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中国の好太王碑研究の意義と問題点 へ(『市民の古代』第7集)

和田家文書「偽作」説に対する徹底的批判
『東日流[内・外]三郡誌 ーーついに出現、幻の寛政原本!』 へ
「寛政原本」の出現について 古田武彦(『なかった --真実の歴史学』第6号
寛政原本と古田史学 古田武彦(古田史学会報81号)


『新・古代学』古田武彦とともに 第1集 1995年 新泉社
特集1 東日流外三郡誌の世界

累代の真実

和田家文書研究の本領

古田武彦

  一

 和田家文書「偽書」説は、いっときの迷霧、わたしたちは前へ進まなければならぬ。
 本特集において、それが「迷霧」であることは、すでに立証されるであろう。なおそれは今後、年・月・日と共に、いよいよ深く、堅く、立証されつづけて止むことはない。その到着点は「寛政原本」の出現である。
 だが、それ以前に、あるいはそれと「並行」して、なすべきことは多い。それを痛感している。
 昨年以来のわたしの探究は、「いじめ」問題を発端とした。「東日流外三郡誌」をはじめとする和田家文書「偽作」説は、(一般の人には)意外にも、そして(わたしには)当然にも、「いじめ」問題をひきおこした。和田家の一族の子供(小学生)が「いじめ」の対象となったのである。
 わたしが「当然」と書いたのには、理由がある。あの高句麗好太王碑「改竄(かいざん)」説の“流行”したとき、酒匂(さこう)家の一族の子供さんに、「いじめ」問題がおきた。当時わたしは母親から直接、深い苦渋をお聞きした。そのつらい経験から、「おそらく今回も」と察し、それが不幸にも“的中”したのである。
 昨年来、新聞には「いじめ」問題の記事は、あふれている。しかしこの「いじめ」には、一切手を触れない。これを「知って」いる新聞社も、一切“知らぬ振り”をきめこんでいる。これこそ「いじめ」を発生する、日本の社会の体質そのものを“裏付け”しているのである。
 新聞社には“うち捨て”ることができても、わたしには到底うち捨てることができなかった。この点こそ、「寛政原本」出現以前の時点において和田家文書(「明治写本」)の研究へと、いわば“深入り”しはじめた理由であったこと、この一点を後日のために明記しておきたい。
 以上の経緯であったけれど、“はじめて”みて、よかった。 ーーこれが率直な、現在の感想だ。それは、この特集を見ていただければ、分かるであろう。和田家文書は、わが国の歴史学界にとって「未開の曠野」だ。なすべき未知の研究分野はあまりにも多い。その上、それらはおそるべく多岐にわたっているのである。
 たとえば、親鸞の「歎異抄」、その自筆原本(著者唯円の自筆)が出現すれば確かにすばらしいけれど、さりとてその出現「以前」の研究は無価値か。とんでもないことだ。
 それと同じだ。和田家文書研究の中から発見される珠玉は数多い。未刊の「北斗抄」「北鑑」の中より、その若干を抜き出し、世の心ある人々、ことに当「いじめ」問題をかかえる、青森県の識者、各界の責任者の方々の眼前に明瞭に呈したいと思う。

 

  二

 秋田孝季は、自分の書物の「目録」として、次の一一書をあげている。
  「一、東日流(つがる)(そと)三郡誌
   一、丑寅(うしとら)日本紀
   一、丑寅日本記
   一、北鑑
   一、北斗(ほくと)
   一、東日流六郡誌
   一、山靼(さんたん)巡遊記
   一、安東船商記
   一、上磯(かみいそ)
   一、下磯記
   一、荒覇吐(あらはばき)神記 (振り仮名は古田)」

 この目録の直前に、「(前略)諸国の尋史亦山靼史を秘中になせるも秋田千季(ゆきすえ)の判断にて孝季(たかすえ)も是の目録耳を献上申したり」と書かれている。孝季の文章だ。「秋田千季」は三春藩主、孝季の義父である。そして「覚え事」と題して、右の目録が記せられている。
 そのあと、「右十一項古(あるいは「直」か)事内容を長三郎に秘蔵を頼めり」という。これも、孝季の文だ。これに次いで、「然るにその成書一千八百二十巻受けとらざるに自邸災[宀/火](「ひつけ」か)られ灰となりきは惜しみても餘りあり残るもの控書耳なり、寛政六年八月四日、和田長三郎」と結ばれている。これは、和田長三郎吉次(よしつぐ)の文章だ。

