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市民の古代第13集 1991年 古田武彦講演 大嘗祭と九州王朝の系図 へ
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『市民の古代』第8集 1986年 市民の古代研究会編
  ●研究論文 講演

多賀城碑について

古田武彦

金石文について

 ご存知のように、七世紀から八世紀にかけて、日本における古い金石文、石碑ですね、これが六つある。関東に四つ、群馬県に三(山之上碑、金井沢碑、多胡碑)、栃木県に那須国造碑、京都に宇治橋碑(破損して一部しか残ってないようです)、それに、仙台にある多賀城碑がございます。これ等が日本の古い金石文の代表とされております。
 考えてみると面自い話です。東北、関東にかけて圧倒的に多い。わずかに近畿は一つだけ、九州はない。これは一体なぜだろうというのが面白い問題になるのですが、今日はそういう問題にたちいりません。
 那須国造碑については、分析をいたしました。『古代は輝いていた』三巻にでてきております。私としては非常に重要な分析にたったわけです。現代の日本の古代史、特に井上光貞さん等によって始められました七、八世紀の理解というものが、基本的に間違っているのではないかということを書きました。
 井上さんが自分の考えをたてられたのは那須国造碑が大きな証拠になったのです。私が疑ったのも、那須国造碑が一つの出発点にたったのです。この点は、今日は申しあげる時間はございません。とにかく、那須国造碑というのは、八世紀の初めにできた非常に重要な金石文であるというふうに考えているわけであります。

 

多賀城碑について

 ところで、私は東北にあります多賀城碑について一回もふれたことがございません。大学時代から聞かされていたのに、「多賀城碑というのは、どうもあやしいんだ。あれは史料としてちょっと信憑できないのだ」という話を聞かされていたのです。『日本歴史大辞典』等をみても偽作説が強いという説明がかいてあります。ということで、そういうものをもとにしては、笑われるというのでふれずにきたというところでございます。
 ところが、たまたま今年の六月、仙台に行くことがありました。江戸時代から偽作説が強いわけですから、自分が一回ぐらい見ただけで解決はしないだろうが、現物を見てみたいと思って行きました。多賀城碑をかなりの時間観察し、そばにあります現地史料館のレプリカを見せてもらい、史料ももらったわけです。これに非常に興味をもちまして、次の日は他の遺跡めぐりを全部やめまして、朝から晩まで、一日近くかかって、県の図書館でこれに関連する史料をだしてもらって、コピーしてもらって(郷土史料室の方が親切に協力して下さったのです)、山のような史料をもって東京に帰ったのです。
 これを分析してみますと、これはどうも私なりの答がでそうだということになりました。しかし、この問題は奥ゆきが深いといいますか、波及するところが大きい間題ですのでとてもすべては申せません。
 私自身の感想からいいますと、倭人伝の解読をやりまして、島めぐり読法等を発見して解けたと思った時がございます。『「邪馬台国」はなかった』を書くことになったわけでございます。その時の発見と相対対比されるような、私にとって大きな発見であろう。倭人伝の解読から出発して、先程の高句麗のところまですすんできたわけですから。こういった大きな影響を今後私自身に与えるだろう、というふうに予感しているわけでございます。
 この出発点をなす多賀城碑分析問題のポイントを皆様に、報告させていただきたいと思います。
 初めての方もいらっしゃると思いますので一応文面を読んでみます。背の高さは二・五mくらいです。

多賀城 去京一千五百里
    去蝦夷国界一百廿里
    去常陸国界四百十二里
    去下野国界二百七十四里
    去靺鞨国界三千里

とありまして、次に文章があります。

此城神亀元年歳次甲子[木安]察使兼鎮守将軍
軍従四位上勲四等大野朝臣東人之取?
也天平宝字六年歳次壬寅参議東海東山
節度使従四位上仁部省郷兼[木安]察使鎮守
将軍藤原恵美朝臣朝葛*修造也
天平宝字六年十二月一日

