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『市民の古代』第7集 古田武彦とともに 1985年
特集 好太王碑現地調査報告

中国の好太王碑研究の意義と問題点

王健群氏に間う

古田武彦

 古田でございます。お寒い中を、私の話を聞くためお休みにもかかわらず来ていただきまして、非常に有難く恐縮に存じております。

読売シンポジウムから

 先週の金・土曜日(一九八五年一月十一、十二日)の二日問にわたって、読売新聞社のシンポジウムの会場に行って参りました。ずっとお聞きしておったわけですが、恙(つつが)なく完了したわけでございます。私にとりまして、予期したとおり「恙なく」という感じでございました。私の予期したといいますか、予想しました第一に「碑文改竄問題」について、李進煕さんは従来通りといいますか、ほぼ従来通り「改竄(かいざん)はあった」と言われるであろう。しかし他の講師の方々は、改竄を認めない、積極的に認めないか、消極的かもしれないが従来とは違って改竄を支持する態度を示されないかもしれない。李さん一人が改竄があったと言われる状態になるのではあるまいかというふうに「改竄問題」については予想したわけでございます。これはそのとおりでございました。
 また次に「倭」とは何者かというのが話題になると思ったのですが、これについては、いわゆる「大和朝廷」もしくは大和政権中心の連合国家という「大和中心説」が、講師の方々の多くを占めるだろう。これに対して王健群さんは「海盗説」、日本語的にいえば「海賊説」で応答されるだろうが、応答も積極的な論拠を挙げにくいのではないだろうか、それからまた、「北九州の勢力である」というむきの意見もあろうけれども、しかしこれは言葉に留まって実際といいましょうか、具体的な姿を描く人は無いのではあるまいか。
 それから、もう一つ私にとって重要な予想としまして「守墓人問題」は殆ど論題にならないであろう。王さんの『好太王碑の研究』の後半で「守墓人問題については従来論議が殆どない」と書かれているのです。だから参考文献も挙がってないわけです。これを読みました時、私は、アッ、王健群さんは藤田友治さんのあの執拗な、次々と展開してこられた論文(『市民の古代』第五、六集)を読んでおられないな、と感じたわけでございます。
 これは当たり前といえば当たり前かもしれませんが、そうでもないのです。藤田さんと私は弥次喜多のように二人で吉林省の博物館に出掛けたわけでございます(一九八一年八月)。武国員力*さんという非常に立派な方にお会いして「関係の方々に読んで頂きたい」と『市民の古代』をお渡して帰ってきたわけです。少なくとも吉林省の博物館には『市民の古代」はあるわけです。王健群さんは吉林省の社会科学院の文物考古研究所所長という肩書です。ですから博物館とも関係が深いと思いますが、連絡がよくなかったのか、「御存知ないな」、こう思いました。

武国員力*(ぶこくしゅん)氏の[員力](しゅん)は、JIS第三水準ユニコード番号52DB

 シンポジウムの講師の方で「守墓人問題」を論じた方はどなたもいらっしゃいませんので、この問題はおそらくでないだろうなと予想したわけです。“守墓人”という言葉は、二、三回出たかも分りませんが、議論は全くないまま恙なく終了したわけでございます。
 王さんは土曜の夜宿舎にお帰りになって、「やっぱり『守墓人問題』はでなかったな。あれだけの日本側の権威が集っていてでないのだから、日本側は守墓人に注意を払っていないと書いた私はやはり正しかった」と思っておやすみになったと思うのです。
 ところが、皆様は御存知のように、「守墓人問題」で論議がないなんてとんでもございません。「守墓人問題」の研究者は、まさにいるわけでございます。情報の不足で王さんが御存知なかったのはしかたがないにしましても、せっかく日本に来られたのですから、「守墓人問題」の研究が積み重ねられてきているのですよ、ということをお知りにならず、お帰りになるのではお気の毒である、残念である、というふうに思ったわけであります。

王健群『好太王碑の研究』の出現

 私から見まして、王さんの『好太王碑の研究』の前半は賛成といいますか、我が意を得たり、です。私がこの十何年来主張し続けてきたことを一つ一つ裏付けて下さったのです。私の『史学雑誌』の論文(第八十二編、第八号、昭和四十八年、「好太王碑文『改削』説の批判 ーー李進煕『広開土王陵碑の研究』について」)もかなり長く引用して下さっているということで、“有難い”“知己を得た”という感じをもったのです。
 ところが後半の歴史的位置付けにいたりますと、「これはどうかな」と感じました。「倭」は国家とか、そういうたいしたものではないのだ。「海盗」「海賊」にすぎないのだ。略奪のみをこととする連中であるということを、繰り返し述べられているわけです。しかしこれは歴史の理解とすると、具合が悪い。
 十数日間も日本に居られるのです。美しい日本を観光されたり、博物館をまわられたり、も結構ですが、学問のために、好太王碑の研究のために来られたのでしょうから、私がこれから展開する議論に接せずにお帰りになったのでは、お気の毒ではないか。それではひとつ、私の方で場を作っておいでいただけるなら大歓迎いたします、ということで、去年御案内をお送りしたわけでございます。「読んだ」という話が人を通じて返ってきましたので読まれたのだと思います。ところが健康の具合や日程があっておいでになれない。今日と明日は京都・大阪をまわっておられ、次は奈良と、この四日間は関西におられるということです。いろいろ事情があってこられないのは非常にお気の毒である、と思います。
 学者、或いは真実の探求者として自分の論点に対して真剣に取り組んで批判をだしてくれる人がいるなら、千里の道も遠しとせず、聞きに行きたいと、というのが学問の研究者だと思うのです。私自身のことを考えましてもそうですし、王さんもそういう方ではないかと思うのです。
 王さんの方の御都合もありますので、講演会の途中でも、終わりでもいいですから、おいで下さい、喜んで歓迎いたしますという主旨で東京十三日、大阪十五日と二回いたしますと申し上げたわけです。もちろんこれは本誌にしますので、時間は遅れますが王健群さんの目に届くでありましょう。
 本当の友好というのは相手に対してお世辞といいますか、耳に良い言葉を述べるのではない。誉めるべきところはうんと誉める。違うところは敢然とそれを言う。こういう相手こそ真に信頼できる友人であり、長続きのする人間関係であると思うわけであります。
 藤田さんからいろいろ貴重な批判がでてきましたが、それにもかかわらず今回の王さんの『好太王碑の研究」という本は画期的な本でございます。雄渾社が頑張って作っていただいたわけですから、皆様に購入していただけたらと思います。お子さんお孫さんの時代になって「うちのお父さんお祖父さんはこんな本を買っていたのか」という性格の本になると思うわけでございます。批判ということと、この本が画期的な意味をもつ、ということとぱ全く矛盾しない。素晴らしい研究であるということをはっきり申し上げさせていただきたい、こう思うわけでございます。

好太王碑改竄説の破産

 さて敬愛する王健群氏の画期的な研究の意義についてまとめてあげさせていただきたいと思います。
 第一は「九つの倭」の実在性という問題でございます。一九七二年(昭和四十七年)五月に李進煕さんの改竄説が初めてでました。岩波書店発行の『思想」という雑誌に掲載されたわけです。これを私は読みましてどうも合点がいかなかった。読めば読む程合点がいかなかった。何故かと申しますと、「倭以辛卯年来渡海破」のところに関して詳しく議論されておるわけです。今まで教科書等にも確実な史料として使ってきていたが、これは実は酒匂による、日本参謀本部による改竄(かいざん)であるということを論じられたわけです。ところが「倭」は他にもいくつもでてきておるわけです。今西龍さんによりますと九つ、王健群さんによりますともっと増えまして十一でてきているわけです。皆様お手元のレジメを御覧いただけば判りますが、十一でてきております。ところが李さんが怪しいといわれたのは「渡海破」のところの「倭」とあと二、三なのです。三つか四つくらいの「倭」について疑問をさしはさまれただけであります。それも「渡海破」の「倭」は強くですが、ほかのはそれ程強くではありません。そして他の「倭」については全くノータッチなわけです。
 私は読んでいまして、他の「倭」がノータッチということは拓本や双鉤本のズレがないとしか思えないけれど、他の所にちゃんと石の「倭」があったとすれば、参謀本部が「渡海破」の「倭」を“作らせた”のに何の意味があるのだろう。
 つまり朝鮮半島の真ん中辺で高句麗と倭が激突しているわけです。今の平壌とソウルの間で激戦している感じなわけです、そういうことが述べられているわけです。こういうことが疑い得ない史料であるとすれば「渡海破」だけを参謀本部が書き改めさせるのはナンセンスだ。つまり「倭」がそこまで行くのなら海ぐらい渡ります。百済でも新羅でも高句麗でも海ぐらい渡ると思いますけれど、まして「倭」は海は大変お得意の人達でしょうから「渡海破」は当り前だったでしょう。それを『海を渡る』を入れなきゃ困るから、酒匂、『海を渡る』を入れてこい」などと参謀本部がいうなんて意味をもたない、と感じたわけです。繰り返し読めば読む程その疑問が強くなってきたわけです。
 それで御本人に聞くよりしようがないとお宅へおうかがいしたい、と手紙をだしました。李さんから「私の家は工合が悪い。喫茶店でお会いしましょう」と時間を指定していただきました。李さんは東京で、私は当時京都におりまして、その喫茶店で一時間半くらいお話したわけです。
 私は他の「倭」について確かめたかったのですが、李さんは他の事に話をもって行かれてお聞きしてもお答えいただけなかったのです。最後にこれを聞かないで帰ったら来た意味がないと、ゆっくりと間隔をあけて「他の『倭』の意味については、どうお考えでしょうか」と聞いたわけです。すると「それは全部石灰の字だと思います」という李さんの返答だったのです。これで私は来たかいがあったと思ったわけです。論争をしに来たのではありません、李さんの研究思想を知りたかったわけです。
 こういうのは個人対個人の話で、李さんの説だというべきものではございません。私も今までこういう場所で言ったことはございません。しかしあとで聞きますと、他の方にもかなり言っておられるようです。鈴木武樹さんとか、京大の朝鮮史研究会の学生さん達とか、いくつかの場所で言っておられたようです。だから秘密ではないのです。大事なことは口で言われただけであります。
 それから五、六年しまして李さんの講演を聴衆の一人として聞いたわけです。その時李さんは「他の『倭』について、石灰であるとかどうとか一切書いたことはありません」と言われたのです。「他の『倭』について何も書いたことはありません」他の人は何も思わず聞いていたのですが、私にはよく分かったのです。“言ったことはあるが、書いたことは無い”ということだったのです。
 ということで、書かれたことではないから「李説」として扱うべきものではないと思うのですが、にもかかわらずこの話を披露させていただきました理由は、論理的に李説はここに至らないと意味をもちえない、ということです。
 歴史学の立場からいえば、高句麗と「倭」が激戦をしたのかという一点が大事でして、全く「倭」が現れていませんよ、「倭」は参謀本部の小細工ですよ、となりますと歴史学の史料としての意味が全く変わってまいります。少なくとも日本の歴史の史料として、直接の史料ではなくなってしまいます。
 ところが一つでも、或いは二つでも三つでも「倭」が高句麗と戦っているとしましたら、歴史上無視できない史料です。それも金石文という第一史料となるわけです。
 李さんは非常に慎重な方で、たくさんの論文を書いておられらますが、他の「倭」については一貫して口をつぐんでおられます。触れておられないのです。
 今度のシンポジウムがすべて予想通りと申しましたが、この点が違っておりました。講師の武田幸男さんが率直に意見を言っておられたのが壇上で目立ちましたが、この武田さん等の質問が中心になりまして、李さんが「渡海破」の「倭」について答えざるをえなくなりました。
 李さんは「少なくとも海賊ぐらいのものなら認めてもよい」。こういう言い方をされたのです。これは公開の場における画期的な発言であります。しかし必ずしも他の「倭」をすべて認められたんではないんですね。だからなお石灰の字である可能性は留保しておられるけれど、石に「倭」があったとしても海賊であって、大和政権とか○○政権というそんなたいしたものではないという発言なのです。
 ですが、あそこまで言われた事は、今までに書かれたものや講演ではおそらくなかったのではないかというふうに、私は感じたわけでございました。ともあれ李さんの説は、「総ての倭」の問題が本質、最終の問題点ですが、「渡海破」だけに絞って議論する人が殆どです。それでは「倭」の問題を客観的に扱っているとはいえないということになると思います。
 このことにつきまして、実は私は答えを得ていたのです。何年か前のことですが、王冶秋さんという中国文物管理局局長さん、日本でいえば文部省とか文化庁という感じの部局の長にあたる方が日本においでになった時、京都の枳穀邸で、付きそった方がいましたが、一応一対一で対談できたのです。その時に好太王碑のことをお聞きしました。王冶秋さん(管理の最高責任者)は、「日本に来る直前に好太王碑のところに行って周囲の状況を見、監督をしてきました。好太王碑を見てすぐ日本に来たのです」。こうおっしゃったのです。「そこに『倭』という字はありましたか」。「ありました。幾つもありました。石灰の字ではなく石の字でした。間違いなく石の字でした。石灰の字については、残っている石灰をどうするかの問題が管理修理のうちの大事な項目だったのでよく見ましたが、『倭』は完全に石の字でした」ということでした。最高級の幹部であり、管理責任者ですからいい加減なことをおっしゃるわけはないのです。しかも見た直後の話でしたから、私は改竄ではないという、確かな証拠を得た感じをもったのです。