[宀/火](ひつけ)は、宀編の下に火。JIS第4水準ユニコード707E

 以上によって、今なお「未公開」の「寛政原本」は、右の「寛政六年」以前の分については、孝季の原本(自筆)ではなく、「控書」(妹のりくや吉次の筆跡か)であることが分かる(「控書」による孝孝書き直し ーー別述)。
 けれども、右の「目録」の内容は、右の年時(寛政六年、一七九四)で終ったのではない。被災後、和田家(五所川原市、飯詰)近くの「大光院」に移り住んだ孝季は、ようやく「文政五年(一八二二)」に「東日流外三郡誌」を完成した。しかしそのとき、「命」への報告を果すべき相手、義父の千季はすでに死亡していたことが記せられている
「『宝剣額』研究序説〜和田家文書の信憑性」四、参照、『昭和薬科大学紀要』第二九号、本集の特集2に収録)。
 すなわち「一七九四〜一八二二」間の二八年間分については、晩年の孝季の「自筆」が、いわゆる「寛政原本」の中にふくまれていることとなろう。これは、将来の「孝季研究」にとって、言うべき言葉もないほどの痛快事、いわば“不幸の幸い”と言うべきであろう(「寛政原本」のs名は、代表的出現年号として、「寛政」を挙げたにすぎぬ。この点、「明治写本」も同じ。“明治・大正・昭和<『年時明記』では七年まで>”の三代にわたる写本である)。

 

  三

 右の「目録」記事は、「北斗抄」十五の一一の中にある。この点、誰しも不思議に思うであろう。「北斗抄中に、なぜ『北斗抄』という目録名が出現するのか」この疑いだ。
 実は、この一点にこそ、和田家文書の看過すべからざる特色がある。この文書群の本質は「累代の書き継ぎ文書」なのだ。
 孝季自身が、この「北斗抄」の題目のもとに、幾多の文章を入れている。たとえば、当「十五」の冒頭部には、「宇宙創造のときの・・・」ではじまる天文に関する文章があり(一節と二節)、その末尾は
   「寛政五年八月一日、秋田孝季、ダウエン論説より」
と結ばれている。いわゆる「ダーウィン一世(エラズマス・ダーウィン)」の学説の影響をしめす重要な二文である。さらに、「三〜五節」も、同年月日による孝季の署名がある。
 ところが、第六節になると、一変する。ゲッチンゲン大学天文台教授のカール・シュバルツシルトが、大正甲寅年(三年、一九一四)アインシュタインの発表した方式を説いた、という記事を、それぞれの公式と共に記載し、「かく天文學も日進月歩解明に進歩しつゝありぬ(朝日科學誌より)」と結び、
 「大正七年三月七日、和田末吉」
の署名がある(筆跡は、末吉の息子、長作〈和田喜八郎氏の祖父〉による)。
 以上、「書き継ぎ文書しとしての性格は、あまりにも明白である。

 

  四

 未公刊の「北斗抄」や「北鑑」は、既刊の「東日流外三郡誌」とは異なる特色をもつ。孝季や吉次の“手元の断片文書”が幾多、ここには収録されている。そのため、彼等をめぐる消息が如実に知られるのである。
 その秀逸なるものに、書簡がある。彼等の間、また他者との間の書簡がここに収載され、史実や人間像をうかがい知ることができるのである。その一を左にあげよう(「北斗抄」十五の一五節)。

「安永戊戌年(七年、一七七八)オロシア艦蝦夷地を偵察し松前殿よりその訴状度々政断あるべく催促是在り候
 辛爾(そつじ)(なが)ら御貴殿長崎に在りて平戸和蘭陀商館に通譯の砌(みぎ)りオロシア語達辮なりとて平賀源(「内」を略す)より聞及び候に付き伏してこの田沼が此の度び願ひの儀是在り是状を三春殿に委ね仕り候
 寛永癸酉年(一〇年、一六三三)以来鎖國令解(とか)ざるも貴殿を幕許にて山靼諸國の地情巡廻に役目を仕じ(任じ)候も諸藩に密なるの隠密使行處に候
 今上(「当今」の意か)夏七月取急ぎ江戸城大番頭に登城あるべく申付候
  右之意趣如件
    安永戊戌年六月二日
       田沼意次  華押
  秋田孝季殿
                  寛政六年
                    浪岡仁左右衛門」

