『海の古代史』(海の実験場ー序に代えて 原書房)へ
古田武彦
古田でございます。お休みのところをおいでいただきまして恐縮に存じます。わたしは先程ご紹介にありましたように、昨日、博多(九州 ー北九州・博多ー の講演会)から帰ってきたばかりです。博多では今日の午後一時から、テレビ西日本で「古代、九州人は太平洋を渡った」(一九八一年度芸術祭参加番組)という、一時間二十分番組を放映中でございます。
この番組のスタッフの方々が非常に熱心で、力作ができるだろうと思っていましたら、予想にたがわず、飽きるまもない試写室の一時間二十分でございました。
この中に、わたしがバルディビアの海岸を歩くところが出てきます。このシーンは、テレビでは十五秒なんですが、一日かかって撮っているんです。沖合に船を出しまして、「海岸を歩いてくれ」「もう一回歩いてくれ」と言われて、繰り返し何べんも歩くのです。まさに、黒沢監督にしぽられる俳優もかくや、と思ったくらいしごかれました。最後はこちらも、「エイ!面倒だ」と、一キロでも二キロでもと、ずんずん歩きつづけました。そんな苦労をして撮ったのが、わずか十五秒のシーンです。
だから、テレビに出なかった内容は沢山あります。一時問二十分はあまりに短かすぎる。もっと見てほしい題材が、あり余るほど撮ってあるわけですね。 普通はテレビに出た部分の方が、出なかった部分より価値が高い、というように思われましょうが、見方を変えますとそうでもないんですね。歴史学という意味で、論証という意味で重要だけれど、古代史に知識をもっていない一般家庭で見てもらうには、そこまで立ち入ったらかえって分かりにくいのでテレビに出なかった題材も多いのです。
今日ここに来ておられる皆様は、テレビに出せなかった、そこが知りたいということがあると思いますので、少し補足させていただきます。
まず環境です。行ってみて素晴らしい環境であるということが分ったのです。エクアドルのバルディビア(「エクアドル」は“赤道”という意味)は暑いだろう、と覚悟していたんです。ただし、首都のキトは高い山地にありますので、涼しいだろうと思って行ったんです。
たしかに、キトは信州の上高地より快適、という感じでしたが。しばらく居ると、われわれ日本人には具合悪いんですよ。「走ってはいけません」「急ぐ時にする小走り、あれはいけませんよ」「水を飲んではいけません」と言われたんです。でもやっばりちょっと急ぐでしょう。すると胸がドキドキするわけですよ。空気が乾燥しているから、いつも喉がカラカラみたいな感じでしたね。
キトは白で統一され、美しいスペイン風の装飾のある建物がズラリと並んでいて、町全体が芸術品のようで素晴らしいのですが、われわれ日本人には落ち着きが悪いのですよ。
だからキトの日本領事館の書記官の方は、「休みになるとグアヤキル(日本でいえば大阪にあたる商都。海岸にある)まで、空気を吸いに行く」とおっしゃるのです。たしかにグアヤキルは低地で海岸部だから、湿度も高いのですよ。でも温度は高いのにと、ちょっとよく分らなかったのです。
ところが、グアヤキルに行って分ったのは、湿度も温度も高いのですが涼しいのです。日本で、温度が高くて涼しいというと意味不明ですが、現地の沖合を南極方面からフンボルト海流という、地球上屈指の寒流が北上してくるわけですよ。この大寒流の上を通ってくる風が、吹いてくるわけです。だから天然クーラーで、なかなか涼しいのです。しかも、湿気があるんです。「空気を吸いに来る」と言うのがよく分りました。
熱帯の町だが、グアヤキルは日本人にピッタリの風土なんですね。これは行ってみるまで、気がつきませんでした。
またここは、魚の宝庫なのですよ。マグロも日本の鰯やジャコみたいに漁れるわけですよ。漁民の中には、マグロを主食にしている人達もいるという話でした。刺身はないけれど、いろんな魚を細切れにして酢で食べる料理がありました。これは抜群に、われわれ日本人に合いましたね。
なぜ、そんなに魚が漁(と)れるかというと、北の方から黒潮が北太平洋海流になって、さらにサンフランシスコ沖から南下して、エクアドル沖合でフンボルト大寒流とぶつかるわけです。この暖流も地球上屈指の大暖流ですね。大寒流と大暖流がぶつかるわけですから、そこは地球上屈指の魚の宝庫になるわけです。だから、やたら魚が漁れるわけですよ。
さて、グアヤキル市外にスタッフの方々が、ちょっと市外を撮ってきますと出て行かれたのですが、郊外まで行かないうちに、「ここがいい。ここで撮ろう」と撮っていたら、レンガの後ろの方から、変な、ものすごい顔をした、巨大なトカゲが顔をだして、自分達の前にスタスタくるのですって。ビックリしたけれど、さすがプロで、そこを撮ったらしいのですが、トカゲ(イグアナか)は全然無害、何もしないわけですよ。市外まで行かないのに、そんなのがウロウロしているようなところだそうです。このフィルムも一時間二十分に入りきらないので、カットされたんですけれどね。
それに、このエクアドルの沖合に、有名なガラパゴス島があるわけです。ご面相のおかしなトカゲ、海トカゲ・陸トカゲがおります。草食ですから大変おとなしくて、傍によってなでても何もしないわけです。
こんな太古さながらの形で、たぜ今まで生きてきたかですね。ダーウィンはここで進化論を思いついた、というんですがね。ここから先は空想で、生物学者が聞いたら笑うかもしれませんが、わたしなりの素人解釈しますと、進化していろいろ能力を変える、その一番大きな理由は食糧だろう、と思うのです。今までの能力では食糧をとれない、生命が維持できないというので、はねをはやしたり、海にもぐったりしたのだろう、とこう考えました。
すると、あそこは大暖流と大寒流の交点です。支流暖流と支流寒流がぶつかったところだったら、ある時期は魚がよく漁れるが、何年かすると全然漁れず、どこかへ漁場が消えてしまうことがある。北海道の沖合でも、すごく漁の豊富な時期があったのに、漁れなくなって町がさびれてしまった、そういう例がありますね。これは、支流と支流のぶつかっていたところだからだ、と思いますね。
しかしエクアドルの沖合は地球上屈指の大寒流・大暖流のぶつかりあいですから、漁場が消えてしまうなんてことはないわけですよ。つまり、太古から魚に恵まれた状態が続いてきたのではたいか。だから、能力を別に変えなくても、太古さながらの姿で、彼らグロテスクな動物たちは生き続けてこられたのではないか。またイグアナのような草食動物も、生態系に変化がなかったから、生きつづけられたのではないかと思ったわけです。これは、わたしの妄想かも知れませんが、そんなことまで思ったりしました。この“魚の宝庫である”というのが一つ。
もう一つ。博物館に行きましたら、黒曜石の矢じりがやたら並んでいるんですよ。「小学生、夏休み用の陳列」とかで、並んでいるんです。「これはどこの黒曜石か」と聞いたら、「こんなの、裏山に沢山出ますよ」と言われるんです。つまり、裏山は黒曜石の宝庫なんです。
日本列島で黒曜石の出るところは、そう数はありません。九州で腰岳、姫島、本土で出雲の隠岐島、和田峠、北海道はかなり出ますけれど、産地は特定されているのです。ところがここでは、前が魚の宝庫で、後ろが黒曜石の宝庫でしょう。だったらやっばり、ここは古代人にとって「楽園」というべき場所だったんだ、ということを、百聞は一見にしかずで実感いたしました。
もう一つ、向うに行ってよかった、と思ったことがあります。サンフランシスコ、ロサンゼルスあたりが、『三国志』になぜ書いていなかったか、ということです。「裸国」「黒歯国」は、舟で東南に一年(二倍年暦)、どうしても南米西海岸くらいになるんです。だけど、そこに行く前に、サンフランシスコや、ロサンゼルスに上陸してもいいではないか。そこを「○○国」「○○国」となぜ書いてないのだろうという、不審があったわけです。
こんな不審は、行ってみたらすぐ解けたんです。ロサンゼルスで一日、日通航空の現地駐在員の方にご案内いただいたんです。その時、「今日はいい天気ですね」と言ったら、「ここは一年中晴れですよ。雨が降るのは一月(ひとつき)しかありません」と言われるわけです。「それでは、水はどうしますか」「コロラド渓谷から大きな管をひいて、水を運んできて、それでこの辺の都市は生活しているんです。農業にも使っているんですよ」。
そういえば、そんな話を読んだ記憶もあるんですが、もう一つピンときていなかったんですね。結局、あの辺の都市は近代の人工都市なんですよ。近代工業の技術力をバックにしてこそ、多くの人が住めるのですね。古代では、一年のうち一月しか雨が降らないところでは、生きていけないわけです。だから、「○○国」なんて、文明ができるはずないんです。
中国の史書は、「陸地があったら書く」というのではなくて「文明の中心があったら書く」という書法です。これははっきりしています。だから、サンフランシスコやロサンゼルスあたりに文明中心ができるはずないんだ、ということが分りました。
日本で、机の上で考えていたのでは、なかなか分らないんですが、現地を踏むとたちどころに、「了解」という感じでございました。
テレビに出なかった一番大事な点は、現地のバルディビアには、バルディビア式遺跡が沢山分布していることです。
はじめ弥生町から出てきたので弥生遺跡というように、バルディビアで最初にみつかったから、バルディビア遺跡と呼ばれているんです。それが現地にいっばい分布している。
だから、日本の縄文土器とそっくりといわれる、あの土器は現地の土を使っていて、焼き方の温度なども日本とは違うということがはっきり分りました。それと、現地にその土器があったかというと、沢山あるんですよ。散乱しているんです。
現地の人達はお人形(土偶)を掘って、観光客に売りつけに来るわけです。骨董品というより、子供の玩具用に売りにくるわけですよ。そのために、遺跡を掘り返している。そのさい土器なんて用はないというので、その辺に散乱しているわけです。驚きました。わたしもエバンズ夫人と拾ったのです。今日ご覧いただくのはその時のものです。
持って帰るについては、次のように考えました。
一、遺跡を荒さない。
二、持って帰った物を私有化しない。(私有化しないということは、日本の博物館に寄贈するということです)
三、代わって日本の博物館から、日本の物(出土物・産物等)を寄贈する。それができない時は、持って帰った物全部を返す。