[木安]は、木編に安。JIS第4水準ユニコード6849
葛*は、けもの編に葛。JIS第三水準ユニコード5366

こうなっているわけです。

 

偽作説

 これについて、なぜ長らく偽作説がいわれてきたか、という問題からはいらせていただきたいと思います。
 江戸時代に、これは偽作ではないかといわれるようになって、伊達公あたりが作らせたのではないかというような話が、江戸時代の学者から、こもごもいわれていました。その史料も、仙台の図書館の江戸時代の史料でいくつも見ることができました。
 そういうことをバックにして、明治以後、近代史学の中でこれがとりあげられてきました。田中義成(たなか よしなり 東大教授)が、『史学会雑誌』(東大)でにせものであると偽作説をだした。次に、喜田貞吉。私の研究はいつも喜田貞吉さんと関係が深く、この人の論文を興味をもって読むんです。この問題にたいしても論文をだしておられまして「真赤なにせものである」という非常に強烈なものを書いておられます。これは、文章内容の方からいう偽物論です。
 これに対して、字体にたいして、文字の方からだしましたのが、中村不折という画家兼書道家です。有名な方です。この人が『書道および画道』という雑誌に、多賀城碑偽物論を詳細に、明確に、といいますか、議論されたわけです。
 歴史家からみても、書道家からみても偽物だ。それぞれ、東大教授とか中村不折という一流の学者や書道家が偽者といったので、ほぼこれの史料価値は命脈を絶たれてしまった、というのが、学界における大体の推移なんですね。
 もちろん、この間、本物説の方もありました。『大言海』を書いた大槻文彦さん等は、本物だという説を書かれましたけれど、これは大論文というものではなくて、偽物説の堂々たる迫力には及ばないという、判定負けみたいな変な形で受けとられたようです。
 これが再び日の目(というのもヘンですが)を見はじめてきましたのは、敗戦後、東北大学の伊藤信雄さん(私が東北大学にいた頃より後ですが)あたりが中心にたって発掘をやられた。
 この辺のことは、関東におられる皆様はよく御存知だと思いますが、関西にいると新聞にあまりでないのです。簡単に申しますと、発掘がすすむにつれて多賀城の規模が広大である。官衙がたくさん中にある。だから、初めは単たる「砦」と思っていたのがとんでもない、一つの壮大なる「都城」の様子を、性格をもっているものである、というふうなことが次々知られてきたわけです。
 この中で特に大事なことは、最初に書かれた「神亀元年」の年が、大体、遺跡の発掘から、土器の出土状況からみられる年代とほぼ矛盾しない、ということが注目されてきたわけです。
 この碑を江戸時代の人が作ったとしたら、発掘してほぼ年代が合うというのもヘンな話です。偽物作りが上手すぎますので、「これはやはり案外、本物ではなかろうか。しかし、今までいろいろいわれた難点は十分克服できない」という感じなのです。
 東北歴史史料館で『多賀城と古代東国』という立派なカタログができ、その他の報告書が次々だされております。いただいたり、コピーしていただいたりして全部もって帰ったのです。そういうものは、「どうも嘘とはいいにくいんだけれど、しかし、本物というには疑問点が多すぎることは確かだ」というようなムードであつかわれているようでございます。
 この年代の問題をちょっと申しておきます。「神亀元年」というのは七二四年でございます。八世紀の初めでございます。『日本書紀』が作られたのは七二〇年。それの四年後。それから「朝葛*」の方が「修造」した「天平宝字六年」というのは七六二年でございます。八世紀の半ば過ぎ、万葉がまとめられて大成しはじめた時期でございましょうか。
 さて、今まで出された疑問点とは何であるか、まず、基礎をなすのは宇体の間題です、文章の解釈以前に字体というものがおかしいというのが一番基本問題でございます。
 どこがおかしいかといいますと、中村不折さんによりますと、この字がバラバラである。普通、石碑の文字といいますと、「何流の文字」と統一されている。何流であってもいいけれど、「全部○○流の文字である」というのが当り前である。ところが、この字は何流、この字は何流という、「集字」である。「集字」というのは書道で最も嫌うところである。ところがこの石碑は明らかに「集字」をしている。行書みたいなのや、草書みたいなのや、楷書みたいなのが入ってきている。こんなことはありうることではない。奈良時代の栄えた古雅なるべき古人の作としてありうるべきものではない、というのが論の基本にあるわけです。今までは簡単に言われていたのですが、具体例を挙げて非常に周密に述べられているわけです。
 「集字」論について、私の方の目からみると、話は全く逆になってくるわけです。中村さんの考え方では、“本物であれば古雅でなければならたい。偽物であれば「集字」で稚拙である。奈良時代の人がきちんと書いたとしたら、非常に古雅な、全体としておもむきのある習字の手本にでもしたいような、そういうものでなければならない。ところが偽物は、インチキな野郎が作るんだから、ヘタくそな矛盾をいろいろ含んだものにたっているはずだ。”という考えを大原則として、議論がすすんでいるように私にはみられるわけです。