王説の意義

 今回、王健群さんも本の中で「石の字である」と繰り返し書いておられます。王さんは四ヵ月間石碑に張り付いて、赤外線をあてたりして、正に学問的調査をされたわけですから、疑う方がおかしいわけです。
 というわけで問題の本質をなす「九つの倭」、王さんによると「十一の倭」は、碑文に実在するということでもって実際上改竄(かいざん)説は終りをつげたと言ってよいだろうと思います。
 “王冶秋さんに私一人がお会いして”というケースではないわけです。本で、写真付きで示されたわけですから、やはり画期的意味をもつものです。五十年、百年たって「あの時の本ですね」とお子さんやお孫さんが言われる本であることを、私は疑うことができないわけです。
 次に王さんの研究は正に石碑に直面した研究であるということです。李さんが一九七二年(昭和四十七年)五月に李説を発表されて、私は十一月の東大の史学会の大会で、それは違うと反論したわけです。私は夏の間必死に駆け回って酒匂大尉の遺族の家を「発見」し、その結果反論を述べたわけです。しかしこれは、考えてみますと、李さんも私も当の石碑を見ていないわけです。実物を見ずに、拓本とか双鉤本とか開連文書とかに対する判断において、李さんと私が対立したわけです。言葉の正確な意味で「論争」になったわけです。
 十一、十二日のシンポジウムは「論争」ではないんですよ。お互いに「対等な立場」にたってこそ論争ができるのです。片方は見ていない、片方は散々見ている、というのでは、論争というにはあまりにも段が違いすぎるわけです。だから“言い合って”みてもあまり意味がない、というのが正直なところでございました。
 私が“見ず”に“見れない”状況下で発言したのが、今回実物を王さんが見たら、私の発言通りだった、という、追認をして下さったというのが、ありのままの研究史上の事実だと思うのです。
 私の方をカットして、王さんと李さんとの間の論争にしているのは、一つの「ある種の姿勢」にすぎなくて、実際は研究史上の事実は、王さんが四ヵ月かかって実物を調べられたら、“私のいう通りであった”ということです。これは我田引水ではなく、事実が示す研究史上の結果です。先日のシンポジウムでは私の事には、全く触れていませんでした。
 もう一つ注意しておかなくてはならないことがあります。“王さんの研究は卓越している”“石碑に張りついて研究をされたのだから”ということにはゆるがせぬ意味があるのですが、しかし王さんが「初めて」ではないということを、やはり言っておかなければいけないということです。
 つまり戦前、日本の学者がそれをしていた。特に今西龍さんが、朝に夕に繰り返し巻き返し見て見て見抜いた。一緒に行った人が、鬼気せまる執念を感じたほど、見て見抜いたという、その研究結果が残っているのです。これを無視することはできない。しかも王さんよりずっと早い段階ですから、石の風化がより進まない段階ですから、この今西さんの功績を決して忘れてはいけないでしょう。
 それじゃあ王さんのはあまり意味がないのか、というとそうではありません。今西さんは外国人ですから四ヵ月も張り付いては調査できませんでしたが、王さんは現地の研究所長ですから、四ヵ月も“張り付けた”わけです。
 それに今西さんの時にはできなかった、赤外線を使って調べられています。これは今西さんとは別個に貴重な研究である。
 もう一つ忘れてはいけません。戦後、朝鮮民主主義人民共和国の金錫亨さん、朴時亨さんといった人達も現地で研究して詳細な報告書もでているわけです。これ等ももちろん忘れてはなりません。こういった研究と共に、王さんの研究は“石碑に直面した研究である”というところになによりも重要さがあるということです。

「初均徳抄本」の発見

 次には、王健群さんが「初家の碑文抄本(手控え本)」を発見され、学会に報告されたことです。「初さん」が曾祖父さんから祖父さんと二代にかけて現地で拓本を取り続けてきたわけです。王さんが「初さん」の遺族をお訪ねになった。姉さん(五十代半ば)と弟さん(五十歳前後)の所に行って調べられた。弟さんのお宅に初家伝来の手控え本があった。つまり現物(大きなものです)の字を書き取って、家宝のようにして保存してあった。これが『好太王碑の研究』にもでております。
 これはやはり大きな意味をもつと思います。何故かといいますと、この手控え本が第一回手控え本であるかどうか分りませんが、まず大正段階では手控え本は無かったのではないか。おそらく一番最初の拓出の時には手控え本はなかったのではないだろうか。石碑の字は十二cm四角の大きさで、一字の大きさは大きいようですが、拓出には石面を叩きますので壊れるわけです。壊れたら字を再現しようとするわけです。元のように。ところが壊れてすぐそこで直せばそんなに間違わないでしょうが、拓本をべったり、ずっと連続してとっているわけではないのですよ。注文があって拓出し、二、三年たって又注文があって拓出する。その時に前に比べて字が減っている。気になって、自分で石灰をもってきて「作字」というようなことをするわけです。それが何年か前の心覚えでするわけですから、合う場合もあれば、おかしい時もあるわけです。するとどうなるか。新しい拓本が北京にでもゆきますね。すると手に入れた北京の文人が自慢したい。「好太王碑の拓本を持っている」「俺も持っている」と話が始まり「何面には、こういう字がある」「俺の拓本には無いぞ。違う字だ」「そんなことはない」。本当に比べたかどうかしりませんが、比べたら確かに違っているわけです。「おかしい、けしからん」と現地の拓工に文句がゆきますわね。するとやはり初さんとしては困るわけですよ。石灰で字を作って拓出するのはルール違反ですよ。そんなことが分かったらたまったものではないですよ。秘密といいますか、職業上の秘密だったわけですよ。しかし言われてみると事実だからこれはまずいと、その時は謝ったのでしょう。防ぐ方法はないかというので手控え本を作った。お手本を作っておけば毎回同じですという職業上の必要で作られたものだと思うのですよ。
 つまり今お話ししましたように、字が拓工に依って変化してきたんだ。だから藤田さんの綿密な研究で示されましたとおり、六の字が七だということになってくるのです。
 私は感心したのですが、藤田さんの研究というのは掛値無しの世界一の研究だと思います。日本、中国、朝鮮半島、どこの学者も藤田さんのような精密度をもって判定しうる人はいないわけです。しかも高校の生徒と一緒に研究したというのですから、大変ユニークではないでしょうか。高等学校の先生が、生徒と一緒にした研究が世界ナンバー・ワンの精密度に達している。このありのままの姿を、ぜひ王健群さんに見、そして聞いていただきたかったのです。
 実は王さんは日本語ができるのです。私より一つ下です。私は大正十五年(一九二六年)、王さんは日本流にいえば昭和二年(一九二七年)生まれです。つまり敗戦の時、王さんは十七歳、私は十八歳、王さんは東北(旧満洲)の御出身のようですから、日本語がお上手なわけです。少くとも聞くのは全然御不自由はないようです。読売のシンポジウムの時も、中国語訳を伝える耳のイヤホーンを時々外しておられました。外の方はずっと付けっぱなしでしたけれど。やっぱり日本語がお分りになるな、と見ておりました。
 というわけで初家の拓本をとられた時期が藤田さんの研究によって一つの判定をえたわけです。これでいわゆる「改竄(かいざん)」の正体というか成り行きを証言するものとして、「初家手控え本」が現れたということです。
 もう一つこれには大事な意味があると思われます。この「手控え本」に「倭」がたくさんでてきているわけですよ。この初曾祖父さん、初祖父さんは現地に二代にわたって住んで、拓出のプロでしょう。それが石灰で作った「倭」を知らずに手控えていたなんてことは、余程この方たちを馬鹿にしないといえないことです。四ヵ月どころか、一生“張り付いて”いたのですから。この「手控え本」は、部分的に欠陥はあるけれど大筋において非常に尊重すべきものであると、私はそう思います。
 この「初家手控え本」を発見されたことは非常に意味があります。