 この書簡は「年月日」「発信者」「あて先」がそろっている点、貴重だ(親鸞の書簡でも、これらのそろっていない場合が多い。この「北斗抄」でも、他の場合、必ずしもそろっていない、安永戌年は七年、一七七八)。
 この書簡の信憑性は、将来「寛政原本」の出現を待つ他ない(ただ、最後の「浪岡仁左右衛門」が“書写者”である可能性もあろう)。
 しかし、用語の上からは、注目すべき「古形(安永時代の姿)」をもっている。たとえば、左のようだ。

(1),「今上」を、「現代の天皇」の意ではなく、「当今」の意に使っているように思えること(『日本語大辞典』講談社では「〈当今 とうこんの意〉」と頭記されている)。
(2),「達弁」(達者な弁舌・能弁)も、現在では用いられぬ用語だ(公的な官名としては「阿蘭陀通詞」。大通詞・小通詞・小通詞助・小通詞並・小通詞末席・稽古通詞等があった。「達弁」は官名ではなく、通用語であろう)。
(3),もっとも注目すべきは「長崎に在りて平戸和蘭陀商館に」の一節だ。寛永一六年(一六三九)島原の乱後、出島からポルトガル人は追放された。その後、五か所商人や長崎奉行は、平戸蘭館の長崎招致を幕府に願い出て寛永一八年(一六四一)、蘭館の長崎移転が完了した(『長崎事典』歴史編、長崎文献社、九二頁参照)。
 すなわち、わたしたちは通例「長崎の出島のオランダ商館」として“知って”いる。ところが、右のような「歴史的経緯」からすれば、“現在は長崎にある、(本来は)平戸のオランダ商館”という言い方は、「江戸時代、当時」としては、ありうるのである。いわば、「歴史的由来にもとづく慣用語法」だ。
 たとえば、朝日新聞。明治一二年に「大阪朝日新聞」として創刊された。昭和一五年(「東京朝日新聞」を統合して)、現紙名になったのであるけれど、当時の(関西の)人々の中では「東京に移った、大阪朝日新聞」といった言い方も、一定期間存在したのではあるまいか、もちろん「通称」として。それと同類である。
 少なくとも、現代の人が「偽作」する場合、このような“変な語法”を用いることは考えにくいのではあるまいか。ともあれ、信憑性の「確認」については、先述のように「寛政原本」の出現に待つべきであるけれども、当史料は新しい一個の新情報を提供している。
 「秋田孝季は、長崎でロシヤ語の通訳をしていたことがある。」
 この一事だ。しかも、「安永七年」以前という、孝季の青年もしくは壮年時の業務がしめされているのだ。のちに、孝季が長崎で外国人(オランダ人やイギリス人)から科学的新知識を「吸収」するに至る、その背景の察せられる点、注目すべき新史料である。

 

  五

「北鑑」第五十巻の一六〜八節に「田沼と孝季」の往復書簡が収録されている。

〈田沼から孝季へ〉
 「久しく無砂(「無沙汰」の意か)の段お許し願ひ一書以て参上仕り候
 かねての誓約果し(「す」か)べくして果し(同上)事の得ざる失策の候はこの田沼の命運盡(つ)き候處なり
 山靼巡察の候事は余が一存判断に候へば諸事貴殿に及び候事なからんとぞ安堵あるべく候
 山靼日記の候は江戸届に候はず貴殿一存に委ね候
 急筆乍(なが)ら飛脚参らせ候」(一六節)

〈孝季から田沼へ〉
「山靼の儀空しく了り候は断腸の想ひに候
 今世界を無視に候へば何れは鐡艦の火砲を諸湊に弾爆仕るべく舶来の敵に國は侵触(「触」字書き直し)仕るべく候
 火砲一門その射程の候は吾が國旧来の大銃に敵(かな)ふべくに非ざるは必如に候
 是の憂非らざる前に通商開湊せざれば國運のあるべく(「き」か)開運に遠のき候
 世界は我が國より進歩の候は百年の先進にあるべく候
 よろしく議あり北前一湊なりとも開湊あるべく御意見の儀奏上仕り候 草々」 (一七節)

〈田沼より孝季へ〉
 「一筆啓上仕り候
 北前に條約の候は事無事に相済て御坐候
 作(「昨」か)日速飛脚の江戸に参らせ候砌(にぎ)り茲(ここ)に急報仕り候
 秋田殿の御便達幾重にも感謝仕り候」 (一八節)