 中国の石碑等を考える場合、唐代の石碑等の場合はそういうことがいえるかもしれません。この基準は、いいと思います。
 しかし、日本の東北地方の最初にできた石碑ですね。という状況を歴史的状況においてみると、この中村不折さんの大前提は本当にそうかな、という感じがするわけです。
 石碑を作る技術者がいますね。初めて石碑ができるのですから、石碑の専門家であるはずがないです。だから作る方は初体験、しかしこの字を書いてくれと紙に書いてだされると思うのですが、どういう書体で書くかというのは大問題ですね、刻む方とすれば。
 つまり、ある流派の字が全部そろっていて、それをみたらどの字でもでてきますというのを、もっていれば問題はないです。はたして、東北で全部そろっていたかどうか。おそらく、これから初めて石碑を作る段階で、全部ピシャッとそろっていたという方が、むしろ奇跡である。若干のお手本字はあるでしょうけれど、これをみたら全部はいっていますというものはなかった、という方が自然である。そんなものありましたよ、というのは、かなり希望的観測にすぎないのではないか。
 すると、当然最初に刻む人がやるべきことは、断片的な文字のお手本は当然あるでしょうから、拓本字とか、習字帳とかあるでしょう。しかし御注文の字が全部でてこないから、あっちでとったり、こっちでとったり、「集字」をやらざるをえないわけです。
「集字」をやっているという事実は、東北地方で初めてこういう石碑を作った。日本全体でも、先程いった六つの内の一つです。こういう状況の中では、集字こそ自然である。
 逆に、江戸時代なら(偽物説は江戸時代)、お手本は全部そろっているじゃないですか。その時代に作るとしますと、「集字」は忌むべきだということは、江戸時代の書道家は知っています。それだのに、わざわざ、あちこちの違う流派の字を作って偽物を作るような偽物作りがいるとは、ちょっと私には考えにくい。
 私の経験にたってですが、親鸞の研究をする場合、親鸞の書いたものが本物か偽物かという判断が一番根本ですよ。それをしっかりやらないで、偽物の上にたって「親鸞聖人は」といえば笑いものですから。この中で私がえたことは、偽物なりによく作ってある。親鸞というと、いい字ばかり書くかというと、そうはいかない。いつも、外向きのいい字ばかり書いているんじゃないんです。走り書きしたり、間違った字を書いたりしている。だから、走り書きだから、間違った字だから親鸞聖人がこんな嘘字を書くはずがないといった風にやっていたんですが、けっしてそうではない。
 「稚拙だから偽物だ」という判定に走るのは危険である、という認識が私自身の経験にあったことは事実なんですが、中世の親鸞という話ではなく、八世紀に初めて作る場合、「集字」であるからといって、これを疑う中村不折さんの論点には、基本的な論定の誤りというか方法上の問題があるのではないか、という問題が一つあるわけです。
 さらに、碑文の「多賀城」の下にある「去」が右左全部そろっていますわね。ところが、次の字がえらいガタピシしていると思いませんか。二、三、四、五行目の「里」という字が下で横に揃ってますね。これを揃えたかったんじゃないかと思っているのですが、その為、上にある「下野」がバーと上にあがってしまった。まことに下手くそですね。
 こういう下手なやり方は、江戸時代の人はしないですよ。親鸞を調べている時、江戸時代の写本をしょっちゅう調べたのですが、こんな下手はしません。上をきちっと揃えますよ。
 いかにも、石碑を作りなれたい人が、下の「里」を揃えるためか、なにかのアイデアを元にして、こういうガタピシを作ってしまった。ということで、このガタピシのあり方は、「偽物説」に不利である。偽物を作る人が、こんなヘンな偽物をなぜ作ったか、という、疑いをいだかせるものである。
 もう一つ大事なこと。ある意味で決定的なこと。江戸時代から偽物と疑った一番大きな理由は、「此城神亀元年」という字です。コピーでは分りませんが、現物の前に立てばすぐ分ります。この字だけ他の字と全く彫りが違うのです。他の字はVの彫りになっているのです。この六字だけは凹の彫りになっている。この石碑の前に立つと目立つんですね。字の見え様が違うのですね。六字だけがどぎつく浮かび上がってくる。なんとなくヘンなんです。江戸時代にあやしいというのは、この印象が大きいと思います。六字だけ彫りが違うというのはありうることではない。中村不折さんも、それをいうわけです。
 私の立場は、又違います。偽物を作る人が見るからに六字だけヘタな字を彫る必要がなんであるか。偽物作りは、本物にみせたいというのが偽物作りの条件で、偽物にみせたい偽物作りなんていないですから。だから、こんな異様な六字を彫る偽物作りなんて、私には理解できない、偽物の問題に没頭した経験からみて、こんた偽物作りなんて聞いたことがない。