現地調査の重要性

 もう三王さんの素晴らしい業績は石碑の側にある民家の御老人達を訪ねて、昔の話を聞いておられることです。
 初祖父さんが石碑の字が壊れたら、石灰を持ってきてさかんに直しておったという証言を得たり、石碑に馬糞を塗って乾いたのを焼き払ったのを見たと聞いた、それで字が壊れたという証言を得ておられます。また、外国人(日本人など)が来て拓本をとったとか、とらしたとかというのは聞いたことがないという証言を得ておられます。
 また、昭和三十年代初めの時点に、ここに住んでいたお祖父さんから状況を聞いた土地の素封家の聞き書きを図書館で王さんが発見しておられるのです。
 これが、また値打ちがあるのです。現在のお祖父さんと、四、五年前のお祖父さんと、昭和三十年頃のお祖父さんとは、直面している時点が全然違いますね。より古いですね。
 その聞き書きを発見されたのは王さんの大きなお手柄です。これから、我々がいくら好太王碑に幸いに行けたとしましても、土地のお祖父さんに聞きとりしたり、図書館でほこりをかぶり忘れさられたような文書を発見したり、は無理でございます。王健群さんは素晴らしいお仕事をされたと思います。あと三十年、五十年後になりますとこのお祖父さん達はいません。今それをされたということが重要なんです。
 なおもう一言、手前味噌のようになりますが、私自身がそれに先んじまして、一九七二年に酒匂家の遺族を追い求めた経験がございます。
 李さんが、酒匂という人物がいたといわれているが名前が分らない、何処にいたか一切分からない。これは参謀本部がひた隠しにした証拠である。ということは「改竄」をやらした、一つの証拠にほかならない、というふうに論じられたわけです。
 そこで私は酒匂大尉なるものを捜し求め始めたのです。人からきいて、東京・市ヶ谷の自衛隊の戦史室に行ったのです。行ったことがなかったので、初めはいい気持ちはしなかったのですが、行きましたら皆さんが親切に迎えてくれました。そこで文書を調べてますと身元が分りました。名前が酒匂景信、宮崎県都城出身とだけ書いてありました。早速私は都城に飛んだわけです。博物館や郷土史家の方に熱心に聞いてまわったんです。「確かに酒匂景信という人はいた」「その遺族は?」「さあ」というので捜し捜して、旅費が底をつきかけた時に、神が助けたもうたか、「日向市の方に行ったというのを聞いたことがある」という聞き込みがありました。それで日向市に飛んで行って、日向市のお宅を訪れました。「酒匂景信さんというのはこちらの御関係の方ではないでしょうか」と伺ったら、「そうでございます」と言われ、目の前の仏壇の上に写真がございました。また酒匂の自筆の筆跡も残されていたわけでございます。明治天皇に「酒匂本」を献上した御褒美に下賜された銅花瓶もそこに置かれていた。近所の人にも自慢しているんですね。
 だから“ひた隠しにされ、秘密の人物である”ようにいわれていたのが、そうではなかった。のみならず、自筆が分ったことにより、東京・宮内庁の書陵部にあった「由来記」(好太王碑に行った報告書)が酒匂の自筆であったということが分ったのです。「由来記」に通溝(当時)に行って好太王碑を見た。清朝の拓工が拓本をとっておった。よこせ、と言ったが、清朝の将軍に頼まれているのだ、駄目だ、といわれた。それで「強迫」して手に入れたと自慢気に書いているのです。これが嘘であるというのはナンセンスである、と思いました。そこでこれを東大の史学会で発表したのです。
 要するに、私が日本側でした遺族調査を、何年かして王健群さんが中国側で行ったということです。まさに私は同志といいますか、研究上の知己を得たという思いを深くしたわけでございます。

酒匂本の持つ意味

 石碑の中ではっきりしない字がまだございます。それについてはっきりした字を示された。藤田さんのいわれているように誤りもあるかもしれませんが、重要な業績であることを疑うことはできないわけです。
 さらに王さんの論旨は、私が『史学雑誌』で発表した李さんの本に対する批評の論文を数々の重要点において追認して下さっているわけです。私のいう通りだという形では書かれていないけれど、実際の内容はそうなっているのです。
 例えば、「酒匂本」の第三面の下の所で何十字かがごっそり間違えて上の所にはられているわけです。漢文として全然続いていないわけです。そういう大きなミスが行われているわけです。こういうのを見ますと、参謀本部が酒匂に字を直してこいというのであれば、かなり酒匂が字を知っていないとおかしいわけです。ところがこういうミスをしている。
 それだけならまだいいのです。書陵部に残っている明治天皇に献上した分(「由来記」の冒頭)は、これに三層倍くらい輪をかけた大ミス、勘違いをしているわけです。それを明治天皇に献上しているのです。こんなことは、「改竄」を意図して行った人間のすることではない、と私は論じたわけです。王さんも同じことをいっておられるのです。書陵部の献上本について御存知ない、見ておられないわけですから、ただ「酒匂本」について、こんな配置がえがなされていることからみて「改竄」説は成り立たないといっておられるわけです。
 更にもう一つ印象的なのは、「之」という字。第四面の最終行の最終にあるはずの字ですが、「酒匂本」では最終行の先頭にきているのです。「之」というのは、普通我々の漢文の知識では所有格の「之」か、これという代名詞の「之」なんです。ところがどちらにしても意味が通じないのです。最後に所有格の「之」ということはありませんし、代名詞にすると指すものがどこにもないのです。だから最後に「之」があるとおかしいのです。参謀本部で張り付け作業をする時に、「おかしい」というので、ここのところは一字一紙にとってましたので一番先頭にもっていったんですね。先頭だと何故いいかといいますと、前の行の終りが名詞で、最後の行の最初が名詞なんです。名詞と名詞が連なっている時は、○○の○○となります。「之」という漢字がなくても。そこに入れればいい、意味のほうでこれならなんとかなるというので、最終行の先頭に張り付けたわけです。実際の碑面と違っていたわけです。
 では「之」はなにかというと、置字ですね。例えば「矣」がありまして、文章の最後につけて江戸時代は「い」と読み、今は読みません。文章の勢いをつける、最後にくる字ですね。これと同じようなのが「四書五経」という古い漢文段階で使われている。
 我々が習った江戸時代以降の漢文では、この最終置字はでてこないのです。これが好太王碑文にあるということで、碑文が中国のどの時代の漢文を習って作っておるかということを示す興味深い点なんです。
 明治の学者は漢文は強いはずなんですが、江戸時代の漢文に強くて、この時代までに至っていないのです。このように間違っているというのは、実際に現地に酒匂大尉が行って「改竄」していたら、こういう印象的な字ですから気がつかないことは有りえませんわね、この大ミスをしていることからみても、やはり「改竄」ではありえない、と『史学雑誌』で述べたのです。
 王さんも同じ論拠で同じ結論、「改竄(かいざん)」ではありえない、こういっておられるわけです。

黄龍と履龍

 もう一つあげますと、「黄龍ーー履龍」問題があります。碑文の第一面の下の方第三行目に「黄龍」というのがでてきます。
 ところで水谷拓本というのがあります。最も優秀な拓本であるということに異論のある人がいないと思われる拓本、もちろん水谷さんが拓出されたのではなく、戦争直後、書店かどこかで手に入れられたものです。この水谷拓本では「履」という字にみえるというのです。李さんはこの点でも「酒匂本」を偽物である証拠の一つにされたのです。
 これを私が検討して、ちょっとおかしい。「履」にしても「戸」がちょっとおかしい。それに文章の意味が「履」にしますと、竜の頭を履んでというのになる。いかに王であっても、竜を履んで天に登る王は中国にでてこない。やはりこれは「黄龍」でいいのではないかと論じた一節があったのです。
 これもやはり、王さんが実物は「黄龍」だ。水谷拓本を王さんも高く評価なさっているのですが「黄龍」だと述べておられます。この点も私の『史学雑誌』の論文に賛成して下さっています。賛成と書いてないのですけれど結果的には賛成して下さっているわけです。というようなことで、私にとって王さんの研究は外国に知己をえたりという感じをもちました。もちろんこれは私にとってだけでなく、研究史上画期的な意味をもつことは、だれ一人疑うことはできないであろうと思うわけです。つつしんで王健群さんに深い敬意と感謝を捧げたいと思うわけです。

