 その「読者」を彼は「聖者」と呼ぶ。その「聖者」が、
「是を怖れず世にいださむ」
こと、その一事を彼は信じ、その一事を“支え”として、この彪大なる「資料集成」を作製しようとしていたのである。すさまじい、人間の気魄だ。
 わたしはそれに感動した。

  五

 ここで明らかにしておきたいこと、それは、わたしにとって「『東日流外三郡誌』の発見」は“活字版”によったことだ。市浦村版である。そこから、
「この秋田孝季という人間は、どんな人物だろう。」
という、根源的な“関心”が生じた。この人物への探究心が、ここから、本気で出発したのである。だから、その「古写本」や「原本」への探究を切望するに至ったのだ。決して、その「逆」ではない。

 親驚の場合も、同じだった。歎異抄の中の「たとひ法然聖人にすかされまひらせて、念仏して地獄に落ちたりともさらに後悔すべからずさふろう」の一言に、引きつけられた。このような関係、人間と人間の交流を語った、親鸞とは一体何者か。そういう「問いかけ」がわたしの中に生じた。彼に対する“あこがれ”が発生したのである。それが彼に関する古写本、さらに自筆本へと探究する、その学問的情熱の淵源となったのであった。その「逆」ではない。

 ここで、いわゆる「偽書」問題について一言しておきたい。
 右のような経緯から見れば、わたしにとってこの東日流外三郡誌が「偽書」であるなどということは、土台「ナンセンス」の一語に尽きる。なぜなら「人命を尊重する人物」という言葉と「殺人鬼」という概念とが「合致」したり、「両立」したりできないこと、これは当然だ。同様に、先のような「深い心の叙述者」と「偽作者」という概念とが「合致」したり、「両立」したりできないこと、わたしには青天の日の太陽のように明白だからである。
 あたかも、「明確で深い良心をもつ、全くの詐偽漢」というような、矛盾概念と等しい。ありうることではないのである。
 先にのべたように、未知の文献に対するとき、活字本にはあき足りず、その古写本、さらに自筆本の存在を求めること、わたしの学問研究にとって常例である。学問的手法の一と言ってもいい。親鸞研究や古代史研究の中で“練磨”されてきたものだ。
 だが、逆に、当文献の「初期の古写本」や「自筆本」が見出されねば、当文献の「存在意義なし」とする論者ありとすれば、明らかに失当である。なぜなら、古事記・日本書紀はもとより、源氏物語や徒然草でも、「原著者の自筆本」は存在しない。従って現存の“より古い”古写本で「満足」せざるをえない。それが通例なのであるから。
 すなわち、後述するように「秋田孝季・りく(妹)・和田吉次(協力。「りく」の夫)」による「寛政原本」(古田の命名)は、わたしにとって“垂涎(すいぜん)の的”だ。だが、それは何等、和田末吉(喜八郎の曾祖父)・長作(喜八郎の祖父)による「明治写本」(古田の命名。明治・大正・昭和《初期》の成立)の「存在意義」を“無視”したり、“軽視”したりさせるものではない。
 親鸞に関しても、研究史上、かつて「親鸞、架空の人物」説や「親鸞、無学文盲」説が存在した。今は、「笑止の疑難」とされている。
 秋田孝季に関してもまた、研究史は同じ「記憶」をもつ時が来よう。わたしはそれを疑ったことはない。

  六

 ここで「原本」と言う言葉について、注意しておきたい。
 先述のように、わたしは藤本光幸さんにこれ(「原本」)を求めた。藤本さんはこのわたしの要請に対し、直ちに「イエス」の答を与えられた。
 だが、あとになってみると、これは「明治写本」のことであった。確かに、いわゆる「活字本」に対する「所写原本」という意味では、当たっていないこともないであろう。
 けれども、藤本さんの、このような「使用法」は、無理もなかった。当の文書所有者たる和田喜八郎さん自身も、「明治写本」のことを「原本」と言いならわしておられたようである。
 まして、世間では、「東日流外三郡誌の原本」と言うとき、いまだに「明治写本」を指して、言われていることが多い。
たとえば、
「原本は、かなり、藤本光幸さんが持っている。」
といった“うわさ”の場合、などである。
 しかしながら、やがて、少なくとも、和田さんや藤本さんなどの間では、「寛政原本」と「明治写本」のは、ハッキリしてきたように思われる。用語上の混乱がなくなったのである。