 孝季は「安永七年の田沼状」の要請を結局受諾し、「山靼」(「海外」の意と、ほぼ近似して使用されているように見える)へと旅立った。そして中近東など歴訪の結果、多大の収穫をえて帰国した。
 ところが、そこで彼を待っていたのは、「田沼の失脚」であった。天明の末年(七年は一七八七)だ。その頃の「往復書簡」と思われる。
 いずれも、簡にして要をえた名文だ。ことに孝季書簡冒頭の「山靼の儀空しく了り候は断腸の想ひに候」の一文は、あの有名な「おさん泣かすな、馬肥やせ」にも匹敵する、名短文ではあるまいか。
 和田喜八郎氏やわたしなど現代人の「冗文」に比べて、全く類を異にした簡潔の一文であること、先入観なき人には一目瞭然であろう。
 また彼我の火砲を比較するさい、ズバリ「射程」の差から判断を下す点、さすが武人の視点、と言わざるをえない。
 「寛政原本」において、この両者の「自筆」がもし存在すれば、研究者にとってこれ以上の幸せはない。

 

  六

 未刊の和田家文書の調査中、わたしを驚愕させ、歓喜させた一史料があった。それは親鸞伝に関する、重要な新情報をわたしたちにもたらすものである。それは「金光伝」からの収録だ。「北鑑」第廿六巻の末尾(二一節)に属する。
 その詳細は、別論文で改めて詳論する予定であるけれど、今はその要点のみを紹介しておくこととする。
 金光上人は法然の直弟子に当る。九州筑後の人、浄土宗の中枢をなした聖光房(弁長)と同郷の人であった、という。専修念仏を東北地方、北陸等に宣布したため、その各地に彼を「開山」とする寺院が残されている。
 実は、この専修念仏者の研究が、奇しくも和田家文書を「世に出す」きっかけの一をなしたようである。藤崎町(青森県南津軽郡)の旧家の出であった藤本光幸氏は、自家がこの上人のゆかりをもっていたため、その研究を志して、同上人を「開山」とする、五所川原市の大泉院を訪ね問うた。その住職開米和尚から、和田家に金光上人に関する史料が蔵されていることを聞き、当主和田喜八郎氏のもとに訪れて、古文書の閲覧を乞うた(昭和三六年頃)。
 その文書を披閲(ひえつ)するうち、金光上人関係以外に、藤本氏にとっては「未知の書名」であった「東日流外三郡誌」の名に遭遇した、という。そのとき、これを和田喜八郎氏に問うたけれど、まだそのときはこの史料群の内容については、「御存知ではなかった」というのである。これは、わたしが直接藤本氏からお聞きしたところであるが、現在、氏自身が筆を執り、その間の経緯を連載中であるから、詳細はそれにゆずりたい(「古田史学会報」第四五号以降)。
 もし、いわゆる「偽作」論者がこのような「初期からの和田家文書研究者」を重視し、詳細に事情聴取を行う、という学問研究の常道を守っていたならば、およそ「偽作」説など、生ずる由(よし)もなかったのである。それはともあれ、今問題の「金光伝」を見よう。
 
 「綽空坊幼名を松若皇太后宮大進日野有範の家に承安三年に生る」

 この冒頭の一文は、覚如の『本願寺聖人伝絵』の巻頭に

「夫聖人の俗姓は藤原氏天兒屋根尊二十一世の苗裔大織冠鎌子内大臣の玄孫(中略)皇太后宮大進有範の子也、」

とあるのと、同内容を指している。けれどもなお、左の点が注目される。

(一)伝絵の方が、“親鸞の系譜の尊貴を飾る”ための冗長さをもつのに対し、こちら(金光伝)の紹介は、簡明だ。

(二)伝絵の覚如自筆本(東本願寺蔵)では、「親鸞の生年」の記載がない。そのため、第二段の「吉水入室」の先頭で
 「建仁第三の暦春のころ聖人二九歳」
として、「建仁元年」とあるべきところを「二年の誤差」を生じていること、著名である(この問題の分析については、古田「親鸞伝の基本問題 ーー『伝絵』の比較研究ーー」『真宗重宝聚英』第五巻関連解説、同朋舎出版、参照)。
 ところが、「金光伝」の方は明晰に正しい生年を明記している。
 以下、「親鸞の父母の死亡年時」とか「慈円のもとの剃髪年時(範宴と名乗る)」とか「藤原兼実の娘(玉日)との結婚年時」とか、従来の親鸞伝に「照明」を与える記事が少なくないのであるけれども、中でも注目されるのは、慈円のもとでの剃髪記事につづき、