多賀城碑の拓本 古田武彦

 

多賀城碑の意味

 では、偽物じゃない場合、この六字の彫りをどう説明できるか。私は一つの仮説をもったわけです。つまり、この石碑が建てられたのは、ここでいう「天平宝字六年」という年代。七六二年に建てられた。だから「天平宝字六年」のことは分っているのですが、その前の、多賀城が作られた「神亀元年」の話から書きはじめたわけです。ところが、この「神亀元年」が「甲子」であることは分っていた。しかし「甲子」が年号で何年にたるか「天平宝字六年」には分らなかった。
 これは、現代の我々からは考えられない。年表を見ればいいじゃないか、と思いますね。私はしょっ中年表(東方年表)を持って歩いています。しかし、この時代は年号が作られて間もない時代です。まだ、皆年表をもって歩いている時代じゃないわけですよ。
「甲子」に作られたことは、分っているんだけれど、それが天皇家の年号で、なんのなん年かが分らなかった。しかし、取りあえず石碑を作る必要があった。取りあえず六字分あけておいた。
 なんで六字分あけておいたかということです。年号は二字(あとで四字の年号もでてきますが、八世紀の初めですから四字の年号はありません)である。「年」というのは一字。二十一年とかいうと、年号をたして六字分いるわけです。年号を作りだして(太宝元年から二十年程たったころ)まもないころですから、何百二十一年ということはないわけです。最大三字です。
 もし、二字、十二年とかだったら、どうしたか。私の場合だったら「此」と代名詞を入れます。もし、一字だったら「此城」と入れる。この場合、ダブッているのですね。「多賀城」といっているのだから「此城」といわなくていいのです。「○○○○年おくところなり」といえば、先頭に多賀城があるんだから「此城」はたくていいわけです。そういう姿を示しているわけです。
 つまり、後で年号を入れた。すぐ年号を調べるというわけにいかない。大和と連絡がついて、それが何年先か分らたいけれど、そこで年号を書き加えなければならない。年号が分った時に建てればよかったのでしょうが、その前に造碑の命令が下って、しょうがない、とにかく、年号は後で入れましょう、ということで、ここで最大限の六字をあけた。これが第一次ですね。
 第二。これはある方のサジェッションをうけたのですが、なぜ、二回目に彫る時に同じ彫り方をしなかったか、です。
 この人が、うっかり坊主で違う彫り方をした、とは私は思わない。最初彫った人が死んだか、病気になったか、同一人ができなかった。その弟子かなにかが彫りこんだ。
 その場合、二つ方法があるわけです。代人、別人であるのをわからないようソックリ彫りこむというのが一つ。もう一つ、「これは別人であります。前の人とは違います。あとで彫りこましてもらいました。」ということを示すために、別の印象を与えるかたちで彫りこむ。という、二つの方法があると思うのです。どちらが正しいか知りませんけれど、この場合は、あとのケースですね。だれがみても違うように、そうみえるように彫ったんです。
 ということで、これは想像ですけれど、こういうケースが本物説の説明です。こういう仮説がたてられるわけですね。
 ところが、江戸時代のプロの偽物作りが、いかにも変な六字だけ彫りを変えた、としてその意味を考えることは、私にはできないのです。仮説のたてようがない。
 ということで、中村不折さんとは逆に、「本物説」には有利で「偽物説」には不利だなあという印象をうけたわけでございます。
 次に、偽物説の一番の大ポイントがございます。田中義成、喜田貞吉、東大、京大の両御所が強調したところ、それは「多賀城去・・・」のところ、三行目、四行目です。三行目「去常陸国界四百十二里」四行目「去下野国界二百七十四里」これです。