 この問題について、注目すべきことが若干ある。
 その一は、「寛政原本(A)と明治写本(B)の関係」だ、、(B)は、(A)の“丸写し”ではない。いわゆる「人間コピー機による複写」ではないのである。
 たとえば、(A)で「漢文」であるものが(B)では「読み下し」になっている。むしろ、これが通例だ。その中で、時に「原漢文」のままのところがある。「引用文」や「難解漢文」のたぐいであろう。そこには「原漢文」と書かれているものもある。
 また「読み下し」の場合、本米の漢文形式に対し、末吉(または長作)が“読みまちがえ”ている、と思われる箇所がある。これが「貴重」である。なぜなら、その“読みちがえ”かたから、逆に、「原漢文」の本体が推定できるのである。すなわち、(B)の「所写原本」としての(A)か実在したこと、その史料事実を、見事に「逆証明」してくれているのだ。古写本の史料批判の酬醐味である。
 その二は、「明治写本」(B)における「明治以降の新情報の追加」である。たとえば、アインシュタインに関する新聞記事が付記されている。一見して、「明治以降の付加部分」であることが明白だ。そして執筆者(末吉)は、それを“隠して”いないのである。これも、「盗作者の作法」ではない。逆だ。
 彼は秋田孝季の「教え」を守り、新知識を「情報」として追加したのである。この点からも、(B)は(A)の“丸写し”ではない。
 この点、「明治写本」(B)の史料批判を行うさいに、「要注意」の点だ(だが、それらは、いずれも年月日」と共に、原則として明記されている)。
 その三は、末吉と長作の「筆跡の差異」である。長作は、父の末吉にとって「祐筆」(筆記役)の立場にあった。従って「文面」では「和田末吉」の署名が(末尾に)あっても、実は、その筆跡それ自体は「長作の筆跡」であること、珍しとしない。
 この点、「筆跡判別」上の困難点とも見られるけれども、実際上はそれほど「問題」を生じることがない。なぜなら、父の末吉は、「書道的教養」をもたず、ありていに、言えば“下手な書き手”であるのに対して、子の長作の方は、一応「書法上の練習」を経たらしき筆跡だからである。両者の弁別は、馴れれば、それほど困難ではない。
 特に、父の末吉が自名を「吉」と書くのに対して、子の長作はこれを文字通り「吉」と書く、という“ちがい”をもっている。弁別しやすい。
(おそらく、末吉は、“多子の末子”にあり勝ちな、この字面をきらい、「未だ吉ならず」の意の、この字面を愛用したものであろう。もし、このわたしの推定が正しければ、末吉自身の「思想内面」をうかがう上で、興味深い。)
 右の「末吉 ーー 長作」間の筆跡異同問題は、和田喜八郎氏も、意識していた模様である。喜八郎氏自身に対しても、娘の章子さんが「祐筆」的な立場に立っていた。従って「和田喜八郎」という署名があっても、喜八郎さん自身の筆跡ではなく、章子さんの筆跡であるケースが少なくない(わたしの研究室へ送られてきた、数多くの宅急便の署名《和田喜八郎》の多くは、喜八郎氏本人のものであった)。
 戦国の武将などの筆跡の場合も、これと同じく、「本人の自筆」のケースと「祐筆」のケースとの別がありうるであろう。
 その四は、幸いにも秋田孝季や和田吉次の筆跡と見られるものが存在することである。
 『伊達鏡実録」『護国女太平記』といった本(書写本)の冒頭や末尾に「秋田孝季」「孝季記」といった署名が現れている。また本の所有者名と見える位置(最末尾)に、年時(安永乙未年)と自署名(秋田孝季と花押)が記されている。
 これらは、いずれも、秋田孝季本人の自筆と見なすべき様態をしめすものであるが、今後、もし「寛政原本」が出現することがあれは、これと対比しうるであろう。
 同じ和田吉次の場含も、彼の筆跡と見なされうる数点がある(たとえば、「自久米寺拝領〔行カエ〕和田長三郎」など)。
 また和田家の墓所に立つ、自然石を利用した石面には和田吉次の記文と見なされる刻文が存在している。
 以上は、いずれも今後の東日流外三郡誌(「総称」しては、和田家文書)研究上の、貴重な直接史料(第一史料)である(上記の筆跡写真は『新・古代学』第二集、収録)。