を三原則にしました。日本からの寄贈は、縄文土器の破片等を、と考えていたら、現地の方は「江戸時代の歌舞伎のお人形でも、たいへん結構ですよ」と言われたんです。そうでしょうね、日本の物はなんにもないわけですから。何時代のものでもいいから、こちらから送って交換にする。それができない場合、博物館が貰うのはいいが日本の物は送りたくないと言うたら、持って帰った物全部を返却する、という原則をたてたんです。
それで、大統領府で許可状を貰って、日本に持って帰ったわけです。
現地でも、このように土器を見たのですが、一番有難かったのは、グアヤキルにある太平洋銀行博物館です。現地には四大銀行がありまして、それぞれ立派な博物館を持っているんです。お互いに競争しているんです。
その太平洋銀行博物館というのは見事でした。地域別・時代別に系統だてて、ビシッと見事に陳列してあるんです。あれだけ見事に系統だてて陳列してある博物館は、日本では残念ながら見たことがございません。素晴らしいものでした。倉庫にも行ったのですが、おびただしい出土物でした。そういう豊富な物を背景にして、非常に客観的に系列づけて立派に陳列しているという、博物館の模範のようなものを見られて幸いでした。
それを見て、やっばりと思いました。それは、『倭人も太平洋を渡った』でエバンズ夫妻がいっている、日本の縄文土器とバルディビアの土器が似ているといいましても、日本の縄文中期前後の時期と似ているのです。つまり、前期後半から後期前半くらい、この間の時期のと似ている。それ以前に似た土器は現地にはないのです。
日本の縄文中期の土器なんて、われわれが見たら簡単に作れると思うけれど、それまでに何千年という技術の伝統があるわけです。何千年という技術の累積の上にたって、縄文中期が成立しているんですよ。それを、現代のわれわれの目からみて、あんな素朴なものとバカにしがちですが、とんでもないことですね。
ところが、現地には、いきなり縄文中期前後が出てくる。それ以前がないのですよ。
「現地の人は日本人より頭が良くて、いきなり何千年の経験なしで作られた」なんていう説明を、誰かがかりにしたとしても、誰も信じませんね。
「人間のすることですから、偶然似たんですよ」というのは、一番ありやすい説明なんですよ。しかし、これも駄目なんですよ。博物館の系統だった陳列を見ますと、日本の縄文中期前後によく似ていて、影響が疑えないんです。
ここで一言、念のために言っておきますと、博物館はどういう「説」でもないんです。しかしエクアドル側では、「あまり日本人の影響云々」を、言ってもらっては困るという感じもあるのです。ナショナリズムがありまして、自分達の一番古い土器が日本人の影響をうけている、というのは何か気分悪いわけですね。そうでなくても、最近日本の自動車があふれていますので。国民の気持もそうだし、学界の方もそういうのがむしろ大勢なんです。だから博物館の陳列は、“日本渡来説に有利にしてある”というのでは全くなく、客観的に冷静に並べてありました。
さて、縄文土器は中期のあと、後期後半から晩期にかけて見事なものができますね。わたしの知り合いの、清水焼の名人に近い方が、「縄文晩期の土器には、おそれいります。形の似たのはできますが、われわれにはとても、あの土器がかもしだす芸術性は、ちょっとやそっとでできるものではありません」とおっしゃったのですが、恐らく、そうだろうと、私も思います。
ところが、現地にはそういう土器はないのです。全然別の見事なものが出てくるんです。のちのインカ等の系列につながるものが、ドッと出てくるんです。これは、きっと“征服と被征服”というようた問題があったのでしょうね。
だから一つは、前と後がなくて、真ん中だけ似たのが出てくる、という問題を、ここで確認できたことです。
もう一つは、日本列島内のどこの地域の縄文であるか、ということです。日本の縄文というと、東日本の方が数が多く盛んです。ところが現地の縄文土器は、東日本のとは、それほど似ていない。若干、部分的に似ている個所は指摘できますけれど、“部分”的に似ていても駄目ですね。“複合”して似ていないと、証明にならない。しかし、西日本の九州の中でも有明海沿岸の土器とよく似ている。九州東岸や南岸とは、“部分”的には似ているが、“複合”して似ているとか、そっくりとか、いうのではないのです。これがまた、不思議なんですね。
だから、空間的にも、限定された地域と似ているんです。これも、「人問のすることだから、似ることもあります」では、とても納得できないですね。
そこで、やはり何らかの交流が実在したという、エバンズさんの説は、なるほど、そう考えざるをえないなあと思いました。
実態を知らずに、現地も現物も見ないで、日本で「あんなのは、偶然の一致ですよ」と、考古学者が言っているのを聞きました。そういう机の上の議論が、多すぎるようです。
次にこれから申し上げることは(テレビでも言いますが)、大事なことなので、一言いわせていただきます。
わたしは、日本の縄文の文明と現地の文明とは、異質の文明であるという大前提が、大事であると思うのです。その端的な証拠を申しますと、先程の人形ですね。観光客相手に売っているほど沢山でてくる人形が、日本の縄文にはないわけです。もちろん、日本の土偶もありますが、しかし、スタイル、様式が違うのです。だから日本にないのです。
ところが、この人形は、現地の文明にとって大変重要なシンボル的なものだったと思うのです。恐らく、宗教的な意味を帯びていたのでしょう。けっして、子供の玩具用に作ったものではないでしょう。
そういうシンボルをなすものが、日本の(九州の)縄文(中期)にないのですから、両者は基本的に、本質的に別の文明である、ということを認めざるを得なくなります。
先程まではエバンズ説の追認だったのですが、この最後の点になると現地に行って、はっきりそうであると確認せざるを得なかったのです。エバンズ説には、“日本人が現地に渡って、あの文明そのものを作った”というムードがつきまとっていますが、それではどうも具合悪いのです。本質的に別の文明である。
ところが、そこへ有明海人でしょうか、縄文人が一年や二年ではなく、かなり長期間、千五百年か、そこいらの長期にわたる影響を与えた。これはカルチャー・ショックですね。現地はそれを受け入れた。カルチャー・ショックと受容の問題であるのです。
日本人が現地で、日本の植民地みたいなものを作って、当地に日本文明みたいなものを開いたという発想では具合悪いのではないか、とこう思っているのです。
カルチャー・ショックによって、「ミックス縄文」というような文明が現地に成立した。だから縄文と共通の要素と、明らかに違う要素があるのです。あまりに似ていて、偶然とは言えない要素と、明らかに違っている要素とがある。この両要素を、共に説明し得る仮説でなければこの問題の真の解答にはならない、という確信を得ました。
現地に一週間余りいて、この短い間に大変恵まれて、こういう認識を得られたわけでございます。この問題もいろいろ申しあげたいことが他にもございますけれど、時間の関係で本日の問題に入ります。
三月の終りから四月の初めにかけまして、中国にまいりました。朝日トラベル「中国古代史の旅」の講師として、上海から南京・西安・洛陽・北京に行き、最後の北京で「古代史の旅」の皆さんと別行動させていただいて、国家文物局にまいったわけでございます。そこで謝さんと、郭さんと会見したわけでございます。謝辰生という方は学術研究室の責任者で、郭勞為さんは外業部の責任者の方であります。このお二人とお会いしたわけでございます。
この会見でわたしの方は、「夏に長春から集安に行って、好太王碑を見たいと思っている」ということを申して、「東方史学会」という名前の願い入れ書を出しました。「東方史学会」というのは、簡単にいえば、“好太王碑を見に行く会”というわけですが、観光というのでは、向う(中国)が受け入れにくいんではないかというんで、学会という形にしてあるんです。事実、物見遊山で行くんではなく、古代史の学問的な興味と関心で行くわけですから、一般の「観光」ではないということで、「束方史学会」という名前で申し込み書を作っていたんです。
わたしはその申し込み書を窓口に渡しに行ったつもりなんです。夏にいきなり地方の長春に行くよりも、中央へ「好太王碑の見学を希望しております」ということを通知しておいた方がよいと、京都の日中友好協会の水上七雄さんからご忠告を受けましたので、なるほどと思って願い入れ書を「窓口」に出しに行ったわけです。
ところがこれは“日本的イメージ”らしかったですね。前の晩、洛陽の時、通訳の方に「国家文物局に行きたい」と言ったら、電話で連絡して下さったんです。通訳の方と二人でタクシーで、国家文物局に行ったら、故宮の奥の立派な接見室に通されまして、そこで中国の要人二人が、わたしよりずーっと年配の方ですが、通訳をつれて堂々と現われ、こちらも通訳をつれ、まさに「会見」という雰囲気になってきたんです。
そこでこちらの希望を述べますと、「好太王碑は開放されておりません」というご返答だったわけです。それでわたしはちょっとガッカリした顔をしていたんでしょうね。郭さんは戦前の早稲田大学出身だそうで、日本語の大変上手な方で、その郭さんが「この好太王碑には拓本がありますよ」とおっしゃいますので、わたしは「いや拓本では具合悪いんです。というのは、好太王碑の現物が改竄(かいざん)されているのを知らずに、あるいはわざとというか、それを拓本にとったものだという学者の意見がありますので、その点を確認したいと思って現地に行きたいわけです」と言いましたら、郭さんは「一部の人がそういうことを言っているのは、よく知っています。しかし」 ーーここで声を大きくされまして、「しかしその人は実際の石碑を見たことのない人です。実際の石碑を見れば、拓本と違いはありません」ということを、わたしの表現を入れますと、“義憤を感じて”いるような言い方で、声を大にして言われたんです。義憤云々は、わたしの主観的な受けとり方ですが、声を大きくして今までと違ったトーンで言われたことは、はっきり覚えております。
わたしは、こんなことまで出てくるなんて、予想しておりませんでしたので驚いたんです。が、これは大事なことなんだなと思って、持っていた原稿箋に、「従来の拓本にほぼ誤りはない」と書いて、・・・郭さんの言葉にはほぼという言葉はなかったんですよ、しかしわれわれの方では部分的な字のズレというのが知られていますから、より正確にと思って「従来の拓本でほぼ誤りはない」と書いて、これでいいんですね、と郭さんに見せたわけです。郭さんは早稲田大学出身ですから、日本語は読めるわけで、これをみて「その通りです」とおっしゃって、帰りがけに、国家文物局・謝辰生・郭勞為と署名して下さったわけです。この署名は「国家文物局・謝辰生・郭勞為」まで全部郭さんの字でございます。