 「叡山に上り東塔無動寺の大乗院竹林房静厳に天台学を修め」

の一節があることだ。親鸞が比叡山時代、「無動寺の大乗院」にいたことは、あまりにも著名だ。現在、当地にはそれを記念する石碑さえ建てられている。わたしも比叡山麓に住んでいた頃、しばしばここに通った。
 しかしその「師匠名」については、確たる情報がなかった。親鸞自身も、覚如も、他の門弟も、これを記していないのである(ただ高田専修寺の『親鸞聖人正統伝』にこの名はあったが、特に「無動寺の大乗院」と結ばれてはいない)。
 ところが、ここには明晰に師匠の名が記されている。なぜか。
 思うに、親鸞が「比叡山を降りた」というのは、具体的には、この「師、静厳のもとを去った」ということだった。遠慮のない言い方をすれば、「静厳から法然へ」という、いわば“師のとり変え”であり、当然ながら教義上、静厳と法然とは「対立」関係にあったことであろう。
 それ故にこそ、親鸞自身はもちろん、また直門弟、妻(恵信尼文書)、さらに覚如たちも、「知りながら」この「旧師匠名」を明らかにすることを“避けて”いたのではあるまいか。
 それを、他の流派(浄土宗系)の「金光伝」では、率直に記していたのである。わたしたち、後代の研究者にとっては貴重だ。
 最大のハイライト、それは「金光と親鸞の対面」の場面だ。承元の弾圧(承元元年、一二〇七)のさい、金光は東北地方で布教中だった。この事件を聞くと、彼は「先づ」越後に流罪中の親鸞に会いに行ったというのである。
 なぜ、「先づ」親鸞か、という問いに対する回答のヒントは、ここに記載された次の記事の中にある。

「安楽坊の進めにて法然門下に在りき(「し」か)金光坊圓證は阿波之介なる者より流罪の事を聞きて先づ綽空を佐渡に訪ねたり」

 承元の弾圧は、後鳥羽上皇等の「住蓮・安楽に対する処刑(斬殺)」にはじまった。この両名は、親鸞の盟友にして莫逆の友であった。それゆえ彼は主著『教行信証』の後序において

「主上・臣下、法に背き、義に違す。」

の有名な一文を書いていた。三〇代後半の流罪中の一文を、五二歳(元仁元年、一二二四)に書いた。そして九〇歳の死に至るまで添削し抜いた『教行信証』坂東本(東本願寺蔵、自筆本)の中に、一言の変更も加えずこの一文を保存し通した。まさに親鸞は「生ける住蓮・安楽」として、その一生を終えたのであった(古田『親鸞ー人と思想』清水書院、新書参照)。
 以上のような親鸞であるから、その「安楽」の導きによって法然の門下に入った金光と、この両者の間の「きずな」がいかばかりであったか、察せられよう。そこで、当然ながら土佐(実際は阿波)に流罪された法然のもとに馳けつける前に(道順からも)、「先づ」親鸞に会いに行ったのである。
 この両者の会見地、「佐渡」について、逸せぬ、わたしの経験談がある。この史料を入手(一九九五年二月)した翌朝、わたしは和田さんのお宅に電話した。そしてこの史料が親鸞研究上、いかにすばらしいか、画期的であるか、を縷々のべた。ところが、喜八郎さんの応答がおかしい。わたしの話と“くいちがう”のである。そのうち、気づいた。

 「ああ、綽空というのは、日蓮か、そのお弟子さんだと思われたんですね。」
 「ああ。『佐渡』とあったから。」
 「ああ、そうか、いや、あの綽空というのは、親鸞なんですよ。まちがいありません。」
 「・・・。」