 結論からいいますと、「常陸国」今の茨城県から福島県の境に勿来関がございますね。一方「下野国」には白河関がございます。仙台から、それぞれまでの距離はほぽ等距離なんです。「多賀城」に原点をおいてコンパスでかけば、同じ足でかける。ほぼ同距離なんです。当時の街道でみても、だいたい同じ、大差ないわけです。
 ところが、「常陸」は「四百十二里」、「下野」は「二百七十四里」。えらい違うわけですよ。これがおかしい、というわけです。
 田中氏の『史学会雑誌』の論文も「これは第一の偽作の証拠なり」と二重丸をうってあるのです。喜田氏も、「この矛盾をすくうべくいろいろ試みたのだが、結局駄目だ。」と、この矛盾を第一の証拠として、偽物とした。
 本物説の大槻文彦も「これはたしかにおかしいが、おかしいからといって偽作を断定できないのじゃないか」というに留まって、それ以上の解明ができなかった。
 本物説、偽物説をとおしてこの問題を解明した人を見いだすことが、私にはできなかった。ところが、この点について、新しい解釈(私以外には、このような理解は、まだないと思うのですが)を見いだしたわけです。
 それは、こうです。一番はっきりした点が、盲点になって見のがされていたのではないか。一番はっきりした事実は「西」という字です。
 これは、今までの人が皆困っているのですよ。「なんで『西』と書いてあるのか。解釈としては、この石碑が西に向っているから『西』と書いたんだろう。それにしても、西に向いたから『西』と書くのは解しがたいが、ほかに解釈の方法がない。」というのが各論者の書き方なんですよ。
 そら、そうですよ。だって西に向いているから「西」と書くんだったら、どの石碑だってどこかへ向いているのです。どの石碑だって、「東」とか「北」とか書いてあってよさそうなものですが、他には全くないです。私の知っているのでもないし、今まで研究した人がどう調べても見つからなかったわけです。高句麗の好太王碑だって、東南にむいているけれど、東南とはかいていません。だから、西に向いているから「西」と書いてあるというのは、もう一つピントこない。
 ところが、私が思いますのは、これだけ大きく「西」と書くというのは、読者に、下の文章を読む場合「西」を忘れてくれるなという注意を喚起した書き方だと思うのです。
 それと、もう一つ。「○○里」「○○里」と書いてあります。「倭人伝」から古代史に入った私にとって、特に印象的なんですが、これには必ず方角がつくんです。
 方角なしに何里とかいてあったら、東西南北どちらに行ってもいいわけですから、指定力がないわけです。『史記』『漢書』もそうです。例外的に、『西域伝』を書く時なんかは一つ一つ西と書いていないが、あれは西に進むと最初に書いてあって、次々進むから西へ西へとこっちは読んでいくわけです。一回書いとけばいいわけです。分らなければ毎回書く、これは常識から見てもそうだし、中国の歴史書の用例から見てもそうなんです。ところが、従来の読み方の人は皆、この「西」を入れずに読んでいる、と私には見えたわけです。
 もう一つ、大事な事があります。ここで特色ある熟語が使われている。「国界」という熟語ですね。
 「京」の場合はありません。これは奈良の都です。二番目から五番目までの四つはいずれも「蝦夷(えみし)国界」「常陸国界」「下野国界」「靺鞨(まっかつ)国界」と「国界」という概念がでてきている。