謝・郭両氏の「確認」の署名(控)
(高句麗好太王碑)古田武彦
従来の拓本でほぼあやまりはない。
一九八一、四月一日 故宮にて会見
謝辰生 ー
国家文物局 | 郭氏の署名
郭勞為 ー
これは面白いことに、この時通訳についてこられた胡春女、優秀な通訳さんだったんですが、仕事がなかったんです。わたしと郭さんが日本語で話すから。郭さんはわたしより日本語がうまい。うまいというのは戦前の日本語だからくずれていない、格調高い日本語を使っておられました。
胡さんは、手持ち無沙汰に座っておられたんですが、帰りがけに胡さんが自分の手帳を出して、サインを求めると、今度は謝さんがサインされた。後でタクシーの中で見せてもらったら、謝さんが国家文物局の二人(自分と郭さん)の名前を書いておられましたね。こういうのは日本ではあまりしませんね。他人(ひと)の署名をするってことは。ところが中国では、それが普通みたいで、私に対しては郭さんが両方、通訳の人には謝さんが両方という面白い形になっておりました。
なおついでながら申しますと、兵庫県の西宮で「中国文物展」があったとき、文物局の方、若い方でしたが、その時にわたしが名刺を出したら、向うも名刺をくれまして、三人の名前の印刷してある名刺でした。こういうことも日本ではあまりないですね。われわれの名刺より大きくて三人分の名前が書いてあるんです。中国の人は公用でなければ、名刺なんて使わないわけなんですね。日本に来るので、日本人が名刺好きなのを知って、作ったのかも知れませんね。
こんな話は余分なことですが、郭さんは実に快く署名して下さったわけです。
郭さんが「そのとおりです」と言った後で、「日本にも拓本はありますよ」とこうおっしゃったわけです。その時ニヤッとして言われたから、わたしはこの人は戦前、日本の学校を出た人じゃないかたと思ったんです。後で聞くとはたして、早稲田出身の人だったんです。だから戦前の時から東京あたりで、日本にある拓本を見ておられたんではないでしょうか。そして「従来の拓本にはほぼあやまりはない」と強調されたのです。
これが四月初めの経験でございました。だから「好太王碑」は開放はしていない。その理由は辺境である、国境であるということを言われまして、開放しないというご返事だったわけです。
さてその後、八月下旬、藤田友治(「囲む会」及び東方史学会事務局長)さんと一緒に中国に参ったわけでございます。先程申しました水上七雄さんに、「中国も地方の時代を迎えて、地方のことはなるべく地方に権限をゆだねて決定させるという方針をとっているようですから、好太王碑開放といった問題は、現地(吉林省)の仕事になっていると思います。吉林省の省都が長春ですので、長春の文物局に行けば話がはっきり分るかも知れませんよ」という忠告をいただきましてね。そして京都から日中友好訪中団が中国に行くという話を聞きましたので、じゃあ加えて下さいとお願いして、四月に中央の北京に話をしておいて、八月下旬、現地、長春に行ったわけです。
長春に行ったのはいいのですが、吉林省文物局の方に会えないんです。通訳の人が“(局に)誰もいないので、会えない”と言われるのです。こちらは願い入れ書を出してあるから、(その件では)会いたくない口実かと、失礼にも思ったりしたんですが、そうではなくて本当にいなかったらしいんですね。あちこちの文物のあるところに散って、仕事をしている。吉林省といっても広いですからね。
しかも後で分ったんですが、一番沢山の人が行っていたのが集安。好太王碑のところに行っていたんですね。だから「お会いできません」と、何回も断わられたんです。わたしたちが何回もねばると、「夜なら時問のあく方が、幹部で一人いる。夜は役所が休みだからホテル(南湖賓館)に来てくれるそうです」という話になったんです。
約束の時間にホテルに霍世雄さんがおみえになったんです。そこで一時間ばかりお話ししたんです。そこでおっしゃったことの第一項目は、「好太王碑は必ず開放します」。第二項目は「開放の期日は再来年に予定しております。しかしできれば来年にしたいと思っています」。この言い方に特徴があったんですね。普通なら来年か再来年というところを、今のようにいわれた。おそらく再来年の予定で準備作業をやっていると、案外うまく早く進行しているらしいんですね。だからこれなら来年開放できそうだという感触をもっておられるようでした。
第三項目は、「もし何かのことがあって来年・再来年開放できない場合においても、必ず開放します」。第四項目には、「開放する際には、東方史学会(この名前で申し込んでいましたので)を初め、世界の友好人士に広く開放いたします。例外なく原則によって開放いたします」。
そして第五項目に、「期日が決まったら長春の国際旅行社を通じて、各方面に連絡させていただきます」ということだったんです。
これをわたしの方が書いてくれと言ったんですが、(中国のほうには)書く習慣がないといって、(書いてもらうのが)駄目だったんですが、霍さんが帰られた後、通訳さんにねばったんですよ。最後には喧嘩みたいにまでやったんですよ。艾(あい 通訳)さんが「これだけはっきり言うのに信用できないんですか。この話は今度が初めてではないんです。今年四月の終りから五月にかけて、昔、開拓団だった日本の方々が来られて、その時も『好太王碑を見たい』と言われた」。その時の通訳も艾さんで、「その時も文物局に問い合せて聞きました。そしたら今の霍さんと同じ返事でした。だから間違いありません。だから信用して下さい」。こう言うんですね。
しかし、「こっちは、日本では書いたものがないと信用されないんだ」と言いますと、艾さんは、「中国に来ているんですから、中国の習慣に従って下さい」という論理でくるんですよ。「いやこっちは、それは分るけれど、われわれは明日かあさって日本に帰るんだ。日本の習慣の中で生活するのだ。(日本では)こう聞いたと言うだけでは信用されないんだ」「あなたが署名しないのは、後で責任をとるのが恐いんでしょう」とか、お互い突っ込んだ話をしたんです。毎日したんですよ。
好太王碑開放に関する「確認」の署名(控)
一、集安の好太王碑については、必ず「開放」する。
二、その「開放」の時期は来年(一九八二)か翌々年(一九八三)とするように努力している。
三、そのさいは東方史学会をふくむ日本(及び世界)の友好人士の来訪を歓迎する
四、その「開放」に先立ち、その期日を長春国際旅行社を通じて各方面に連絡することとする
一九八一、八月二十五日
通訳 艾生地
一九八一年八月廿六日
八月二十四日、夜20:00-21:05吉林省文物局の霍世雄氏の明言による。(南湖賓館にて)
そうこうするうちに互いに気持が通じてきたんでしょうね。普通の「通訳対旅行者」の関係ではなくなってきなんですね。最後の日に五項目のうち第三項目は第一項目の繰り返しと思って省いて、四項目にして書いて、「これに間違いはないか。」と言って、「明日早く飛行機で帰るが、ここに中国語でこの内容に間違いがないと書いてもらえないか。署名はなくていいから」と言いますと、意外にもさらさらと署名をしてくれました。
一見これは“単なる署名”と見えるかも知れませんが、それまでの何日間かを考えますと、艾さんの態度にはきわだってさわやかなものがありました。後で藤田さんとわたしとの三人で固くかたく握手いたしました。
長春からの帰りがけに、また北京に寄りました。そこで郭勞為さんにお会いして、長春でのいきさつをお話ししました。「この点ご存じですか」と聞きますと、郭さんは「知っています。聞いております」と言われたんです。
そこで藤田さんが鋭い念を押して下さったわけです。「(好太王碑開放という)こういう問題はどこで決めて、どういうふうにするのですか」と聞かれますと、郭さんは「吉林省の文物局が決めることです。そしてその期日が決まったら、北京のわれわれのところ(国家文物局)に文書による通知があります。それに対してこちらから何か意見があれば、それを言い、(開放が)駄目だというのもあるかも知れませんし、開放する場合に、この点、あの点に注意してくれという等、こちらの言い分があれば書いて返す。そこで最終的な成立、という形にしております」と、おっしゃったわけです。
わたしが「将来(開放の)期日が決まって、(吉林省文物局からの)正式の文書がきたときには、ぜひOKの返事を返すようにして下さい」と言いますと、(郭さんは)「分りました。上司にそのように伝えておきます」ということで、八月終りの二回目の会見が終ったわけです。
その後(九月二十八日)、共同通信電で「(開放は)嘘だ。前に開放すると言ったけれど、北京の中国政府は開放しない方針である」というのが流れ、地方紙や一部の中央紙でご覧になって、心配なさった方もあると思いますが、これをわたしの方からみると当然であります。わたしたちのことを書いた朝日新聞の記事には吉林省の話と書いてあったんですが、(吉林省の)後で北京に行ってこうだったというのは書いていませんでしたし、(文物局の)権限の話も書いてなかったのですから、その経過を知らずに、共同通信の記者の方が北京に行って郭勞為さんに会ったのですね。そして「日本で『中国政府が好太王碑を公開する』というニュースが流れたが本当ですか。期日はいつですか」と聞かれたわけです。すると(郭さんは)「公開しないという方針は変っておりません」。そういう返答だったんですね。
これは誰が行っても、北京の国家文物局に聞けば、中国は原則を守る国であり、国家文物局としては当然現在は公開しない方針でいるんですから、その返答しか返ってこないんです。(郭さんが)貴任者として、「実はひそかに公開の話を聞いていますよ」とか、「八月に日本から来た人にもこんな話を聞いています」などと言うはずがないんです。ということで、当然くるべき回答がきただけですから、わたしとしては何ら心配をしていないわけでございます。
現状をまとめてみますと、長春の吉林省文物局は本腰かけて(開放の)準備にかかっている。第一は研究。研究というのは、従来の植民地中国の時代は素晴らしい素材を現地が提供して、外国の学者が発表するというタイプでした。シルク・ロードもかつてはそうでしたね。あれはもうイヤだ、中国の故蹟は中国の研究者が研究するんだ、これを原則とするんだ、という誇りある態度でいるんですね。だから好太王碑についてもそれをまずやりたい。