  七

 次に、当文書の所有者たる和田喜八郎氏についてのべたい。この方との「初見」の経緯はすでに『真実の東北王朝』(駿々堂、一九九〇)でのべた。それはわたしの“初印象”だ。だが、この喜八郎氏については、当地(青森県)の方々は、その「欠点の数々」について、よくご存知であろう。種々の“うわさ”をも聞いておられることと思う。それについては、今とりたてて「弁ずる」気持は、わたしにはない(別の機会にふれることはありえよう)。
 しかし、問題は次の点だ。
「喜八郎氏は、東日流外三郡誌などの祖先の文書に対する『尊崇』の念が極めて厚かった。そして何よりも、秋田孝季その人に対する敬意は、終生動かすことのできぬ信念となっていたのである。」
 この一点だ。この一点の「特長」があればこそ、数々の「特短」にもかかわらず、わたしは氏に対して「知己」の念をもった。おそらく、氏の方もまた。
 右の一点は、氏との交流の中で、出会った数々の場面の中で、いつも一貫していた。その点に不安を感じさせられることは、幸いにも絶えて無かったのである。
 右は、わたしが「氏との交流」で得たところだ。いわば、わたし個人の「経験に立つ」感触だと、言ってもいい。人はどの人でも、自分の接触している人々に対する、それぞれの感触をもっておられることであろう。それと同じだ。わたしにとって、疑いえぬ感触なのである。

 これに対し、客観的な証拠をかかげよう。それは「神の手の論証」と、わたしの呼ぶところの命題である。
 二〇〇〇年、人々を驚かしたのは、藤村新一氏の「ねつ造」事件だ。この二十六年間(一九七五〜二〇〇〇)、次々と新聞で報道され、東北地方の各新聞はもとより、全国紙でも、氏のすさまじい「発掘成果」は、古代史ファンはもとより、一般人の耳目を奪ってきた。
 けれどもそれは、虚偽だった。しかも、最初から「偽造」だった、というのである。もちろんわたしには、その一つ、ひとつを検証することはできないけれど、その追跡調査の調査団の報告が「すべて、虚偽」ということであるから、深い嘆息を以て、これを受け入れる他はない。
 わたし自身は、藤村氏の「偉大な成果」の報告書が出されないことに、不審をいだいていた。残念に思っていた。そこで、氏の知人(佐々木広堂氏、仙台)を通じて、再三、これを“督促”した。もちろん、「学問の、当然の手つづき」としてだった。
 ところが、その「反応」は、佐々木さんやわたしの関係する団体(たとえば、「多元的古代」研究会・関東)に対する「敬遠」となった。
 佐々木さんを通じて、「講演」の依頼があると、
「それは、古田さんの関係の団体ですか。」
「そうです。」
「おことわりします。」
との拒絶回答だった。ために、佐々木さんは悩んでおられた。
 ところが、今回の「ねつ造」発覚だ。とすると、藤村さんによる、佐々木さんやわたしの関係する団体に対する「拒絶反応」の背景、その真意は、再三にわたる、わたしの「報告書要請」だったように患われる。「何か、古田は感じとったな。」と、胸中に懸念されたのではないだろうか。
 わたし自身は、「アマチュアとしての、藤村氏の活躍」には敬意をはらいつつも、あくまで、学問の手つづきとしての報告書、それを求めただけなのであった。その「当然の手つづき」の要請が、或いは“けむたがられた”ようである。
 それはともあれ、今問題とするところ、それはこの「藤村ねつ造問題」こそ、屈強の「和田家文書、真作論証」となっているという事実だ。
 なぜなら、和田喜八郎氏が、「東日流外三郡誌」などの和田家文書を通じて、世に知られた(より正確には「喧伝」された)のは、同じく、この一九七五(昭和五十年)以降、その没年たる一九九九(平成十一年)の間の、「二十五年間」である(市浦村版の「東日流外三郡誌」上巻の序文〔市浦村長、白川治三郎氏による〕は、この「昭和五十年一月二十九日」に書かれている)。
 すなわち、藤村氏と和田喜八郎氏の「活躍期間」は、ほぼ同時期、相重なっているのであった。
 この事実のもつ「意義」は、絶大である。なぜなら、当の「東日流外三郡誌」やそれをふくむ和田家文書の全体を通じて、藤村氏の「発見」した発掘地に関して、これに相当すべき遺跡の「記述」が皆無だからである。
 これがなぜ、重要か。「偽作論者」は言う。「和田喜八郎氏は、そのときどきのニュースや新聞記事を参照して、東日流外三郡誌の内容を偽造していった」と。あの「荒神谷」(出雲)や「内」(三内丸山。津軽)の記事が東日流外三郡誌に出現している事実に対し、右のようにこれを「偽造の証跡」と称してきたのであった(実際は、重要な“ちがい”が存在する。たとえば「荒神谷」は「皮はぎ」などの“出土物”がちがっている。『東日流外三郡誌』の場合、「山内」とあって「三内」ではない。また「丸山」もない。しかし、「偽作論者」はこれらを「偽造のさいの“手直し”」と称してきたのであった)。
 しかしながら、「藤村ねつ造」の場合、これとの関連記述が全くない。『東日流外三郡誌』中に、同類遺跡を一切見ないのである。これはなぜか。