 これも、私の平凡な、常識的な頭で理解しますと、「国界」というのは、その国が矩形だとします。少くとも、東の「国界」か、西の「国界」か、北の「国界」か、南の「国界」か、それを言ってくれなければ、「国界」だけではどこの国界か分らない、と。私はそう思います。これも方角が必ずいるわけです。
 先程いいましたように、従来、白河関、勿来関までが等距離だといっているのは、要するに北側の「国界」に決めているわけですね。
 さて、ここで一つ問題があります。我々が仙台の方をさす場合、北と考えるか、東と考えるかという問題があります。今、北海道を考えるとき「北」だといいますね。「東北」は八分法ですね。これを四分法でいえといった場合、「北」というか「東」というかですね。今だったら、北海道につられて、「北」といいたい人が多いと思います。.
 ところが、東日本、西日本という場合は、東北も北海道も「東」ですね。だから、これを「北」というか「東」というかは別にきまりはないわけです。
 どこを支点にして呼ぶかです。東京あたりを支点に呼べば、「北」といいたくなるのだが、関西を支点にすると「東」とよびたくなるかもしれませんね。こんなものは慣例であって、決まったものではない。
 早い話が、関東というけれど群馬県がなんで「関東」だ。関東というのは、「箱根の関所の東だ」というのでしょう。群馬県は箱根の関所の北じゃないか。なんで東なんだと理屈をいわれたら困りますね。まあ、イメージの問題ですね。
 同様に、この場合、東北や北海道を北ととったか東ととったかというと、私は、やはり奈良を京とよんでますから、東日本という、あの伝で、北海道の方へ、カラフトの方ヘズーといくのを「東」ととっている。京の方へいくのを「西」ととっている。
 という大前提にたちまして、考えますと、ここの問題は「常陸国界」「下野国界」を従来の人(私のみた範囲ではすべての人)は東の「国界」と解釈しているわけです。つまり、これは東の「国界」なわけです。
 ところが、上に、忘れちゃいけませんよ、「西」という大前提で読んでくださいよ、といっているわけです。ここで問題になっている「国界」は「西の国界」と読まなければいけない。とすると、勿来関や白河関の方では駄目なんです。つまり、今でいえば、茨城県と千葉県の境が「常陸国」の「西の国界」。そして、栃木県と埼玉県の方が「下野国」の「西の国界」になるわけです。そうしますと、「常陸国界」の場合、海上でゆけば、仙台から海岸を通りまして銚子のところまでくる。これは最短の西日本から銚子までですね。しかし、都に行くのですから、そこだけで終らないと思うのです。茨城県と千葉県の境を通って、東京都の境辺まできてはじめて「西の国界」という距離がいわれるのではたいか。最低は銚子、最大は東京都、というのが「西の国界」までの距離である。
 それに対して、「下野国界」といった場合は、埼玉県と栃木県の境の方ですから、真中をとおっている東山道がシューときている(東の国界より長くなります)。この場合はだいぶ差がありますね。そうすると、「四百十二里」と「二百七十四里」ですから、ガタピシが当然あらわれてくる。そう考えますと、これでいいわけです。
 「偽作説」の場合は、江戸時代の仙台の偽作作り人が作った、というわけですね。「本物説」は、奈良朝の八世紀半ばに仙台の石碑作りが作ったわけですね。どちらの人にしても、白河関や勿来関までの距離が、だいたい同じぐらいだということを知らたい仙台人はいないと思うのですよ。必ず知っていた、と思うのですよ。
 第一、本人がよほど頭がトンチンカンな人でも、石碑を見る人皆が文句をいいますよ。見る人のいない石碑なんてありえませんから。見る人は皆、仙台の人ですよ。その仙台の人がみて「これはおかしいよ。距離が全然違っているよ」と必ず言いますよ。言われたら造り直しますよ。二つと造れない貴重品といった材質じゃないですから。それが、ちゃんと建っていたんでしょう(途中たおされていたという話はありますが)。
