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古田武彦
始めの数字は、目次です。「おわりに」は下に、「歴史の道」は別ページにあります。
第1章 古代出雲の再発見、第5章 最新の諸問題について(1 近江宮と韓伝、2 高旬麗好太王碑再論)は「闘論」にあります。記事はすべて『市民の古代』へのリンクです
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困惑する教育現場から/臆説によって書かれる教科書/実証的検証の目をふさぐ/新たな視点の併記を
『魏志』韓伝に見る古代史の盲点/東アジアを震憾させた馬韓の滅亡/好太王碑“改竄”論争に決着/好太王碑のもう一つの読み方
「国生み神話」と津田史学/「国ゆずり神話」の本質/荒神谷遺跡は“巨大なる断片”/四つの神名火山(樋)を頂く古代信仰圏/黒曜石産出によって繁栄/「国引き神話」の成立は縄文期
「剣」ではなかった三百五十八本/二つの重大な疑点/剣・矛・戈の定義/四隅突出墳丘墓が語るもの/日本海こそ世界だった
倭人伝の事物は検討に値するか/魏の使いは卑弥呼に会っていた/鏡・矛の大量出土が示すもの/卑弥呼の墓は円かった/倭国の郡は博多湾岸に/土と石と木の文明に逆戻り?/日本の考古学の“宿命”/なぜ三世紀は“空白”なのか
津田学説とその批判説の展開/蝦夷の捕虜に対する処置/“瀬戸内定住”への疑問/「中国」とはどこを指すのか/『古事記』と『日本書紀』の違い/伊勢神宮と鹿島神宮/常陸の話を換骨奪胎か/『日本書紀』の編み方
日本人ピッタリの風土/古代の楽園ガラパゴス/縄文文明とバルディビア土器/エバンス説の「是と非」/好太王碑見学をめぐって/「開放」の予告/武国員力*さんとの邂逅/李論文の発想の原点
武国員力*(ぶこくしゅん)氏の[員力](しゅん)は、JIS第三水準ユニコード番号52DB
その一、「其の国境」問題/その二、「五尺の珊瑚樹」問題/その三、「守墓人」問題
「里単位」問題は論議無用か/その一、赤壁の論証/その二、帯方郡の論証/その三、会稽東治の論理
「四夷の舞」を真似た宮中舞楽/菊邑検校が秘したもの/『盗まれた神話』との符合/「都の翁」の“都”ほどこか/「継体の反乱」との関連
/西山村さんと菊邑検校の出逢い/謎の演技者集団/“同根異系”の筑紫舞《質疑応答》/肥後の国「山の能」の伝え
何か目に見えないものでこうなった/”死語″を習い伝える/他に伝承者はいない・・・/菊邑検校に抱いた疑問/「宰領」と「おやかた様」/間のとり方が異なる「ルソン足」/日本最大の宮地嶽古墳に至る/心眼による舞の伝授/筑紫の国に「高木信仰」あり/地獄に落ちるのがいやだから伝える
法隆寺と九州王朝 筑紫舞その後(『市民の古代』第5集) へ
人麿の「過近江荒都歌」への異論/発掘が裏づける「大津の宮」/「韓伝」は史料の宝庫/なぜ「韓国陸行説」が必然なのか/「王の所在」に関する不思議/同時代史料が真実を拓く
百聞は一見にしかず/「倭=海賊」という誤った先入観/海からの侵入者/隘路の中をさまよう日本の学界/太王陵が語る「如山信仰」
291 第一 「戦中遣使」と「戦後遣使」
203 第二 徳永誠太郎氏の再批判(インターネット)
第一部 序言
第二部 九州王朝
本文作図/三宅悌司
*本書は『古代の霧の中から -- 出雲王朝から九州王朝へ』(徳間書店、一九八五年)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(二十二)」「歴史の道」を新たに加えたものである。なお、本文中に出てくる参照ぺージには適宜修正を加えた。
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古田武彦・古代史コレクション22
古代の霧の中から
出雲王朝から九州王朝へ
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2014年 9月10日 初版第1刷発行
著 者 古 田 武 彦
発行者 杉 田 敬 三
印刷社 江 戸 宏 介