という応答であった。この「金光伝」には「親鸞」という名前は一切出てこない。「範宴」が一回の他、すべて「綽空」である。
 (和田喜八郎さんをふくめて)一般の人々は、「親鸞」の名前は知っていても、「綽空」の名など、知らないのが普通だ。だから、両者の会見場所が「佐渡」だ、という記載から、和田さんは「佐渡流罪」で有名な、日蓮かその門下の名だ、そのように“思いこんで”おられたのである。
 この類の、和田喜八郎さんの「和田家文書の内容への錯覚」は、わたしには珍しいことではない。そのような経験の重なりがあるために、例の「和田家文書、喜八郎氏偽作」説など、わたしにははじめから一顧にも値しないものだった。だから今回の「いじめ」問題に逢うまでは、まともに学問的応答の意欲すらわきにくい、率直に言って、そういうテーマだったのである。
 そのような諸経験の中でも、今回の「親鸞・日蓮錯覚」問題は、印象的な事件だった。「偽作」説一蹴のために、(和田さんの御迷惑をかえりみず)書かせていただいた。御容赦願いたい。
 親鸞の越後流罪中、いかなる生活をしていたか、ほとんど不明だ。このような「佐渡滞在」があったことなども、従来は全く知られていなかった。金山などの労役あるいは記録役などに従事させられるための滞在か、あるいは在地の豪族のはからいによるものか、一切不明だ。ただ、後代の「造作」者がいたとして、両者の会見場所にいきなり「佐渡」をもち出すことなど、かえってやりにくいのではあるまいか。
 逆に、本史料が鎌倉期の初期史料(金光及びその直弟子段階)であるという、「成立期限」に関する論証が成立したのであるけれど、それは別論文にゆずることとしよう。
 佐渡における「金光と親鸞の教理問答」も、従来の親鸞伝や金光上人伝、浄土宗系史料において「未見」の興味深い新史料と言わざるをえない。別に詳説したい。
 運命は時として人間を思いがけぬ発見へと向わしめるが、今回ほどそれを痛感したことはない
(この問題も、孝季が書写した「金光伝」原本の発見が、期待される。おそらく金光上人を「開山」とするような寺院にそれは今も蔵されているのではあるまいか)。

 

  七

 未刊の和田家文書(「北斗抄」「北鑑」等)の、もう一つの特色は、和田末吉・長作父子(さらに末吉の父、権七)自身の文章がかなり収録されていることだ。先の、アインシュタインをめぐる一文もその例だが、他に若干紹介してみよう。「北斗抄」参の二一節には、末吉が明治の教育改革を論じた、興味深い一文がある。

「(前略)東京遷都版籍奉遷遂にして明治五年學制發布と相成りぬ
 小學校各所に設置さるるも公にて成れるなく私説(「設」か)多く授業料納めざる者は通學を差留められたり
 まさに寺小屋教育と相変らずようやくにして教課(「科」か)書の出づるは明治七年なるも各縣に於て無渡(「無」不用か)らざるもありぬ
 教師また士族多く平民に苗字許されたるも平等ならず學校にて教育に障る兒童を鞭打つて負傷または致死に至らしむありても平民の學童を學ばしむ親にして何事の訴言も許されるべくもなし」

 以上のように、明治初頭の学校内の実情が活写されている。さらに

「學制發布より世の移る程に教課多く出でるは後なれど學校の無きよりは人の智者藩政時代より多く平民も士族を越ゆるに至れり
 依て教師も平民より出でたる者は學童に好まれ能く學び得たり
 平民より秀才の出づるは士族にとって恥たる意識去らず教育にその政権脈閥がその教科を牛耳るに至りて皇國史観の教題をして國權軍國主義が浮上し自由民權は弾圧され消滅せり
 秋田氏の藩に起りける民主の國家誕生為らず」

 このあと、「明治七年五月、文部省、小學讀本、五」の実物が張りつけられ、「注」に
 「和田長三郎末吉氏に福澤氏より文部省小學讀本屈けらる
                明治七年四月二日なり」

の一文が、向かって右側に書かれている。
 その張りつけられた実物の左側には、
「右使用 和田長作」とある。
 末吉の子、長作の筆跡のようである。明治の教育制度の実情を、民間の一視点から語るものとして興味深い。

 

  八

 さらに、末吉の思想の真骨頂をしめすものとして、「廃仏棄釈批判」がある。「北斗抄」十二の二七節だ。
 「おろかなり廢佛毀釋とは倭神を至高とせる皇祖の神を以て國民の信仰を奮(「奪」か)取せる大悪政にして惡法と云ふ他曰ふことなし
 永き歴史の間地方の信仰にあり徳川の世に何事の弾圧もなかりき(「し」か)に地蔵を打ち割り佛にありき(同上)古道を焼き古なる文献の焚失にせるは實に憂ふるものなり
 神道ならざる堂閣を廢し神社をもその社末階級ありて村社郷社の類に定むるはまさに神をも冒涜*(ぼうとく)せる行為なり
 是の如き治世のあらば永き國家の先非ず國は亡びぬ
 心せよ神佛に何事の科(とが)ありや
 神佛は民の安心立命になる道場なり
 一括(「播」か)の仕官になる決め事にてかかる神佛毀釋のある是れぞ民を人間と思はざるの惡政なり
 何事を信じようが信じまえ(「い」か)が人心にして自由ならざれば天草もどき内乱のあるは必如なり
 何事も民に權なく兵徴用し戦に死を盡して泣くは道のみなり
 戦爭を美化せざる生産商易こそ國運の向上にありけるなり
 さればいざ来る自由の至るはいくばくもなし心に能く心得よ
  明治十五年凶月凶日
     自由民權葬らる
               末吉」