 ということは、仙台人の共同の常識で、これが納得できたということです。できたというのは、本当にそうだから納得できた。今、私がいったように理解したら、できたわけです。ところが、「東の国界」と考えたら、誰も理解できない。
 だから、これを偽物説にすればすむというものではないのです。おかしいから偽物説だと田中義成東京帝国大学教授、喜田貞吉教授もいったけれど、その方々が目の前にいたらいいたいのです、「『偽物説』にしてみても、駄目です。こんな偽物を造る人は仙台にはいません」。
 私のも仮説です。私の仮説にたった場合は、まず字面が生きる。「西」という字面が生きる。そして、里程が間違いでなくなる。
 さらにあるわけです。先程の本文をみますと、この石碑を造らせたのは「藤原恵美朝臣朝葛*(かつ)」です。彼の肩書は「東海、東山節度使」とあります。東海道と東山道の「節度使」である。
 「節度使」というのは、一つの国の国守であるだけでなく、隣国の国守を監察する任務を天皇家から与えられているのです。すると東海道の「節度使」という場合、まさか多賀城にいて東海道全部(名古屋から岐阜まで)監督するというのは考えられたいわけですよ。しかし、少くとも隣国の「常陸国」を監督しなくては「東海節度使」とはいえないわけです。同じく、東山道の最初の隣国の「下野国」を監督しなければ「東山節度使」とはいえないわけです。
 つまり、彼は単に多賀城領域の支配者、国守のみならず、隣りの東海道隣国の「常陸国」東山道隣国の「下野国」の「節度使」をおおせつかった、と自慢しているわけです。
 だいたいこういう石碑を建てるのは、建てさせる人間の自慢ですね。嬉しがって建てている。
 これを、従来の人、「偽物説」の人も「本物説」の人も、単に地理的記載と読んでいた。「多賀城」はどこからどれだけ離れていると、距離をただ地理書みたいに書いたと考えていた。そうじゃなくて、彼は「自分の勢力範囲」を示そうとしているわけです。そう考えると、「下野」や「常陸」の入口まででは駄目なんですね。自分の勢力の及ぶ範囲を、「西の国界」までをえがこうとしていると理解すると、文面とも合うわけです。
 こういうことは、江戸時代の偽物作りが考えることではありませんので、やっばり本物であるというふうに、私は考えたわけでございます。
 かつて、田中義成・喜田貞吉氏達が最大の偽物の論証と考えたところが、実は最大の本物の論証となると考えたわけであります。
 もう一つ、大事なことを申しあげます。従来の読み方は、この「多賀城」を陸奥国にあると考えていた。今までの、偽物、本物どちらの人も全部そう書いてある。これを、私は「陸奥国中心読法」と名付ける。私以外の、今まですべての人の読み方を。
 しかし、私は「これは駄目だ」と思う。なんでかと申しますと、この文面に「陸奥国」という言葉が全然ないわけです。「蝦夷国」、「常陸国」、「下野国」、「靺鞨(まっかつ)国」とあって、全く「陸奥国」はないわけです。ない言葉を中心にすえて読むというのは、私はおかしいと思うのです。
 従来はどう読んだかを申します。「去蝦夷国界一百廿里」、仙台から東へ(我々がいう北へ)一百廿里とって、今の岩手県から向うを「蝦夷国」と理解しているんですよ。つまり、宮城県や福島県は「陸奥国」だと考えているわけです。「陸奥国」の中の「多賀城」だというのが、おそらく教科書その他、全部そのかたちで説明してあると思います。