第二は整備で、これは(好太王碑に)たくさんの人が来る場合に、石碑が傷ついたりしないよう、保護施設を充分作るということがあるでしょう。ここから先はわたしの想像ですが、ホテルが集安にいるでしょうね。中国は点だけが開放されていて、面は開放されていないわけです。吉林省では長春と吉林の二つの町しか開放されていない。あとは全部未開放です。点が開放される場合は必ずそこにホテルを作っている。友誼(ゆうぎ)商店を作り、お金を交換する場所を作る準備がいるわけです。当然、集安にもそれらがなければ開放できないわけです。そういう類のものも含めた準備を、現地で一所懸命やっている。もちろんホテルを準備するのを、文物局が直接するわけじゃないでしょうけど、そういうのがすべて整った後に、開放ということになるわけでございます。
しかしその時になって、政治状況が緊張してきたとか、あるいは中央の方で(開放は)絶対駄目だという話が出てきたとか、その他どのようなことが起るか分りませんが、(今)吉林省では一所懸命開放に努力している。一方、中央の北京は従来通りの(公開していない)姿勢で、吉林省の今後の出方を見守っている、というのが現状でございます。
さて、長春に行きました時に非常に大きな収穫がございました。長春の博物館に好太王碑の写真があると聞いておりましたが、これは間違いで拓本がございました。その拓本は立派なものでしたが、現在問題になっている改竄説には役立たないものでした。四面を四枚にとった拓本で第三面が展示してありました。(係の人に)聞いてみますと、初めは当然のことながら第一面が展示されてあったんですが、四人組の時に持ち去られた。なんであんな物を持ち去ったか分りませんが、第一面がなくなった。今、三・四面とあるんだが、第三面を展示していると言っていました。
わたしは中国で初めて拓本を見るんだから、写真に撮らして下さいと言って、藤田さんと撮っていたんです。するとその時、学芸研究部の代表者みたいな方が出て来られて、“変な”ことを言われたわけです。「あなたの国に水谷拓本ってのがありますよ。そのほうが(ここのより)いいですよ」というわけです。わたしは「あれ!水谷拓本の名前が出てきた」と思って、「水谷さんにはお会いしましたし、水谷拓本の現物も見ました」と言ったんです。
なんでこんなことを言うんだろうと思っていると、「朝鮮の方が出した本があるでしょう。そこに水谷拓本が出ていますよ」と言われるから、「李進煕(り じんひ)さんの本に、水谷拓本が出ていることは知っていますし、その現物も水谷さんのお宅で見ました」と答えました。そして何をこの人は言っているんだろうと思っていますと、「こちらの方においで下さい」と言われたので、応接室に行ったわけです。
わたしは“(この人は)大分内情を知っているな”という気がしましたので、こちらの考えをストレートにぶっつけようと思って話し始めたんです。「さきの(陳列室で見せていただいた)拓本を見てガッカリしました。あの拓本では、われわれが来た目的の役には全く立ちません」と。すると通訳の艾さんがビックリしまして、“失礼なことを言うなあ、こんなのを訳していいのかなあ”というふうで、すぐ訳してくれなかったんです。(わたしが)「かまいません。その通り訳して下さい」というと、やっと艾さんがその通り訳したんです。するとその方が「あっ」という顔をして、態度が変ったんですね。
拓本は、子供が石に紙をあてて鉛筆なんかでザーとしますね、あれが拓本の正直な原理なんです。だからどんな字が出てこようと、字が出てこまいとかまわないんで、石に紙をあてその通りとった拓本が、一番正直な拓本です。水谷拓本というのはそういうやり方でとった拓本なんです。もちろん水谷悌二郎(ていじろう)さんがとったのではなく、中国側でそういうふうにしてとった拓本を買われたわけです。敗戦直後に買って持っておられるものなんです。それに比べると今(陳列室)の拓本は、黒白をはっきりさせて字を浮きださせているわけです。“これは字だ”“こういう字だ”と判断しながらとっているわけです。その判断が合っていればいいが、合ってないと間違う、という性質のものです。だから「書」として見れば格好はついているけれど、学問研究の上からは(この種の拓本には)問題があるわけです。
だから向うは、“日本に水谷拓本という立派なものがあるじゃないか”と言いたかったわけです。
私達が写真を撮っているのが“嬉しそう”に見えたんでしょうか。“(研究の)役には立たないのに”と思ったんでしょうね。そこでわたしが“日本で水谷拓本を見ている。ここの拓本は研究の役に立たない”と言ったので、“それなら話が分る。じゃあ話をしましょう”という態度になってきたんです。
この方は武国勛(ぶこくしゅん)という方で、「私は北京の図書館に行って李進煕さんの本を読みました。ところが李さんの本に出ている水谷拓本などの資料は立派なものですが、李さんの改竄(かいざん)説そのものは、全く成立の余地はありません」と明言されたわけです。(武さんの言われるのには)「一昨年、好太王碑のところに行って詳細に調べました。すると李さんが問題にされた『渡海破』は石の字です。石灰の字ではありません。また、(『倭』という字は好太王碑には九つあるわけですが)これらの『倭』の字も全部石の字です」。
武さんは研究者であると同時に、学芸部の責任者でしょう。研究者であると同時に、管理者側なんです。(中国の)博物館は文物局に所属しているんですから。だから文物局の職員でもあるわけです。
好太王碑は文物局が管理しているんですから、だから管理者側の人なんですね。だから現地に行く便はわれわれとは比較にならないんですね。
九つの「倭」について、ちょっと注釈がいるので申させていただきますと、岩波の『思想』(第五七五号、一九七二年)に初めて、李さんの論文が出ました時に、わたしは非常に不思議だったわけです。
“「渡海破」がおかしい”と、さかんに書いておられるんですが、九つの「倭」のうちの六つぐらいには、ノータッチ、全然論じておられないんです。すると「倭」という字があり、それが石であるとすると、「倭」と「高句麗」が戦っているんですから、「倭」は海を渡りますよね。当り前のことです。それをわざわざ参謀本部が、「海を渡った」という字を石灰で入れさせる必然性はないですよね。“「倭」が戦っているのに海を渡っていない”なんて、意味が不明ですよね。
そうすると、“「渡海破」がおかしい”というだけでは、話が終らないんじゃないか。話の始まりかもしれないが、終りじゃない。この著者(李さん)は本当は何を言いたいんだろうと、疑問を感じました。そこで李さんに手紙でお会いしたいと書いて送りましたら、「おいで下さい」と言われて、多摩の李さんのご近所の喫茶店でお会いしたわけです。
その時に、こちらはしつこくお聞きしたら、一度目は話をおそらしになって、二度目もそうでした。一時間半くらい話をして、このまま(疑問を聞かずに)帰っては来た意味がない、と思って、ゆっくりと間合いをのばして聞いたわけです。そしたら、やっとお答え下さったわけです。結局“その答は九つの「倭」は九つとも「残」であろう”と。「百済」のことは「百残」と書いています。われわれは好太王碑の中で「高句麗」と「新羅」「百残」の百済と「倭」とが四つ巴で、戦っていると理解してきたわけです。ところが(李さんは)“「倭」は一切姿を現わしていないんだ。「高句麗」「新羅」「百残」の三つ巴であって、「倭」は一切なし”というお考えであったわけです。
(わたしには)これならよくわかるんです。日本側の学者が『日本書紀』、『古事記』を出発点にするように、朝鮮半島側の学者は『三国史記』、『三国遺事』を、出発点にするわけですね。『三国史記』の「好太王」の項には、「倭」と戦ったというのは一切出てこないんです。「百済」「新羅」は出てきますけれど、「倭」は一切出てこないんです。
だから李さんの発想の原点は、“『三国史記』をもとにして「好太王碑」をみると、『三国史記』にない「倭」がえらい出てくる。おかしいぞ。これはどうしたわけだ。「渡海破」は拓本によって、だいぶずれている。ハハーン、誰か改竄をやったな”というところが研究の出発点だったようですね。だから(改竄説の)本丸は「倭」なんですよ。九つの倭なんですよ。それが全部石灰の字だと証明された時に、李さんの研究は「完成」するんですね。
ところが李さんは腎明であって、(九つの倭の「改竄」には)一切触れておられない。「渡海破」は大坂城を攻めるうえでの、外堀の作業なんです。李さんが書いておられる本や論文はみんな、“外堀用”のものなのです。“本丸”は一切書いておられないわけです。しかし諭理的には「九つの倭」までいかないと、話のつじつまが合わない。
わたしが李さんに会いに行く前に思っていたのは、“「倭」の本来の字を「燕」くらいに言われるかなあ、『三国史記』の「好太王」の項には、「百済」「新羅」以外に、「燕」と戦ったことがたくさん出てきて、これが大抵(好太王が)負けているから。しかし「燕」は北京の方で、「百済」「新羅」と方角も方向も違うし、文脈は合わないけれど、「倭」と「燕」は字数が合うから”といったことでしたが、(李さんは)「残」だとおっしゃるんです。
私は論争にいったのではないので、論文執筆者の執筆の意図といいますか、論文内容を理解したいために行ったんですから、「有難うございました」といって帰ったんです。しかし帰りがけの汽車の中で思ったのは、ちょっと「残」は無理じゃないかなあ、確かに『三国史記』は「百済」を「済」と略することはあるんです。ただしその場合は、「済王」とか「済軍」とか「済兵」とか熟語になっている場合に使うんですね。それをただ一字だけで“「済」が”とか“「済」を”とかの一字だけで「主語」「目的語」にしているケースをちょっと知らないんですね。(家に)帰って『三国史記』を調べてみると、やっばり普通はなかったんですね。
第一、なによりも「好太王碑」自身に、その用法がない。「百残」や「新羅」が出てきます。「残王」なんてのも出てきます。けれど一字で「主語」「目的語」にしている文例は、全く出現していない。だからその点からいっても、(「倭」を「残」にするのは)無理じゃないかなと思いながら帰ったわけでございます。
しかしこれについては検証の方法はあるわけです。「渡海破」はいろいろとだいぶいじられているから、現在、はたして満足に残っているかどうか分らないが、現在も「好太王碑」があるんですから、それを見て九つの「倭」という字が石灰であれば、「李説」は正しい。ところがここが石の字であれば「李説」は駄目、となるわけです。「渡海破」のところは日本人が好きで、しょっちゅうとったんでしょうね。梅原末治さんもあそこだけとった拓本を持っておられますからね。だから「渡海破」が磨滅しておりましても、ほかの部分(九つの「倭」)は残っているだろうと思ったんです。