発行所 株式会社 ミネルヴァ書房
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© 古田武彦, 2014 共同印刷工業・兼文堂
ISBN978-4-623-06669-8
Printed in Japan
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旧版案内
古代の霧の中から
ーー出雲王朝から九州王朝へ
初 刷 一九八五年十一月三十日
六 刷 一九八八年七月三十一日
著 者 古田武彦
発行人 荒井修
発行所 株式会社 徳間書店
印刷所 本郷印刷株式会社
製本所 大口製本印刷株式会社
〈編集担当 眞矢正弘〉
序章/現行の教科書に問う(『市民の古代』第二集掲載)
第一章/古代出雲の再発見
一九八五年七月二十七日 島根県仁多郡・横田町コミュニティー・センターにて講演
第二章/卑弥呼の宮殿の所在
一九七九年四月二十八日 大阪市・なにわ会館にて講演(『市民の古代』第二集掲載)
第二章/関東と蝦夷
一九八○年十一月十六日 豊中市・よみうり文化センターにて講演(『市民の古代』第三集掲載)
第三章/画期に立つ好太王碑
一九八一年十一月十五日 豊中市・よみうり文化センターにて講演(『市民の古代』第四集掲載)
第四章/筑紫舞と九州王朝
一九八二年五月二十三日 大阪市森の宮・市立労働会館にて講演(『市民の古代』第五集掲載)
第五章/最新の諸問題について 書き下ろし
一
異色の一書だ。最初の出版の時から、“濃密な”内容をもっていた。「学問の成立」とその発展が具体例でしめされていた。今回のミネルヴァ書房復刊本では、新稿「歴史の道」を加え、わたしにとって決定的な意味をもつ本となった。幸せである。
たとえば、当初の「筑紫舞」をめぐる第四章。「九州王朝」の舞楽に逢った驚きがこめられている。「まさか」と“用心”しつつ、ついに肯定せざるをえなかった、わたしの心理がここには如実に語られている。
今年(二〇一四)の三月二日、博多で「筑紫舞」に関する講演を行った。百五十人分の資料を用意して臨んだら、七百人の盛況だった。宮地嶽神社側のお招きだった。全国から参加者があった。心ある読者たちの関心の深さと広さが身に沁みた。「歴史の道」の一稿はそのとき書き初めたものである。
たとえば、出雲王朝。最初は「九州王朝」という認識から出発した。古事記・日本書紀、ことに古事記の語るところ、「竺紫ちくしの日向ひなたの高千穂の久士布流多気くじふるたけ」は「日向ひゅうが」(宮崎県)ではなく「竺紫」(福岡県)の日向ひなた峠、日向ひなた川の領域である。次いで「此地ここは韓国からくにに向ひ」とあるのが、その証拠だ。「竺紫」は「韓国」と対面しているのである。その上、ここには「三種の神器」類が集中している。吉武高木・三雲・井原いわら・平原ひらばる、そして須玖すぐ岡本、さらに宇木汲田うきくんでん。これらを津田左右吉は知らなかった。だから「記・紀は後世の造作」という“安易な結論”に満足していたのである。
「神話は真実リアルである。」これがわたしのかちえた結論だった。
二
昨日(五月十日)福岡県古賀市の船場古墳の出土が報ぜられた(NHK、Eテレビ、二十三〜二十四時)。
例によって「大和」(奈良県)に“起点”を置き、九州北岸部の当地(古賀市)がいかに「大和朝廷」にとって重要だったか、と「線引き地図」を作って“強調”していたけれど、「ではなぜ、これほどの黄金の馬具一式が、御本家の『大和』から出ないのか。」の疑いを解くことは全く出来ていなかった。考古学遺物ではなく、「日本書紀」の“文面”を借りて“代用”していただけだった。
ちょうど、この三月、当の古賀市を訪れ、その現地鑑のあったわたしには“微苦笑”しかありえなかった。あの宮地嶽古墳(の入口)から出土した、見事な黄金製品(王冠等)と“一連”の「位取り」のものだ。「馬」にだけ、王者の“飾り”を付け、その王者自身はその類の“飾り”をもたぬ。そんな“奇妙”な話はありえないのである。
かえって韓国側の研究者の方が“ありていな”認識をもちはじめている様子だ(五月十日の放映)。当然である。