 私はこれは駄目だ。なぜかといえば、金石文を他の本(『日本書紀』等)をもとに読むというのは駄目なんですね。先ず他の本を読んで、そのあとでこの石碑の前に立って下さいというのではないですから。その金石文で読まなければいけない。というと、なにか。「去蝦夷国界一百二十里」というのは、仙台から西へ一百二十里。だから、少くとも宮城県から福島県の境。実際に里程問題をすると面白いのですが、今日はしません。どうも「蝦夷国」の里程より少し長いようなので、茨城県の境辺近くまでいくかもしれません。とにかく、「蝦夷国」はそこまでいく。東は三千里というのですから、北海道は含まって、カラフトも含まってという感じだと思うのですが、それが「蝦夷国」。広大な三千一百二十里の東西幅をもつ「蝦夷国」。
 その「蝦夷国」の南端部のところ、「多賀城」に居を置いて「朝葛*」の抱負は「蝦夷国」を支配することを大和朝廷から委ねられているんであるという大義名分にたっているわけです。
 「靺鞨(まっかつ)国」は、沿海州かなにかしりませんが、そこは自分の範囲と考えてないわけです。しかし、「三千一百二十里」は自分の直接の勢力、統治範囲であると考えている。
 しかし、これは彼がそう考えているだけであって、実際に、実効的な統治がおよんでいたとは、私は思いません。
 『日本書紀』に出てきますように「熟蝦夷麁蝦夷、都加留蝦夷」があって、「熟蝦夷」は天皇家の支配下に入っている「蝦夷」、「麁蝦夷」はまだ支配下に入ってなさそうな「蝦夷」、「都加留蝦夷」は津軽から北海道とそのまた向うでしょう。八世紀の半ばでありましても、「三千一百二十里」は、ほんとうに、実効的な支配範囲に入っていたとは思わない。しかし、彼はその「立場」にたってかいているわけです。
 もう一言いいます。『続日本紀』は「陸奥国」という概念で書かれています。「陸奥国」というのは、「道の奥」が略されたものです。辞書に「陸という字を、五、六の六で表わし、ムツと読んだ」とありますが、そのとおりだと思います。「道の奥」というのは「道の内部」は東海道、東山道で、そこから向う、全部なんです。
 天皇家の支配領域より向うは、全部、底なしに、シベリアだってアメリカ大陸だって皆「道の奥」なんです。そういう概念なんですよ。メチャクチャといえばメチャクチャなんですが、自分の支配範囲外だから、しょうがないんです。
 ところが、「蝦夷国」は『失われた九州王朝』を見ていただいたら、論じてありますように、中国に使いを送っているわけです。れっきとした国なわけです。実在的な国であるわけです。
 『続日本紀』は天皇家中心の「陸奥国」という立場で書いている。そういう色メガネというか、色のつけ方で書いている。それをもちこんで読んではいかんわけです。やっばり、「朝葛*」が立った「蝦夷国」という実在の国の南端近いところに、これをおいて、今はそこまでいってないけれど、将来的にはこの「蝦夷国」全体を統治する任務に私はあるんだ、という、彼の抱負を示したものである、というのが私の「蝦夷国中心読法」というものでございます。
 申し上げたいことはいろいろあるのですが、金石文の解読が基本です。それを基にしないで、『日本書紀』や『続日本紀』の蝦夷関係記事(いつも反乱を起し、鎮撫されてばかりいる存在)で判断するのは誤りである。
 「蝦夷国」は確固たる独自の文明をもった国である、という視点から、見直す、という作業が、金石文を基点にして、『日本書紀』『続日本紀』の史料批判を行うなかで、あらわれてくるであろう、というふうに私は思っているわけです。そういう時がきたら、又、くわしく報告させていただきます。


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