論争の教訓

 第二番目としまして論争の教訓、李仮説提出法の問題点というものを考えてみたいと思うわけです。
 李さんのは、一つの仮説だと思います。学問において重要な「仮説」だと思うわけですが、しかしその提出の仕方について考えてみると、問題点があったのではないか。
 まず第一に現碑に接せず、重大論点を提起していた。現碑に接しないという点では、李さんも私も同じなんです。しかし日本参謀本部が改竄した。酒匂大尉が犯人だということを言うには、やはり現碑に接した上でいうべきではなかったか。もし接しない段階であるなら、抑えた、もう一つ屈折をもった表現、一つの疑問点があるが、この点現碑を見なければ確かなことはいえない、という表現が必要だったのではないかと思います。考えてみると酒匂さんの御遺族はえらい迷惑です。それまでは、「こんな銅花瓶を貰った」と近所に自慢していたのに、「あなたのところは、改竄した犯人だそうですね」というような、犯人の子供達ということで非常にお気の毒な状況だったわけです。この点、もう少し、慎重さが必要ではなかったかと思います。
 第二番目に、戦前戦後に現碑調査報告書が出されておった。戦前は今西龍さんが現碑に張り付いて朝も晩も研究されたのです。そこに「倭」がでており「渡海波」もちゃんとでておったのです。また戦後も北朝鮮の学者の調査団が調査をこまかくして報告していたのです。それを軽視して「改竄説」をだされたということは、“軽率”といわざるをえないのではないでしようか。
 また次に、以外な問題がございます。それは分布の問題です。もし拓本にズレがありおかしいというのがあったとします。これが東アジア、中国、朝鮮半島、旧満州というところにこういう石碑が点々とあらわれている。しかも同時に、明治なり大正・昭和なりの日本軍の占領した所と結んでみるとほぼ関連性を示しているという分布を示していた場合、これならこの分布なら、どうも明治なり大正・昭和の参謀本部の作戦と一致するのではないか、「意図ある改竄」ではないかといったとしても、この場合は筋の通った仮説だといいうると思うのですよ。
 ところが実際は好太王碑だけなんですよ。そして李さんがされた方法は考古学の方法でございます。相対年代です。土器を何型何型と比べていき、前後関係をつけていく。日本の考古学は世界の中でも“名人芸”の部類に入るのではないかと私は思っているのです。李さんは明治大学でそれを学ばれたのです。それを拓本に適応されたという意味では、意義深いわけです。
 ところで考古学でもう一つ重要なのは分布だと思うのです。一つの器物だけとって何か言えといわれますと、それは困ります。それと同類の器物が、どういう地帯にどういう分布で出てくるかというのをみることによって、その器物を産出した文明なり、その時の意味を考えなければいけない。これが考古学としてイロハのイの字だと思うのです。
 分布が、考古学的判断にとって、重要な要素だという認識をこの好太王碑問題に適用しておられたら、あの「改竄説」は簡単にはだしえなかったのではないだろうか、ということを一つの問題点として提起したいわけでございます。
 もう一つは、「倭冠潰敗」問題です。李説を初めて聞いたり読んだりした人は感じたところだと思うのです。
 碑面にでてくる九つの「倭」は、いずれも全部負けているのです。また負けた、また負けた、それでもこりずにまた負けたと一貫しているわけです。なんと参謀本部は負けるのが好きだったんだろう。せっかく直すのなら勝った勝ったとすればいいし、全部勝ったにしないでも、最後だけでも勝ったにすればいいのに、と、皆様もそう思われたでしょう。そう思っただけでは論文にならないから、論文にされないだけでそう思っておられたと思うのですよ。
 読売のシンポジウムの席でも、李さんは「その問題は誰からも聞かれるのです。しかし私は『渡海破』のところをおかしいと言っているのです。外のところの解釈はしないことにしているのです」というお答だったのです。解釈をされないからといって、疑問は終結していないわけです。
 こういう疑問は、人間の正当な自然な理性に基くものです。学問とかいう以前の疑いです。そして今になってみると、人間の自然な理性の疑いは馬鹿にできなかったということであろうと思うのです。これは後でも申しますが、非常に重要な学問上の教訓でございます。

論争の現状

 最後に日本側史料の軽視問題がございます。先程申しました酒匂報告書です。私が自筆だと指摘し、誰も自筆であるとかないとかの反論はしていないのですが、この報告書の「強迫」問題。こういうものの示す日本側史料の意味を軽視し続けてこられたのではないかというふうに私は感じるわけでございます。
 李さんは「現地で韓国、中国、北朝鮮の学者の共同調査がされるまで、私の説はひっこめません」とこう言っておられるのです。共同調査ができることは、私も心から望むところです。しかし今回のシンポジウムでも示されていましたように、李説を積極的に支持する人はどうもいなくて、積極的に反対する人はいる、という状況になっております。
 現在の実情を正直に率直に言いましたら、「名存実亡」ということではないでしょうか。李さんがひっこめると言われないから「改竄説」の「名」は残っている。しかし「実」はもはやない。王健群さんの本が出た後では特に「実」は見失われてしまったというのが率直な現状ではないかと思うわけでございます。
 しかしながら、私は声を大にして申し上げたいことがあります。「なんだ、李さんはくだらない説を言ったにすぎなかったのか」というふうにいわれる方があれば、私は断乎として反対いたします。「李さんの問題提起の学問的意義は重大であった」と、こうハッキリと申したいと思います。たとえば、あの藤田さんの素晴しい研究に結晶しましたような拓本、双鉤本の研究は、李さんの「改竄説」以前は非常に少なかったわけです。殆んどされていなかったのです。それを李さんが大変な苦労をされて史料を集められ、史料集を吉川弘文館から出された。私を始め多くの学者がそのおかげをこうむっている。王さんもこの史料をもとに論じられているようでございます。
 だから李さんの問題提起の意義は、従来より一層強調し誉めたたえなければいけないのではないだろうか。この点、明治大学も李さんという素晴らしい学者を擁しているということを誇りにされたらいいと思います。また日本の学会も学的功勲を誉めたたえるべきであるというふうに私は思うわけでございます。もし私の考えに御賛成の方がございましたら、どうぞ拍手をもってお答いただきたいと思います(おおきな拍手。どうもありがとうございます。
 それでは続きまして王健群さんの研究の問題点、新たな論争点というところにはいりたいと思います。
 最近でた季刊『邪馬台国』で好太王碑の特集がございました。その中で白崎昭一郎さんという方が「倭が何であるかということは論ずべきでない。碑面の文字を確定することが先である」という御意見を書いておられます。
 しかし、私は少し違うのではないかと思うわけです。碑面の文字を確定するというのは、今回、王さんがされましたように続けられることは望ましいわけです。しかし実際、不分明な字というのは、正に不分明なわけでありまして、それに対して、より詳しい推定はできましても、要は推定にとどまるわけです。石にちゃんと見えている字ほど確定できるわけはないのです。すると全部の字を確定しておいてから、議論を始めるというならいつ始められるか分らない。
 これに対し、同じ号で井上秀雄さんが「金石文の常道として確定した、はっきりした字からまず研究する。こういう常道から研究すべきではないか」といっておられます。私も真にその通りだと思います。
 金石文の場合、欠けたり不分明の字がでるのが通例ですから、確定した字によって議論を展開する。不分明なところは、あくまで推定として申し添えるという姿勢を失うべきでないと思うわけでございます。

王説の問題点

 そういう目で、王さんの解読された碑面をみるといくつかの問題がでてまいります。
 最初に申しあげておきますが、王さんの論定に私が首をひねったところが、その前半にございます。第三面第一行のところです。現在は欠けて見えないのです。そこが栄禧という人の釈文(酒匂より早く現地で兀(き)丹山という人に拓出させた)では「宮兵移師百残 囲其城。百残王惧、復遣使献五尺珊瑚樹二、朱紅宝石筆床一、他倍前、質其子勾拏。」と書いてある。
 王志修という人は現地(集安近辺)の長官で、初拓(初めてとった拓本)を手に入れて、現地へ行って比べて全体が分ったといっておりまして「献五尺珊瑚樹二、朱紅宝石筆床・・・」という詩文を作っております。
 ところが王さんは「この文面は間違いである。勝手に想像して勝手に書き込んでいる」と非難しておられる。これはおかしいと思うのです。現在、この部分は「ない」のです。現在ちゃんとあって、現在見たらこの文面でないというのならいいのです。現在欠けて無い文面を、栄禧や王志修がとっているのですから、多少読み違いをしているかもしれませんが、まるきり「嘘」を書き込む必要など、どこにもないわけです。
 李さんの場合、栄禧を非常に攻撃材料にされまして、栄禧は嘘つきであり、こんな嘘つきの書いたものは信用できない、といっておられます。栄禧は酒匂より前に行っているのですから、「嘘つき」でなかったらそもそも「改竄説」は成り立ちえないので「嘘つき」にされたわけです。
 王さんは「嘘つき」ということについては、もちろん退けていらっしゃるわけです。王志修や栄禧が早い時期に行ったのは正しい、という議論を展開しておられるのです。すると「嘘つき」でない人が、「本当つき」の人が「官兵・・・」と書いているのですから、有りもしないものを勝手に書いたといわれるのは、ちょっと言いすぎではないか。「王志修や栄禧がこう書いているが、本当か嘘かは、現在確認のしようがない」と言うこと、それが学者として、最も厳密に発言すべきところではなかったか。この点を一つの問題点として、もし王さんが来られたらお聞きしたいところでした。
 もう一つ。「守墓人」のところで「韓・穢」がでてまいります。この「穢」を王さんは百済のこととしておられますが、私は『三国志』にでてくる「歳*ではなかろうか、『三国史記』でも「穢」がでてまいります。また隅田八幡の人物画像鏡にもこの「穢」がでてまいります。ですから文字通り「韓・穢」ととるほうがいいのではないか、王さんに質したいと思います。

歳*は、三水編に歳。第4水準ユニコード6FCA

 それから、ハッとしました点があります。私だけでなく佐伯有清さんもおっしゃっていました「安羅人戊兵」問題でございます。末松保和さん等により、「任那日本府の傭兵であろう」といわれている。これが三回碑面にでてくる。これに李さんは改竄ではないかという疑いをもたれたのですが、王さんはこの字は碑面にある。しかし従来の読みが違っている。つまり「羅人の戊兵を安んず」と読む。羅人というのは新羅人で、新羅の兵隊を安定した型でそこへ置いたという意味である。これに私はちょっとビックリしました。
 この点を読売のシンポジウムで武田幸男さんが鋭い批判をだしておられました。「百残は高句麗からみると賊ですから、しばしば残と省略している。ところが新羅を羅と省略した例が他にない。それをここで『羅人』としたのは考えられない」これが第一点です。
 第二点はもっと鋭いのです。「『任那加羅』がでてくる。だから『羅人』だけでは『加羅』の人だか『新羅』の人だか分らない」。これはなかなか鋭い意見でしたね。
 王さんはこれに対して「『三国史記』で『新羅人』を『羅人』と書いた例、『百済人』を『済人』と書いた例があります」というお答えだったのです。武田さんは当然『三国史記』はよく御存知の分野なんですが、「石碑で『加羅』だか『新羅」だか分らない書き方はないでしょう」という意味であったようです。
 これを私の目からみると面白い問題があるのですが、時間がございませんので後で質問があればお答えします。
 四番目は大義名分と用語の問題でございます。「永楽」という年号がでてきますが、王さんは年号ではない、ということを言っておられるのです。中国の年号は連続してでてきます。そういう連続した年号でないことは確かです。しかし全く年号ではなく、単に永楽という名前を使っただけであるといいきれるかどうかです。名前をそういうふうに使い、呼んだというのは普通ではないので、まあ“年号に準ずる用法”であるというぐらいのところではないでしょうか。王さんに反対とかいうまでではないのですがね。
 問題は、年号に準ずるものが「永楽」である。さらに大事なことは、中国ではこの時点で年号があるわけなのに、それを使っていない。中国の年号を知らなかったということはない。南北朝両方年号がある。それを両方使ってないということの意味は重視していかないといけません。
 つまりこの碑文では中国の天子が南北ともにでてこなくて、高句麗の王が天子に準ずる位置で出現するという位相である。これが重大なんです。だから永楽も“年号に準ずる意義”をもって出現するということは、まず押さえておかないといけない、重要な問題だと私は思うわけです。