武国員力*氏の「確認」の署名(控)
中国語なので表示は図のみ。
武さんも同じ理路をたどられたらしくて、私が九つの「倭」はどうでしたかと言ったら、「その点も調べてみましたら、全部石の字です。石灰の字じゃありません。『渡海破』も石の字でした。だから李さんの『改竄』説に関しては、全く成立の余地はありません」と言われたんです。これはやはり貴重な証言であろうと思うわけです。わたし自身は好太王碑の現地に行けなかったけれど、わたし以上に中国の文字に詳しい、特に中国の古い文字の専門家のようでしたが、そういう方で、遠い北京まで行って図書館で李さんの本を見てくるという努力をはらって、そういう問題意識をもっている方が、実際に好太王碑をご覧になって「石の字だ」と言われる重みは非常に深い、と、わたしは思っているわけでございます。
そこでわたしは、来年か再来年、直接現地に行って、直接石碑を見れば分るが、改竄説自体については、見なくてもほぼ解決はついた、と言っていいだろうと思うんです。そういう意味でも、好太王碑研究は、一つの画期点をむかえた、と言っても誤りないであろうと、思うわけでございます。
次に“「好太王碑」は事実である。史料として信憑できる”ということになりますと、ここに新しい問題が、この史料から出てくるわけでございます。従来、わたしも含めて、「改竄」かどうかというところに頭がいって、“好太王碑が間違いない”となった場合、史料としての生かし方、検討というのが、随分おざなりになっていたなあと、わたし自身思うんですよ。
今のわたしからみると、好太王碑は、“石”の石碑じゃなくて、全部“宝玉”でできた碑じゃないだろうかと思うくらい、日本の古代史を解く、重要な鍵が沢山秘められていると、思えてきたわけでございます。この点を今から申し上げてみたいと思います。
第一は、「其の国境」問題でございます。永楽九年の項に、
「新羅遣レ使白レ王云、『倭人満二其国境一潰二破城池一以一奴客一為レ民・・・』(倭人、其の国境に満ち、城池を潰破し、奴客を以て民と為し・・・)
があります。問題は「其国境」の「其」はいったい何を指すか、ということでございます。これは当然ながら、「倭人」というのが主語にありますから、「倭人の国境」つまり、「倭の国境」というふうに、考えざるを得ない。これはもう、はっきりしたことだと思います。この新羅の使者の言葉が「倭人」から始まっているんですから、これ以外に、「其」をうける内容はございません。
「国境」は、片方だけ国があって「国境」というわけにはいきません。両側から国がなければ、「国境」とはいえません。つまり片方は倭であるが、もう片方はどの国であるか。これも明瞭でございます。これは「新羅」側が言っている言葉です。倭人が国境に満ちて、困っていると言っているんですから、当然ながら、これは「倭」と「新羅」との「国境」でございます。それ以外の解釈は、ありえないわけです。つまり、“朝鮮半島内部で、「倭」と「新羅」とは「国境」をもって相接している”ということが「新羅」の使者の直接法の形で、高句麗側の金石文という、第一史料の中で、証言されているわけでございます。
これは大変なことですよ。これと同じ状況が、『三国志』に現われております。わたしの『「邪馬台国」はなかった』に、書いておきましたので、お読みになった方は、ご存じでしょうが、「韓は帯方の南に在り。東西、海を以て限りと為し、南、倭と接す」。つまり東西は海だ。南は海じゃない「倭」だっていうわけです。南岸部に「倭国」が北九州からのびている。北九州から朝鮮半島南岸にまたがっている海峡国家といいますか、そういう前提で、書かれているわけです。
「弁辰、辰韓と雑居す。・・・其(弁辰)の賣*盧(とくろ)国、倭と界を接す」と、はっきり書いております。海の向うにあるという場合は、「界を接す」とは申しません。たとえば、九州と揚子江河口のあたりの中国と、“国境をもって、接している”なんて言いませんね。だから“海の向うにいる”というのではなくて、「国境」という概念は、“陸地において両側に国がある”とき、「国境」と申すわけでございます。
賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、さんずい編に賣。JIS第三水準、ユニコード番号7006
「郡より倭に至るに、……其(倭)の北岸、狗邪韓国に到る」の、「其」は「倭」をさす、ということは、よく言われていることでございます。だから、倭の北岸である朝鮮半島の南岸部を、倭の北岸である、と言っているのであります。そこで“狗邪韓国は倭の一部である”という有名なテーマが出てくるわけです。
郡→狗邪韓国 七千余里
倭地、周旋 五千余里
郡→女王国 万二千余里
当然、七プラス五は十二であるわけです。狗邪韓国を倭地と考えませんと、この計算が合わないわけですね。“対海国から、倭地”と考えたら、狗邪韓国と対海国の間の千里が、倭地に入りませんから、四千里になってしまって、五千里にはならない。この計算上からも、「狗邪韓国は倭地である」という、同じ答が出てまいります。
さらに対海国とあるのは中国側表記であって、日本側では対馬(下県郡の方でしょう)。そして一大国は中国側表記、壱岐が日本側でしょうね。だから狗邪韓国は、中国側表記。日本側の表記が出ていたいんですが、これは「任那」かもしれませんね。好太王碑に「任那」という言葉が出てまいります。この任那は、“酒匂(さこう)中尉が入れたんだ、改竄だ”って話があったんですが、“改竄ではない”ということになれば、第一史料に、任那という言葉が存在する。四世紀末のことを、五世紀初めに書いた第一史料に存在するわけですね。だから三世紀においても、日本側地名が、「任那」だった可能性が非常に高いわけですね。
とにかく、この“狗邪韓国は、倭地である”という重大な命題が、『三国志』の文献の理解から出てくるわけです。そして文献理解だけではなくて、これは考古学上の資料からもいえるわけでございます。
今年(一九八一年)五月に韓国にまいりまして、目をひいたことの一つは、釜山、あの辺を河口としているのが洛東江という、かなり大きな河です。洛東江の流域は、かなり広い領域にたっしています。上流も北に、韓国内部に奥深く入っております。この洛東江流域各地に、中広矛・中広父・広矛の部類が、頻々と出てきているわけです。(韓国の)博物館で何回もお目にかかったですね。それの鋳型が博多湾岸に出てくる。矛については一〇〇パーセソトが博多湾岸。戈については博多湾岸を中心に、東西にいくらか分布している。その鋳型で作られたものと、全く同じ形をしているわけです。いってみれば、大分県で出てくるものと、洛東江ぞいに出てくるものと、そっくりの“人相”をしているわけでございます。
ということは、博多湾岸の鋳型で作られたものを、片方は大分県、片方は洛東江に持って行って、それぞれ埋めたということになる、というのが当然の理解なわけです。
しかし、韓国側の学者で、“これらは韓国製である。鋳型は将来出てくるであろう”と、書いておられる方がありますが、この考えは、学問として具合が悪いだろうと思います。将来出てくるだろうということに期待して、「韓国製だろう」という言い方は、“物に即した”学問の方法ではない、というふうに思います。
二十世紀、現代の国境問題と、これをごっちゃにしますと話がおかしくなります。これはあくまで、過去の事実です。古代史の過去の事実です。現代の国境と一致しないのは、世界のどこの歴史をみても、きまりきったことですからね。それを、混線して“感情移入”すると学問でなくなってくる、と思うわけでございます。
文献からいっても、実物からいっても、“朝鮮半島南部は、倭地である。博多湾岸を中心とする「倭国」の倭地である”ということがいえるわけでございます。
そして、これと同じことが、四世紀の終り、五世紀の初めの、この好太王碑に書かれている。しかもこれは、倭国にとって敵側の新羅が証言し、高句麗が裏づけているんです。資料として、これだけ厳密にできているのはないですよ。もし倭国のほうで作った資料だったら、たとえ同時代資料だったとしても、倭国側が“勝手に自分の手前味噌をいっている”と、みられないこともないんですね。しかし“敵側が証言している”んですから、これを疑うのはちょっと無理なことではないのでしょうか。
これは同時に、考古学、物の方からも、裏づけられます。それは、洛東江の上流地域(慶尚北道の高霊岩)に、岸壁画がございまして、その岸壁に、われわれにはおなじみの装飾古墳の壁画のデザインが出てまいります。たとえば、太陽の二重丸みたいなものとか、靭(ゆき)という、矢筒みたいな、砦(とりで)みたいなものを、一面に描いた岸壁がございます。洛束江のかなり上流でございます。
これを、韓国側の解説では、日本でいえば弥生時代ぐらいにあたる、古いもの(青銅器時代)であるとしています。その理由は、岸壁の下に、その頃の土器があったからだということらしいです。しかし、これはわたしの目からみますと、理由としては具合悪いんじゃないか。土器は、その時代の人がそこに住んでいれば、出るわけであります。土器自身に、同じような画があれば別ですが、その時代に人間がいなかったわけじゃないんですから、土器があって当り前なんです。土器と岸壁画が、結びつく必然性はないわけです。
これは、東アジア全体をみまわしてみて、同類の画と比べなければならない。日本側の装飾古墳は、歴史的な、各段階の発展をもっております。一番古いのは、八代から天草あたりの海峡、あの辺から非常に素朴なものが出てまいります。それが、だんだん複雑に発展してまいります。複雑に発展してゆく、その歴史的な展開に比べますと、先程の朝鮮半島側のものは、かなり、すでに発展した段階に入っているわけです。けっして最初の段階じゃないんです。“韓国人は頭がいいから、発達した段階のものをいきなり作れるんだ”というような説明は、できるものではない。もちろん誰も、こんなことを言っているんじゃないですが、ありえないと思います。
やはりこれは“九州の装飾古墳壁画の一端”として、理解するのがいいのではないか。現代の国家感情を交えず、「過去の事実」としてみると、こう考えざるをえないわけです。これがわたしの理解です。手前味噌のようですが、これが自然な理解と思われるのです。それを好太王碑が裏づけているんです。(好太王碑と装飾古墳と、「古噴時代」という意味では、近い時代ですね。)その古墳時代の中程の「好太王碑」が、“朝鮮半島の洛東江ぞいに倭地がある、倭国がある”ということを、「敵側の証言」として、証言していたわけでございます。