日は近い。やがて日本の研究者が「皇国史観」の“残映”から目覚め、「九州王朝」という四文字を受け入れる日、多元史観の実在を肯定する日が来ることを、わたしは夢にも疑ったことがない。
平成二十六年五月十一日早暁記了
古田武彦
わたしの探究は孤独の中からはじまった。
わが国の古代史学界が疑おうともしなかった「邪馬台国」という、三世紀の中心国名。その一点に疑いの矢を射た日、わたしには誰一人、同調者はいなかった。歴史学の師もすでになかった。
五世紀、「倭の五王」の時代にすすむと、わたしの孤独は一層深まった。三世紀では九州説、近畿説と対立があったけれど、ここでは対立さえないことになっていた。オール近畿説だ。
この時代の一大金石文に高句麗好太王碑がある。そこに出てくる、九つ(あるいは十一個 ーー 王健群氏)の「倭」。その正体は何か。この吟味こそ歴史学の正念場だ。だが、この「倭」を九州王朝の正規軍と見なした、わたしの説は、あたかも“それはなかった”かのように、学界という名の「土俵」の外におかれた。中国や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)といった海外の学者の面前で、そのそぶりはことにいちじるしかったのである。
もっとも深刻な“喜劇”、それは『隋書』イ妥たい国伝、七世紀の問題にあらわされた。そのイ妥国の名山としてただ一つ、「阿蘇山有り」と明記されている。その史料事実を前にすれば、この倭国が九州にあった、そこに中心をもっていた、という理解は必然だ。少なくとも大きな可能性をもつ。だが、わが国の学界は、これをながらく「近畿説の独裁下」においてきたため、「九州説」の存在を認めず論争対象とせず、との姿勢を守りつづけて今日に至っているのである。小・中・高の教科書もまた、「日出づる処の天子、云々」の名文句を(史料事実に反して)「聖徳太子」に帰せしめてきたのだ。
わたしは思う。昨今、「いじめっ子」問題が論じられて久しい。しかしその母胎は日本杜会の体質そのものにあるのではなかろうか。「いじめっ子」の基本とされる「シカト」(共同無視)の因襲は、知的エリートたるべき、わが国の学界の、抜きがたい体質をなしている。
けれども、幸いにも、わが国にはこれに反する一大潮流が生れ、うねりはじめたように見える。「古田武彦と古代史を研究する会」(東京)、「市民の古代研究会」(大阪)などが勝手に(博多や下関にも)生れはじめた。わたしのような一介の探究者にとって、「この世にありともおぼえぬ」望外の現象だった。
雑誌『市民の古代』の各号に掲載された、わたしの講演を母体として、この本は生れた。関係の方方の志とご努力の跡に、わたしは深く頭を垂れる他はない。わたしはついに孤独ではなかったのである。
わたしは大和へ向った。天武十年(辛巳年)の木簡が出たという飛鳥の地を目指したのである。板蓋(いたぶき)宮跡伝承地として知られたところ。何回もおとずれ、いわば“顔なじみ”の場所だった。
その案内板のあるところから、東側。藤本加工という「作業場」の車庫に当っている。もはやコンクリートにおおわれていたけれど、その場所の“土地鑑”をつかむ。これが不可欠のことだった。歴史学の基本である。
もちろん、わたしが関西在住の頃なら、発掘中に来ていたかもしれないが、四日前、各新聞の一面を飾ったのにふれ、駆けつけたのだった。地中から出た文字、第一史料たる、同時代史料となれば、心がうずいた。自然に足が向っていたのである。
そのあと、奈良市の県文化会館で、岸俊男さんの講演を聞いた。最前列の席だった。最後に昨夜作ったという、木簡のスライド。半分以上は“暗すぎて”見えなかった。岸さんが“当惑”されている様子が、ほほえましかった。かえってホットな“臨場感”さえ感じられたのである。
一語、一語、慎重に言葉をえらんで話される岸さんの話には、説得力があった。『日本書紀』が構想されていた現場、同時代の直接史料である、その強味がひしひしと伝わってきた。来てよかった、と思った。
これと異なった感触を、わたしはかつてもったことがある。あの稲荷山の鉄剣銘文の読解のときだりた。岸さんの読解と解説、次々出るたびにうなずけない。わたしには全く説得力をもたなかったのである。