好太王碑の大義名分

 そういう目でみますと、この文面は高句麗王に対してだけ“天子にむけて使う用語”を使っていると、私は考えるわけです。
 例えば好太王が位につくことを「登祚」と書いています。「登祚」は天子が位につく時使うのが本来の用語なんです。それを使っている。さらに「朝貢」という言葉も天子に対して物を持っていくことを示す言葉です。百済や新羅に物を持っていくことを「朝貢」とは書いてございませんで、もっぱら高句麗むけに「朝貢」が使われています。
 だから中国の天子が姿を現わさず、中国の天子用語を専ら高句麗の王に対して使われている。これが重要な問題だと思うのです。
 読売シンポジウムでは全体の三分の二くらいが「倭・・・渡海波」のところに議論が集中していたわけです。王さんは「倭以辛卯年来」の「以」を「以来」と、西嶋さんが十年前にだしておられた説を知らずに、同じ考えをもたれたらしいのです。ともあれここのところで、いろいろと意見がだされたのです。
 私の立場は簡単明瞭、非常にはっきりしています。ここのところは読めない。何故かというと、字が欠けているからです。「渡海破百残」のあと二字か三字が欠けて読めないわけです。王さんは「羅」の直前を「□新」ではなかろうかと枠つきで書かれています。その上の二字は赤外線をあてても見えないのでしょう。分からない。あの二字が分らずに読める人がいません。ここに動詞が入るか名詞が入るか置字めいたものが入るかで全然違ってくる。だから読めないというのが、一番厳密な答であると私はそう考えているわけです。
 私の本をお読みになった方はよく御存知ですが、例えば江田船山の鉄刀の何とか大王というのをいろいろ読んできました。補充して雄略だとか読んできました。しかし私はそれは駄目だ。読めないものは読めないとすべきだ。読めるのは何とか大王がいたというものとして考えなければいけない。一案として誰々ではないかといっても、欠けている字を自分で補って論証の重要な柱としてはいけない、というのが私の立場です。
 これは何処にいっても同じです。金石文を厳格に扱う場合は皆同じだと思うのです。ここの字は欠けているから読めないというのが一番正確だと思うのです。いろいろ補って、あれこれという想像は結構ですが、あくまで想像です。
 すると何もいえないか。私の考えではそうではありません。「臣民」という言葉があります。「臣民」は「朝貢」と同じように特別な用語です。つまり天子に対する用語です。ただの王に「臣民」とはいわない。『三国史記』で「臣民」という場合、百済本記では百済王に対してだけ「臣民」と使い、高句麗本記でも高句麗王に対してだけ「臣民」と使い、新羅本記でもそうです。当り前です。
 これは高句麗王側の作った石碑ですから、高句麗王に対する所属関係しか「臣民」と表現しないはずである、というのが私の考え方であります。これは一つのイデオロギー論、大義名分論です。これが本当かどうかは字が欠けているから、裏付けはできないということです。
 「渡海破」というのは高句麗王側が「渡海」して百済をやっつけた。丁度、マッカーサーの戦略を逆向けにしたような、朝鮮半島西岸部の「渡海」であると私は考えたわけです。
 ということで、この箇所は分からない。「臣民」については、一義的な方向性があるのではないかということでございます。

古代東アジアの政治地図

 次に王さんの説で“太王ーー主”問題があります。従来「百残王」と読まれておったのは、実は上に点があり「百残」である。高句麗の場合のみ「王」もしくは「太王」、「百残」の場合は「」と表現しているという王さんの新しい見解でございます。石碑を見ないと、何ともいえないのですが、面白いと思いました。
 東京の講演会(十三日)の直前に新しい発見をしまして、自分でもビックリしています。それは北魏の『魏書」を見ますと、夷蛮伝に高句麗伝、百済伝はあるわけです。ところが倭人伝、倭国伝は無いわけです。これに対して『晋書」の夷蛮伝には馬韓伝、秦韓伝、倭人伝があり、高句麗伝がないのです。『魏書」に倭人伝が無いのは前から知っておったのです。『魏書」は同時代史書で、後代史書ではないのです。そういう意味で、『魏書」の研究が今まで少なすぎる気がするのです。
 『魏書』に倭国というものは無いのです。これは一体何だろう。倭国は存在しなかったのか。そんなことはない。倭国は北魏に朝貢しなかったから倭国伝がつくられなかった。“なきものとみる”ということです。
 『晋書』に高句麗伝が無いということは何故だろう。高句麗と晋(東晋)はかなり関係あるのです。もっと徹底的に『晋書』を調べないといえないのですが、一つの考え方として、高句麗は北魏に朝貢する。高句麗は南北朝両方に使いを送るという外交を長寿王がするわけです。好太王の次が長寿王。長寿王は長生きしただけでなく巧妙な外交をするわけです。好太王碑ができたのは長寿王になって二年目(四一二年)です。これは私の想像ですが高句麗は北魏と深く関係をもちましたので『晋書』に高句麗伝はつくられないのではないかという感じをもちました。
 その国があることを知っていても大義名分論から扱わない。厳しいですね。現代の我々もこれに似た状況を地球上にみるわけです。
 高句麗は大義名分上では「ない」相手と戦うわけです。するとどう書くか。「王」とは書けないです。「王」というのは「伝」のある国で「王」がありうるのです。この碑文で驚きましたのは、「王」と「主」がいるのは高句麗と百済。新羅はよくでてきて、忠誠を誓っているのに王がないのです。主もないのです。それに対してでてくるのは「寐錦」という民族称号で二回ばかり(王さんの判読)でてくるのです。
 東アジアの漢文世界で、王にあたるのは「王」もしくは「主」であります。「主」も中国語。だから新羅は、日本でいえば「みこ」や「ひこ」の類のものしか現れていない。
 つまり好太王碑で王のあるところが『魏書』で伝が作られている国だということです。これは偶然の一致ではないのではないか。後にもでてきますが、倭について「王」「主」がでてこないのは、別に彼らは「海賊」だというのではない。大義名分、朝貢で「王」なり「主」なりとして登録されているという存在でないという理解の方が正当なのではないか。一昨日思いついた問題ですので、これから確認、再確認しなくてはいけませんが、これまでのところを提起して、皆様の御意見御見解を待ちたいと思います。
 次の「舊是属民」問題も非常に面白いのですが、時間の関係で省略させていただきます。後に御質問いただければ喜んで申させていただきます。

海賊か国家か

 さて、いよいよ王さんの問題点の最大のもの、「倭=海賊」説について申します。これは王さんがいらっしゃる時に述べて王さんにお聞きいただきたいと思った、一つのポイントでございます。
 まず「其の国境」問題というのがございます。第二面七行目。「王巡下平穣而新羅遣使白王云『倭人満其国境潰破城池以奴客為民歸王請命』」。つまり高句麗王が平穣にやって来た。この時新羅(王がでてきません)が使を遣わして言うに、「倭人が其国境に満ち満ちて城池を破る」。「奴客」というのは謙遜した表現なんでしょう。「倭人が奴客を以って民と為す」。王というのは高句麗王。だから高句麗王に私達は従って、その命に依って動きますから、どうぞ御指図下さい。こういわばSOSを送ってきたという文面でございます。
 ここに「其国境」がございますが、「其」は代名詞で、何か上の名詞を指すわけです。どの名詞を指すかは、大変明瞭簡単でございます。直接法の文章で、上にある名詞といえば一つしかない。「倭人」しかない。これしか指すものがない。だから倭の国境と解釈するしかない。
 漢文や英文で、この代名詞は何を指すかという試験問題がよくでてきますが、ここは試験問題にだしようがないほど、はっきりしています。
 もう一つの問題があります。国境というのは一つの国では国境にならない。二つ国がなければ国境ができない。倭だけでは国境にならない。相手がいる。それもまた、大変明瞭です。新羅がしゃべっている言葉ですから、「困る」といっているのてすから、当然「新羅」と「倭」の国境です。こうとしか読みようのない文章である。
 つまり国境は陸地に関する概念であります。海で隔てているときには、国境とは申しません。でないと日本と中国と国境があることになります。日本とアメリカとだって国境があることになります。こんな国境はありません。陸地に於いて国を接しているのが国境でございます。
 ということは倭は「国」である。しかも朝鮮半島内部に倭国の領土があるということを前提にして書かれた文章でございます。
 これは史料として最強の史料ということができます。好太王碑自身が金石文。同時代史料の中でも一番の、金石文である。その金石文が九州の方に建っている石碑であれば、倭人が勝手に建てたといえるかもしれません。しかしこれは、倭の敵の新羅が主張し、倭の最大の敵の高句麗王に報告しているわけです。だから、朝鮮半島内部に倭国の領土がないのに、有るように嘘をつく必要は全くない。そういう意味で、同時代史料の中でも最強のものであるというふうに、私は考えるわけであります。

『三国志』の証言

 これは別に不思議なことではございません。『三国志」倭人伝を御覧になった方は“当たり前ではないか”。こうおっしゃると思うのです。『「邪馬台国」はなかった』や昨年でました『古代は輝いていた』で論じましたところです。今簡単に申しますと『三国志』の「韓伝」「倭人伝」にはこれは同様の内容がくり返し、しつこいほど書かれている。

1). (韓地)其の賣*盧国、倭と界を接す。〈魏志韓伝〉
 これはどうみても国境を接しているのですね。この「其」は韓地の、弁辰の賣*盧国です。

賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、三水編に賣。JIS第三水準、ユニコード番号7006

2). (韓地)東西、海を以て限りと為し、南倭と接す。〈魏志韓伝〉
 これもはっきりしていますね。東側と西側は海だ。南は海ではない。倭の領地だと中国側が書いているのです。倭が勝手に書いたものではございません。

3). 其の(倭の)北岸、狗邪韓国〈魏志倭人伝〉
 この「其」が倭を指すというのは、よく知られているところです。倭の北岸といういい方は、この狗邪韓国も倭地の一部分ではないか。南側に倭の首都がある。という問題に連なっていくのですよ。