冒涜*(ぼうとく)の涜*(とく)は、三水編に賣。JIS第三水準ユニコード7006

 このような、心血をそそいだ文章に次いで、その二八節に、

「此の維新は百年も保つこと難し
 今更西洋の殖民地支配に亜細亜の隣國を犯さんとせる軍閥の増長ぞ誠の東洋平和なるか自由民權の民主發展を刈取り皇政を奉る政と憲これぞ西洋諸國が既に了りしにことあろうに清國朝鮮ロシアに外交の風雲を怪なしにわかに西洋かぶれなる我が國の未来ぞただ列國の敵視をそそぐばかりなり
 要は戦を以ての權圧より商易を以て世界に暁み我が國中に貧しき民のなからん國政を司るこそ未来に倖をなせる國家たらんや」

とのべ、

「自由民權を圧したる如くこの國は必ず大國ならん野望に亡ぶ危うきにたどらん前兆ありぬ
 あと二十年乃至(ないし)三十年に保つや否
 親睦露もなかりける大日本帝國のありかたぞ全能なる荒覇吐(あらはばき)神のみぞ知る處なり
  大正六年
     和田末吉」

 末吉の「予見」は、あまりにも的確だったようである。

 

  九

 老年の孝季の身に泌みる述懐がつづられている。「北鑑」第四十八巻の二〇節だ。

「そもそも歴史の理は萬學何れも離して成らざるなりと覚(おぼ)つべし
 己が好むと好まざるにて成るは何事にも成らざるなり
 因と果を非理屈に論ずるが如し
 能く己れの智と愚をわきまふべし
 此の北鑑に記せし敷々に己れの頭意を以て改たる條は一行もなかりき
 無學乍(なが)らも筆なす毎(つね)々に心戒むる吾が不断なる處なり
 いつなる世にかこれを讀ける者にぞ吾はたヾ相なき世界に見給ふや
 日々に老まさり重ねる貧(まずし)さ今更に心苦しきなり
 若きより丑寅日本國の朝幕藩の弾圧や赦せるものならずいつ代にかこの書の出世あらんを心に念じて今日も暮れにけり
 さあれ祖々の遺せしも残り少なく吾れはこのままに筆絶ゆるも悔ぞなかりける
 玉石混合乍(なが)ら以後に浅學の者とて讃得るに遺したり
 茲(ここ)に天なる神ぞ吾が生命を未だに召し給はざるは幸にして書了も夢ならず
 今宵は神佛に灯(あか)りを献げん
 なかなかに身の自在を損(そこ)ふて眠りぞ常にしてまどろむ時ぞ惜しとも詮なき生身の老體なり
 かくさまなるをこの所に一筆遺し置くものなり」

 老年の末吉が、軍国主義体制の重圧に対して激憤をもらしているのに対し、同じく老齢ながら、孝季の筆致には「達人の諦観」のごときものがうかがえよう。この書を読むべき「未来の世界」の人々へと、はるかに思いを寄せているのである。
 「文は人なり」別人の別文体である。それぞれの人柄がうかがえよう。

 

 一〇

 最後に、末吉と長作がこのような先人の思いを後世に伝えるべく、「和田家文書」の保存を後代に託した、重要な文面にふれておこう(「北斗抄」十三の二五節)。

 「北斗抄は先代より手書きされたる帳面より写せるものなり
 加へては新聞諸書簡書(かんしょ)にて本巻は成れり
 失なはれゆく諸傳を遺すは祖父来の遺言たる故なり
 年毎に眼は遠く字書の労もままならず灯明紙代に費に貧(ひん)しては尚亦心に暗けれども人の情また是あり
 古帳の寄附あり我を訪れて古話を博ふものあり一日とて筆の執らざるなし有難し實に有難し」

 と感謝の念をつづっている。その上、

「眞實の丑寅日本史を諸處に訪れ今に綴り数ふるに一千八百六十巻に成れり」

とのべている。そして「林子平の二の前(「舞」か)」を恐れると言い、

「依て我が死後に於ては石塔山洞または家天井に秘蔵を申付たり」

と書いている。そして、
「更に用心し戸籍をも迷宮にして和田一族の系譜も明治の以前を散々にせしも策たり」

として、その具体策にも書き及んでいる。「偽作」論者が「和田家の系譜」について“迷路に入りこんだ”淵源もここにあったようである。

 