たとえば、「斯鬼宮」。稲荷山古墳の東北、二十キロに「磯城宮」の地がある。大前神杜。この式内社が、「延喜式の古段階」以前に、すでにこの名で呼ばれていた。現地伝承はそのように伝え、明治十二年にその旨を記した石碑が建てられていた。現在も、小字は、その「磯城宮」のままである。
しかし岸さんは、何回論文を書かれても、この、近くの「磯城宮」に一回もふれようとはされなかった。少なくとも、わたしはそのような論文(反論)をいただいていない。
「この木簡の出た位置から見て、『浄御原宮』がここに近いことは疑えません」。岸さんが出土の、“位置の近さ”のもつ意義を強調されるのを聞きつつ、わたしには複雑な感慨があった。関東の稲荷山の場合は、なぜ岸さんは、遠い大和の地名にのみ、目を向けられたままなのであろうか。
しかも、その講演の冒頭に、「倭の五王」が近畿天皇家のことであり、「倭王武」が雄略天皇であることを自明とする、橿原(かしわら)考古学研究所の若い所員の方の「所説」の講演が行われていたようであった。日本の学界における「潮流」は、戦前と同じように、このような手法で反論を無視したまま、形成されてゆくのであろうか。
ふりかえると、考古学の碩学、末永雅雄さんが来ておられた。その温厚篤実の学風は、わたしもまた久しく敬服するところ。お元気な姿を見て、うれしかった。だが、 ーーわたしの胸に、にがいものがよぎる。この方にもまた、わたしは力の限り投じた一片の矢に、久しく「応答」を見ずに来ていた。
「黄金塚古墳」それは、いかにも末永さんらしい重厚な報告書だった。一語、一語、言葉をえらび、慎重に「武断」を避けておられた。ちょうど、今日の岸さんのように。それは同じ学風だった。
ところがその中で、わたしはハタと立ちどまった。この古墳出土の、有名な「景□三年」鏡(画文帯神獣鏡)、この第二字を「初」と断定される“決め手”、それを『碑別字』中の“魏”の文字の書体に求めておられたのであった。
しかし、この“魏”は、三世紀の魏ではない。四、五世紀の、いわゆる「後魏」である。従って、この書体をもとに、三世紀の「景初」という年号への読解にむすびつけること、それはやはり重大な「論証の飛躍」をふくんでいたのであった。
わたしはその点を、『失われた九州王朝』で指摘した。三角縁神獣鏡、魏鏡説をめぐる、重要な一論点だったからである。しかしその後、全く反応はなかった。ないまま、否、なかったが故に、国際的な誤解までまねいたように思われる。すなわち、後日、中国の王仲殊氏が「三角縁神獣鏡、日本鏡説」をせっかく提示されながら、この日本鏡を、“三世紀前半の「景初三年」に、近畿で製作されたもの。”そのように思惟されてしまったからである。(この点、「考古学の方法」参照/『多元的古代の成立』下巻所載。)
わたしは、ふと想念から目覚めた。末永さんが、会場から去ってゆかれるところであった。橿原の研究所の一室で、にこやかにわたしに応対して下さった末永さん。そのお人柄を思い出すにつけ、その長寿を祈らざるをえなかった。そしてわたしの問いに対し、明確にお答え下さる日のあらんことをも、また。
まして岸さん。いつもその、暖く温厚なお人柄は、昔から変らなかった。それ故にこそ、すべてをあいまいに流し去るような、日本の古代史学界に、流されず、厳正に棹さしていただきたい。そのように願うこと、それは果して不当だろうか。
わたしは一介の旅人である。古代の森のうすくらがりを、あるいは古代の海の夜の潮流を、手さぐりで求めゆく、つかのまの探究者にすぎない。そのわたしの生涯の中で、たったひとつ、あるいはふたつの、あたたかく誠実な呼び声と答える声がかわされたならば、この世に生れたもの、人間たる者にとって、それこそ、無上の至福というべきものではあるまいか。
一九八五年十一月三日 古田武彦
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関東と蝦夷(『市民の古代』第三集)
多賀城碑について(『市民の古代』第八集)
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