4) . a帯方郡治 ーー女王国(一万二千余里)
  b帯方郡治 ーー狗邪韓国(七千余里)
  c倭地(周旋) ーー(五千余里)
 一万二千余里から七千余里を引いて五千余里という考えにたつのが一番素直だと思うのです。この場合、狗邪韓国が倭地でなければこの計算はできない。対海国を東限としますと、狗邪韓国から対海国の千里を引いて、倭地が四千里となり、合わない。この点からしましても狗邪韓国は倭地である。

 1). 2). 3). 4). いずれも満足させる答は、朝鮮半島内部に倭地がある。それも南岸部に少なからずある。釜山あたりを中心に洛東江あたりにあると考えなければ理解できない文章でございます。
 しかも幸いなことに、考古学的遺物によって裏付けられています。中広矛、広矛、中広戈、広戈が出たのは三世紀、考古学者がいう弥生後期後半でございます。この矛の鋳型は殆んど博多湾岸、戈はいわゆる博多湾岸中心で、東は北九州市、西は佐賀市の方に伸びている。そして実物は北は洛東江ぞいにかなり広く分布し、東は大分から四国の西半分に分布しておる。だから博多湾岸を中心にした鋳型で作られたものが、そういうところに運ばれて分布を作っているというふうに考えざるをえない。
 洛東江ぞいにでてくるのは韓国製である、“鋳型はそのうち出てくる”と書いている韓国側の学者がいますが、これは考古学の立場ではないですね。「物に則する」以上は、鋳型が出てきていうべきです。出てこないのに「これは韓国製にきまっている」「では鋳型は?」「いずれでてきます」。これでは「物」にたつ議論ではないと思います。
 さらに金海式甕棺によっても論じられます。これは釜山、唐津、博多湾岸、北九州市等に分布しています。金海式といいましても金海が原点ということではありません。弥生式土器といいましても、東京の弥生町が原点で日本列島各地に分布したものではないのと同じことです。ということで、これも博多湾岸を中心に、棺がずっと発展していた時の形態でございます。すると同じ甕棺に葬るのですから、同じ部族が釜山にも墓を作っていたといえるということに注意しないといけないと思います。
 さらに逆のぼります。縄文期に腰岳の黒曜石の矢じりが金海近辺からでてきております。「朝鮮半島側が腰岳の黒曜石を輸入していた」と新聞にでたことがありましたが、現在の国境が縄文時代にもあったような書き方です。自然に考えれば腰岳の黒曜石の分布が釜山にも及んでいるということです。案外というか当然というもののようでございます。
 今言いましたことが間違っていなければ、朝鮮半島内に倭地があるということは確定的な事実なんです。日本府問題をいう前に、古代に朝鮮半島内に倭地があった。二十世紀の現代ではないわけです。どの時点かで無くなった。いつの時期か、六世紀か七世紀かという議論はありうるにしましても、初めから無かったというのは黒曜石の分布、鋳型、甕棺の無視、『三国志」の無視をしなくてはできない。
 さらに重要なことは、三世紀『三国志」において朝鮮半島内において存在した倭地が、四世紀「好太王碑」という倭国の敵側の金石文によっても裏付けられている。
 だからこの倭は三世紀からずっと続いている倭であるという命題がでてくる。

「倭」とは何か

 ここで私は、本日の核心をなすテーマについて申しあげたいと思います。
 「好太王碑」を書いた人は『三国志』を読んでいただろう。『三国志』から「好太王碑」までほぼ百年。普及する時間は充分あった。そして「好太王碑」を書いた人達は、中国の漢文の素養、「四書五経」の素養のたかい人達だった。『三国志』に無関心だったとは思えない。「高句麗伝」がでてきます。それに無関心だったとは思えない。「高句麗伝」だけ読み、「倭人伝」は読まなかったという人も、時にはいるかもしれませんが、まあちょっと考えられないです。
 また、この石碑を読んだ人。書いたけれど誰も読めないというのだったら無意味です。庶民は読まないけれど、かなりのインテリは読めたはずです。その人達も『三国志』は読んでいただろう。少くとも「夷蛮伝」ぐらいは知っていただろうと思うわけです。
 さらに『三国志』が三世紀の同時代史料であるということは、東アジアの三世紀の現実を反映しているということです。三世紀の現実は『三国志』にすいとられて蒸発したわけではないのです。百年後にもその現実は続いているはずなのです。
 ということは、「好太王碑」の第一面に初めに「倭」という字がでてきます。「倭以辛卯年」で「倭」の説明はないでしょう。一体何者でしょう、という解説は書いていない。「石碑を読む諸君、知っての通り・・・」。つまり『三国志」に書かれたあの「倭」なんです。我々のお祖父さん、お父さんが言っていた倭、それと同じ倭。だから特別説明はいりませんよ、という形で「倭以辛卯年・・・」。これが、
 もしお祖父さん達の言っていた「倭」、『三国志」の「倭」と違うのですと言いたければ、「倭の別種」とか「東辺の倭」を書けばいいのです。読む方は、“私達の知っている「倭」と違うんだ”と読む。そう書いてなければ、後漢の光武帝から金印を貰った「倭」だな、『漢書』にでてくる、楽浪海中倭人ありの「倭」だな、魏から「親魏倭王」の金印を貰った卑弥呼の「倭」だなと読む。碑文だって読者はいるんですよ。そう読んでもらって結構です、という形で書かれている。
 これは、私の知っている限り明治以来誰も指摘していない。王さんも指摘していない。『三国志』はノー・タッチ、ここに最大の盲点がある。

三一六年の衝撃

 さらに具体的、歴史的に申しますと、「三一六年の衝撃」があります。詳しくは『古代は輝いていたII ーー日本列島の大王たち』(朝日新聞社刊)で述べてありますので、今は簡単に申します。
 陳寿(『三国志」著者)が死んで十九年目、三一六年に大事件がおこった。新興匈奴が洛陽、長安を占領し、一夜にして西晋朝は滅亡したわけです。陳寿の子供あたりは、捕虜になったか殺されたりかしたでしょう。そして西晋朝の一族は建康(今の南京)に逃がれ、東晋を築いた。そして匈奴はいわゆる五湖十六国を築き、南北朝が始まった。
 これは東アジア全体に重大影響を及ぼした大事件です。朝鮮半島に関していえば、中国が前漢の武帝以来にらんできた楽浪、さらに漢末に分郡された帯方の主なき状態、政治的軍事的空白地帯になってしまった。名目上は東晋の直割地・植民地ということなんですけれど、海を越えないといけない、負けて逃げた国ですから実効ある支配力を及ぼすことはもう無理なんです。
 この軍事的政治的空白を埋めるべく浸入してきたのが、北からの高句麗、南からの倭国だったのです。
 時間が少くなりましたので、この点、ポイントを申します。「韓伝」があります。従来これは分りにくいとおもってきましたが、私には面白くてしようがない。「倭人伝」と同じくリアルである。
 「韓伝」に馬韓が五十余国書かれているが「王」がいない。「王」が書かれていない。「王」が絶滅した。絶滅した理由もちゃんと書いてある。辰韓の八国を楽浪が直割領に編入した。それを馬韓の側が怒って楽浪・帯方と戦った。緒戦は強かったが、やがて中国側の援軍がきたんでしょう。盛り返して「二郡・韓を滅す」と書いてある。だから王がいない。
 これに対して、わずか十二国の辰韓に「辰王」はいる。「辰韓はいにしえの辰国なり」とあります。その辰国の王は「辰王」にきまっている。しかしこれは馬韓に隷属する王であると書かれています。
 弁辰はさらに小さい国のようですが、「弁辰また王あり」。具体的に、どのような王かは書いていないが「王あり」です。
 ところが問題の五十余国の馬韓の方は「王なし」状態です。楽浪・帯方の、いわば軍事統治下みたいな状態ではないでしょうか。その時卑弥呼は帯方郡に使いを送った。だから、貢に何倍もの贈答品を貰ってきたのです。韓地をおさえるために、その向うの倭国と楽浪郡・帯方郡が手を結ぶという、中国伝来の遠交近攻の外交じゃないでしょうか。そういう状況の「韓伝」をしっかり理解しないと「倭人伝」も分らないとつくづく感じました。
 つまり、『三国志』の「東夷伝」では北の高句麗は魏と戦って負け続けている反魏政権、これに対し、南の親魏倭王卑弥呼、この二者が、朝鮮半島の勇者だったんですね。そこへ楽浪・帯方の空白。高句麗と倭の激突。
 歴史の文脈は大変はっきりしていると思うのです。するとこの「倭」は、倭国は卑弥呼(ひみか)・一与(いちよ)の後継王朝であるということになるわけです。
 時間がなくなってまいりましたので「開府儀同三司」のことを、簡単に申しましょう。「任那日本府」については、読売シンポジウムでも問題になっておりました。李さんと王さんの共通の論になっていまして、李さんはこれが「本来の私の主旨であります」とさかんにいっておられました。“改竄という問題は副次的なものです”といっておられました。王さんと共同戦線をはれるのは、ここです、という感じなんです。
 私は「任那日本府」に関する王さんの御意見は非常に問題があると思います。「任那日本府」があるなら、石碑にでてこないではないか。なかった証拠だといっておられます。
 考えてみますと「任那日本府」という地名はないのです。地名部分は「任那」。「府」というのは役所、中国語の役所でございます。「日本」というのは国名、元は「倭国」といったのが、後に「日本」といいだしたわけです。例えば『日本書紀」の百済系史料で「日本」と書いてあっても、もともと「倭」とあったのを「日本」と書いた可能性がありますから、「任那府」といったほうがいいかもしれません。
 高句麗が五世紀の初め「開府儀同三司」を称します。倭の五王達はこれを望み、自称しますが、なかなか中国側は認めないわけです。しかし自称しているわけですから、自分の勢力範囲のところに「倭国府」「倭府」を称していたということなのです。
 つまり、朝鮮半島内の倭地、任那であれば、それを「任那府」と呼んでいたはずなんです。はずなんですけれど、中国でさえ承認しないのに、高句麗が認めて石碑に書くなんてことは全くないのです。倭国側としては、筋は通っているのでしょうが、高句麗から見れば、倭国側の勝手な言い分、「自称」なんです。だから、まかり間違ってもこの石碑にでてくるはずはない。でてくるのは「任那」としてしかでてこない。「任那」はちゃんとでてきています。「任那」も「加羅」もでてきている。
 また倭の五王が「開府儀同三司」を自称するのは五世紀終りです。「任那倭府」と倭が“四世紀終りから五世紀初めにかけて”のときに、そのようにいっていたかどうかも、実はあやしいものです。
 ということで、王さんの“「任那日本府」があれば石碑にでてくるはず”という議論は、王さんが時間帯と称号のもつ内容分析、構造分析をしなかったためでないか、とわたしは思うわけです。
 問題は朝鮮半島に倭地があったと認めるならば、倭側が「開府儀同三司」「任那倭府」を称した時期のあったことを否定することはなかなかむつかしい。中国側の認める称号ではなかったということは争いはない。これと混同してはなりません。
 時間がないので、あと少し申しのべさせていただきます。
 次は「不軌」問題です。“「倭不軌侵入帯方界」をみても、倭が財宝をかすめ盗るだけの不将な連中であったことが分る。国家なんてものではない”と、王さんはいっておられます。しかしこれは違うと思います。
 「軌」は軌道の「軌」 ーーレールーー 公的なルール、秩序でございます。これを「倭」が犯した、「帯方界」に侵入した、というのです。
 「侵入帯方界」も面白いのです。この文面に「平穣」が二回もでてきます。楽浪郡の中心は「平穣」で、ここを好太王は本拠地にしているらしいんです。「倭」は「侵入帯方界」、つまりソウルあたりのところに侵入しているのです。これは先程いいました三一六年の衝撃によって空白になった楽浪・帯方を、誰が支配するかという問題がこの時の最大の問題点であることを、同時代史料が奇しくも反映しているわけです。
 それはそうとしまして、簡単なことを申しましょう。もし強盗が貴方の家に入ったとしましょう。貴方は強盗に「法律に違反している」と言いますか。そんなこと言やしません。ところが隣が二階を建て増しした。それが自分の家の庭まで飛び出してきておる。「おかしい、法律違反していますよ」。これは言いますね。
 これは、相手が「法律を守る存在である」という前提にたっているからいえるわけです。強盗等に言ってもはじまらないわけです。
 言い換えますと「倭不軌」というのは、高句麗国と倭国との間には「軌」があるんだということを、高句麗側が主張し認識しているわけです。その「軌」に「倭国」は違反して入った。
 その理屈は書いてありませんが、おそらく楽浪郡は自分が支配する所だから、帯方郡は楽浪郡から分郡した所だから当然自分の支配下に入るということではなかったかと思うのです。
 ルールはちゃんとあるのだ。そのルールを「倭」は破っていると非難している。これをもって、“海賊だから無茶をする”証拠だというふうに読み取られたのは、文章の表面を取られ、内部構造をとらえていらっしゃらないのではないか、私にはそう見えるということです。