 一一

 このような「末吉の意思」は、子供の長作によってうけつがれた(「北斗抄」廿七、記了巻の二五節)。
「諸翁聞取帳絡序に曰く抑々(そもそも)丑寅日本國史を諸々の古老に訪れて文献口傳を記行したるものなり
 依て東日流外三郡誌・内三郡誌・北鑑・丑寅日本紀・丑寅日本記・語部録に次ぐ北斗抄と題して諸翁聞取帳を本巻を以て父末吉の寫餘を再筆了りぬ(「る」欠)も蟲喰甚々(はなはだ)しきは筆寫ならず残したり
 以後に以て是を保存せるに難なれば蟲喰を防がむ為と世襲に障りを避けて天井に蔵し置き後世に障りなき世至りては世に出だし(「す」か)べし
 總四千八百十七冊に多量なれば能く保つべく申付を子孫に傳ふべし亦遺物も多数なれば何一品とて賣却せず祖先への遺志を保つべきなり
      昭和壬申年七月十日
                   和田長作」

 なお、この冊子の裏には、
「昭和壬申年了
                  和田末吉
                  代筆 長 作 」

 と記されている。「壬申」は七年。もちろん、長作の筆跡である。

 

 一二

 以上をもって、本稿の目途は達成せられた。和田家文書のもつ特質、なかんずくその「立体的構造」をしめしたのである。
 もちろん、これがすべてではない。
 また孝季が吉次に送った書簡に、愛する妹りくを「吾が娘」と呼び、その「りくと相解(とけ)て」と言い、夫の吉次との仲を心配している文面(「北鑑」第廿七巻六節)がある。
 さらに「孝季日記」(「北鑑」第五十九巻の一節)には

「妹とは申せど歳の三十二歳の差にありりくが乳児にて父の他界にありせば吾れを父と呼ばるはあどけなき四つばえの頃と覚ひ(「へ」か)ぬ
 長じても父と呼ぶるりくに合せてか長三郎もまた父上と口調を合はすにくい二人の仲睦ましき
 余の室をして入ることなく鍵を閉じ錠を常にて余来たらずは開くなき一間にし(「て」か)十二疊半の間なり」

と、生活の一端、複雑ながら、ほほえましき兄妹・夫婦の間の機微にふれている。

 そして最後に、圧巻とも言うべき孝季の思想叙述にふれておかねばならぬ。

「(前略)人類もまた然(しか)なり身の安住を新天地に求めて渡るも智に進みたるものその後に侵して戦に降して國を盗て是を發見とは曰ふも先住の民住(すま)ふる處は發見とは曰ひ(「は」か)ざるなり
 同じ人種をして戦に以て勝を正統とせるは非道の行為なり
 かかる非道を以て為れるは今なる國となせる世界の國勢なり
 先民を無益の風土に追ひやり侵領民は猶以て人種を異にして先住民を奴隷として重労に處して反(そむ)く者を彼等の知合に造りたる法律にて断圧せる行為は必ず神の報復を招く行為なり
 神と信仰を以て従がはざれは戦に以て是を強制せるは尚然(しか)なり」
 
 孝季は、世界の大勢、「国」の成り立ち、「法律」のあり方について鋭い観察を右のように記した。

「天は人の上に人を造らず、天は人の下に人を造らず」

の箴言(しんげん)が、『学問のすすめ』においては、「以下の本文」とピッタリ結合せず、いわば浮き上がっているのに対し、ここではまさにピッタリと一致している。その姿を先入観なき人は見とどけるであろう。
 なぜなら福沢の場合、「本文全体」は結局“欧化賛美”に終っているのに対し、孝季の場合、西欧のいわゆる「先進国」が、世界各地の「先住の民」に対して、制度化して行っている抑圧、その事実を端的に認識し、指摘しているからである。
 「人の上に人」とは“先住の民の上に先進の民”をもまた、意味していたのである。江戸の一介(いっかい)の学者、古武士の達眼、恐るべし、と言う他はない。

 

結び

 すでに言い終った。もはや言うべき言葉はない。
 この上は、各界の有識者、また青森県内の責任者の各位が、いたずらなる「偽作」論議にまどわされることなく、決然と「寛政原本」及び「明治写本」の保存と公開に対して、思い切った御助力を賜りたいと思う。
 なぜなら、当文書は青森県の誇りであるのみならず、日本国の誇りとなる思想的所産である上、その「取り出し」と「維持」と「保存」のためには、相応の経済的、公的支援の必要なこと、当然だからである。右、伏して深くお願いし、本稿の筆をおくこととしたい。


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