このことは、非常に深い意味をもっておりまして、弥生時代、卑弥呼の時は、広戈・広矛の鋳型をもつ博多湾岸の倭国、それと、古填時代、高句麗の好太王と激戦を交えていた倭国とが、「同一の倭国」である。つまり“九州の倭国である。装飾古墳の倭国である”という問題でございます。
これは李進煕さんがいつも言っておられ、日本のいわゆる「定説」派の学者がいつも知らん顔している、有名なテーマがあります。“「大和朝廷が朝鮮半島に出兵した。好太王碑もこれを裏づけている」ということを、日本の教科書に書いてあるけれども、朝鮮半島に大和朝廷の遺物はあらわれていないではないか”。李さんは何回も、こう書いておられます。本や論文を出される毎に出てきます。わたしはこれはいくら強調されても、いいことだと思います。いくら李さんが書かれても、日本の「定説」派の学者は知らん顔してますね。“朝鮮半島に大和朝廷の遺物が出ていない”。そのとおりなんですよ。
しかし、この場合も、李さんは慎重な方だと思うのは、いつも「大和朝廷」と書いておられて、“「倭国」の、あるいは「日本列島側」の、痕跡はない”などとは、わたしの読んだ範囲では一回も書いておられない。日本語を慎重に、厳密にお使いになる方ですね。あの方は考古学者ですから、洛東江ぞいの岸壁の画が、九州の装飾古墳系の壁画とそっくりだなんて、当然分るんですよ。それに、(中)広矛・(中)広戈の類が出てくるのも、よくご存じですよ。しかし、(中)広矛・広戈は、大和朝廷の近畿の遺跡には出てきませんし、出てくる中広戈は大阪湾型で、違うタイプですからね。こんなことは百もご承知ですから、“「倭国」”のとか“「日本列島側」の”とは書かずに、“「大和朝廷」の”と、書いておられるわけです。これは、大変正確ですね。
ということで、以上のような考古学上の事実と、私の理解とは一致しているわけです。端的にいえば、「九州王朝」というテーマに立つ場合は、「好太王碑の証言」をまともに受けとれるわけです。
ところが、三世紀は「近畿」説、「九州」説いろいろあるけれど、四世紀からあとは近畿天皇家が統一しましたという、日本の「定説」派の依拠している歴史像からは、「其国境」問題を、受けとめることは不可能であります。
次は「五尺の珊瑚樹」問題です。じつは、好太王碑をめぐる論争で、滑稽な話がございました。明治・大正年間に出てきた、右翼的な思想家として当時は著名な、権藤成卿という人がございました。この人が言うに、“自分の家に伝わる秘伝の書がある。それは『南淵書』というものである。南淵というのは、遣唐使(従来では「遣階使」)で有名な、南淵請安(みなぶちしょうあん)である。彼は天智天皇の師匠であった。自分の家に伝わっている『南淵書』は、南淵請安が書いたもので、その先頭のところには、請安が、天智天皇に政治の在り方を教えている文章がある”と。そのとおりなんですよ。天智天皇に教えている文章が、漢文で書いてある。これが、事実なら大変なことですよ。『古事記』、『日本書紀』より古い本になってくるんです。
しかも、驚いたことには、好太王碑の「全文」が書かれている。七世紀前半に、南淵請安が唐へ行った帰りがけに、陸まわりで帰ってきた。往きは船で行ったんですが、帰りは船はいやだってわけで、陸まわりで帰ってきた。すると、鴨緑江・集安あたりを通ったわけですよ。それで、近くに「石碑」があるそうだから寄ってみようと、南淵請安が寄ってみた。時期はいつ頃でしょうか。推古と天智の間くらいに寄ってみた。その時は七世紀ですから、今とは違い字がはっきり見えたというわけですよ。だから南淵請安が全部書きとってきた。それが全部、わが家の『南淵書』にのこっておる、と。これが当時の新聞にのりまして、ニュースになったわけですよ。
それで、東大の歴史学の授業の時に、学生が黒板勝美教授に、「新聞で大きく報道されている『南淵書』はどうですか」というような質問をして、黒板氏が「あれはちょっと、インチキくさいと思うけれど」と言ったと新聞に報道されて、権藤成卿が、けしからん、嘘と思うなら私のところに見に来い、など、へんなせりふがつぎつぎやりとりされました。しかし、結局、権藤は『南淵書』を見せないんです。
ところが、これは意外なところから馬脚があらわれてきてなんです。日本側から好太王碑調査団が、学者達が、現地へ行ったんです。当時は行けたんですね。綿密に好太王碑を研究された今西龍なんて人も、大正の初め行ったわけです。
その時、意外な発見があった。好太王碑の第三面第一行、これに字が二つだけ出ております。ところが、従来、この字はなかったんです。酒匂本はもとより、他の拓本、内藤拓本とかいろいろありますが、いずれも、この第三面第一行はなかったんです。ところが、実際に現地に行って調べてみると大きく剥落しているんです。苔がはえていたのを火をつけて焼いて、苔をとったあとを、拓本にとるため石をたたくものだから、いたむんです。そういうことの関係か、端の方が剥落してしまって、字が見えなくなっていたんですけれど、字がうっすらある。それが報告されたんですね。これが第三面第一行の二字なんです。
ところが、なんでこれが問題かといいますと、さっきの南淵請安の書だという『南淵書』には、伏せ字なしで、全部字がつまっていた。従来、欠けていたところには、字がつまっておりまして、その中には「倭のついに屈せざるを知り」好太王が倭をやっつけたと書いてありますね、しかし、やっつけても、やっつけても、屈服しないので、好太王はあきらめて倭と手を結んだ、みたいなことを書いてある。日本側からすると、“いい感じ”になっているんです。
ところが、なんと、権藤氏にとって不幸なことに、第二面の最後の字が、第三面の第二行目につづいておったわけですね。これでは、もうどうしようもないですよね。つまり、第三面第一行目が欠けていることを、権藤氏は知らなかったんですよね。『南淵書』を書いた人が、何晩かかったかは、知らないけれど、一所懸命書いたんでしょう。大変な苦労と思いますけれど。それがいっぺんに、馬脚があらわれてしまったわけでございます。こういう、ユーモラスな、考え方によると不届き千万な、事件がございました。
佐伯有清さんの『研究史 広開土王碑』(吉川弘文館)の中でも、これにふれられておりまして、それをお読みになった方には、ご存じの問題なんです。
しかしわたしは、この問題はまだ終っていないと思うわけです。研究史で、あるポイントをああ分った、としてしまって、“そこから出発する問題”を見落している例が、大変多いんですね。これがその一つだと思うんです。
実は中国側に、第三面第一行のある文章が他にもあるんです。一つは王志修の「高句麗永楽太王碑歌攷」、「同碑攷」(一八九五年)というものであります。藩陽(沈陌*)というところが、中国の東北地方にございますね。好太王碑のある集安のちょっと北の方でございます。現在、字はちょっとかわっておりますが、彼はその藩陽の官庁に就任してきていた、清国の<官僚>でございます。
沈陌*の陌*は、こざと編に日。JIS第四水準、ユニコード番号9633
彼が書いたものに、先にあげた二つの詞文があるわけでございます。李進煕さんの本の資料集にものっております。私は、王志修という人について、称揚したいという気持があるんです。王志修は、その詞・文をいつ書いたかといいますと、日清戦争が日本の一方的勝利という形で終って、清国(中国)側には、屈辱的な講和条約が結ばされた、その直後に書かれたんです。誰に対して書いたかといいますと、藩陽の官庁の人たち、そのまわりのインテリ青年たち、彼らを前において発表したんです。
内容はといいますと、好太王碑と自分との関連をときはじめるんです。
“私はここに就任して、好太王碑に非常に関心をもった。好太王碑の「初拓」を手に入れた”(好太王碑がみつかって最初にとった拓本ですね。拓本とは、双鉤本も含めて表現しますから、双鉤本かも知れませんが、とにかく最初にとったものをみた)。集安のある吉林省の省都は今、長春ですが、当時は通溝(つうこう)と呼ばれた「好太王碑」のある場所(集安)を、直接管轄する場所が、当時藩陽だったわけですからね。その藩陽の上級官僚ですから、「初拓」を手に入れていて、不思議はないわけです。“私は、初拓を持って、現地を訪れて、これと比べて、よく内容を理解することができた”こういうことを述べまして、“碑には「倭」と「渡海破」が、かかれている。「倭」が海を渡って云々、ということがかかれている。つまり「倭奴」が当初、かくかくたる勝利を示していた。ところがその後、結局彼らは敗れて、この地から追い払われてしまったと、碑にかかれている。諸君、これをよくみてほしい”ということが書かれている。
お分りでしょう。“日清戦争で、日本軍の大勝利ということで、日本兵が、今、充ち満ちている。そして、わが国(清国)のいろんなところを割譲させられた。そこで諸君は意気消沈している。しかし、歴史をみよ。倭奴は、かつてもはじめは非常に景気がよかったけれど、やがて彼らは、追い払われていったではないか。現在(負けて)こうなったらどうしようもないと、諸君は思っているだろうが、しかし再びその日(追っ払える日)が、必ずくるであろう。諸君、決して意気消沈するなよ”そういう文章なんですね、これは。私が大分おぎなった解釈なんですよ。
講和条約を結んでいる最中、直後ですから、正面きって書けないんです。だから書けない文章の中でも、あきらかに読む人の胸をえぐるような、響きが伝わってくるんですよ。いい意味でのナショナリズムが“真実を見通す、未来を予見する”能力をもちうるケースだと思うんです。ナショナリズムが変にいくと、ゴチャゴチャして、古代史と現実の国家問題とごちゃまぜにする、マィナスの効果を生むこともあるんですけれど、この場合は、ナショナリズムが人間的な意味を発揮した、見事なケースだと思うんです。
そういう意味で、この王志修の文章は、見事な文章だと思うわけです。まさに彼の予言は、あたったわけですからね。
ところで彼の文章にある「倭奴」なんて好太王碑には書いてないんですよ。「倭奴」っていうのは、軽蔑表現ですね。現在でも、朝鮮半島側、韓国側で「倭奴」という言葉を使用するのは、日常的に使われているようですが、「倭奴」は、伝統的なののしりの用語なんです。“「好太王碑」に、「倭」云々とあるのを、諸君はみて知っているだろう。その通りだ”こう言っているわけです。