中国文献の用例

 次は「倭冠」です。読売シンポジウムでも、「倭冠」とあるから海賊であると思います、と王さんは簡単に答えられたのです。しかし有名な「倭冠」は明代のことで、好太王碑を作った人も読んだ人も一切知りません。だから、これを例にされることは歴史学の方法論として無理でございます。
 これに対して、百年前の『三国志』にこの「冠」がどうでてきているかを申しますと、「正始三年、宮(高句麗王)、冠西安平」。高句麗王が西安平に兵を進めてきたことを「冠」と中国側は表現しています。この場合、「冠」の主体は高句麗でございます。「冠」といわれているから高句麗王と名乗っていても、本当は山賊だろうといったら大変なことですね。まぎれもなく高句麗王であるが、中国側からみて“大義名分に属する土地”を侵すから「冠」というのです。
 この用例にたってみれば、「冠」と書かれていたらむしろ「王の証拠だ」と言うのは言い過ぎかもしれないですが、そういう筋合いのものなのです。「冠」とあるから国家ではない山賊だというのは、石碑以前の用例に従って漢文を読む、という、文章を読むルールを失ったものであると思います。
 次は「和通」問題。「今使譯所通三十国」(魏志倭人伝)。大阪の朝日カルチャーセンターで「倭人伝を徹底して読む」(月一回第三土曜日)という講座をしているのですが、非常に多くの発見をさせてもらっています。「和通」問題もそうです。「通」という字を、『史記』『漢書』『三国志』その他の中から摘出しぬいていったわけです。
 その結果は、非常に簡単でした。道路が開くとか、言葉が通ずるという「通」もございますが、国際問題で「通」がでてきた場合は、Aという国とBという国の間に国交が樹立した時に「通」という表現を使っているわけです。それ以外はございません。漢書の「西域伝」「大宛列伝」等を御覧になれば、「通」はみごとな術語としてたくさんでてまいります。
 ここで百済が国家であるということに、誰も反対しない。山賊だという人はいないです。その国家が倭と「通」といっている。つまり百済が国家であれば、倭も国家であるわけです。
 山賊との間に王が裏取り引きもするでしょう。イギリスのエリザベス女王(一世)が海賊と裏取り引きをした話もあります。どこの国でもあると思います。それは「通」とは表現しないわけです。「通」という外交用語を使うことはない。
 もし、王さんが「王」が海賊に対しても「通」を使う、とお思いなら、中国の文献、好太王碑以前の文献の中で、その用例をお出し下さい。国家が山賊や海賊と取り引きしたことを「通」と表現した用例をお出しください。
 今回の本には出ていませんので、それをお出しになれなければ、海賊説は無理です。
 さらに「残賊」問題があります。百済の「済」は佳い字です。「残」はのこるではございませんで、そこなうという字です。「賊」もそこなうです。「賊仁者謂之賊、賊義者謂之残。 ーー 謂之夫。」『孟子』にでてきます。『孟子』は周代の戦国時代の本ですから、好太王碑よりずっと前です。好太王碑の碑文作者が学んでいるのは周代の文献のようでございます。
 ということですから、「倭賊」とあるから「海賊」といわれるのでしたら、これは間違いでございます。
 高句麗中心の大義名分を承知しないから、「百残」と表記し「倭賊」と表現したのです。「百残」と表記したから、王ではない、山賊だ、といえないと同様、「倭賊」と書いてあるから国家や王ではない、とはいえない。
 どうも好太王碑碑文の作者はどうも『孟子」あたりを読んでいる形跡があるのです。「義」がでてくるのですが、「義」も孟子が好きな言葉ですから『孟子』は確実に読み、素養教養の中に入っているようです。

残された問題

 最後に、最も簡単な問題、出現回数でございます。「倭」という字が今西龍さんの拓本によりますと九つ。王さんのでは十一。これに対して百残が二、残が七。王さんは百残が三、残が七。新羅は四、羅が一(これは臣民の羅だけのところを入れる)。王さんは新羅は六、羅四(先ほどの安羅人戊兵を新羅と考えたのを含める)。すると「倭」が十一。百残が十。残はのこるとかそこなうという動詞である可能性もあるのですが、一応全部「百残」として十。新羅も王さんのいわれる「安羅人戊兵」を「新羅」としまして十です。
 すると「倭」は「百残」や「新羅」と同等もしくは、それ以上の出現回数をもっているわけです。
 「百残」「新羅」は国家であり、山賊という人は誰もいないのですから、それと同じかそれ以上のウェイトで出てくる「倭」だけ海賊であって、しようもない略奪者であるという解釈は、人間の自然の理性からみておかしいとおもうのです。この自然な理性で感じるところが結局正しかったということになるであろう。わたしはそう思います。
 李さんとの論争は十二、三年かかりました。今回の論争が何年かかるか知りませんが、王健群さんは、結局それを認めざるを得なくなるであろうと、私はそう思うわけです。
 もちろん、王さんがそう思われずに頑張っておられましても結構でございまして、末長く論争させていただきたい。幸い、年も同じくらいですのでお互い体を大事にして論争させていただきましょう。こう思うわけでございます。長い間、ありがとうございました(拍手)

質間
 「任那日本府」があったならその痕跡が朝鮮半島に発見されなければならない。李さんは、朝鮮半島に大和朝廷の痕跡はないといっておられます。その辺の関係をいって下さい。

古田
 李さんは慎重でありまして、「大和朝廷の痕跡はどこにもなかった」というかたちで書かれているのです。事実、従来「任那日本府」という場合、大和朝廷の役所という形で教科書その他扱っております。それを裏返すようにして「大和朝廷の痕跡はどこにもない」という表現をしておられるのです。梅原末治さん等が行かれたのは戦前のことですから、“大和朝廷の痕跡を発見されなかった”のは当然でございましょう。まさか菊の紋章がでてくるなんて、誰も思いませんでしょう。
 弥生時代には博多湾岸、私がいいます筑前中域が中心。古墳時代になりましたら、筑後とか肥後が中心になる九州王朝の痕跡がありやなしや、という形で、問題を考えなければいけないわけです。
 弥生時代の痕跡はありすぎるくらいあるわけでございます。先程いいました広矛・広戈。倭地が朝島半島内部にあった証拠は弥生時代には動かしえないわけです。次は、その倭地が三世紀の終りに亡くなったか、滅んだかという問題です。
 弥生時代にあった倭地が、古墳時代に消えたのなら侵略されたということになるのですが、好太王碑の時も倭地があるのです。四世紀末、五世紀初めにも倭地があった。続いていたということです。朝鮮半島の前方後円墳の時期は三世紀末と四世紀、五世紀初めの間に入るのですから、倭地にある前方後円墳ではないかという問題がでてくるわけです。
 私はこの前方後円墳を見ておりませんので詳しくは立ち入りませんが、朝鮮半島内倭地問題を逃げていては、『三国志』倭地問題を逃げていては、この古墳問題を論ずるのは、危険であると思います。
 まだ現地に行っていないのに言うのは冒険なんですが、少し言いましょうか。ソウル近辺に前方後円墳があるというのですが、これはかなり遅い時期の横穴式の前方後円墳だとおっしゃるんです。
 もしそうであるとすれば、そこが「倭人の墓」である可能性はないのか、という問題です。恐いような話ですが、可能性としては考えておかなければいけない。日本列島に渡来人の墓といわれるものがありますね。大和のまん中にもどうみても朝鮮半島の系列と思われるものがあるでしょう。あって当り前。日本列島の中に高麗人の墓であるとか、新羅人の墓だとかがあっても当たり前だと思うのです。
 そうであるなら、朝鮮半島内に倭人の墓があってはいけない、ということはない。もし仮に、好太王の頃帯方から平穣の間で激戦したとします。倭人と百済人が組んで好太王と戦ったのです。当然倭人の将も死にますわね。そこで百済側がこれを厚く葬る、という可能性もあるわけですよ。
 これは一つの仮定です。断言などは絶対しませんよ。ただこういう一つの可能性もいれて朝鮮半島内の前方後円墳問題を考なければいけないと思います。
 「それはタブーだ」「そんなことをいったら韓国ではえらいことになりますよ」というふうなことをいったら、学問は進歩しない。
 繰り返して言いますが、私は断定はしません。ただ「可能性」として、こういう問題を入れなければいけませんよ、柔軟な思考でいきましょう。かたくなな思考は一時は続くけれど、どんな国家も権力も永続させることは不可能です。これが私の立場でございます。
 なお、装飾古墳と同じ壁画が洛東江のかなり上流の岩壁のところから出てまいります。『ここに古代王朝ありき」に出ております。
 これを朝鮮側ではかなり早い時期においていますが、日本の装飾古墳からみると、かならずしも早い時期ではなくて、前半の終り前後ぐらいの感じなんです。これはやはり九州を中心とする装飾古墳の分布全体図の一環として理解するのが自然なんです。
 ですからこれを大和朝廷のこととすると、どうしても無理なんですよ。筑紫の肥後のことという目で見ると、あるのです。“海のこっちと向う”が全くつながりがない方がおかしいのです。
 もう一つ重大なことを申します。百済や新羅の王冠には、勾玉が満ち満ちております。この勾玉の原産地、一番旧い発生地は日本列島ではないでしょうか。日本列島では縄文期に勾玉がでてきます。これも考えたら当り前のことです。日本の三種の神器の内、鏡と剣の二つは大陸側が原産です。真似して国産を作った。よその国のものをもってきて宝器にしている。
 百済や新羅王が自分の国産品だけを愛用して冠を作る義務はないわけです。他の宝物を冠に付けても不思議はないわけです。日本列島の中に朝鮮文化は大変多くあるんだけれど、逆はないんだ。「朝鮮半島に日本文化はありませんよ」と書いた人はいますけれど、「貴方は本当にそう思っているのですか」と申したいわけです。
 繰り返していえば、中国側の学者が楽浪帯方が朝鮮半島にあったからといって、朝鮮半島に対する領土野心やいやらしい根性で言っているのでないこと、それは当然ですね。
 同じ事です。もし我々が古代において、朝鮮半島内に倭地があったと言いましても、あくまでも王さんもいわれる「実事求是」です。事実問題であります。現代の領土問題や民族間の問題とは全く関係がない。むしろ歴史を本当に知ることによって、両者が全く対等であり、正視さるべき存在であるということを知ることが、歴史学の最終目標であると私は思っております。簡単でございますが以上です。