 わたしはしばしば、和田喜八郎さんに、この「藤村発見」について、問いかけた。その前日、もしくは当日、和田さんに会ったとき、現地の新聞(東奥日報、陸奥新報など)の第一面に大々的にそれが報じられていたからである。もちろん、「大発見ムードいっぱい」の記事だった。
「すごいもんだねえ。」
 わたしは、水をむけた。しかし和田さんは
「そうだね。」
と言うだけで、それ以上の反応は全くなかった。毎回、なかった。これは、いかにも奇妙だった。なぜなら、他の場合、
「いや、『東日流外三郡誌』に、もう、こう書いてあるよ。」
と答えるのが「常」だった。見てみて、直接ズバリ、のこともあり、それほどでもないこともあった。それはともあれ、和田さんが、
「東日流外三郡誌じまん
「和田家文書じまん
であることは疑えなかった。その上、
「津軽じまん
「東北じまん
のお人柄だった。
 いささか“やぼったく”はあっても、にくめない。それが和田さんの固有の「体臭」だった。
 ところが、その和田さんが、今問題の「藤村発見」に関しては、全く「冷淡」だった。わたしにはこれが不思議だった。 ーーだが。
 今、考えれば、これこそ「和田さんの光栄」だった。いくら「東北じまん」でも、和田さんには“無い袖はふれなかった”のである。論より証拠。『東日流外三郡誌』を点検してもらいたい。そこにあの、「藤村発見」のような、何万年、何十万年前とされた、A・B・C・・・Xの各遺跡の「記述」はあるか。全くない。
 同じ東北だから、近隣の土地くらい、あるのは当然だ。これを「記述」といわず、「痕跡」といったのでは駄目だ。“こじつけ”られるからである。あくまで、当の遺跡の「記述」そのものだ。それが問題の核心である。
 それが見つけられなかったら、もはや敢然と、「偽書説」から手を洗ってほしい。今までの、あらゆるいきさつや懸念にとらわれることをハッキリ止め、「偽作説」に「×」のマークを貼りつけてほしい。今までその「偽作説」論者に“だまされてきた”のであるから。
 この重大な「反、藤村論証」、いわゆる「反、神の手論証」に対して背を向け、何喰わぬ、そしらぬ顔をし、また「別の偽作論証」をふりかざそうとする、それこそそのような「真の偽造者」によって、再びだまされてはならないのだ。
 なぜなら、『東日流外三郡誌』は、日本の文化の誇り、日本の思想史上、その一大精華なのであるから。それに「つばを吐きかける」徒輩を、日本を愛する者は決して許してはならないのである。


累代の真実ーー和田家文書研究の本領 古田武彦『新・古代学』第一集

寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)

「これは己の字ではない」 砂上の和田家文書「偽作」説 『新・古代学』第一集

浅見光彦氏への“レター” 古田武彦 『新・古代学』第八集

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