これは、思想的にも貴重ですが、事実問題においても貴重ですね。“酒匂が書き入れたものを知らずに、信用した”などというものじゃないでしょう。「初拓」を見ているんだし、語られている人達は、好太王碑の現地の人達ですから、好太王碑そのものを、よく知っているんですよ。
王志修は、“諸君がよく知っているとおり、「倭」と「渡海破」とがあるだろう。その「倭」が、そのあとどうなったか考えてほしい”。こう言っているんですから。これは、見事な“現地集団の証言”ですよ。
だから、これをみても、李さんの改竄説というのは、わたしはちょっと無理だったと考えていいだろう、と思うわけです。
この王志修の作った全文の釈文があるんですが、そこには例の第三面第一行が、ちゃんとズッシリあるんです。同じように栄禧(えいき)という人が現地の官僚で、この辺に就任しますが、その栄禧の釈文にも、第三面第一行が出てきます。栄禧の場合は、自分が行ったんではなく、ある人(方丹山)に依頼しまして、現地に行ってとってもらった。その場合、苔のついたところなど、時には一字一紙にするような状態だったらしいんです。それをもとに、一所懸命、順番に貼り合わせて全体を作ったのが、書かれている。この点わたしは前にも注目したんです。しかし、その時はこう考えてしまったんです。今西寵が作った第三面一行の二字、「辞」と「潰」ですね。これが合わないわけですよ。それでわたしは、これはどうも駄目だって思って、論ぜずにしまったんです。
ところが、今考えてみますと、そのときのわたしの判断は正当ではなかったように思います。なぜかといいますと、一字一紙みたいにとってきていますから、貼り合わせる順番をまちがえることがありうる。上と下をひっくり返して、貼っている場合もあるんです。また、苔がいっばいついているところでしたら、正確にとれたかどうか、分らない場合がある。
また、今西龍さんのほうも、はっきり残ってるんじゃないんですよ。かすかに残っているのを、判読して“これはこの字”と読みとったわけです。この判読が合っているかどうか、まあ厳密には分らないわけですよ。
そうしますと、この二字が、先程の王志修や、栄禧釈本と今西釈本が、合ってないといって、それらをしりぞけることは、冒険なわけですよ。むしろ、以後出てくる、全部の拓本や釈本では、全然問題にしていない、第三面第一行をとらえている、出ているということは、第一行がかけ落ちる前の姿が入っているということである。その中の一字一字が、全部正確かどうか、それは分りませんけれどね。しかし、かけ落ちる前の姿がそこに反映している、と、こうみざるをえないわけです。
すると、結局、酒匂本には、第一行がないんですから、酒匂本は、第三面第一行がかけ落ちた後のものだ。だから、王志修・栄禧釈本は、酒匂本以前の姿を反映していると、こうなってくるんです。だから、この問題もよく考えれば、酒匂大尉(当時は中尉)の改竄という問題を、反証する力を持っていたんですね。李さんも、ここは神経を使われたらしくて、“栄禧は嘘つきである”とか、“信用できない”とか、いろいろ論を展開しておられますけれど、嘘つきだとかいう言い方で、この問題を論議してよいか、ひっくり返せるかどうか、これは、やっばり無理なんですね。李さんの「改竄説」が、成り立たないことの分った、今の時点で考えますと、特にね。
そこで、いよいよ王志修と栄禧の証言が、重要になってくるんです。
第一行に、どんなことが書かれているかと申しますと、「官兵移師百残□其城百残王懼復遣使献五尺珊瑚樹二朱紅宝石筆牀一他倍前質其子勾拏太王率」が、入っているわけです。ここで、わたしが注目しましたのは、「五尺珊瑚樹」を献上した、ということです。サソゴ樹という、樹木もあるそうですが、普通に考えると、南海の珊瑚と考えるのが、普通の理解ではないかと思うのです。
そうしますと、珊瑚樹というと南海のものであるのに、百済王がそれを献上するというのは、非常に不思議なことですよね。誰かが、“偽りに思いついて、書く”というようなものではないですね。それなら、もっと似つかわしいものを書きますよね。それで、どうしても“無視できないもの”を、感じていたんです。
その後、調べていきますうちに、これと相対応する問題がでてきました。それは、『隋書』百済伝ですね。「其の南、海行三月、身冉*牟羅(たんむら)国有り。南北千余里、東西数百里、土に[鹿/草]鹿(しょうろく)多し。百済に附庸す」という言葉がある。この身冉*牟羅国を身冉*羅(たんら)国、つまり済州島と注釈しているものがある。諸橋の『大漢和辞典』なんかも、その立場に立っている。
しかし、身冉*牟羅国と身冉*羅国は、似ているけれど違うわけです。三字のうち、二字同じなら、両者は=(イコール)などというのは悪い癖でして、何よりも、二つの国の位置と大きさが違う。つまり、百済の都からでしょうが、身冉*牟羅国へは、南へ船で三ヵ月かかるところにあると書いてある。済州島まで、三ヶ月もかかりませんわね。
身冉*牟羅(たんむら)国の[身冉](たん)は、身に冉。
[鹿/草]鹿(しょうろく)の[鹿/草](しょう)は鹿の下に草。JIS第三水準ユニコード番号9E9E
しかも、島の形が(身冉*牟羅国が、島であるとすれば)「南北千余里、東西数百里」、縦長の形である。短里か、長里かの問題はあるんですが。しかし済州島は、横長ですからね。この点からもちがう。「土に[鹿/草]鹿多し。百済に附庸す」。つまり、百済の属国であると書いてある。
『隋書』に、もう一つ記事がありまして、北朝側の隋が、南朝側の陳を平定したときに、海戦を行ったとき、隋の軍船が漂流して、南のかた身冉*牟羅国に至った。その身冉*牟羅国は、自分の関係筋である百済へとその軍船を送り返した。そして百済から、さらに送られて、隋へと無事に帰れた、という漂流譚が、書かれているわけです。わりと簡単ですけれど、そういう形で描かれている。ですから、中国人が、実際に行ってみた国なんですね。「海行三月」というのも、その経験にたっているんでしょう。だから、これは単なる噂話を書いたものではない。他から聞いて、単なる奇譚として無責任に書いたものではない。ですから無視できないものがあります。
ですから身冉*牟羅国=(イコール)身冉*羅国というのは、やはり間違いで、身冉*牟羅国は南海の国である。そうすると、百済からの献上物に珊瑚樹があっても、不思議ではないこととなります。
時代は、好太王碑の方がだいぶ早いですけれど、身冉*牟羅国は七世紀の隋の時に、いきなり「百済の属国」になったんではなく、それまでに百済と何か関係があったと考えた方が、自然ですからね。そうすると、百済は南海に、自分のルートを持っている、という感じがするわけです。すると「五尺の珊瑚樹」を献上したっていうのも、なんとなく納得できてくるわけです。
今までの、束アジアの古代史上で、おそらく問題にされていないことだと思うんです。“南海に、百済と政治関係を結んでいた国があった。この国は、一体どこであろうか”というテーマが、新たに発生するわけでございます。
次のテーマにまいります。普通、今まで好太王碑が問題になっていたのは、初めの三分の二くらいまでだったんです。つまり、「永楽五年・・・」「永楽六年・・・」という、歴史的な事実を書いているところが、大体議論の対象になってきなんです。
たとえば、先程の『研究史広開土王碑』(佐伯有清)をみても、たいていそうです。しかし実際は、この石碑の終りの三分の一が主題なんです。この部分はややこしいから、あまりお読みになったことがないと思うのですが、読んでみると簡単なんです。
今、一つ一つ読む時間がないので、読むうえのコツ、というのも変ですが、その“コツ”を申しあげておきますから、お帰りになって、パズルのように楽しんで、読んでみて下さい。この部分は特定の術語が、繰り返し出てくるわけです。たとえば、「国烟」「看烟」という、術語が出てまいります。この意味は、はっきりつきとめることはできませんけれど、要するに、好太王の墓を守るための民、つまり民戸に、国に直属する「国烟」という単位と、地方に属する「看烟」という単位の、二通りがあったみたいです。「国烟」「看烟」を合わせて、「烟戸」という言葉で呼んでおります。それで「国烟」をいくつ、「看烟」をいくつと、ずーっと書いてある。そのほかにも同じような術語が繰り返し出てきますから、同じ術語を同じ色鉛筆でマークすると、文の構造がつかめるわけでございます。
最後の三分の一のテーマは、誰に墓守りをさせるか、ということです。第三面の終りから八行目、上から十字目「於是旋還」までが、歴史的事実です。だから次の「又其」から、第四面終りから五行目の四字目「為看烟」までが“墓守りの話”になっている。
ここで、ちょっと申しておきないことがあります。わたしは好太王と読んでおりますが、広開土王と読んでいる人がおりますね。最近は、「好太王」というと“もぐり”で、正しくは「広開土王」だと思っている人がいるみたいです。教科書にも、そう直したのが出てきましたけれど、これは非常におかしいですね。井上秀雄さんとも、そういうことを話したんですけれど、釈文をご覧になると分りますように、「国岡上広開土境好太王」つまり“土境を広く開いた、よき、正しい、すぐれた、偉大な王”という意味ですね。「国岡のほとりで、広く土境をひらいた好太王」というんですから、「土境」という熟語になっているんです。(二回は好太王の前に「平安」あり)
要するに、飾り文句なんです。それを、土と境のあいだをちょん切って、広開土王なんて勝手なよび方をしてもらっては困るんですよ。「好太王」は「国岡上広開土境の好太王」なんですから。なんで広開土王としたんですかねえ。まあ明治に広開土王とした人もあるんですが、あまりはやらなかった。それが、最近はやってきたのは、朝鮮民主主義人民共和国の学者が、「広開土王」と使いました。李進煕さんも使いました。そのあと、日本の古代史の学者が使いましたね。
なんで、はやったか。これは想像ですが、おそらく、なにか「広開土王」といったほうが、“いばって聞える”“格好よく聞える”と、いうんじゃないでしょうか。なぜ「好太王」にせず「広開土王」とするか、説明を書いていませんから、分らないんですけれど。ところが、それを真似る人が、ぱーっと出てきた。だから無定見ですよね。形容詞の一部分を勝手に切りとって、教科書にのせていくなんて、とんでもないことでございます。(後代史書たる『三国史記』に依拠)
最後に、第四面後ろから五行目、上から五字目、「国岡上広開土境好太王存時教言」。なんと、好太王の直接法の言葉が出てくるんです。金石文で、当時の人がしゃべった言葉が書いてあるなんて、珍しいですよ。そういう意味で、貴重な史料ですね。