質問
 レジメの碑文内実の問題について、説明して下さい。

古田
「五尺珊瑚樹、朱紅宝石筆床」は、全くなじみのない問題だと思います。『古代は輝いていたII』で扱っておりますので、それで御覧下さい。非常に面白い問題です。つまり百済が南海に同盟国ないしは付庸国をもっていたのではないかという、面白い問題につらなってきます。「韓穢」問題は、百済と考えるより、文字通り「韓」と「穢」と考える方がいいと思います。
 「安羅人戊兵」問題は、先ほど省略しましたので一言述べます。『日本書紀』に百済系三史料というのがあり、そこに「安羅」がでてくるわけです。
 ところが、『三国史記』では「阿羅」と書いている。
 王さんは『日本書紀』は神話ばかり多い本だといって、『三国史記』を非常に信用なさる。信用できない『日本書紀』と一致するということは議論にならないといういい方をしているのです。
 この点、時間の関係で面白いテーマを簡単に申させていただきます。『日本書紀』の中の百済系三史料が馬鹿にできない証拠です。
 百済の武寧王の石碑がでてまいりました。そこに「斯麻」というのがでてくる。『三国史記』では「斯摩」と書いてある。ところが『日本書紀』の百済系三史料では「斯麻」なんです。
 つまり武寧王碑というのは金石文、同時代史料なんですから一番強いのです。御本人のです。そこに「斯麻」と書かれていたのです。その表記に一致しているのは、『日本書紀』の百済系三史料であって、『三国史記』ではない。『三国史記』が間違いとはいいませんが、一致しているのが百済系三史料です。ですからこの史料は馬鹿にできない。大変な価値です。韓国や北朝鮮の学者は、『日本書紀』の百済系三史料を“馬鹿に”というか、“偽文書”という形で扱うのですが、そうはいえない。
 イデオロギー的には、朝鮮半島側蔑視の傾向がありますので、それは我々がどんなに警戒してかかってもいいのです。これが本来の姿であるとはいえない。『日本書紀』に限らず、特に地の文章で、ひどいのです。
 しかし、「元」史料自身はかなり信憑性の高い史料ではないかと思うわけです。『三国史記』というのは、かなり後、日本でいえば平安・鎌倉の時期に成立した本でございます。それに比べ『日本書紀』は成立時も早く、そこに引用された史料は表記も信憑性のたかいものではないか、という問題があるわけです。
 そうしますと、百済系三史料で従来「安羅」といわれてきたのと、好太王碑とが一致する。『日本書紀』は神話ばかりで信用できない史料だなどと一言でかたずけられない問題だ。やはり「安羅」というのが古い表記であった可能性もありうるわけです。
 ただこれも私にいわせますれば、「安羅人戊兵」か“羅人の戊兵を安んず”かは、それぞれ解釈であり安定した解釈ではない。
 ここで力を入れて議論をしても、実りはないだろう。しかし、『日本書紀』百済系三史料を信用できないという風潮はおかしいです。武寧王碑を御覧下さい。これを基盤に比べて下さい、ということでございます。「臣民」問題については、先程申しましたように、欠字があるから読めない。ただし「臣民」というのは、大義名分性からみると高句麗を原点として使われているとみるべきではないだろうか、というのが私の考え方でございます。
 最後は「舊是属民」問題です。これは重大な面自い問題ですが、時間がないので要点だけ話させていただきましょう。
 第一面に「百残新羅舊是属民」がでてきます。王さんはこれを、嘘である、高句麗が歴史事実でないことをオーバーに書いているのだというふうに扱っておられる。「臣民」も同じで、倭が百済新羅を臣民としたとされたうえで、「こう書いてあるんだが嘘である。誇張して書いてある」というふうに解釈しておられる。
 しかし、金石文なんかに誇張だ嘘だという概念をもちこむことは非常に危険だというのが私の意見です。私の『「邪馬台国」はなかった』以後の本をお読み下さっている皆様にはよくお分りだと思います。
 「舊是属民」というのは、高句麗の目からみたらリアルな表現である、と私は考えるのです。もちろん、古い高句麗の時代に朝鮮半島の南辺までの「大高句麗国」があったということは有り得ない。どの文献をみても、考古学出土物からみても有り得ない。それなら何か。『三国史記』をみますと、高句麗王の第二夫人が第一王子にいじめられて二人の王子を連れて南下した。のちの百済の地に逃げてきて、兄と弟に別れて統治したが、兄の統治の仕方が悪くて弟がこれを合併して、今の百済国になってきた、というのが書いてある。
 これが何を意味するかというと、高句麗からみると百済は自国の分家だ、分流だ、属国だというふうにみなすわけです。百済の方からいえば、分家や属国とはいわんでしょうけれどね。百済は夫余の出と主張し、「余何々」と中国風一字名称を名乗ります。高句麗も夫余の出です。だから事実関係は争っていないわけです。大義名分の目からみると違うわけです。高句麗からみると、“百済は本来私の属民、属国である”といっているわけです。
 次に『三国志』をみますと、秦の始皇帝の時逃れてやってきた人々を、馬韓王がこれを哀れんで東岸部をさいてそこに住まわせた。そのリーダーは辰王を名乗った。馬韓人を彼の政治顧問につけておいたと書いてあります。
 つまり被保護国なんですね。辰韓国は馬韓国の被保護国であったという状況なんですね。結局、辰韓は馬韓の属国になるわけです。ということは高句麗の目からみると、辰韓は自分の属国たる百済の被保護国、属国になるわけです。つまり、我が高句麗の属民である。実際の政治関係がどうとかこうとか以前に、そういう筋道である、という大義名分の論理をいっているわけです。
 お互いに貢を交換する。百済の方は対等のつもりで持って行きましても、高句麗の方は「朝貢してきている」という立場で受けとるわけです。新羅に対してもそうなんです。「舊是属民」は以上のような関係を示していると、私は理解する。私の理解を百済や新羅が承認するかしないかは別にしまして、高句麗からは筋の通ったことをいっているのです。別に大風呂敷やありもしないことをいっているのではない、と私は思います。
 これは考えてみれば、重大な問題です。百済や新羅には「属民」といっているにもかかわらず、「倭」には属民といっていない。倭は百済や新羅と同じか、それ以上の敵、碑面では最大の敵でしょう。にもかかわらず“属民であるのにけしからん”といっていない。ということは属民ではない、別種の民である、別種の国であるということです。
 江上波夫さんが、四世紀の後半、あるいは末から五世紀の初め頃騎馬民族が日本列島に侵入した。要するに騎馬民族の系列だというわけです。百済の属民の分流ということですから、高句麗の属属属民ということです。その連中がやってきたというなら石碑に特筆大書します。ところが書かれていない。
 騎馬民族の最強と自称していた高句麗が、四世紀終りから五世紀初めという好太王碑のできる直前の、“日本列島への騎馬民族の侵入”を知らないはずはない。『古事記』『日本書紀」に騎馬民族が海を渡って来たとでていないじゃないかという、これも人間の理性の自然な疑問だったわけです。ところが津田左右吉の説によれば『記』『紀』は「造作」で「嘘」だからということで、江上さんはこの難を退けえたんです。しかし、今度は同時代史料で金石文です。騎馬民族の御本家で建てた第一史料です。それに騎馬民族として倭国を登録してくれとらんわけです。この問題を避けてとおるわけにはいかないのじゃないかということです。
 戦後、江上説が果たしてこられた重要な華々しい啓蒙的な業績は、どんなに尊敬しても尊敬し足りないと思うわけです。その御恩返しの意味でこの問題を提起させていただきたい。こう思うわけです(拍手)。

〔編集部注〕本講演は一九八五年一月十五日、大阪よみうり文化センターで行われたもの。テーマは「中国の好太王碑研究の意義と問題点王健群氏に問う」であり、講師は古田武彦氏と藤田友治氏であった。文責=市民の古代研究会事務局(テープおこし・三木カヨ子担当)



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