「祖王先王但教取遠近旧民守墓洒掃」。「教」を「しむ」と読みます。“お祖父さんの王、お父さんの王のときは、遠くや近くの古くからの属民に、墓守りや掃除をやらせてきた”。ところが、「吾慮旧民転当羸劣」。わたしは旧民だけでは、能力が劣っているのを残念に思って、考えて、「若吾万年之後安守墓者但取吾躬率所略韓穢令備洒掃」。ここで、直接法は終っているんです。
「吾躬率」これが一番大事でして、先の歴史的事実の段のところで、「王躬率・・・」が出てまいります。これにたいして「教・・・」というところが出てまいります。好太王が、自分で先頭に立って戦った場合は「王躬率」で文章がはじまるんです。部下の武将を派遣したときは「教」という形になるわけです。
『失われた九州王朝』でも述べておりますが、「躬率」という、好太王の姿を示す言葉が、ここでは「吾」を伴って出てまいります。前のところは、地の文章だから、「吾」が出てこないんですね。「王」です。ここは、本人の文章だから、“「自分ですすんで征服した、韓・穢の征服民を使って、墓の掃除をさせろ」と、生前に教えて、おっしゃった。だから教えのように、新しく征服した韓・穢の二百二十家をとって当らせた。しかし新しく征服した人達だけでは、今までのルールを知らないのを心配して、旧民百十家をとって、新旧の合計を三百三十家にした。それで墓を守らせた。国烟が三十、看烟が三百、合せて三百三十“と。計算がピタッと合ってますね。
問題はその次です。
「上祖」を ーー前は「祖先王を上(まつ)る」と、読んだんですがーー 「祖を上(まつ)る」のほうが、いいような気がするんです。「お父さんの時以来、墓のほとりは安全ではない」。倭人がやってきたというのが、関係しているかもしれませんが。
「墓を誰が守るか」というのが、ごちゃごちゃになって混乱するようになってきたから、好太王は、「祖先王のために墓ごとに銘文を付けた石碑を建て、この墓は誰が守るかを、間違えないようにした。また、どういう人に守らせるかを、制としてちゃんと決めた。今から以後は、土地を転売してはいけない。・・・」と、なっております。
最後の「之」は、置字でございまして、中国の四書・五経あたりに出てくる文例で、意味はない。文章の最後に置いて使うものです。だから、この置字をみても、好太王碑の文章は、ずーっと古い文体を使っております。
ここで問題にすべき第一点は、終りから三行目「上祖」を「祖をまつる」と読まざるを得ない。これを「上(かみ)つ祖(おや)」なんて読むと、意味が全然合わない。だから、わたしの言いたいのは「稲荷山の鉄剣」で、いわゆる「定説」派の人達は「オノワケノオミ、上祖(かみつおや)の名はオオビコ、其の児の名カリノスクネ」と、読んでいくんです。そして、「其の児の名」っていうところの「多」を「名」の間違いであろう、あるいは、「名」がぬけているんだろうと解釈するわけです。
しかし『三国志』でもそうですが、まして第一史料である金石文を、“問違っているだろう”という形で読むのは、わたしは“おかしい”と言ったわけです。「乎の獲居の臣、祖を上(まつ)る。意冨比[土危](いふひき)、其の児多加利(たかり)足尼と名づく」。二祖を祭る形、こう理解したわけです。
この好太王碑の文章も、どうも「祖をまつる」ですね。“かみつおやが第一代。先王、つまりおとうさんは第二代”ではおかしいですよね。だから「祖をまつる」でないと、わからないわけですよ。好太王碑は五世紀初め、稲荷山鉄剣は五世紀の終り近くの例ですから、非常に近い先例になっている。「祖をまつる」というテーマが、ここにも出てまいります。
最後にまいりますが、重大な問題があります。
結局、好太王碑の目的は、“誰に、この墓を守らせるか”というテーマが、最終の言いたいことであります。前の方の、“何年にどうした、何年にどうした”は、いわば、“前提条件”みたいなものです。前の方に「○○城」、「○○城」と、いっばい出てくるでしょう。「国烟」「看烟」のところにも「○○城し「○○城」と出てきて、かなりだぶっています。つまり、征服した「○○城」で、「国烟」「看烟」を、いっばいつくっているわけですよ。こういう形で、話は前後相呼応しているわけです。
もちろん、“何年にどうした”という功績をたたえる、功勲碑の性格は当然あるんですが、それが“守墓のテーマ”に、結局結びついているわけです。ここまで読んで、初めて、あの文章の全体の姿がわかった、となるんです。
そうしますと、大事な問題を簡単に申すようになりますが、この文章の最初の方、第二面四行目中程に、百済が降服して「生白」を献上する話が出てまいります。
これは、先程の武国員力*(ぶこくしゅん)さんに聞いて、びっくりしたところです。「生白」は「生口」の間違いである。李進煕さん等は“「生口」が正しいのに、酒匂自身が間違えなんだか、酒匂が命じてやらせたのが間違えたか、分らないけれど、「生白」になっているのはおかしい”といったわけです。これは皆も「なるほど、酒匂本は信用できない」という、感じだったんです。
ところが、武さんは「『生白』が正しいんです。『生口』じゃありません。現地では『白徒』は奴隷を意味する言葉です。『生白』とも申します。非常に古い言葉です。それが使われております」。こう言われるんです。
これは大変なことですよ。“酒匂本が正しい”ということです。酒匂本が、原文を伝えている。石で「生白」になっている。そして「生白」を献上したのが、「守墓」に関連している感じがある。直接は書いてないけれど、ムードとしてつながっている感じですね。
ところで、中国は東アジア最大の生口国家(実体は生白と同じ)ですけれど、東夷の中では倭国が最大の生口国家ですね。中国の歴史書に、生口の記事が一番よく出てくるのが倭国ですから。『後漢書』で、「帥升の生口百五十人献上」。『三国志』卑弥呼のところでも、壱与のところでも、「男女の生口献上」が出てまいります。
この生口は、どういうことをさせられたか。その中の一つに、「墓を守る」ということがあったのではないか。それが倭国の中でも、またやらされていたのではないか、という問題が、一つのテーマとして出てくるわけです。
博多湾岸を中心とする倭国が、生口国家である、としますと、その生口国家の一隅、一端から出て、大和に侵入した神武、私の『盗まれた神話』、『ここに古代王朝ありき』を、お読みになった方はおわかりのように、九州では、うだつのあがらない地方豪族出の青年だった神武が、銅鐸圏の中枢域に侵入して、いったん破れ、副中心の大和に入って「まつろわぬ」者を殺し、従うものを支配下に入れた。崇神・垂仁の時に、銅鐸圏の中心を手に入れた。こういうふうに、私は論証したわけです。
そして、銅鐸圏を支配した直後に、近畿を中心に「天皇陵」とよばれる、巨大古填群が出現してまいります。その墓は、誰をして守らしめたのであろうか、という間題が必然的に出てくるわけです。
あれだけ巨大なものを、守墓人なしに維持していたとは、考えられない。そうすると、古墳時代という意味で、ほぼ同時代の証言(「好太王碑」)で“新しい征服民をして墓を守らしめたのではないか”という問題が出てくるんです。「好太王碑」には、お父さん、お祖父さんの話が出てくるから、四世紀段階からの話と考えていいんでしょうがね。
これは、あまりに重大な問題ですから、簡単に、「拡大解釈」「延長解釈」、いわんや、時問軸を後世にもっていって、解釈をみだりに延長することは、厳につつしまなければいけない。論証ができることをできるとし、論証できないことを、想像で簡単に“おぎなって”はいけない。これは、あくまで「古代史の問題」として考えなければいけないと思います。
しかし、わたしは今後、古代史を論ずる場合に、この重大問題をぬきにして論ずることはできない。この重大間題をぬきにして論ずるのは無理ではないか、という感じをもつものであります。
生意気ですが、今日の最後に、皆様に投げかけるテーマとして、これをお伝えしたいと思いました。ご聴講ありがとうございました。
1,「其国境」
問題「新羅遣使白王云、『倭人満二其国境一潰二破城池一以二奴客一為レ民・・・』(永楽九年項)
三国志の証言(東夷伝)
a韓は帯方の南に在り。東西、海を以て限りと為し、南倭と接す。(韓伝)
b弁辰、辰韓と雑居す。・・・其(弁辰)の賣*盧国、倭と界を接す。(韓伝)
c郡より倭に至るに、・・・其(倭)の北岸、狗邪韓国に到る。(倭人伝)
dイ、七千余里(郡→狗邪韓国)ロ、五千余里(倭地、周旋)ハ、万二千余里(郡→女王国)(倭人伝)。
e●対海国 ー △対馬(南島)、●一大国 ー △壱岐、●狗邪韓国 ー △X(「任那か」)
〔●は中国側称呼、△は日本側称呼〕
《狗邪韓国は倭地》基本命題
賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、さんずい編に賣。JIS第三水準、ユニコード番号7006
2,「五尺珊瑚」問題
「官兵移師百残□其城百残王懼復遣使献五尺珊瑚樹二朱紅宝石筆牀一他倍前質其子勾拏太王率」
王志修・栄禧釈本(第三面第一行)
大正二年、関野貞等の調査団の発見。
(今西) (今西)(朴)
・・・「辞□」・・・・・・「潰□」
△権藤成卿『南淵書』(南淵請安)の偽作性明白化。〔「王(好太王)知倭不屈」などを空白部に当(あ)つ〕
隋書百済伝(従来、身冉*羅国〈済州島〉と同一視)
「其の南、海行三月、身冉*牟羅(たんむら)国有り。南北千余里、東西数百里、土に[鹿/草]鹿(しょうろく)多し。百済に附庸す」
身冉*牟羅(たんむら)国の[身冉](たん)は、身に冉。
[鹿/草]鹿(しょうろく)の[鹿/草](しょう)は鹿の下に草。JIS第三水準ユニコード番号9E9E
3,「上祖先王」問題(四、七行)
祖王先王(四、五行)、祖先王(四、八行) 上=マツル
自上祖先王以来=×上祖(カミッオヤ)・先王より以来。(意味不通)
◎自(由)りて祖を上る。
乎獲居臣上祖名意冨比其児多加利足尼
×オノワケノオミ、上祖名(かみつおやのな)オオビコ、其の児の名カリノスクネ
(埼玉県教委ーー狩野、田中、岸読解)
●乎の獲居の臣、祖を上(まつ)る。意冨比垢、其の児多加利足尼と名づく。
(古田『関東に大王あり』創世記刊、第二刷 三六四頁)
『海の古代史』(海の実験場ー序に代えて 原書房)へ
これは雑誌『市民の古代』の公開です。史料批判は、後に収録された『古代の霧の中から -- 出雲王朝から九州王朝へ』 (古田武彦) でお願いします。
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